二宮清純レポート 中日ドラゴンズ・捕手谷繁元信 落合博満前監督から学んだこと

 落合博満が中日の監督に就任した8年前、男はすでに球界随一と評される捕手だった。落合が「名将」と称えられ出した時、男は「名捕手」と呼ばれはじめた。41歳、谷繁はまだ進化の途上にある。

「なんだ、この人?」

これまでの現役生活23年間で、仕えた指揮官は10人。11人目のボス、高木守道新監督のもとで、「今季こそ日本一を奪う」

 '04年から8年間にわたって中日ドラゴンズの指揮を執り、4度のリーグ優勝に導いた落合博満はユニホームを着ている間、選手個々の評価を頑なに拒み続けた。選手への配慮に加え、チームの機密が漏れることへの警戒もあったのだろう。

 その落合が珍しく固有名詞を口にしたのが退任記者会見の席だった。

〈「一番変わったのは谷繁(元信)かもしれません。FAで来て、よそでレギュラー捕手だったわけですが、彼にも甘いことは一切言わなかった。彼が指導者になったとき、今まで経験したことをやってくれれば、いい指導者になると思います」〉(東京中日スポーツ'11年11月23日付)

 落合中日の4度のリーグ制覇を語る上で谷繁を抜きにすることはできない。主戦キャッチャーとして彼は守りの要の役割を担い、リーグ随一と呼ばれる投手陣を牽引した。

 参考までにリーグ優勝を果たしたシーズンの中日の防御率を見てみよう。

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 '04年3・86、リーグ1位
'06年3・10、リーグ1位
'10年3・29、リーグ1位
'11年2・46、リーグ1位

二宮清純氏

 三冠王を3度も獲得した大打者が"守りのチーム"をつくったのは奇異に映るが、現役時代から落合は守りを重視する野球の優位性を主張していた。

〈勝負ごとは、勝たなければ意味がないという原則にあてはめると、打ち勝つ野球には、限界があると思う。つまり、長いペナントレースを戦い抜くことができない、優勝は難しいということである。

 仮に、私が監督になったら、点をやらない野球を目指す。守りで攻撃するチームづくりに取り組むだろう〉(自著『勝負の方程式』小学館)

 守りの野球を目指すのなら、一にも二にも、まずはキャッチャーだ。無愛想な落合が唯一、気を許す野球人といわれる知将・野村克也は「名捕手あるところに覇権あり」と断言してはばからない。

「守っているときは監督は試合に参加することができない。だからキャッチャーは守りにおける監督の分身なんです」

 中日の監督に就任するにあたり、落合が谷繁をチームの軸として考えていたことは想像に難くない。だが谷繁への対応は驚くほど冷淡だった。

「今のエースキャッチャーは谷繁だけど競争だ。ケツに火がボウボウとついているよ」

 落合は敢えて挑発的な口調で、そう言い放ったのである。

「なんだ、この人?」

 それが谷繁が最初に抱いた率直な感想だった。

「確か落合さんのコメントは新聞を通じて知ったんです。"余裕ぶっこいていいのかよ"というような言葉でした。

 しかもキャンプ初日からいきなり紅白戦をやると言う。若手もベテランも全員が横一線だと。"よし、じゃあ、やってやろうじゃないか!"。そんな気にさせてくれたものです」

それとなく意識させる

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 前代未聞のキャンプ初日の紅白戦。いったい、落合の狙いはどこにあったのか。昨年11月に上梓した自著『采配』(ダイヤモンド社)で落合は、こう述べている。

〈何か監督からの指導があるわけでもなく、いきなり紅白戦? 選手は色々なことを考えただろう。本当にキャンプで初日から紅白戦をやるのか。ただの脅しではないのか。初日から紅白戦をこなすためには何をすればいいのだろう。紅白戦の結果によって選手を振り分けるのだろうか。

 私としてみれば、「新監督の謎めいたメッセージ」によって、選手たちが12月から1月の2か月間、常に野球のことを考え、自分なりに準備に取り組んでくれればよかった。

 何を隠そう、それが誰からも押しつけられたのでなく、自分自身で自分の野球(仕事)を考える第一歩だからだ。

 監督になって宣言したことは、「目立った戦力補強はせず、選手一人ひとりの実力を10~15%アップさせて日本一になる」ということだった。

 まずは考えの部分から、実力アップを目論んだのである〉

 言われてみれば確かにそのとおり。キャンプインしたその日に試合となれば、早くから体をつくっておかなければならない。それこそ正月を返上するくらいの意気込みが求められる。選手に危機感を抱かせるには最良の方法だ。

 指揮官のこうした意図に谷繁が気付いたのはキャンプが始まってからだった。

「この年のキャンプ、実はものすごく楽だったんです。というのも、これまでのキャンプは徐々に体をつくっていき、オープン戦に出られるように仕上げていくやり方をしていた。

 ところが、この年は1ヵ月も前倒しして体をつくったものだから、キャンプ中、一度もしんどいと思ったことがなかった。おかげで疲れをとりながら練習することができました」

 落合の狙いはズバリ的中した。慣行とは思考停止の産物に過ぎないものであると、落合は寒風の中での紅白戦を通じて証明してみせたのである。

〈この年、幸いにもリーグ優勝を果たしたことにより、選手たちには自信といい緊張感が生まれた。

「あの監督なら、またキャンプ初日に紅白戦をやると言い出しかねない」

 選手たちは私が何も言わなくても、自分たちの頭でそう考える。

 すると、2年目以降も選手たちは1年目と同じようにコンディションを仕上げてくるので、ドラゴンズは毎年2月1日から臨戦態勢を整えた上で春季キャンプをスタートすることができた〉(同前)

 谷繁にとって、落合とはいかなる人物だったのか。

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「ウ~ン、僕たちにとっては考えさせられる監督かな。なんか、わざと考えさせているようなところがあるんですよ。"オマエら、自分で気がついて、自分でやっていかないとプロの世界ではメシが食えんぞ"と言いたいんだろうけど、口では言わない。それとなく、そうしたことを意識させようとしていたのかもしれませんね」

 そして、続けた。

「(2月1日の紅白戦に合わせて)調整して以来、今は12月の第1週くらいから練習を始めないと落ち着かないんです。また、そうしないと間に合わない。おかげでいい習慣が身に付きましたよ」

「野球をやめます」

 谷繁は中国山地の山あいにある広島県比婆郡東城町(現・庄原市)の生まれである。阪神ファンの父の影響で物心ついた頃からキャッチボールを始めた。

 広島市内には2つの公立工業高校がある。広島県立工高と広島市立工高だ。野球が強いのは前者で地元の人々は親しみを込めてケンコーと呼ぶ。

「とりあえず試験だけ受けてくれ。何か書いてくれりゃ、あとは何とかする」

 野球部の監督に誘われるまま鼻歌気分でケンコーを受験。ところが合格発表の掲示板に自分の名前はなかった。

「まぁ真に受けた僕がバカだったんでしょう。監督さんの言葉を鵜呑みにして何の準備もしないで受けちゃったんだから」

 県立高ゆえ野球部用の推薦枠もない。公務員の父親は不合格の知らせを聞いて寝込んでしまった。

「僕もショックでしたよ。まさか落ちるなんて思ってもみなかった。"こうなったら土建屋にでも就職しようかな"って。石にかじりついてでも野球をやりたいという感覚は、正直言ってあまりなかったですね」

 傷心の谷繁に助け舟を出したのはケンコーの監督だった。

「島根の高校だけど二次募集が出ているぞ」

 それが江の川高(現・石見智翠館高)だった。野球王国・広島に比べれば島根のレベルは低かった。しかし、これが谷繁には吉と出た。2年と3年の夏、2度甲子園に出場することができたのだ。

 谷繁は強肩強打の捕手として注目され、'88年秋のドラフトで横浜大洋から1位指名を受ける。与えられた背番号「1」に球団の期待の大きさが表れていた。

 同期入団に通算2425安打を放ち、現在は広島でプレーする石井琢朗がいた。こちらはドラフト外入団の雑草だった。

「こちらの被害妄想かもしれないけど、僕と谷繁とでは全く待遇が違っていました。グラウンドに出ると皆、谷繁を見つめている。僕に対しては"誰だ、こいつ?"というような視線。しかも谷繁はなぜか場慣れしている。お互いに田舎者(石井は栃木出身)のはずなのに先輩に対しても平気で口をきく。そんな姿を見てちょっとした劣等感にさいなまれたことを覚えています」

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 石井はピッチャーとして入団した。小柄ながらコントロールがよく、1年目から一軍ベンチに入り、17試合に登板した。プロ入り初勝利の際のキャッチャーが谷繁だった。

「気の強いキャッチャーでした。構えているところにボールが来ないと、思いっきり強いボールを投げ返してくるんです。同級生なのに僕はいつも怒られながら投げていました」

 肩の強さが買われ、谷繁はルーキーの年、いきなり80試合に出場した。いくらドラフト1位とはいえ、高卒1年目のキャッチャーとしては出色である。

 視界は良好、前途洋々。そんな谷繁が突然、「野球をやめます」と告げ、ロッカールームの荷物をまとめたのは入団2年目の春だった。場所は横浜スタジアム。

「オープン戦の試合前、あるコーチのノックを受けていた。ボールを捕り、普通に遠投で返していたんですが、なぜかその姿が気に入らなかったらしいんです。

 いきなり"なんだオマエ、あの態度は!"と怒鳴られ、コーチ室に連れて行かれた。そしてパーンと頬を張られた。僕は何が何だかわからない。それで頭にきて"もうやめます"と・・・」

 とりなしたのは監督の須藤豊だった。

「わかった、わかった。もう落ち着け」

 須藤は一部始終を聞いて谷繁をなだめ、その場をおさめた。事の是非はともかく、彼の一本気な性格がうかがい知れるエピソードである。

すべては「観察」から始まる

 この頃、谷繁にはありがたくないニックネームがつけられていた。

 ミスター・パンパース。ひらたく言えば"おしめ男"だ。名づけ親は須藤。未熟なリードに対する叱咤激励の意味が込められていた。

 キャッチャーとしての転機は大矢明彦との出会いである。横浜は'93年、ヤクルトで6度のダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)に輝いた名捕手をバッテリーコーチに招いた。「おむつが必要」と揶揄されたキャッチャーを大矢はどのようにして育てたのか。

「当時、セ・リーグ1のキャッチャーと呼ばれていたのがヤクルトの古田敦也。何とか、このクラスまで成長させてやりたいと思っていました。

 課題はリードでした。これを磨くには観察から始めなくてはならない。そう思って、こんなアドバイスをしました。

 たとえば球場までの車の運転。信号が赤だと、次の信号はどうなるか。また赤になる確率が高いとなれば、ひとつ手前で曲がり、赤信号にひっかからないように球場まで行ってみる。

 どうってことないと思うかもしれませんが、先を読むトレーニングはどこだってできるんです。ちょっとした工夫で予測能力がどんどん高まっていく。同時に試合の流れも読めるようになっていったんです」

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 大矢の指導の甲斐あって'93年には114試合、'94年には129試合に出場。レギュラーの座を確保した。

 しかし、谷繁には不満があった。試合の終盤になるとベンチに引っ込められてしまうのだ。クローザー佐々木主浩の信頼を得ることができなかったのである。

「そりゃ悔しかったですよ。僕が(終盤まで)ゲームをつくってきたのに、最後の最後で秋元宏作さんに代えられてしまうんですから……」

 ある日、谷繁は意を決して佐々木に訊ねた。

「なんで僕じゃダメなんですか?」

 大魔神は顔色ひとつ変えずに答えた。

「オマエよりも秋元の方がオレは安心して投げられるんだよ」

「じゃあ全部止めれば使ってくれるんですか?」

「そうだ」

 佐々木のウイニング・ショットは"魔球"と呼ばれたフォークボールである。キャッチャーがワンバウンドを止めるか、そらすか。それは佐々木にとってピッチングの生命線である。どんなボールでも身を挺して止めようとする秋元を"正妻"に選んだのは、守護神として必然だった。

 佐々木の回想---。

「谷繁は元々、キャッチングのうまいキャッチャーでした。うま過ぎるから体を使わなくても捕れるんです。だから1年目から一軍で使ってもらえた。

 しかし、それによってちょっと天狗になりかけたところがあった。それじゃダメだぞ、と僕は言いたかったんです。でもアイツ、変わりましたよ。それから、ものすごく練習するようになりましたから」

 自他ともに認める負けず嫌い。こうと決めたら、とことん突き進むのが谷繁流である。

 佐々木の信頼を勝ち取るため、連日、谷繁は泥だらけになってワンバウンドと格闘した。気がつくと100個入りのボールケース2箱がカラになっていた。

 '98年、横浜は38年ぶりのリーグ優勝、日本一を達成した。谷繁は134試合に出場し、自身初のベストナイン、ゴールデングラブ賞に輝いた。

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 当時の監督、権藤博は谷繁をこう褒めちぎる。

「アイツの感性は素晴らしかった。先乗りスコアラーがああしろ、こうしろと言ったところで、所詮、現場の感性には勝てないんです。中日の連覇もアイツ抜きには考えられませんよ」

見えるようになってきた

 73歳の権藤は今季から中日の投手コーチとして再び谷繁とタッグを組む。谷繁との"感性の激突"を誰よりも楽しみにしている。

「この前、本人に"オレはまだまだ戦い続けるからな"と言うと、"僕も戦い続けます。強くありたいですから"と言ってきました。あれほど頼りになる男はいませんよ」

 中日には現役最年長投手がいる。今年の8月で47歳になる山本昌だ。

「谷繁は終盤に強いキャッチャー」

 こんな表現を用いたのは彼が初めてである。果たして、その心は?

「彼は伏線を張るのがうまいんです。4打席目から逆算してリードをする。だから1打席目や2打席目には"え?"というサインもあるんです。しかし試合の後半になって"なるほど、そういうことだったのか"と気付かされる。ウチが終盤に強い原因は彼のリードにあると考えています」

 昨季、中日は75勝59敗10分けでセ・リーグを制したが、1点差勝利が実に33もある。先行逃げ切りは中日が最も得意とするパターンだ。中継ぎで初めてMVPに輝いた浅尾拓也、クローザーの岩瀬仁紀の活躍によるところが大だが、多士済々の投手陣を頭脳とミットで支えたのが谷繁である。4打席目から逆算してのリードは、いわば"配球の連結決算"であり、そこに谷繁は「捕手学」の醍醐味を見出したのだ。

「一昨年ぐらいからですかね、これまで見えなかったものが見えるようになってきたのは・・・。いや、感じると言った方が正しいのかな」

 謎かけのような前置きをして、谷繁は語り始めた。

「ウ~ン、うまく言葉では説明できないのですが、ゲームの流れが感じられるんです。これまでも1週間単位、10日単位でそれを感じることはあったんですが、あまり長くは続かなかった。

 それが今では年間を通して感じられるんです。ゲームの中で"うわ、ここはヤバイ"とか"今は我慢、我慢"とか"ここは行っちゃわないと"という局面が見えるんです。それは、ここ最近の大きな発見でした」

 ゲームには必ず潮目がある。それは敵と味方の間を行きつ戻りつしながら、行き場を探している。

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 41歳には、これが読めるというのだ。勝負の臨床において、経験を積んだキャッチャーほど恐ろしい人種はいないのかもしれない。

 だから彼は、こう喝破するのである。

「優勝争いは確かにキツイ。キツイなかを勝ち切れば、それまで見えなかったものが見えてくる。そんな経験ができなかった者は、かわいそうだけどプロ野球選手とは呼べないと思いますよ」

 こうした気風のいい口上も、この男の魅力のひとつである。

「週刊現代」2012年1月28日号より

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