ファシリテーターの発達を生む3つの仮説
2026年1月9日、MIMIGURIの全社会議で、一人ひとりの探究テーマと具体的な抱負と目標について話しました。ぼくがそのときに話した内容をここにまとめて、こんな目標を立てたなぁ〜と、ふりかえることができるようにnoteに書き記しておきたいと思います。
と思って書いたら約10000字の記事になってしまったので、400字で要約するとこんな内容です👇
ぼくの2026年の探究テーマは、ファシリテーターを「作家」と見立て、その発達プロセスを解明することです。以下の3つの経験の循環がカギになるのでは?という仮説のもと、実験をしようと思っています。
独自の論理:客観的な黒子に徹するのではなく、自身の価値観(主観)を前提に含み、他者と共通の前提を編み直すこと。
作品化:デューイの「蒸留」のように、現場での混沌とした感情や経験を、他者も味わえる「作品」として昇華させ、省察すること。
仲間:個人の価値観や未完成の作品という脆弱なものを扱い、支え合う「友人」の存在。
この3つのサイクルを回すための燃料として「強張った身体のほぐれ」もサブテーマとして探究しつつ、最終的には個人の創造性が社会へ開かれる「アートセンター」の実現を目指したいな〜と思っています。
なぜ探究か
MIMIGURIでは、一人ひとりが探究テーマを胸に抱いて活動を推進しています。MIMIGURI Co-CEOの安斎勇樹さんのnoteによれば、探究とは、「自分と世界とのよりよい繋がり方」を模索することです。そして、探究テーマとは、レンズすなわちモノの見方と対象となる問題を掛け合わせたものです。
自分のレンズを磨き、対象を観察したり問題解決に取り組んだりした経験を通じて「そういうことか!」と気づいた瞬間に出る"脳汁"は、ほかの何物にもかえがたい娯楽であり、自分が大切にしているものを尊重するケアでもあるといいます。
このような探究を、一人ひとりがのびのびとできるように、それぞれのチームおよび組織全体が支え合うことを、MIMIGURIではひとつの理想にしています。
臼井の探究テーマ
ぼくの現在の2026年の探究のテーマは「一人ひとりを作家と見立て、その作品制作と公開の場をキュレーションする」です。
ぼくにとって「作品」に出会うことは、心が踊る経験です。作家が作品をつくり、それが公開され、その作家・作品・鑑賞者によって生み出される場で、さまざまな思考・感情・感覚がうずまく。そのうずをつくりだすことで、ぼくは世界とのよいつながりを実感します。
ファシリテーション型の経営コンサルファームであるMIMIGURIで、コンサルタントや研究者、人事部門やコーポレート部門などのメンバーひとりひとりが「作家」として、「作品」を創作し、それを集めて公開する場をつくってみたい。それはどういう論理で、どういう物語のなかでならば可能なのか。その思考と実験を繰り返していきたいと思っています。
探究レンズ:キュレーション
その探究の前提となる、ぼく自身のレンズ/モノの見方には、アートの経験が色濃く反映されています。
ぼくは学生時代からアートの現場に関わり、アートをリスペクトしてきました。さまざまなアーティストの方と関わって仕事をするなかで、アーティストと問いを分かち合い、未実施の実験を共に具現化し、そこに内包された批判や提案を世に問う。このような仕事を「キュレーション」と捉えて仕てきました。自分自身の技術、職能には「キュレーション」が少なからずあるのです。
キュレーションとは何か。これは現在、2つの意味で使われています。1つはアートのキュレーション。作品を集め、公開する場と、その土台となる歴史的・社会的なコンセプトを立てる仕事です。もうひとつは情報のキュレーションです。ある対象に対して最適な情報を編集し、提供する仕事です。
ぼくは前者に近い意味で使っていますが、アーティストのような芸術の専門家だけのキュレーションに当てはめているわけではないというところが、この言葉の定義感から若干ズレる部分です。
この言葉の定義に関しては、ひきつづき探究が必要でしょう。ですが現時点では「キュレーションとは、作家と問いを分かち合い、作品制作のプロセスを支援しながら、その制作と公開の土台となるコンセプトを練り上げていく技術である」と仮に定義してみます。
このようなキュレーションの探究に並行して、マネジメントにも取り組んできました。事業開発や人材育成、組織マネジメントといった具体的な対象に対して、問題を解き、より良い状態を作り出す試行錯誤をしてきました。その中で培われた「マネジメント」の技術・職能のレンズもあるでしょう。
さらには、アートやビジネスに関わるなかで、ワークショップのファシリテーションを長らく実践してきました。18歳のときにはじめて子ども向けのプログラミングワークショップでファシリテーションをしたので、かれこれ20年になります。この「ファシリテーション」のレンズを、プロジェクトやチームマネジメント、全社組織開発にも適応させてきています。
キュレーション、マネジメント、ファシリテーションの3つの職能的レンズをあらためて磨き直し、具体的な対象を見てみたいと思います。
探究対象1:ファシリテーターの発達
このレンズをもって観察したいのは、「ファシリテーターの発達はどのようにしてもたらされるのか」という事象です。
ぼくはコンサルティング部門の組織マネジメントの仕事をしています。この仕事の重要な役割の一つに、「一人ひとりの探究が実を結び、その人にとって心地よい速度で生涯発達できる場をつくること」があります。MIMIGURIはファシリテーター集団ですし、世の中にはファシリテーターとしての矜持をもって仕事をされている方がたくさんいらっしゃるとおもいます。ぼく自身ももちろんその一人です。
「ファシリテーターの発達はどのようにしてもたらされるのか」は、ぼく自身の発達を考えるうえでも、ぼく自身の仕事を前に進める意味でも、ファシリテーションという職能が社会をより良くしていく意味でも、重要な問題なのだと思っています。
この事象に対して、3つの経験が必要なのではないか?という仮説を置いています。
1つめは、独自の論理をもとに活動をつくる経験。つまり、自分の価値観を前提の一つに含みながら、他者との対話を通して[共通の前提]をもった[独自の論理]をつくりだせるようになると、そのファシリテーターはよりインパクトの深く大きな活動ができるようになっていくのではないか?
2つめに、1つめの経験を作品として表現する経験。つまり、特定の仕事の経験を[自分にとって特別な作品]として表現する機会があることが、その発達を支援するのではないか?
3つめは、1つめと2つめの経験を仲間に支えてもらう経験。つまり、独自の論理づくり、作品づくりの経験を、支え合い、触発し合う仲間の存在が、発達を支援するのではないか?
仮説1:独自の論理をもとに活動をつくる経験
まず、1つめの仮説。「独自の論理をもとに活動を作る経験が必要」について。
最近、とても大事なことに気づいたのですが、「論理」というのは、その集団の「文脈」に依拠するんですよね。
たとえば、「うちの家族では通用するけど、他の家族では通用しないこと」ってあるじゃないですか。うちでは息子が麦茶と炭酸水を割ったり、炭酸水にグミを入れて飲んだりしたがるんですけど、まあ普通に考えたら不味そうだし、不快だとおもうひともいるじゃないですか。でもそれはうちではまあよしとされてるんです。「やりたいならやれば」というのがうちの価値観だからです。こんなふうに、うちではよしとされてきたことの文脈があるがゆえに、麦茶やグミと炭酸水を混ぜても良いという主張が妥当なものとされます。論理の前提には、その集団で共有された価値観が内包されるため、その集団独自の論理というものが存在するのです。
実践における論理とは、客観的なものだけでなく当事者の主観的な価値観を前提にするものである。そうだとしたら、ファシリテーターが自分の価値観を前提の一つに含んだかたちで自覚的につくりだすことが、その発達のプロセスにおいて重要なのではないかと考えています。
「ファシリテーターは客観的な観察者であり、場の黒子であるべき」という主張もあります。たしかに、ファシリテーターが主観的かつ独裁的に場の意向を決めてしまっては、ファシリテーションの民主性や共同性の理念に反するでしょう。しかし、ファシリテーターも場の当事者の一人であり、なにより場をホールドをする責任ある主体です。そのようなファシリテーターの価値観が場のあり方をある程度方向づけることは避けらません。だからこそ、自分の価値観を場の前提の一つに含んだかたちで自覚的につくりだすプロセスが必要になるのです。
たとえば、「一人ひとりの創造性」を大切にしているファシリテーターAさんがいるとします。
Aさんはいま、ステークホルダーと共に人事制度変革に取り組んでいます。Aさんは勇気を出して、自分が大切にしている「一人ひとりの創造性が発揮されること」を前提としてプロジェクトを提案しました。その後、ステークホルダーと対話を通して、[共通の前提]を編み上げながら、背景となった問題状況に対して問いを立て、解を作り出していきました。このような経験をすることで、ファシリテーターは自身の価値観を深めたり、より他者とつながりやすいものに磨きあげたりして、発達を遂げていけるのではないでしょうか。
仮説2:活動の経験を「作品」として表現する経験
ファシリテーターの発達はどのようにして生まれていくのか。それは、自身の価値観を前提のひとつに含みながら、他者とともに[共通の前提]をつくり、問題状況に対して問いを立て、解をつくる経験によって生まれるのではないか。これが仮説の1つめでした。
このようなプロセスを、暗黙のうちに、無自覚に推進している人はたくさんいるはずです。だからこそ、ぼくはこのようなプロセスで経験したことを、[自分にとって特別な作品]として表現する機会が必要なのではないかと考えています。これが2つめの仮説です。この仮説はまだまだ生煮えで、論理的にも飛躍があるので、ちょっと紙幅を割いて書いていきます。
仮説1で、ファシリテーターの暗黙の価値観が、その出来事をつくりだす論理の前提となることを提示してきました。そうした価値観には、感情や感覚が含まれます。この感情や感覚が重要であるとぼくは考えています。
ファシリテーターが見て、聞いて、匂いを嗅ぎ、味わい、温かさや冷たさ、痛み、心臓のドクドク感、皮膚のゾワゾワ感をおぼえ、ときに歪み合い、また手を取り合う。こうしたあらゆる身体的な経験も、価値観の形成に影響します。そのような感情的、感覚的経験もふくめて見つめなおし、そうした感覚や感情が他者にも生起するように「作品」として外在化してみる。それを他者と共に眺める。そのような経験によって自身の価値観をより強く、優しく、しなやかなものに変えていくのではないかと考えているのです。
「作品として表現する」とは、「プロジェクトの一連の経験のエッセンスを、第三者も体験できるようにすること」と仮定義します。このような作品化には2つの効用があると考えています。1つは、経験のエッセンスを他者が体験できるように表現することで、自身の価値観が省察され、仮説1の「独自の論理をもとに活動をつくる経験」がより安定かつ柔軟なものになることです。2つめは、作品を体験した第三者を触発し、創作の仲間にしていくことができることです。
ファシリテーターの前提となっている価値観を、「作家性」と言い換えてみます。作家性とは、作品や制作プロセスに現れる傾向性です。米津玄師の楽曲と制作プロセス、ちゃんみなの楽曲と制作プロセスにはそれぞれ違いがあるわけです。そのようなプロセスや作品には、作家のさまざまな出来事に対する感じ方や考え方などの世界観、経験が練り込まれています。
先ほどの人事制度をつくったファシリテーターAさんの事例で言えば、「一人ひとりの創造性を大切にする」という世界観で、対話・問いといったプロセスの傾向性がAさんの作家性であるわけです。その作家性を練り込んだ「作品」が最終的にアウトプットされた「人事制度」であるともいえるかもしれません。
しかし、人事制度それ自体を作品と呼びえるのかは、疑問が残ります。
「経験学習」という考え方の源流である哲学者ジョン・デューイは、『経験としての芸術』という書籍のなかで、作品というものを「蒸留」に例えています。お酒で言えば、蒸留酒。つまりウィスキーですね。発酵した液体を熱して蒸気で飛ばし、その蒸気を冷却して液体化したものが蒸留酒です。
図のように「経験のなかに包含されたさまざまな文脈・感覚・感情」という発酵液を、「制作過程」という加熱・冷却のプロセスを通じて抽出されたウィスキーが作品だというわけです。
そう考えると、人事制度それ自体はプロジェクトの成果物ではあるが、作品ではありません。人事制度をつくることになった背景に含まれている文脈や、人事制度を用いて社員がした経験というものも、作品の素材になるはずです。人事制度を作る過程・運用される過程で生じたドラマや変容のプロセスを素材とし、そのエッセンスを蒸留抽出したものが作品と呼べるのでしょう。
このようにしてエッセンスが抽出されたときにはじめて、自身の経験の意味に気づき、価値観や他者との関わり方のプロセスへの省察が深まっていくと考えています。これが効用の1つめです。
さらにデューイは、作品の意味を「他者が体験できること」にあると言います。生の経験は、他者は飲めません。ウィスキーになっていれば自分も他人も飲める。作品のもとになっている経験は個別具体的なものでありながら、蒸留によって抽出されたエッセンスは全く関係のない他者のにもアクセス可能なものになる。このようなエッセンスの体験は、他者が自分もなにかしてみたくなる、なにかつくりたくなる衝動を掻き立てるでしょう。そのようにして探究の新たな仲間ができていく。これが効用の2つめです。
作品をつくらなければ起こらない省察、出会えない仲間がいるはずです。ただしそのような効用をもたらす作品とはどんなものなのか、忙しい仕事のなかで作品制作は本当に必要なのか。論理的な飛躍や不確実な部分がまだまだふんだんにあります。でも、わからないからこそ、そのような作品を見てみたいし、作品作った方がいいじゃんってなってる社会を見てみたいという、わがままな予感めいたものに突き動かされています。
しかし、もう一つこの作品論には問題があります。これらの作品を「アート」と呼ぶことはできるのかという問題です。おそらく作品自体は美術や演劇の制作方法を借りて作られるでしょう。しかし、「アート」とは「制作方法」のことではありません。
たとえば、クレア・ビショップという美学者は、アートには現状の社会的・政治的慣行を批評する「敵対性」が不可欠であるといいます。こうした敵対性を包含しうるものになるのか。デューイの言ううような「経験としてのアート」ではあるが、「制度としてのアート」の文脈に乗っかることができるのか。まだぼくにはわかっていません。ですが、キュレーションのレンズをもって仕事をすると考えているぼくにとっては、避けられない問題です。
仮説3:仲間に支えてもらう経験
長くなってきたので、ここでおさらいです。
ぼくは、「ファシリテーターの発達」という事象を、「キュレーション」のレンズで観察して問題を解いていくことを今年の探究テーマにしたいと考えています。「キュレーション」に関しては「作家と問いを分かち合い、作品制作のプロセスを支援しながら、その制作と公開の土台となるコンセプトを練り上げていく技術」と仮定義しました。
そのレンズで見ると「ファシリテーターの発達」は、自身の価値観を論理の前提にふくんだ活動をする経験と、その経験を省察して「作品化」する経験によって起こるのではないか、という仮説をここまで書いてきました。
さて最後の3つめの仮説です。「仮説1:独自の論理をもとに活動をつくる経験」も、「仮説2:活動をふりかえって作品化する経験」も、どちらも仲間にささえてもらうことが必要だという仮説です。
自身の価値観をプロジェクトの前提にする場合、自身の価値観に気づく機会や、その価値観を仮固定して提案に練り込んでいく機会が必要です。気づきの機会は自分一人では得にくく、他者との対話や、他者からの声によって得られる場合が多いでしょう。また、自分の価値観を揺るぎないものにするのはなかなかにむずかしいです。意固地になっても仕方ありませんから、しなやかさも必要です。他者から否定されたとしても、対話を通して共通の前提を作り出せるかどうか。そこには勇気が必要です。
そうした気づきを得たり、勇気の土台になったりするのが、仲間というかもっといえば友達なのだとぼくは思っています。価値観に対して言葉を交わせる。相手の勇気を鼓舞し、傷を癒すような声をかけることができる。そのような仲間に支えられる経験が、仮説1と2の経験を作り出せるのではないかと思っています。
ただし、このような支え合いは、なりゆきで、なんとなくで生み出せるものだけではありません。仕事の場である以上、「設計」をする必要もあると考えています。
お互いの価値観を相互理解し、支援し合うことを共通の前提にすること。そのうえで、そのような前提で出来事をつくっていくために、業務時間の調整をして、交流の場と時間を意図的に作り出すこと。この設計を通して、仲間に支えてもらって経験ができたという実感をつくりだせるかどうかが、ぼくの探究においてもとても重要です。
探究対象1の小括:「作家」としての生成変化のサイクル
ここまで、ファシリテーターの発達に必要な3つの要素(独自の論理、作品化、仲間)について仮説を述べてきました。これらは個別の要素ではなく、互いに影響しあうひとつの生態系のようなサイクルを成していると考えています。
まず、「仲間」という安全な土壌があってはじめて、他者とは異なる自分だけの「独自の論理」を恐れずに仮固定することができます。その論理を持って現場で活動し、そこで得られた混沌とした経験を「作品」へと蒸留する。その作品が公開されることで、新たな仲間と出会い、土壌がさらに豊かになっていく。
この「仲間→論理→作品→仲間…」という循環こそが、ファシリテーターが単なる機能的な役割を超えて、一人の「作家」として生成変化し続けるための循環なのだと思います。
しかし、このエンジンを駆動させるには、ひとつだけ決定的な見落としがあります。それは、エンジンの燃料となる「経験の質」の問題です。
どれだけ素晴らしい論理や仲間がいても、当事者であるファシリテーター自身が、現場の空気、他者の痛み、自分自身の違和感を「感じる」ことができなければ、蒸留するための素材(発酵液)が手に入りません。感覚が閉じていれば、作品は生まれないのです。
そこで浮上するのが、2つ目の探究対象である「身体」の問題です。
探究対象2:強張った身体のほぐれ
ぼくの探究の対象はファシリテーターの発達だ!と書いてきましたが、実はもう一つの探究したい対象があります。それは、「働き続けることで強張る身体はどのようにしてほぐれるのか」という事象です。マッサージが上手になりたいという話ではありません。
作家として作品をつくるには、感覚や感情を含む文脈を素材として扱う必要があります。そのような感覚や感情を感じとる身体をつくることが、制作を実現する土台になると考えています。
なんというか、こうした身体は子どもの頃に誰もが持っていたものだと思うのですが、そうした感覚に開かれた身体は傷つきやすく、維持をするのが大変なので、しだいに鎧を纏って押し込めていく。キース・ジョンストンはこの状況に対して「大人とは萎縮した子ども」と表現した。
そのような身体をつくるというかほぐして戻すプロセス自体があれば、作品にすることはなくとも創造的な自己を一人ひとりが実現できるようになるかもしれない。
「身体」というのは物理的なものも、概念的なものも含みます。というのも、康本雅子さんによるダンスワークショップに参加し、堀光希さんのインプロのワークに参加し、私自身の「ほぐれ」を経験しました。そして、松井周さんによる「標本転生」のワークショップで、大手町エリアで働く人たちの「ほぐれ」をみた気がしたのです。
学校に通う子どもたちも、ある種の生徒役という使役をやりつづけています。大人に限らず、そうした役割を演じながら他者と協働・共生することが求められる社会構造のなかで、身体がこわばっていく現象があると思うのです。多分。
そのような身体と役割の膠着をほぐしたところで、どのような作家性が開かれるのか。そのような解れの場をつくることもまたぼくの関心事です。
臼井の探究ビジョン
こうした探究を通じて、ぼくはキュレーターとしての仕事を実現していきたいと考えています。この2つの対象に対するキュレーションを実践していった先で、こんな未来が待っていたらいいなという予期というか予感めいたものも書いておきます。
キュレーターとして仕事をするならば、いつかアートセンターで仕事をしたいと思っています。さまざまな形態の美術館が日本にもありますが、たとえば、山口県にある山口情報芸術センターのような場所です。これは完成された作品を収蔵・公開するだけでなく、その制作過程や制作思考も市民に開いていく場です。
現状、さまざまな企業のお手伝いをするチームにいます。企業経営の文脈と全く切り離すのではなく、むしろさまざまな産業が協力しなければ解けないようなオープンイノベーションの問題も徐々に扱えるようになっていきたいと感じています。
オープンイノベーションとアートセンターを掛け合わせた事例としては、オランダのアルスエレクトロニカや、ドイツのZKM、ニューヨークのNEW.incなどがあります。日本の山口情報芸術センターもそのような場に含まれるでしょう。こうしたミュージアムは、テクノロジーの可能性を、企業、市民、アーティスト、技術者が連携して探究する場になっています。
一方で、AIとロボティクスが台頭していくと、それらと関わる人間がどのような真善美をもって仕事をしていくのか?という問題が必然になってきます。というかもうすでになっているでしょう。日本の場合、少子化が止まることは予測しづらく、労働人口が減少していくという問題もあります。それに比例して外国人の労働者の方々が働きやすい国として選ばれ、健やかな社会を作っていけるのか、という問題もあるでしょう。
こうした社会課題に対して、人文的な知見をもって応答していくこともオープンイノベーションの課題になってくる、すでになっているだろうという大雑把な仮説があります。そのようなオープンイノベーションと芸術知を掛け合わせたアートセンターが10年後には日本に作られているのではないかと思うわけです。そのアートセンターでキュレーションの仕事をしたいなと思っています。
まとめ
長々と書き連ねてきましたが、こうして書き出してみると、ぼくの探究テーマは「個人のファシリテーション技術」という視点から始まり、「身体のほぐれ」という個人的な感覚を経て、最終的には「アートセンターでキュレーターとして働く」という夢みたいな話にまで広がってしまいました。
論理的に見れば、ファシリテーターの発達とアートセンターの間には、説明しきれない飛躍があります。身体のほぐれがどう作家性につながるのかも、まだ予感の域を出ません。でも、探究とは「わからないこと」に挑む旅そのものです。 綺麗な地図が手元にあるわけではありませんが、「独自の論理」を面白がり、こわばった身体をほぐしながら、互いの「作品」を面白がり合えるような仲間がいれば、遠大に見えるアートセンターへの道も、きっと歩いていけると信じています。
2026年、まずは自分自身がひとりの「作家」として、未完成の作品を世に問い続けていきたいと思います。 もし、この文章を読んで、どこか一部分でも「なんとなくわかるかも」「その実験、面白そう」と感じてくださった方がいらっしゃれば、ぜひ声をかけてください。
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