#11 グラデーション・エア
衛宮士郎がアーチャーを召喚する第五次聖杯戦争ifストーリー十二話目。腐向け。
版権元:Fate/stay night
注意(シリーズ共通):
腐向け(士弓)、ねつ造、設定改変、独自設定、重大なネタバレ、原作程度の暴力表現・流血表現
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いけない、という気持ちすら湧かなかった。
全力で警鐘を鳴らす頭蓋とふらふらと歩く肉体の不一致に気づいたのすら、門を越えてからだったのだ。それだって、自力で振り払ったのではなく、獲物を檻の中に封じ込めたと確信した術者が戯れに手を抜いたからだっただろう。
酩酊にも似た奇妙な浮遊感がある。悪い気分ではなかった。目を覚ませと叫ぶ意識がむしろ不快に感じる。春の朝の微睡みにも似た幸福感を強いられている。目の前に立つ魔術師によって。
「ふふ……素直な子は嫌いじゃないわ」
紫の重く垂れるローブは月光だけでは色彩に乏しくほとんど黒に見えた。目深に被ったフードによって顔の上半分に影が射しており、顔貌は窺えない。妖艶に弧を描く唇だけが目立っている。
スッ、と重く靄のかかっていた頭が晴れるのを感じた。支配の手が緩められ、思考の自由が返される。
逃げねば、と真っ先に思って棒立ちの体に力を籠めたがビクともしない。四肢の末端から胴に至るまで、執拗に糸が絡み付いていた。糸の先は四方へ伸びどこへ繋がっているのか判然としない。ただこの空間の全てが敵の支配下に置かれていることはわかった。
「キャスター……」
苦い声が漏れる。口も動かせるし無駄ではあっても体を動かそうとすることもできるのだから、キャスターは俺への洗脳を完全に解いたらしかった。強者の余裕だろう。事実として俺は解放されてもどうすることもできていない。
こちらの生殺与奪を握ったキャスターは、哀れむような声色で続けた。
「私の時代は赤子でももう少し抵抗してみせたものですが……。これで聖杯に選ばれたマスターの一人だと言うのだから、聖杯が如何にいい加減がわかるというもの。ただ、セイバーと同盟を結んだ賢しさは誉めてあげましょう。おかげであなたは今、五体満足でこうして人質に甘んじているわけですから」
「……馬鹿だな、俺なんかのためにアイツらが来るわけないだろ」
この状態で俺が死んでいない理由なんてそれくらいしかないだろう。わかっていても、人質と呼ばわれ身が強ばった。拘束が少しでも弛まないものかと身を捩るが、ただ糸を巻き付けているわけではないのかどれだけ力を込めても俺から伸びる直線は直線のまま揺るぎもしない。
「健気なものね。でも安心なさい、セイバーたちは来るでしょうから。それに来ないなら来ないで構わないのよ。如何に未熟でも魔術師の端くれ、あなたの死体も何かの役には立つでしょう。そのガワもうまく使えば彼女たちの動揺くらいは誘えるかもしれませんし」
ぞわりと背筋が粟立つ。
呼吸までをも乱したそれは一度でおさまらず、ひたすらに不快感を叩きつけてくる。ゴウと音がするのは、文字通り頭に血が上るのを聞いたからだった。
「人の命を、なんだと思って……!」
冬木一帯に渡る魂食い、その術者がこの女だ。コイツからすれば現世を生きる他人の命の重みなど、食い荒らす菓子よりも軽いものなのだろう。
コイツだ。俺は、こういうやつらをこそ打倒せねばならない。
そのために鍛えてきた。そのために生きてきたのだ。己を叱咤し奮い立たせて四肢が切れようと知ったものかと全霊をかける。
「死にたくなければじっとしてなさい。主役の到着にはまだかかるわ」
「くそっ……! これくらい……!」
魔術的な戒めなのだろう。それくらいはわかっている。
それでもこんな、目に見えて繊細な縛り一つ破れない自分が不甲斐ない。俺が唯一得意な強化の魔術だって、強化をかける対象がなければなんの役にも立たなかった。
「それにしてもアーチャーには呆れたものね。主人の異変一つ察することもできないなんて、門番以下の働きだわ」
足掻く俺を肴に本命の到着を待つことにしたらしいキャスターが何もない空中に腰かけた。足を組んで爪先を揺らしながら、アーチャーに対する蔑みを隠しもしない。
「違う。アーチャーは、俺のせいで――」
敵の襲撃があったのならともかく、意識を盗られた俺が自分から勝手に屋敷を出たのだ。距離もあって閉めきった土蔵で気づけという方が無茶である。さらに言えば俺たちには、遠坂たちのような主従が互いの感覚を知るためのラインだって通っていない。
アーチャーは、俺なんかに喚ばれなければもっと巧く戦って立ち回れるサーヴァントなんだ。力を制限しているのは俺のくせして身勝手な感情だとも思うけど、今のアーチャーを見てあれが彼の実力だと思われるのは我慢ならなかった。
が、「ふうん?」と多少の興味を持ったらしいキャスターの反応に途中で口をつぐんだ。俺たちの事情なんて、コイツに教えてやる必要は全くない。
「従者の不出来は自分の力不足ということかしら? 笑える心構えだわ。そんなちゃちな令呪一つで、大した実力もないままに英霊を従えたつもりでいるのね」
キャスターの声に怒りが滲む。ついと細い指先が持ち上がって、あわせて俺の左手が意思に反して上がっていく。
ローブの奥からの視線が一点を刺しているのがわかる。残り一画の令呪が、青白い月明かりに照らされていた。何か嫌な予感がして身を引こうと思ったが、やはり体の自由は利かない。
「アーチャーなど引き入れても得はないし、その左手は適当に切り落とすつもりだったけど、気が変わったわ。彼も案内人としての役目くらいは果たしたようですし、あなたの思い上がりに相応しい末路を贈ってあげることにしましょう」
「……何のつもりだ」
「ふふふ。怖がる必要はないのよ、痛いことは何もしないから。私はただ、あなたが蓋をしたあなたの思いを拾い上げてあげるだけ」
ぞわりと、背筋を何かが這い上がるような感覚。
嘔気に似た不快感が襲ったが、確かにキャスターの言う通りそれもすぐになくなった。だったら問題はないはずなのに、何の嫌悪感も湧かないことの方が気味が悪かった。
「アーチャーを疎ましく思ったこと、一度や二度じゃないでしょう」
目もきちんと開いているし、楽しげに動く色のついた唇の様子までしっかりと視認できている。アーチャーのことを問うキャスターの声だって聞こえていたが、何故かそれに答える前に女魔術師は頷いた。
「そうね、自分の正体を隠し、何を考えているかもわからないような男に好意は抱けなくて当然だわ。あなたは懸命に打ち解けようとしたのに、いつもアーチャーがそれを拒んでばかりいる」
すべて承知している、という風にキャスターが慈しみすら感じる声色で続けている。
打ち解けようとは、したのだろうか。確かにアイツのことをもっと知らないといけないと思った。だけどアイツは大事なところだけは口が重くなって、結局俺が知っていることなんてほとんどない。
「あなたはよく頑張ったわ。その歩み寄りを拒んだのはアーチャーの方」
でも、それだって結局俺の方に非があるんだ。セイバーが言う通り、あの令呪はアーチャーのことを侮辱してる。
「令呪? あら、『誰も殺すな』だなんて……。でも、それだって彼を思いやってのことでしょう? その分彼が戦わなくても済むように手を尽くしてきたじゃない。その努力は認められるべきじゃなくって?」
どうだろう。俺はアイツのために何かをしてやったことなんて一度もない。仲良くなれるとも思ってない。ただ、俺が知っておきたいだけなんだ。アイツがどういう風に生きて、何のために死んで、何を願って今ここにいるのか。
「なるほど、よい心がけです。でも、彼のことを知ることが本当にそんなに大切なことかしら」
――どうして?
「知らない方がよかったことも、知ったから余計に憎しみ合わねばならないこともある。それに、知ったところで何も変わらないわ。あなたとアーチャーは相容れない」
そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。結果がどうなろうとも、理解しようとした過程が無意味だなんてことはないはずだ。
「いいえ、断言してあげましょう。あなたたちはこのまま、何も知らないままでいるべきです。それに知ったところで、彼は死者であって在り方は何も変わらないわ」
どういうことだ。
「どれだけ認めがたくても、もうどうしようもないということ。だったらこれ以上不自然な関係を続ける必要はないわ。いくら大事にしても、如何に心を尽くしても、あなたはアーチャーを決して赦すことはできない」
どういうことだ。なんなんだ、さっきから。
「あなたが生かしたいと思った人こそを彼は躊躇なく殺す。アーチャーはたった一人の幼子の命より、多数の悪人の命をとる男よ。あなたが大事にしている家族のような女性や力のない子供だろうが関係なしに、自分の目的のためだけに殺す。そんなやつと肩を並べて行くことができて?」
アーチャーが藤ねえたちを殺すって?
「藤ねえ? ……ああ。そうよ。その藤村大河も例外なく、天秤が傾けば切り捨てられるわ。その日は明日かもしれないし、今日かもしれない。恐ろしいでしょう?」
想像する。
脳裏に焼き付いている折り重なって焼けていくかつて生きていたはずの人々の影。高熱に晒されるとたまにもう死んでいるのに勝手に体が動くことがあって、それを昔の俺は運命を呪う仕草のように思っていた。その山の中。顔も名前も判断がつかないたくさんの犠牲者の中。そこに、一人の女性が追加される。何千人が何千一人になっただけのことだ。世界は何も変わらない。新しく来たばかりの女性はまだ皮膚も焼けてなくて傷口も綺麗なままだから血も止まってなくて茶色い髪だって綺麗で、だけど表情だけがひどく苦しそうだ。誰に向けたわけでもないだろうけど、助けを求めるように手がさ迷う。それを、無感情に眺めている。伸ばされる手にも気づいていたけど、その場から一歩も動かずただ眺めている。
その見ているだけの男は、俺もよく知るアーチャーの姿をしていた。
――吐き気がする。
こんなことが許されるはずがない。絶対に止めなきゃいけないことだ。
「そうね。他人の為に決意できるのはあなたの美徳だわ。その決意に免じて特別に、アーチャーを止める方法を教えてあげましょう」
どうすればいい。
「願うの。『そんなことは許さない、お前は今すぐ死に絶えろ』と。強く願えば必ず叶うわ」
そんな簡単なことでいいのか。
「簡単だけど難しいことよ。だけどあなたにならできる。さあ、早く」
……そうだな。それであの怪物を止められるなら、それ以上のことはない。
誰かが止めてやらなきゃアレは永遠に止まれない。殺されたくないと泣く人を、殺したくないと叫ぶ人が殺すのだ。この世の地獄を探すなら、それはきっとこの光景のことこそを言うんだろう。
「令呪を」
――令呪を。
唱える声が頭蓋を回る。ああ、確かにとても簡単なことだ。視界はずっと開かれている。差し出したままの左手の甲に、痣のように刻まれた聖痕が見える。
最後の一画。残された三画目。マスターである証であり、アーチャーを縛る枷である。
――『絶対に三度目の令呪は使わない』。
焦点の浮わついた意識の中、灼熱を裂く一滴の雫のような制止が脊椎を下った。脳裏に赤い少女の影がわずかにちらついたが、思い出す前に消されていく。深く思考しようとすると痛みが走った。じぶんが自分でないようだ。そんな状態でも不思議と口は動かせるし、俺はちゃんと俺のままだった。つまり、俺はアーチャーの存在を担う主人のままだった。
「――――――」
だから、願える。願うことだってできた。あるいはお互いにとっては、ここで命令を発してやることの方がよかったのかもしれない。
彼はこれからも人を殺す。それは確定された避けようのない法則だ。時間が今から未来へ向かうことと同じように、どんな喜びも悲しみも二度は繰り返さないのと同じように、覆せない世界の決まり事だった。その決定事項を嘆く心が少しでも残されてしまっているのなら、滅びが救いとなることもあるのだろう。
だけど俺にとって、それは現実の否定であり、最も唾棄すべき安寧への逃避であった。誰かの血で生き延びる誰かがいるのを認めても、誰かの血でもたらされる幸いの存在など認めるわけにはいかない。救いは救いによってしか与えられないのだから。
幸福な微睡みを覚悟を決めて振り払う。この女の思惑になど乗るものか。纏わりつく強固な戒め、鼻腔に忍び込む甘く立ち込める魔女の香、柳洞時に人質として誘い込まれた無様な自分。このクソッタレな今こそが俺の現実なのだ。聖杯戦争を降りずに戦うと決めた己の現在だ。
唯一動く口を操り強く舌を噛んだ。痛みと共に鉄錆びた不快な味と匂いが広がる。そうして長い時間をかけてようやっと答えた。
「……無駄だ、キャスター。俺はもうアイツに令呪を使わない」
遠坂との会話を思い出す。絶対に、何があっても最後の一画は使わない。そう誓ったのだ。
フードの奥に隠れた術者の瞳を睨みつける。俺の拒絶に思惑を外されただろうキャスターは、しかしあまり気にした様子もなくあっけらかんと頷いた。
「そう。やはり暗示程度で令呪を使うだけの強い願いを偽造するのは難しいのね。時間をかければやりようもあるけど、これなら宝具の方が確実で効率的かしら」
飼育対象が死んだ研究員の声色の平坦さなんかであれば、今のコイツの声と近いだろうか。
冷徹というにも温度がなく、期待も怒りも侮蔑も含まない平らな言葉でそうこぼしたキャスターは一歩踏み出した。
「おかげで一つ試せたわ。あなたの強情さに免じて、アーチャーを殺す役目は私が請け負いましょう」
挙げられたままの俺の左手に女の細い右手を伸びる。
直接的な言い方でなかったがわかった。キャスターは、俺の令呪を奪おうとしている。
「――――っ!」
サーヴァントがサーヴァントを律することなんてできるのか――そんなことを考える前に手を引こうとする。しかし俺の体は不動のまま、わずかな綻びさえ起こせない。
やめろ、と無駄な制止の声だけが僅かに震えていただろうか。力は入るのだ。筋肉が怒張する感覚はある。俺の反抗と同じだけ食い込む糸のような拘束も感じられる。
全力を尽くして、それでもどうすることもできない。今の俺にできうること全て費やして、しかし指先の一つも動かなかった。不甲斐なくて気が狂いそうだ。目の前の、手の届く距離に嘲笑う敵がいるというのに!
魔術を使おうにも強化するための獲物を持たず、俺に許された自由はこの無駄に回る思考くらいだった。
耐えられない。力を尽くしてもダメだからと言ってただ見過ごすのは、一番やってはいけないことだ。かつての夜の耳を塞ぐだけの逃避を、二度繰り返すまいと定めたのだ。無力による諦めなんてものは、俺の存在を賭しても絶対に否定しなければならないことだった。
キャスターのような人間に聖杯は渡せない。なにより、アーチャーをこんな下らないことで殺させてなるものか。アイツには、まだ言ってやりたい文句が山のようにあるのだ。
(だったら……!)
だったら、俺は勝つしかない。そしてそのためには戦わなければ。
見ろ、今こそ最大のチャンスじゃあないか。人質なんて言って優越に浸るその喉笛を、一薙ぎかき切ってやればいい。
そうだ。そのための剣を、手にする手段を知っているのだから。
「投影――」
撃鉄を起こすイメージ。
そうして開かれた魔術回路に、マナというガソリンが注ぎ込まれる。
熱く。ただ熱く廻り渦巻く魔力の怒濤が行き場を求めて暴れ狂う。
俺は荒ぶる身内の怪物に出口という形で設計図を用意してやるだけでよかった。
壊れたストーブを修理するのも、手にした剣を解析するのも、やることに変わりはない。何ででき、何のために作られ、何に使われ、何を為せるのか。それを知るための行程だ。そしてそこまで知ってしまえば、レプリカを用意するのなんて簡単な作業だった。
覚えている。男の振るう剣を、柄を握る手の固さを、習練に費やした年月を。
刃を担う、その重みを。
「――開始ッ!」
干将莫耶。
古代中国において破魔をなした宝剣が、俺の空想のまま現実に落とし込まれ、戒める糸を切断する。
「馬鹿なっ……?!」
動揺も顕に後退したキャスターを追って踏み出し剣を振るう。しかし女の首を狙った切っ先はわずかにフードに切れ込みをいれるだけに終わった。
くそ、と毒気づく。今のは最初で最後にして最大の好機だった。あれで仕留められないのは俺が悪い。思い描いていたのはアーチャーの真っ直ぐな剣筋だったのだが、俺はあいつより腕も短いし力もないのだ。そういう当たり前のことを考慮しなくては戦えない。
キャスターはあまりに魔術師然とした魔術師だ。遠距離より近距離が得意ということはないだろう。何事かを口早に呟くキャスターに対して、距離を詰めて機をうかがおうと空けられた距離を大きく詰める。
いや、詰めようとした。
「――――がッ、は!?」
グン、と衝撃にも似た異常な重みを感じた直後。受け身もとれない速さで体が前のめりに倒れ込み、強かに額を打ち頭蓋が揺れた。
思考が途切れていたのは僅かな時間だったはずだ。背骨からミシミシと不吉な音がするのにすぐ意識は戻った。背中のみならず身体中の骨格が悲鳴を上げている。無意識でも呼吸を続けようとする肺は、押し潰されていて息すらまともに吸えなかった。
地面についた手で押し返して体を起こそうと足掻くが、体があまりにも重くて上体すら持ち上がらない。まるで俺の重力だけが何十倍にもなったような――。
「どういうこと……? これはアーチャーの武器のはず」
頭上からキャスターの声がする。突っ伏したままの顔をなんとか横に向けると、転倒の勢いで手から離れた莫耶をキャスターが拾い上げるところだった。
「完璧な複製。いえ、少しは劣化しているのかしら。錬金ではないわね。アーチャーの武器を転移させた――としたら劣化しているのはおかしい。主従における武具の共有? だけどパスも繋がっていない身でどうやって……」
ひゅ、ひゅと細切れの呼吸しかできない俺をそのままに思案にくれた独り言を溢していたキャスターは、不意にしゃがんで俺を覗き込んできた。それでもやはりフードの影は濃く、顔立ちすらはっきりとしない。
「ねえ、坊や。これはどういうこと? あなたは今どうやってこの武器を産み出したのかしら」
「…………」
体を押し潰すような重みはとれないままだ。
どうやっても何もただの投影だが、答えてやる義理はない。というかまともに息すら吸えない状態で答えられるはずもない。人に物を尋ねるのであればこの魔術を解いてからにするのが礼儀ってもんじゃないのか。
「投影魔術……? そう、あなたはこれをそう言い張るのね」
答えもしていないのに納得したキャスターは、投影品を手にしたまま立ち上がった。伏したまま満足な呼吸も許されない俺からは声が遠退く。
「誇ってもいいわ、衛宮士郎。あなたのその性質は貴重なものよ。令呪さえ奪えばあとはどうでもよかったのだけれど、その魔力回路には興味が湧いたわ。引き抜いて加工するか、周りの余計な肉を溶かしてしまうべきか――」
気に入りのオモチャを見つけた子供のように弾んだ声でキャスターが言う。
「……っざ、……るな」
歯が欠けそうなほどに食い縛る。こんなところでこんなやつに好きにされて堪るものか。それに、現状において俺の敗退はアーチャーの死を意味していた。
だから余計に、負けられない。俺がアーチャーのマスターなんだから、しゃんとしなきゃだめだ。
骨が軋んで耳障りな音を立てている。無理な足掻きをする度に関節が軋んで、ずれて戻れなくなりそうだ。無茶な加重に筋肉がブチブチと断裂している。酸素不足と痛みに脳は悲鳴を挙げ、視界は赤く染まっていた。
それでも、動ける。動けるのなら、なんだってできるはずだ。こんな隙だらけな敵ひとつ、どうにもできないで、何が正義の味方だと言うんだ。
「頑張るのねえ。血気盛んなのは結構だけど……無茶なことをされて折角の素材が損なわれては興醒めというもの。安心なさい、痛みなんて感じないまま終わらせてあげる」
「うる、さい……!」
叫んだつもりだがほとんど音にならなかった。全霊をもってしてようやく首が僅かに持ち上がり、見下ろすキャスターを睨み上げる。
だが、全霊を賭けてもそこまでだった。
「まったく、人の話を聞かない子ね。もういいわ、少し寝ていなさい」
呆れたように言った魔術師が手を翳す。途端、吸い込まれるように、落下するように意識が遠退くのを感じた。
(くそっ……!)
せめてもの抵抗にまだ流血したままの舌を更に噛み締めて覚醒を試みたが、忘失までの時間を僅かに先延ばしにしただけでなすすべなく意識が闇に閉ざされる。
瞑りたくもない瞼が自然と落ち、自分の不甲斐なさに潤んだ視界すら認識できなくなっていく。――まさにそんな時。
ハッとキャスターが息を飲んだ。それからほとんど間を置かず、連続した破砕音が俺の周りを一周し、さらに追うようにすぐ傍に何かが降り立つ気配がした。
「……まだ生きていたか」
低い男の声が言う。
「アーチャー……!」
今度はキャスター。
そこまで聞いて、何となく状況が整理できた。
……つまり、俺はまたアーチャーに助けられたということだ。
「あなたが先に来るなど、アサシンめ一体何をしているのッ!」
「大層な神殿を拵えたくせに門前の経緯も確認していなかったのか? 魔力を溜め込んで態度ばかりが大きくなって、足元が疎かになったと見える」
「――なんですって? それは侮辱のつもり、アーチャー?」
「ああいや、どちらかと言うと忠告だ。これだけあからさまな対策が講じられていればセイバーとて馬鹿正直にここに乗り込むことはしないさ。ところでセイバーのマスターが言うには、人に悟られる結界は三流とのことだが――今からでも遅くない。少しは自省して、身の丈にあった立ち振舞いを身に付けてはどうだ?」
容赦のない挑発にキャスターが黙り込んだ。
緊迫した沈黙が一時場に落ち、「……そう。そんなに死にたいのならお望み通り苦しんでもらおうかしら」とやけに静かに言ったキャスターがフワリとローブを広げて宙に浮かんだ。双剣を構えたアーチャーがそれを追って徐々に首を上向けていく。
「おい、何を呆けている。正門のセイバーたちと合流しろ」
キャスターから目を離さないまま、アーチャーが俺にだけ聞こえるくらいの声量で言う。
体は無理な足掻きの影響かまだ軋むように感じたが、あれだけの重圧はすっかり失せていた。少したたらを踏んだが、問題なく立ち上がれる。
「……わかった。けど、お前はどうするんだ。それにセイバーは?」
「セイバーの真名は割れていて、キャスターはドラゴン狩りの準備を済ませている。竜の因子を持つセイバーにはこの地は不利だ。わかったなら一秒でもはやくここから離脱しろ」
アーチャーの重心が下がる。空中に陣取ったキャスターが動作もなく複数の立体魔方陣を同時展開し、俺には理解のできない文言を一節唱えただけで、砲弾と見紛うほどの魔力弾が一斉に形成された。
「あら、思ったよりも仲がいいのね。だったら主従ともども、私の玩具にしてあげる……!」
来る、と身構える暇もなく。装填された魔力弾が音もなく光の尾を牽いてアーチャーの元へと殺到した。着弾と同時に周囲の土が礫と化して全身を襲い、堪らず両腕で顔を庇う。
僅かに確認できた様子からは、アーチャーは手にした干渉莫耶てキャスターの猛攻を上手く捌いているようだった。それも、わざわざ俺の方へ流れ弾がいかないように立ち回って。
ぐ、となんとも言いがたい情動が胸の奥からせり上がる。それを振り切るように白布を纏う背中へと叫んだ。
「――待った、アーチャー! お前の令呪のことがバレているんだ。不利だって言うならお前のほうこそ……!」
「この程度の逆境、今さらだ! いいからさっさと走れ!」
鋭い叱責が飛ぶ。なおも言い募ろうとしたが、地面を掘り起こす勢いの砲撃に口をつぐんだ。
ここは今や爆撃地のど真ん中だ。一歩でも動けば容赦なく集中砲火を浴びそうな状況であるがここで留まっても状況は好転しないのはわかった。そもそも今ここが死地を免れているのは、前に立つアーチャーの奮闘がゆえである。
正門までは俺の足で十数秒。キャスターがそれを見逃すはずもないが、アーチャーからの援護があると信じて走りきるしかない。状況からいってアーチャーは遠坂たちとともに俺の救出にきたのだろう。俺が脱出しない限り、アーチャーもここから離れられない。
上げていた両腕を下ろす。一撃分の盾くらいにはなるだろうと、足元に弾き飛ばされてきた俺の投影した干渉莫耶を拾い上げた。焦げついた匂いのする空気を一息に吸い込み、覚悟を決めて走り出す。
一歩踏み出した途端、想像の通り数条にも及ぶ光線が音よりも早く飛来した。前だけ見て駆ける俺のほど近くで、後方から飛来した剣によって大袈裟な光を散らして相殺される。余波だけで体が揺らされたが、重心を低くしてただ走った。
ある意味では弓兵としての本領とも言えるだろう。銃撃戦となれば劣らぬという証明のように、高所から切れ目なく放たれる魔術砲のことごとくをアーチャーの射撃が撃ち落とした。
俺の妨害のためにアーチャーへの弾幕が薄くなれば、すかさず本丸を落とそうとアーチャーも攻勢に出るだろう。それを察したキャスターが忌々しげに舌を打つ。
優先順位を変えたのだろうか、俺への砲撃が緩められた代わりに、後ろに残したアーチャーへの攻撃が目に見えて激しくなった。着弾の爆発音にかき消されてアーチャーの様子は伝わってこない。
振り返りたくなるのを堪えてひた走った。ここ柳洞寺がキャスターの工房とするのなら、今アーチャーたちは何の準備もなく無謀な城攻めに挑まされているようなものだ。一度退いて体勢を建て直す以上の大事はあるまい。
散発的に射たれる魔術が何度も鼻先を掠めたが、辛うじて傷を追わずにここまで来ている。集中のおかげなのか、キャスターの考えや次の一手が考えるまでもなくわかるようだった。死角からの砲撃でも、着弾点がわかっているなら回避のしようはある。
(あと少し――っ!)
正門が見る間に近くなる。遠坂なら状況を察してくれているはずだ。キャスターの領域さえ脱してしまえばどうにかなる。逸る気持ちで強く地を蹴る。勢いを弱めればすぐさま転倒するであろう前傾姿勢で残る距離を踏破する。――その途中。
「……、っ!」
出口まで道のり。前だけを見て走り抜けるべきラストスパートで、どうしても無視できない危機の予感に咄嗟に体を反転させて手にした莫耶をその直線上に翳した。
間に合ったかどうかぎりぎりのラインで、強い火花が眼前で弾けて衝撃に莫耶共々地面にすっ転んだ。金属同士の強烈な衝突音を受けた鼓膜がジンジンと痛む。
「な、にがッ――!」
なんとか受け身を取りつつ火花で焦げ付いた網膜を叱責して目を凝らす。今のはきっとキャスターではなかった。襲撃を受けた方向、正門とは反対側に体を向けて不格好ながら立ち上がる。
「今のを防ぎますか。随分と勘のいい……」
背の高い女の影。ぬるりと月光を滑らせて、薄紫の長い髪が地面に向かって落ちている。場違いなほどに軽装で、剥き出しの手足は生気を感じさせないほど白く、奇妙なことに両目は黒い皮布で完全に覆われていた。手足は脱力し、戦士というより獣のような風体で、その姿はなぜか蛇を彷彿とさせた。
「サーヴァント……っ!」
最悪だ、こんな時に。
正門までもう数メートルほどしかない。だが、ここを離脱することがどれだけの難事かは考えるまでもないことだった。残った干将の握りを改めるが、武器一つあったところで死ぬのを一手遅らせられれば運のいい方だろう。
瞬きすら惜しんで長髪のサーヴァントを凝視する。緊張状態の俺とは正反対に、女には全く気負う様子はなかった。獲物を品定めするかのようにゆっくりと首が傾げられ、手にした奇妙な武器の鎖が音を立てた。
短剣にも似ているが鍔がなく、形状としては杭に近い。尖った一端と逆側に鎖がつき、短剣と直径が同じくらいの鉄輪がそれぞれに繋がっていた。
手にする獲物に聞き覚えがある。こいつが恐らく、セイバーが言っていた短杭を武器とするライダーのサーヴァントだろう。
クラスがわかったところで絶望的な状況に変わりはない。ジリジリと足裏を滑らせて後退するが、ライダーには少しの隙もなく、俺が離脱できる地点に到達した瞬間飛び掛かられることは予想がついた。かと言って背を向けて駆け出したところで前から殺させるか後ろから殺されるかの違いでしかない。
アーチャーは、と一瞬思ったが、その答えのように一際大きな爆発と轟音が境内に響き渡った。距離のあるここまで余波が伝搬し服の布地をバタバタと揺らす。アーチャーがいるだろう爆心地は、俺が移動したことを差し引いてもなお遠かった。キャスターの攻撃は範囲が大きいから、俺が巻き添えを食わないようアーチャーも移動したのだろう。
何か突破口を探さねば状況を好転させられない。何とかしてライダーを出し抜けないかと歯噛みしていると、無遠慮な足音とともに聞き覚えのある声がした。
「なんだよ、キャスターのやつ。偉そうにセイバーを捕まえるといっていた割には全然じゃあないか」
ライダーの背後、柳洞寺の奥から歩み出る声の主に道を譲るように、ライダーが俺から意識を外さないまま一歩ずれた。その人物は、穂群ヶ原の指定服を身に纏い、演劇のように大袈裟に両手を広げて現れた。
「……慎二」
「よお、衛宮」
余裕と嘲りに満ちた表情。ライダーの隣で立ち止まった慎二は、服装も相まって場違いなほどいつも通りに見えた。