#21 英雄前夜
士弓主従の第五次聖杯戦争ifストーリー二十二話目。腐向け。
版権元:Fate/stay night
注意(シリーズ共通):
腐向け(士弓)、ねつ造、設定改変、独自設定、重大なネタバレ、原作程度の暴力表現・流血表現
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「このド素人が!」
戦闘終了後、血と泥で塗れた顔と装束を拭いもせずに、詰め寄ってきた男性に殴り飛ばされる。反撃の意志もなく黙って受けるが、よろめきすらしないことは余計に彼の不興を買ったらしかった。
ケブラーベストの肩口を軋むほどに掴まれる。そのまま背後の崩壊した家屋跡にまで押しつけられた。
身長は俺の方が高い。かつて視線をあわせるだけで見下しているのかと怒鳴られた経験から、自然と隠すように目を伏せていた。
「なあミスター・ホークアイ、ありゃあどう言う了見だ? 射的の腕前を見せびらかしたいなら一生VRに籠もってトロフィーでも集めてろ。それとも手足撃ち落として人間を芋虫みたく這い蹲らせるのがテメエの流儀か?」
「……違う。銃がなければ全員非力な少年兵に過ぎない、何も殺す必要はないはずだ」
「ハッ、こんな地獄まで来て天国への切符を大事に抱えて何になる。見ろよ、あそこで蠢いてるのはテメエが撃ち落とした半死人のガキどもだ。
その腕前は買ってるんだ、次は一撃で仕留めろ。士気に関わるんだ、戦争ごっこがやりたいならニッポンのママのところに帰ってくれ」
「急所は外した。今からだって治療すればちゃんと――」
「治療? オイオイオイ、マジでイカレちまってんのか? 銃弾すらケチらなきゃなんねえ最前線で、どこの誰が、どうやって、あいつらを治すっていうんだ?」
嘲笑は、根底に怒りを湛えたものだった。押し付ける力は問答の間も全く緩まない。
「敵は狂信者でテロリストだ。こっちと違って退役軍人や負傷兵への手当なんざ整ってねえぞ。オレたちだって一人も欠けずに母国の家族のもとまで帰還しなきゃならないんだ。包帯も薬も金塊以上の貴重品だ。わかるか? テメエの気遣いとやらはやつらの手足を飛ばして死ぬまでの苦痛を長引かせただけだ。弾の無駄で時間の無駄だ! 子供の悲鳴も呻き声も聞きたくないんだよ、こっちは。慈善活動がお望みなら余所でやれ」
口を噤んだ。何より、彼の怒声に正当性を見出したからだった。
誰だって同じだ。敵だからといって子供を積極的に殺したくはない。彼だってそうなのだ。誰も彼も、戦場において泣きたくなるほど真っ当な倫理観を保持していた。
それでも、その子供が武装してこちらを殺しに迫るのだ。「構わん、撃て」以外の選択肢があるとは、俺自身思えなかった。
「……だんまりか。いいさ、好きなだけ自分に酔ってな」
低く言い捨ててようやく解放される。口を閉じる俺に背を向けたこの部隊の隊長が部下を呼んだ。
「オイ! コイツが撃ったガキで死んでないやつらを全員集めろ!」
戸惑いも見られたが上官命令は絶対だ。間もなくして、未成熟な手足を血と泥で汚した少年兵たちが制圧直後の街の広場に並べられた。
数にして二十。泣き叫ぶ声は、現状においてはいっそ体力が残っている証拠に思え俺を安堵させた。5.56mm口径の銃弾が通過した銃痕は、当たりどころによっては彼らの細い手足を半ばから吹き飛ばしていた。骨と筋肉と腱を絶たれた手は力なく揺れている。子によっては、出血は致死量に思える。
「テントとシートは貸してやる。無い袖は振れねえからな、医療資源はお前の手持ちの分だけだ。後続部隊が到着するまでおよそ五日間。オレたちは一切手出ししない。っつーより構っている暇なんざねえからよ、先に進ませてもらう」
俺は軍人ではない。彼らに雇われているわけでもなかったが、戦場に於いて背中を撃たれることもなくこうして支給品の融通をしてもらえるだけ破格だろう。
重傷の子供たちを見かねて手当をしてくれていた隊員たちも、前進命令が出るとやむを得ず戦場へと戻っていく。自分の取り分であるはずの包帯の類を置いていってくれる者までいた。
紛れもない人の善性。家屋の陰から飛び出した小さな頭蓋を撃ち抜き絶命たらしめたものと同じ手が、「同じ年頃の息子がいるんだ」と言って同じ重さの金よりも価値があるだろう医療キットを握らせてくれる。
――五日間。
寝食の暇などなかった。ほんの僅かな日々。惰性とともに過ぎゆくほどの時間。一二〇時間の銃弾を用いぬ戦いは、一人だけの生き残りという成果を俺に残して終わった。
輸血もない。輸液もない。あらゆる医薬品が不足していた。医療が贅沢とされる現実がそこにあった。投影で器具を作り上げ傷を縫合してみせても、感染症という古来からの人類の敵に対して俺はあまりに無力であった。持っていた鎮痛剤も麻酔薬もすぐに使いきり、のたうつ子供たちが死んでいくのをただ見ていることしかできない。
幼い者ほど体力がなかった。一人きりの生き残りは十四、五歳の少年で、彼は最初の二十人の中でも最年長であるようだった。彼の右腕が失われているのは、傷口の洗浄が望めないと判断した俺が切り落としたからだ。貧血と脱水と発熱で意識が朦朧としたまま後続部隊に保護された彼は、目覚めた時に俺の無様を思いだして何を思うのだろう。
――少なくとも、感謝ではあるまい。
服越しに首から下げたペンダントを触る。治療術の一つまともに修められなかった己の無力を噛みしめる。
先行部隊からの救援要請が入ったという報を強化した聴力で聞き取って、俺は使いなれたライフルを手に取った。
/
どうやったら正義の味方になれるのか。
弱きを助け、強きを挫く――そんな使い古された文句に答えを見出そうとしたこともあったけど、すぐにそれは間違いだと知った。
いつだって人間を多く殺してきたのは人間だ。だったら人間同士の争いに、強いも弱いもあるものか。
金のためだけに生きているような人間が戯れに戦地の数千の子供を救うこともあれば、私欲を殺し家族の無事を願うだけの女性が数十人の兵士を毒殺することもある。
砂煙と硝煙を隔てた先の異国の兵士たちの善悪を計る手段を俺は持たなかった。
どちらも正しく、どちらも間違っていて、同じだけ苦しみ、同じだけ憎んでいる。
倒すべき悪はおらず、守るべき人は見つけられない。
話し合えばわかりあえるはずの同族が、銃口を向けられた途端言葉を忘れた獣と化す。
かつて助けた人が、また別の誰かを殺す。
地獄で命を拾っても地獄が続くだけなら意味がないとわかっていても、俺は最後まで殺人の連鎖を止められなかった。
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額に乗せられた冷たい感触に目を開ける。開眼の動作を意識的に行ってようやく、自分が目を閉じていたことに気づいた。身体を仰向けに横たえている。起き上がろうとしたが、鉛でできているみたいに重くて力が入らない。
「あ! 動いた!」
耳元でキンとするほどの子供の声。嬉しそうに弾んだ音色は、すぐに足音とともに遠ざかった。
風がない屋内。おそらく寝台に寝かされている。マットレスなんてものはなく、貼り合わせた板の上に厚手の布を敷いただけ。扉はないように見える。
捕らえられたわけではない。しかし前後の経緯が全く思い出せず、無言のままに警戒を強めた。思考を邪魔するボウとした感覚は発熱によるものだろうか。痛みはあるので負傷している。痛覚を信じるなら腹部だ。敗血症にならなければいいが――。
「ほら、おばあちゃん。目開けてるよ」
横になったまま思案していると、最初の声が戻ってきた。足音も声もどこか膜をへだてたように遠く感じるのは、熱で身体の機能が落ちているからだろう。
「本当だ。もう峠かと思ったがねえ」
新しい声がする。重いのを堪えて首だけでも横向けて声の主を確認する。
「無理しなさんな。喉が渇いたろう、水飲むかい? すごい熱なのに汗も出てないのがかわいそうでねえ」
老女と呼べるくらいの年齢の女性はこちらを気遣って水差しを口元に差し向けてくれた。
しかし喉が渇いていたのは事実でも、無警戒に飲む干すわけにもいかない。
「――ここは?」
寄せられる飲み口を無視して尋ねた。老女は気を悪くする様子もなく、水差しを一度枕元の台に戻し答えてくれる。
それは紛争地帯、そのど真ん中と言うべき都市名だった。どうしてこんな一般人が残っているのか重ねて問おうとして、ごわつく喉の違和感に力なくせき込む。
「大丈夫? 水飲んでいいんだよ。まだちゃんとあるよ」
咽せるほどの体力もない俺を見かねて少女が肩を撫でて励まし、さっき無視した水差しを取って口元に寄せてくれた。
警戒を理由に断るには、余りに無垢な瞳だった。観念して少しずつ口に含む。
拙いながらも俺の無事だけを願って送られる献身は戦場で見るのも久しい慈愛と看護であった。俺は自分が手当を受けていることそのものよりも、まだこういう人たちが残っているという事実に目を熱くした。
「大丈夫さ、兵隊さん。あんたにゃ生きる力がある、まだ死ぬには早い」
こちらの様子から勘違いしたらしい老女が慰めの言葉をくれたが、誤解を解く方が面倒だとわかっていたので俺は黙って頷いた。代わりに尋ねる。
「なんで、逃げない……?」
俺から、ではない。この街からだ。
避難勧告は出されている。冗談でも脅しでもなく、運が良くない限り、こんなところにいては死んでしまう。
まさか、俺のせいで残っているのだとすれば――。
「気になさんな。出て行ったきり帰らないうちの馬鹿息子が悪いんだ」
「うん。お兄ちゃんは関係ないよ」
俺の心配は杞憂なのだとあっけらかんとして言う。しかしどうにも納得できない。帰りを待つにしても、何もここに留まらなくてもいいはずだ。
「死にかけのくせに何を一丁前に他人の心配をしているんだい。いいから寝ちまいな、起きているだけでも辛いだろう」
そう言うと額に乗せられていた濡れた手ぬぐいがずらされ目元まで覆われる。ずしりとした冷たい重みが、反射で閉じた瞼に心地良い。
体も頭もまともに働かず分厚い膜にでも包まれているような感覚が続いている。休息が必要なのは自分でもよくわかった。早く治せば彼女たちの家族を探すのを手伝うこともできるだろうと、忠告の通りに一度眠りにつくことにした。
発砲音、壁を隔てたよりは向こう。
眠っている間も警戒できるよう鍛えた本能がアラートを発した。目を開けて跳び起き――ようとするが体がついてこずに失敗する。
今度は焦らずゆっくりと体を起こす。痛みが強く体を刺したが、発熱のおかげで全身の感覚が鈍ってもいた。なんとかなりそうだ。壁を支えにフラフラと立ち上がる。
耳鳴りとめまいも酷かった。絶対的に血が足りていないのだろう、立ち上がるだけで息切れが強く心臓が軋んだ。立ち眩んだのか真っ暗になった視界が落ち着くまでを待ちながら耳を澄ます。
嫌に静かだ。銃声を聞いたのは気のせいだったのだろうか。夢うつつの境界すらあやふやで、時間経過もうまくはかれない。老女たちを呼ぼうとして悩んだ。交戦が始まって彼女たちも息を潜めているのだとすれば、下手に声を上げない方がいい。
壁に縋ってもなお崩れそうになる足腰を叱責して布が提げられただけの質素な出入り口に向けて歩く。その途中、頼りのない自分の足音に被せるように、外から荒々しく走り寄る音を聞いた。立ち止まって顔を上げる。手の届く範囲に武器はない。仕方がないので背中を壁に預けて、両手を空けて待つ。
「フリーズ!」
垂れ幕を蹴散らして突入してきた男は、俺の姿を認めた途端銃口を向けて鋭く叫んだ。
警告してくるのであれば理性的な相手だ。刺激しないよう、言われた通りに静止する。
緊張が交錯する。俺が相手の装備から国連軍であることを読みとったのとほぼ同時に、眉を上げた男は「……エミヤか?」と声をあげた。構えたアサルトライフルはそのまま、片手が素早くゴーグルを上げる。見覚えのある顔。馴染みの軍人だった。
「生きてやがったのか。今度こそくたばったかってウチの連中みんなで胸を撫で下ろしてたってのによ」
台詞は辛辣だが親しみが籠もっていた。問答無用の発砲はないと判断して、待機させていた干将莫耶の設計を破棄する。会話が通じる相手が来てくれたのは幸運だろう。
「婆さんと子供がいたはずだが、どうした」
挨拶も省いて一番大切なことを聞いた。
彼が姿を見せてから気になっていることがあった。向けられた銃口から、まだ硝煙の臭いがする。
「その様子だと何も知らねえか。相変わらずメデタい野郎だぜ」
「答えろ。まさかとは思うが――」
「ご明察通りだ。射殺した」
さらりと告げられた事実の認識は早かった。どこかで予想できていたのもあった。
瞬間的に意識が熱せられる。体の不調も突きつけられた銃器も全部を忘れて吠えた。
「なんで殺した!」
「民間人だと言って接近してきたが、警告しても両手を挙げなかった。停止命令も聞かずなおも近づいてきた挙げ句、隠し持っていた手榴弾のピンを抜いた。明確な敵対行為に敵と見なし、投擲前に射殺した。
ババアもガキも両方便衣兵だ。気づかなかったか?」
「――――」
バカな、と咄嗟に思った。それでも結局口を噤んだのは、あり得るかもしれないと納得したからだ。いくら家族が大切でも、こんな戦地で待つなど正気ではない。この国では調停の体裁を被った戦闘行為に幾人も人が死んでいた。最初のきっかけや目的は忘れ去られ、恨みと怒りと恐怖だけが戦う理由に成り果てようとしている。
彼女が言った帰ってこない息子というのはもう死んでしまっていたのだろうか。子の敵と親の敵のために、ここでじっと待っていたのか?
傷ついた俺を、助けたのはどうしてだろう。
「……俺を、助けてくれたんだ」
絞り出すようにそれだけを言う。顔なじみの兵士は肩だけ竦め、
「ここの婆たちと同じ手口でウチの若いのが殺されて、全員殺気立っている。俺は聞き流しておいてやるが、不用意なことは言わねえことだな」
言葉を無くした俺にそう声をかけ、衛生兵を呼びに踵を返した。
/
結局のところ、悪い人なんてどこにもいない。
誰もが善性と悪性の両方を己の中に飼っていて、他人を慈しむことと害することを両立できる。
理由なく人を殺す悪もあれば、理由をつけて人を殺す悪もあった。
確かなのは、人が決して争いと傷つけあいを止めない種族であるという事実だけだ。
打ちのめされながら思い知る。それでも、と前を向いた。
必ずできることがあるはずだ。
昨日より善い今日を。今日より幸福な明日を。子供たちに平和な未来を。
その願いが誤りであるはずがない。
人の善悪すらも曖昧な現実に於いて、願い続けることだけが唯一の正義であると信じた。
諦めていても緩慢な破滅しか得られない。諦観と後退は、俺にとって紛れもない悪であった。
前へ。少しずつでも前へ。
原初の地。踏みにじった命の上で救いを得た。生き続けるための光を授かった。
始まりの地獄で誰かを見捨てて歩き出した時から、俺は前進だけが己の人生であると定義した。
こんなところで立ち止まってはいられない。
俺は、なしがたきをなすと誓ったのだから
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宝石を飲み下す。
頬張るほどの大きさのそれは丸飲みするには辛かったが、無理矢理にでも食道を越えてしまえばすぐに違和感もなくなった。
飲み込むのに邪魔だったチェーンだけが手元に残る。捨て置いてもよかったがどうにも手放せず、手に握りこんだままにした。武器と見なされて没収されなければいいが、どうだろう。
無機質な部屋は思ったよりも居心地が悪くなかった。この国の貧困さから考えればかなり良質な作りの部屋ですらあった。セキュリティの都合を考えれば、自然と設備も近代的で清潔なものになるのだろう。座り込んだ床で壁を背もたれに首を上向ける。カメラでの監視を考慮してのものか、照明の明度は高く二十四時間落とされることはなかった。
異様な術を使うと噂される俺を恐れてのことなのか、鉄格子の先に見える限りの通路に人影はない。ぼんやりと天井を眺めたまま思う。
(――今からだって逃げ出せるな)
半端に環境が整っているからだろう。あれこれと考えばかりが浮かんでは潰える。
警備の者達の個人的な私刑により被った軽傷以外は、これといって怪我もしていない。コンディションは悪くなかった。今までの九死に一生の日々を思えばいい部類にすら入るだろう。
元々鍵開けや脱出といった行為は得意なのだ。電子機器類の投影は不得手なので手錠の電子錠と施設入り口のセキュリティーロックの解除は力任せのものになってしまうが、逆に言えば手段を問わなければこの程度の拘束は全く意味を持たないものであるということでもあった。
建物は四階建てで、ここは地下二階に位置する。解析で読みとれる間取りは極スタンダードな建築なので、中央監視室も警備員の詰め所も正面玄関も、おそらく予想通りの位置にあるはずだ。
運命の時まで二十七時間。期限が近くなれば、警備もより厳重に、マスメディアなどの人目も増えてしまうだろう。決めるなら早くした方がいい。
何度目かわからない再考をする。ここで死ぬメリットとデメリットを慎重に吟味する。
大きなメリットは二つある。これが魔術師の手によるものではないということ、もう一つは俺に首謀者の罪が被せられていることだ。
封印指定を執行されるのは一番避けたい。死後の契約も控えている身で生きているのか死んでいるのかわからない永劫に捕らえられるわけにもいかないし、俺の起源を元に魔術礼装でも拵えられてしまえば、早々平和的な使われ方はしないだろう。そういう意味では人目につきながらも魔術的要素が一切関与していない今回のようなケースはうってつけだ。死体を人知れず悪用されるおそれも、おそらくかなり低いだろう。
そしてもう一つ、俺に着せられた罪のこと。これがかなり魅力的であった。俺一人の首でこの泥沼の紛争に終止符を打てる可能性があるのなら、賭ける価値は大いにある。
果たせることが残されている内は死ぬわけにはいかないとここまで歩み続けたが、結局いずれは避けられない死を迎えるのであれば、より有意義なものにすべきだ。この先の俺が救えるかもしれない人の数と、今ここで死んで齎される平和な光景を秤に掛ける。この先の成長、老化、時代の流れ、あらゆる全てを考慮して何度も何度も試算して、これ以上の機会が二度得られるとは思えない、と結論する。
見上げていた目を閉じる。網膜に焼き付いた照明の影を睨みつけて、繰り返した答えを反芻した。
ここで死のう。それが最良の結末であるはずだ。
いつまでも忘れ得ない炎に満ちた始まりの地に問う。あの日置き去りにした全ての生命に、恥じない最期であるのかを。
日本、冬木。顔も薄れた家族の姿を、連想して思いだす。わずか十数年の年月で、俺は彼女らの声すら忘れていた。
「いってらっしゃい」と、確かに送り出されたはずだったのだけど。
覚えていられることは限られている。不義理なやつだと自分を嘲る。忘れてしまったまま取り返す機会はなく、この先もう二度と会うことはないのだろう。
――そんなことを思った、そのとき。
無警戒だった俺を不意に暴力的な感傷が襲って、不格好に喉が鳴った。戦慄く唇を隠すために噛みしめる。カメラから逃れるように俯いて、手錠の先の拳を握った。
二度と出会えない。そんな当たり前の事実に、ついに実感が追いついてきた。それだけのことだ。それだけのことなのに、言葉にはできない悲しみのような不甲斐なさのような感情が、鳩尾のあたりに渦巻いて心臓を締め付けた。
せめて最後に、もう帰りは待たなくていいのだと伝えたい。
ありがとうの一言を、告げることだけでも許されたい。
独房はただ静かであった。だから余計なことを考えてしまう。
この施設にも国際電話くらいはあるだろう、そこに行って帰るだけ、十分もかかるまい、残りの数十時間の内の一部だけだ、必ずここに戻ってくるから、誰の迷惑にもならないから――。
――だけど当然、そんなことができるはずはない。
ぐう、と喉で音が鳴った。大戦犯が最後に言葉を交わしたがった相手など、取り立たされないはずがない。どんな関係であったのか、真偽交えて報道され、創造され、姉代わりであった彼女の教育責任を問う声も絶対に挙がるはずだ。
目を開けて床の灰色を眺めた。握りしめていた拳を努力して弱める。汚れた手のひらに残る食い込んだチェーンの痕の痛みを思って気を紛らわす。
できるだけ何も考えないようにしよう。曲げた膝に額を預けて再び目を閉じる。生き急いだ生涯と反比例するように時間の流れは限りなく遅く、余りにも遠いあと一日と数時間を待った。
/
泡沫を過ぎる。
深海に沈むにも似ているが、自らの覚悟を必要とする点は、冥府への階段を下るのにこそ近かったかもしれない。
自分自身ですら覚えていなかった欠片たち。いつかに砕け、この先もっと薄れていくだろう日々の記憶。
一度止まれば再び踏み出す勇気がないかもしれないことに――どこにも到達できないという事実で積み上げた犠牲を裏切ることに恐怖して、突き動かされるように進んできた。
そうして、閉ざされた門に到達する。進む道がなくなったことに困惑して、惑いながらも仕方がなく足を止める。手を触れてみるが固く、きつく封をされてしまっていた。
こんなところで立ち止まってはいられないのに。そう困り果てた自分を見かねたかのようなタイミングで、誰かの声に呼び止められる。
なあ。その先には行かない方がいい。
多分、いや、絶対に、お前は後悔することになる。
……口では説明できないな。正直に言って、自分でもうまく思い出せないんだ。
ただ、呆れるくらいの数の人を殺した。
途中まではもしかしたら数えていたのかもしれないけど、何もかもどうでもよくなった。
数えきれず果てがない量を指して、人は無限と呼ぶのだろう? うん。だから、この先にあるのは無限に続く殺戮の記録だ。
殺した人も、助けた人も、見捨てた人も、置いていった人も、住んでいた場所も、学校で習った知識も、今朝食べたものも、今日の日付も、さっきまで思っていたことも、かつての約束も、家族の顔も、自分の名前も、全部忘れてしまえるくらいたくさんの、人殺しの記録だ。
本当はここまで来るのもやめた方がよかったんだ。
だって、もう自分の名前がわからないだろう?
こうして話している俺が誰か、今のお前にわかるのか?
――――。
ああ、なるほど。
そうだな、俺も答えを知らない。俺も自分が何なのかがもうわからない。
答えがない質問は無効だって? 面倒くさいやつだな。揚げ足を取るなよ、これでもちゃんと心配して言ってやってるんだ。
――頑固者め。知らないぞ、どうなっても。
本当はさ、見られたくないんだ。きっと、お前も俺のことが嫌いになるから。死んだ方がマシだったって、思うようになるから。
……今更かな。まったく、下手なことは願うものじゃないな。
反省しているんだ、これでも。いつまで覚えていられるかはわからないが。
駄目だな、本当に。私はいつも、間違えてばかりだ――。
「……いいさ、行けよ。
それで精々後悔すればいいんだ、愚か者」
泣きそうな声で笑う。
それに振り返るより先に地獄への門が開き、引き返すことはできなくなった。