このくちびるに愛をこめて
片想い拗らせた弓が、嘘をついて槍に一晩だけ抱いてもらおうとする話。
または、槍に抱いてくれと言う弓シリーズ第1弾。
※えみご時空のようなホロアタ時空のようなオリジナル時空の話です。
めちゃくちゃ遅くなりましたが、素敵な企画に参加させていただきます。
夢のような企画を、ありがとうございました。
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「どうか私を抱いてくれないだろうか」
膝の上できつく握られている拳。
眉間のしわはいつもよりも深い。
ひどく思い詰めた様子でとんでもないことを言ってくる男に、ランサーは言葉を失った。
その男はアーチャーと呼ばれていた。
褐色の肌に白い髪。目の色は男の得物を彷彿とさせる鋼色。
赤い礼装を翻して戦う男は、幾多の聖杯戦争において、ランサーと何度も刃を交えた相手だった。
その実力は申し分ない。男との戦いはランサーの血を喜びで沸きたたせ、互いの得物がぶつかり火花が散れば、気持ちは激しく高ぶった。
だが、そいつには気に食わないところがあった。それは、勝ちを得るためにマスターすらも騙し、誇りすらも投げ捨てる奴だということだ。挙句、誇りなど狗に食わせろと、自分に向かってと平然と言ってのける。
人の神経を逆撫でる物言いも多い。堅物で皮肉屋でいつもかっこつけている。そのくせに、たまに非常に子どもっぽいことでむきになったり、はしゃいだりもする。
ランサーがアルバイトをしている魚屋にもよく買い物に来るが、人がかわいいお嬢さんと機嫌よく話している時に限ってやってきて、女性の視線と興味を奪って帰っていくこともしばしばある。
この戦いのない冬木において、ランサーが知っている男の情報はそれくらいだった
その男が、ある夜、ランサーが寝床にしているテントに神妙な顔つきでやってきた。
男の手には酒の瓶が2本。
無言で差し出されたそれは、おそらく自分に持ってきたものだろう。
この男が自分を訪ねてくることなど滅多にない。
一体何の用だと訝しんでいると、男がその重たい口を開いた。
「突然すまない。貴様にこんなことをお願いするのは業腹だが、貴様以外、頼める者がいないのだ」
果たしてそれが人にものを頼む態度だろうか。
だが、男のあまりに深刻そうな面持ちに、ランサーは思わず口をつぐんだ。
自分にすら縋りたいほどの何かが、男にあったということなのだろう。そこを突くのはさすがに哀れか、とランサーはとやかく言うのをやめた。
「…で、そんな俺に、一体何を頼もうって?」
単刀直入に用向きを尋ねれば、男の眉間のしわは一層深くなり、膝の上で握られている拳に、さらに力が込められたのがわかった。
「うざってぇ前置きはなしだ。お前がそんな顔して俺のところに来るくらいだ。余程のことがあったんだろう。いいからさっさと用件を言え」
先を促せば、男は少し逡巡した後、決意したようにゆっくりと口を開いた。
「…貴様は、男を抱いたことがあるか?」
「へ?」
思わぬ問いに、ランサーの口から間抜けな音が漏れた。
聞き間違いだろうか。この堅物には似合わない言葉が聞こえたような気がする。
きょとんとしていると、目の前の男が苛立ったような表情を浮かべた。
「おい、聞いているのか?」
「あ、あぁ、聞いてる。聞いていた。…え、お前、俺が男抱いたことあるのか聞きてぇの?」
「だからそう言っている。で、あるのか?」
「いや、生前だったら、あるっちゃあるが…」
一体どういうことだと戸惑いながら答えると、男はランサーの視線が耐えきれなかったのか、少し目線を落とした。
「愚かな話だと一蹴してくれて構わない。…私はサーヴァントの身でありながら、人間の男に恋をしてしまったようだ」
その言葉に、ランサーはガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
少しの間の後、静かな決意を湛えた鋼色の瞳が再びランサーを見る。
「だから、私の恋を捨てるための協力をしてほしい」
「…はっ、てめぇから協力なんていう言葉が出てくるとはな」
軽口を叩きながらも、ランサーは内心ひどく動揺していた。
堅物そうなこの男の口から恋という単語が出てきたからだろうか。
ランサーにはわからない。だが、その事実がランサーを揺さぶったことは確かだった。
「別にわざわざ捨てなくてもいいんじゃねぇの?好きなら好きでかまわねぇじゃねぇか」
「かまうのだ、ランサー。望みのない恋など、腹の足しにもならんからな」
自嘲するように男が笑う。
そこまで言わなくても、とランサーは思うが、張り詰めた男の面持ちから、それを言うのはなんとなく憚られた。
「で、俺に何をさせようって?」
とにかくランサーは用件を尋ねることにした。このひねくれた男の思惑など、どうせ考えてもわかるまい。
「私を抱いてくれないか?」
薄い唇から紡がれた言葉が、再びランサーを激しく揺さぶった。
抱く。抱くとは。そういう意味の抱くでいいのか。
ランサーに己を抱けと、交われと、そう言っているのか。
突然のことに言葉を失っていると、男はぽつりぽつりと話し出した。
「この愚かな気持ちを忘れる為に、どうしたらいいのか私なりに考えたのだ。恋人関係なれる見込みなどゼロに等しい。だが、どうしても諦めきれない。それでも諦めるにはどうしたらいいのか。ここ数日悩みに悩んだ末、ふと思ったのだ。恋など、突き詰めればその先にあるのは結婚と子作り、つまり生殖行動だ。ならば一度でも体を重ねてしまえば、諦めもつくのではないかと」
この男はまた何を言い出すのか、とランサーは内心呆れた。
確かに恋の行き着く先は、男の言う通り、子を成すことかもしれない。だが、それは極論だ。
この男はそんなこともわからないのか。
それとも、わかった上で、そういうことだからと自分を納得させようとしているのか。
「私が惚れた男は、幸運にも性に関して奔放なところがある。だから抱いてくれと頼めば、きっと抱いてくれるだろう」
それは果たして幸運なのか。
ランサーには不幸の入口にしか思えなかった。
「だが、この身はサーヴァントだ。普通の人間よりも筋力がある」
「ん?まぁ、そりゃそうだろう」
ランサーも自身もこんな見た目だが、高速道路で車をおいかけたり、ビルの上に軽々と飛び乗れるだけの筋力は持っている。この男もそうだ。
だが、それが何の関係があるのだろうか。
興奮して相手を抱き潰すことの心配でもしているのか。
「だから、私の肛門括約筋が相手のそれを潰してしまわないかと不安なのだ」
「ぶっ!」
予想の斜め上をいく心配に、ランサーは無意識に己の股間を抑えた。
「…てめぇ、恐ろしいこと言うなよ。ひゅんってしたじゃねぇか」
「私も想像して恐ろしかった。だから、こうして同じサーヴァントである貴様に頼んでいるのだ」
たしかに、考えてみるとそこも筋肉だ。
人のそれよりもサーヴァントの肛門の方が締めつけがキツい可能性がないわけではない。
とはいえ、ランサー自身、現界してからサーヴァントを抱いたことはないので、本当かどうかはわからないが。
「だから、ランサー。貴様は生身の時に男を抱いたことがあるだろう。私の体が人のそれと違うのか、わかるのではないか?」
「…まぁ、それはそうかもしんねぇが」
だが、ランサーもすでにサーヴァントの身だ。違いなど今更わかるだろうか。
そうじゃなくとも、この男をランサーは抱けるのだろうか。
改めて目の前の男を見る。
白い髪に褐色の肌。男らしい筋肉のついた体。
性格だって、間違っても可愛いとは言えない。
男はランサーの視線から逃れるように、ふっと視線を下げた。
そして硬い声で続ける。
「必要ならば、酒でも食事でも用意する。魔力も、私から持っていってくれて構わない。面倒なことを頼んでいるのだ。それくらい、いくらでも差し出してやる。だから、ランサー」
男が、真正面からランサーを見る。
鋼色の目が縋るように揺れている。
「どうか私を抱いてくれないだろうか」
v
アーチャー・エミヤが己の思いに気付いたのは、ひどい通り雨があった日だった。
エミヤはこの冬木で、まるでモラトリアムのような穏やかな日常を過ごしていた。
その日も、マスターである遠坂凛のための夕食の材料を買いに出かけ、その帰り、たまたま通り雨にあった。
急に吹いてきた冷たい風と、ぽつぽつとアスファルトを濡らし始めた雫。
嫌な予感に襲われながら見上げれば、いつのまにか灰色の雲が空を覆い、みるみるあたりは暗くなっていく。
自分1人濡れる分には構わない。だが、ここに来る前に新都まで行って買った朝食用のパンと、おやつのケーキが濡れることだけは避けなくてはいけない。
サーヴァントの脚力を存分に活かせば急いで帰ることもできるが、距離的にそれでも濡れるだろうし、そんな勢いで走ってしまえば、やわらかいケーキは見るも無残な姿になるだろう。
ならばどうするか、と、エミヤが辺りを素早く見回せば、少し先に喫茶店があるのが目に入った。
そうこうしている間にも、地面にはどんどん水玉模様が増えていく。
エミヤは買ったものを体でかばうようにして走り、迷わずその喫茶店に飛び込んだ。
そしてそこにいたのは、ウェイター姿で目を丸くしている、かの男の姿だった。
エミヤは思わず舌打ちをした。
そうだ、ここはこの男のバイト先だった。
そんなエミヤの態度に、男の額に青筋が立つ。
「てめぇ、人の顔を見るなりその態度はなんだ。喧嘩売ってんのか?」
「いや、すまない。まさかこんなところで、かの英雄がアルバイトに精を出しているとは思わなくてね」
「あ?喧嘩売ってんだな。わかった、表出やがれ」
「あいにく外は雨だ。散歩したいならひとりで行くといい」
窓の外を親指で指せば、タイミングよく轟音が鳴り響き、直後にざあああ、と激しい雨音が聞こえてきた。
男はその猛烈な音に驚いたのか、窓の外を見て、目を丸くした。
「うわー、すげぇ雨だな。だからお前、休憩中に飛び込んできたのか」
「…今、休憩中と言ったか?」
男の言葉が引っかかり、問いかければ、男はこちらを見て、あぁ、と頷いた。
「ちょっと店長が用事あるとかで2時間だけ臨時でな。俺は特にすることねぇから、留守番がてらここにいるんだけどよ」
男の言葉を聞きながら、改めて入口を開けて確認すると、確かに扉の表には『closed』の札がかかっていた。
これはエミヤの確認不足だ。
「…休憩中にすまなかった。ではな」
踵を返して出て行こうとすると、男は慌てた様子でエミヤを引き留めた。
「おい、ちょっと待てって。この雨の中、外に行く気か?」
「あぁ。休憩中の店に入るわけにはいかない」
「真面目か!この天気の中わざわざ出て行かなくてもいいだろうが。それ、濡らしたくねぇんだろ?」
男はすらりとした指で、エミヤが抱えていた袋から顔をのぞかせているバケットを差した。
エミヤはなんとなくそれを体で隠すようにして、素気無く答える。
「貴様には関係ない」
「こっちだって無視したいところなんだが、この状態でお前を外に放り出すのはさすがに気分悪ぃんだよ。通り雨だろ。止むまでちょっと待っとけ」
「…しかし」
「しかしもカカシねぇよ。どうせ俺しかいねぇんだ。おら、適当に座っとけ」
しっしっ、と手で払うような仕草をし、男はキッチンに消えていった。
残されたエミヤは、その場でぽつんと立ち尽くしてしまった。
ちらりと窓の外を見れば雨足はますます酷くなり、時々雷が鳴る音も響いている。コンクリートの道にみるみる水が溜まり、ばしゃばしゃと激しい音を立てていた。
さすがに今、外に出るのは得策ではない。
ここは男の言葉に甘えるとするか、と、エミヤは窓際の適当なテーブル席に腰を下ろした。
荷物を隣におき、ぼんやりと外を眺めていると、不意にこつり、と音がした。
それはテーブルにコーヒーカップが置かれる音だった。
コーヒーの芳醇な香りが鼻をくすぐり、エミヤは思わずそれを持ってきた男を見上げた。
「よければドーゾ」
「頼んでいないが」
「いちいちうるせぇなぁ。人の優しさは黙って受け取っとけ」
男はめんどくさそうにお盆をカウンターの上に置き、その前に置かれていた背の高い椅子に腰を下ろした。
つまりこれは、男からのサービスということだろう。思わぬ気遣いに、胸の中にもやもやとしたものが広がる。
それを誤魔化すように口をつければ、ほのかな苦味とともに、やわらかな香りが鼻を抜けていった。
「…ふむ、悪くないな」
「素直にうまいとい言えねぇのか、てめぇは」
「言い方など、人の自由だろう」
「へー、へー、そうですね」
男はつまらなそうに口を尖らせ、未だ雨の降る窓の外に目をやった。
つられるようにエミヤも再び外を見る。
透明なガラスの向こうでは水が絶え間なく流れ落ち、外の世界を洗い流しているようだった。
聞こえてくるのはひどい雨と雷の音だけ。歩く人の姿も見えない。
まるで、この喫茶店だけが、世界から切り離されたようだった。
その時、エミヤの頭に浮かんだのは、ノアの箱船の話だ。
全て水で洗い流されてしまった世界。
そこにただひとつ、ぽつんと不安そうに浮かぶ船がある。
世界は灰色の空と水しかなくなってしまった。
ゆらゆらと揺れる船には窓があったのだろうか。そこからノアと動物達も外を見ていたのだろうか。なくなっていく世界を見て、何を考えていたのだろうか。
不意にとん、と足音がした。
これは見なくてもわかる。男が椅子から降りた音だろう。
店の奥にでも引っ込むのかと思っていると、男はなぜかエミヤのいるテーブルに近付き、向かい側の椅子にどかりと腰を下ろした。
男の思わぬ行動に、エミヤは目を瞬かせた。
「…何の用だ?」
「何もねぇよ。どこに座ろうが俺の勝手じゃねぇか」
「空いてる席なら他にもあるだろう」
「他のテーブル使うと、そっちも片付けなきゃなんねぇだろ」
なるほど、掃除をするテーブルを最小限にしたかったのか。それならば得心がいく。
納得したエミヤとは対照的に、男は少し不機嫌そうだった。
「今度は何だ?」
「なんでもねぇよ」
ちっ、と舌打ちを落とし、男は腕を組んだ。
そんな顔をするくらいならば、店の奥に引っ込めばいいものの。
そこまでして男がここに留まる理由が、エミヤには分からなかった。
もしかして窃盗の可能性でも考えているのだろうか。だとしたら随分と自分は信用されていないようだ。
眉間に皺が寄っていくのを誤魔化すように、エミヤはコーヒーに口をつける。コーヒーが無駄にうまいのも、なんだか妙に腹が立った。
「おい」
「…なんだ?」
「嬢ちゃんは元気か?」
突然の質問に、眉間に寄っていたものが少し緩まった。
「凛のことか?」
「ああ」
「彼女はいつも通りだ。今日はあの小僧の家に行くと張り切っていたな。最近はあの家でセイバー達と一緒に昼食を取るのが楽しいらしい。今度は自分も料理を作ると、家でこっそり試作品を作ったりもしていた。今頃、あの家で仲良く雨宿りでもしているだろう」
「へぇ」
聞いておきながら、男は大して興味がなさそうだった。
エミヤの話を聞きながらも、その目は窓の外を向いている。普段なら苛立つところだが、その様がなんとなく散歩に行けなくてつまらなそうに外を見ている犬のようで、エミヤは思わず口元を手で覆った。
「…てめぇ、何ニヤついてんだよ」
「ニヤついてなどいない。まさか君のことを散歩に行きたそうにしている犬のようだ、などと思ってはいない」
「言ってんじゃねぇか!」
男が苛立たしげに声を荒げる。
その様子がなんとなくおかしくて、エミヤはついに笑ってしまった。
くっ、くっ、と小さく笑うエミヤに、男は少し勢いが削がれたようだった。
「んだよ」
「すまない。少しツボに入ってしまった」
顔を隠すように俯いて肩を震わせていると、再び小さな舌打ちが聞こえてきた。
さすがに失礼だったかと咳払いをしながら顔を上げると、男の目は窓の外に戻されていた。
エミヤもつられて外を見る。
どうやら雨の勢いが弱まってきたらしく、重たい雲の切れ目から細い光が差し込んできていた。
「こういうの『天使のはしご』って言うんだろ」
「ほう、博識だな。薄明光線とも言うが」
そんなことを言っているうちに差し込む光も増え、みるみる外は明るくなっていった。
雨もおおかた上がったようで、ぴちょん、ぴちょんと雫がおちる音がする。
どうやら通り雨は去ったようだ。
ふっと息を吐き、視線を外から前に戻すと、男は肘をついて、まだ外を眺めていた。
窓から差し込む柔らかな光が、男を照らす。
青い髪がきらきらと光を反射して輝き、その白い肌は透き通るように美しい。
男は穏やかに目を細め、再び目覚めた世界を愛おしいもののように見つめていた。
その目がゆらりとエミヤの方に向く。
「何惚けてんだ。俺に見惚れたのか?」
冗談めかしていってくるそれを、エミヤは鼻で笑う。
「ほざいていろ。雨も止んだようだし、そろそろ出る。世話になったな」
コーヒーを一息に飲み干し、がたりと席を立てば、男もへいへい、とめんどくさそうに腰を上げた。
「毎度ありー。今度は営業中に来てくれや」
「暇があればな」
言いながら横にある荷物を持ち上げようとした時、ふと、その中のものが目に付いた。
それは紅茶のスコーンだった。パン屋で試食し、その美味しさに思わず買ってしまったものだ。
一方的に奢られるのは、どうも性に合わない。
エミヤはがさりと袋に手を突っ込み、スコーンの袋を取り出し、男の前に置いた。
「代金代わりだ。ではな」
きょとんとする男をおいて、エミヤは足早に喫茶店を出た。
雨上がりの商店街を、エミヤは猛然と歩く。
足元にはいくつもの水たまりができており、避けながら歩いていたつもりが、気付けば何度も足を踏み入れ、靴の中が少し濡れてしまった。
だが、エミヤの頭の中はそれどころではなかった。
『俺に見惚れたのか?』
にやりと脳内で男が笑う。
それを振り切るように、エミヤはさらに歩くスピードを上げた。
もともと美しい男だとは思っていた。
戦っている姿はもちろん、ただの立っているだけでも男は絵になった。
背中まで伸びる髪も、そのしなやかな筋肉も、立ち振る舞いすらもどこか高貴さがあり美しい。
さすが半神。さすがクー・フーリンだ、と実はこっそり思っていた。
だがしかし、エミヤが今日感じたものは、明らかに今までのそれとは違った。
陽光を受け、笑う男の顔が頭から離れない。
混乱するエミヤを責め立てるように、心臓がどくりどくりと高鳴りだす。
ばしゃり、と足元で大きく水が跳ねる。
思わずそこで立ち止まれば、じわりじわりと靴の中に水が染み込んできた。
男に対して、確かに憧れはあった。
伝説の英雄。遠い昔、エミヤが始めて出会ったサーヴァント。
青い光。朱色の槍。全てが悪い夢のようだった夜。美しく残ったのが、あの色彩だった。
サーヴァントとなり、刃を交わした後も男には一目置いていた。
前から、男はエミヤの特別な存在ではあったのだ。
そんな、まさか、と何度も自身に問いかける。
しかし、いくら考えても出てくる答えはひとつだ。
その感情は、水のようにじわじわとエミヤの中に広がっていく。
エミヤがクー・フーリンへの恋を自覚したのは、そんな雨上がりの夕方のことだった。
日を追うごとに、一度自覚したエミヤの恋心はどんどん膨れ上がっていった。
その想いを否定すればするほど、逆に彼のことを意識してしまう。
この悪循環に、エミヤはほとほと困り果てた。
サーヴァントである自分が、今更、恋をしてどうするのか。
しかも相手は女好きの男だ。成就する可能性があるとは思えない。
苦し紛れに霊体化など試してみたが、彼への思いが消えることはなかった。
一体どうすればいいのか。
突然生まれてしまった恋心に、エミヤの焦りは増すばかりだった。
商店街に行けば嫌でもアルバイトをしている男とかち合う。避けることもできたが、そうすると自分の恋心を認めたようで、それが悔しく、エミヤは意地でもいつも通りの生活を貫いた。
だが、それはおそらく悪手だったのだろう。
商店街で、男がかわいい女性と話しているのを何度も見た。
彼は女好きだ。かつての逸話にもそのようなものが多い。英雄色を好むとはよく言ったものだ。
エミヤ自身もかわいい女性は好きだ。なのに、彼が女性に笑いかけているのを見ると、腹の中がもやもやと気持ち悪くなってくる。かわいい彼女達にすら、醜い感情を向ける日が来るとは思わなかった。
だが、その嫉妬心を素直に認められないエミヤは、逆にそういう時こそ彼に声をかけるようにした。彼女達に笑いかけて、彼女達の視線がエミヤに向き、それを苛立たしく見る彼の視線で、エミヤはほんの少しだけ安心できた。
しかし、それも一瞬のことだ。また1人になれば、エミヤの頭は彼のことを考え出し、商店街で女性に声をかける彼を見かけては、嫉妬心を飲み込んでそこに割って入った。
こんなことをやっていてもなんの解決にもならない。
エミヤにもわかっていた。だが、どうしたらいいのか、エミヤにはわからない。
わかるのは彼を好きなことと、この恋心がエミヤの平常心を奪っていることだけ。
このままではいけない。早くなんとかしなくては。
慣れない感情に振り回され、エミヤはおかしくなりそうだった。
だから、エミヤは必死に考えた。
そうして思いついたのが、この恋心を納得させるために、彼と一度だけ寝ることだった。
ちょうど今日から1週間、凛はイギリスにでかけることになっていた。
好都合だ、とエミヤは夜、彼が寝床にしているテントに向かった。
彼女が日本にいない時を選んだのは、今から自分がやろうとしている浅ましい行為を、その名にふさわしい生き方をしている彼女に、どうしても知られたくなかったからだ。
これは、エミヤにしてみたら一世一代の大芝居だ。
言い訳は頭の中で何度もシミュレートした。
兄貴気質のあの男が断りにくい状況をなんとか考え出し、せめてもの詫びになればと彼の好みそうな買った酒も持った。
駄目なら駄目でそれでいい。もともと叶う可能性などない。
エミヤが勝手に惚れただけで、あの男に、この想いが消えるまで付き合って欲しいとは思わない。
ただ一度だけ。たった一度だけ抱き合うことができれば、それで諦める。諦めてみせる。
その思いを噛み締めて、エミヤは彼のいるテントに足を踏み入れたのだ。
エミヤの訴えを聞いた彼は、ふぅ、と息を吐いた。
それは思いの外、静かだったテント内に大きく響いた。
彼はエミヤの話を聞いてどう思ったのか。嘘だと見抜かれなかっただろうか。
そんなことを考えていると、彼がゆっくりと口を開いた。
「…条件がある」
「なんだ?」
「俺のやり方に口出しするな。俺は俺のやり方でてめぇを抱く。それでいいか?」
なんだ、そんなことか、と正直エミヤは拍子抜けした。
こちらが無理を言っているのだ。相手の要望を聞くのは当然だろう。
それに、エミヤは痛みには強い方だ。例え、どんなひどい抱かれ方をしてもエミヤは耐えられるだろうし、どんな抱かれ方でも、彼に抱かれるならそれでいい。それで、エミヤの恋は終わらせられる。
好きなようにしろ、とエミヤがあっさり了承すると、向こうは少し顔をしかめた。もしかしたら、こっちが拒否することを想定していたのかもしれない。
だが、こちらとしても、ここまで来たら後には引けないのだ。
「そういや、お前、ちゃんと嬢ちゃんに言ってきたのか?明日の嬢ちゃんの朝メシの用意とか大丈夫なのか?」
次は凛のことを持ち出してきた。
彼女が今日から1週間イギリスに行っていないことを伝えれば、彼は再び顔を歪めた。
きっと断りたいが、良い言い訳が思いつかないのだろう。
面倒なことを頼んでいることはわかっている。断るなら断ってくれても構わないのに、男は何やら難しい表情で考えてこんでしまった。
「安心しろ。君に抱かれたことを誰かに言ったりはしない」
「別にそういうことを気にしてるんじゃねぇんだが」
「気が乗らないのなら断ってくれて構わない」
「そうじゃねぇよ」
「一応自分なりに調べて、それなりに準備をしてきた。君に余計な面倒はかけない」
好きにしてくれ、と言わんばかりに両手を広げれば、彼は困ったように後ろ頭を掻いた。そして、おもむろに近くにあったものを端に寄せ、テント内に小さな空間を作った。
それはエミヤを抱くためのものだろうか。だが、このテントはそこまで大きなテントではない。加えてエミヤも彼も体格は良い方だ。ここで事に及ぶには少々手狭かもしれない。
「…必要だったら、ホテル代は出すが?」
「あ?あー…、とりあえずいいわ。狭いが、適当に横になってくれ」
彼が端に寄せたものを片付けているのを見ながら、言われた通り、エミヤはごろりと寝転がった。背中に、ごつりと石が当たる感覚がする。
本当にこれから彼に抱かれるのか。
どこか現実感のない状態でテントの骨組みを眺めていると、そこに彼の顔が横からぬっと入ってきた。
赤い目がこちらを見下ろし、青い髪がさらりとエミヤの上に落ちてくる。
顔の横にすとりと手をおろされ、無意識にエミヤの体が強張った。
彼がどんどん近づいてくる。エミヤの体の上に落ちる青い髪が増え、チャリ、と彼のイヤリングが、涼やかな音を立てる。
エミヤは覚悟を決めたように、ぎゅ、と目を閉じた。
次の瞬間、予想していた感触は来ず、エミヤの横にどさりと何かが倒れる音が聞こえた。
思わずエミヤは目を開けると、彼が横に寝転がっていた。
「今日はヤんねぇよ。添い寝だけな」
「は?!」
飛び起きるエミヤとは対照的に、彼は眠そうにあくびをした。
「今日は朝から働きづめだったんだよ。明日もバイトあるし」
「だっ、だがっ」
「嬢ちゃん帰ってくるまで、まだ日があんだろ?なら別に今日じゃなくてもいいじゃねぇか」
ふわあ、ともう一度大きなあくびをした彼の目が、うとうとと眠そうに閉じられる。
「貴様っ!サーヴァントに睡眠なぞ不要だろう!」
「うっせぇなぁ。気分の問題だって。どうせなら元気な時にヤらせろよ」
「そっ、それはそうなのだが」
「それに、俺の好きなようにするって言ったじゃねぇか」
確かに彼の好きなようにすることを了承したが、それはあくまで行為の内容だと思っていた。
なんとかしなければと焦っていると、彼の腕が伸びてきてエミヤの体を引き倒した。
強かに背中を打ち付け、衝撃に顔をしかめる。
「だから、今日はお前、抱き枕な」
「はぁ?!」
文句を言おうとするが、彼の片手がエミヤの前に回り込み、後ろから抱きしめられるような体勢になっていることに気付き、エミヤの顔に一気に熱が集まった。
「それに、そんなガッチガチの奴抱いても楽しくねぇんだよ。もっとお前、俺に慣れろ」
「慣れるだと?」
「そうそう。だから一晩くっついてりゃ、嫌でも慣れるだろ」
じゃ、おやすみー、と言い残して彼は黙った。
その数分後、気持ち良さそうな寝息といびきがエミヤの耳に届く。
どうしていいかわからず、エミヤは彼に後ろから抱かれたまま、ひとり静かに頭を抱えた。
v
「毎度ありー」
いつも魚を買いに来てくれる常連の老婦人を見送り、ランサーは肩をぐるりと回した。
今は夕方。もうすぐバイトも終わる時間だ。
労働の後のほどよい疲労の中、その頭に思い浮かぶのは、昨日から今朝にかけての出来事だった。
ランサーは今日、怒鳴り声で起こされた。
ぱちりと目を開ければ、そこには恨みがましい目でこちらを睨みつける男がいた。
そこで昨日のできごとを思い出す。
そうだ、急にこの男がやってきて、抱いてくれと言ってきたのだった。
『…今日はバイトがあるとかどうとかほざいていただろう。何時からかは知らんが、そろそろ起きたほうがいいのではないかね』
男の眉間のしわはいつもより5割増し。だが、その言葉にはいつもほどキレはなかった。
顔にわずかに疲れが見える。おおかた、自分が後ろに張り付いた状態で無防備に寝るということができなかったのだろう。
なおも愚痴愚痴言ってくる言葉を聞き流し、ランサーは強引に男の今日の予定を聞いた。
あの少女がいない隙に家を片付けると言う男に、ならばと夕食に誘った。
戸惑う男に、お前の要求の報酬代わりに飯をよこせと言えば、男はしばし逡巡した後、渋々頷いた。
思い出してランサーは深く息を吐いた。
全く、あの男は何を思い詰めているのだろうか。
好きな男と一晩寝る為に、好きでもない男に体を差し出すなど、馬鹿らしいにも程がある。
相手のモノを潰すことをあの男は気にかけていたが、気にするべきはそこではないだろう。
ランサー自身も恋をしたことはある。だから、好きな相手に身を捧げたいという気持ちも理解できないわけではない。
だが、この男はその為に、好きでもない男に身を捧げようとしているのだ。
本当は昨日、何を馬鹿なことをしようとしているのだと、男に言おうと思った。
だが、やめた。自分が言ったところで、この男が止まるとは思えない。
それどころか、ランサーには断られた、ならば、と他の男のところに行きかねない。その男が、ランサーのように良識を持っているとは限らない。下手したらいいように利用され、もっと目も当てられない事態に陥る可能性だってある。
ならば今、自分にできるのは、この馬鹿な男が自分以外に同じことを言わないように繋ぎ止めておくことだ。その間に、男の想い人を探し出し、そいつに男の馬鹿な行為をやめさせればいい。
きっとこの男を止められるのは、マスターたる少女でも、気高い騎士王でも、刃を交わした己でもない。
男が惚れたという、名も知らぬ人間だけだろう。
とりあえず、男には別れ際、自分が抱くから他の奴に声かけるんじゃねぇぞ、と言っておいた。
すると、こんなこと君以外には言えないさ、と返された。そのおかしな信頼に、ランサーの胸にもやもやとしたものが広がった。
男のことは正直嫌いではない。
腹が立つところもあるが、だからといって心の底から憎いわけではない。
昨日の男の顔を思い出す。
そもそも、あれが恋する男の顔だろうか。
あんなに辛そうに、まるでやってはいけないことをしでかしてしまった子どものような顔をして。
人間に惚れるくらい構わないではないか。キャスターを見てみろ。人間と仲良くやってるじゃねぇか、とランサーは内心毒付いた。
気付けば己の顔が強張っていることに気付き、ランサーは慌てて表情を緩めた。
とにかく、男のマスターである少女が帰ってくる前に、あの男の暴走を止めておいたほうがいいだろう。
柄でもないお節介を焼こうとしているのはわかっている。だが、さすがにあれは放置できない。
そこまで考えて、ランサーは溜め息を吐きながら、がりがりと後ろ頭を掻いた。
「すみません、ランサー。アジをください」
呼ばれて振り向くと、そこには買い物袋を持った金髪の少女、セイバーがいた。
「よう、セイバー。おつかいか?」
「はい、シロウと来る予定だったのですが、急遽来客がありまして、代わりに私が」
誇らしげに胸を張る少女の手には、書いてもらったであろうメモが握られている。
そのメモの通りに、アジを数尾出して袋に詰めてやり、それを少女に手渡す。
料金を受け取りながら、ふと、あの男のことがランサーの頭をよぎった。
「そういや、セイバー。今日、アーチャーを見かけたか?」
「アーチャーですか?いえ、特には。何か用でもありましたか?」
尋ねられ、ランサーはそういうわけではない、と手を振った。
直感の鋭いセイバーならば、男について、自分が知らない何かに気付いているのでは、と思ったのだ。
「あー…、あいつ、最近なんかおかしくねぇか?」
「そうですか?」
ランサーの言葉に、セイバーは首を傾げた。
途端にランサーは、自分がらしくないことをしていることが気恥ずかしくなり、なんでもない、気にすんな、と話を強引に打ち切ろうとした。
セイバーはそんなランサーの様子を気に留めず、しばらく考えた後、そういえば、と口にした。
「…何かあったのか?」
「そうですね、ここ最近、この商店街で難しい顔をしているのは何度か見かけました」
返ってきた答えに、ランサーは思わず脱力した。
「…それ、いつものことじゃねぇのか?どうせ夕飯の献立がどうとかで悩んでたんだろ」
「そうかもしれません。しかし、なんとなくいつもと違うような気がしたのです。気のせいでしょうか?」
「俺が知るかよ」
頼りにならなそうな答えに、ランサーは溜め息を吐いた。
やはり本人に探りをいれなければわからないようだ。
「気になるようでしたら、アーチャーに聞いてみましょうか?」
「あー、いいや。多分俺の気のせいだろ。あいつに余計なこと言うなよ。めんどくせぇから」
そう言って釣りを渡せば、わかりました、とセイバーが頷いた。
軽く会釈をして去っていくその背を眺めながら、ランサーは想像する。
もし、セイバーがあの男がやろうとしていることを知れば、おそらく激怒するだろう。
貴方が惚れたという男は、その貴方の行為を良しとする人間なのですか、と、まっすぐな騎士王は吼えるに違いない。
そこまで考えて、ふと思う。
あのひねくれた男は、いったいどんな人間に惚れたのだろう。
だが、いくら考えても、ランサーの頭の中に浮かぶのは、男の思い詰めた顔だけだった。
「なぁ、お前の惚れた男って、どんな奴?」
バイト後、男が一時的に借りているというアパートに行き、約束通り夕食を共にした。
男の部屋は小さな木造アパートの2階にあり、家具も必要最低限のものしかない、こじんまりとしたものだった。
部屋の中心に置かれたローテーブル。そこに並べられた男の手料理を食べながら、ランサーは直球で尋ねた。
「…どうして君に言わねばならない」
「いいじゃねぇか。協力してやるんだから、俺にだって知る権利はあるだろ」
ぱりっと焼かれた餃子に、たこときゅうりの酢の物、冷奴に麻婆春雨。ワカメと卵のスープと、つやつやの白米。男の作った料理は見ているだけで涎が出てきそうな出来栄えだった。
そこに冷えたビールも出され、ランサーは上機嫌だった。
心なしか男も機嫌良さげに見えたので、今なら口を滑らすかと思って尋ねたのだ。
男は眉間に皺を寄せ、少し考えた後、うつくしいおとこだ、とぽつりと呟いた。
「美しい?」
「あぁ。…そうだな、私はそう思った」
そう言ってビールを飲む男の目元は、うっすら赤くなっていた。酒にあまり強くないと言っていたから、少し酔っているのかもしれない。
「ふーん。見た目に惚れたのか?」
「見目も美しいが、それだけではない。その生き方も、在り方も、全てが美しいと思ったのだ」
不機嫌そうにそらされる目に、ざわりとランサーの心が波立った。
美しい、美しい、ね。
お前がそこまで言う美しい人間というのは、お前が好きでもない男に体を差し出すに値する相手なのか。
「ランサー?」
何も言わない自分を訝しんだのか、男が声をかけてくる。
「いんや、なんでもねぇ。それよりお前の飯、めっちゃうまいな」
「そうか?」
話をそらすように感想を言えば、男が驚いたように目を丸くした後、いつものように憎たらしい顔になった。
「ふん、たいしたものではない。本来なら餃子の中にニラとにんにくを入れたいところだが、君は明日もバイトがあるかもしれないだろう。だからそれらを抜いて、いかに旨味を出すかということに注力してみたのだ。白菜に片栗粉をまぶしてつるりとした食感をだし、肉に直接ごま油を入れることで風味を出してみた」
「へぇ、そうなのか。皮も、なんかいつも食うものより、もちもちしてる気がする」
「ほう、そこに気づくとは。皮も私が作ったのだ。今回は君の好みがわからないからスタンダードな厚さにしたが、もっと薄くもできるぞ」
「いや、食べ応えがあって、これくらいがちょうどいいわ」
がつがつと白米をかきこみながら、ちらりと男を見る。
その顔は、作った料理が褒められたせいか、目を伏せ、嬉しさを噛み締めているようにも見えた。眉間のシワも無くなり、穏やかな表情だ。
こいつは褒められるとこんな顔をするのか。
そんなことを思いながら、ランサーは口に溜まった白米を嚥下した。
食後、戸惑いがちに誘ってくる男を、ランサーはばっさり断った。
理由は簡単。お前の料理が上手すぎて酒入れすぎたから勃たない、と言うと、男は複雑な表情をしたまま、うな垂れた。
事実、食事の後も、男がつまみだのなんだのどんどん出してくるから、調子に乗ってランサーもグイグイ酒を飲んでしまったのだ。
正直な話、人間の作ったアルコールを飲んだところで、サーヴァントであるランサーが勃たなくなるほど酔えるわけではない。だが、言い訳にはもってこいだったし、男も素直に信じた。
「じゃ、せっかくだからもっと飲もうぜ」
にかっと笑って、酒瓶を差し出せば、男は呆れるように息を吐いた。
「全く…。君は明日、バイトはあるのか?」
「明日は…」
何もない、と言いかけて、ふと思い直す。
「あー、そうだな。バイトじゃねぇが、ちょっと1日予定があんだわ。夜は空いてるから、また来てもいいか?」
「それは構わないが…。明日は一滴も酒は飲まさんからな」
恨みがましくこちらを睨んでくる顔が想像以上に子どもっぽく、ランサーは思わず笑ってしまった。
「何を笑っている、ランサー」
「いんや、別に。お前さんも俺に抱かれたくて拗ねるとか、かわいらしいところあるんじゃねぇか」
くつくつと笑みをこぼしながら言うと、男の顔がみるみるうちに真っ赤になった。
「なっ、違う!語弊があるぞ、それは!」
「へぇ、お前にそんなかわいいとこがあるとは知らなかったわ。いやー、もったいないことをしたぜ」
「そのニヤついた顔をやめろ!私は、そんなつもりじゃ…!」
男の顔が一瞬泣きそうに崩れたように見え、ランサーはからかいすぎたかと言葉を止めた。
「悪い、言い過ぎた」
「…いや、私もムキになり過ぎた」
水でも持ってこようと、男は立ち上がり、キッチンに向かった。
ランサーは胸に残る気まずさを搔き消すように、コップに残っていた酒を煽る。濃いアルコールが喉を焼き、体がほんのり熱くなった気がした。
「なぁ、アーチャー」
「なんだ?」
男は冷蔵庫をのぞきながら、振り向きもせずに答える。
「お前は、本当にそれでいいのか?」
「何がだ?」
「俺に抱かれることだよ。いくら好きな奴の為とはいえ、他の男に抱かれるのはやりすぎなんじゃねぇの?」
昨日から思っていたことを尋ねると、男の不機嫌そうな声が返ってきた。
「なんだね、今更嫌になったのか?」
「俺は別にお前を抱くことはなんとも思ってねぇよ。だが、お前はそれでいいのかよ」
この男は戦いにおいては容赦なく卑怯な戦法もとるくせに、その実、生真面目なところがあった。そんな男にとって、好きな男と寝るために、好きでもない男に体を差し出すと言うのは心情的にどうなのだろうか。
目的のペットボトルを冷蔵庫から見つけたらしい男が、立ち上がって振り返る。
「昨日も言っただろう。私はそれで構わない、と」
「だが、お前の好きな奴も、お前のこと憎からず思ってたら嫌なんじゃねぇの?」
自分を好いてくれている奴が、自分に抱かれる為に他の奴に足を開くなど。
男のことだから絶対悟らせないとは思うが、それでも、万が一知れたら、その惚れられた男だって気に病むだろう。
「彼が、私のことを?」
嘲るように男が笑う。
ああ、嫌な顔だ、とランサーは思った。
「その気遣いは無用だ、ランサー。彼は私のことなど、なんとも思っていない。私を一度だけ抱くことも快く了承してくれたが、そのことについても、なんとも思わないそうだ。だから、その前段階になにがあろうと、彼は気にしないさ」
さらりと返された言葉に、再びランサーの胸の内が騒ついた。
なぜだろう、無性に気分が良くない。
ランサーだって、好きでもないこの男を抱く約束をしている。それを棚に上げていることはわかっている。
だけれども、この胸に広がる不快感は何だ。
自分はいったい何に苛ついているのか。
この男の心を奪っておきながら、それを受け取らず、体だけ持っていこうとする人間にか。
そんなくだらない男に惚れてしまったこの男か。
それとも。
「へぇ」
この男を止める言葉を持たない自分自身にだろうか。
v
サーヴァントに睡眠は不要だ。寝なくても活動に支障はない。
そのはずなのに、エミヤの体は、疲れから日に日に重たくなっていった。
原因はもちろんあの男だ。抱くことを依頼した日から、彼は後ろからエミヤを抱きしめるようにして眠るのだ。
昨日も夕食を食べに来て酒をしこたま飲み、そのせいで勃たないと言われたが、そこで怒りに任せて彼を路上に放り出すわけにもいかず、そのまま泊めることになった。
それならば、と、客用の布団も出そうとしたのだが、昨日の続きだのなんだの訳の分からないことを言われ、結局、一緒の布団で眠ることになってしまった。
仮にも惚れている男が背中に貼り付いている状態で、冷静でいられるわけがない。
そういうわけで、エミヤはこの2日、まともに休めていなかった。
彼は今日、バイトではないが1日用があると言っていた。
詳しいことは聞いていない。気にはなるが、彼のマスターからの用事かもしれないと思い、それ以上は聞かなかった。
そしてその後、エミヤの家にまた来ると言っていた。
2日連続で食事を作ってもらうのは申し訳ないから、今日は自分が用意する、など言っていたが、本当かどうかはわからない。
だが、用意すると言われた手前、食事の準備をしておくのは失礼かと思い、エミヤは少し暇を持て余していた。
遠坂邸の掃除は、予定していた分は午前中に終わってしまった。
彼が来るのは、おそらく夜だろう。
空いてしまった午後の時間をどう潰すか。
「…散歩でもするか」
ぽつりと呟き、エミヤは遠坂邸を後にした。
特に目的があったわけではない。最近話題の調理家電でも見にいくか、となんとなく新都に足を伸ばした。
忙しそうに歩くスーツ姿のサラリーマン、ベビーカーを押す母親、友人と楽しそうに話す学生たち。それらの間をぬって、エミヤは新都を進んでいった。
目的の家電量販店に着き、ひと通り目当てのものを見たところで、ふとこの辺りに、エミヤがよく買いにきているパン屋があることを思い出した。
それは、あの雨の日に彼に押し付けたスコーンを買った店だ。
そういえばあの次の日、商店街で会った彼に、スコーンうまかった、と言われたことを思い出した。
今日も彼は家に泊まるかもしれない。朝食用に買っておくのも良いだろう。
そう思いついたエミヤは、パン屋に向かった。
「アーチャーではないですか」
パン屋の中で、見知った紫色の髪の女性に声をかけられた。
「ライダーか。君もこの店によく来るのか?」
「ええ。ここのパン、結構好きなんです。なので、サクラにも、と思いまして」
彼女の手にあるトレイには、フルーツデニッシュやクリームパンなど、様々な種類のものがのせられている。
「そうだったのか。私もここのスコーンが気に入ってね。明日の朝食用に買いに来たのだ」
「スコーン…。それも美味しそうですね。どこにありますか?」
「あそこの上の棚だ」
教えてやると、ライダーは少し嬉しそうな足取りでそちらに向かった。
エミヤもその後に続き、スコーンをトレイに載せてレジに向かう。
会計を済ませて外に出れば、空が橙色に変わりかけていた。
「もう夕方ですね」
横を見れば、同じく会計を終えたライダーが出てきたところだった。
エミヤが声をかけようとした時、彼女は向かいの道路を見て、小さく声を上げた。
「おや。あれはランサーですね」
その声につられるように車が行き交う道路の向こうに目をやる。
そこには壁に寄りかかり、機嫌良さげに笑う青い髪の男と、その腕に寄り添う見知らぬ女性がいた。
今日の彼の予定は、女性とのデートだったのか。
「デートでしょうか」
「…まぁ、彼なら女性には困らんだろうさ」
震える喉を叱咤し、嫌味ったらしく口元を上げて笑みを作る。
「そうですか?彼はよく女性に声をかけては失敗しているようでしたが」
「それはアレが軽薄そうに振る舞うからだ。彼は美しいのだから、身綺麗にして微笑みのひとつでも落としておけば、女性の方から寄ってきてくれるだろう」
いやはや羨ましいことだ、と呆れたように息を吐く。
普段通りのふるまいに見えているだろうか。動揺が表に出ていないだろうか。
エミヤの胸の前で、スコーンを入れた袋が、かさりと小さく音を鳴らした。
その後、もう少し買い物をすると言うライダーと別れ、エミヤはどこかぼんやりとしながら家に戻った。
キッチンに買ってきたスコーンを置き、そのままそこに腰をおろす。
不思議と心は落ち着いていた。
それはそうだろう。元々、彼とどうこうなれるとは思っていない。
傷つくことすら烏滸がましい。全部、あらかじめわかっていたことだ。
だからこそ、エミヤは嘘をついてまで、『一度だけ』を彼に乞うたのだ。
それなのに、どうしてだろう。こんなに胸の中が重いのは。
覚悟が足りていなかったのか。心のどこかで、まだ夢のようなことを思っていたのか。
もしかしたら、彼も自分のことを、などと。
唸る冷蔵庫の声を聞きながら、エミヤはそっと目を閉じた。
他人の気配がする。
ばちりと目を開く。
投げ出されていた足を即座に曲げて床を蹴り、それを飛び越えて背後を取る。
首に肘を叩き込もうと大きく一歩踏みこんだ時、振り向いたそれが青い髪を持つ男だと気付き、エミヤは慌てて体を止めた。
「…すまない、寝ぼけていたようだ」
落ち着いて辺りを見回せば、部屋には明かりがついていた。
外はすでに暗い。エミヤが帰ってきた時はまだ夕方だったから、結構時間が経ってしまったようだ。
「いや、かまわねぇぜ。このまま一戦交えてもいいくらいだ」
彼は、楽しそうにニヤリと口の端をあげていた。
その目は、ぎらぎらと好戦的に輝いている。
「せっかくの誘いだが遠慮しておこう。ここで戦っては他の住民の迷惑になる」
「相変わらず、くっそ真面目だな、てめぇは。じゃあ、広いところ行こうぜ」
「断る」
そうばっさり切り捨てると、彼は不満そうに唇を尖らせた。
「えー、いいじゃねぇか、手合わせくらい。最近体なまってんだよ」
「知るか。それに君と戦って、手合わせ程度で終わるわけがないだろう」
この男の強さを、エミヤは嫌という程知っている。今はそう言っていても、戦っているうちに血の気が上ってしまえば、今の言葉などきっと吹き飛んでしまうに違いない。
「人を戦闘狂みたいに言うなよ」
「実際そうではないか」
「まぁ、戦うのは好きだがな。なー、1回だけ」
「断る。戦いたいのなら、教会にいる英雄王にでも喧嘩を売ったらいいだろう」
「それこそ、あの辺りがめちゃくちゃになっちまうじゃねぇか。なー、アーチャー」
「ええい、うるさい!ならばバーサーカーに相手してもらえ」
「あいつこそ、手合わせじゃすまねぇだろ!ちっ、ケチ臭い野郎だな」
エミヤがてこでも動かないとわかったのか、男は不満そうに言葉を漏らしながら、持っていた袋を押し付けてきた。
「これは?」
「夕飯。俺が用意するっつたろ。お前何が好きかわかんねぇし、とりあえず新都のデパートで美味そうなの買ってきた」
それはあの女と選んだものか、と言いたくなるのをぐっと堪えて中を覗く。
そこにはプラスティック製のお椀型の容器に入れられた、美味しそうなカツ丼が2つ入っていた。
その後、2人で食事をして軽くシャワーを浴び、昨日と同じようにひとつの布団に入った。
彼はまたエミヤの背中に張り付いている。
一体いつまで、この茶番は続くのだろう。
「今日は抱けって言わねぇんだな」
暗い部屋に、静かな彼の声が響く。
「ああ。…今日はあいにく気分じゃなくてね」
エミヤの瞼の裏に、新都で見た光景が浮かびあがってくる。
笑う彼と、楽しそうな女性。
その残像が残ったままで、どうしても彼に抱かれる気にはなれなかった。
たかだか、あんなことで落ち込むとは。
自分の脆弱な精神に、思わず笑みが漏れた。
「だが、君がその気ならいつでも付き合う。遠慮なく言ってくれ」
「いや、お前が気分じゃないなら手は出さん。どうせなら、お互いやる気の時のほうがいいだろ」
抱く気など初めからないくせに。
そう言いたくなるのをぐっと堪える。
彼はそんなエミヤの気持ちも知らず、寝心地がいいところを探すように後ろでもぞもぞと動いている。しばらくして、エミヤの背中に顔を埋めるような体勢で落ち着いたようだった。
「なぁ、アーチャー」
「なんだ?ランサー」
「お前、その好きな奴といつ出会ったんだ?」
「なぜ急にそんなことを?」
「いいから答えろよ」
「…まぁ、ちょっと前だ」
「俺と会う前か?」
「いや、違う」
「ふーん、そいつって商店街によくいる?」
「…さぁ、どうだろうな」
「最近いつ会ったんだ?」
「…今日だが」
答えると、彼は訝しげな声を上げた。
「今日だと?」
「あぁ。それが何か?」
「…いや、なんでもねぇ。デートでもしてきたのか?」
「まさか。道で見かけただけだ」
「声とかかけなかったのか?」
「彼は女性といたのだ。邪魔するわけにはいかないだろう」
あの光景が再び思い出され、エミヤは堪えるようにぐっと奥歯を噛みしめた。
「なに、そいつ、女いるの?」
「…言っただろう。彼は性に対しては奔放なところがあると」
本人に向かって言うのもおかしな話だが、生前のこともある。現に彼は自分も抱いてくれると言っているので、奔放と言っても間違いではないだろう。
「だからこそ、こんな私すら抱いてくれるのだ。文句は言えないさ」
自嘲するように笑うが、彼から返事はなかった。
どう答えていいのか困っているのかもしれない。
別に彼を悩ませたいわけではない。黙って一晩抱いてくれれば、それでいい。それで諦めるのに。
「…そんな男のどこがいいんだよ」
呆れるような声が聞こえる。
確かに側から聞く限り、ろくな男には思えないだろう。
「ランサー、この国には『惚れたら負け』という言葉がある。つまり、そういうことだ」
「てめぇはそいつに負けたっていうのか?」
「そうかもしれんな」
冗談めかして答えるが、彼からの返事はない。
我ながら上手い表現だと思ったのだが、彼には響かなかったようだ。
背中にいる男のことをぼんやりと考える。
どうして彼が好きなのか、エミヤ自身もよくわからなかった。
理由などいくらでも挙げられるか、どれもこれも後付けにしか思えない。
生き様がかっこよかった。戦う姿が勇ましかった。人の営みに紛れて笑う姿が存外かわいらしかった。
言葉にすればどれも嘘っぽく、本音ではないような気がしていた。
「その男のどこがいいのか、か」
エミヤが自分の思いに気付いたきっかけを思い出す。
雨上がりの街を眺めていた彼の姿を。
あの瞬間、どうしてエミヤの心はあんなにも揺さぶられてしまったのか。
確かに美しい光景だった。切り取られた絵画のようだった。
店に差し込む光も、落ちる水滴も、彼が持ってきてくれたコーヒーも、頬杖を付いている手も、白磁のような肌も、愛おしいものを見るように細められた赤い目も、こちらを見て意地悪そうに笑う顔も、エミヤの心に焼き付いて離れない。
それからだ。
それから、エミヤの心は彼に囚われてしまった。
「そんなもの、私が知りたいよ」
どうして彼がいいのか。どうして彼でなくてはいけないのか。エミヤ自身も知りたかった。
しばらく待っても彼からの返事はない。もしかしたら寝てしまったのかもしれない。
だが、エミヤのもとに眠気はやってこない。
背中の熱さから少しでも意識をそらすために、エミヤはぎゅうと己の腕を握った。
どうやら今日も、長い夜になりそうだ。
v
気分が悪い。最高に、気分が悪い。
ああ、腹の奥が気持ち悪い。しこたま酒を飲んだ次の日の体調以上だ。
胃がむかむかして、結局あいつが用意してくれた朝食も食べずに出てきてしまった。もったいないことをした、と後悔したのは、少し冷静になった後だった。
バイト先の喫茶店のカウンターを拭きながら、ランサーは昨日のことを思い出した。
実は昨日、ランサーはここ数日頭を悩ませているあの男の行動を、ずっと見張っていたのだ。
もしかしたら好きな男とやらに接触するかもと思ってのことだったが、結果としてはなんの成果もなかった。
午前中は言っていた通り遠坂凛の家に一人でいたようで、午後からは新都を、家電を見たりしながらぶらぶらと歩いていた。その後、男はパン屋でライダーと出会い、そしてひとりで家に戻っていった。途中、ランサーがいることを男に気付かれたが、ランサーはたまたま声をかけてきた女と話すことで、デート中を装った。その成果もあって、新都にいたことについて男に追及されることはなかった。
なんだ、空振りか、とランサーは落胆した。
女と別れ、急いで夕飯を買って男の家に向えば、鍵が開いていた。
訝しみながら中に入り、明かりを点ければ、小さな部屋の台所で男が座り込んでいるのが見えた。珍しい。どうやら寝ているようだった。
ここ最近は、自分が横にいるせいで、ろくに眠れなかったのだろう。
せめて布団でも敷いてやろうかと一歩近付いた時、その目がカッ、と開かれた。
男は猫のように飛び上がり、あっという間にランサーの背後に回る。
瞬間、己の血が一気に沸き立ったような気がした。
ああ、これだ。全身に刺さるような殺気。向けられる鋭い視線。
自分はこれを求めていた。
口の端が上がっていくのを自覚したまま振り向けば、男はこちらに肘を叩き込もうとした不自然な状態で止まっていた。
寝ぼけていた、と謝る男に拍子抜けする。
そのまま勢いで一戦交えようと誘ってみるも、お堅い男が取り合うはずもなく、結局そのまま話は流れて夕飯になってしまった。
その後、昨日同様、男と同じ布団で横になる。
月明かりでぼんやりと浮かび上がる男の白い髪を眺めていると、そういえば今日は抱けと言ってこないことに気が付いた。
尋ねると、今日はそんな気分ではないらしい。
ランサーとしては断る手間が省けてよかったのだが、この男も馬鹿ではない。もしかしたらランサーが抱く気がないことに気付いているかもしれない。
それでは困る。自分じゃ駄目だからと別の男のところに行かれては、ランサーの目的は果たせない。
なんとかこいつの好きな男の情報をさぐってやろうと、ランサーは男の背中に顔を寄せ、そっと耳を当てた。
この男は嘘がうまい。だが、心音まではごまかしきれないだろう。そう思ってのことだった。
世間話を装って、ひとつひとつゆっくり男に質問していく。
だが、男の心音はランサーが思っているものよりもはやく、どれが嘘でどれが本当か、正直ランサーにはわからなかった。
そしてふと、セイバーに聞いたことを思い出した。もしかして惚れた男は商店街にいるのでは、と、思いついて尋ねてみれば、わずかに男の筋肉が強張った。
その分かりやすすぎる反応に、ランサーはなんだか妙な気持ちになった。
お前、そんなんじゃなかっただろう。もっと太々しくて、本音を隠すのがうまい、ムカつく男だったはずではないか。
なんでそんな弱ってんだよ。相手の男が、お前をここまで弱らせてしまったのか。
こんな好きでもない自分に体を明け渡すほどに、お前を追い込んだのか。
しかも、その男はお前の悩みも知らず、女と遊んでいただと。
ふざけるのも大概にしろ。お前をここまで弱らせておいて、お前の悩みも苦しみも知らずに、体だけ奪っていくのか。
お前の心を置き去りにして。
昨夜のことを思い出して、ランサーはぎちり、と歯を鳴らした。
あいつはそれでいいと言った。一度だけでも抱かれればそれでいいと。
それではランサーが良くない。
仮にも己と同等に戦える男がそのように扱われるのを黙っていられるはずがない。
戦士として、あいつの体は美しいと思う。
鍛錬によりできあがっているその肢体は、美しい戦士のものだ。
それを、その価値のわからぬものに触れられるのは耐えられない。汚されるのも腹立たしい。
あの男の体は、その価値をわかっている者にこそふさわしい。
そんな相手ならば、ランサーだって納得できる。
だが、惚れた男の話を聞けば聞くほど苛立ちが募っていく。
なんだその男は。あいつをなんとも思っていないくせに、抱きはするだと。その言い分がもう腹立たしい。
あいつ1人の気持ちも受け止められないくせに、体だけ持ってこうなど、浅ましいにもほどがある。
それのどこが美しい男なのだ。その性根が全然美しくない。
見つけ出したら、まずは一発殴ってやりたいくらいだ。
いや、もしその男が目の前に現れたら、ランサーは間違いなくその男を殴るだろう。
あいつのことをどう思っているのか、本当にあいつを1回だけ抱いて捨てるつもりなのかを聞き出して、それが納得いかない答えだったら、きっと容赦なく殴りつける。
それから。
それから、きちんと、あの男を振ってもらわねば。
あの男がおかしな未練を残さぬよう、再び体だけでも、なんて馬鹿な考えを抱かぬよう、きれいさっぱり清算してもらうのだ。
そうして。そうしたら。
あの男は自分を恨むだろうか。
きっと怒るだろう。好きな奴に手を出したことも怒りそうだし、自分はそれでも良かった、などと言い出しかねない。あいつが激昂している姿が簡単に想像がつく。
だが、例えそうであっても、ランサーは嫌だった。
そんなくだらない相手に、自分の認めた相手を汚されることだけは。
扉が開く音がして顔を上げれば、そこにはセイバーのマスターである衛宮士郎と、ライダーのマスターの間桐桜がいた。2人ともこちらを見て、驚いたように目を開いている。
「よう、坊主。デートか?」
「そんなんじゃない。たまたまそこで会ったんだよ」
困ったように目をそらす少年の背をバシン、と力強く叩けば、その痛みに小さな悲鳴が上がった。
「と、というか、何かあったのか?怖い顔してたぞ」
言われて、ランサーはきょとんとして己の顔に触れた。
「そうだったか?」
「ああ、人を殺しそうな顔してた」
なぁ、と少年が話を振れば、少女もこくりと頷いた。
そんな顔を晒していたのか。確かに考え込んではいたから、気付かないうちに顔が強張っていたのかもしれない。
「すまん、すまん。ちょっと考えごとしてただけだ。気にすんな」
笑って誤魔化し、2人を席に案内する。
座った席は、偶然にもいつかあの男が座った場所だった。
あの日は雨で、この店は休憩中で、ここには自分とあいつしかいなかった。
そんなことを思いながら、2人から注文を受け、キッチンにオーダーを伝える。
飲み物ができるまでの間、空いているテーブルを拭きながら、ちらりと2人を見やる。
2人は差し込むやわらかい日差しの下で、おだやかに笑っていた。
不意に、あの日の男の姿が蘇る。
あの雨の日、あいつはひとりでぼんやりと、雨に濡れる外を眺めていた。
ランサーの位置からその顔は見えない。だが、不意に男がそのまま窓の向こうに吸い込まれてしまうような錯覚を覚えたのだ。
なんだか急に落ち着かない気分になり、ランサーは男の注意を引こうと、その前に座った。
自分でもどうしてあんなことをしたのかはわからない。
だが、なんとなく、放ってはおけなかったのだ。
あいつは突然前に座ったランサーに驚いていたようだが、掃除が面倒だと適当に言い訳すれば、それをあっさり信じてしまった。
ランサーが、自分の心配をしてるなど思ってもいない素振りだった。
その態度になんだか腹が立ったのは覚えている。
これもまた、理由はよくわからないのだが。
そんなことを考えながら業務に精を出すこと1時間。
穏やかに会話していた2人が席を立った。
「ランサー、ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
会計を終え、丁寧に礼を言っていく2人を外まで見送る。
「おう、サンキューな。またデートの時は使ってくれ」
「もう、そういうこと言うなって」
うっすらと頬を赤らめて答える少年の素直さに、思わずランサーはその頭に手を回した。
「ちょっ、何すんだよ!」
ぐしゃぐしゃと髪を掻き回された少年が悲鳴をあげる。
「あー、坊主は素直でかわいいなぁ。あいつも、これくらい素直でわかりやすかったらいいのに」
「はぁ?あいつって誰だ?」
「こっちの話だ。気にすんな」
本当に、このくらいのわかりやすさがあいつにあれば、もっと早く手を打てたかもしれないのに。
あいつが変な男に惚れた時点で、ランサーが気付いていたら。
こんなことになる前に、もっと早く、あいつに。
「…ランサー?」
戸惑ったような声にハッとする。
自分はいったい何を考えていたのか。
平静を装って衛宮士郎の頭から手を退かし、そのままひらひらと振る。
「なんでもねぇ。坊主と嬢ちゃんも気をつけて帰れよ。送り狼になんじゃねぇぞ」
「ランサー!」
顔を赤く染める少年に、ランサーは悪戯っぽく笑いかけた。
2人の姿が遠くに消えるのを見送ってから、ふと背後に気配を感じて振り向いた。
「いつからいたんだよ、アーチャー。何か用か?」
尋ねれば、建物の陰にいた男は皮肉げに口の端を上げた。
「特に用はないさ。たまたま通りかかっただけだ」
「ふーん。あ、ちょうどよかった、アーチャー。今日もお前の家、行くからな」
そのまま去っていこうとする男の背に声をかければ、その足がぴたりと止まった。
「…そのことなのだが、あの話はなかったことにしてくれ」
「は?」
思ったより乾いた声が喉から出た。
振り向いた男は、いつものように何を考えているのかわからない顔をしていた。
「私も慣れない事態にどうやら混乱していたようでね。よく考えたら君に頼ろうと思ったのもどうかしていた。恋は人をおかしくするとは本当だな」
呆れるように笑う男に、猛烈に嫌な予感がこみ上げる。
「だから、もう家に来なくて大丈夫だ。君には迷惑をかけてしまった。後日改めて礼はする。ではな、ランサー」
それだけ言い放って、男は足早に去っていこうとした。
咄嗟にその腕を掴んで引き留める。
ランサーの指が、ぎちり、と男の腕に食い込んだ。
「どういうことだ、てめぇ」
「どうもこうもない。君が私を抱く必要はなくなった。それだけだ」
「なぜだ」
「なぜもなにも、そのほうが君も都合がいいだろう。どこに困ることがある」
嘲る男を、ランサーはぎらりと睨みつける。
「俺が困る。だから待て」
「それこそ何故だ。貴様が困ることなどない。面倒ごとがなくなったと清々するがいい」
清々できるわけないだろう、馬鹿野郎。
そう言いたいのをぐっと飲み込む。
今それを言っても喧嘩になるだけだ。
「俺が抱かなくていいというのはどういうことだ。俺の代わりが見つかったということか?」
「そういうことだ」
「もう抱かれたのか?」
「…まだだが」
ランサーは自分が何を言おうとしたのかわかっていなかった。
だが、止められなかった。
「そいつ断ってこい。今日、俺がてめぇを抱く」
男の目が、きゅうと見開かれる。
その驚きように、なぜかまた腹が立った。
v
自分の気持ちが浅ましくおぞましい。
こんな方法でしか、彼の愛を乞えない自分に吐き気がする。
彼が情に厚いことはわかっていた。
自分がこんな自暴自棄な態度をとれば、動揺して手を伸ばしてくることも。
そんな彼につけ込むようなことをしてしまう自分が、心底腹立たしかった。
だけれども、衛宮士郎をかわいいと撫でる男を見て、あからさまに比較されて、自分の中で何かが弾けてしまった。
一刻も早く彼に抱かれて、全てを忘れたかった。
「本当にいいんだな」
「ああ、早くしてくれ」
暗いエミヤの部屋。衣服はすでに脱ぎ捨てた。
ここ数日、共に眠った布団の上で、裸で向かい合う。
カーテンから漏れる月明かりが、男の姿を照らす。
いつもひとつにまとめられている青い髪はおろされている。そのせいで、男の雰囲気は少し違って見えた。
「それとも、私の方からしな垂れかかったほうが好みか?」
感傷を誤魔化すように薄く口元を吊り上げ、男の白い首に腕を回す。
そっと唇を近付ければ、それを手で制された。
エミヤの唇を押さえたまま、男が言う。
「そういうのは惚れた奴にやってやれ」
その言葉に、エミヤの顔が歪む。
わかっている。嘘をついたのはエミヤだ。彼にそれを知られたくなくて嘘をついた。
だが、もしエミヤが素直に彼が好きだと言っていたら、この口付けは許されたのだろうか。
あの衛宮士郎のように、愚直にまっすぐ伝えてられていたら。
「…それもそうだな」
しかし、そのような真似は、エミヤにはできない。
エミヤにできるのは、呆れたように笑うことだけだった。
唇から離れたランサーの手がエミヤの背に回り、そのまま優しく倒される。
見上げれば、彼の髪がカーテンのようにエミヤの視界を遮った。
「…全く、くだらない男に惚れやがって」
「すまないな、余計な手間をかけさせる」
「俺はいいんだよ、別に。お前だよ、お前」
言葉にどこか悔しさを滲ませる男に、エミヤはゆるりと笑いかける。
「いいんだ、ランサー。君が気に病むことはない。私はこれでいいんだ」
「全然良くねぇよ。好きでもねぇ男に抱かれて、好きな男に抱き捨てられるのが、それのどこがいいんだよ」
そうして君に気をかけてもらえたのなら、それで十分なのだ。
何も答えないエミヤに、ランサーは舌打ちをひとつ落とした。
「馬鹿野郎が」
そうだな。愚かな行為だと自分でもわかっている。
たぶん、彼に一度抱かれたところで、この恋心はなくならないだろう。
それどころか、さらに燃えあがり、彼を求めるようになるかもしれない。
きっと、今よりも酷くつらい思いをするだろう。
だが、それが嘘までつき、彼を気に病ませてまでも、たった一度をねだった自分への罰なのだ。
この痛みこそが、彼への思いの全て。
ならば、全て燃え尽きてなくなるまで、共にあり続けるだけだ。
彼の手がエミヤの胸に降りてくる。
人に見せても恥じない体まで鍛えあげたが、女のそれとは全く違う。柔らかくも、いい匂いもしない、鋼の体。
それでも抱いてくれるという彼を、ありがたく思う。
「そうだ、ランサー。キッチンの戸棚にスコーンが入っている。明日、朝食代わりに持っていくといい」
今朝は食べなかったから、という言葉を飲み込んで微笑む。
明日の朝は、それこそ気まずくて顔を合わせづらいだろう。そう思ってのことだった。
男は何も答えずに、エミヤの首筋に歯を立てた。
痛いくらいきつく噛まれるそれに、もしかしたら乱暴に抱かれるかもしれないな、とふと思った。
それもいいかもしれない。
そのほうが、きっと忘れられないだろう。
もしかしたら、座まで持って帰ることができるかもしれない。
この記録を見て、本体はどう思うのか。
愚かだと笑うだろうか。それとも鼻で笑って軽蔑するだろうか。
その姿を想像しながら、エミヤはそっと目を閉じる。
彼のイヤリングに反射した月明かりが、少し瞼の裏に残った。
v
昨夜何があろうと問題なく陽は昇り、次の日はやってくる。
ぽっかりと何かが抜け落ちてしまったような心をぶら下げて、ランサーは波止場でひとり、スコーンを食べていた。
遠くで海鳥が泣いている。
海を眺めながら食べたスコーンは、いつかあの男に差し出されたものと同じものだった。それに気付いたのは、全て食べ終わった後のこと。
ポケットに入れていた潰れた箱から煙草を1本取り出し、口に咥える。
火をつけ、白い煙を吐き出しながら、部屋に置いてきた男のことを思った。
昨夜、あいつを抱いた。
良い体だったと思う。そんな最低な感想しか出てこなかった。
これなら惚れた男とやらも籠絡できるのではとも思ったが、それは、あいつをさらなる不幸に追い込むだけだ。だから、あいつには死んでも言えなかった。
本音を言えば抱きたくはなかった。
抱けばあいつは惚れた男のもとに行く。だから、抱かずに留めておきたかった。
だが、間に合わなかった。抱かざるをえない状況まで追い込まれてしまった。
せめてもの抵抗に、人間の男が抱いても大丈夫な体かどうかは本人には伝えていない。
あの慎重な男なら、きっともう一度確認してくるはずだ。その時に力技で止めるか、どうするか。
そこまで考えて、ランサーはがりがりと頭を掻いた。
自分はいったい何をしているのだ。
あいつのことを思うなら、何にも言わずに放っておいてやるべきなのだ。傷付こうがどうしようが、それがあいつの恋だ。本人の好きにやらせてやったほうがいい。
なのに、それを無駄に引き止めて。まるで、その男に抱かれてほしくないみたいだ。
ふぅ、と煙を吐き出す。
いや、みたい、ではない。事実そうなのだ。
ランサーは、あいつの価値もわからない人間に、あいつを渡したくなかった。
こんなことを言えば、あいつはきっと、私はいつ君のものになったのだ、とあの嫌味ったらしい口調で言ってくるだろう。
だけど、今、ランサーは本当にそう思っている。
そして、あの男がどんなに面倒で、どんなに不器用で、どんなに美しく戦うやつかも知らないくせに、何もせずにあいつの思いを受け取ることのできる人間が、心底妬ましいとも。
そうだ、全てはランサーの勝手な感情だ。
それでここ数日、あの男の恋路を邪魔し続けている。
これでは馬にいつか蹴られるかもしれないな、と、ランサーは、波止場でひっそりと口の端を上げた。
「いらっしゃーい。今日はマグロがお得だよー」
その後、ランサーはいつも通り、魚屋の前で立った。
来る客に笑顔を向けながらも、心のどこかでは部屋で休んでいるだろう男のことを考えていた。
なるべく負担がかからないように抱いたつもりだったが、それでも初めてのやつには辛かっただろう。体の傷は霊体化すれば治るが、心理的なものはそう簡単にはいかない。
何かちょっとつまめるものでも持っていってやったほうがいいのか、とも思ったが、やめた。
きっと自分と顔を合わせても、気まずいだけだろう。
昨夜の行為の途中、声には出さずとも、あいつの目が「迷惑をかけた」と申し訳なさそうに語っていた。
気にするなと何度も伝えたのに、全然あの男には届いていなかった。せめて快楽で流してやろうとしたのに、あの男の目は、いくら色に染まろうとも、すぐに理性を取り戻す。それが腹立たしく、必要以上に攻めてしまい、最後にはまともな言葉すら発せなくなっていた。
そのことに関しては、やり過ぎてしまったと少し反省している。
だが、快楽に溶けて前後不覚になったあいつは最高だった。本当に。
潤む目も、必死に押さえようとしているのに漏れる声も、些細な刺激で跳ねる敏感な体も。
それを、くだらない人間に持っていかれるかと思うと、再び見知らぬその男への殺意が湧き上がってきた。
本当にあいつは趣味が悪い。
なぜそんな男に惚れるのだ。もっとマシな奴に惚れてくれ。
人間でもいいから、一晩だけしか愛をくれない奴じゃなくて、お前を置き去りにしない、優しい奴に惚れてくれ。
そうしたら、ランサーの溜飲も少しは下がるかもしれないのに。
あいつの幸せの為に、潔く身を引いてやるのに。
「すみません、鯖をください」
「はいよー、って、ライダーかよ」
呼びかけられ顔を向ければ、紫の髪をなびかせた眼鏡姿のライダーが立っていた。
こいつも、セイバーのようにマスターから買い物でも頼まれたのだろうか。
言われたものを包みながら、ランサーはふと思い出す。
あいつが惚れた、商店街によくいるという男のことを。
ライダーも商店街でバイトをしている。もしかしたら、女性だからこそ気付けることもあるかもしれない。
一縷の望みを託し、ランサーは尋ねてみた。
「なぁ、ちょっと聞きてぇんだが」
「なんでしょう」
「いや、店にくる嬢ちゃん達が噂してたんだけどよ、この商店街によくいる美しい男って思い当たる奴いるか?」
こちらからの問いかけに、ライダーはとても白けた目を向けてきた。
「え、なんだ、その目は」
「そっちこそ、何ですか、それ。遠回しな自慢ですか?あなたは無自覚キャラではなかったと思いますが」
「へ?どういうことだよ」
ランサーの言葉に、ライダーはやれやれと言わんばかりに溜め息を吐いた。
「まぁ、今日はちょっと機嫌がいいので教えてあげます。いいですか。この商店街で見かける美しい男といえば、パッと思い浮かぶのは3人です」
「お、おう」
「まずは英雄王ギルガメッシュ。ですが、彼は最近ほとんど子どもの姿ですので、女性たちがいうそれには当てはまらないでしょう。それに、たまにしか商店街には来ませんし」
「そうだな」
「次はアーチャー。美しいと、いうよりは、かっこいいという感じでしょうか?彼も女性から人気はあると思います」
そいつは除外していいだろう。頷きながら心の中で呟く。
「そして最後は、あなたです。ランサー」
「…俺?」
思わぬ指摘に、ぽかんとしてしまった。
それはないだろう。だって、その場合、あいつの惚れた男は俺になってしまう。
「あー、正直言うと、その美しい男がいる云々言っていたのはアーチャーなんだわ。だからサーヴァントは除外してくれ」
「人間でですか?女性なら何人か思い浮かびますが、この商店街にいて美しい人間の男となると、あまり思い浮かびませんね。しかも、この商店街によく来る男性ではなく、よくいる男性なのでしょう?だからこそ、私はアルバイトしているあなただと思ったのです。それに、アーチャーも、あなたのことは美しいと言っていましたよ」
「へ?」
淡々と考えを述べるライダーを置いて、ランサーの心臓はだんだんと早鐘を打ち出した。
「あいつが、俺のことを?」
「ええ。彼があなたを美しいと言っているのを、しかとこの耳で聞きました」
まさか。そんなはずは。
あいつは、たまにこっぱずかしくなることも平気で言うから、ランサーのことを美しいと言ったのも、きっとそれだろう。そうに違いない。
妙にうるさい心臓を誤魔化すようにライダーを見れば、ふと、新都であいつがライダーと一緒にいた時のことを思い出した。
あの日、ランサーは、パン屋の前で声をかけてきた女とデートしている振りをしていた。
そして同じ日に、あいつは新都で惚れた男が、女と一緒にいるところを見たと言っていた。
思い返してみれば、あの日、ランサーは割としっかりと男を見張っていた。それこそ、近付けない時は霊体化までして、その視線の先まで調べていた。
唯一の例外は、パン屋だけ。遠坂凛の家にも入れなかったが、あいつの気配しかしなかったから除外していいだろう。
パン屋の中にはあいつだけではなく、ライダーもいた。霊体化しているとはいえ、万が一、見つかった時が気まずい。だから、たまたま声をかけてきた女と話す振りをして、表から様子を伺っていたのだ。
だから、ランサーが男をしっかりと見ていなかったのは、パン屋の中だけ。
「…おい、ライダー。もうひとつ聞きたいんだが」
「はい?」
「一昨日、新都でアーチャーとパン屋にいただろ?あいつ、その時、変なところなかったか?」
「パン屋?…あぁ、あの時の。いえ、普通だったと思いますが。スコーンを買いに来たのだと言っていて、私にも、そのスコーンのことを教えてくれました」
それは、今日ランサーが食べたあのスコーンのことだろうか。
「どちらかというと、彼はパン屋を出た後のほうが、少しぼうっとしているように見えました。彼は隠すのが上手ですし、私の気のせいかもしれませんが」
パン屋を出た後。
それは、まさにランサーがあいつに見つかった時だ。
奇妙な一致に、心臓がさらにうるさく騒ぎ出す。
確かに、惚れた男が女といるのを新都で見たとあいつが言った時、嘘だ、とランサーは思ったのだ。あれほどしっかり見ていたのに、いったいどこで会っていたのかと。
だが、もしも、それがランサー自身のことだったなら。
ランサーは確かにその時、女と共にいた。
おい、まさか。まじか。
だって、あいつは人間に惚れてしまったと思い詰めた顔でやってきて。そいつと一度だけでも関係を持ちたくて、そのためにランサーに抱いてくれと頼んできて。
相手の男も、あいつを抱くことは了承していると言っていて。
そうだ、確かにランサーもあいつを抱くと約束していた。
いや、でもそれはあいつの惚れた男を見つけるまでの時間稼ぎの方便だ。
それに、ランサーはあの男のことを、なんとも思っていないだなどと言った覚えは。
『なんだね、今更嫌になったのか?』
『俺は別にお前を抱くことはなんとも思ってねぇよ。だが、お前はそれでいいのかよ』
言った。言っていた。
だが、それは『あいつを抱くこと』に関してだ。あいつ自身をどうとは言っていない。いや、でも、これは抱くことはどうでもいいと言ってしまったことになるのだろうか。
違う。あの時はあいつに余計な気を遣わせたくなくて言っただけで、その言葉の真意はそこではない。
本当に、好きな男の為に、好きでもない自分に抱かれていいのか確認したかっただけで。
『私はこれでいいんだ』
何度も何度も確認したのに、あいつは昨日、全てを受け入れたような顔で笑っていた。
もしも、あいつの本当の目的がランサーに抱かれることだったとしたら、あいつの望みはこれで叶ったことになる。
でもそれでは、今、胸で渦巻いているこの気持ちはどうなる。
この、あの男に対する想いは、いったいどこに行けば。
ランサーは着ていたエプロンを乱暴に脱ぎ捨て、ライダーに押し付けた。
「すまん、ライダー!10、いや15分だけ店番頼む!バイト代は出す!」
「は?!ちょ、ちょっと!」
驚くライダーをおいて、ランサーは走り出した。
車よりも速く走れる足をめいいっぱい動かし、商店街を駆け抜ける。
途中で霊体化し、障害物をすり抜け、最短距離で目指すのは、あいつの部屋だ。
猛烈な勢いで後方に飛んでいく景色を横目に、ランサーの頭に浮かぶのは全て受け入れて笑う顔でも、こちらを見下すような顔でもなく、ランサーに抱いてくれといった、あの思い詰めた顔だった。
そうか、ちくしょう。あの顔は、自分がさせていたんだな。
ぎり、とランサーの歯が悲鳴をあげる。
そうこうしている間に、男の住むアパートが見えてきた。
扉をすり抜け、実体化すれば、風呂でも入っていたのだろう、上半身裸の男が丸い目をしてこちらを見ていた。
首にタオルをかけ、いつも立っている髪は湿り気を帯びておりている。そのせいで少し幼く見えた。
突然なんだ、と言おうとしたのか、中途半端に口を開いた男の顔をがしりと掴み、そのまま思い切り引き寄せ、唇を押し付ける。
ぷくりとした柔らかな感触。
風呂上がりのせいか、そこはしっとりと濡れていた。
男はしばらく硬直した後、思い出したかのようにランサーの体を押し返そうと暴れ出す。
それを押さえ込むようにさらに唇を押し付ければ、今度は合わさったところから、くぐもった悲鳴が上がった。
さすがに苦しかったかと僅かに唇を離せば、その隙に男は唇の前に手を差し込み、なおも口付けしようとしてくるランサーを苦々しい目で睨んできた。
「貴様っ、昨日自分で言ったことを忘れたのか!」
「忘れるわけねぇだろ。だから、今やってんだよ」
理解できずに訝しむ男の手を払いのけて掴み、空いた手をその後頭部に回す。
後ろに逃げられないように固定してから、もう一度己の唇を押し当てた。
今度は、男も負けじとランサーを蹴って抵抗し出したので、軸足を払って体勢を崩したところにのしかかり、そのまま床に押し倒す。
悔しそうに睨みつけてくる男を見下ろし、再びその唇に口付ける。
逃げる顔を追い、何度も何度も唇を降らせば、男の目が僅かに潤みだした。
「やめろ、やめてくれ、ランサー」
「やめねぇ」
「なぜ、なんで、こんな」
「アーチャー」
顔を隠すように動く腕を捉え、男の目をまっすぐに見る。
不安げに揺れる鋼色に己の顔が映る。
「なぜ、も、なんで、もねぇよ。惚れた相手だからやるんだ、アーチャー」
そう言い放ち、もう一度唇を塞いだ。
開けられていたそこに舌を強引にねじ込み、男のものと絡ませる。驚きで縮こまっているそれを吸い上げ、男の口から溢れる唾液を己の中に招き入れる。その愛おしいものの全てを、ごくりと飲み込んだ。
男の体から力が抜けたのを確認して、ランサーはゆっくりと唇を離した。
「俺に惚れてるなら最初からそう言え。余計な気を遣っちまったじゃねぇか」
「…ハッ。なんだ、私に同情でもしたのか。情けでもかけているつもりか?」
「違ぇよ、馬鹿。さっき言っただろ?俺はお前に惚れたからやってんだ」
「は?」
何を言っているんだとばかりに目を見開く男の頬に、そっと両手を添える。
「いいか、アーチャー。俺もお前に惚れてんだ。その俺を置いて、勝手に納得してどっかいくんじゃねぇよ」
馬鹿野郎、と小さく付け足す。
「…君は、なにを」
「うるせぇ。俺だって、さっき気付いたばかりで混乱してるんだ。いいから黙って愛でられていろ」
そうだ、ランサーが己の中に渦巻く感情の名前に気付いたのは、本当についさっきだったのだ。
そしてそれはここ数日、ずっとランサーが持っていたもので。
湧き上がるものに後押しされるように、再び顔を近づければ、びくりと男の体が跳ねた。
なんとか逃げようとする男の顔を両手で押さえつけ、罰だと言わんばかりに、その鼻にかぷりと齧り付く。
「おい、逃げんな。俺を見ろ」
「え、は、らん」
「今ちょっと時間ねぇから手短に言う。昨日のあれはナシだ、アーチャー。今夜、もっかい告白から初夜まで全部やり直す。そのつもりで待ってろ」
最後に軽く唇を落として体を離す。
ランサーが押さえつけていた手を離しても、男は仰向けで寝転がったまま、放心して動かなかった。
本当は男が冷静になるまで一緒にいたかったが、もう時間はあまり残されていない。
「じゃ、俺、バイトに戻るから。またな、アーチャー」
とりあえず、気持ちを伝えることはできたからいいか、と、名残惜しい気持ちを飲み込んで立ち上がれば、ぐい、と後ろから髪を引っ張られた。
驚いて振り向けば、なんとか体を起こした男が、真っ赤な顔でこちらを睨んでいた。
「なんだ?今、ライダーに店番代わってもらってるから、早く戻らねぇと」
「…」
「アーチャー?」
「…貴様、明日の朝食はいるのか?」
絞り出されたそれに、ランサーはにやりと笑って答えた。
「あぁ。あのうまいスコーン、明日は一緒に食おうぜ、アーチャー」
おわり
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最近は、餃子の具の中にごま油を入れるのがマイブーム。
FGO3周年だーーーーーー!!!