light
pixiv's Guidelines will be updated on March 18th, 2026.
View details
The Works "#29 岐路に立つ" includes tags such as "fate", "Fate/staynight" and more.
#29 岐路に立つ/Novel by ちくわぶ

#29 岐路に立つ

9,359 character(s)18 mins

士弓主従聖杯戦争ifストーリー三十一話目。腐向け。 

版権元:Fate/stay night 
注意(シリーズ共通):
 腐向け(士弓)、ねつ造、設定改変、独自設定、重大なネタバレ、原作程度の暴力表現・流血表現

  • 102
  • 71
  • 1,955
1
white
horizontal

 夜になった。時計は、ローマ数字の九を指している。
 この部屋には時計はなかったのだが、ちょっと不便だなと零したところ、イリヤがリズに命じて運んできたのがこのバカでかい置き時計だった。こんなのアンティーク店以外で見たことがない。
 その立派な置き時計の振り子が揺れるのを見ながら、寝台の上で眠気が来るのを待っている。

 ――イリヤの説得は、俺の思ったとおり(そしてアーチャーの予想に反して)、大きな動乱もなく収束した。
 少し険悪な空気になったのは、サーヴァントが八人いるとイリヤが知ったときと、アンリ・マユについてアインツベルンに責任があるとアーチャーが糾弾したときくらいだろうか。とはいえ、八人目がいるのは遠坂の証言からも確実なのだからイリヤだって納得するしかないし、聖杯の汚染がアインツベルンのせいだと言っても、かつて生まれてすらいなかったイリヤを責め立てたって何にもならないことはアーチャーだって承知の上だ。大事なのはこれからどうするかという部分で、話し合いを進めていけば、結局アーチャーが言った通りの方針に落ち着いた。
 むしろ一番難航したのは、バーサーカーにはできない聖杯の破壊をセイバーに託す、という結論をイリヤが全く受け入れなかったことだろう。バーサーカーに全幅の信頼を寄せるのはいいんだが、イリヤはどうもセイバーと遠坂に巨大な対抗意識を燃やしているフシがある。
 宝具のような強力な遠距離攻撃の手段を持たない以上、どれだけバーサーカーが〝無敵ですごくて絶対に負けない世界で一番強いサーヴァント〟なのだとしても、彼には聖杯は任せられないのだ。アーチャーが火力不足を自己申告している以上、人格的にも能力的にも、やはり頼るべきなのはセイバーしかいない。
 だと言うのにこのわがまま娘は、『託す』とか『頼る』とか『任せる』といった言い回しがどうしても気にくわないらしく、説得に費やした労力のほとんどは、いかにイリヤをご機嫌のまま納得させるか、というところに収束した。
 最終的には、セイバーをバーサーカーがとっちめた後に、オメイヘンジョーの機会として聖杯破壊の名誉をくれてやる――ということになってしまった。もしこの話し合いの場に遠坂がいたら、ちゃぶ台をダース単位でひっくり返す大乱闘になっていたことは想像に難くない。セイバーたちとの交渉が穏便に済むことを今から祈るのみである。

 とにかく、そんなこんなでなんとか話はまとまった。
 話はまとまったが、俺の魔術回路は未だ休眠期間中なので投影どころか回路の起動すらままならない。主戦力はバーサーカーとはいえ、俺の回復を待った方がいいだろうと――アーチャーからは「今更お前の魔術などあってもなくても変わらん」などと辛辣なお言葉をいただいたが――この部屋でしばしの休養と相成った。
 で、話は冒頭に戻る。話し合いの後にじゃあまた明日、と分かれて、この部屋に来たのが多分お昼過ぎくらい。時計もない部屋で眠れもせず過ごし時間に耐えかねて時計を持ってきてもらったのが午後三時。病人食みたいな消化の良さそうな食事をセラが持ってきた(ついでにたくさんのお小言をいただいた)のが六時頃。そこから三時間経って、今ようやく九時。
 どうやら俺以外の面々は、この先に控える戦闘に向けて連携の練習をしたり、城の防備を固めたり、イリヤの体調をどうするか考えたり、街に偵察を放ったり、とにかく色々しているらしいのだが、俺一人蚊帳の外だ。
 魔術もなんにも使えない俺がいても意味がないし、俺の仕事はしっかり休んで一秒でも早く回路を元に戻すことだとはわかっているが、こうも手持ち無沙汰だとどうも息が詰まる。
 都合良く故障中の機械とかがあれば是非修理させてほしいのだが、休憩中の分際でまさか探してきてくださいなどと負担を増やすわけにもいかない。多分アーチャーには止められるだろうし。
 怪我や病気以外で、ただただ何もしない時間を過ごすなんて今までなかったかもしれない。とにかく暇だ。正直セラのお説教ですらありがたいお説法に聞こえた始末である。もうどれだけ罵られてもいいので、セラには話し相手になってほしい。
「はあ……」
 我ながら馬鹿なことばっかり考えているとは思うが、こうして悶々と考え込んでいても時計の長針は一分しか進んでいないのである。
 とはいえ、時間の遅さはとてもつらいが、そう悪いことばかりでもない。時間ばっかり有り余るので、色々と考えることくらいはできた。記憶の整理も大分できたので、いきなり知り合いとバッタリ遭遇、みたいなことになってもある程度取り繕えるだろう。
 ……そういえば、俺は急に失踪したことになっているのではないだろうか? イリヤの城は地図の上では存在しないことになっているし、こんなところで療養中とは誰も思うまい。家出とか行方不明とかで心配されているかもしれない。事情説明の内容を考えておかないと。
(――なんて、皮算用かな。でも、うまくことが運べば、もしかして明日にでも聖杯戦争は決着するかもしれないわけだし)
 そう思うとなんだかふわふわするような、とかく落ち着かない気持ちになった。
 みんなは今何をしているのか。部屋の外は至って静かだ。まさか寝ているとは思えないが、夜を迎えてまだ備えが済んでいないとも思えない。今更のこのこ出て行ったところで、俺が手伝うようなことはないのだろう。戦力回復だけを狙うなら、今日が最後の夜だとしても、ここでじっとしているべきなのだが……。

 うだうだと悩んだ末に、ようやく決意を固める。
 アーチャーに会いに行こう。こんな風にのんびりと過ごせる夜は、もうこれが最後になるかもしれないわけだし。
 寝台から抜け出して立ち上がる。外は寒かろうと上着を探したが、それらしいものはなかった。靴まで見当たらない。仕方が無いので、裸足のまま歩き出す。
 廊下に出てみれば、案の定の冷気と静かさだった。ばれたら怒られることをしている自覚があるだけに、恐る恐ると足を進める。毛足の長い絨毯のおかげで足があまり冷えないのがありがたい。
 どこへいるのやらわからないイリヤたちと違って、アーチャーの居場所はなんとなくわかる。問題は、アイツがいるのが屋根の上としか思えないことなのだが……。
「ハシゴなんてないよなあ」
 うーむ。とりあえず行けるところまで行ってみて、最終的にどうするのかはそのとき考えよう。
 広大な城なので結構な運動になりそうだが、寝ぼけた体にはちょうどいい目覚ましになりそうだ。まずは階段を探すべく、俺は廊下を適当に進んだ。

 上の方の階で行き詰まり、うろうろと彷徨っていたところ不審に思った尋ね人本人が呆れ顔で降りてきてくれた。
「実証実験でもしているのか?」
「実験? なんの?」
「馬鹿でも風邪をひくかどうかの」
 挨拶代わりのジャブが強烈だが、心配してくれているのだと思えば聞き流せる。
 ……心配されているのは俺の頭の中身のような気がするが、細かいことは気にしないでおこう。寒い中歩き回ったおかげで、こうして目論見通り会えたわけだ。
 彷徨う俺と降りてきたアーチャーが遭遇したのは変哲もない廊下だ。おそらく客人の立ち入りを想定していないのであろう、絨毯や装飾品はほとんどなくなって、石造りの寒々しさが剥き出しとなっている。
「――へくしっ」
 堪えようと思ったが、不可抗力のくしゃみが漏れた。
「……着ておけ。こんなのでもないよりはマシだろう」
 呆れきっている様子のアーチャーが、いつも身につけている白い防砂布を外して俺の肩に羽織らせて、首元の布はグルグルと巻き付けてくれる。ごわごわしていて手触りはあんまりよくないが、適度な厚みで外気からしっかり守ってくれる。顔を埋めると少し砂っぽい匂いがした。
 対してアーチャーはすっかり寒そうな見た目になってしまったが、本人は至って気にした様子もない。ぐずぐずと鼻を啜る俺とは対称的に鼻を鳴らすと、こちらに背を向けて歩き出した。
「ついてこい。確か空き部屋あったはずだ」
 どうやら、案内してくれるつもりらしい。
 てっきり部屋に追い返されるものと思っていた俺は、予想外の展開に目を瞬かせた。魔術回路が起動できるまでは部屋から出るなと厳命したのは他ならぬアーチャーだったのだ。
「おい、来ないのか?」
「や、行くよ。廊下は寒い」
 ぺたぺたと早足で歩み寄る。
 俺が何をしにきたのかも知らないのに、随分気が利くなあと不思議に思っていると、そんな疑問を察したのか、尋ねてもないのにアーチャーが答えてくれた。
「話があると言っていたからな。今日を逃せば機会がないかもしれないのだから、今夜くらいは目を瞑るさ」
 つまり、考えることは同じだったらしい。
 説明不要な便利さに感心するやら当惑するやら。以心伝心といえば聞こえはいいが、俺たちの場合ちょっと違う気がする。――なんて、どうでもいいことを考えている内に、アーチャー曰くの空き部屋についた。

 部屋の中は窓もなく真っ暗だ。部屋の燭台にアーチャーが廊下から灯を移してくれてようやくほんのり明るくなった。
 物置だろうか。うちの土蔵よりずっと綺麗ではあるが、俺に貸し与えられている部屋よりは物が多くて雑然としている。ほとんどが木箱で、中身は不明だ。畳まれたテーブルクロスなんかの姿も見えるので、箱の中身は食器類かもしれない。
 俺がきょろきょろとしている間にも、アーチャーが椅子を二つ見つけて持ってきてくれた。礼を言って腰を下ろす。アーチャーも椅子に座ると、腕を組んで俺が話し出すのを待っている。
「えーっと。言いかけてた話とは別なんだけど、まずはありがとな」
「……それは何に対しての礼だ?」
「そりゃあ色々全部だけど。主に、俺を守ってくれたことに対してだ」
 アーチャーがいなければ死んでいた場面は一度や二度ではない。命の借りはちゃんと返したいところだが、サーヴァント相手ではそれも難しいだろう。せめて感謝くらいは伝えておきたい。
 とはいえ、現界の記憶を持ち帰れないサーヴァントにとっては感謝の気持ちなどなんの足しにもならない。ようは俺の自己満足に過ぎないのだが、アーチャーは気難しい表情ながらも拒否したりはしなかった。笑って受け取るなんてこともしないわけだが。
 不機嫌にしか見えないしかめ面は、彼が自分の行いを感謝に足るものではないと考えているからだろう。
 究極、俺たちのやる人助けなんていうものは、全て自分のためでしかないのだ。そうしたいからそうする。他人は時にオレの行いに献身を見いだしたのかも知れないが、衛宮士郎の人助けは、世のあらゆる欲求となんら変わらず我欲に塗れている。
 俺が相手でなければ、アーチャーは自身の行いが感謝に値するものでないことを説明していたかもしれない。しかし相手は俺だし、俺はこのように、アーチャーの行動原理が利己的なものであることを理解しているし、アーチャーも俺が理解していることを理解しているのである。
 ……うーん、ややこしいな。『こいつならわかっているはず』という確信があるのは一見便利に見えて、普通の会話がとっても迂遠な感じになってしまってよくない。
 俺の眉間にも気づけば皺が刻まれていて、アーチャーと似たような表情になっていた。ぐにぐにと強ばる眉間を解す。
「――で? まさか話というのはこれで終わりか? 私はてっきり、先ほどは途切れた契約についての詳細を聞けるものだと思ったのだが」
「いや、その通りだ。話はまだある。俺がしようとした契約について――、」
 お互い座ると、体格差から俺がアーチャーを見上げる形になる。
 アーチャーはひどく集中した様子で、俺がどれだけ小さな声で語ったとしても、一言として聞き漏らすつもりはないのだろう。この真剣さこそが、彼が俺の行く末を案じてくれていることの証明だった。
 だから、喉が渇く。ありもしない固唾を呑もうと喉がぎこちなく上下した。寒さだけではない震えに追い立てられるように、俺はようよう続きを紡いだ。
「――俺は、お前と同じところに至りたい。それが叶うなら世界と契約したって構わないと思っている」
 
* * *

 束の間、部屋がほの赤くなったような錯覚がした。
 あるいはそれは錯覚ではなく、開いた瞳孔のせいで実際にそう見えていたのかもしれない。
 そんなどうでもいいことを考える頭だけは働いていた。それが余計に、今の言葉の真意を理解できない自身の狼狽さを際立たせるようだった。
 冗談やはったりではないことはわかっていた。だから、相手の正気を疑うしかなかった。
 守護者となるために守護者になる? 常軌を逸した提案だ。守護者になるのは願いを叶える代償であって、つまりは罰なのだ。私はそれをよくわかっている。
 なのに、こいつはその罰こそが望みなのだと言う。わざわざ私を呼び止めて、宣誓のようにそう語っている。
 自分の沈黙が長いことを自覚して、何か言わなければと口を開きかけたが、どこからどう言えばいいのかわからなくて結局言葉にならなかった。
 こいつがこんな馬鹿げたことを言う想定なんて、今の今まで、ほんの少しだってしたことはなかった。いつもあらゆることを想定して備えている分、完全に想定外の出来事に、思考が一時麻痺していた。
「自分が何を言っているのかわかっているのか?」
 なんとか絞り出したのは、こんな時間稼ぎ。
 それも、少年がすぐに頷いて返したので、ほとんど意味はなかったが。
 ――幸いなのは、向こうも黙ってこちらの様子を窺っているらしいところか。
 長い沈黙は私の困惑を雄弁に物語るものだったが、士郎がそれに口を挟むことはなかった。考えを整理する時間が欲しいというこちらの事情を、賢しくも察知しているらしかった
 まあいい。とまれ、考える時間は十分にある。
 先ほどまでより少し論理性を取り戻した頭で、私は何がこの男をこの結論に導いたのかを考える。
 どんな願いと引き替えにしても、アラヤとの契約など絶対に交わしてはいけない。今の私は特にそう思うし、士郎にもそれは十分伝わっているはずだ。それを前提とした上で、それでも契約を結ぼうとするのはどういう時か。
 ……決まっている、己の願望がかかっている時だ。自分の力の及ばないところにいる誰かを、救い上げようとするときだ。
 そして今このとき、その〝誰か〟とは私のことだった。
(――――)
 私は、衛宮士郎が守護者に成り果てることの罪深さを知っている。目の前の少年への殺意を撤回したからといって、自身の過去への悔恨がぬぐい去られることなどありはしない。
 こんなにも、悔いているのだ。私の抱く己自身への殺意の深さは、同調を経て余すところなく伝わったはずだ。
 なのにどうしてこんな結論に至るのか。それが――、わからない、と思いたかったが。
 だが、一つしか無いのだ。こいつがこんなことを考えるようになったのは、私のためでしかあり得ない。
 永劫の檻に囚われた私のために、自らもまたその身を投じるのだと。こいつの宣誓は、そういうことを意味していた。
 それを正しく理解すると、あんなに言葉に迷っていた唇が勝手に開いて声を紡ぐ。
「――私は、そんなにも哀れか?」
 意味もなく握りしめた拳はみっともないほどに震えていた。
 感情が手に負えないほどに揺らいで、脳髄を内から融解させていく。
 何もないのに息が乱れる。頭がどうにかなりそうだ。こんな、こんな屈辱はなかった。
 気づけば私は立ち上がって、座る衛宮士郎を相手に声を張り上げていた。
「私は、お前を最も愚かな選択に駆り立てるほどに、可哀想だったか?! 一言だって求めたことのない助けを、我慢して声さえ出せずいるような、そんな無様に見えたかよ! ふざけるなよ! オレは一度だって、そんなバカなことを願った覚えはない!」
 私がまったく理性的でないのと対称的に、当事者である衛宮士郎は落ち着き払っていた。こちらに呼応するように立ち上がったが、何かの衝動に支配されてではなく、単に少しでも目線を近づけようとしているだけに思える。
 静かな様子も、凪いだ橙の瞳も、彼の発言が一時の気の迷いではないことを証明しているようだった。
 立ち居振る舞いの全てから自分は正気なのだと主張しながら、私の糾弾に応じて士郎ははっきりとこう答えた。
「お前のためになんて言うつもりはない。俺は俺のために、そうしたいと決めたんだ」
 ……あくまで己は、己のために。
 そうとも。選択のすべては、自分のため。相手の意思など勘案しない人助け。
 衛宮士郎が誰かを助けるのは、いつだって自分のためだった。
 当たり前の事実を叩きつけられて、肩の力が抜けてしまった。尽くす言葉には何の意味もないのだとわかれば、力ない笑いさえ湧いてくる。
 私のためにだと言うのなら、私の懇願には意味があったろう。だけど、そうではないのだ。
 自分のために走り抜ける限り、衛宮士郎は決して止まらない。誰の助言も意味をなさない。それが家族からのものでも、恩師からのものであっても。当然、同一存在からの忠告であろうとも。
 説得に価値はなく、かと言ってもはや道行きを見守ることも適わない。私は泡沫の影法師。聖杯の消失とともに消える仮初めの命だ。
 そして聖杯戦争は、このままではあとわずかで決着する。
 長く見ても残り数日。それっぽっちで心を決めた衛宮士郎を説得できるとは、私には全く思えなかった。

 ――つまり、彼の滅亡への自走を止めるには、もう、今しかない。
 そう結論を出すまでに、多分一秒もかからなかったろう。

 心は今までにないくらい変動し、多面的で、とても説明のできる状態ではなかった。
 初心を達することへの昏い喜び、人の気も知らずに決断してしまった少年への怒り、こんな結末を許した自分への失望、絶対に止めなければと喚き散らす責任感――。
 そういうあらゆる無様さを内包したまま、私は右手に刃を握った。
 いつになく鋭利なその切っ先は、原初の殺意で象られていた。

* * *

 予想をしていなかったわけではない。この近距離からの不意打ちに、二回対応できただけでも上出来だったろう。
 しかし魔術回路は未だよく働かないし、何よりアーチャーの動きは効率的で、無駄なく、あっという間に俺を追い詰め組み敷いていた。
 ひと二人地面に倒れ込むのに巻き込まれた椅子が結構な音を立てて横倒しになる。
 その音の余韻が終わるより先に、アーチャーは俺の首筋に刃を押し当てていた。
「…………」
 刃先は肌に触れている。頸動脈の真上を正確に捉えていて、ほんの少し押し進めるだけで、緊張に脈打つ血管は盛大な血しぶきをあげるだろう。
 小指分の太さしかない血管など、アーチャーならば豆腐を切るのより容易く切断できる。特別なことは必要ない。あと数センチメートルで、俺は致命傷を負う。
 なのに、アーチャーはそうしなかった。
 ギ、とアーチャーが歯噛みする音が鳴った。皮膚に置かれた剣が震え始める。殺意と戒めのせめぎ合い。殺すなという命と、殺さねばという思いの拮抗。
 俺は最初の夜、こんな光景を見たことがあった。
 ――令呪。
 今、アーチャーはそれに縛られている。一番初めの、誰も殺すなという命令に。
 そして、令呪の戒めが発動するという事実は、彼の殺意が本物であるという証明でもあった。
 それでもアーチャーは諦めず、見えない壁でも切り裂こうとでもするようにしばらく奮闘を続けたが、どうしても無駄だとわかると投げやりに剣を放り出した。無機質な音を立てて、部屋の奥へと転がっていく。
「きっと、後はうまくいくと」
 カラカラと金属が滑る音に、ぽつりと落ちた独白が紛れる。
 無手になった両腕をだらりと下げて、しかし俺の体の上からは退かず、感情の抜け落ちたようなアーチャーが語り出した。
「……思っていた。今だってもう、私が思うよりもずっと、いろんなことがうまくいっていたから。
 あと数日、ここから先は一人も死者を出さないまま、お前にはイリヤがいて、セイバーにだって遠坂がいて、それなら何も案じることはない、と――」
 仰向けの俺を跨がったアーチャーが見下ろしている。蝋燭の火は無作為に揺らめいて、男の輪郭にちらちらと影を作った。
「だから、私はお前を守り抜こうと。決して死なせはすまいと。……そう、思っていたんだ。ついさっきまでは」
 窓のない部屋には月明かりも射さず、星の光も見えず、炎の赤い光が明か暗かの二択を強いている。アーチャーの顔は影となって、表情一つ窺えない。
 ただ、顔も見えないアーチャーの平坦な声の連なりは、却って絞り出すような慟哭を思わせた。彼自身が自覚しているかも怪しいが、アーチャーは酷く傷ついているのだと、俺にはわかった。
 それでも何も言わないでいる俺に言い募るでもなく、ほとんど諦めたような様相で、最後にアーチャーは俺に尋ねた。
「……どうして、私にソレを伝えたんだ。こうなることくらいわかっていただろうに」
 ――尤もな疑問だ。
 俺だって、何も告げないままの穏やかな結末を夢想しなかったわけじゃない。
 何も告げず、黙ったままでいれば、少なくともこの聖杯戦争の終わりまではお前をこうも苦しませることにはならなかっただろう。
 だけど、それを言うなら、アーチャー。
 お前だって、今こうして刃を振りかざしたりなんかしない方がよかった。適当に笑って頷いて、信頼させて令呪を使い切らせてから、油断してる俺を殺せばよかった。
 それが最も合理的な手段だ。だけどアーチャーはそうしなかった。
 できなかったからだ。感情に負けたのだ。……俺と同じように。
「伝えるべきだと思った。そうじゃなくちゃいけないって、心が言うのに従っただけだ」
 長く閉ざしていた口をようやく開いた俺を、アーチャーは否定も肯定もせず、嗤うことも悲しむこともせず、何も言わず、ただ見ていた。
 俺も、もはや語る言葉を持たずに見つめ返す。


 ――そうして、あるいは夜明けまででもそうしていそうだった二人だけの空間を、突如鐘の割れるような音が切り裂いた。
 アーチャーがわずかに反応する。鷹の瞳がこちらから逸らされて、音の出所を探った。
 騒音は一度では鳴り止まず、次第に俺にも、それが警告音であるのだとわかった。
 鳴り止まない警告音に、ついに俺を置いて立ち上がったアーチャーは、本当に一瞬だけ逡巡らしきものを見せたが、あとは振り返ることなく廊下へ駆け出て行く。
 俺も遅れて体を起こす。これが警告なのだとしたら、発しているのはアインツベルンで、その意図するところは一つしかない。
 堅く閉ざされた冬の城に、招かれざる客が近づいてきていた。

Comments

  • スラスラ☆ダイスキ

    2人とも、互いに素直になったなぁと感じました。目的のためなら策を選ばないアーチャーが、令呪に縛られているのについ士郎を殺そうと動いてしまうとこ、好きです。また、わかってながら、宣言する士郎もすごくいいです! 2人とも、すごく好きです。

    September 10, 2019
Potentially sensitive contents will not be featured in the list.
© pixiv
Popular illust tags
Popular novel tags