#20 逆巻く剣
士弓主従の第五次聖杯戦争ifストーリー二十一話目。腐向け。
版権元:Fate/stay night
注意(シリーズ共通):
腐向け(士弓)、ねつ造、設定改変、独自設定、重大なネタバレ、原作程度の暴力表現・流血表現
*諸事情により来月分の更新も難しいかも知れません
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初撃必殺。
それこそが暗殺術の極意にして最低限果たすべき目標だろう。ならば最初の奇襲を看過された時点で、葛木は手を改めるべきである。
しかし彼の戦法は愚直なまでの前進だった。一撃で守った腕ごと首を撥ね飛ばしてあまりあるアーチャーの刃を、一切恐れず接近のため低い姿勢で狭い足場を蹴る。暗殺者というより、修道僧に近い攻め。
無防備にすら思える突進に反射的に動きかけたアーチャーの腕が、振りかぶった段階で不自然に静止する。あからさまに晒されている急所は首。ここを落とせば、もちろん葛木は落命する。
――ゆえにこそアーチャーの手は止められた。瞬きにも満たぬ硬直をくぐり抜け、葛木はセイバーにすら通用した魔拳の支配する間合いに到達する。
一部が破壊され不安定に振れ続ける狭い足場。足を滑らせれば間違いなく死亡するだけの高所。あまりにも無謀な命知らずの挑戦。
間違いない。葛木は、アーチャーに課せられたサーヴァントにあるまじき制約を知っている。
「狙いはお前だ! 離脱しろ!」
極端に動きが制限される戦場の中、俺を庇うアーチャーの背中から叱責が飛ぶ。呆けていたのを自覚して、返事の代わりに身を翻す。
なぜ生きていたのか、は今論じても仕方がない。勝者である遠坂がやつの命をどう扱おうと自由であるのなら、こうやって生き永らえる可能性もあってしかるべきだ。なぜ令呪の内容を知っているのかと驚きもしない。俺を一時捕らえたキャスターは俺の記憶と思考を覗いていた。そのマスターである葛木に、なんらかの手段で敵の最大級の弱みを伝えていたとて不思議はない。
……俺を狙う理由も、一々考える必要はない。マスターの権利を有する限り、サーヴァントを失おうがマスターは聖杯戦争への参加権を失わない。同じようにマスターを失ったサーヴァントがいれば、再契約して戦場へと復帰できる。今聖杯戦争に残る主従は遠坂とセイバー、イリヤとバーサーカー、慎二とライダー、マスター不明のランサー、そして俺たちの計五組。誰だって素人のマスターを狙おうとするだろうし、令呪のことを知っていればなおさらだ。
どこまでが葛木の策略なのかは知らないが、確かなのは、俺たちが藤ねえを餌にこの狩場に誘い出されたということだった。ならば敵が有利を得る舞台に、付き合ってやる義理は微塵もない。
葛木の驚異は初見にこそある。元々アーチャーは戦上手、戦場の不利があろうと種の割れた奇襲に敗れるようなやつではないし、命を奪わずして敵を無力化する手段などいくらでも有している。
アーチャーが葛木を殺せなくても、葛木もアーチャーを無力化する力を持たないのだ。心配などするだけ無駄だ、今は俺が一刻も早く脱出することが一番の助力になる。そう判断して、パイプが伸びる先、建物の方へ駆けだした。
そこから、およそ十歩。戦闘の気配を背後に、振り向かずただ走り抜ける。その道程の半ばにて、
「……逃がさんぞ、衛宮」
背中にかけられる声と同時、ウワンと唐突に足場が撓んだ。パイプを束ね固定する金具が耐えかねたか呆気なく弾け飛ぶ。
震脚、という技法がある。本来は拳撃の威力を高めるための前動作。それが今、完璧に計算された地点と威力を以て発せられ、限られた足場を破壊した。
「ンな――ッ!」
この高さ、まともに落ちれば即死する。とんだ自殺行為に葛木の正気を疑ったが、体勢を制御する折に目に映った彼の様子を見るにすべて覚悟の上だろう。
空中に投げ出されながら元足場であったパイプに手を伸ばしかけたが、掴んだところで諸とも崩落しており命綱にはなり得ない。どうする、と思考を加速させて打開策を探る。アーチャーは、と探す姿は葛木のほど近く。
「この状態でもか……!」
落下そのものへの恐怖など微塵も見せず、忌々しそうに舌を打つ。それを見て俺はアーチャーの置かれた状況を察した。
令呪の縛りだ。アーチャーには葛木を見捨てられない。……そう判断するための確証はないのだが、あえて言うなら俺ならきっとそれを願うというのが推測の根拠だった。
浮遊は数秒。頭からの落下は避けたいが、物理法則には逆らえずぐるりと体が反転していく。最初の立ち位置の違いか、俺よりもアーチャー達の方が下にいた。上下逆さまな視界の中、二人の姿は頭上に見える。逡巡の末、こちらに向かおうとしたアーチャーを制するように俺は叫んだ。
「こっちはいいから葛木を助けろ!」
同時、ずれて歪んだ魔術回路を励起させる。その強烈な違和感に身の危険を感じるほどの痛みと熱が走ったが、歯を食いしばりあらゆる制止を振り切って強制的に魔力を通す。自由落下の最中にあって強化するような宛てもないが、自分の肉体の強度を上げて乗り切るしかない。勝算とか、生存率とか、全部後回しだ。今はできることをできるだけやる。それでも足りないのなら、足りるまで持ちうる何かを燃やすまでだ。
向こう見ずが、と毒づく男の聞き取れないほどの声を聞いた気がする。それに答えずいつものフレーズを唱えようと口を開いたのと時を同じくして、頭上へと落ちる男が弓を取り出した。
「……動くなよ」
そんな無茶な! という文句を言う暇もなく。アーチャークラスの名に恥じぬ早業で、落下中という無理を感じさせない美しさで威力を抑えた一射が放たれる。
瞬く間に接近する先端に回避行動を取ろうとする本能を押さえ込んだ。よく見ればわかる、この矢は絶対に当たらない。
掠るほどの近距離。極限の集中状態に身を置いて、射の行く末を予測した。通り過ぎようとする矢を、動く左手で掴み取る。
「グッ――!」
肩が外れそうなほどの勢いに苦悶の声があがるが、効果の程は絶大だった。重力加速度を振り切って、アンカーを引き上げるような勢いでグンと体が逆行する。一瞬の間に視界が目まぐるしく移り変わり、体の感覚と現実の上下が一致した、と思う頃には初め目指していた建物はもう眼下にあった。
斜め上に撃ち上げられた形だ。人一人分の体重をここまで持ち上げてきてなお衰えない矢の勢いに感嘆しつつ、手を離して着地する。
久しぶりの地面にジンと痺れる足の痛みもそのままに、落ちていったはずのアーチャー達を探して振り返り建物屋上の縁まで駆けた。崩落したパイプ群が起こす騒音の中、身を乗り出して安否を確かめる。
果たしてアーチャーは無事だった。落ちたくらいでどうこうなるとは流石に思ってはいないが、敵である葛木の命を助けながら無力化するというオーダーも無事達成したようだ。黒い武装の足元に倒れ伏す葛木の姿にどきりとするが、見た感じ流血沙汰でもない。
アーチャーは後追いで落ちてくるパイプやら金具やらを手にした干将でテキパキと切り払っていた。それも終わるとようやく武装を解いて元の通りの無手に戻り、不意に顔を上げて海側の方を見た。倒れる葛木をそのままに、軽く地面を蹴ってその場を離脱し俺の方に戻ってくる。
「目立ちすぎた。逃げるぞ」
あってないような足場を器用に蹴って高所で待つ俺の元まで到達すると、それだけ言って返事も待たずに担ぎ上げようとするので慌てて避けた。
「……おい。遊んでいる暇はないぞ」
「いや、わかってる。俺もここを離れるのは賛成だ」
「ではなんだ? 運び方に文句があるなら自力で帰ってもらうが」
「それはもういいよ。あーっと、そういうことを言いたいんじゃなくてだな」
煮え切らない俺の態度にあっという間に不機嫌に突入したアーチャーの機嫌を察して言いよどんでる暇はないぞと勢いで続けた。
「ありがとう、おかげで助かった」
一対一での純粋な感謝の言葉に対するアーチャーの反応はわかりやすかった。最上級に不愉快な思いをしたと言わんばかりに顔が歪む。舌打ちだけ辛うじて抑えたみたいな態度そのままに、絞り出すよう低音で返答される。
「まったくだ。あの状態でどう自力で生き延びるつもりだったのか、弁明の準備は整えておけ」
言って今度は有無を言わさず担ぎ上げられる。……いや、言葉から受ける印象よりもう少し乱暴な持ち上げられ方をしたため否応なしに鳩尾が痛んだが、俺は殊勝にも文句を言わずに我慢した。
行きと同じく腹をアーチャーの肩に支えられ、俺の頭が担ぎ手の背中側にある運び方だ。背筋に力を入れて顔を上げて見てみると、騒ぎを聞きつけたらしい藤ねえが、瓦礫の中倒れている葛木に駆け寄っているところだった。
*
靴だけ脱いで玄関口に座り込み男を待つ。
「……何を一人で呆けている」
声より前に気配を感じて振り返ると、アーチャーが廊下の方から歩いてくるところだった。初めは透けて見えていた向こう側の景色が一歩進む度に隠されていく。どうやら霊体で戻ってきて、玄関にいる俺に気づき戻ってきたらしい。
「おかえり。どう帰ってくるかわからなかったから一応ここで待ってた」
――葛木を退けた後。
救急車だの警察だのと俄に騒々しくなった現場を遠方より見守り、その中心にいた藤ねえがようやく解放されて家に戻るまで見届けて俺たちも自宅に帰ってきた。アーチャーと一時別れていたのは、こいつが借りていたらしい車を返してきていたためだ。
返事がないのは想定通りだったので、帰ってきたのならばよしと立ち上がる。とっくの昔に日付を跨いだ深夜なせいか、立った拍子に目眩がした。さすがに疲れがでているのだろう。
目を閉じた途端泥になれそうな疲労感だったが、首を振るって気を取り直す。聖杯戦争が始まって一週間が経とうとしていた。残り五騎というのが多いのか少ないのかはわからないが、確かなのは、どんな形であれこの狂騒はいずれ終わるということと、アーチャーとはいずれ別れなければならないということだ。
色を失った男を見上げる。彼との対面はいつだって頭痛と不快感を伴ったが、表に出ないよう穏やかな口調を心がけて言った。
「――少し話そう。つきあってくれよ」
濡れ縁に腰掛け、後に続いた男には隣を指さしたが、アーチャーは無視して立ったままだった。
「喋りにくいだろ、これじゃ」
と文句をつけると、ならばこれで文句はないだろうと言わんばかりに庭に下りて一歩進んだところで振り返る。
「……で? 何の話をするつもりかね」
後ろにいられるよりはまだ向かい合っている今の方がマシなんだが、なんだかなあと苦笑しつつ仕方がないのでこのまま話を始めることにする。
「お前の話と、俺の話だ」
言うと、察するところがあったのかシワの入った状態で固定されている眉根がピクリと反応した。唇は固く引き結ばれ続きを促す言葉もないが、拒絶や逃避もなく俺の話し出すのを待っている。
さて。改めて話すとなるとどう切り出したものか。平静を装っても、ひどく喉が渇いていた。パンドラの箱を開けるという例えこそが相応しいだろう。
ただ、俺はその底に希望などないことを知っている。希望がないと知っていて、ただやらねばならないからという強迫観念だけを根拠に重く錆び付いた扉を開こうとしている。
惑って閉ざした舌が凍り付いてしまう前に口を開く。運命と言うには奇跡じみたこの必然を、無意味なもので終わらせるわけにはいかないのだから。
「……答え合わせをしよう、アーチャー」
俺の信じる理想とお前の信じた理想の形。
夢に似た記憶たち。胸が苦しいほどの実感を伴う苦悩と献身。
同じ地獄で同じ憧れを得た、出会わないはずの同位体。
――俺は、彼の名を呼んだ。
確信を持ったその声に、男は諦めたように目を塞ぎ、声もなく一つ頷いた。
心臓が跳ねる。不快に内側から肋骨を叩き、気道までが圧迫されるようだ。
言葉だけが、別の生き物のように動く俺の口から続いていた。他人事のようにそれを聞く。
「お前がかつて信じた理想は、今の俺の信じる理想だ」
「ああ」
「お前は理想に殉じたことを後悔したからここにいる」
「そうだな」
「聖杯を求めないお前の願いはただ一つ。『自分自身の手で衛宮士郎を殺すこと』。……本当にそれでいいんだな」
「そうだ。私は、お前を殺すことだけを願ってここにたどり着いた」
儀式のように確認を終えて。
そこでようやく俺は黙った。最も重要な回答は、あまりにも呆気なく提示された。
感情を置き去りに、思考だけが空転する。置き去りにされた感情が、思考を余所に加熱していく。
――これが。
こんなのが、こいつの真相だとするのなら。そんな馬鹿げたことだけが、今のこいつを規定する唯一だとするのなら。
コレはなんて哀しく、醜い怪物なのだろう。
彼の強さは本物だった。今の俺には想像もつかない研鑽の末、途方もない死線を潜り抜け、身体も心も火に焼べて、到達した終着点。
高みに至り、俺の願ったすべてを叶えて、英霊の座に名を連ねた。
その道程が苦難に満ちた難行であったとしても、終わりに死者の安息が得られなかったとしても、せめて、悔いのないものであるべきだ。
「まさか、当のお前に喚ばれるとはな。どうにも望むとおりにはいかないものだ」
言葉とともに息を呑んだ俺を置いて、アーチャーは不釣り合いなくらいに普段通りの口調で話し出す。
「その結論に至ったのなら、私から言えることは一つだけだ。行く先の無意味さも、理想に生きる愚かさも、十分身に染みただろう」
変わらない態度。その一言目で背中中が粟立った。馴染みがある感覚、――俺の根源が揺らがされる予感と恐怖。
「――やめろ」
「子供時代は、これで終わりだ。もう、」
「黙れ……っ!」
「……もう、正義の味方は諦めろ、衛宮士郎」
「黙れと言ってる!」
血潮が沸く。気づけば立ち上がっていた。
「お前が私を喚んだんだ。その幸運を活かすべきだ」
「幸運なもんか! なんだってアンタに、そんなことを言われなきゃいけない!」
「オレじゃなければ誰がお前に教えてやれる?」
みっともなく吠える俺を見下ろすアーチャーの瞳は凪いでいた。炉心そのものの激情を隠して、未熟な子供を導こうとしている。
俺は混乱していた。
こんな仕打ちを受けるだなんて思ってなかった。裏切られたような気持ちだった。千の罵倒を浴びせられる方がずっとよかったと確信できた。
この男は、本当に、俺の身を案じてこう言っている。
それはあらゆる別離よりずっと生々しく俺の心を裂いた。
「――この先お前は誰もが幸福であるという結果を得るために、幸福を生まない人たちを切り捨てていく。幸福とは何かを定義できないから、不幸を切り捨てて全体の幸福だけを求め続ける。目に付く厄災全てを除けば世界は平和になるのだと、馬鹿げた狂信に無数の人の命を焼べ続ける!」
「違う! 確かに救った命があった! アンタは最後まで理想を裏切らなかった!」
「だからこそ醜悪なんだ!」
張り合うように声を上げたアーチャーが、ハッとして一度言葉を区切る。行き場のない感情を喉元で収めるための唸りが漏れた。
呼吸が荒れて、乱れて、胸が苦しい。それでも彼が平静に言葉を交わそうとしているのがわかったから、俺も必死で怒声を殺した。
「誰かが、信じ続けなきゃ。理想になんてなんの意味もない」
「そうだよ。……その通りだ。無意味なんだ、お前の理想は。
本当はわかっているはずだ。遠坂とイリヤの対立を止められないように、どうしても仲裁できない諍いというものは存在する。おまえは、誰よりも世界が平和にならないことがわかっている。誰もが幸福である瞬間なんて決して成立しないと知っている!」
「……それが、世界の真理であったとしても。そうであるからこそ! 俺は正義の味方を目指すんだ。そういう約束だっただろうが……っ!」
「そんなものは捨ててしまえ!」
――激昂。
身構える暇などなかった。人知を越えた速さで胸ぐらを掴まれ濡れ縁に叩きつけられる。衝撃に呼吸が乱れて強制的に黙らせられた。
黙ってたまるか、と視線だけでもせめて饒舌に、反感を込めてアーチャーを睨み上げた。男の輪郭越しの月明かりが目に目映い。
「いつまで子供のままでいるつもりだ。そんな理想論じゃ回らないんだよ! 誰の救いにもならない、お前のちんけな自尊心が満たされるだけだ! それもすぐに乾いて費える。無意味だ、本当に、何の意味もない……!」
「だから殺すってのか? 衛宮士郎なんて生まれない方がよかったって? そんな話があるかよ!」
一度だって、見返りを求めることはなかった。
本当に自分の命を使い切るそのときまで、他者の幸福だけを願い続けた。
誰も泣かずに済むのなら、それ以上のことはないって。
殺したくなんてなかった。最善を求め続けた。幸福も名誉も死後の安寧も、持ちうる全てを人々の幸福のために捧げ続けた。
助けたはずの人からも罵倒され。誰にも理解されることはなくて。
それでも、幸福の種を守れたのならと笑って死んだ。
それが。そのバカみたいな生涯が!
「無意味であってたまるものか――!」
見上げる顔がぼやける。くそ、と毒づいた。鮮明な視界を取り戻したくても、動くはずの左腕は男に肩を踏みつけられていて動かない。
みしり。不吉な音がしている。加減を忘れた圧力に男の脚を蹴り上げたが、びくともしない。胸ぐらを掴んだまま上体を傾けたアーチャーが、感情に負けて震える声で囁きかけた。
「これは忠告じゃない。預言だ。おまえはこの先人を殺す。人殺しを濯ぐための殺人をこれから死ぬまで繰り返す。死んでからも、永遠に。血と臓物の臭いが染み着き、乾いて、また塗れて、何もわからなくなる時まで。効率の良い人の殺し方以外、何も思い出せなくなるその時まで!」
「もういい……」
「どうした? 弁明して見せろ! オレが積み上げた屍の山を、正当化するだけの免罪符があるんだろう!?」
「もういい……!」
「オレが最初から間違っていた! 衛宮士郎は生まれてくるべきではなかったんだ!」
「もういい、アーチャー!」
耐えきれず叫んだ。眼球を熱くする液体を懸命に瞬いて追い払う。
踏みつけられた左肩の痛みも、肉が割れて血が滲みそうな気配も、一番の痛みを誤魔化すには足りなかった。
互いに大きく乱れた呼吸に肩を上下させる。逆光は、俺を糾弾する彼の表情を優しく隠してみせていた。
「……今ここで、廃棄しろ。人は理想のために生きることなんてできない。
ここから新しく生きていくんだ。真っ当な、人としての生を」
――送り出そうとしている。
俺の背を押して、俺という人格を作り替えて、俺が英霊にならないのを見届けて。
それでアンタは満足だろうさ。だけど、こんな勝手な話があるか?
「できないよ。できるわけないだろ」
声はどうしようもなく震えていた。ただ、苦しいと思った。
大事に蓋をして閉じこめた記憶の奥の奥。幼き日のまま固定されたいつかの己が、取り上げないでくれと怯えている。
「するんだよ。大丈夫だ、きっとできる。おまえには家族も友人もいるじゃないか」
「やめてくれ……。なんで、そんなことを言うんだ。それは俺たちの全てなんだ、アンタだって知っているはずだ」
なりふり構わぬ嘆願にも、男は眉一つ動かさない。
俺の言葉など何一つ聞こえないと――あるいは全て予想の内だと言わんばかりだ。聞き分けない子を諭す親にも似ていた。
「理想を捨てて、日常に生きろ。……それを聞き届けられたなら、それで私は満足するさ。あとはその令呪で自害を命じれば、お前の聖杯戦争はおしまいだ」
「できない……っ」
「やれ。もしくは、今ここで貴様の息の根を止めるまでだ」
肩の圧が増す。靴底の形そのままに引きちぎられそうなその強さに、脂汗が滲み意識が明滅した。
悲鳴だけは上げるものかと奥の歯を噛みしめた。本気であることを疑いようもない殺気を発するアーチャーの鋼色の瞳とにらみ合う。
――思う。
一番正しい選択は何か。最後まで人として生きられなかった男の最初で最後の我が儘に、俺は何で以て報いるべきか。どうせ変えられない、かつての未来に確定した英霊エミヤの運命に、与えられるものはあるのかを。
道標を失う恐怖心のみで、彼の預言を切り捨てるのは正しいのか。
彼への同情を理由にして、二人の理想を棄却するのは誤りなのか。
……ただ、今は、心が痛い。
人の思いは、どうしてこんなにも報われないものなんだろう。
「――殺さない。できるわけがない。お前、本当に馬鹿じゃないのか? 俺がここまでされて、今更引き下がれるわけないだろうが……」
実際の涙をこぼしていたのは俺だけだったけど。
彼のこころが乾いていなければ、きっと同じ気持ちでいれたはずだ。
「そうか」
相づちは意識を介さずこぼれ落ちた証拠のように虚ろだった。機械に唱えさせてもきっと変わらない、温度も色もない三音。
「理想のために生きる限り、お前のあらゆる信念も、努力も、思いも。終着に破綻しか導かない。初めからやり直すしかないんだ。どうしてそれがわからない?」
「こっちのセリフだ、この分からず屋。俺がこの先人として生きられても、お前にはなんの救いにもならない。それでどうやって、俺がお前を置いていけるっていうんだ」
進展のない堂々巡りのやりとりに、アーチャーは意表を突かれたかのように目を瞬かせて「私の救い?」と鸚鵡返した。
「私は救いなど求めていない。……そうか、察しが悪いと思ったら」
そのまま踏みつぶすつもりだったと言われても疑わないほどの力をかけられていた左肩が不意に解放される。痕になっているだろう鬱血を庇う間もなく、掴んだ胸ぐらを持ち上げ、自身もより体を倒したアーチャーが焦点もあわない間近で言った。
「聞き分けないなら味合わせてやろう。私の全てをくれてやる」
柔らかな低温が唇を割る。視界一杯の褐色も、丁寧に伸ばされた舌の感触も、突然のことに理解が追いつかず静止する。その硬直をあざ笑うように、変化は誰にとっても明確に訪れた。
脆弱なままのレイライン。消滅を目前とするほどの飢えの中にあって、それでも同調を拒み続けたサーヴァント。
俺はその本当の意図をここでようやく理解した。
世のマスターたちが知れば羨むだろう。知りたいと願い、知らせたいと欲するだけの相互意志。アーチャーが拒絶の壁を撤回した途端、児戯のような粘膜接触ただそれだけで、主従の同調は最高効率に到達した。
只人と英霊。質量と密度の異なる同一存在。水が低きに流れるように、宇宙が拡大し続けるように。当然の原理に従って、アーチャーの有する全ての記憶が俺のちっぽけな自我を押しつぶす。
せめて己の知る全てに安らぎあれと願い続け、争いのない地平の実現を信じ続けた男の軌跡。
――――そこには、ただ。
目を覆うばかりの殺戮だけが残されていた。