【WEB再録】経験のない男
2018年に作った槍弓本の表題作「経験のない男」のWEB再録です。
恋愛経験0のくせに「私だって前に恋人がいたことあるし(意訳)」と槍に言ってしまい、後に引けなくなって嘘に嘘を重ねる弓と、もやもやする槍の話。
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これが初めて自分で作った本でした。
この本がなければ、その後も本を作ることはなかったと思います。
本を手に取ってくださった方、本当にありがとうございました。
誤字があったり、表紙が微妙にずれていたり、今見たら手直ししたいところがたくさんある本でしたが、好きと言っていただけて、とても嬉しかったです。
本当に本当にありがとうございました。
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大学三年生のエミヤには、経験豊富で完璧な恋人がいる。
同い年のアイルランドからの留学生で、名前はクー・フーリン。あだ名はランサーだ。
大学一年で出会い、二年の時に距離が近付き、三年になったこの春から付き合うことになった。
彼は、ひどく美しい男だった。
背中まで伸ばされた髪は夏の空の色をしており、赤い目は高級な宝石のよう。そのしなやかな身体には男らしい筋肉が付いており、彼自身が美術館に展示されているギリシャ彫刻のようだった。
外見だけでも人目を引くのに、彼はその内面性でも多くの人を惹きつけた。
黙っていれば人外めいた冷たさがあるのに、にかっと笑って気さくに話してくれる。兄貴肌で頼り甲斐もある。そんな彼は男女問わず、多くの人間に慕われていた。
もちろん女性にもよく好かれ、彼の横にはいつも美しい女性がいた。恋人ができても長続きはしていないようだったが、それでも彼に交際を申し込む女性は後を絶たなかった。
そんな完璧な男と付き合うきっかけは、ランサーへの恋心を気付いたエミヤが、彼から距離を取ろうとしたことだった。
ランサーは、エミヤのことは一人の友人として気に入ってくれていたようで、素直ではないエミヤをなんだかんだ言いながら心配し、色々と気を遣ってくれた。
優しくされたからというわけではないが、エミヤは気付くと彼に恋をしてしまっていた。
だが、自分も彼も男だ。この気持ちはそう簡単に受け入れられるものではない。
それに何より、彼が友人として心配してくれるその優しさを、自分の醜い恋心の餌にしていることに、エミヤが耐えられなかった。それが何より、彼へのひどい裏切りに思えたのだ。
だから、エミヤは彼からこっそり離れようとした。
大学三年生にもなれば受けなくてはいけない授業が少なくなり、大学に行く機会も減る。自然に彼と会うこともなくなり、そのままそっと疎遠になる予定だった。
しかし、予想に反して、三年になってから、頻繁に彼から連絡が入るようになった。
電話で話して終わることもあれば、その後、遊びに誘われることもある。エミヤの家に突然泊まりに来たことだってあった。
疎遠になるどころか、より一層近付きだした距離に、エミヤは困惑した。
このままではいけない。
放っておけばいずれエミヤの中に巣食う恋心はもっともっと大きくなり、彼無しではいられなくなってしまう。そんなのは耐えられない。
だからエミヤは、遊びに来ていたランサーに、少し距離を取りたい、と正直に告げた。
彼を怒らせて嫌われようかとも考えたが、今まで友人として仲良くしてくれた彼に失礼な態度をとることが憚られ、結局エミヤは理由を伏せて、とにかくひとりになりたいから、しばらく連絡しないでくれと頭を下げることにした。
元はエミヤが勝手に抱いた感情のせいだ。彼が悪いわけではない。
当然、彼は納得しなかった。
何故だ、理由を言え、とエミヤに詰め寄り、さらには何かあったのかと心配までしてくれた。
その優しさをこれ以上享受することが耐えられず、エミヤは本音をぼろりと漏らした。
君を好きになってしまったんだ、と。
これは最終手段だった。本当は秘めたままでいたかったが、こうでも言わないと彼が引いてくれなさそうだったのだ。
男に思いを寄せられるなど、きっと彼は嫌がるだろう。そんな目で自分を見ていたのかと気持ち悪がられるかもしれない。
それでいい。そのほうが彼のためなのだ。
そんな諦観の念でいっぱいだったエミヤに、彼は、なら付き合うか、と言ってきた。
思わぬ提案に、エミヤはぎょっとした。
蔑まれ、縁を切られるどころか恋人になるだと。
何を言っているのかわかっているのか、とエミヤは苛立ちながら彼に問うた。
彼はわかっている、と頷いた。
即座にエミヤは、嘘だ、なら貴様は私と寝ることができるのか、と嘲笑った。
彼は、できる、と言いきった。
無理に決まっている、変な同情ならやめてくれ、と怒るエミヤに、できるっつってんだろ、証拠見せてやる、とけんか腰に言い返され、そのままエミヤはホテルに連れ込まれ、彼に抱かれた。
数時間後、ベットの上で裸のまま混乱するエミヤに、彼は、問題なかっただろ、と煙草の煙を吐き出しながら晴れ晴れとした顔で言ってきた。
この日から、エミヤとランサーは恋人同士になった。
そんな感じで始まった恋人生活だったが、どうしていいのか分からず戸惑うエミヤとは対照的に、経験の差なのか、ランサーの恋人としての振る舞いは完璧だった。
男同士付き合っていることに後ろめたさを感じているエミヤを察し、デートは映画館や美術館など、男二人で行っても違和感のないところに誘われた。食事も同じで、外で食べる時は個室のあるレストランや居酒屋が多く、エミヤは人の目を気にせずに彼と食事をすることができた。
連絡も、エミヤが束縛を感じず、また寂しくならない程度にしてくれた。
甘やかされている、とエミヤは思う。
エミヤは彼以外に異性とも同性ともお付き合いというものをしたことがなかったが、恋人として最上級の扱いを受けていることはわかった。
そんな経験豊富で完璧な恋人に自分が何を返せるのだろう、とエミヤは焦った。エミヤが自信を持って彼に差し出せるのは、せいぜい手料理くらいだった。
以前から彼に料理を振舞うことはあったが、恋人になってから、今まで以上に手の込んだものを彼に作るようにした。彼はどんなものでも嬉しそうに食べてくれた。
エミヤはそれを嬉しく思う反面、この程度のことしかできない自分を、やはり不甲斐なく思った。
これでは駄目だ。
このまま甘やかされるだけでは、自分は彼にすぐに捨てられてしまう。
これは思い込みでもなんでもない。本当のことだ。
だって、彼は出会って間もない頃、女性からの告白を断ったエミヤに言ってきたのだ。
『もったいない。とりあえず付き合ってみたらいいじゃねぇか』
『こちらが好意を持っていないのに、そんな不義理なことできるわけないだろう』
『固い奴だな。付き合っているうちに好きになるかもしれねぇだろ』
『ほう。貴様は好きでもない者に告白されても、それを受け入れるのか?』
ああ、と彼は頷いた。
『俺はその時は好きじゃなくても、付き合ってみてから考える。そんな感じから始まってもいいと思うがね』
エミヤは彼と付き合うようになってから、この会話を異様に思い出すようになった。
つまり、今のエミヤは、彼に好かれていない可能性のほうが高いのだ。
確かに彼はエミヤの言葉に頷いただけで、好きだとは言っていない。
デートはしているものの、二人で遊びに行くことも、お互いの家に行くことも、それは恋人になる前からやっていたことだ。それに抱かれはしたが、彼と寝たのはあの一度きりで、それ以降は彼とそういう行為に及んでいない。家に泊まっても寝るのは別々の布団で、何事もなく朝を迎えている。
あの時の彼の言葉を信じるならば、彼はまだエミヤのことは好きではないのだ。今は、このまま付き合っていけるかどうか見定めているのだろう。
この恋愛関係は、エミヤが彼を好きだから成り立っている。
彼がエミヤのことを好きにならなければ、彼は自分を切り捨てて次に行く。
そう思うと猛烈な悲しさと不安が、エミヤの胸で膨れ上がった。
そして、そんな不安を胸に沈めたまま、彼と付き合い出してひと月が過ぎた。
今日はランサーがエミヤの家に食事をしにきた。
大学の授業終わりに彼から食事に誘われ、外で食べてもよかったが、せっかくならとエミヤが自宅に招待したのだ。
テーブルの上には、エミヤが作った青椒肉絲に椎茸の卵のスープ、冷奴と炊きたてのご飯が置かれている。
部屋着に着替えたランサーが、目を輝かせて、それらにかぶりつく。その姿を見ながら、少なくともまだ自分の食事は気に入られているのだと、エミヤは密かに安堵していた。
テレビでは最近よく見る女性タレントが過去の恋愛について語り、スタジオ内を沸かせている。
それをちらりと見たランサーが、不意に口を開いた。
「そういや、お前。前の恋人の物とかどうしてんの?」
「は?前の、とは?」
エミヤはランサー以外に付き合った人物はいない。ランサーが初めての恋人だった。
きょとんとするエミヤに、話を聞いていなかったのかと勘違いしたランサーがもう一度聞いてきた。
「お前も、俺の前に付き合った奴とかいるんだろ?なんか前にそんなこと言ってたじゃねぇか。で、そいつの物とかとってあんのかって聞いたんだよ」
言われて、そういえば、と、エミヤは半年くらい前のことを思い出す。
確か大学の食堂で友人数人と話している時に、過去の恋愛遍歴の話になったのだ。
話の中心はもちろんランサーだったが、エミヤにもその話を振られた。
エミヤは今まで恋人がいたことはない。何度か告白はされたが、こちらが好意を持っていない状態で告白を受けることができず、全て断ってきた。
だが、なんとなく友人達の前でそれを言うことは憚られた。
だから、高校時代にひとりだけ、と小さな見栄を張った。
エミヤの地元はここから遠く離れているし、同じ高校からこの大学に入った者もいない。バレることもない、本当に些細な嘘だった。
それ以上聞かれなかったし、エミヤもそう言ったことを、今の今まで忘れていた。
思い出して、エミヤの背筋がざぁっと寒くなる。
言った。確かにそんなことを言った記憶がある。
ちらりとランサーの顔を見る。
おそらく彼は、たとえエミヤが今まで人と付き合ったことがなくても、それを笑ったりはしないだろう。
だが、そんなつまらない見栄を張ったことを、この男はどう思うのだろうか。そんな器の小さい奴だったのかと落胆しないだろうか。
そうなったら、エミヤは間違いなく彼に捨てられてしまう。
それだけは嫌だった。
恋人としての彼は優しかった。彼なりに大事にしてくれていることは、鈍感と言われるエミヤでもよくわかった。
それにより、エミヤの恋心は満たされるどころか、より貪欲に彼を求めるようになってしまっていた。だから、まだ捨てられたくなかった。もう少しだけ、彼の側に居たかった。
エミヤは内なる動揺を必死に押し込めて、少し考えたふりをして答えた。
「……特に何も意識していなかったが、それがどうした?ランサー」
「いや、前に付き合った奴に、今までの恋人の物、全部処分しろって言われたことがあってよ。お前がもし気にするなら捨てようかと思ったんだが」
ランサーの答えに、エミヤはふむ、と頷いた。
「まぁ、確かに二人で撮った写真などが目に入れば気になるが、捨てろというほどのことではない。なんだ、その、良識の範囲で考えてくれれば、それでいい」
「ふーん。わかった」
納得したようにランサーの視線はテーブルの上の料理に向けられた。
彼の視線が外れ、エミヤはホッと胸を撫で下ろした。
「そいつにも、こういうふうに料理を作ってやったのか?」
安心したところに問いかけられ、エミヤはすんでのところ跳ねそうになる体を押しとどめた。
彼は箸をくわえたまま、挙動不審になっているエミヤを不思議そうに眺めている。
「そいつ、とは、私の前の恋人のことか?」
「あぁ」
頷くランサーに不自然にならない程度に目線を外し、エミヤはもしも高校時代に恋人がいたらどうしていたかを必死に考えた。
あの頃はまだ実家にいたが、料理は一通りしていたから、人に振る舞える程度のものは作れていたはず。だが、恋人と家族がエミヤの実家で一緒に食事している姿がうまく想像できず、エミヤはランサーの問いに首を振った。
「いや、高校の頃は互いに実家に住んでいたから、こういう風に料理を振る舞ったことはない」
「本当かぁ?てめぇのことだから、そいつに弁当とか作ってたんじゃねぇの?」
疑うように言われてエミヤは戸惑った。
彼がそう思っているのならば、ここは肯定したほうが自然なのかもしれない。
「……まぁ、弁当くらいは」
「やっぱりなぁ。だと思ったぜ」
エミヤの答えに満足したのか、ランサーは大皿にのっていたピーマンと豚肉をとり、口に含む。
対するエミヤの背中には冷や汗が伝っていた。
「高校時代からこんな美味いものが食べられたとは、お前の前の恋人も幸せモンだな」
「そ、そうか?そうだといいんだが……」
言い淀みながら、エミヤは早くこの話題が終わることを必死に願った。
しかし、無情にもランサーはエミヤの前の恋人とやらに興味を持ったらしく、いろいろと尋ねてくる。
「一緒に弁当食べたりしたのか?」
「あ、あぁ」
「へぇ。仲が良かったんだな」
「まぁ、付き合っていたのだから、仲はいいに決まっているだろう」
「ふぅん。そいつってどんな奴?」
「どんな、とは?」
「なんかあるだろ。顔が良いとかスタイル良いとか。そいつのどこに惚れたんだ?」
言われて、エミヤは混乱した。そもそも存在しない人物の好きなところを挙げろというのが難しい。
あくまで思い出すふりをしながら、エミヤは必死に考えた。
そして絞り出した答えが。
「や、優しいところ……?」
いつだったかテレビで見た、恋人に求める条件ランキングの一位が『優しさ』だったのだ。ならば、それを理由にしてもおかしくはないはず。
恐る恐る彼を見ると、彼は大層つまらなそうな顔をしていた。
「なんだそれ。普通じゃねぇか」
「そ、そんなことを言われても、そうなのだから仕方ないだろう」
「ふーん、お前が惚れるほどの優しさねぇ」
彼は箸を置いて、味噌汁を一口飲む。
「あれ、そういや、前の恋人って女?男?」
「え、お、男だが……」
現に今、エミヤは男と付き合っているのだし、男と答えて問題はないだろう。逆に女と答えて、変に興味を持たれ、これ以上根掘り葉掘り聞かれては堪らない。
すると、ランサーはきょとんと目を丸くした。
「そうなのか?だってお前、処女だっただろ?」
「しょ……!」
ずばり言われて、エミヤの顔が赤くなった後に青くなる。
確かにそうなのだ。ひと月前のあの日、力づくで抱こうとする彼を止めるために、男と寝るのは初めてだからやめてくれ、と懇願した。もちろんそれでも彼は止まってくれなかったが。
苦し紛れにエミヤは言った。
「……彼とはそういう行為をしていない」
「は?マジか?」
「マジだ」
「どのくらい付き合っていたんだ?」
「……一年と、少し……」
「おいおい、よく耐えられたな!」
「じゅ、受験と被って会わなかったときもあったんだ!そ、それにあの頃は、そういうことをしなくても、そばにいられるだけでよかったから……」
苦しすぎる言い訳をしながら、もういいだろう、と、エミヤは強引に話を切った。
これ以上突っ込まれては余計なボロが出てしまう。
気まずさから目線を外し、食事に集中し始めると、彼もふぅん、と鼻を鳴らした後、味噌汁を全て飲み干して、ご馳走さん、と手を合わせた。
そのまま食器の片付けなどをしているうちに、自然と話は別のものに変わっていた。
どうやらなんとか誤魔化しきれたようだ、とエミヤはこっそり安堵の息を吐いた。
とりあえず、これで彼は過去に恋人がいたということに納得してくれた筈だ。
正直もう嘘はつきたくない。嘘に嘘を重ねてもろくな結果にならないことはエミヤにもわかる。
金輪際この話題がのぼらないことを願いながら、エミヤはランサーのためにお茶を淹れる準備をした。
しかし、そんな願いも虚しく、その後もランサーはエミヤに存在しない過去の恋人の話を聞いてきた。
話の流れは様々で、ランサーの過去の恋人の愚痴から始まることもあれば、後輩から恋の相談を受けた話から、前の恋人との馴れ初めを聞かれることもあった。
その都度、エミヤは必死に頭を悩ませ、恋人との過去をあたかもあったかのように彼に語ってみせた。
エミヤが作り上げた恋人の設定はこうだ。
出会いは高校で、二年生の夏に告白し、卒業するまでの約一年半付き合った。
デートはもっぱら近所の公園か図書館で、たまに二人で映画に出かけるくらい。彼はエミヤの作った弁当が好きで、昼ごはんによく強請られ、作ってきた日は二人でこっそり隠れて食べた。
初めての喧嘩は付き合って三ヶ月経った頃で、彼と仲の良かった女子にエミヤが嫉妬したことがきっかけで起こり、その仲直りをして恋人の部屋で唇を重ねたのが初めてのキスになった。ちなみに体の関係はなし。
嘘をつくのは非常に胸が苦しくなる。その相手が好きな人ならなおさらのこと。
だが、エミヤはこのことに関しては嘘をつくことをやめられなかった。
彼につまらない見栄を張る男だと思われたくなかった。彼に落胆されたくなかった。
ただ、その一心でエミヤは嘘を重ねていった。
そして、ランサーに前の恋人と別れた原因を聞かれたのは、映画帰りに立ち寄ったカフェでのことだった。
その日に観た映画が悲恋ものだったこともあり、恋人とどういう別れをしてきたかの話になった。ランサーに問われ、エミヤはまた、しどろもどろになりながら嘘の原因を答えた。
それは、高校三年になって彼が北海道で獣医学を学ぶことを選び、泣く泣くエミヤと別れる道を選んだ、というものだった。
ちなみにこの獣医学どうこうというのは、エミヤが最近読んだ小説の設定そのままだ。小説の中では、その後彼は行方不明になり、東京に残された彼女が彼の行方を追って北海道に向かい、殺人事件に巻き込まれるのだ。
すると、コーヒーを飲んでいた彼が片眉を上げた。
「じゃあ、別に嫌いになって別れたわけじゃねぇのか?」
「……まぁ、そうなるな」
エミヤは早くこの話題を終わることだけを願いながら、コーヒーカップに口をつけた。
「引きずったりしなかったのか?」
「彼のことをか?……まぁ、当時は未練がなかったといえば嘘になるが」
今言っていること自体全て嘘だが、とひっそり自嘲しながら答える。
「だが、まぁ、私は彼の邪魔をしたいわけではない。そっちに行きたいというのならば、送り出してやるのが、恋人としての勤めだろう」
「ふぅん、物分かりがいいんだな」
「そうか?」
「そうだぜ。俺が付き合ってきた奴らの中では、トップクラスの物分かりの良さだな」
「馬鹿にしてるのか?」
「まさか。褒めてるんだぜ」
口を歪めた彼が、かちゃり、とカップを置いた。
「君も、別れる時はあっさりしてそうだな」
「そうか?そう見えるか?」
「あぁ」
きっと彼は、こんな自分をあっさりと切り捨て、また別の恋人のところに行くにだろう。彼にふさわしい、美しい恋人の元に。
こんなつまらない見栄で嘘をつき続けるエミヤを捨てて。
表情が暗くなったエミヤに、ランサーは少し考えたような間の後、切り替えるように笑顔を浮かべた。
「なぁ、アーチャー。もうすぐ夏休みだろ?どこか旅行に行こうぜ」
アーチャーというのはエミヤのあだ名だ。気に入っているのか、ランサーはよくエミヤをその名で呼ぶ。
突然の誘いに、エミヤは目を瞬かせた。
「旅行?君と二人でか?」
「ああ。どこがいい?何がしたい?」
「急に言われても……」
まさかの提案に、エミヤは口ごもってしまった。
「その、あまり人と遠出をしたことがないのだ。だから、迷惑をかけてしまうかもしれない」
「なんだよ、お前。俺と出かけたくねぇの?」
「そんなことはない!」
不機嫌そうに眉をひそめた彼に、慌てて言い訳する。
「君と居られたら、どこででも嬉しいに決まっている。旅行に行って、君と四六時中居られるなんて夢のようだ。だが、その、不慣れで迷惑をかけることが申し訳なくて……」
ぼそぼそと言葉を続けながら顔を上げると、彼は驚いたような顔をしていた。頬も少し赤い。
「な、なんだ?」
「いや、別に」
なんでもねぇよ、と口元を隠しながら彼が答えた。
「そんな今更、迷惑とか気にすんなよ。じゃあ、行き先は俺が決めるから、細かいことはまた相談させてくれ」
「え、あ、あぁ」
「どうすっかなぁ。兄貴から車借りて、近場の温泉でも行くか?でも、夏に温泉って変か?」
「いや、変ではないと思うが……」
「そっか。プール付きのホテルとかでもいいな。まぁ、値段見てからだな」
楽しみだ、と急に上機嫌になって計画を練り出したランサーに、エミヤは首を傾げた。
しかしまぁ、彼が嬉しいのならエミヤも嬉しい。
彼の子どものような笑顔を眺めながら、夏に行けるかもしれない旅行について、エミヤも想いを馳せた。
彼と付き合いだして三ヶ月が過ぎ、季節はあっという間に夏に変わった。
大学が夏休みに入り、そして、ついに彼と旅行に行く日が来た。
行き先はいろいろ相談した結果、首都圏から少し離れた温泉地になった。
「海とかじゃなくていいのか?」
「人が寄ってくるから嫌だ。鬱陶しいじゃねぇか」
行きの車の中で、彼は苦々しく呟いた。
確かに彼ほどの容姿の男が海にいれば、みんなお近づきになろうと声をかけてくるのだろう。人目を引くというのも大変なのかもしれない。
「このあたりは美術館もたくさんあるから飽きねぇだろ。それに、泊まる予定のホテル、料理も有名らしくてよ。コンソメスープだったか?お前、料理好きだし、そういうの興味あるかと思って」
こういう気遣いをさらりとできるあたりが、この男がモテる要因のひとつなのかもしれない。
彼が兄から借りたという車の中はゆったりとして広く、高級感があり、車に詳しくないエミヤでも、一目で良い車だということがわかった。
分不相応な扱いを受けながら、エミヤは車窓から見える美しい深緑の木々をぼんやりと眺めていた。
旅行中も彼は完璧だった。
あらかじめエミヤが好きそうな美術館を調べてあったようで、まずはそのいくつかを彼と見て回った。そしてホテルに向かい、荷物を置いた後、ホテル内を散策した。
建物にはところどころ古さが残っているが、それが逆にこの建物の魅力を引き立たせており、エミヤはすっかりこのホテルを気に入ってしまった。
ホテルの広い庭園を二人で眺めていると、あっという間に食事の時間になった。
レストランで向かい合って座り、見目美しい数々の料理を食べる。
評判通り、出されたコンソメスープは絶品だった。サーブしてくれた女性におかわりを言いたくなるほどの味で、おそらく、それが表情にも出ていたのだろう。そんなエミヤの様子を見て、ランサーはくつくつと笑っていた。
その顔も、最高にかっこよかった。
食事を終えて部屋に戻る。
ホテルの大浴場に入ってくると言って出ていったランサーを見送り、エミヤは部屋の浴室で、ひとつの決断をした。
今日こそ、彼と寝ようと。
ランサーと付き合いだして三ヶ月。
彼から大事にされているのはわかる。だが、相変わらず性的な接触は一切なかった。
今日の部屋だって、ダブルベッドではなく、ただのツインだ。
かろうじてキスはするようになったが、それも触れ合う程度のもので、濃厚なものとは程遠い。そのせいで、エミヤの不安も膨らむ一方だった。
エミヤにだって欲はある。
好きな人ともっと近づきたい。キスもしたいし、交わりたい。愛しい人の熱を感じたい。もっと体全部で、愛されていると実感したい。
不安だからこそ、彼と体を重ねたかった。
体だけでも、彼と繋がりたかった。
だから、エミヤはランサーの誘いを断って、ひとりで部屋の風呂に入ることにした。
それは、彼に抱かれる準備をするためだ。やり方は事前にネットで調べてある。
ランサーが戻って来る前に、全て済ませておかなくては、と、エミヤは明るい浴室の中、無心で手を動かした。
下準備を全て終わらせ、備え付けの浴衣に着替えてランサーの帰りを待っていると、扉の開く音が聞こえた。
平静を装って、入ってきた彼を出迎える。
「遅かったな。大浴場のほうはどうだった?」
「あぁ、思ったよりも小さかったが、人がいなくて、のびのびできて気持ちよかったぜ。それより、これ!」
ずい、とランサーは持っていた紙袋を差し出した。
「下の売店で良い酒が売ってたんだ。一緒に飲もうぜ」
きらきらとした目で誘われ、エミヤは戸惑った。
酒が入ると勃ちにくくなるという話を聞いたことがあるし、何よりエミヤは酒にそこまで強くない。対して彼は、ザルを通り越してワクだ。
だが、せっかくの彼の誘いも断りたくはない。
窺うようにこちらを見る彼に、少し悩んだあと、エミヤはこくりと頷いた。
なに、ほどほどで止めてベッドに誘えばいいのだ。
明日も予定があるし、きっと自分が酔い潰れるまでは飲まないだろう。
了承したエミヤに彼は安堵したようで、うきうきとした様子でグラスを並べ出した。
とろりとした液体がグラスに注がれる。
その向こうで笑う彼は美しかった。
そして次に気が付くと、エミヤはベッドの上にいた。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。
カーテンの向こうから朝の明るい光が差し込み、部屋を照らしていた。
数秒止まった後、エミヤはガバリと跳ね起きた。
隣のベッドを見ると、ランサーが眠っていた。むにゃむにゃと寝言のようなものも聞こえてくる。
テーブルの上には、昨日飲んだと思われる酒瓶とグラスが散らばっていた。
やってしまった、とエミヤはベッドの上で頭を抱えた。
「いやぁ、飯も美味いし、景色もきれいで、いい旅だったなぁ」
「… …あぁ、本当にな」
上機嫌で運転するランサーの隣で、エミヤは落ち込んでいた。
入念に調べて下準備までして気合を入れていたのに、そのチャンスを自らむざむざ潰してしまったのだ。情けなくて落ち込みたくもなる。
「なんだぁ?カレーパン買えなかったのが、そんなにショックだったか?」
「いや、たしかにホテルで人気のカレーパンが売り切れだったのは悲しかったが、そういうわけではない。というか、落ち込んでなどいない」
「ふぅん、俺には気落ちしているように見えるが」
彼の目が、エミヤを問い詰めるようにぎらりと光った、ような気がした。
なんとなく後ろめたくなり、エミヤは彼から目をそらし、外の景色を見る。
彼は楽しんでいるのだ。自分のことで、彼の気分を害したくはない。
「……いや、昨日、久しぶりに君と飲んだのだが、酒の味も話したことも、きれいさっぱり覚えてなくてね。せっかくの機会だったのに、残念だと思ったのだ」
本当、せっかくの機会だったのに。
声に出さずに胸の奥でこぼす。
彼からの返事はない。
ちらりと彼の方を向くと、彼は真剣な眼差しで前を向いていた。
彼は運転中だ。よそ見をしていては危ない。
「アーチャー」
彼の口が、言い淀むように開かれた。
「ん?なんだ?」
「……いや。せっかく美味い酒だったのに、残念だな。また今度飲もうぜ!昨日は疲れてるようだったから寝かしてやったが、次は寝ても、ちゃんと起こしてやるから」
何かを飲み込んで、にっと笑いながら、彼が言う。
それは気遣いに溢れた優しい言葉だった。
◇
「いやぁ、俺の弟が玉無しだったとは知らなかったわ」
「ふざけんな。殺すぞ、キャスター」
「お前こそ、車貸してやったお兄様にその口の利き方はねぇんじゃねぇの?」
自分とそっくりな顔に、ん?と見下ろされ、ランサーは舌打ちをした。
フリーライターをやっている兄の部屋はマンションの角部屋で、ランサーの部屋よりもはるかに広い。前に、ライターというのはそんなに収入がいいのかと聞くと、まぁ、俺の腕のおかげだな、とニヤリと笑われたことを思い出した。
せめて何か車の礼を、とエミヤが言うので、帰りに一緒に買った箱詰めのお菓子と酒をテーブルの上に置き、ランサーはがたりと椅子に腰掛けた。
その向かいにキャスターが座る。
「だって、一緒の部屋にいながら何もしねぇとか爺じゃねぇか」
「うっせぇなぁ。ああ、もう、てめぇに話すんじゃなかったぜ」
ランサーが兄のキャスターに車を借りに行った時、キャスターは愛車を貸す代わりに、弟の恋愛話を聞かせろと言ってきたのだ。
珍しく長続きしている弟の恋の相手に興味を持ったのだろう。
相手に会わないことを条件に、ランサーは名前を伏せてエミヤのことをキャスターに話した。
もしかしたら、ランサー自身も自分の中に溜め込んでいたものを吐き出したかったのかもしれない。
話を聞いたキャスターは目を丸くした後、 『え、馬鹿なんじゃねぇの?』 と言ってきた。
ランサー自身も本当にそう思う。
まさか付き合ってから三ヶ月、恋人の前の男に張り合って、ずっと禁欲しているなど。
今までのランサーの恋愛は、相手から告白されて始まるものばかりだった。
好きと告げられ、自分も好きになれるかもと思って付き合い始めるが、やはりランサーの気持ちが盛り上がることはなく、気付けば相手は去っていった。
ランサーはランサーなりに、いつも相手に誠実に向き合おうとした。
だが、自分じゃあなたにふさわしくないとか、もっと普通の人と付き合う、とか勝手なことを言われ、ランサーの恋は恋になる前に終わることが多かった。
そんなランサーにとって、エミヤからの告白は予想外だった。
今まで友人として仲良くやっていたのに、急に距離を取ろうとし出したエミヤに気付き、そんなことはさせるかとムキになって追っていたら、まさか好きだと言われた。
ランサーはエミヤに恋をしてはいなかった。 だが、エミヤという人間は好いていた。
ここで断れば、おそらくエミヤは自分の前から消えてしまう。
それを惜しいと思えるほど、ランサーはエミヤのことを気に入っていた。
だから、売り言葉に買い言葉で、気付けばエミヤを抱いていた。
もちろん男を抱いたことなど一度もない。方法だけはなんとなく知っていたため、行為に困ることはなかったが、まさか自分がバイだとも思っていなかった。
とにかく、あの時はあの男を自分の手元に繋ぎ止めておくことに必死だった。
そうして半ば強引にランサーはエミヤと恋人になった
そんな始まりだったせいか、恋人になってからも、エミヤはずっと戸惑っていた。
自分なんかでいいのか、と常に顔に書いてあった。
そんなエミヤを少しでも安心させたくて、ランサーは出来る限りエミヤを大事にした。
この男は、気を抜くとあっという間に逃げ出してしまう。その前に、自分の側がいかに居心地がいいのかを教え込んでおきたかった。
ランサーが、ひとりの人間にこんなにも執着したのは初めてのことだった。
そして、この執着が恋慕だということに気付くのに、そう時間はかからなかった。
これが恋か。恋というものか。
初めて目覚めた想いに胸が高鳴り、その相手であるエミヤを大事にしていこうと思っていた矢先、あいつの前の恋人の話を聞いた。
その話をした時、いつもは落ち着いているエミヤが明らかに動揺した。
なんとなくそれが引っかかって、いろいろ話を聞くうちに、前の恋人が男だということがわかった。
ランサーは、てっきり前の恋人は女だと思っていた。
なぜならエミヤを抱いた時、エミヤが男と寝たことなどない、そんなところに入らない、と涙ながらに言っていたからだ。
本人は止めるつもりで言っていたようだが、完全なる逆効果で、それに煽られたランサーはそのままエミヤを抱いた。
きっと自分は、エミヤの前の恋人は女であってほしかったのだろう。
ランサーにも女の良さははわかる。
愛されるために作られた柔らかな体。甘い匂い。可愛らしい声。どれもこれも男の自分にはないものだ。あれに本能的に惹かれるのもわかる。
しかし、エミヤの相手は男だった。
柔らかさもない、いい匂いもしない、自分と同じ男。
それだけでも気に食わないのに、前の恋人にはエミヤの方から告白し、さらには一年以上、プラトニックな関係のまま、恋人であり続けたらしい。
あの性欲が溢れんばかりに高まっている十代で純愛を貫いていたなど、ランサーには信じられなかった。
だが、エミヤの「そばにいられるだけでよかった」という言葉を聞いた時、もしかしたら、エミヤはそういう付き合いを望んでいるのだろうか、と思った。
ランサーの今までの恋愛は、付き合えばすぐに体の関係も持っていた。相手もそれを望んでいたし、ランサーも女を抱くのは嫌ではなかった。
しかし、エミヤと付き合いだして、ひと月。ランサーはエミヤに触れていない。
それは、勢いで一度は抱いてしまったものの、後日辛そうに歩くエミヤを見て、少し反省をしたからだ。
受け手には負担をかける行為でもあるし、ましてやエミヤにその経験はなかった。
自分は欲に負け、好きな相手に酷いことをしたのだ、とランサーは痛感した。
だから、ひと月ほど間を空けて、エミヤの方がいいと言ってくれるなら、次は優しく抱こうと、そう決めていた。
だが、一年もの間、体の関係なしに付き合っていた話を聞いて、そもそもエミヤは恋人にそういう行為を望んでいないのではないか、と思ったのだ。
しかも、ランサーは初めての行為をだいぶ強引にやってしまった。もしかしたら嫌な記憶になっているかもしれない。
現にこのひと月、エミヤの方からも、そういう行為を匂わせることはなかったし、泊まりに行けば、当たり前のように客用の布団を敷かれた。
一度強引に事を運んでしまったから、一緒に寝るのがもしかしたら怖いのだろうか。
あの男はそんなことは一言も言わないし、そんな素振りも見せない。
あいつは隠し事だけは馬鹿みたいに上手いのだ。今までの付き合いで、嫌という程それはわかっている。体調の悪さも、エミヤの身に起こった嫌なことも、全て隠して周りに見せない。
いつもだったら無理にでもそれを暴き立てるのだが、今回ばかりは自分がやったことではあるので、それは憚られた。
たぶん今、ランサーの方から誘えば、あの男は例え怖くても嫌でも絶対に言わないだろう。
黙って体を明け渡す。そんな確信があった。
だから、エミヤが自ら望んでくるまでは、無理に手を出さないほうがいいかもしれない。
ランサーはそう考えを改めた。
唯一の不安は、自分がそれに耐えられるかどうかだ。
前回抱いた時、エミヤの体はとても魅力的だった。
男の体に勃つかどうかの懸念はあったが、嫌がるあの男を押さえつけて、首すじに歯を立てた瞬間、全ては杞憂に終わった。
潤む鋼色の目も、程よく鍛えられた筋肉も、雄らしい匂いも、パサついた髪も、何もかもがランサーを興奮させた。だからこそ、止めることができずに最後までやってしまったのだ。
正直、二度目に抱くのも心待ちにしていた。
エミヤが望むまで、自分は手を出さずにいられるだろうか。
欲に負けないでいられるだろうか。
だが、エミヤの前の恋人は、性欲が旺盛な十代の時にそれをやってのけたのだ。
ならば、自分だって負けるわけにはいかない。
そうでなくとも、ランサーはエミヤの前の男が気になってしょうがなかった。
不器用な男が初めて愛した男。 一年もの間、体を繋げずとも愛し続けた優しい男。
その男のことをランサーは色々と尋ねた。
エミヤは、話すのこそ嫌そうにしていたが、前の恋人のことを何ひとつ忘れていなかった。全てを克明に覚えていた。忘れてもいいような些細なことまで全部。
よほど相手のことが好きだったんだろう。
きっと、無理に体を開かせた自分よりも。
そのことが、余計にランサーの意地に火をつけた。
なぜその男に惚れたのか。どんな会話をしたのか。どんなデートをしたのか。 全てにおいて、自分がその男を上回りたかった。
もう一度そいつに会っても何も思わないくらい、自分に夢中にさせたかった。
その思いが一層強くなったのは、別れた原因を聞いた時だった。
嫌いになったわけではない。進路が違ったから仕方なく別れただけ。いわばエミヤはその男のために身を引いたのだ。
もしかしたら、エミヤはまだその男への想いを引きずっているかもしれない。
そんな不安がランサーの胸を、じり、と焼いた。
だから、ランサーはエミヤを旅行に誘った。 高校生ではできない、特別なことをやろうと思った。
そしてもっと自分に惚れればいい。ランサー無しではいられないくらい落ちてほしい。
だって、今のエミヤの恋人は自分なのだ。
早く、前の男のことなど忘れてしまえ。
「そこまで気に入ってンなら、なおさら抱いちまえばいいじゃねぇか」
わかんねぇなぁ、とぼやきながら、キャスターがランサーの持ってきたお菓子の箱を開け、中を物色する。
「いいじゃねぇか、別に。俺の勝手だろ」
「へぇ、いつまでお前が耐えられるのかねぇ」
にやにやと笑う兄に、ランサーは溜息を吐く。
旅行の夜だって、本当は抱きたかった。
今、一緒に風呂に入ったら絶対に襲ってしまう。だから、エミヤがひとりで風呂に入ると言ってくれて本当に助かった。
だが、部屋に帰ってきて、風呂上がりの上気した頬や、浴衣から無防備に覗いた胸元を見た時、ぐらりとランサーの欲が首をもたげた。
ランサーはそれを必死に押し込め、酒に弱いエミヤを飲ませて酔い潰した。
早く寝てくれ、自分が襲ってしまう前に。そう願いながら。
ぐたりと椅子にもたれかかって意識を飛ばしたエミヤをベッドに運ぼうとした時、ふと首元が目についた。
あぁ、そこに歯を立てたい。舌を這わせ、噛みつき、己の跡を残したい。
しかも抱き上げた時、すぅ、とエミヤの匂いを吸い込んでしまい、体温が一瞬で沸騰した。
慌ててベッドにおろし、耐えられずにトイレに駆け込んだことはエミヤには内緒だ。
自己嫌悪に苛まれながら手を洗い、部屋に戻る。
さっさと寝てしまおうと隣のベッドに入ると、静かに寝息をたてるエミヤが、小さくランサーの名を呼んだ。
その嬉しそうにほころんだ顔に、ランサーの胸がきゅう、としまった。
「ガキか」
「うっせぇぞ、キャスター」
「ふぅん。あ、そうだ。お前、まだ夏休みだろ?明後日の金曜日、空けとけよ」
「は?なんで?」
「メイヴが買い物付き合ってくれってよ」
「は?」
メイヴというのはランサーの幼馴染の女だ。
普段は母国にいるのだが、ランサー達兄弟が日本に来てからは長期休みのたびに来日し、自分の買い物に付き合わせたりしている。
いつもはランサーの弟のオルタを連れ立って好き放題しているのが、明日はオルタがバイトでどうしても予定が空けられないらしい。
「あいつがバイト?絶対嘘だろ、それ!」
「まぁ、嘘にしろ何にしろ、ずっとあいつにお守りをさせていたわけだし、オルタもそろそろ休ませてやらねぇとな。というわけで、よろしくな」
「断る。万が一あいつに見られて、変な誤解されたら嫌だ」
「一日くらい平気だろ」
「よくねぇよ!適当なこと言いやがって」
「じゃあ、ほら、最近読んで面白かった本貸してやるから、これでメイヴ頼んだ」
「いらねぇよ!寄越すなら、もっとマシなもん寄越せ!」
適当に差し出された本を机に叩きつけて、ランサーは立ち上がった。
「ちなみに逃げたらメイヴにお前の携帯教えるぞ。そっちの方が面倒なことになると思うが」
「… …っ!… …あー!わかった、一日だけだからな!」
「おー、それで十分だ。あとでメイヴが行きたい店、スマホに送っておくから」
満足そうに笑う兄に向かって舌打ちし、上げた腰を下ろす。
夏休みの、たった一日だけなら大丈夫だろう。
実際浮気ではないし、メイヴが行きそうなところとエミヤが行きそうなところは合致しないから、鉢会う可能性も少ない。
面倒なことにならなければいい、とランサーは再び溜め息を吐いた。
メイヴという人間は、「愛される女」というものを体現したような生き物である。
蠱惑的な目に、柔らかな肢体。甘い香りを振りまき、男をかしずかせる。
彼女によって骨抜きにされた男を、ランサーは何人も見てきた。
そんな彼女は、ランサー達兄弟を気に入っていた。おそらく彼女に魅了されなかったところが良かったのだろう。
「ランサーのクーちゃんとお茶できるなんて嬉しい!」
こうして、カフェのテラス席でお茶をしているだけで、周囲からいつも以上の視線を感じる。
自分ひとりの時でもある程度は感じるが、メイヴのせいでさらに増えている気がする。
「… …何もテラスで食わなくてもいいんじゃねぇの?」
「何言ってるの!みんなから見られて、最高じゃない」
うふふ、と可愛らしい笑みを浮かべる少女に、ランサーは呆れたように息を吐いた。
「それより、クーちゃん。恋人と寝てないんですって?」
「… …キャスターか?」
頷くメイヴを見て、ランサーは脳内で兄をぶん殴った。
「クーちゃん、不能になったの?」
「不能じゃねぇよ。別に俺のことはいいじゃねぇか」
「よくないわよ。ね、写真とか持ってないの?」
「ねぇよ。あっても見せるか」
「どうして?」
「お前に見せても、何もいいことないだろ」
「ひどーい。今日付き合ってくれたお礼に、協力くらいしてあげるのに」
「例えば?」
「こんな可愛い私が恋人の隣にいたら、嫉妬くらいするでしょ?焦って寝ようって思うかも」
「そういうのはやめてくれ」
「どうして?」
「……そんなふうに誘われても嬉しくない」
焦って、本当は怖いのを我慢して体を差し出されても、ランサーは素直に喜べない。
だってそれは、体で繋ぎとめなくては、ランサーが自分を捨てて他に行くと思っているからだ。ランサーの想いを信用していないことに他ならない。
前の男には、きっとそんなことを思いもしなかっただろうに。
「ふぅん」
メイヴがつまらなそうに、アイスティをストローでかき回す。
「なぁ、メイヴ」
「なぁに?クーちゃん」
「例えば目の前に惚れた奴がいて、それを抱かずに関係を保つことは可能だと思うか?」
「できるかできないかで言えば、できるんじゃないかしら?だって、相手が健康とは限らないじゃない。もしかしたら入院しているかもしれない。さすがにそういう相手を抱けないでしょう?」
それは一理ある。
そんな相手を、自らの欲望だけで組み敷けるわけがない。
それこそ、相手が好きならそんなことはできない。
「まぁ、愛があればいくらでも我慢できるんじゃないかしら」
「愛ねぇ」
「でも、抱いて全てを自分のものにしたいというのも愛よ。ひとつの愛のかたち。私はそっちの方が好みだわ」
「……あいつはどっちなんだろうなぁ」
たぶん、あの男は、相手が望むのならなんでも受け入れる。
例えランサーがエミヤを乱暴に抱いても、今のように寝なくても、別れを切り出しても。
きっとエミヤは受け入れる。簡単に受け入れてしまう。ランサーはそれが嫌だった。
自分は前の男と張り合うほどエミヤに執着しているというのに、エミヤはランサーに執着していない。
一年以上付き合った男に対してもあっさりエミヤは身を引いた。それが相手のためならば、と笑って見送った。
ならば自分は。
多分、今もし別れを告げれば、エミヤはあっさりとそれを了承するだろう。
そんなもの、ランサーのほうが耐えられない。
聞き分けの良さなどいらない。自分しかいないと言ってほしい。捨てないでと縋ってほしい。そのくらい、ランサーを強く求めてほしい。執着してほしい。自分と同じくらい、相手も自分のことを想ってほしい。
だからこそ、ランサーは前の男を越えたかった。
未だにエミヤの心に残っているであろう男を。
「クーちゃん?」
メイヴに呼びかけられて、ハッとする。少し考えこんでしまっていたらしい。
「もう、私を前にして考え事に夢中とか最低」
「はいはい、悪かった」
「ねぇ、クーちゃん。私、ちょっとムカついているの」
「だから悪かったって」
「違うわよ。私に落ちなかった男が、そんな人に振り回されているのが」
ぴり、と空気が張り詰める。
ランサーはメイヴを真正面から見た。
「……余計なことすんじゃねぇぞ」
「私は何もしないわ。何かするのはクーちゃんよ」
メイヴが笑う。
それは数々の男を虜にしてきた女にふさわしい笑みだった。
「クーちゃんって大学でも有名なのね」
「なに?」
「昨日、ちょっとお休み中の大学に行ってきたの。適当に男捕まえてクーちゃんのこと聞いたら、みんな親切に教えてくれたわ。最近、よく一緒にいる素敵な人のことも」
無言でメイヴを睨むが、彼女は愉しそうに笑うだけだった。
「あぁ、クーちゃん。その目、本当に素敵。ゾクゾクするわ」
「あいつに会ったのか?」
「会ってないわよ。でもその人の連絡先は手に入れたわ。そのアドレスに、さっき私とクーちゃんのデート写真を送ったの。彼は私のよって書いて。きっと彼は身を引くわよね。そうなった時、クーちゃんは本当に我慢できるかしら」
そんなもの、我慢できるわけがない。 がたり、とランサーは無言で立ち上がった。
机に二人分の代金を叩きつけ、店から飛び出す。
「そうそう。ぎらぎらしているクーちゃんが、一番かっこいいわ!」
後ろから、メイヴの無責任な賛美が聞こえた。
連絡するのももどかしく、ランサーはエミヤの家まで駆けていき、インターホンを連打した。
中から出てきたエミヤは、汗だくで息を切らせているランサーにひどく驚いていたが、それ以外は普通だった。
来るなら連絡しろ、食事は済ませたのか、と聞いてくる様子はいつも通りで、もしやまだメールを見ていないのか、それとも、全てメイヴの狂言だったのか、と思った。
出された水を飲んで、ひと息つく。
借りたタオルで汗に濡れた額を拭いながら、ここに来た理由を手短かに説明した。
幼馴染の女が悪戯でエミヤにメールを送ったこと、今日は買い物に付き合っただけで、相手はただの幼馴染だということ。だから見ても気にするな、と伝えた。
エミヤは、わかった、と頷いた。
そして。
「君も女性と出かけたい時もあるだろう。私のことは気にしなくていい」
ゆるりと笑って、そう言った。
それはまるで、自分がエミヤを置いて女と遊びたがっているように聞こえるものだった。
エミヤの顔を見る。
その顔に嫌味はない。 心の底からこの男はそんなことを思っているのだ。
自分が、エミヤよりも女遊びを取ると。そして、エミヤ自身も、そうなっても仕方ないと思っている。
ランサーの胸が、一瞬で怒りと悲しみで塗り潰された。
この言葉を喜ぶ男もきっといるのだろう。
なんと懐が深いのだ、やっぱり余裕のある奴はいい、と。
だが、ランサーには我慢できなかった。
ランサーはこんなに我慢して我慢して、エミヤが少しでも自分の方を向いてくれるように必死になっているというのに、当の本人はランサーが女と出かけても仕方がないと諦めているような素振りだ。
ランサーだったら、エミヤが自分の知らない誰かと出かけるなど絶対嫌だ。
事前に相談があれば多少は溜飲が下がるかもしれないが、それでも嫌なものは嫌だ。下手したら、こっそりついていくかもしれない。
それほどランサーはエミヤに執着しているというのに。
お前は気にしないのか。気にしてくれないのか。お前と付き合っている恋人のことを。
お前が好きで、お前の過去の恋人と張り合って、くだらない我慢をしている馬鹿な男のことを。
「なぁ」
気付けば声が出ていた。
「なんだ?」
「俺とお前は付き合ってるんだよな」
「……そうだが」
どうして即答しない。
それすらもランサーを苛立たせ、心を締め付けた。
きっとこの男は知らないのだ。
どんなにランサーがエミヤのことが好きか。 どんなに好きで執着してしまっているのか。
だから問うた。
「お前、俺がお前を好きなこと、わかってんのか?」
本当にポロリと出た本音だった。
わかっていたら、あんなこと言えるはずがない。さっきの発言は相手の好意を蔑ろにするものだ。 そう思っての問いだった。
エミヤの顔を見る。 その顔は。
「……は?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
そうだったのか、と言わんばかりの顔。
その顔を数秒眺めた後、ランサーの目がぎゅう、と吊り上がった。
「はあああああ?てめぇ、今までなんで俺が付き合ってると思ってたんだよ!」
反射的に胸倉を掴み、下から睨みあげると、エミヤが慌てて答えてきた。
「え、いや、あの、私が告白したから?」
「んなもん、ただのきっかけだろうが!嫌だったら三ヶ月も付き合わねぇよ!即別れるわ!」
歴代の恋人の中では、間違いなくエミヤと付き合った期間が最長だ。
そのまま怒鳴りつけると、エミヤが戸惑ったように目を泳がせる。
「いや、だが、その、君は、好きじゃなくとも告白されたら付き合うのだろう?君に好きと言われたこともない。なら、私もまだてっきり君に好かれていないのかと……」
確かに言われてみればランサーは、好きだ、と明確に口にはしていなかった。
だが、その代わり、きちんと態度で示してきたつもりだ。お前が大事だと、ランサーなりに精一杯愛してきた。
それで伝わっていなかったなら、それはランサーの力不足だ。
「……言葉足らずで悪かった。あと、無理矢理抱いて、強引に付き合いだしたことも。だが、言葉にしなくとも、俺なりに大事にしてきたつもりだ。とっくに俺はお前に惚れている」
「う、嘘だ」
「嘘じゃねぇよ」
「なら、なぜ私と寝なかったんだ?」
痛いところを突かれて、ランサーが口籠った。
だが、エミヤの表情が暗く沈むのを見て、ランサーは腹をくくることにした。
「だってお前、前の奴と寝なかったんだろ?」
「……え」
思わぬ答えのエミヤが固まった。
もしかしたら、なんと小さい奴と笑われるかもしれない。
だが、それも自分だ。
ランサーは開き直って話し出した。
「はじめに強引にやった時、しばらくお前辛そうだったし、前の奴としてなかったってんなら、お前はそもそもそういう行為は望んでないのかも、と思ったんだ。だから、お前から誘ってくるまで、俺は我慢しようと……」
ランサーの話を聞いて、エミヤは盛大に狼狽えた。
「そ、そんな……。前のことなど気にしなくても、やりたいなら別に……」
「嫌だ。だって、お前、俺が言えば嫌でも足開くだろ。そんな無理矢理はもう嫌だったんだ。それに、前の奴が一年以上耐えられたんなら、俺だってできる。俺だって、お前が好きで、お前を大事にしたいんだ」
最初は襲っちまったけど、とバツの悪そうに言うランサーを、エミヤは呆然と見ていた。
そして。
「本当にすまなかった……!」
エミヤが急に土下座をした。
突然座りこんで、額を床にこすりつけるエミヤに、ランサーが目を剥く。
「おいっ、そんなに怒っちゃいねぇよ!顔上げろって!」
「すまない……!違う、違うんだ!わ、私がくだらないことを言ってしまったばっかりに君に余計な負担を……!」
青い顔で泣きそうになりながら弁解するエミヤを、ランサーは慌ててなだめる。
「大丈夫、大丈夫だから落ち着けって!」
「いや、違う、すまない!私は自分可愛さで、君にひどい嘘をついてしまったんだ!君に嫌われて見損なわれても仕方がない……!」
「わかったから……!……ん、嘘?」
ランサーが問いかけると、エミヤはこくりと頷いてから立ち上がった。
そしてリビングに置いてあった本棚から、一冊の本を持ってきてランサーに差し出した。
それはいつだったか、キャスターがランサーに差し出してきたものだった。
「あれ、この本、流行ってんのか?兄貴も持ってたぞ」
「この本の主人公には高校の時に別れた恋人がいてな。その恋人は獣医学を学ぶために北海道に行ったのだ」
「ん?アーチャーと同じじゃねぇか」
「そうだ。……私は、そこからとったのだ」
訳がわからず、ランサーが首を傾げる。
エミヤは耐えきれない、というように全てを吐き出した。
「……前の恋人などいなかった!全て私の見栄だ!嘘をついて申し訳ない!」
言われたことが理解できず、しばらくランサーは固まった。
そして。
「……はああああああああ?」
顔をしかめるランサーに、エミヤは再び床に額をこすりつけた。
◇
「つまり、前に付き合った奴がいるっていうのが、そもそも嘘で」
「ああ」
「で、そんな見栄張ったっていうのを俺に知られたくなくて、居もしない恋人をでっち上げたと」
「……本当にすまなかった」
エミヤはランサーの足元に座り込んだまま、意気消沈したように再び謝罪した。
だが、その心は意外と晴れていた。
そもそも彼を騙して少しでも自分を大きく見せようとしたのが間違いだったのだ。
「こんなつまらない男が君の恋人ですまない。がっかりしただろう。こんな男などもう捨てるといい。……好きと言ってもらえただけで、私は満足だ」
俯いて、ぼそりと告げると、上から彼の溜め息が聞こえた。
呆れられている。それは呆れるだろうなぁと思っていると、エミヤの目の前に彼がしゃがみこんだ。がりがりと頭をかいて俯いている。
「なんでそこですぐに諦めんだよ、馬鹿野郎」
苛立たしげに言われた言葉に、弱々しく反論する。
「だって私は君を謀ったのだ。……別れを切り出されても文句は言えない」
「文句言えよ。言ってもいいに決まってんだろうが」
「良いわけないだろう。図々しいにも程がある」
「だから!もっと俺に対して図々しくなれって言ってんだ!」
がっ、と頬を掴まれ、強引に顔を上げさせられる。
真正面からぎらりと光る赤い目で見られ、気まずくなり、エミヤは思わず目をそらした。
「なぁ、なんでそんな嘘ついたんだ?」
「……」
「なぁ」
「……君に、くだらない見栄を張る男だと思われたくなかった」
「それはなんでだ?」
「……私は君に好かれていないと思っていた。だから、そんな男だと知られたら捨てられると思ったんだ」
少しの沈黙の後、掴んでいた手がそっと離れていく。
呆れたような深い溜め息が、再び聞こえてきた。
「捨てるわけねぇだろうが……」
「し、仕方ないだろう!本当にそう思ってたんだ!だいたい君のような経験豊富な人間と付き合うことは結構なプレッシャーなのだ!経験ゼロの私の身になってみろ!緊張と劣等感で日々吐きそうになるんだ!」
「こっちだって好きで経験豊富になったわけじゃねぇよ!同じ男だし、見栄張りたい気持ちくらい理解できるわ!そんな小さい見栄張ったくらいで捨てるかってんだ!」
「そんなのわからないじゃないか!」
「わかれよ!俺、ここ二ヶ月ほど余計な嫉妬で死にそうになってたんだぞ!」
「嫉妬?君が?誰に?」
「てめぇが作った架空の恋人に決まってんだろうが!」
ぎゃーぎゃーと、子どものように言い争う声が部屋に響く。
「ああもう、はっきり言いやがれ!てめぇ、俺が好きか!嫌いか!」
「しかしっ、私は嘘を……」
「うるせぇ、そんなこと、どうでもいいんだよ!それでも俺と付き合い続けたいのかだけ言え!いいか、俺がどうとか、余計なことは考えんじゃねぇぞ!お前がどう思ってるかだけ言え!」 「つ、付き合い続けたいに決まってるだろうが、たわけ!私は君が好きなんだ!」
言い切った後、一瞬部屋がしん、と静まりかえる。
ハッと冷静になり、今言ったことを反芻して、エミヤは恐る恐るランサーの顔を見る。
「……言ったな。馬鹿野郎」
安心するようにランサーが深く息を吐いた。
「ら、ランサー。いや、その……」
「んだよ。今のも嘘なのか?」
ギロリと睨まれ、エミヤが慌てて首を横に振る。
「なら、最初から全部言ってくれ。好きと言われてなくて不安だとか、前に言ったことはただの見栄だったとか。それくらい言っても嫌ったり見損なったりしねぇよ。するわけねぇだろ。好きな奴のこと、そんな簡単に嫌えねぇよ」
ランサーの目から怒気が消え、ゆるりとエミヤを見る。
「私なんかが、とか思うんじゃねぇぞ。お前だけは俺に言って良いんだからな。お前は俺の恋人なんだ。まずは俺に言え。お前が言うことなら、どんなことでも俺は聞きたい。例え本当にくだらないことでも、くだらねぇなぁって笑いたい。お前の気持ちを聞けるのなら、俺に聞かせてくれるなら、俺は嬉しい」
そろりとランサーの手が伸ばされ、床できつく握りしめていたエミヤの手に触れる。
「まぁ、気付かなかった俺も悪かった。お前、誰とも付き合ったことなかったんだもんな。どこまで甘えていいかもわかんなかったよな。ただでさえ、俺はお前に好きだときちんと伝えていなかった。戸惑うのも無理はないか」
骨ばった手がエミヤの手の甲をそろりと撫で、ぎゅ、とその手を握った。
「だから、アーチャー。次はちゃんと言ってくれ。お前がまだ俺を恋人にしてくれるというなら、次こそは言ってくれ。お前は言っていいんだ。俺が許す。だから、言ってくれよ、アーチャー」
寂しいじゃねぇか、と男は笑った。
「……言っても、いいのだろうか?」
「ああ。まずは言え。お前は基本的に隠すから、全部話すくらいに思ってたほうがちょうどいい」
「本当に?」
「ああ」
「……私じゃない奴と二人きりで出かけないでほしい」
「わかった。お前もな」
「私と出かけたがる変わり者は君しかいない」
「そうだといいがな。……他には?」
「……」
「なんでもいいぞ」
「なら」
「ん?」
「今夜、私を抱いてくれ」
「……喜んで。俺もずっと抱きたかった」
優しく背中に回された手が、離さないとでも言うかのように、きつくエミヤのシャツを握った。
◇
「まさかメイヴが手を貸すたぁ、思わなかったな」
『貸してないわよ。あんな弱気なクーちゃん、私の好きなクーちゃんじゃないわ』
電話の向こうで頰を膨らませているであろう女の顔を、キャスターは想像した。
『いくら私でも、名前も知らない人に写真とか送るわけないじゃない。というか、その人の嘘に気付いていたんなら、あなたが教えてあげたらよかったんじゃないの』
「俺はちゃんと教えようとしたぞ。あいつが聞かなかっただけだ」
『本当にぃ?どうせヒントかどうかわからないように、回りくどくやったんでしょう?』
「おいおい、ひどい言い草だな。俺も俺なりにあいつを心配していたんだって」
『嘘くさい。ま、久しぶりにランサーのクーちゃんのあんな目を見れたから良しとしてあげるわ』
「それは助かる」
フン、と電話の向こうで鼻を鳴らす音がする。
『ちゃんと乗ってあげたんだから、明日は約束通り私をエスコートしてよね』
「もちろんだ。オルタも付けてやる」
『本当?きゃー!そうと決まれば早く寝なくちゃ!おやすみ、クーちゃん!』
「はいはい、おやすみー」
ぶつん、と勢いよく通話が切れる。
「……嘘じゃねぇんだけどなぁ」
珍しくあいつが恋人に振り回されているようだったから、ちょうど仕事も空いていて暇だったし、兄として少しお節介を焼いてみただけだ。
好きな相手のために健気に禁欲するあいつなど、そう見られるものではない。
だが、弟もだいぶ鬱憤が溜まっていたようだし、珍しいものを見せてくれた礼に少し事態を動かしてやろうと、メイヴに弟の恋人のこと話した。そうしたら予想以上にメイヴが乗ってきた。それだけだ。
「さぁて、どうなったかなぁ」
キャスターは弟の様子を想像して笑みを浮かべ、大きな窓から夜空を見上げた。
◇
夜中にふと目が覚めた。
布団から体を起こし、なんとなく窓の外を眺める。
「なに見てるんだ?」
声のしたほうを向こうとすると、ぎゅ、と後ろから抱きつかれた。
素肌に、男の体温が伝わってくる。
「……ちょっと目が覚めただけだ。起こしてしまったか?」
「いや、俺も起きてた」
そう言ってこめかみに唇を落とされる。
ぬるま湯のような優しいふれあいが、なんだかくすぐったくて身をよじる。
まさか彼と、こういう風に触れ合える日が来るとは、エミヤは想像もしていなかった。
「余裕があるなら、もう一回やっていいか?」
「勘弁してくれ。さっき散々しただろう」
「俺は三ヶ月分溜まってンだよ。全然足りねぇ」
未だ満足していないような素ぶりを見せる男は、エミヤの耳をかぷりと食んでくる。
「……っ、明日の予定は?」
「なんもない。お前は?」
「私は……、食材の買い出しくらいか」
「なら俺も手伝う。だから、もっかい」
なぁ、と雄の色香がこれでもかと含まれた吐息が首の後ろにあたり、びくりと体が跳ねる。
耐え切れずに首だけで振り向くと、楽しそうな笑みを浮かべるランサーがいた。
「……正直、君はもっと淡白なのかと思っていた」
「そっちの方が好みか?」
「……いや。君なら、君が愛してくれるのならば、なんでもいい」
体の向きを変え、ランサーを正面から抱き止める。
すり、と頬を寄せると、うっすらと男の汗の匂いがした。
「なんでもはよくねぇよ。お前も気持ちいいのがいい」
「私は……、君にこうして触れられるだけで満たされるんだ。それ以上となると」
「なると?」
「……幸せすぎて、どうしたらいいのかわからなくなる」
「そうか。じゃあその幸せが当たり前になるくらい抱いてやる」
べろりと首筋に舌を這わされ、エミヤの口から甘い声が漏れた。
「そっ、それは困る」
「なぜだ?俺が離さなきゃ、それでいい話だろ」
俺無しじゃいられないとか最高じゃねぇか、とランサーは雄臭い笑みを浮かべ、がぶりと首に歯を立てる。
「ほら、難しいこと考えんな。口開けろ、口」
言われた通りに口を開けると、ずるりとランサーの舌が入ってきて口腔内を蹂躙する。
それに翻弄されながらうっすらと目を開けると、熱に浮かされるエミヤを、赤い目がじっと見ていた。
「みっ、みるなっ」
「んー?」
睨みつけてくるエミヤの唇に吸い付き、みるみる潤んでいく鋼色を堪能する。
「ああ、かわいいなぁ、アーチャー」
唇を離した男の目が、嬉しそうにどろりと溶ける。
「ふっ、ふざけたこと……!」
「ふざけてねぇよ。マジだ、マジ」
「その態度がふざけていると言ってるんだ!」
涙目なりながら怒ってくるエミヤの頭を撫で、ランサーはもう一度きつく抱き込む。
腕の中の恋人は不満気に睨んだ後、諦めたようにそれを享受した。
「本当にかわいいな、お前」
「まだ言うか!」
「何度でも言ってやるよ。お前が俺の言葉を素直に受け取るまではな」
ぎゅうと抱きしめる腕に力を込め、その髪の香りを思い切り吸い込むと、エミヤは恥ずかしそうに身をよじらせた。
そうやって愛されるのが当たり前になり、自分の愛なしに生きられなくなればいい。
この男が、そういう生き物になればいいのに。
そんなことを腹の底で思いながら、ランサーは愛しい男の頬に唇を落とし、男を蕩けさせる甘い言葉を囁くために、再び口を開いた。
おわり
ーーーーーーー
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
数年越しに見つけた誤字をそっと修正しました…。