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【士弓】Reconnect/Novel by のちこ

【士弓】Reconnect

42,677 character(s)1 hr 25 mins

Privetterにて連載していた士弓主従話を、Pixiv用に加筆・修正したものです。
UBWルートを下地にしていますが、士郎くんと凛ちゃんは恋人同士になっていません。
また、UBWルートをご存じない方には不親切な表現があったり、このルートで明かされるアーチャーの正体についてがっつり触れています。
独自設定もふんだんに盛り込んでおりますので、原作の設定を大切にしたい方もご注意ください。

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 「世界」というものは気紛れである。彼/彼女自身にとっての最重要事項は人理の存続であり、人類の営みに影響が及ばないような事柄は午睡のまどろみの中で見るひとときの夢のようなものなのだろう。生と死、安寧と混沌、喜びと悲しみ――相反するどれもが、彼/彼女にとっては六十五億の粒が吐き出す泡沫であり、平等という概念すらない。扱いが杜撰になるのも詮無きことなのだ。ましてや、日本のある都市の、ある見習い魔術師の高校生男子の身に起きたことなど。
 だから、いまのこの状況は夢か幻かの類であると、その本人――衛宮士郎が思ってしまうのは間違いとは言い切れないことではある。
「なんでさ」
 制服姿で、手には学生鞄を持ったまま自室の前に立ち尽くし、士郎は驚きのあまり自身が持っている感情をすべて取り落としたような顔で呟いた。
 春の午後の日差しは緩い角度で庭に面したガラス戸から廊下に差し込み、室内へ踏み込む勢いを削がれ、どこか所在無げな彼の足元を慰めるように温める。その、優しく心地良い陽光は少年の形を切り取って、人ひとり分開けた障子戸から部屋の中へ滑り込み、士郎の呆然とした視線と共に浅黒い肌へ注がれている。
 士郎の視線の先には、一人の男が座っていた。独り暮らしではあるが女性も出入りする家である。戸締りは十二分に気をつけているというのに、その男は当然のようにそこにいた。まるで、彼もまたこの家の住人であるかのように。
 しかし、その特徴的な肌や髪の色合いはともかく、身に着けている衣服が現代社会においてはいささか……否、かなり浮いていて、昔ながらの日本家屋然とした室内にその存在は馴染んでいなかった。だが、彼の存在した世界の話ではあるが、彼の過去を辿れば彼はここの家主で……彼は、この家の住人で「あった」。
「――どうしてお前がいるんだ、アーチャー」
 純粋な驚きを持って発せられた言葉は、やや間の抜けた響きとなって相手の耳へと届いた。嫌な音でも耳にしたように忌々しげに眉根を寄せるアーチャーからの返答は無く、伏せられた瞼が開くこともない。相変わらずの態度は数か月前に発生し、そして終焉を迎えた聖杯戦争のときと変わらず、けれど、あまりに最近の出来事すぎてそれを懐かしむ気持ちは士郎の胸には湧き起こらなかった。
 そう、聖杯戦争は終わった。喚び出された英霊は悉く座へと還り、それは、いま、頭痛持ちが日課の頭痛に悩まされているような顔をしている彼も例外ではなかったはずだ。士郎自身はその瞬間を目撃した訳ではなかったが、件の聖杯戦争の折にはアーチャーのマスターであり、そして、魔術の師でもある少女から伝え聞いていた話であった。
「おい、アーチャー、聞いてるのか」
 取り落とした感情が戻ってきたのか、士郎の声が険を帯びてきた。虹彩のくっきりとした、意志の強そうな琥珀の瞳にも小さな焔がちりちりと燻り出す。おい、と、もう一度ぞんざいに呼びかけて、それでも反応を示さないアーチャーにいよいよ我慢ならなくなり、室内に足を踏み入れようとしたときに士郎ははたと思い出した。そう言えば、この男に自分は殺されかけたのだ、と。
 瞬間、冷や水を浴びせられたように背筋に緊張が走り、士郎は警戒の色を濃くして身構えた。およそ戦闘態勢とは言えない状態のアーチャーだが、僅かでも間合いに入った瞬間に相手の身体を一刀両断など、彼の力を以てすれば息をするように容易いことだろう。
「お前、まさか――」
 急速に乾いた喉に言葉が貼りつく。咥内の唾液を掻き集めて嚥下したが、ごくり、と、いやに大きな音が身体の中に響いただけで、そこを潤すことはなかった。その音が聞こえたのだろう、ようやくアーチャーの瞼が持ち上げられ、その鈍色の瞳の中に士郎の姿を映した。
(来る――!)
 脳がそう認識すると同時に、焼けつくような痛みが士郎の身体に走った。
「ぐっ……!」
 裂傷による痛みだと頭は知覚しているのに、身体を切り裂いたであろう刃の軌跡は視認出来なかった。切り裂かれたところから体内に棲んでいる何かが外へと出ようとしているかのような、それとは逆に、何かがそこから這入ってくるかのような、奇妙な感覚に身体を蹂躙される。
 思わず呻き、膝を着きそうになるが腹に力を込めて堪え、不可解な状況と絶え間なく続く痛みに掻き乱される思考を冷静になれと叱咤する。貧血を起こしたときのように揺れる視界の中、士郎は目を細めて前を見据えた――が、その異様な光景に、彼の目はすぐさま驚きに見開かれた。

 アーチャーは、一寸のずれもなく、同じ姿勢でそこに座っていた。

 鷹の目は静かに士郎を見つめ続ける。痛みに耐える士郎には、その瞳に浮かんだ僅かな感情の揺れを読み取ることは出来なかった。それでも、激しい憎悪や強い殺意は無いことだけは理解することができた。
 この痛みはアーチャーのせいではない。じゃあ、これは一体何なのだ。と、士郎は己の身体を検分するように見下ろして――
「な――!?」
 言葉を失った。
 赤い燐光が左手の甲から放たれている。やがて、光の収束と共に士郎の身を苛んでいた痛みも小さくなり、そこに見覚えのあるシンボルを残して消えた。
「な、なんで……」
 令呪――聖杯戦争の際には、魔力供給者であるマスターとその使い魔であるサーヴァントの契約の証となるもの。また、マスターからサーヴァントに行使できる三回限りの絶対命令権。それが、「騎士王」と謳われた誇り高きセイバーと契約したときと同じく、彼の左手に刻印されていた。
 訳の分からない状況に目を白黒させながら、琥珀の瞳は縋るようにアーチャーへと向けられる。その視線を受けながら、アーチャーの目は士郎の左手――いましがた浮かび上がった令呪を見つめ、再び、その眉間に深い皺を刻んで伏せられた。
 はあ、と、盛大な溜め息がアーチャーの口から漏れる。その姿は、先ほどは懐かしさなど感じなかった士郎の心に変化をもたらした。ああ、やっぱり俺が知っているアーチャーだ、と、安堵にも似た思いが去来する。
「まったく……余計なことをしてくれたな、衛宮士郎」
 ようやく発せられたアーチャーの第一声は、これもまた聞き馴染んだ皮肉屋の喋り方そのものであった。
 状況が把握できていないにもかかわらず、全責任が自分にあるような一方的な物言いに柔いだ心が硬くなるのを士郎は自覚した。目の前の男と同じく、むっ、と眉間に皺を寄せ、不機嫌さを滲ませた低い声で相手を問い質す。
「どういうことだよ」
「どうもこうもない。たったいま、貴様と私の間に契約が完了した。それだけだ」
「はあ!?」
 信じ難い事実を告げられ、素っ頓狂な声が飛び出す。それが鼓膜を突き破ると言わんばかりの渋面を作って、アーチャーはこれ見よがしに両手で耳を塞いだ。目も、耳も、口も閉じて、そのまま貝にでもなるつもりかと悪態を吐きたくなるくらいの頑なさで、アーチャーはだんまりを決め込む。
「それだけ、って、お前……」
 士郎は力なく言葉を漏らした。果たされない説明責任とアーチャーの態度に精神が疲弊し、苛立ちを通り越して呆れてしまう。けれど、呆れ返っているだけでは状況は改善しないからな、と、持ち前のポジティブさを発揮して思考を巡らせた。見習いの身ではあるが、熱心に蓄積させた魔術の知識の海からゆっくりと、サーヴァントとそれに付随する情報を引き揚げる。
 聖杯戦争において召喚された英霊は、サーヴァントと呼ばれる。サーヴァントとは、使い魔と同義であるが、通常、魔術師が使うような小間使い程度のモノとは格が異なる。どんなに優秀な魔術師であっても、人間は人間。只の人間がそう軽々しく喚び出せるような存在ではなく、聖杯戦争というシステムに組み込むことで人為的に格落ちさせて初めて喚び出せるもの――だったよな、と、時折、自分で自分の記憶を再確認しながら、士郎はさらに考えを進める。
 聖杯戦争。その名に冠されている通り、聖杯戦争には聖杯がつきものだ。つまり、サーヴァントを召喚するには聖杯の力が必要となる。聖杯が適合者たるマスターを選び、聖杯によってサーヴァントは現世との縁を得る。その他に、触媒だのなんだのと条件があるにはあるが、サーヴァント召喚におけるキーポイントはやはり聖杯だろう。
「――ちょっと待て、じゃあ、また聖杯が現れたとでも言うのか!?」
「…………」
「おい、アーチャー」
「……聖杯は現れてはいない」
 どこかばつが悪そうに、アーチャーは渋々といった様子で答える。その姿に引っかかるものを覚えたが、アーチャーの答えを聞いて士郎はほっと息を吐いて胸を撫で下ろした。
「そうか。良かった」
 心からの安堵の笑みが、まだ幼さの残る顔にじんわりと広がる。柔らかな春の陽射しを思わせるそれに、アーチャーは何とも言えない複雑な顔をして士郎を見返した。
「なんだよ」
「――いや、相も変わらず……違うな、以前よりさらに腑抜けた顔になったものだと思っただけだ」
「悪かったな」
 さらに、の部分に力を込められて、士郎は拗ねたように口をへの字に曲げる。お前も俺と大して変わらない顔をしてるだろ、と思ったが、訳も分からず参加することになった聖杯戦争を未熟者なりに懸命に生き抜いてから、その反動なのか、多少、腑抜けている自覚はあったのでアーチャーの言葉自体を否定はしなかった。
 むう、と押し黙る士郎の耳に、ふっと短く息を吐く音が聞こえる。吐き出した息と共に人を小馬鹿にしたような態度を消して、神妙な顔をしたアーチャーが口を開いた。
「……まあ、私も聖杯には思うところがある。貴様の気持ちも分からないでもない」
「……うん」
 士郎とアーチャー、それぞれの脳裏に、炎に照らされた赤い空のイメージが浮かぶ。天に向かって立ち昇る黒い煙は、悪逆の限りを尽くして還っていく邪悪な龍にも見えた。吹き荒れる熱風、弱々しく助けを呼ぶ声、鼻を衝く色んなものが焼ける臭い――紛れもない死の世界。少年は、いまも時折、自分がそこにいるかのような実体を持った夢に見る。対する英霊は、長い年月に晒されて擦り切れた記憶の底に、蒸発しない水銀のように溜まったそれを覗き見ることがあった。
 酷い有様だった。思い出すと、心臓を鷲掴みにされたように胸がぎゅっと痛む。けれど、「衛宮士郎」の原点とも言える出来事。その地獄のような光景と、救い出した少年の顔を覗き込んで、まるで自分のほうこそが救われたような表情を浮かべて涙を流した男の顔は、どんなに月日を重ねても忘れることは無い。
 相対する二人の間に、しみじみと沈黙が下りた。しかし――
「――――ん?」
「む……?」
「そうだ、聖杯! おい、聖杯は現れてないっていうのに、なんでお前がいるんだよ。おかしいだろ!?」
 無駄にしんみりとしてしまったが、士郎は思考の置きどころがずれていることに気づいて声を上げた。そもそもは、突然現れたアーチャーが士郎の自室に陣取っていて、更に、契約完了などと言われたのが事の発端だ。春のうららかな陽光を浴びながら、自分の別の可能性と一緒に感傷に浸っている場合ではない。
 勢いのまま開いた口で、俺、召喚した覚え無いんですけど、と、士郎は言いかけたが、セイバーを召喚したときも無自覚だったのを思い出したので、一旦口を閉ざした。
 こほん、と軽く咳払いをして士郎は話を続ける。
「とにかく、状況がまるで分からないんだ。お前の知ってることを教えてくれ、アーチャー」
「…………」
 核心に触れようとすると、やはりどこか気まずそうにアーチャーは視線を彷徨わせる。普段は射抜くように目標を見据える瞳は、いまは弓兵らしからぬ頼りなさで、鷹はおろか雀にすら劣るんじゃないかと、士郎は心の中で溜め息を吐いた。
「――仕方ない。このままじゃ埒が明かないから、遠坂に相談してみよう」
 こと、こういった魔術の領域に関しては、自分の知識だけでは底が知れている、と潔く認めて、士郎は魔術の師に頼ることにした。しかし、その名を口にした途端にアーチャーの顔にさっと焦りの色が浮かぶ。
「ま、待て、凛にだけは知られたくない」
「はあ? 何言ってんだよ。このまま二人で向かい合っててもしょうがないだろ。誰かさんがいつまで経っても何も話してくれないからな」
 そう言いながら、士郎はようやく自分の部屋の中へと入った。むう、と口を引き結んで唸る大男の横を通り過ぎ、文机の脇に鞄を置く。着替える必要は無いな、と己の姿を確認してから、まだ踏ん切りがつかない様子のアーチャーを見下ろした。
「――よし。それじゃ行くぞ、アーチャー」
「……貴様ひとりで行け」
「…………」
 ぷつん、と士郎の中で何かが切れた。堰き止めるものを失った熱湯が、ふつふつと腹の底から競り上がってくるようだった。以前、友人から「衛宮はカッとなりやすい」と言われたことがあったが、恐らくいまがその状態なのだろう。
 だが、いまの士郎は、ただカッとなって相手に掴みかかるだけの向こう見ずではない。少年とは、かくも成長するものである。
「ふーん……そうか、お前は行かないっていうのか」
 いつになく穏やかな口調に不穏なものを感じて、アーチャーは咄嗟に士郎の顔を見た。不自然なくらいににっこりとした笑みが、その顔に象られている。そこに、かつての主人の顔が重なって見え、アーチャーの背筋に冷たいものが走った。
 そんなものまで師匠から学ぶんじゃない! と、心の声が士郎を非難していたが、無論、心の中の声なので聞こえるはずもない。唖然として薄く開いた唇から、ひゅっと緊張の息が吸い込まれた。
 笑っているが笑っていない作り物の笑みを、仮面のように顔面に張りつけた士郎が、すっと左手を掲げる。アーチャーへ向けられた手の甲には三画の令呪。
「――っ!!」
「令呪を以て――」
「待て! 分かった、私も行く! だからこんなことに令呪を使うんじゃない!!」
 アーチャーから悲鳴のような声が上がり、士郎は口を噤んだ。使わせかけたのはどこの誰のせいだ、と文句が無い訳ではなかったが、中途半端に身を乗り出して、ひどく慌てた様子で見上げてくる姿に溜飲が下がったので文句ごと強制命令を飲み込む。
「よしよし。じゃ、気を取り直して、行くぞ、アーチャー」
 満足そうな顔をして先導する背中に、アーチャーの口から舌打ちが吐いて出た。
「――了解した。地獄に落ちろ、マスター」
 いつかの台詞を吐き捨てて、アーチャーは霊体化を行う。エーテルで出来た身体を解いた先から、それは小さな光の粒に変わり、すぐに霧散して跡形も無く消えた。


***


 茶葉に合った抽出時間と最適な温度で供された紅茶を一口。鼻を抜けるフレーバーは少女の気に入りのものだ。パーフェクト――と、言いたいところだが、この紅茶が、かつてのマスターである自分と顔を合わせるのが気まずいが故の逃げる口実であることを加味すると、その賛辞は贈れないな、と遠坂凛は思った。
 いまもアーチャーは茶菓子を追加しよう、などと言って、彼をここへ連れてきた士郎の呼び止める声も綺麗に無視して再びキッチンへ引っ込んでしまい、それから戻って来る気配がない。こんな腑抜けたやつだったかしら? と、凛は二口目の紅茶を啜ってから、士郎が持参したマカロンを齧った。ここへ来る前に商店街の方へ足を向けて買って来たのだろうか。ほろりと口の中で解けたメレンゲの生地から、苺の風味と砂糖の甘さがふんわりと舌の上に広がる。
 異常事態である。こうして手土産があるのもそうだが、いつもなら唐突に屋敷を訪れる弟子が、珍しく事前に来訪を告げる電話を寄越したかと思えば、これだ。大方、自宅を出る前に、アーチャーから皮肉たっぷりのお小言か何かを言われたのだろうと予想しながら、凛は手元のナプキンで口元を拭って向かい側に座る士郎に目を向けた。
「で? どういうことか説明してもらいましょうか」
 やや緊張した面持ちで凛の様子を窺っていた士郎は、話を振られると心底、困った、という顔をした。眉間に深い皺を刻んだその顔は、彼に連れられてやってきたアーチャーが凛と対面したときに浮かべていた表情そのままだった。
 やっぱり同一人物なんだなあ、と、凛はしみじみ思いながら、再びティーカップに手を伸ばした。数十分前に、180センチ以上の長身を見上げて動揺のあまり凛は絶叫したが、悲しいかな脳のメモリーは有限なので、それは記憶から消去することにする。忘れてはいけないのは遠坂の家訓――常に余裕を持って優雅たれ。琥珀の瞳を右へ左へと彷徨わせて、どう説明したものかと考えている様子の弟子を、お茶の一杯でも飲みながら待ってやるのも師匠の務めである。
「……どうもこうも、俺も訳が分からないんだけどさ――」
 そして、聞こえてきた声に、凛は手元の紅茶から再び目の前の士郎へと意識を向けた。

「――確かに士郎にとっても寝耳に水、といった感じね」
 ふう、と溜め息を吐いて、凛は腰掛けていたアンティーク椅子の背凭れに、その薄い背中を預けて目を閉じた。訥々と語られる内容から得られるものはあまり多くなく、限られた情報から、答えといかずとも何かヒントを得ようと考えを巡らせるが、解決へ向かおうとする思考の糸は、途中でごちゃごちゃと絡まって出口で停滞してしまう。
 聖杯は出現していないとアーチャーは言った、と士郎は語った。それは嘘ではないのだろう。発現し、その力を発揮した冬木の聖杯がもたらす結果を思えば、あのアーチャーが衛宮士郎を欺く理由が無い。であれば、やはり聖杯戦争でもないのに、どうしてアーチャーは召喚されたのか? という疑問に行き着く。
 瞼の裏に浮かんでいた絡まり合った糸のイメージを弾くように、凛はぱちりと目を開いた。宝石のような碧眼が、窓から差し込む西日に照らされて寒色と暖色のコントラストを生む。
「やっぱり、アーチャーに事情聴取しなきゃダメね――それにしても、あいつ、遅いわね……」
 部屋の扉に怪訝な目を向ける凛に倣って士郎もそちらを見遣った。アーチャーが出て行ったきり、ぴたりと閉じたままの扉は未だ開く気配を見せずに沈黙している。もしや、このまま戻って来ないつもりだろうか――と、二人が不安に思ったとき、甘い、何かが焼ける匂いが部屋の中へと漂ってきた。
 顔を見合わせた士郎と凛が同時に立ち上がり、キッチンへと向かってダッシュするまで三秒とかからなかった。

 かくして、キッチンへと突入した高校生二人――主に、怒りに髪を逆立てんばかりの凛によって応接室へと連行されたアーチャーは、自身が焼き上げたクッキーを目の前に、士郎の隣の椅子へと座らされている。この異常事態の当事者であるにもかかわらず、あろうことか余所様の家のキッチンでクッキーを焼いているというアーチャーの厚顔ぶりに士郎も怒り心頭で凛と共にキッチンへと踏み込んだのだが、背中に般若を背負ったかのような凛の怒気に気圧されて、いまは冷静を通り越して、逆にアーチャーを憐れむような心持ちにさえなっていた。
 いやいや自業自得だ、と、軽く頭を振って、ちらりと隣を盗み見る。背筋をピンと伸ばし、眉間に縦皺を三本刻み、目を閉じているアーチャーからはこれといった感情を読み取ることができない。観念したのか、ただ嵐が通り過ぎるのを待っているのか、微動だにせず大人しくしている。
 その向かい側では、苛立ちに任せてゴクゴクと音を立てて、凛がミネラルウォーターを煽っていた。怒りを鎮めるためなのか、風呂上がりの牛乳よろしく、勢いよく液体を嚥下する動きに合わせて白い喉が脈打つ。
 何とはなしに見たそれに艶っぽいものを感じてしまい、士郎は慌てて目を逸らした。じわじわと熱くなる頬を、誤魔化すように掌で擦る。いまはそれどころではないと己を叱責していると、隣から鼻で笑う音が聞こえて、弾かれるように士郎の顔が不穏な音の出処へと向いた。
 いつの間に目を開いていたのか。汚物を見るような蔑んだ目で見下ろすアーチャーと士郎の視線がかち合う。瞬間、羞恥と怒りに皮膚が燃え、再び荒れ始めた感情の波に今度は逆らわず、士郎はその身を任せた。
「お前なあ――!」
 声を荒げながら、士郎が僅かに腰を浮かすとほぼ同時に、タンッ! と、木槌で机を打ったような音が部屋に響いた。その音にぴたりと動きを止め、口を噤んだ士郎の脳裏に海外の映画で判事が「静粛に」と言っている裁判のシーンが浮かんだが、それも一瞬のことで、すぐに意識は現実へと引き戻される。
 向かい合ったアーチャーの目からはすでに険悪な色は消え失せていて、恐らく自分もそうなのだろうと士郎は思った。すでに二人の意識は顔を見合わせているお互いにではなく、不機嫌さ全開の音を立てた者のほうへと向いている。恐怖しか感じないが、さりとてこのまま見つめ合っている訳にもいかず、ギギギと効果音がつきそうなぎこちない動きで二人の首が同時に動いた。
「…………いい加減にしてちょうだい。特にアーチャー」
 唇を戦慄かせて、体内に蓄積した怒りを細く吐き出すような凛の声に、名指しされたアーチャーの肩が強張った。それを横目に見ていた士郎は、ほんの少しだけ、ざまあみろと思ったが、凛が「特に」と前置きしているので、彼女の怒りの矛先は当然自分にも向いているのだろうと覚悟を決め、椅子に座り直して居住まいを正す。
 大人しくなった二人分の視線を受けて、凛は丹田へ力を溜めるように、すうっと深く息を吸ってから口を開いた。
「あのね、あなたたちには分からないのかもしれないけれど、私は忙しいの。学業、魔術の鍛錬、不肖の弟子への指導、遠坂家当主としてセカンドオーナーも務めてるの。だけど、相談したいことがあるって言うから、こうしてわざわざ貴重な時間を割いてあげてるわけ。それなのに、何なのよ、あんたたちは! のんびりクッキーを作ったり、喧嘩している暇があるとでも思ってるの? はっきり言って、聖杯が現れていないなら、アーチャーが勝手に現れようが、士郎がアーチャーと契約しようが、知ったこっちゃないわ。ちゃんと説明する気も、問題を解決する意思もないなら、帰って。今すぐ!!」
 そう一気に捲し立て、怒りに白んだ拳でドンと机を叩く。その衝撃で、皿に盛られていたクッキーが、場の空気に似つかわしくない少々気の抜ける音を立てて崩れたが、そのことについて触れる勇気のある者などいるはずもない。
 ――静寂。凛のあまりの剣幕に、語るべき言葉を忘れてしまったかのように士郎もアーチャーも呆けている。早く状況を説明しろと促している凛には、その沈黙も二人の間抜け面も腹立たしく、ただでさえ低下している怒りの沸点がさらに下がっていくのを感じた。
「……私がいま言ったこと、お分かりいただけたかしら?」
 にっこり、と、凄絶な笑みが凛の顔に浮かぶ。数時間前、衛宮邸にて士郎がアーチャーに向けたものとは比べ物にならない本家のそれに、凛から向かって左側にようやく反応が見られた。
「! おい、アーチャー……!」
 遠坂家の家訓が特大の雷によって木っ端微塵に粉砕される危険を察知して、士郎が慌ててアーチャーを肘で突く。そんな仕打ちを士郎から受ければ普段の彼ならば一睨みでも返しただろうが、いまは驚きに見開いた目で凛を見据えたまま、こちらも、ようやく、といった体で反応を示し、あ、と口から小さく単音を漏らした。
 我に返ると、無意識に出てしまったそれが恥ずかしかったのか、軽く咳払いをしてからアーチャーが改めて口を開く。
「……凛、すまない。正直に話すから、落ち着いて聞いてくれ」
「やっと話す気になったか……。まあ、いいわ。話して」
「実は――……私にも全く状況が分からないんだ」
「…………」
 二度目の静寂。ぽかんと、今度は凛の顔が呆ける。分からない? 分からないって何かしら――と、混乱の極みのような疑問が超一流の魔術師の頭を駆け巡った。
「……な、なによ、それ……」
 それからしばらくして、頭の上に浮かんでいた疑問符が溶け、アーチャーの言葉の意味が脳に浸透していくと共に、人形師から魔力を引き抜かれた傀儡かいらいのように、へなへなと凛の上半身から力が抜けた。そのままテーブルの上にくたりと倒れ込むと、綺麗に磨かれた天板に紅潮した頬が押しつけられて、緩いカーブを描いていたそれが成形されたように真っ直ぐになる。
 アーチャー自身も自分が置かれている状況が分からないというのは、この際問題ではない。それよりも、ただその一言を告げるのに一体何時間かけてるんだこの英霊は! と、凛も、そしてアーチャーの隣に座っている士郎も思ったが、もう言葉だけじゃなくて怒る気力も失せたし、アーチャーが話す気になったし――と、諦念の境地で質問を開始する。
「本当でしょうね? あなた、すっとぼけの前科があるから少し疑っちゃうわ」
 ゆっくりと天板から頬を引き剥がしながら凛は言う。うっかりが招いためちゃくちゃな召喚のせいにして、己が何者かも分からないと彼が宣ったのは、そう遠い昔の記憶ではない。
「本当だ。嘘は無いと誓おう、凛」
「オーケー、信じるわ。でも、何か感じることとかは無かった? 英霊なんて規格外のものが喚ばれるからには、何かしらの力が働いていないと説明がつかないもの」
 凛の指摘に、アーチャーは顎に手を当てて自身が召喚されたときのことを思い返す。
「……そうだな、「世界」からの干渉があったのは確かだ。故に、初めは掃除屋としての仕事かと思い、街の様子を見て回ったのだが、これといった異変は見つけられなかった」
「うん。あなたの力が行使されなくて本当に良かったわ」
 素直な感想を口にして、凛はほっと息を吐いた。そんな事態がこの冬木の地で起きていたら、それこそ聖杯の泥に街が埋め尽くされているような――否、もっと酷い状況に違いない。それに、ただの力として行使される彼は、人類の滅亡を回避するためだけに働くだろう。例え、この街の人間を悉く殺し尽くさなければならなかったとしても……。しかし、幸いにも冬木の街は概ね平和であった。
「他に気づいたことはある?」
「仮に私が「世界」から召喚されたのだとしたら、魔力の供給バランスがおかしい」
「どういうこと?」
「抑止力として使役されるときの私は、言うなれば「世界」をマスターにしているのだ。顕現したあとの活動源となる魔力も当然、あちらから供給される。だが、いまのこれは、聖杯に喚ばれたときに近い感覚だ」
「それは興味深いわ。じゃあ、アーチャーはいま、「世界」に召喚されつつも、士郎の魔力で顕現し続けている、という状態なのね」
「ああ、その通りだ、凛。私にとっては、不本意なことこの上ないが」
 溜め息と共に言葉を漏らして、アーチャーは片眉を上げた。右隣を見下すように動いた瞳が不満げに睨み上げてくる士郎の姿を映し、琥珀と鋼の間で、ぱちりと軽い火花が散る。
「……その台詞、そっくりそのままお前に返すよ。というか、単独行動のスキル持ってるんだろ? 別に俺の家にいなくても良かったじゃないか」
「私が最初に召喚された場所が貴様の家の土蔵だったのだ。街に異変が見られないのであれば、貴様に何か原因があると考えるのが道理だろう、たわけが。その上で、何も無いなら魔力切れで消えてしまっても構わなかったのだが――結果としては大誤算だ」
「お前が俺んちの土蔵に召喚されたなんて初耳だぞ!? ――ん? でも、そうするとやっぱり俺に原因があるのか……?」
「士郎、あなた何かした?」
「いや、何も。遠坂だって、俺の魔術がまだまだからっきしなことは重々承知してるだろ」
「大丈夫よ、士郎はちゃんと成長してる。――まあ、魔術師じゃなくても魔術回路があってサーヴァントに魔力を供給できればマスターにはなれるから、技量云々は問われないけどね」
「……う、やっぱりまだまだってことじゃないか」
「そりゃそうよ。一朝一夕で極められるほど、魔術の道は簡単じゃないんだから」
 がくりと項垂れる士郎を眺めて、きゃらきゃらと笑いながら凛はクッキーに手を伸ばした。先ほどは憤慨していてクッキーにすら怒りを覚えていたが、機嫌が回復すればさもありなん。クッキーに罪は無いのである。
 相変わらずの器用さで綺麗に焼き上げられたそれは、さくりと食めばほろほろと舌の上で解けて、優しい甘さが心まで満たしていく。遠い記憶をさわりと撫でるような素朴な味は、凛がまだ幼かったころ、妹と一緒に食べた母の手作りのクッキーと同じだった。
 静かに太陽が沈んでいく夕暮れどきの空のように、重苦しくはない沈黙が部屋の中に降りる。秒針が時を刻む音さえ、いまは心地良い。噛みしめるように手にしたクッキーを食べ終えた凛は、ティーカップの中に残っていた飲みさしで口を湿してから言った。
「……イレギュラーなことが多すぎて何が原因なのかはよく分からないけど、とりあえず状況は分かったわ。教会にも念のため確認しておくけど、いまのところ、聖杯戦争みたいな殺し合いが起きるってわけじゃなさそうだから、ひとまず様子見としましょ」
「そうだな。俺もアーチャーと一緒に、うちの土蔵とか街の様子とかをもう一度見て回ってみるよ」
 今後の方針を言い合う二人に対して、アーチャーは特に意見を挟まなかった。それを同意と捉えて、士郎は凛に暇を告げる。
「まあ、せいぜい仲良くやんなさい。――士郎、アーチャーの面倒、ちゃんと見なきゃだめよ」
「面倒って……こいつはそんなタマじゃないだろ」
「何言ってんのよ。いまはあなたがアーチャーのマスターなんだから――あ、これ魔術の鍛錬として、とても良い課題だわ。使い魔への魔力供給とか、信頼関係の築き方とか」
「勘弁してくれ……」
 英霊を使い魔としての課題だとしたら、いきなりレベルが高すぎる、と士郎はげんなりした。さらに、自分とアーチャーの相性を思えば、達成するには相当骨を折りそうだとも思う。それは多分、物理的な意味でも。
 しかし、凛の言うことは尤もだった。自分がマスターとしてしっかり魔力を供給し続けなければ、アーチャーは現界を保てずに消滅してしまう。契約が成立した以上、途中で投げ出すことはできないと、士郎は決意を新たにする。
「あ、それから、これ少し持って帰って。私一人じゃ食べ切れないから。藤村先生や桜にも食べてもらってちょうだい。とても美味しいから二人ともきっと喜ぶわ」
 そう言って、凛は皿の上のクッキーを指差した。

 外に出ると、空は、端の方に僅かに赤みを引いて、そのほとんどを濃紺に染め上げていた。頭の天辺に浮かぶ星が瞬いているのがはっきりと見て取れる。
 逢魔が時を過ぎれば、春といえどもまだ肌寒い。士郎は首筋を撫でて行った冷たい風にぶるりと身を震わせてから、隣に立つ男を見上げた。アーチャーは目を細めて、たったいま電気が点いた部屋を見つめている。士郎の前では、しかめつらしい顔しかしない彼からは想像できないほどの優しい眼差しに、思わず息を飲んだ。
 声を掛けるのも憚られて、しばらくそうしていると、やがてアーチャーの方が動いて士郎を見下ろす。鈍色の瞳は、宵の暗さの中であっても、よく研がれた刃のように鋭く光っていた。そこに先ほどの柔らかさはすでに無く、士郎が知る、いつもの表情浮かべて見つめてくる。そのことに胸がざわついて、士郎は心の中で、はてなと首を傾げた。
「……ま、まあ、とにかく成り行きでこうなっちまったけど、これからよろしくな、アーチャー」
「ああ、よろしくマスター。貴様の魔力を枯渇するほど吸い上げて、憑り殺すというのもありかもな」
「お前……まだそんなこと言ってんのかよ。俺のこと、認めてくれたんじゃなかったのか」
「…………ふん。しかし、常にその間抜け面を見ていたら気が変わるかもしれん。思わず手が滑ってしまったら許せ。過失だからな」
「いや、それ、明らかに故意だろ……」
 やっぱり先が思いやられる、と、士郎が無音の溜め息を吐いたときには、アーチャーの姿はすでに見えなくなっていた。ついさっきまでそこにいたものが突然消えるという状況に頭がついていかず、呆気にとられてほんの少しだけ固まってしまったが、霊体化したのだと理解して慌てて気を持ち直す。
 以前、契約したセイバーは、訳あって霊体化ができなかったため、目に慣れぬ現象に小石を飲まされたような違和感を覚えて士郎は思わず眉をひそめてしまう。こと英霊はどこをどう見ても自分と変わらない人間に見えるから尚更だ。
 赤衣を纏った姿を視認できないが、どこでこちらの様子を窺っているか知れない。間抜け面を晒していたら、殺されはしないだろうが確実に皮肉のネタにされるだろう。
「まったく……勝手に消えるなよな……」
 姿の見えない英霊に小さく文句を零しながらも、これも徐々に慣れていかなきゃだな、と、心の中で独りごちて、士郎は一人、宵闇の降りた住宅地へと足を踏み出した。

Comments

  • fuguihua

    Feb 4th
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