#19 杯中の蛇
衛宮士郎がアーチャーを召喚する第五次聖杯戦争ifストーリー二十話目。腐向け。
版権元:Fate/stay night
注意(シリーズ共通):
腐向け(士弓)、ねつ造、設定改変、独自設定、重大なネタバレ、原作程度の暴力表現・流血表現
※諸事情により来月分の更新はスキップします。
- 170
- 110
- 4,019
「別にこんなものに頼らなくても、時速数十キロメートルしかない車を追う程度造作もない。――あの遠坂凛のように、貴様にも大衆の視線を欺ける程度の能力があればな。
緊急事態でもない状況で、神秘の秘匿に反するなんて理由で教会に横槍を食らうなど御免被る」
以上が一方通行も多い深山の住宅街を上手に尾行してみせている運転席の男の言い分だった。
「…………」
いや、もう何も言うまい。今や俺はこいつのアクセル加減一つで事故死一直線の席についているのだ。下手なところをつついて蛇だの鬼だの飛び出させてはたまらない。
「おい、これ誰の車だよ。車両窃盗で新聞に載るサーヴァントの方が御免被るぞ、俺は」
ただしこれだけは大事なことなので確認しておく。
隣のアーチャーは運転中なので当たり前だが正面を向いたままこちらには視線もくれず、少しも悪びれない態度で僅かに首を傾けた。
「さあな。なに、朝までには返すさ。ガソリンが減るのはどうしようもないが、空調系を修理してやったので費用としてはむしろお釣りが来るくらいだろう」
あまりにも堂々としている。しかし今更人の道徳を説いたところで意味はないとわかっていたので口を噤んだ。というか最初は無理矢理だったにせよ最終的にちゃっかり同乗して収まっている俺も同罪だ。
現在アーチャーの運転する車は追跡している藤ねえに気づかれないよう、ヘッドライトは切ったまま進んでいた。住宅街に街灯は少なくサーヴァントの運転でなければ慎重にしていても事故を起こすだろう。警察の目に入ろうものならこれだけで無灯火を咎められるし、さらに免許不携帯でおまけに盗難車だ。助手席の俺としては何事もないよう祈るしかない。被ったキャップも目深になろう。
少々の小競り合いを挟みつつ尾行は藤ねえと桜が別れた後新都に向かうのを追うところまで恙なく進んだ。幹線道路に出る頃にはようやくヘッドライトが役目を思い出して前方の夜闇を照らし始める。
大橋も越えて新都に入りしばらくすると、藤ねえは一度車を路上駐車して降りた。デパートの入り口前のちょっとした広場のようになっているところまで小走りでかけ、数人の成人が集まる輪のところに頭を下げながら合流する。アーチャーの方はあえてデパートは通りすぎて交差点一つ分先の路肩に停車した。
サイドミラー越しに藤ねえたちの姿を確認する。何か大判の紙を広げて話し合っているので、おそらく教師陣で見回りの箇所を打ち合わせているのだろう。
車内は無言のまま待つことしばし。話し合ううちに自然とできていた円陣が解散し、教師たちはそれぞれが別の方向に歩き出した。藤ねえはまたも小走りで停めっぱなしになっていた自分の車に舞い戻ると、近くの駐車場に一度入って転回する。
アーチャーは慌てた様子もなく発進して車の流れに戻ると、交差点ですぐにUターンしてかなり遠くなった藤ねえの車を追って走り出した。
「…………」
しばらくは車で移動するようだ。ほぼ法定速度そのままのゆっくりとした運転が続く。当然、それを尾行しているこの車の速度ものんびりとしたものになる。
窓の外を眺めてみたり、前を向いたり、バレないように運転席の方を見てみたり、無意味にシートベルトを直してみたり。大体一分間くらいそういう落ち着きのなさを発揮していると、流石に隣のアーチャーが怪訝そうにこちらを見た。
「なんだ、鬱陶しいな。……トイレか?」
運転中なのですぐに前に向き直ったが俺の奇行を気にしてか意識を割いているのがわかる。
う、と一音漏らして動きを止めた。落ち着きなく上下左右していた左腕を下ろして膝の上で拳を作る。
無論尿意を催したわけではない。単純に、沈黙が気まずかったのだ。
遠坂もセイバーもイリヤもセラもいない、藤ねえは前を走るがこちらに気づいてもいないだろう。狭い車内、二人きり、ハンドルを握る以上アーチャーとて流石に霊体化で逃走したりもしないわけであって、これは非常に貴重なシチュエーションではないかと気づいた次第だ。
「おい、どうなんだ」
「あ、大丈夫だ。なんともない。……大丈夫だって」
答えてなかったことに気づいて慌てて答える。赤信号で停車したアーチャーが疑惑の視線を向けてきたが、念押しすると「ならいいが」とまた前を向いた。
「…………」
――で、また沈黙する。そりゃあ、元からベラベラ喋るような性格でも間柄でもないのだから当たり前なのだけど。……なのだけど、だからこそこの早々ない機会を逃すのはいかがなものか。仮に今後俺が『一度腰を落ち着けて話し合いましょう』と誘ったところで十中八九まともに取り合うはずがない相手なわけであるし。
しかし何か話題を探すべきかと思案する俺と違ってアーチャーは全く気にした様子がないので、これがまたちょっとムカつく。ムカつくので何かもの申したくなるのだが、今現在のアーチャーの行動に非は見つからないし、大体ここで突っかかって「おっと手が滑った」とかで自損事故起こされたら溜まったものじゃないわけだし……。
(ダメだ、自分でもよくわからなくなってきたぞ)
動きは止めたのだが百面相になってしまっているのだろう、アーチャーは口に出して指摘こそしなかったものの合間合間で奇妙なものを観察する目を送ってきていた。
くそ、腹が立つ。おまえのせいだっつうの。
「あのさ――」
信号が切り替わり、アーチャーがこちらを向いていないタイミングを見計らってようよう口火を切る。半分ヤケだが、いい加減こいつ相手にぐだぐだと思い悩んでいる方が馬鹿馬鹿しい。思いついたことをそのまま話せばいいだろう。
「――おまえって、何か好きな食べものとかないのか?」
ポンと浮かんだ話題を振ってみる。大体どの場面でも通用する、無難かつそれなりに話を広げられる題目トップ3くらいには入る質問じゃなかろうか。
欠点としては俺とアーチャーはそんな無難な会話を繰り広げる仲じゃないというところで、実際アーチャーは俺の奇行の延長で飛び出した意図のわからない質問を最大限怪しんでいるようだった。「何言ってるんだこいつは」という声に出さない苦情が透けて見えるようである。
かく言う俺自身なんでこんなこと聞いてるのかよくわからなくなっていたが、もう口に出してしまったものは取り戻せないのでもう一押ししてみることにする。
「どうせ何か食べなきゃいけないんだったら、食べたいものを食べた方がいいに決まってる。だから好みの味とか、懐かしい味とか、なんかあるだろ」
重ねて問うと、アーチャーは不満そうに眉をしかめた。ハンドルを握ったままの肩を竦める。
「まずこれだけは言っておくが、私が食事摂取を必要としているのは偏に貴様からの魔力供給に不足があるからだ。最低限魔術師として機能しているマスターであればこんな目には遭っていない。
その上で食事について注文をつけるなら、食べやすさが第一だろうな。この体は口に入りさえすれば栄養バランスも味も関係ない究極の雑食だ。食べられるならなんでもいいし、であれば時間の無駄がないものがいい」
「……おい、俺の質問聞いてたか。『好きな食べ物はなんですか』って訊いたつもりなんだが」
見当外れな方向の回答を返されて思わずジト目になった。アーチャーのやつ、絶対わざとはぐらかしてやがる。
「くだらんことを気にするやつだな。そういう意味なら私に食事の好みはない」
「ないってなあ……。甘いのよりも辛いのがいいとか、薄いのよりも濃いのがいいとか、そういう傾向みたいなものもないのか?」
「くどいぞ。今もかつても変わらない、私は選べと言われれば最も栄養価が高く食べる手間が少ないものを選んでいた。
……食文化がもたらす精神的充実についてご高説を垂れるのは勝手だがね、私に文句をつける資格が貴様にあるのか? 好きな料理、好みの味付け、懐かしい献立――そんなものがおまえにあるとでも?」
ないに決まっている。そう言いたげな口調だった。助手席からじゃ横顔しか拝めないが、嘲笑に歪んだ口端がはっきりとわかる。
「あるさ。当たり前だろ」
だから俺は、間を空けないよう意識して即答した。
いつものようなアーチャーに対する矢鱈な反感ではなく、本心に基づく回答だった。
「俺は、桜の作る料理が好きだ。遠坂の中華もまた食べたいって思うし、同じ既製品の肉まんでも、イリヤと食べたやつの方が美味いと思う」
「――――」
道路沿いに設置された街灯の光は、周期的に前から後ろに流れて狭い車内を照らしていく。
彩度に乏しく明滅する視界の中、隣の男の眼差しから不意に力が抜けて、嫌悪も何もない無色の視線が一瞬こちらに向けられるのが見えた。
「……馬鹿が。それは“好きな料理”とは言わないだろう」
アーチャーの呟きはほとんど口内で潰える。
それを俺が拾い上げるより前に、やや乱暴な減速で体が前に傾ぎシートベルトが胸部に食い込んだ。
見れば、八台分くらい先を走っていた藤ねえの車がハザードランプを点滅させて路肩に停まっているようだった。となればこちらも停車するしかないが、あまり近づいては不自然になるので急遽ブレーキをかけたのだろう。
「……通話しているようだな」
俺が視力を強化して前方を窺うよりも先に、アーチャーが停車の理由を教えてくれる。それなりに時間がかかると判断したのか、ハンドブレーキをかけてギアをパーキングに入れた。片手はハンドルにかけたまま、座席に深くもたれ掛かる。
ラジオなんて気の利いたものはかかっていない。エンジン音に慣れた耳には沈黙がやたら目立って聞こえた。
――さっきの話題はもう終わりのようだ。だが思いの外まともに会話に応じてくれるようなので、話題を変えて話を続けてみる。
「……遠坂が言ってた、八人目のサーヴァントってやつ。どう思う?」
ポツリと呟く。去り際に残した言葉は彼女の餞別だろう。千金に値する情報だ、せめて活かさねば申し訳が立たない。
「率直に言って信じがたい。――が、認めないわけにはいかないだろう。聖杯から独立してなおあのセイバーを圧倒する力量を持つとはぞっとしないが」
「聖杯から独立……。受肉したって言ってたよな。それって結局どういう状態なんだ?」
霊体であるサーヴァントに肉を与えるので文字通り受肉である。しかし『普通の人間になる』というのとは違うそうだ。普通の人間がセイバーと戦えるはずはないのでそれは当然だとは思うが。
「前回も聖杯は成らなかったことを思えば、完全な受肉とは言い難いはずだ。十年前街を焼いたのも聖杯による災禍だったというのなら、どちらもが不完全なのではないか?」
「どっちも不完全? ――あれで?」
「ああ。結局被害は一都市の一区画で終わったのだったな。しかし本当に万能の釜がその真価を発揮していたのなら被害は街一つではとてもではないが収まらん。
杯は未完成のまま終わったが、逆に言えば途中までは完成していた。余ったエネルギーを使って中途半端に街を焼き不完全な受肉をもたらしたのであれば納得はいく」
「中途半端って……」
視界に炎がちらつく幻視。今もなお俺の根底を焼き続けている地獄の具現。
あれが、あれが中途半端だというのか? あれだけの罪のない人々を死と苦痛に叩き落とした災害が、ただ聖杯から零れた余波に過ぎないというのか。
「そんな勝手な話があるかよ」
「そうだな。死者と魔術師の狂乱に無関係の民が巻き添えを食うのは道理が合わない。参加者だけが勝手に自滅するのは勝手だが、こんな街中を降霊地とするべきではなかった。……五回も繰り返した今となっては、当事者たちも仮に悔やんでいたとしてももう後には引けないだろうが。
しかし、八人目が前回の聖杯戦争で受肉したサーヴァントというのが事実なら、乱入してくる意味は本来ない。聖杯の使用権は今回の参加者にしか与えられないからだ。それでもここになって動き出したのは、聖杯戦争そのものを破綻させたいか、あるいは聖杯の使用権を奪う手段でも手にしているか――」
そこで思案するように言葉を切ったアーチャーは、「悩んでいても知りようがないな」と頭を振って考察を取りやめた。なんにせよ、と代わりの言葉が続けられる。
「イリヤスフィールは間違いなく最強のマスターだが、遠坂凛とて最優のマスターといえるだろう。能力も覚悟も格もある。その最優のマスターと最優たるセイバーの組み合わせに勝利しているのだから、八人目というのはバーサーカー級の化け物を想定しておくべきだ。
……まあ、今の我々は勝てる敵を探す方が難しい。遭遇しないことを願うしかないのが結論かな」
「う。それはそうかもしれないけど……」
長々と続いたわりには身も蓋もない結論に思わず怯んでしまったが、アーチャーにいつもの皮肉の気配はない。純粋な戦力分析の結果を言っただけということなんだろう。
それはそれで余計情けないものがあったが、これについては俺が心を変えるつもりがない以上堂々巡りだ。気持ちを切り替えて、八人目について思考を戻す。
「――八人目が本当にいて、聖杯戦争の邪魔か乱入をしたいのだとして。何を企んでいるんだと思う?」
「さてな。先も言ったがそれはここで話しても答えの出ない無意味な問いだ。突如としてセイバーを襲い深手を負わせたことと、そこまで追いつめておきながら止めを刺さなかったという事実くらいしか私に語れることはない。
しかしそのイレギュラーが何か画策していたとして、それがお前に関係するのか? あるいは聖杯戦争を終わらせたいお前にとっては、サーヴァントをつぶして回る乱入者は味方と言えなくもないが」
「バカにすんなよ。どう考えたって敵だろ」
比較的まともに会話が続いていたが、ここに来て投じられた揶揄にムッとして言い返す。
睨んだ先の窓の向こう。道路上のナトリウムランプが明滅し、艶のない白髪を黄光が不規則に照らしている。アーチャーは俺が不満に思おうが知ったことではないと言いたげに眉を寄せた。
「セイバーこそ敵だろう。本来はどこでのたれ死のうが我々の関与するところではない。それがやられたことを腹を立てているのなら、それはお前が彼女に余計な情を寄せていることに他ならない。……何度言ってもわからんようだが、サーヴァントとは死者なんだ。彼女はこの現世に故郷を持たない、伝説の中だけの英雄だ。私たちにこの先の未来は存在しない。
線引きを誤るなよ。生きている者はまず第一に、生きている者の未来を保障するために行動しろ」
それだけ強い口調で言い切って、横を向いていた視線を前に戻しハンドブレーキを解除しシフトレバーに手をかける。
俺も横に向けていた視線を正面にやった。どうやら、藤ねえの通話が終わったらしい。
「お前が聖杯戦争の決着を望むのであれば我々は最後には必ず消滅する。サーヴァントの生き様や願いなど、思い悩むだけ時間の無駄だ」
「…………」
俺は彼の言葉に肯定も否定も返さなかったが、アーチャーは端から回答は期待していないようだった。
ギアがドライブに戻り、少し不安になるくらいの距離を空けてようやく車を発進し尾行を再開させる。中心街に比べれば大分車通りも薄れてきているが、前方の藤ねえの車はまだ到着する気配もなく、交差点を港に向かう方角へと左折していく。
もっと拒絶されるだろうかと思っていたが、案外アーチャーはまともに会話に応じてくれているようだ。纏う空気の変化に気を配りながら、そっと次の問いを投げてみる。
「――イリヤのことは、どう思ってる?」
自分の声が余計な緊張で固くなっていないことに安堵する。
アーチャーは回答を考えていたのか、運転に集中していたのか、なんにせよギリギリ不自然に感じない程度の間沈黙を貫き、差し掛かった交差点でようやく口を開いた。
「どうとは? 人に質問するのなら、せめて明瞭なものを寄越してほしいものだがね。
まあ、特に思うところはない。バーサーカーのマスター、アインツベルンが用意したマスター、この戦いで最強の相手、専用にチューニングされた一流の魔術師――こんなところか。総じて手強い敵だよ。だが、特権階級らしい傲慢さや詰めの甘さがある分いくらでも付け入る隙はあるだろう。お前が今の関係性を保持して、バーサーカーとの対決を徹底して避けられるのなら、決して下せない相手ではない」
アーチャーの声は淡々としていた。言葉以上の感慨も思い入れもない、と態度だけで物語っている。
差し掛かった交差点で左折する際ちらりと助手席の俺に視線をやったのがわかったが、睨む間もなく戻されてしまった。仕方ないので視線で不平を訴える無駄をやめてむすりと引き結んでいた唇を開く。
「……そういう話じゃないんだって。もう何回言わせるんだよ、この台詞」
「フン。ならば“どう思う”やら“そういう話”やらの示すべきところをご教授願いたい。与太話に意義を求めるのは諦めるにしても、貴様の知りたいことが開示されねば答えようがないな」
「む……」
言われてみれば、確かに抽象的過ぎたかもしれない。いや、今の回答がただの誤魔化しだっていうのはわかっているが、こいつ相手に誤魔化す余地のあるような聞き方をするのはよくない。
「だから、こう……イリヤを人としてどう思うかってことだよ。好きとか嫌いとか、何て言ったらわかんないけど、思うところがあるからあんな態度をとるわけなんだろ?」
「……なんなんだその頭の悪い説明は。その“あんな態度”とは何かと言っているだろうが。――ああ、くそ。なぜお前はそう愚かなんだ。頭が痛くなってきた」
予後数ヵ月を宣言する医者くらいの重苦しい口調でアーチャーが言う。
うるさいな、と思わず口を尖らせた。こいつのめんどくささに比べたら俺なんて全然まともな部類だろう。
「わかったよ、じゃあ言い方を変える。つまり、お前がイリヤを心配する理由はなんだ、ってことを聞きたい」
これだけ補足すれば言い逃れはできまい。どうだ、とちょっと胸を張るような心持ちですらあったのだが、アーチャーは「心配?」と心底不可思議そうな声で鸚鵡返してきた。
「なんだそれは、いつ私がそんなことをした」
「? してただろ、何回か。最初に鍋食いに行った夜に俺に変な忠告してきたのとか、あと昼間だってすごい顔で俺達のこと見てたじゃないか」
「……」
珍しく嫌味の色の薄い本当に驚いた風な様子だったので、思わぬ反応にやや自信を失いつつも返す。……心配、が一番近いよな? イリヤを少なからず案じていたから俺への当たりが強かったんだと思ったんだが。変に自信満々だった分、見当違いなことを言ったんだったら流石にちょっと気恥ずかしい。
アーチャーが黙り込んだ間被ったキャップのつばに手をかけ乱れてもいないのに直す振りなどしていると、自らの運転する車のエンジン音にも負けそうなくらいの声量が零れた。
「…………なるほどな。“そういう話”というのなら、確かに思うところがないわけではない」
衣擦れの音でもかき消されそうな響きに、中途半端な体勢だったが動きどころか呼吸まで控えて続きを待つ。
「予め使用意図を定められた命、心を満たすことができても長らえられない短命の作品に――そうだな、同情や憐憫を抱いたんだろう」
前だけを見るアーチャーの灰の瞳が僅かに細められて見えたのは、対向車のライトの明るさのせいではなかっただろう。情けや哀れみを語る割りにアーチャーは作り物めいた無表情で、一方で眼差しの銀は懐かしむようにけぶっていた。
「だけど彼女は今を生きて己を選択していけるこの時代の人間だ。俺のような亡者から憐れまれているなどと知れば激発するだろうな。そして生者の矜持を妨げないというのが死人としての最低限の矜持だ。私の感情がどこにあれ、私は彼女に干渉しない。
――つまり。私が誰をどう思っていようと、行動に移す気がない以上その感情は初めから存在しないのと同義だ。お前が足りない頭を回してまで詮索を入れる意味はない」
言い切る声に強がりや偽りは欠片もなかった。無関心や嫌悪とも違う。一方的で、無機質で、情に薄く、――ゆえにこそ、彼の人となりを物語る。そんな宣言だった。
咄嗟に感情は反発し、迷わず理性は納得した。ほんの少し、賞賛すら覚えたかもしれない。
……それは当たり前の事実だった。彼はすでに死んでいる。だからそれは妥当な線引きであり、自らを機械的に処理する在り方には、一種の高潔ささえ感じられた。
だから彼は正しい。/だからこいつは間違っている。
全く同時に、異なる二つのことを思う。
背反する意見に、開きかけた口は結局意味のある言葉は何も紡げず、
「それよりもお前はどうなんだ、衛宮士郎? 私とイリヤスフィールとの関係より、お前と“イリヤ”との関係の方が余程複雑で因縁に満ちている」
――僅かに一秒もないその逡巡の間に、アーチャーはいつもの厭世的な皮肉屋の姿に戻っていた。
「衛宮士郎にとってのイリヤスフィールは、バーサーカーのマスターであり、お前を殺しに来た刺客であり、遠坂凛の敵対者。……ああ。それから、“衛宮切嗣の実の娘”でもあったか。義理の姉ができたご感想はどうだ?」
「…………そ、れは」
今はまだ、関係のない話だ。そうただしく反駁するつもりが、いかにも情けない呻きになった。
反発だけ示したきり答えを返さない俺を見て、アーチャーはフンと鼻を鳴らす。
「お前の望みが聖杯戦争を終わらせることだというなら好きにしろ。それが自身の願望に基づく判断なら、他者の声など無視して邁進すればいい」
いつも通りの慇懃な態度。しかし、急に話題を変えたその憎まれ口はむしろ、沈黙する俺に対する助け船であった。
「だが、よく考えておくんだな。貴様のその選択は、見も知らぬ誰かの幸福の席を守っても、今苦難に立つ目前の隣人を救い上げるものではない。人を守ることと、誰かを幸せにすることは決定的に異なる。それをまず承知しないのであれば、正義の味方と言う称号はただの怪物の名称に成り下がる」
「……それは、忠告か?」
わかりにくい真意を紐解いて聞いてみる。
「――いいや。だが、お前にそう聞こえたのならそうなのだろう」
答える声はらしくなく大人しい。
――まただ、と心の中だけで呟く。憎悪と嫌悪と焦燥を取り除いた時に見せるこいつの本心らしきものは、俺が思うよりずっと静かで硝子細工に似た純度を維持していた。それがひどく落ち着かないのは、俺に責があるのだろうか。
例えるなら燃えさかる火口を見下ろすときのような、底知れず濃い青だけを返す海氷の裂け目を目にしたときのような。得体の知れない、しかし確実に命を脅かす何かを前にしたときの根源的な恐怖。そんな感覚に近かった。
「なあ。最後に一つ、聞いていいか」
飲み下すほどの固唾すらない。返事を待つ余裕なんてなかったから、前置きしたくせアーチャーが是非を返すより先に言葉を続けた。痛むほどに渇いた舌を操って、それでも表面的には平静を取り繕って、最後の確信を投げかける。
「今のお前は、衛宮切嗣をどう思う」
狭い車内。
そう大きくもない俺の声は、しかし聞き漏らしようがないほど明確に、二人だけの閉鎖空間に落ちた。アーチャーが数秒呼吸すら潜めたことも相まって、意図した以上の重圧を以て返答を強制する。
「……お前の義父のことをなぜ私に聞く?」
「いいだろ。俺が知りたいから――確認するべきだと思ったから聞いてるだけだ」
明答を避けたアーチャーからの問い返しに即答する。
アーチャーは怯まぬ俺の態度に困った様子も怒った態度も一切見せず、ほんのわずかだけ言い淀んだだけで、平坦な声で諦めたように呟いた。
「……顔も知らない人間だ。オレにはそいつについてどうこうと語る資格はない」
心臓が一瞬、動きを止める。
同時に呼吸も憚られるほどの痛みに息を呑む俺に、最後まで視線すら向けることなく、「だが、」と正面だけを見据えてアーチャーは続けた。
「衛宮切嗣は、衛宮士郎の育ての親だ。そういう意味でなら、私は彼を恨んでいる」
「――――」
そうか、とも。そんなはずはない、とも言えず。
何か言うべきなのか沈黙こそが正なのか、激昂すべきなのか落胆すべきなのか。揺れ動いて心の在り方さえも定められないうちに、男の見せた感傷の余韻は消え失せていた。そのことに少し安堵する。
……俺は今、真っ先に「やっぱりな」という納得を覚えた。
その正直な自分の感情の移り変わりが、自分でも許し難く、アーチャーに対する最上級の侮辱に思えてならなかったのだ。だから俺の反応に興味を示さないアーチャーの姿勢は、この場面においてありがたく思えた。
その後も淡々と車を走らせていたアーチャーは、唐突に車を路肩に寄せエンジンまで切って停車する。
会話の間に車は随分と外れの方まで来ていた。申し訳程度の街灯が疎らに散る、港の倉庫街の近くで止まったらしい。運送トラックが走っている他には、人通りも車通りもほとんどない。
「……降りろ。これ以上は閑散とし過ぎていて、車での尾行は気づかれる」
運転手がそう言って降りるのであれば、俺としても従うしかない。
釈然としない気持ちを抱えつつ助手席から出る。ドアを閉めて顔を上げると、僅かこの一瞬で、アーチャーは私服とも言える黒い上下から、見慣れた黒の軽装と白布の武装に戻っていた。
「む。これは目立つか……」
自分の格好を見下ろしたアーチャーが独り言らしきものを呟くと、白い大きな布だけが粒子に解けて消えていく。そうすると袖のない黒い武装、黒いズボン、黒いブーツに褐色の肌で夜だと驚くほど目立たない色彩になった。
「……なんで服を変えたか、一応確認していいか」
理由は大体察していたが、あまり歓迎したくない予想だったので駄々の代わりに聞いてみた。
「わかっているなら一々確認するな、たわけ。相手は車なんだ、一般人の振りをしたまま追い続けられるはずがあるまい」
蔑む視線と共に呆れた息を吐かれる。
「だよなあ……」
自分でも無駄な足掻きとわかっていたので、大人しく引き下がった。
つまりアーチャーはこれから自動車を追走するため少し本気を出す、と言うことだ。となると生身の人間に過ぎない俺はここで大人しく帰りを待つか――。
「しかし感心せんな。密売人の取引現場を探すわけでもないのだし、こんなところに男子高校生が潜んでいるはずがないと少し考えればわかるだろうに」
「…………」
――このようにアーチャーに運搬される荷物になりきるしかないのである。
「聖杯戦争に関係なく治安が悪い。なんらかの事件に巻き込まれても文句は言えんぞ」
相手に届くはずもないアーチャーのお小言は、俺の後ろから聞こえてきていた。後ろというのもやや不正確で、背面ではあるんだが配置的には上側というか、足側というか――。
今俺の手はアーチャーの背中に、足は進行方向の方に垂れていて、視界には高速で流れていく地面が映っており、アーチャーが地を蹴る度に俺の腹に圧がかかる。……こういう荷物の持ち方を、人は俵担ぎと呼ぶ。
せめて前後ろが逆ならマシだったのだが前すら見えないこの体勢だと口を閉じて大人しく運ばれている以外にやることがない。アーチャーの声は聞こえていたが返事のために口を開けば一秒で二回くらいは舌を噛みそうな状態だった。
なので心の中だけで藤ねえがあまりにも軽率であることに同意する。こんなところで人探しするくらいなら警察に任せた方が絶対にいい。幸いというべきか今のところ俺もアーチャーもサーヴァントやマスターの気配を感じ取っていないので、近くにライダーたちはいないのだろう。藤ねえには無駄足であることを伝えてさっさと帰宅してほしいが、偶然を装って顔を出せるようなエリアじゃないのがネックである。
不自由に硬直した右腕があまり揺られないよう左手で抑えたりもしながら荒い移動に耐えることしばらく。広大な土地に建つ工場や電柱を足場に悠々と追跡を続けたアーチャーは、およそ人が立ち入る場所としては想定されていなさそうな入り組んだパイプの群れの一つに着地し移動を止めた。
ようやく到着ということか。藤ねえの様子を窺おうと背中を伸ばしバランス取りに苦労しながらなんとか背後を見ようとしたが、随分海に近いところにきたということくらいしかわからなかった。
「おい、着いたのか? だったらいい加減下ろせよ」
仕方がないから受け入れたとはいえ今の体勢は非常に不服なのだ。自由な左手でアーチャーの背中を叩き不満を訴えるが、「いや……」と生返事が返るだけだ。
「――何かあるのか?」
言葉の濁し方にあまりよくないものを感じて、叩くのをやめて改めて訪ねてみる。
「妙だな。誰を呼んでいる……?」
返事というよりも独り言に近い。しかしとりあえずアーチャーが訝しんでいることは伝わってきたので、それ以上の催促は止めてもう一度自力で確認しようと身を捩る。
貨物船の到着口が近いのだろう。辺りには無機質なコンテナが立ち並び、トラックが出入りするための道路は道幅が広く作られている。夜の今は、その広さがどこか寒々しい。なるほど、麻薬の密売人とかそういう非合法な取引にでも使われそうな人気のなさと死角の多さだ。家出扱いの高校生の潜伏先としてはあり得なくはないが、こんなところを私人が探して回るより警察にでも任せた方がよほど現実的であろう。
しかし事実として藤ねえの車はその一角に駐車されていた。横に立つ人影は、暗くてわかりにくいが藤ねえその人だろう。キョロキョロと首を巡らせて、誰かを探しているような素振りだ。
誰をも何も、元の目的を考えれば探しているのは間桐慎二に他ならないはずだ。しかしアーチャーには何かが引っ掛かっているようで、俺という荷物を担いだまま警戒して動かない。
「おい、どうしたんだって。俺からはよく見えないんだ、せめて下ろしてくれないか」
「うるさいな、少し黙っていろ。――――ん、え……。ず、……えんえ、……?」
藤ねえの声を拾ったのか、口の動きを読んだのか。俺に対してようやく素っ気ない返事をしたアーチャーは、そのまま意味の通らない言葉を呟きだした。
「せんせー…………せんせい」
――先生?
繰り返したアーチャーの口からようやく四音、意味のある言葉が発せられる。
その言葉から連想しようとする無意識よりも先に、俺を乗せる体の筋肉が膨れ上がり、アーチャーが弾かれたように飛び退いた。
気配は、真下から。攻撃姿勢に入って初めて刺すような殺気が襲いかかり、静動の落差がその男の隠行の完璧さを物語る。足場としていたパイプをへし折って尚減退しない急襲を、アーチャーは後退したその足裏でかち上げて相殺し、距離を取るまでの追撃を封じた。
「下りろッ!」
鋭い一声とともに俺が落ちないよう支えていたアーチャーの腕が外される。意図を察した俺は、アーチャーの肩についた手を支えに体を前転させ、彼の背後にあたる位置へと着地した。
用途の知れないパイプが三本、定期的に金具によって束ねられている。平均台よりかは幅があるが、俺程度の体重でも軋むそれらは足場としては頼りない。
反転して振り返る。アーチャーの背中越し、突き破られたパイプから音を立てて蒸気が噴き上がっていた。熱と勢いを伴うそれは、下手な火柱よりも人間にとっては毒になる代物だったが、襲撃者は一切頓着せずに煙の壁を踏み越えて両手剣を構えたアーチャーへと肉薄する。
あまりにも純粋な殺意。敵意も悪意も欠如した殺害への決心は、殺意という言葉が持つ負の印象から解き放たれ、突き出す拳の揺るぎなさと合わさり彼を一個の芸術へと昇華させていた。
艶のない黒髪。意思の読めない眼差し。この身こそが戦装束とでも言うのか、何も纏わない上半身は月光に照らされ筋肉の隆起を色濃く示す。
言葉もないままアーチャーへと拳を繰り出したのは、穗群原学園倫理教師――あるいはキャスターのマスターであったはずの、葛木宗一郎その人であった。