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ボンボンショコラの夢を見る/Novel by 田中M

ボンボンショコラの夢を見る

30,317 character(s)1 hr

槍に片想いする弓がバレンタインまで悶々と悩む話。
かわいい話を目指しました。

※サーヴァントは酔わないとか細かいことは気にしない
※最高に弓が女々しい
※えみご時空
※ホワイトデーまではバレンタインデー。

それでもよければお読みください。

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horizontal


チョコレートでも贈れば、この熱病にような気持ちも少しは落ち着くのだろうか。

そんなことを考えながら、エミヤは売り場に並べられたチョコレートを見下ろす。
石畳のように整然と敷き詰められた生チョコに、区切られた箱にひとつひとつ丁寧にしまわれたボンボンショコラ。手作り用にと用意されたスイートチョコレートに、どこか懐かしさのあるカラフルなチョコレートスプレー。その隣には、それらのチョコレートをさらに美しく彩るための包装紙やシールが数多く置かれていた。

ここはエミヤがよく行く商店街のスーパー。その入り口に置かれた催事コーナーだ。
バレンタインが間近ということもあり、そこはチョコレート関連の商品であふれていた。
様々な人が、この催事コーナーにふらりと引き寄せられるようにやってくる。
しばらく商品を見下ろした後、迷いなくチョコレートを手にとって行く者。ミルクチョコレートかそれともビターチョコレートか、間違えないように何度も確認しながら慎重にカゴに入れる者。ラッピング用の小さな箱を2つ手に取り、どっちがいいか真剣に考え込んでいる者。
そんな真剣にバレンタインに向き合っている者達から、エミヤはそっと目をそらす。

チョコレートなど渡せるはずがない。
エミヤはそう思っている。
そんなことをしたらエミヤが相手を憎からず思っていることは丸わかりだ。
だから、絶対に渡せない。
知り合い全員にチョコレートを義理として配り、その中のひとつに紛れこませて渡そうと浅ましく考えてもみたが、そこまでして渡してどうするつもりかと自身を罵る言葉が頭から消えず、止めた。
そもそも、例え義理とはいえ、エミヤの想う相手がエミヤの作ったチョコレートを受け取るかどうかはわからない。全員に渡した後に、オレはいらない、と断られる可能性は大いにある。
そうなってしまったら、エミヤはただ傷付くためにチョコレートを作ったことになる。
どうしてそんなことをしなくてはいけないのか。

そうわかっているのに、どうしてこのチョコレートの前で立ち止まってしまうのだろう。
ここ最近はいつもそうだ。用もないのに、このコーナーで必ず足を止めてしまうのだ。

くだらない感傷を引きちぎるようにエミヤは踵を返し、スーパーを出る。
全く、一体自分は何をやっているのか。
くだらない。気の迷いだ。冷静になれ。
こんなもの、時間が経てばすぐになくなる。そのはずだ。
そうでなくてはならないのに。

「よぉ、アーチャー」

不意に名を呼ばれ、エミヤは一瞬悩んだ後、その声の方を見た。
そこにいたのは、今一番会いたくない男。
澄んだ青色の髪。赤い目に、すらりと伸びた手足。異国の雰囲気を持つ男が身に纏っているのは黒い長靴に、白いエプロン。その周囲に置かれているのは新鮮な魚達だ。
この男が商店街の魚屋でアルバイトをしていることには多少慣れたが、それでも改めて見るとすごい光景である。
そんなことを思っていることなど一切顔に出さず、エミヤは腕を組み、男を真正面から見る。

「ランサー、何の用だ?」
「良いブリが入ってんだ。よかったらどうだ?」
「……いや、今日は魚の気分ではない」
「そうか、じゃあ、またよろしくな。あ、明日のバイト、忘れんなよ」

ランサーは、にっとエミヤに笑いかけた後、エミヤのすぐ後ろを通り過ぎようとした女性に「お嬢さん、今夜は刺身なんてどうだ?」と声をかけていた。

なんということはない。腹立たしいほど、いつも通りの男の態度だ。
エミヤが何を思っていようとも、この男は変わらない。
当たり前だ。そんなことはわかっている。だが。
腹の奥から身勝手に湧き上がってきたものを振り切るように、エミヤは魚屋に背を向ける。
だが、足を前に進めても、よく通る男の声は嫌でもエミヤの耳に飛び込んでくる。

「こっちの魚はどうだ?あっさりしていて食べやすいぞ。おっ、毎度あり。これ、おつりな。また来てくれよ」

何気ない日常の会話が、エミヤの神経を逆撫でる。
一体何に自分は苛ついているのか、もはやよくわからない。
ただ、ひどく気分が悪い。
最近はいつもそうだ。胸の中に不愉快な感情の塊が居座り、食事すらも億劫になっている。

エミヤは現在、遠坂凛と契約していない。
日々の魔力は食事や、遠坂凛がロンドンに行く前に用意してくれた宝石から得ている。だから食事はきちんととらなくてはいけない。
そうわかっているのに、喉の奥が詰まったような感覚があり、食べる気になれないのだ。

エミヤがそんな状態になっていることなど、あの男は知らない。
当然だ。エミヤは言うつもりもないし、知ってほしいとも思わない。
むしろ絶対に知られたくないと思っていたはずなのに、最近は何も知らずに呑気にエミヤに声をかけてくる男を腹立たしく思ってしまう。
そんな身勝手な自分を戒めるかのように、エミヤはそっと唇を噛み締める。

チョコレートなど贈れるはずがない。
考えるだけ無駄だとわかっているのに、それでもエミヤは、明日もあの催事コーナーで足を止めてしまうのだろう。
多分、バレンタインという日が終わるまで。



この恋がいつから始まっていたのかなど、エミヤ自身もよくわからない。
ただ気付いたらどうしようもなく好きになっていた。
エミヤが恋した男の名はクー・フーリン。
エミヤと同じく、聖杯戦争のためにこの冬木の街に召喚されたランサークラスのサーヴァントだ。

はじめ、エミヤはこの恋を、もともと持っていた英雄クー・フーリンへの憧れと、そんな男と気安く話せる立場になってしまったことで、脳が何かを勘違いでもしたのだろうと思った。
それも無理はないことだと、とエミヤは思う。
脳というのは意外と簡単に騙されるものだ。水を口に含んで湯船に浸かるだけで、水を飲めると勘違いした脳がたくさん汗を出すように指令を出す、という話があるくらいだ。自分の脳だって、うっかり誤作動を起こすことくらいはあるだろう。それは仕方がないことだ。
大事なのは、この後。
一時のこの感情に振り回されて、愚かな行動を取らないことだ。

その為にも、まずは気持ちが落ち着くまで待とう。
エミヤはそう考えた。
しばらくは居心地が悪いかもしれないが、この想いが永遠に続くわけではない。
恋は熱病のようなものだ。
いつか必ず、どうでもよくなる日が来るだろう。
そもそも、エミヤはランサーを好きになったところで何かをする気もない。
あの男が自分に惚れることはないだろうし、エミヤが黙ってさえいれば、この気持ちがバレることもないだろう。

この頃のエミヤは、きちんとそうやって割り切ることができていた。
だから、男がエミヤに話しかけようとも、道ゆく女性に声をかけようとも、エミヤが変に動揺することはなかった。
休日、釣りをしている男に自然に話しかけ、そのまま一緒に釣りをしたことだってある。

それができなくなってしまった時のことを、エミヤはよく覚えている。




その日、エミヤは男のバイトするカフェの手伝いをしていた。
以前も男にのせられ、そのカフェでコックの真似事をしたことがあったが、あれ以降、男は時々エミヤにバイトとしてカフェの手伝いを頼むようになった。

エミヤとしては、これ以上自分の中の想いを肥大化させない為に、出来るだけ男と過度な接触は減らしたかったが、かの男から頼られるというシチュエーションがほんの少し嬉しく、また本当に人手不足で困っているのであれば仕方がないか、と、なんだかんだ言いながら毎回手伝っていた。

そして、あの日はカフェが妙に忙しかった。
バレンタインが近いということで用意された限定ランチメニューが雑誌で紹介されて話題になり、それを見た客が多くやってきて、店の前で列を作った。
文字通り目が回るほどの忙しさで、エミヤは男と2人、必死になって手を動かし続けた。
そして忙しさのピークを超えたあたりで、突然、エミヤの視界がぐらりと回った。
立っていられず、エミヤはその場でうずくまってしまった。

魔力不足によるめまいだろう、とエミヤは思った。
確かに、昨夜はランサーに手合わせに誘われて少しはしゃぎすぎてしまい、いつもより魔力を多く使ってしまった。にも関わらず、この忙しさで皿洗いが間に合わず、足りない器材や食器をこっそり投影で作って賄っていた為、一時的な魔力不足に陥ってしまったのだろう。

幸いにも、エミヤがうずくまった場所はキッチンカウンターの影になるところだ。客からは見えていない。
少し休めばすぐに動けるようになるだろう。
完全に暗くなってしまった視界の中で、エミヤはそんなことを考えていた。

「おい、どうした?」

不意に、ひそめたようなランサーの声が聞こえた。
視力が戻ってきていない為その姿は見えないが、気配はエミヤのすぐ近くにある。
どうやらエミヤと同じく、キッチンの影に隠れるようにしゃがみ、こちらを覗き込んでいるようだ。

「気にするな。少しめまいがしただけだ」

客に聞こえないように、エミヤも小声で返す。

「どうした?魔力切れか?」
「まぁ、そんなところだ」

すぐに治る、とエミヤは言おうとした。

「なんだ、しょうがねぇなぁ」

だが、男が動く方が早かった。
男の手がエミヤの胸ぐらを掴み、そのまま、ぐい、と引き寄せた。
当然エミヤの体はぐらりと前に傾く。
手をつかなくては。このままだと倒れてしまう。
そう思った瞬間、エミヤの唇に温かいものが触れた。

エミヤは目を見開く。
視界は相変わらず暗いままだが、何かおかしなことが起こっていることだけは分かった。
エミヤが混乱している間に、半開きだった唇に、ぬるりとしたものが押し入ってくる。
これはなんだ。今自分は何をされている。
口の中を這い回るそれを止めようと、無意識に舌を伸ばす。
エミヤの健気な抵抗はあっという間に絡め取られ、ちゅう、と吸い上げられる。
直後、喉を焼くほどの熱い魔力が、エミヤの中にどろりと流れ込んできた。

そこでようやく、エミヤが自分が魔力供給されていることに気付いた。
自分が恋する男に口づけされていることにも。

エミヤの頭は一瞬で真っ白になった。
供給された魔力により視界はゆっくりと戻ってきてくれたが、体は凍りついたように動かない。
硬直するエミヤを置いて、男がゆっくりと口を離した。
まず見えたのは紅玉。
そして、どちらのものともわからない唾液で、てろりと光る唇だ。
見てはいけないような気がして、エミヤは思わず目をそらす。

「もう大丈夫か?」

小声で問われたその言葉に、エミヤはここがカフェのキッチンであることと、カウンターを挟んだ向こうには多くの客がいることを即座に思い出した。

「あぁ、十分だ」

いつも通りの声で答えられたのが奇跡だと思った。
エミヤの答えに男はよし、と頷いて、すくりと立ち上がる。

「また足りなくなったら言えよ。じゃあ、オレは戻るから」

そう言って男は尻尾のような青い髪をひゅるりと翻してキッチンから出て行った。
エミヤは座り込んだまま呆然とその背を見送る。

今、一体何が起こった。
よくわからない。
いや、起こった事象についてはわかるのだが、感情が追いつかない。

エミヤはキッチンに手をかけ、ゆっくりと立ち上がる。
カウンターの向こうには、笑顔で客に話しかける男の姿がある。
エミヤは数十秒前、あの男とキスをしたのだ。
あの男と。エミヤがずっと好きだった男と。
そう自覚した瞬間、エミヤは叫び出したい気分になった。



それでもエミヤは、なんとかいつも通りのエミヤでいようと努め、その日はどうにかやり過ごすことができた。
だが、遅効性の毒のように、あの時の出来事がエミヤの強固な理性を少しずつ侵していく。
男に声をかけられても平気だったのに、無様に動揺するようになった。
男の姿が見えないと、何をしているのか無意識に考えるようになった。
男が自分以外の誰かと笑い合っているのを見ると、みっともない感情を覚えるようになった。
振り払うようにきつく目を閉じれば、唇に触れる柔らかさや口内を埋める熱さを思い出し、エミヤの理性を揺さぶる。
エミヤの平穏は、男の行為によって、いとも簡単に壊されてしまったのだ。

ああ、いやだ。こうなりたくはなかったのに。
もし心というのが実体化できたのであれば、エミヤは今すぐ叩き壊したかった。
早くなんとかしないと、エミヤはこの内に渦巻く嵐に飲み込まれてしまうだろう。
そうなった先のことなど、恐ろしくて考えたくもない。
だからエミヤは己の恋を忘れるために、できる限りランサーと距離をとろうと決めた。

それなのに、あの男は何も気にせず、今まで通り無遠慮にエミヤに声をかけてくる。
エミヤの内の嵐など露知らず、ふらりとエミヤの前に現れてはカフェの人手が足りないから手伝ってほしいだの、手合わせをしないかだの、気まぐれにエミヤを誘ってくる。
もちろん、その度にエミヤは男の誘いを断ろうとした。
今までとは違う。一刻も早く男から離れなくてはいけない。
あの顔を見るからいけないのだと、気配を感じた瞬間に逃げ出したこともあった。
だが、男はその俊足を活かしてあっという間にエミヤの逃げ道を封じ、衛宮士郎の名前を出してエミヤを焚き付ける。
だからエミヤは、あれから7日が経った今でも、男との関わりをうまく断ちきれずにいる。




「アーチャー。こっちの掃除は終わったぞ。そっちはどうだ?」
「これを洗えば終わりだ」

客のいないカフェの店内で、エミヤは使い終わったフライパンを洗う。
今日もまたエミヤは断りきれず、カフェの手伝いをしていた。
エミヤの手元を濡らす水音が、閉店後の店に大きく響く。
男は掃除用具を片手に、鼻歌混じりでスタッフルームに入っていった。おそらく片付けに行ったのだろう。
その背を見送った後、エミヤは水を止め、ふぅ、と息を吐いた。

全く、自分は一体何をしているのだろう。
距離を取りたいと言いながら、結局男との関係は何も変わっていない。
なんだかんだ言いくるめられ、今日もこうしてカフェの手伝っている。

断りきれないのは、やはり自分の中にある邪な気持ちのせいなのだろうか。
ぴちょん、と、エミヤを責めるように蛇口から垂れた雫が音を立てる。
本気で断ろうとしていないから、男に流されてしまうのか。いや、でも、エミヤだって本当に男と距離を取ろうとしている。だが、男にあの顔で、頼むぜ、言われると心がぐらりと動いてしまうのだ。

そもそも、どうしてあの男は自分に声をかけてくるのか。
エミヤは内心舌打ちする。
これだけエミヤが避けているのに、それがわからないのだろうか。
エミヤを説得する労力があるのなら、その分新しくバイトを採用する方に割けばいいのに。
というか、いつも人手が足りていないこの店の経営に問題があるのではないか。
もっときちんと人を採用すべきだ。もちろん飲食業の人手不足が社会問題になっているのは重々承知しているが、だからといって努力を怠るのは違うだろう。店に求人のチラシを貼るとか、やれることはあるはずだ。

エミヤが脳内で求人チラシのレイアウトを考えていると、ふらりとスタッフルームから戻ってきた男が、アーチャー、とエミヤを呼んだ。

「なんだ?」
「……あー、お前さ、今日みたいに何回かカフェの人手が足りない時に働いてくれてるだろ?店長が礼がしたいって言ってたぞ」
「……働いた分の給与はもらっているから必要ない」

腹の中に広がるもやもやを飲み込み、エミヤは素っ気なく返す。
そんなものを考える暇があったら、今すぐ自分に関わるのをやめてほしい。
そんな思いを込めてじとりと男を睨みつけるが、男は何も気付かずに、いつも通り飄々としている。

「そんなこと言うなって。なんか欲しいものとかないか聞いてこいって前から言われてんだよ」
「そうだな。欲しいのはこの店の新しい従業員だ」
「……毎回声かけて悪かったって。だって、オレの知り合いで手伝ってくれそうなの、お前くらいだし。坊主も学校とかあるしよ」

そうだな。衛宮士郎が四六時中空いているなら、そっちに頼むのだろうな。エミヤではなく。
どろりと腹の奥から溢れそうになった醜い矛盾の塊をごくりと飲み込む。

その衛宮士郎は、今日セイバーと一緒にこのカフェに来ていた。
エミヤがこんな状態になっているのも知らず、呑気にセイバーと紅茶を飲んでいる姿に腹が立ち、セイバーが注文したパンケーキに添える果物をあえて薄く切り、薔薇の花のように盛り付けてやった。
衛宮士郎には、まだここまでのフルーツカッティングの技術はないだろう。
セイバーの素直な感嘆の声と衛宮士郎の悔しそうな顔で、ほんの少しだけ溜飲が下がったが、今思えばあれはただ八つ当たりでしかなかった。我ながらあまりに大人気なかったと思う。

「別に欲しいものなどない」

エミヤがもう一度きっぱり断れば、男は困ったように眉を下げた。

「本当に何ももないのか?物じゃなくても、やってほしいことでも何でもいいぜ」

言ってみろよ、と、男が明るく笑う。
欲しいもの。
夏の空のような青い髪。耳元で揺れる銀色に、燃えるような紅玉。
エミヤの欲しいもの。
手を伸ばしても、絶対に届かないもの。

「……そうだな。そういえば、もうすぐ食器用の洗剤がきれそうだった」

本当のことなど、言えるはずがない。
エミヤの言葉に、男は呆れたように息を吐く。

「そんなんじゃなくてよ。なんかねぇのか?」
「ないな」
「……そうか。じゃあ、どうすっかなぁ」

何かを考えるような男の声を聞きながら、エミヤは濡れた手をタオルで拭く。

エミヤだってわかっている。
あれはただの救命処置だ。
エミヤだってプールで溺れている人を助け、呼吸が止まっていれば、迷わず人工呼吸と心臓マッサージをするだろう。あれと全く一緒だ。
男も同じ。きっと何も思っていない。あれがキスだということにも気付いてないかもしれない。
だからこそ、いつも通りエミヤに関わってこれる。
だけど、エミヤは。

「アーチャー?どうした?」

聞こえてくるのは、いつも通りの男の声。

「なんでもない」

エミヤもいつも通りの声音で返す。
何も思っていない振りも、だいぶ慣れてきた。

でも、一体いつまで、エミヤはいつも通り返すことができるのだろう。
いつまで、いつも通りでいなくてはいけないのだろう。
そんな馬鹿らしいことを考えてしまった自分を、エミヤは胸の内でこっそり嘲笑った。



あの男に贈るなら、どんなチョコレートがふさわしいだろう。

いつものスーパーの催事コーナー。
塔のように積み上げられた板チョコレートを見ながら、そんな馬鹿げたことをぼんやりと考える。

あの男はきっと甘いものはそこまで好かないだろうから、作るとしたらきっと甘さを抑えたものの方がいいだろう。
いっそチョコレートそのものよりもチョコチップクッキーなどの方が食べやすいかもしれない。だが、せっかくのバレンタインなのだから、贈る身としてはチョコレートメインのものを贈りたい。
王道で言えば生チョコやトリュフ。ガトーショコラやフォンダンショコラもいい。見栄えで言うならオペラも捨てがたい。
ラッピングはどうしようか。シンプルな箱に詰めるだけでもいいだろう。リボンなんて野暮なものはいらない。そんなものを付けて渡したら、あの男は。

そこまで考えて、エミヤははたと我に帰る。
くだらない。本当にくだらないことばかり考えてしまう。
エミヤは腑抜けた思考を戒めるように唇を噛み締める。
わかっている。こんなこと考えたところで意味はない。
そもそも、エミヤはあの男にチョコレートを贈るつもりはない。
だけれども、呆けたエミヤの頭は勝手に、もしも、を考えてしまう。
今日も、用もないのにふらりとこの催事コーナーに来てしまった。
救いようがないほど愚かな自分に、エミヤは辟易する。

だが、幸いにもバレンタインは明日。この催事コーナーがあるのも明日まで。
だからそれ以降は、きっとエミヤのこの気持ちも少しはおさまるはずだ。

エミヤの内に巣食う男への想いは、拭っても拭っても、べっとりと体にまとわりついて離れない。みっともなくて汚らわしい。まるでタールのようだ。
こんなもの、あの男に見せられるはずがない。
そんなこと嫌と言うほどわかっている。
そのはずなのに、どうして自分は。

「おい、アーチャー。飯、食いに行くぞ」

深く沈んでいくエミヤの思考を、聞き覚えのある声が切り裂いた。
驚いて振り向くと、そこにあったのは目に焦げ付いてしまいそうな鮮やかな青色。
突然のことに、エミヤは呆然とランサーを見返す。
なんと残酷な男なのだろう。
エミヤの葛藤など知らず、この男はいとも簡単にエミヤの前に現れる。

「……何故」
「ほら、この前、カフェの店長がお前に礼をしたいって話しただろ?」

言われて、ああ、とエミヤは思い出す。
数日前、欲しいものがないか、男に聞かれた一件だろう。
あの時は無いと答えたはずだが、あの話は終わってなかったのだろうか。

「店長に特に無いらしいって伝えたら、それじゃ気持ちがおさまらないとかなんとか言われて、飯でも奢ってやってくれって金を押し付けられたんだよ」
「なるほど。ならばその金はそのまま君が貰うといい」
「そんなことできるわけねぇだろ。つーわけで、これから是が非でもオレと一緒に飯に行ってもらうからな。嫌でも我慢しろ」

そうきっぱりと告げてくる男。
その言葉と硬い表情から、この男もエミヤを食事に誘うのは本意ではないことがわかってしまった。
ざくりと傷付く胸の内を、エミヤは全力で無視する。
嫌々なら誘わなくても結構だと言いたいが、この男はカフェの店長から頼まれてここにきているのだ。自分の仕事を果たさなければ帰らないだろう。
ここで押し問答するよりも、どこかで適当に食事をして、形だけでも礼を受け取ったということにしたほうが早いかもしれない。

「……わかった。駅前の立ち食い蕎麦でいいだろうか?」
「いいわけあるか。もらった金を使うのに何杯食わせる気だよ」
「牛丼」
「却下」

エミヤとしてはさっさと終わらせてしまいたい。だが、男としてはそれなりの金額を預かった手前、きちんとエミヤと食事をしたいようだ。
全く、本当に無駄に義理堅い男だ。
カフェの店長の気持ちを考えてくれるなら、エミヤの今の気持ちだって考えてくれてもいいだろうに。
エミヤがじとりと男を睨むと、男は、しょうがねぇだろ、と拗ねたように言った。

「つべこべ言わずに、お前も我慢して一晩だけ付き合えや。酒でも飲めばあっという間だろ?」

お前も、か。
そんな些細な言葉尻に反応してしまう自分に、情けなくて死にたい気持ちになる。
その感情を腹の奥に深く深く沈み込ませながら、エミヤはいつものように腕を組み、不機嫌そうな顔を作る。

「……仕方ない。今日だけだからな」
「おう。店はオレが決めていいか?海浜公園の近くにいい店があるって聞いてよ」
「好きにしろ」

溜め息まじりに答えれば、じゃあ行くぞ、買い物はまた今度な、と男はすたすたと先を急ぐようにスーパーを出て行く。
そんなに早く酒が飲みたいのだろうか。それとも、さっさと面倒ごとを済ませてしまいたいのか。
きっと後者だろうな、と、落ち込んでしまいそうになる気持ちを、エミヤは無理矢理見ないふりをする。

とりあえず、今日は男の為にも、さっさと高そうな酒を飲んで帰ることにしよう。
そんなことを考えながら、エミヤは数歩先を行く男の揺れる髪をぼんやりと見つめる。
その向こうでは、緩く溶けた太陽が今にも沈みそうになっていた。




その数時間後。
エミヤは酔い潰れ、男の肩を借り、引きずられるように歩いていた。

「……くそっ、はなせ!ひとりで歩ける」
「はいはい、具合悪いやつは黙ってろ」

おそらく最近まともに食事を取っておらず、胃が弱っていたのだろう。そこに度数のあるアルコールなんてものを飲んだから、悪酔いしてしまった。
そこですぐに飲むのをやめればよかったものの、男の手前、意地を張って飲み続け、気付いた時には全身から血の気が引き、トイレに駆け込んでいた。
その結果、こうして男に支えられて家に帰るはめになっている。

「サーヴァントが酒に酔うとか聞いたことねぇぞ」
「うるさい!うぅ、さっさと捨てていけ……、こんなもの……」
「酔っ払ってるサーヴァントをこんなところに置いていけるわけないだろ」
「酔ってない。ちょっと調子が悪いだけだ」
「尚更置いていけるわけねぇだろ。ほら、お前の家はどっちだ」

エミヤはもう羞恥と情けなさで消えてしまいたかった。
男と距離を取ろうとしているのに、ことごとく裏目に出ている。
今までここまで男と密着したことなどなかった。そもそも、男と二人で酒を飲んだことも。

男に掴まれている右手の手首が燃えるように熱い。男の肩にかけられているエミヤの腕もだ。熱くて熱くて、もしかしたら焼け爛れているかもしれない。
いや、いっそ焼けていて欲しい。そうしたら、きっと痛みで気が紛れる。
惚れた男の体に触れていることも、エミヤのすぐ横に、白く暴力的なまでに美しい顔があることも気にならなくなる。

「テメェがアホな飲み方したせいで、ゆっくり飲めなかったじゃねぇか」

必死に心を殺すエミヤの横で、不満そうに男がぼやく。
男としては飲み足りなかったのだろう。
ひとりでも帰れるからゆっくり飲んでいろ、と言ったのだが、これはお前への礼なんだからお前がいなきゃ意味がないとか無駄に義理堅い面を発揮して、男はエミヤと一緒に店を出てきてしまったのだ。
この男が勝手にしたことではあるが、それでもやはり申し訳なく思ってしまう。

胸の中がぐるぐると気持ち悪い。吐いても吐いてもおさまらない。
いっそ内臓を全て指で掻き出してしまえば、ここ連日エミヤを悩ませている不快感もなくなるのだろうか。
そんな馬鹿なことを考えていると、不意に強く風が吹いた。
男の青い絹糸が美しい曲線を描いてひらりと舞い上がり、肩に回されているエミヤの腕にとさりと落ちる。
そんな些細なことにすら動揺してしまう自分に気付き、エミヤはそっと視線を下げる。

「で、お前ってどこに住んでんだ?素直に言わねぇと、坊主の家かオレの寝床に連れてくぞ」

それは本当に勘弁願いたい。
エミヤは渋々ランサーに住んでいるアパートの場所を告げる。
ここから家まで少し距離がある。サーヴァントの足なら一瞬なのに、ゆっくりしか歩けない自分が恨めしい。
そこでふと、エミヤはとあることに気付いた。

「ランサー。貴様の無駄に速い足だったら、私を家まで送ることなど一瞬ではないのか?」

この発言に、ランサーは嫌そうに顔を歪めた。

「やってもいいけどな。オレは背中で吐かれるとか勘弁だぞ」

確かに猛スピードで走る分、その振動は恐ろしいものだろう。
それに今の体調のエミヤが耐えられるとは思えない。
やはり駄目かと諦めかけたエミヤの頭に、再び天啓がおりる。
そうだ、霊体化すればいいのではないか。霊体化すれば体調だって元に戻るはずだ。
どうして思い浮かばなかったのか。やはりエミヤの頭は、最近のことで少し鈍くなっていたのかもしれない。
エミヤがいざそれを提案しようとした時、男が口を開く。

「……テメェはそんなにオレと一緒にいたくねぇのかよ」

責めるようでありながら、どこか拗ねているような声。
その予想外の反応に、エミヤの思考が止まる。

一緒にいたくない。いたいはずがない。
男といるとエミヤはおかしくなる。平静ではいられなくなる。
そんな危険なものと誰が一緒にいたいと思うものか。
エミヤはサーヴァントだ。世界を守る機構のひとつ。人のように色恋などしている暇はないし、そんな感情など必要ない。
だからエミヤは男に、一緒にいたいわけはないだろう、と即答しなくてはいけない。

いつものエミヤならそれができた。
でも、今のエミヤは酒に酔ってぐずぐずだ。頭は痛いし、吐き気はおさまらないし、体だってまともに動かない。
そうじゃなくても、エミヤはあの不意の口付けから冷静な判断ができなくなっていた。男にすべき正しい態度がわからなくなっていた。
だから、男がエミヤの対応に傷付いているような反応を見せた時、口から思わぬ言葉が飛び出した。

「そういうわけじゃない」

この言葉に、男は驚いたように赤い目を丸くしてエミヤを見た。
その後ろでは、糸のような白い月がこちらを見下ろしている。

「……せっかくの飲みの席を台無しにしてしまって気まずいだけだ。君のことは関係ない」

エミヤは、一緒にいたくないとはっきりと否定しなかった。
そうすべきだったのに、できなかった。
それに男も気付いたのか、きょとりと数度瞬きしてエミヤを見つめている。
赤い湖面にはエミヤだけが映っていた。
そこにいる惚けた顔の自分を見た時、エミヤはようやく自分がとんでもないことを言ってしまったことに気付いた。
今からでも否定してした方がいいだろうか。いや、きっとその方がいい。男に気持ち悪がられる前に、早くいつも通りの反応を返さなければ。

そう慌てて否定しようとした時、エミヤは見てしまった。
うっすらと赤く染まる男の顔を。

気のせいだ、と即座にエミヤの理性は否定した。酒を飲んでいたから、顔くらい赤くなる。
だが、さっきまで男の頬は真っ白だった。
だからつまり、男の頬はエミヤの発言で染まったことになる。

体の奥からじわりと熱が上がってきそうになった時、再度理性が叫ぶ。
そんなことあるはずない。ただの見間違えだ。街灯の当たり具合でそう見えただけだ。
だが、数キロ先のものだって見えるエミヤの目が、はっきりと男の頬が赤らんでいるのを捉えている。
違う違う、そんなことあるはずが。
叫ぶ理性を無視して、男が口を開く。

「お前なぁ、急に素直なこと言うんじゃねぇよ。調子狂うだろ」

あー、もうさっさと行くぞ、と男はぶっきらぼうに言い捨て、突然歩く速度をあげた。
まるで照れ隠しのようにも見えるその態度に、エミヤの体がぶわりと熱くなる。

違う、そんなはずは。
否定する声は、上がる熱にあっという間に掻き消されていく。
どくりどくりと心臓が耳元で鳴っている。
いけない。冷静にならなくては。
期待するな。相手も酔っ払いだ。もしくは酔ったエミヤの目が見せた幻だ。
だが、エミヤを掴む男の手がひどく熱い。エミヤに触れている男の体も。まるで体中で血液が沸騰しているようだ。
それらの熱がエミヤの理性を溶かし、判断を鈍らせていく。

「まぁ、今日はこんなことになっちまったが」

男の声に誘われるようにエミヤは顔を上げる。

「また今度改めて飯食いに行こうぜ。次は酒は飲ませねぇから」

にかっと笑う男に、エミヤの腹の奥がぎゅうと締まる。

正しい反応はなんだ。なんと答えたらいつものエミヤらしいのか。
わからない。わからない。
ただどうしようもなく体が熱い。気を抜くと、そのままエミヤはぐずぐずに溶けてしまいそうだった。
そして熱で馬鹿になった頭は、それでもいいかと思ってしまった。
そんなはずはないのに、その時のエミヤは、うっかりそう思ってしまったのだ。



一夜明け。
自宅の布団の上で、エミヤはのそりと体を起こす。

正直、昨日のことが頭から離れず、あまりよく眠れなかった。
立ち上がり、腕を上に伸ばしてみるが、全身を覆う倦怠感のようなものは消えない。
むしろ、まだどこか夢見心地だった。

本当に、昨夜はまるで夢のようだった。
エミヤはぼんやりと男との会話を思い出す。
あの後、男とエミヤは取り止めもない話をしながら歩き、そしてエミヤの部屋の前に着いた後、男はまたな、と言って去っていった。
また。
昨夜、男はまた食事をしようと言ってくれた。
あんな身を溶かしてしまうような時間を、また過ごしてもいいのだろうか。
2人きりで食事をする。次はエミヤは酒を飲まないだろう。そうしたらゆっくりと時間が流れて、帰り道も2人で話しながら歩いて。
そんな時間を過ごしてしまったら、今度こそエミヤは後戻りできなくなるだろう。

いや、少なくとも今の時点で、エミヤはもうぐずぐずになってしまっている。
現に今、エミヤの頭の中では昨日聞いた男の声が何度も勝手に再生され、その度にエミヤは声を上げて頭を掻きむしりたくなる。
こんなもの腑抜けもいいところだ。

そして昨日までと決定的に違うのは、そうなってしまっている自分を、仕方がないとどこか諦めてしまっているところだ。
昨日まで、エミヤはなんとか男への想いを忘れようとずっと抗っていた。
だが今、エミヤはそれすらやめようとしている。
このまま、この強烈な感情に流されても仕方がないと思ってしまっている。
だから。

エミヤはそっと視線を上げる。そこにあるのは部屋の壁にかけられたカレンダー。
今日は2月14日。街中に甘い香りが漂う1日。

昨夜のお詫びと送ってくれた礼に、あの男にチョコレートを贈ってもいいのではないかと、そんな馬鹿なことを考えてしまった。





バレンタインを迎えた街は、どこか浮き足立っているように見えた。

エミヤはここ数日何度も訪れたスーパーの催事コーナーにいた。
そこには、未だたくさんのチョコレートがバレンタインに駆り出されるのを今か今かと待っている。

特に深い意味はない。昨日世話をかけてしまったから、その詫びだと渡せばいい。
手作りをしたのは、時期が時期で材料がたくさんあったから。それだけ。
大丈夫。何もおかしいところはない。多分。

あとは何を作るかだが、あの男は甘いものがそこまで好きではなさそうだし、甘さが控えめなもののほうがいいだろう。
今は昼。残り時間を考えたら、すぐに作れるチョコレートトリュフなどがいいのかもしれない。
だが、ただのトリュフというのも面白くない。
どうしたものかとエミヤは腕を組む。
チョコの中に酒を入れた、ウィスキーボンボンでも作るか。酒好きの男なら喜ぶかもしれない。昨日飲めなかった酒の代わり、とでも言えばいいだろう。
しかし、それだと男の好みに合わせたようでなんだか気まずい。本気のものだと誤解されかねない。
いや、もちろんエミヤにとっては本命なのだが、相手に本命だとは悟らせたくはない。
いっそ、男が苦手なものでも入れるか。
例えば、ひとつだけとんでもなく甘いものが混ざっているとか。
まるでロシアンルーレット。こんな悪戯が仕込まれているチョコレートを、まさか本命だとは思わないだろう。
ほんの思いつきだったが、案外悪くないように思えてきた。
そうだ、それがいい。そうしよう。

エミヤは頭の中でレシピを確認しながら早足で売り場を巡り、材料を次々に買い物カゴに入れていく。
ひとつだけ違う味のものを作るとなると、どうしても余りがでてしまうが、それは後でエミヤが食べればいい。
いつもよりほんの少し浮かれた気分で買い物を済ませ、外に出る。

そしていざ家に帰ろうと商店街を歩いていると、数歩先の店先に見覚えのある男がいた。
すらりとした背中に流れる青い髪。白色のエプロンに長靴姿。
昨日、エミヤを家まで送り、今もエミヤの頭の中の容量のほとんどを占めてしまっている男。
男はエミヤに背を向け、魚を買った女性に礼を言い、にこやかに見送っている。
そのすぐ前に、見覚えのある2人組が通りかかった。
サーヴァントの優れた耳が、少し距離があるにもかかわらず、彼らの会話を高音質で拾い上げる。

「よぉ、坊主。何か買ってかねぇか?」
「あー、今日はもう決まってんだ。また買いにくるよ」
「そっか。そういや、この前作ってくれた飯、うまかったぜ。また食わせてくれよ」
「……シロウ、まさかまた私がいない時にこの男が食事をしに来たのですか?」
「あ、あぁ、材料を持ってきてくれたからついでに……」
「ランサー、この前会った時にも言ったと思いますが、シロウの家を食堂扱いしないでいただきたい。私の分が減ります」
「悪かったって。そんなに睨むなよ」
「シロウも。甘い顔してると、こういう男はつけ上がります。気をつけてください」
「わ、わかった。気をつけるよ。じゃあ、またな、ランサー」
「おう、また来てくれよー」
「あー、ランサーさん、いたー」

見知った2人が去るのと入れ替わりに、今度は2人の若い女性が男に駆け寄った。

「これ上げる。バレンタインだし」
「私からもどうぞ」
「おっ、悪いねぇ。こんな美人のお姉さん方にもらえるとは嬉しいぜ」
「またまたぁ、冗談ばっかり」
「上手いんだからー」
「そんなことねぇよ。今度暇なら、一緒に飯でも食いにいかねぇか?」
「えー、どうしよっかなぁ」
「奢りなら考えてもいいよー」
「おう、任せとけ。ついでに何か買っていかねぇか?今日はこれとかおすすめだぜ」

楽しげな声がラジオのように耳を通っていく。
それを聞いているうちに、昨日からエミヤの思考を鈍らせていた熱が、すうっと下がったような気がした。
まるで甘やかな夢から覚めるように。

そうだ、あの男にとって誰かを誘うのは特別なことではない。
衛宮士郎の家によく行っているのも、道行く女性に声をよくかけているのも知っている。どれもこれも、ありふれたものだ。
あの男は誰であっても気安いのだ。
道行く女性達に気軽に声をかけ、衛宮士郎に食事をねだる。藤村大河とよく酒を飲んでいるとも聞いた。
エミヤだけではない。エミヤだけであるはずがないのだ。
それなのに、どうしてさっきまで自分はあんなに浮かれることができたのだろう。

エミヤの頭が、じわりじわりと冷静さを取り戻していく。
たかだか1回、食事に誘われただけだ。しかも、その1回だって、カフェの店長にお金を押し付けられて、それを消費する為に誘われただけのもの。
今みたいにランサーが自分から進んでエミヤを誘ったわけではない。
家まで送ってくれたのもエミヤが体調を崩してしまったからで、顔が赤く見えたのも、もしかしたらやっぱりエミヤの見間違いか、本当に酒に酔っていただけだったのかもしれない。

さっきまで馬鹿みたいに膨れ上がっていた気分が、みるみるうちに萎んでいく。
そんなエミヤを嘲笑うかのように、肩にかけたエコバッグの中で、チョコレート達がカサリと音を立てた。
その時だ。

「よぉ、アーチャー。もう体調は大丈夫か?」

突然投げ込まれた声に、エミヤはハッとして顔を上げる。
いつも通り飄々とした顔の男。その横を、さっきまで男と話していた女性2人が軽やかな足取りで去っていく。
男の腕には皺ひとつない紙袋が2つ。
アーチャーは必死にいつもの表情を顔に貼り付け、あぁ、と答えた。

「昨日は面倒をかけた。もう大丈夫だ」

思ったよりも普通の声が出たことに、エミヤは心底安堵する。
そうだ。動揺するな。何もおかしいところなどない。ここで動揺することの方がおかしいのだ。

「ふぅん。ま、無理すんなよ。買い物か?」

男の目が、ちらりとエミヤのエコバッグに向けられる。
なんとなく中身を見透かされるような気がして、エミヤは肩にかけ直すふりをしてそっとそれを背中に隠す。
こんな醜い勘違いの産物を、絶対に男に見せたくはなかった。

「あぁ、そうだ」
「へぇ。そういや、お前はバレンタインにチョコとか作んねぇの?」

このタイミングでその話を振ってくる男の無神経さが信じられない。
おそらくさっきチョコレートをもらったばかりだから、世間話として話を振っただけだろうが、エミヤにとってはタイミングが最悪すぎた。
出来上がったばかりの傷に、熱した刃物を突き立てられているような気分だ。じくじくとエミヤを抉っていく。
だが、その動揺を絶対に表に出すわけにはいかない。
いつも通り返さなくては。そうじゃないと、エミヤの愚かな考えまで暴かれてしまうかもしれない。

「いや、特にその予定はないが」
「そうなのか?なんかハロウィンの時にもかぼちゃのお菓子とか作ってたから、こういうイベントが好きなのかと思ってたんだが」
「そういうわけではない。それに、この国ではどちらかというとバレンタインは女性達の為のイベントだからな。私がしゃしゃりでるわけにはいかないだろう」
「そうか?好きにすりゃいいと思うんだがなぁ」

男は心底わからない、といった様子で首を傾げる。
そうだな。この男なら、自分の思うままに素直に動けるのだろう。そしてその様も、物語の主人公のようにきっと美しいはずだ。
でもエミヤは違う。エミヤは自ら傷付きにいく趣味はない。
もうエミヤの頭を鈍らせていた熱は完全に冷めている。
さっきまでエミヤはどうかしていた。こんな想い、持っていても仕方がない。チョコレートを渡すなど、もってのほかだ。礼なら他の方法ですればいい。

全部わかりきっていたこと。
バレンタインという日は、エミヤの為にはなかったのだ。
曖昧に笑うエミヤに、男がさらに追い討ちをかける。

「ま、もし渡したい奴がいるなら言えよ。オレ、それなりに顔は広いし、知り合いのよしみで口利いてやるから」

その言葉を聞いた瞬間、エミヤは何もかもを放り出してしまいたい気分になった。
なんとまぁ、ケルトの英雄様はお優しいことだ。君に口利きしてもらえるなど、その幸福で身が捩れそうだよ。
言うべき台詞はすらすらと頭に浮かぶのに、声にならない。
エミヤの意思とは裏腹に、口から漏れるのはわずかな空気だけ。

男の言葉を聞いた瞬間、エミヤはわかってしまった。
多分、自分は無意識に何かを期待していた。昨日のことがあったから、もしも、があるかもしれないと、愚かにも思ってしまっていた。
そんな自分の脳天気さを、エミヤは心の底から恥じた。
ああ、なんということだ。期待するつもりなどなかったのに。
どうして。もう、どうしたら。
ぽかりと足場も何もない場所に放り出された気分だ。
縋るものもなど何もない。手を伸ばすことも許せない。
空っぽの心を抱えたまま、エミヤはゆっくりと口を開く。

「君には絶対に言うものか」

絶対に、言うわけにはいかないのだ。



かちゃ、と音を立ててアパートの扉を開く。
中に入って玄関で靴を脱ぎ、リビングにエコバッグを置いて、洗面所で手を洗う。
そして再びリビングに戻ってこれば、立てかけていたエコバッグが倒れていた。
中からは買ってきたものが溢れ、少し顔を出している。
スイートチョコレートに、チョコレートスプレー。そしてラッピング用の箱。
全部、無駄になってしまったな。
それらをぼんやりと見つめた後、エミヤはゆっくりとその場に腰を下ろした。

なんだかひどく疲れてしまった。
買い物に出て行った時とは気分が真逆だ。
何をするにも億劫で、指ひとつ動かしたくない。
一体自分は何をやっているのか。
馬鹿らしい。叶うはずなどないとわかっていたはずなのに、何にもならない期待をして、勝手に浮かれて、落ち込んで。
全く、救いようがないのにも程がある。

それから、しばらくエミヤは何もせずに座り込んでいた。
窓の外が赤くなり、そして徐々に部屋が暗くなってきた頃、エミヤはようやくこれからどうしようかと考えた。
ずっと倒れたままのエコバッグに目をやる。
無駄にはなってしまったが、せっかく買ってきた材料を廃棄するわけにはいかない。
だが、今更あの男の為のチョコレートを作ろうという気にはなれなかった。
幸いどれもこれも日持ちがするものだ。慌てて使う必要はない。
だけれども、これらをあまり家に置いておきたくはなかった。
これが目に入るたびに、エミヤは浮かれてしまった愚かな自分を思い出してしまうだろう。
だから、さっさと処理をしてしまいたかった。
これらは、いわばエミヤの醜い想いと浅はかさの象徴だ。
そんなものは早く無くしたほうがいい。この部屋からも、エミヤの中からも。
チョコレートでもなんでもいいから作って、さっさと腹に収めてしまおう。

エミヤはゆっくりと視線を上げる。
どうせなら、あの男が絶対に好まないものを作ろうと思った。
ひどく甘くて、濃厚で、食べた後も口の中に味がべっとりと残るくらいのもの。
どうしても消えてくれない、エミヤの想いにそっくりなもの。
そうして作ったものを自分で食べれば、少しは男への想いに区切りをつけられるかもしれない。
ひどい味だなと苦笑いをしながら全部腹の中におさめることができたら、もしかしたらエミヤはこの恋を捨てることだってできるかもしれない。

そう思ったエミヤはのそりと腰を上げ、エコバッグから材料を取り出し、小さなキッチンの前に立った。
下の棚からボウルを取り出そうとして、ふと手を止める。
少し考えた後、エミヤは口の中で慣れた呪文を呟き、ボウルを投影した。木べらも鍋もバットも、チョコレートに触れる器材を全て次々と投影し、キッチンに並べる。
なんとなく、自分の想いで他のものを汚したくなかった。それだけだ。

エミヤは静かに手を動かし続けた。
鍋に入れるのはたっぷりの練乳とココア。それと、刻んだスイートチョコレート。
全てを熱しながら混ぜて、バットに取り出して冷ます。
粗熱が取れたらひと口大に丸め、周りにチョコレートスプレーをまぶしていく。

黙々と作業をしていくうちに、エミヤの気持ちは徐々に凪いでいった。
何かを作ることは好きだ。
作業中は手早く手順を考え、最適化して動かなくてはいけない。だから、余計なことを考えている暇はない。
そう思いながら、思考の端を動く青い髪をエミヤは見ないようにする。
そして気付けば、白い皿の上には小さな丸いチョコレートがこんもりと盛られていた。
エミヤはその中のひとつをそっと指でつまみ上げ、口に入れる。

鼻を抜けるカカオの香り。そして、口の中に広がる容赦のない甘み。
子供ならともかく、大人はひとつで十分だ。
甘くて、重くて、どろどろしていて。
こんな甘いもの、あの男は好まないだろう。
自分の想いにあまりにもよく似たチョコレートに、なんだかエミヤは泣きたい気持ちになった。



キッチンを片付け、エミヤは無造作に皿に盛られたチョコレートを、とりあえず冷蔵庫にしまった。
食べるにしても、少し冷やした方が美味しいかもしれない。
そんなことを考えていると、不意に視界がぐるりと回り、気付けばエミヤは床に倒れていた。

またやってしまった、エミヤは思った。
おそらく魔力を使いすぎてしまったのだろう。
最近は色々なことを考えすぎて、食事もあまりとれていなかった。宝石も、遠坂邸から持ってくるのも面倒で忘れていた。
そんな状態でいろんなものを投影していたのだから、倒れるのも無理はない、とエミヤは他人事のように思った。

まるであの時のようだ。
不意にカフェでめまいを起こした時のことを思い出しそうになり、エミヤは慌てて思考を切り替える。
余計なことを考えるな。きっと、しばらく休めば動けるようになるだろう。幸い予定もない。焦らなくていい。
気持ちを落ち着かせるように、エミヤはゆっくりと息を吐いた。

吸って、吐いて。吸って、吐いて。
意識して何度も繰り返す。
そうして自分の呼吸に集中していると、さっきまで意識していなかった色々な音が耳に入ってきた。

アパートの前を車が通り過ぎる音。遠くから聞こえる誰かの笑い声。
それらにぼんやりと身をまかしていくうちに、だんだんと瞼が重くなってくる。
洗濯機を回す音。上の階で誰かが歩く音。テレビの音。車の音。誰かが階段を登る音。廊下を歩く音。
不意に、その足音が止まる。エミヤの部屋の前だ。
その見知った気配に、エミヤは目を見開いた。

なぜ今ここにあの男が来るのか。
エミヤの驚愕をよそに、その気配の主は「アーチャー?邪魔するぜー」と呑気な声を出しながらずかずかと部屋に上がってきた。
部屋の鍵は、と思い起こすが、締めた記憶がない。もしかしたら開きっぱなしだったのかもしれない。
エミヤが脳内で自分の失態を罵っている間に、男はキッチンの床で倒れているアーチャーを見つけ、目を丸くした。
男が持っていたスーパーの袋がどさり、と床に落ちる音がする。

「おい、どうした?また魔力切れか?」

駆け寄ってくる男に、エミヤは嫌悪感を隠さず、盛大に顔を歪めた。
最悪だ。本当に最悪すぎる。
エミヤは思わず舌打ちをした。

「気にするな、放っておけ」

すぐに直る、とエミヤは返した。
こんな状態を男に見られたくなかった。
なんとかして追い返さなくては、とエミヤは咄嗟に口を開く。

「それより、こんな夜に私の家に来るほど暇だとは、ケルトの英雄も随分と人気がなくなったようだな。それとも現世の温い空気に染まって、君の牙が抜け落ちてしまったのか。かつての英雄も型なしだな。なんと哀れなことだな。良い調教師でも紹介してやろうか」

寝っ転がったまま口だけ動かすエミヤに、男はめんどくさそうにガリガリと頭を掻いた。
そうだ、こんなかわいげのない男を助けようとは思わないだろう。
そのままエミヤを見捨てて置いていけ。
そう思っていたのに、男はエミヤの予想に反して、無言で倒れているエミヤのそばに膝をつき、その体を抱き起した。
何をしているのだ、この男は。
エミヤは思わず男を睨みつける。
だが男はたいして気にもせず、魔力がないなら無いって素直に言えよ、とだけ言い、がぶりとエミヤの唇に噛み付いた。

不意を突かれ、頭がいつかのように真っ白になる。
半開きの口の中に、熱いものと一緒にどろりとしたものが流れ込む。
男の魔力。
エミヤは今、男に口付けされている。あの時のように。
そう気付いた瞬間、エミヤは口内を這いずり回る男の舌に歯を立てていた。

「……何しやがる」

男がゆっくりと体を離し、怒りをたたえた目でエミヤを見る。
その口の端からは赤い血が垂れ、男の整った肌の上に線を描いた。
中途半端に注がれた魔力に、飢えたエミヤの喉が無意識に鳴る。
だが、ここで流されるわけにはいかない。
必要ない、とエミヤは噛み付くように男を睨みつける。

「気遣いには感謝するが、少し休めば元に戻る。施しは受けない。さっさと出て行け。それとも、目当ての相手に振られて自棄にでもなっているのかね。こんなむさ苦しい男で憂さを晴らそうなどと、かの大英雄はとても良い趣味をお持ちだ」

口の端を上げ、とりあえず思いついた言葉を男にぶつける。
これ以上男といたくない。触れられるのも、魔力供給も以ての外だ。背中に回されている手も、その温度も忌々しい。
今すぐひとりにしてくれ。
どうせエミヤの想いに応えてくれないのだから、今すぐ目の前から消えてくれ。
ぎろりと殺気を込めて睨みつけるが、男も譲る気はなさそうだ。
切り裂くような強い眼光が、真っ直ぐにエミヤに向けられる。

「口だけは元気だな。くだらねぇわがまま言ってないで受け取っておけよ。ガキじゃあるまいし」
「ああ、そうだ。子どもじゃないから、ひとりで大丈夫だ。さっさと出ていけ」
「あのな」

男は苛立ちを落ち着かせる為か、ふぅぅ、と長く息を吐く。

「……ここでお前を放り出して、万が一明日お前が消えていたりしたら、俺はロンドンにいる嬢ちゃんに顔向けできねぇ。それに、目の前で知り合いが倒れてんのを見捨てるほど、オレは薄情じゃねぇよ」

知っている。わかっている。こんな状態の自分を男が放っておけないことなど。
この男はなんだかんだ言って面倒見がいいのだ。エミヤ自身のことをなんとも思ってなかったとしても、エミヤの行動のせいで悲しむ者がいれば、この男は間違いなくそれを阻止しようと手を出してくる。
この男は英雄なのだ。憎らしいくらいに。
だが、その優しさは今はただただ鬱陶しかった。
ただ、見捨ててくれるだけでいい。それなのにどうして手を伸ばすのか。どうしてここに来てしまったのか。
もっと遠くで倒れたらよかった。この男の目の届かないところで。
そうすれば、こんなひどい思いをしなくて済んだのに。

「必要ない」

エミヤは溢れてしまいそうなものを飲み込み、はっきりと伝えた。

「貴様に抱かれるなど、真っ平ごめんだ」

声は震えてなかったと思う。
小馬鹿にするように嗤った。いつものエミヤらしく。
男はそんなエミヤを静かに見下ろした後、抱き起していたエミヤの体を再び床に下ろした。
そのまま男が立ち上がり、背を向けることをエミヤは期待していた。
だが、男は。

「お前にしては、随分と物分かりが悪いな」

男の着ていたダウンジャケットが、ぱさりと床に落とされる。
そして男はゆっくりとエミヤの顔の横に手を付き、その体の上にまたがった。
ひとつにまとめられた青い髪が、さらりとエミヤの前に落ちてくる。
真上に照明があるせいで、男の表情は見えない。
黒く塗りつぶされた中、燃えるような赤色だけが、そこにぽつんと浮かんでいた。

「惚れたやつに操立ててんのか知らねぇが、こうなっちまったもんは仕方ねぇだろ。ただの救命処置だと割り切れよ。お前が惚れたやつだって、この状況なら怒らねぇよ。お前だって、このまま座に還るとか嫌だろ」

そんなことを言うな。割り切れるわけがない。
だって、エミヤが惚れているのは、エミヤにまたがっているこの男だ。惚れた相手に抱かれる前に、これは救命処置だと言われる身にもなってみろ。そんなもの、お前のことが好きではないと言われているも同然ではないか。
そんなことをしないでほしい。これ以上、エミヤを苦しめる種をまかないでほしい。
エミヤはぎり、と奥歯を噛み締める。
少しの沈黙。
決して睨むことをやめようとしないエミヤに、男が根負けしたように、はぁ、と息を吐いた。
そして後ろ頭を掻いた後、わかった、とひと言言った。
その言葉に、エミヤは無意識に力を抜く。
やっとわかってくれたのか。よかった。これで男はここから出て行ってくれる。そう思った。

「お前は眠ってろ。寝てる間に全部済ませておいてやる」

男の宣告に、エミヤの頭が真っ白になる。
咄嗟にエミヤは、いやだ、と言った。
だが、男はそれをあっさり無視して、エミヤの顔の前にすらりと伸びた指を差し出す。
その先端にぽう、と白い光が点った。
ルーンを使われる。
気付いた瞬間、エミヤは叫んだ。体は動かない。声を出すしかなかった。

「ふざけるな!やめろ、ランサー!頼む、やめてくれ、貴様がそんなことをする必要はない。魔力は何とかする、だから放っておけ、ランサー!らっ……」

そこから先、エミヤの記憶はない。










エミヤは目を開けた。
まだ薄暗いが、うっすらと白む室内。夜明けが近いのかもしれない。
一体今は何時なのだろう。
寝返りをうてば、いつもエミヤが寝ている布団が見える。
服も、昼に着ていたものだ。
着替える前に寝てしまったのだろうか。
眠る前までの記憶が思い出せず、エミヤは天井を見上げたまま惚ける。
だが、すぐ近くに自分以外の気配を感じ取った瞬間、エミヤは跳ね起きた。

その勢いのまま隣にあるリビングキッチンに飛び込めば、小さな冷蔵庫の前に座り込む男の姿が見えた。
そしてその男が持っているものを目にした瞬間、エミヤは叫んだ。

「食べるな!」

白い皿の上に無造作に盛られている丸いチョコレート。
エミヤが作った、ひどく甘いボンボンショコラだ。

エミヤの声に、男の赤い目がゆるりとこちらを向く。
開けっぱなしの冷蔵庫の灯りに照らされているのは、白磁のような顔としっとりとした青い髪。
上半身は裸で、身に纏っているものは革の黒いパンツだけ。
大方、シャワーでも浴びてきたところだったのだろう。
そして腹が減っていることに気付き、何か食べるものを探して冷蔵庫を開け、そこでそのチョコレートを見つけた。

男は皿を持ったまま立ち上がり、足で冷蔵庫を閉めた。
ばたん、という音とともに、部屋が少し暗くなる。
窓から差し込む生まれたばかりの弱々しい光が、エミヤと男の姿を照らしていた。

「あぁ、悪い。誰かにやるものだったのか?」
「……そういうわけじゃない」

贈るつもりなどない。
そんな度胸がエミヤにあったら、男好みのチョコレートを作って、男が誰といようと気にせず、さっさと渡していただろう。

「……暇だったから作ってみただけだ。それはかなり甘くて、貴様の口には合わないだろう。腹が減っているなら、少し待ってくれたら何か作ってやる」

だから食べるな、とエミヤは言った。

「それは私のものだ。私が、処理すべきものなのだ」

エミヤの言葉に、男は視線を皿の上に戻した。
赤い目が、静かにチョコレートを見下ろす。
カラフルなチョコレートスプレーに彩られたボンボンショコラ。
エミヤの想いによく似たそれを男にまじまじと見られることが気まずく、エミヤは思わず視線を下げた。
その時、不意に男の腕が持ち上がった。
白い指がチョコレートをひとつつまみ上げ、気付いたエミヤが怒鳴る前に、男の口にぽい、と放り込んだ。

「ランサー!」

エミヤの声など気にせず、男は、甘ぇ、とその顔を歪めた。

「うっわ、うまいけど本当に甘いな。誰の趣味だよ、これ」
「……だから、食べるなと言っただろう。いいからさっさとそれを返せ」

ギリギリと痛む胸を無視してエミヤは手を伸ばす。
だが、それから逃れるかのように、男が皿を持ち上げた。

「いいじゃねぇか、食っても。どうせ誰にもやらねぇんだろ」
「だから……!」

そんなものにまで手を出すほど腹が減っているのか。
聞き分けのない男に、さすがのエミヤも苛ついてくる。

「貴様の口には合わないと言ったはずだ。そんなものを無理に食べる必要はない」
「そうだな、オレ好みの味ではないな」

そう言いながらも、男はさらにチョコレートをひとつ口に放り込む。
口の中でチョコレートを転がすたび、その整った顔が甘さで顰められる。
やめろ、やめてくれ。
そんな顔をするくらいなら食べるな。それに触れるな。
男の白い指に、チョコレートスプレーがまとわりつく。
エミヤの想いが男を汚しているような気がして、エミヤはぎゅうと拳を握りしめた。

「腹が減っているなら、すぐに別の物を用意する。それ以上食べるな」
「どうせ余ってんだろ?なら、食ってもいいじゃねぇか」
「ハッ、そこまで食い意地が張っていたとは知らなかった。だが、さすがに好みに合わない残飯を他人に処理させるのは申し訳なくてね。それは私が処理する。だから、貴様が食べる必要はない」

全部エミヤのものだ。全て、エミヤが処理すべきもの。
あれを全部食べられたら、エミヤはきっとこの想いを忘れられる。きっと、苦しむこともなくなる。
そうすれば、エミヤはまた、いつも通り振る舞うことができるのだ。

「ふぅん」

エミヤの訴えを聞きながら、男はさらにチョコレートをひとつ、口に放り込む。

「聞いているのか、ランサー!」
「聞いてる、聞いてる」

全く聞く耳を持たない男に耐えかねて、エミヤは男の腕を掴もうと大きく前に出た。
だが、ひらりと身をかわされ、伸ばしたエミヤの手は空を切った。
お前に触れられるものか。
そう言われているような気がして、思わずエミヤは奥歯を噛み締める。

「いいじゃねぇか、食っても」

皿を抱えたままの男がぽつりと言った。

「よくないと言っている」
「余ってんなら、オレが食ってもいいだろ」
「よくない。第一、貴様はいつから甘党になった?」
「別になってねぇよ」

なら、余計にこの甘いチョコレートに固執する意味がわからない。

「でも、これ、お前が作ったんだろ?で、渡す奴もいないんだろ?だったら食う。誰も食わないのなら、オレがもらう」

男が真っ直ぐにエミヤを見る。
強い光を灯す赤色が、エミヤに突き刺さる。

「だからお前はそんな顔をすんな。オレが全部食ってやるから、お前はさっさと忘れちまえよ」

一体何を。
男の言っている意味がわからず、エミヤは眉をひそめる。

「……何を、言っている」

どういうことだ。忘れろとは、エミヤのこの想いのことか。
自分に惚れても望みはないから、さっさと次に行けとでも言いたいのか。
エミヤは遠回しに振られてしまったのか。
男はさらにチョコレートをひとつ頬張る。
男の唇に当たったチョコレートスプレーが、はらりと皿に落ちるのが見えた。

「お前がずっと何かを悩んでんのは知ってた。でも、お前は何にも言わねぇし、聞き出そうとしても酔い潰れて話になんねぇし」

男の鋭い白い歯が、チョコレートをを引き裂き、すり潰す。
エミヤの想いは男の歯を汚し、男の喉をその甘さで縋り付くように焼く。
でも、男は構わずに口を動かし、それらをどんどん腹の中へ押し込んでいく。

「今日もなんか思い詰めた顔してたしよ」
「そんな顔はしていない」
「してるようにオレには見えたんだよ」

ぶっきらぼうに男が言い放つ。

「今日だけじゃねぇよ。ここ数日、ずっとお前はおかしかった。坊主に言っても、セイバーに言っても、いつも通りにしか見えないと言われたが、オレの目にはおかしく見えた。昨日だってチョコレート売り場の前でひどい顔してやがるし。だから、こりゃオレの気持ちを押し付けてる場合じゃねぇなと思って、らしくないお節介まで焼いてやったのに」

男が何かを思い出したように笑う。まるで自分の行動に呆れているように。

「そしたらテメェは、俺には絶対に言わない、っつったよな。あれ聞いた時、なんか頭に血がのぼってよ。じゃあ、誰なら言ったんだ。誰ならお前はその抱えているものを話すのか。お前が惚れた奴か。お前がこんな状態になってることにも気付いていない間抜けが、何もせずにそれを聞けるのか。へぇ、そうなのか。そう思ったら、すごく腹が立った」

男の口に放り込まれたチョコレートが、またひとつぐちゃりと潰される。
容赦なく振り下ろされる白い刃は、まるで男の苛立ちを表しているようで。

「本当にテメェは趣味が悪いな。そんな間抜けのどこがいいんだ。このクソ甘いチョコレートも、そいつの趣味かと思うと死ぬほど腹が立つ。しかも、あんな状態のくせ魔力供給を拒否しやがって。くそが。そんなにオレには触れられたくなかったか。そんなに、惚れたやつが良かったか」

まぁ、よかったんだろうな、と男が投げやりに呟く。
皿の上のボンボンショコラは、気付けば随分と減っていった。
残っているものの上に、カラフルなチョコレートスプレーの雨がぱらぱらと降りそそぐ。
男が顔を歪めて舌打ちをした。

「なんでだよ。オレはちゃんと気付いたじゃねぇか。話だって聞こうとしたし、悩んでるお前をなんとかしようとしたじゃねぇか。めちゃくちゃ腹立つけど、協力してやろうともした。何もしていないそいつよりも、オレの方がちゃんとお前のこと考えてただろうが」

な、と同意を求めるように言われても、エミヤには答えようがない。
だが、確かに言われてみれば、ここ数日は男にいつもよりもよく声をかけられた。
思えば、エミヤが避けていたことをこの男が気付かないはずはない。
それをわかった上で声をかけてきていたと言うのならば、この男にしては珍しい行動だったと思う。
だから、と男は言った。
口の端をチョコレートで汚し、まっすぐにエミヤを見つめながら。

「そんな奴より、絶対にオレの方が良いだろうが」

まさかの言葉に、エミヤの思考が止まる。
この男は何を言った。何を言っている。
目まぐるしく脳内をさまざまな情報が駆け巡るが、助けになりそうなものは出てこない。
立ち尽くすエミヤの前で、男はさらにチョコレートをひとつ頬張る。
エミヤの醜い想いの象徴のような甘い甘いチョコレート。
それを男はそれをぐちゃぐちゃにすり潰し、ごくりと飲み込む。
醜いエミヤの想いも、何もかもをすべて飲み込むように。

「お前のどんな想いでも、オレは受け止める。お前がいくら隠そうが、このチョコみたいにクソ甘かろうが、全部見つけて何もかも丸ごと食ってやる。だから、アーチャー」

男の目が縋るようにエミヤを見たような気がした。
どうしていいかわからず、エミヤは視線をさまよわせる。
何かこのありえない状況を打破できる何かが欲しかったのかもしれない。
夜が明けたのか、部屋の中は随分と明るくなっている。
男の後ろにあるキッチンは、昨日エミヤが倒れる前に片付けたから綺麗なまま。
リビングも毎日エミヤが掃除をしているから、あまり物はない。
唯一見慣れないものがあるとしたら、部屋の隅に無造作に放られたダウンジャケット。男が着ていたものだ。そしてその横には、見慣れないスーパーの袋があった。
おそらく男が昨日持っていたものだろう。
袋は倒れており、中に入っているものがほんの少し顔を出している。
あれはまさか。

「そんな奴じゃなくて、オレに」
「おい、ランサー。あれはなんだ?」

突然言葉を遮ったエミヤに、男は驚いて目を丸くした後、ぶすっとふて腐れたような顔をした。

「……お前な、人が大事なことを言おうとしてる時に何だよ。良いところなんだから、話の腰を折るんじゃねぇ」
「それは悪かった。だが、どうしてあんなものを持ってきたんだ?買い物帰りだったのか?そもそも昨日、どうして私の部屋に来たんだ?」

エミヤが矢継ぎ早に聞くと、男は困惑するように目をさまよわせた後、盛大に溜め息を吐いた。
ああ、もう、と声を荒げ、皿を持ったまま、どすどすと足を鳴らして部屋に隅に行き、空いている手で袋を拾い上げた。
そしてまた足音を立てながらエミヤの前に戻ってきて、ずい、とそれを差し出した。
エミヤはその袋を恐る恐る受け取り、中を見る。
そこに入っていたのは、食器用の洗剤だった。

「……テメェが欲しいって言ったんだろうが」

気まずそうに男が呟く。

『……そうだな。そういえば、もうすぐ食器用の洗剤がきれそうだった』

いつだったか、男に欲しいものを聞かれた時、エミヤはそう答えた。
本当に欲しいものがなくて、適当に答えたものだった。
だが、まさかそれを本当に男が用意してくるとは思わないだろう。
思わず男の顔を見返す。

「……お前が何か隠してるから、こっちも聞き出そうと色々やってたんだよ。オレが真正面から聞いても答えないだろうから、店長の名前出したりして。結果は散々だったけどよ。で、お前に絶対言わないって言われたけど、気になるもんは気になるだろ。ちょっと様子見に行こうと思ったけど、バレンタインに手ぶらも何だろうが。でも、オレが花やチョコ持ってってもお前は変に警戒するだろうし、だからちょうどいいと思ったんだよ!」

気恥ずかしさを誤魔化すように怒鳴ってくる男に、エミヤは今の状況も忘れて吹き出してしまった。
その態度に、男は怒りでさらに顔を赤くする。

「何笑ってんだ!元はテメェが言ったことだろ!責任とりやがれ!」
「す、すまない、まさか、本当に買ってくるとは……!」
「仕方ねぇだろ!こっちだって必死だったんだ!……それでこの部屋に来たら、お前は魔力不足でぶっ倒れているしよ」

もう散々だった、と、男の勢いが不意に弱まった。

「……お前の気持ちを無視して、魔力供給しようとしたのは悪かった。だが、あのままだとお前は消えてたかもしれねぇんだ。放ってはおけなかった。ああ、一応言っておくが、口からしか魔力供給してねぇからな。寝てる奴を襲う趣味はねぇし。まぁ、だからこんなに時間がかかっちまったんだが。……で、お前を寝かせた後、冷静になろうと思って、風呂場で水を被ってたら流石に腹が減ってよ。なんかないかと冷蔵庫あけたら、あのチョコレート見つけて。……別にはじめは勝手に食おうなんざ思ってなかった。ただ、起きてきたお前に食うなって言われて、ああ、これは誰かにやる為に作ったのに渡せなかったんだなって思うと無性に腹が立って。オレが散々欲しかったものを諦めさせたやつがいるのかと思うと苛々して、全部オレのものにしたくなった。オレだって」

ずっとお前に惚れていたんだ。
その言葉に、エミヤは目を見開いた。
驚きのあまり言葉を失っているエミヤの頬に、チョコレートで汚れた男の指が伸ばされる。
触れたら、きっとエミヤの頬にもチョコレートが付いてしまうだろう。
だが、そんなことは気にならなかった。

「なぁ、アーチャー」

しっとりとした男の声に、腹の奥に押し込めていたものがぶわりと膨れ上がり、あっという間にエミヤを包み込む。
それに突き動かされるように、エミヤは己の頬に触れようとしていた男の手を咄嗟に握った。
そして口を開く。

「とりあえず、このメーカーの洗剤は油落ちが良くない。店が空いたら、今私が使っているものと同じものを買ってきて欲しい」
「……おい、テメェ。それは今言うことか?」
「その間に、私は君の口に合うチョコレートを作っておこう」

エミヤの言葉に、男がきょとりと目を瞬かせる。

「もともと、昨日は君にウィスキーボンボンを作ろうと思っていたんだ。君と酒が飲めなかったから、その詫びも兼ねて。……あの甘いチョコレートは、ウィスキーボンボンの中に一個だけ紛れ込ませようと思っていた。だって、まさか本命に渡すチョコレートに、そんな悪戯を仕込むなんて誰も思わないだろう?」

ぽかんとする男を置いて、でも、とエミヤは呆れるように口の端を上げて笑う。

「そんな小細工をせず、本命だと素直に渡してもよかったのか」

本命だと渡しても、この男はエミヤを受け止めてくれたのか。
ぽろりともれたエミヤの本音に、男の目がきゅうと開かれる。

「まさか、お前が惚れた相手って」
「とにかく、一度仕切り直しをする必要がある。私はきちんと君の口に合うチョコレートを作り、君は洗剤を買い直してくる」
「いや、ちょっと待て。それならオレも洗剤じゃなくて花とか贈りたいんだが」
「とりあえず今日のところは洗剤でいい。それ以外は受け取らない」
「ええぇ」

ランサーは不満そうだ。
だが今、洗剤以上のものを贈られてもエミヤの心がもたないのだ。だから、そこは我慢して欲しい。
エミヤは胸の内でこっそりそう呟く。

「あー……、なぁ、アーチャー。一応確認なんだが、お前もオレに惚れてたってことでいいんだよな?」
「……いちいち言葉で言わなければわからないとは、ケルトの英雄も随分と勘が鈍くなったようだな」
「オッケー、わかった。それで十分だ」

そう言った後、男は少し照れ臭そうに笑った。
その珍しい表情にエミヤは戸惑う。どうしていいかわからなくなり、握っていた男の手を離し、代わりに男が持っていた皿を勢いよく奪った。
皿の上に積み重なるようにあったチョコレートも、今や残っているのは2つだけ。
どうやらほとんど男に食べられてしまったようだ。

「あっ、何しやがる!」
「仕切り直しと言っただろう。これはもう食べなくていい」
「でも、それもオレ用のチョコだったんだろ?なら食ってもいいじゃねぇか」
「駄目だ」

ツンと顔を背けたエミヤを男はしばらく不満そうに睨んでいたが、突然、あ、と思い出したように声を上げた。

「……どうした?ランサー」
「仕切り直しなら、これも仕切り直しとこうぜ」

そう言って男は一歩大きくエミヤに近付き、そのままエミヤに口付けた。
突然のことに目を白黒させているエミヤを置いて、男はエミヤの後頭部に手を回し、ぐい、とさらに唇を押し付ける。
いきなり口を塞がれ、苦しくなったエミヤが文句を言おうと口を開ければ、その隙に男の舌が割り込んできてエミヤの口内をみっちりと埋める。
思わず舌で押し返そうとすれば、するりと舌を擦り合わされた。
ほのかに甘い味がする。
エミヤの作ったチョコレートのものだ。
自分の想いを捨てるために作ったチョコレート。
それがまさかこんなことになるとは、数時間前のエミヤには想像もできなかった。

「……これは魔力供給じゃないからな」

口を離し、エミヤに鼻を擦り寄せたまま、男がボソリと呟く。

「わかっているとも」
「ならよし」

男はにっと笑って、エミヤの持つ皿の上に残っていたボンボンショコラを掴んだ。
エミヤがそれを咎める前に、2つともあっという間に男の口に放り込まれる。

「ランサー!」
「全部オレのだって言っただろうが。じゃあ、またな、アーチャー。花と洗剤買って、また昼頃来る!」
「花はいらんと言っただろう!」
「じゃあなんか買ってくるわ。楽しみに待っとけよ、ダーリン」

そう言ってランサーは手早く上着を着てダウンジャケットを掴み、軽やかな足取りで出て行った。
残されたエミヤは。

「全く、あの男は……。本当に……」

呆れたように呟きながら、己の顔に手を当てる。
そこは想像以上の熱を持っていて。
赤く染まった顔を誰にも見られないように、エミヤは顔を伏せる。
多分、自分はとんでもなく緩んだ顔をしているだろう。
わかっていても、どうしても口の端が上がってしまう。
とりあえず、男と次に会う前にこの顔だけは何とかしなくてはいけない。

だから、あと少しだけ。
そう言い訳をしながら、エミヤはひとり、甘やかな夢のような時間を振り返り、ゆるりと笑うのだった。


終わり


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甘いボンボンショコラは、ブリガデイロというブラジルのチョコレート菓子をイメージしてます。
作って食べたのですが、練乳を200g使ってるだけあって、美味しかったけど、とっても甘かったです。

Comments

  • わんわんお
    January 20, 2025
  • あかお
    March 31, 2022
  • fraidycat
    March 12, 2021
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