第282話 幻想と思えるほどの幸せ

 愛さんと一緒に逃げる。あの時は絶望からの逃亡だったけど、今は幸せへと向かって走っている。


 本当に信じられないとすら思う。どうして、こんなことになったんだろう。少なくとも夏休み前の自分では想像することもできなかった状況だ。


 たまに不安になる。この幸せな今は、ただの夢じゃないかって。いじめから逃げるために考えたただの現実逃避で、目が覚めたらあの地獄のような、いじめられている状態に戻っている。たまに寝る前にそれを思いついてしまって、怖くて眠れなくなる時がある。


 愛さんもいなくて、ただ美雪に裏切られたという事実だけが残っている。

 そんなことを考えて、一瞬絶望的な気持ちになる。それでも、やっぱり現実の安心感を与えてくれるのが、一緒に手をつないで走っている女の子のおかげだ。


 誰にも相談できずに苦しんでいた時に、最初に俺に手を差し伸べてくれた女の子。周囲の人たちが敵だらけになっても、自分の不利益を考えずに味方になってくれた。大事な原稿を救い出してくれて小説家デビューするための大切な一歩を踏み出す応援までしてくれた。


 俺にとって、彼女は大恩人だ。絶対に幸せにしたい。

 そのためにも、もっと早く責任が取れるようになりたい。小説を頑張れば頑張るほど、たぶんその夢に近づける。まだ、夢物語だと笑われるかもしれないけど、俺はこの繋がれた手を離そうとは思わない。


 駅までたどりついて、俺たちは立ち止まる。ちょっとだけ息を切らして、そして、あの日のことを思い出して幸せそうに笑う。お互いに何を思い出しているのかわかっていた。


 何も言わずに息を整える。会話はなくても幸せな時間だった。


「じゃあ、行きましょうか」

 今度は愛さんがそう言った。俺は「うん」とだけ答える。

 その間もずっと手はつながれたままだった。お互いにそれを離そうともしていないというのがわかっているから。


 ※


―愛視点―


 もしかしたら、この幸せな瞬間が走馬灯のような幻想じゃないか。たまに、そんなことを考えて、怖くなる。センパイという存在もあの屋上から飛び降りた自分が考えた妄想上の存在で、私はゆっくりと死に近づいている。せめて、少しでも幸せを感じようと、妄想が作り出した自分の理想的な展開の幻想に漂っているだけ。


 だって、そうでしょ。死のうと思っていたところで白馬の王子様みたいに優しい人に助けられて、ずっと欲しかった家族の温かさをまた与えてくれて、それから……自分だけじゃ絶対にできなかったお父さんとも和解できた。


 もし、あの時……自殺しなかったとしても、私はたぶんずっと一人だった。お父さんの病気も思惑も知らないまま、取り返しのつかない時間を過ごして、お母さんの時と同じような後悔を背負う。


 そして、本当の意味でひとりぼっちになってしまった私の後悔は……あの時の後悔の比じゃなくて……もう二度と幸せの陽だまりには戻れなかったと思う。


 だから……


 これからは絶対に彼と幸せになる。私は、彼と一緒にお母さんのお墓に行った時に、そう誓った。


 そして、私たちの手は絶対に離れることはない。

 

「じゃあ、行きましょうか」

 それは一つの決意のような言葉だ。この手をずっと離さない……と。

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