『心中お察しいたします』狂王弓の没になった方の話お焚き上げ。
連続投稿失礼します。
7月14日発行の『心中お察しいたします』の狂王弓を急遽中味差し替えで入れ替え発行したのですが、そのとき、これなんかちょっと違うかなーどうかなーって思った狂王弓の話のお焚き上げ投稿です。
参加できなかった方のエア新刊みたいな気分で投稿を……
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優しい朝のことを覚えている。
まだ夜明けも来てない暗い階段で二人並んでいた日のことを。
子供にはどうしようもない親の仕事の関係により祖国である今まで行ったことも無い、興味も特に持たなかった国へ帰国が決まったと聞かされた時、どうしても、行く前に下の兄の友達で、優しい彼にお別れの時まで一緒に居て欲しい、なんて滅多に口にしないお願いをしたからか、帰国の前日に泊まりに来てくれた。
あんな急な誘いでも「お家が引っ越しの準備で大変なのにお邪魔しても良かっただろうか?」なんて悩みながらやってきてくれた彼は、子供のわがままを全部聞いてくれた。よく考えたら、名残惜しいのはきっと仲の良かった兄も一緒で、二人で話したいこともあっただろうに、子供に譲ってくれた。
兄はアルファに診断されていて、優しい彼はベータだと言っていたが、彼におんぶをされた時にうなじから甘い匂いがしたからオメガではないかとぼんやりと思っていた。その時は子供の自分にはただ良い匂いでさらに大好きになったのだだったが、彼は隠していたけどもその時オメガになりかけていたんだと思う。本当にオメガになっていたら、きっと兄が気付くだろうし、なにより弟とはいえ、アルファになるだろう者を……と言うよりも他の誰であろうと側に寄せるのは嫌がるだろう。誰かから奪ってでも己のものにしたい唯一を見つけたら、他には決して触れさせない。独占欲が強いのは家系だから。
兄はそれくらいケンカをしながらも彼とはいつも一緒にいた『お気に入り』だった。
でも、子供の頃はそんなことまで気が回らずにただ優しい彼の側で、俺のお気に入りの場所だった階段に並んで座り寄り添いながら言葉少なに朝を待っていた。
来なければいいのに来てしまう朝を。
射してきた朝日に照らされた横顔が綺麗で、子供心ながらに彼がきっと特別なんだってことを思い知らされた。
だから、お願いをした。
「戻ってくるまで、待っていてくれ」
「うん?」
「きっとここに戻ってくる。戻ってきたら……」
多分、彼は兄のオメガになるのに、自分のものにしたくて、優しい彼はそう言えば忘れないでくれるだろうから。
「解った。また会えるのを楽しみにしているよ」
私はこの町から離れないよ、なんて約束した彼は笑って言ってくれた。
あの、優しい朝をまだ覚えているだろうか?
また、彼の夢を見た。出会ったときの彼のことだ。
まだ小学生で、無口な上にすくすくと成長したデカイ体と、この国には無い色味のせいで恐れられ、友達などいなかった頃。
快活で友達の多い兄が連れてきた友達に、あの人はいた。褐色の肌に白い髪なんて、また珍しい色味のソイツは無口な子供にも優しく笑いかけてくれた。
「初めまして。オルタくん、だったかな? 私はランサーの……友人、のアーチャーだ」
笑顔と同じく優しい手が伸ばされ、握手を返せないでいたなんとも無愛想な子供の頭を撫でた。そんな行動に視線をちらりと向ければ笑顔を向けてくれた彼と目があった。鏡のような鋼の目の色が見えた瞬間、パンッと目の前で何かはじけた気がして目を大きく見開いた。
「オイコラ、なんで今言い淀んだ?」
そんな俺の顏に不思議そうに首を傾げた彼が何か言葉を発する前に不機嫌な声がそれを邪魔した。
「いや、君の友人と言っていいのかと思ってな」
後ろから噛み付くようなランサーの声に振りむいて苦笑ぎみにそう返しているのを見ながら、なんとなく面白くなくてこちらを向いて欲しい、その視線の先にいたい、と初めてわいた欲求に自分でも驚きながら頭を擦り寄せ足に抱き付いた。珍しいな、なんて驚く兄にうるせぇと返しながら、優しい彼を改めて見上げれば光栄だなんて笑っていた。
あの一目見た時から惚れたのは、潜在的にアルファの俺がアイツのオメガ性に惹かれたのではなく、本能の前に俺はアイツに一目惚れをしたんだと思う。
あの日の出会いと、別れた日の階段ですごしたあの時間を何度も夢に見ては、当然のように隣に居ることのできた兄の姿を思い出しては過去のその姿に嫉妬をした。今や離れておりたとえ一緒に並んで立っていたのが過去の姿でも、あの時に当たり前のように隣に在れるのを、子供で優しいアイツに甘えるだけの自分とは違う姿に産まれた時の遅さを恨んだ。
だからというわけではないが、細く小さかった自分は、あれから無駄にでかくなったと兄達に言われるほど大きく、そして趣味の格闘技にはまったこともあり昔の小さい俺とは見分けがつかないと言われるほど厳つくなった。
あの時の彼を越えて、ハイスクールに入る年になった俺はすっかり兄達に劣らないどころか体格だけは確実に超えていた。
「お前、日本に行くって本当か?」
不意にソファーにだらりと寝そべってメールを打っていたランサーから声がかかった。
「あぁ。交換留学として一年行く」
面倒くさいが一応答える。自分はメールを打つ画面から目を話さないくせに、話半分だろうと適当に答えているとしっかりと聞いていたりする兄だ。答えないとその後しつこく何か言ってくる。言われる前に言うのが一番楽だ。
「なぁ、もしもアイツに会えたなら、連絡くらい返せって言っといてくれ」
留学をしたいと散々に申し出てやっと願いが叶ったのは、今のハイスクールに入ってからだ。彼の所に行けないのならば、無関心にどこの学校でも良いと言う態度でいたけれども、日本の……しかもあの暮らしていた街の高校が姉妹校としてあり、留学交換生がいると偶然知った学校に入った。この留学が叶ったのは、普段ひょうひょうとしてつかみどころのない一番上の兄が、散々日本に帰りたいと言っていた弟が日本に行くためにそこまでしたのだから、留学したいならさせてやったらどうだと援護射撃をしてくれたおかげだろう。
「アイツ、式には呼びてぇからよ。来れなくても、報告くらいはちゃんとしてぇ」
故郷に帰り、早々に出会ったオメガの女とやっと結婚する事になったこの下の兄は、呑気に遠く離れた親友をこちらでやる式に呼ぶのはさすがに向こうもがキツいかなどと言っている。
知っている。いや。知っていた。あの兄がアーチャーを気にしていたことを。もしオメガだったら娶っていたのにと、珍しく深酒の中で漏れた愚痴を誰に聞かせるわけでもなく呟いていたのを一度だけ聞いたことが有る。ああ、結婚する女と出会った時のことだ。
彼はきっと兄にだけはきっとバレたくないと思っていただろうから、タイミングも良かったのだろうがまんまと隠しきったし、自分もオメガかもしれないことを隠した。
あれは、俺のだと。誰にも渡さないと決めていたからだ。兄に知られたら取られてしまうと思ったから、大事な彼を隠していた。
兄は『アーチャーと連絡が取れない』と言っていたが、俺は連絡を簡単にとれるメールなんてものを持ってなかったから彼との連絡手段は限られていた。兄は知らない……いや、必要なかったから知らないままでいたもの。
それならば、返事がもらえると信じた。あの日のままの彼ならきっと……と。
『交換留学でそちらの学校に行くことになった。
夏休みには俺一人だけ日本に戻る。
あの日の約束を果たす。会いたい』
淡々と短く書いた手紙に自分のメールアドレスを書いた。これが届くのは俺が行く頃だろう。
慌てふためくだろう彼はどんな風になってるだろう。きっと、それでもあの笑顔だけは変わらないはずだ。そう、信じている。手紙を書くからと言ってあの別れの朝に住所を書いた紙を貰って大事に宝箱に隠しておいてよかった。
手紙を送ってその後一度返事が着た後、毎年届くようになったリターンアドレスのない、俺宛のクリスマスカード。こちらが手紙の返事を書くのは大変だろうと気を使って彼はこうして忘れても良いと思いながらクリスマスカードをそっと紛れ込ませるように送って来たのだろう。今年届いたそのカードを手に取った。もう匂いもなにもないけれども、日本からの消印のついたそれは、届いた時には胸が締め付けられるような匂いがした。兄よりも早くに帰りつくから、クリスマスが近づくとポストで毎日届くのを待っていたこともあった。
早く会いたい。成長して肥大した獣が牙を剥く前に、会いたい。そう思いながら日本へ向かう日を待った。
待ち望んだ出立の日。空港で鳴ったスマホに視線を落とせば、メールが来ていた。
『そんな、いつから来るのか書いてなかったけれども住むところは決まっているのか?
君が落ち着いたら会えたら良いな』
手紙の返事が来た。こちらは朝だが向こうはまだ夜だろう。多分、俺に気遣ってこの時間まで連絡しなかったのだろう。
『明日、いやそっちだと明後日の朝か? 朝8時には着く。
家は適当に着いてから決める。
今から飛行機に乗る』
今まさに飛行機の搭乗の時だ。メールを送って名残惜しいがそのまま電源を切る。普段動かない表情筋が動いた。そっと口元を手のひらで覆い隠す。返事が来なくても、住んでいた家を訪ねてやろうと思っていた。けれども、そんなことをしないでも、優しくて約束を守る義理堅いアイツは返事をくれた。
まず、一つ。子供だった俺の事を、ただ昔の友達の弟でしかない俺を忘れずに、怪しまずに返事をくれた。そして、案じてくれているのが嬉しい。
早く会いたい気持ちを押し殺して狭いシートに座る。乗り継いで長く時間がかかっても寝ていればあっという間だ。
こんなにも離れた距離を越えられるくらいに成長したのだ。アイツは、解ってくれるだろうか。そんなことを思いながら目を閉じた。
数年ぶりの日本。タラップを降りたときに感じた風は少し生ぬるく、不快感を感じながらも懐かしかった。こういう時が一番体を壊しやすいと、食べ物を放置するなとか、ちゃんと洗い物を出せとか家に来て放置されたペットボトルを見て兄を叱っていた顔を思い出す。
しかめ面をしていた彼の顔まで思い出し、ふと視線をあげればどこか懐かしい面影の残るしかめ面の男が目の前にいた。 腕を組みゲートの向こう側で立っている。記憶の彼はもう少し細く、そこまでがっしりした印象はなかったのに。それでも日本では珍しい色味だから、間違えることなくそれが本人だと解った。いや、そうでなくても俺が一目見てアイツを間違えるわけもなかったのだから。
懐かしく変わる事のない甘い匂いがしたような気がして、これはきっと自分のものなんだと気持ちが逸る。もっと暴れるようになるかと思ったが、薬の
3お陰だろうか。懐かしく慕わしい気持ちは沸いてくるが、猛然と捉えて襲い掛かろうとはならない己に安堵する。近付けば記憶の中の匂いが実際にしてきてこんなに匂えば危ないだろうと思っていたが、しかめ面の男の視線が己を捕らえ、驚いたように目を見開くのを見て生れると思っていた凶暴な想いはすっかり消えていった。
「……まさか、オルタなの、か?」
恐る恐ると言うように尋ねてくるその顔に思わず口元がわずかに緩む。こうやって視線を向けられるだけで嬉しくなるのは、きっとあの初恋のお陰だろう。本能よりも強い恋心だった。
「ああ。まさか迎えに来るとは思わなかった。久しぶりだ」
「大分、君は大きくなったんだな……」
感慨深くそう言う目が、君たち兄弟は似ているんだなと笑った顔に、顔を近寄せる。
「その顏のは……」
「昔、話しただろ? うちの家訓で、長男以下どこかにタトゥを入れるようになる、と。俺は顏と足に入れることになった」
何の因果か知らないが、父親の家系の血が強いからか、双子でもないのに兄弟の顏がそっくりになって生れてくるのは昔からのことだと、見分けるために子供に入れる家訓があると話した時、コイツはランサーに似て綺麗な顔なのにと残念そうに言っていた。兄と同じであるのが嫌で、顏に入れたいと望んだのは俺だ。それがコイツには気に入らないのかと思えばそろりと指がタトゥをなぞった。
「こんな顔に入れるなんて痛くなかったか? 腫れて辛かっただろうに」
あくまでも自分の事を心配してくれる彼に、思っていたことと違うのが嬉しくて、幼い頃は見上げていたのに今は見下ろすようになったその体を抱き締めた。鍛えられているようなのに自分と並ぶと華奢に見えるのは腰があの頃と変わらない位に細いからだろうか。今は本当に体がすっぽりと覆える程自分は大きくなった。
「ああ、でかくなった。本当はもっと大人になってから来た方がいいのは解ってたんだけどな、どうしても早く会いたかったんだ」
大きくなったのに君は変わらず甘えん坊なんだな、と優しくそういう声に構わず肩に付けた鼻で匂いを思いきり吸い込む。誰かのものになってないかすかな甘い匂いがする。俺の好きなあの俺のオメガだと思った匂い。
「……ほら、オルタ。いい加減放してくれないか。早く君の荷物も探さないとだろう?」
世話焼きな彼の言葉に頷き離れがたい気持ちを押し殺して頷くと、どこら辺に住む予定かと聞いてくる。来ることを最優先で考え、着いた後に制服やその他の準備と一緒に家を探すつもりでホテルにいることを告げれば、眉間の皺が一気に増える。初めて見るそういう顏に思わず驚いていると腕をぐいっと掴み引っ張ってくる。
「荷物は? 君、ちゃんとスーツケースくらいあるんだろうな?」
疑いの眼で荷物を確認する顔に圧されるように頷けば、その圧が少し弱まる。そういえば、君は交換留学と言っていたが、どれくらいこちらの学校に通うんだ?」
尋ねかける言葉に応えると、眉間の皺すら消えた静かな修羅の笑顔になられるとは思っていなかった。
「まったく! 何を考えてるんだ、君だけではなく君の家族もだ!」
なにも決まってないのに学生一人で来させるとは、君の家族はどうなってるいるんだと怒りながら器用にショッピングセンターに連れてきた相手は次々に日用雑貨を篭に放り込んでいく。ホテルに泊まって家を探すと言ったときの信じられないものを見る目よりは、この怒りながらも『オルタの分』として買われていくものを選んでくれているのが嬉しい。
「後で君もちゃんと家に連絡を入れるんだぞ? とにかく今日はホテルで泊まるとして、掃除をしておくから家が決まるまでは私の実家に居ると良い。ご家族にもちゃんと連絡して家をどうするか決めるんだぞ」
家の説得と留学をもぎ取る為の準備でこっちに来さえすればいいと思っていた。コイツに会いたいだけで考えナシと言われても仕方ないが、とにかく早く会って他の誰かに取られないようにと思っていたし、見つけて番になれば後はどうとでもできると考えていたから確かに怒られて当然かもしれない。怒られてはいるものの、こんなとんとん拍子に再会できて、家に入れてもらえる程うまくいくとは思わなかった。
「ランサーといい、君といい、思い付いたら即行動と考えなしで動き出すを勘違いして良いとこと思ってるんじゃないかね?」
ランサーと兄の名が出たことにピリッとした小さい傷が走る。聞きたくない言葉だった。兄のことを出したときの顔など、見たくなかった。
「なにもなくても死にはしねぇよ」
ぶっきらぼうにそう言えば、怒りすぎて拗ねてしまったのかと少し案じるような顔を向けられる。
「オルタ、君は寮で暮らすかもしくは、数か月でマンスリーマンションで暮らす程度ですむかと思えば、卒業までこっちに残って通うつもりと言うじゃないか。そんなに長く暮らすと言うのに、ちゃんと住む場所を整えてないというのは……。君の親御さんも心配するだろうに……」
君のお宅は放任主義すぎないか、と深くため息を吐き出されるのに無言で返した。分が悪いからではなく。聞かせたくない話があるからだ。
「俺をどうこうできるような奴がいるか」
「そういう問題じゃない。君はまだ未成年で日本ではちゃんと保護されるべき存在なんだ。君が強くても何か巻き込まれた時に困るだろう? そうでなくても風邪の時ホテル暮らしでは落ち着いていられないだろうし…」
優しく諭すように言う言葉にこくりと頷くと、顔をそっと覗きこまれる。不意に、遠くからぞわりと本能が疼くような臭いがする。近くにオメガがいるらしい。グルグルと獣のような唸りを漏らし獰猛な獣のように荒れそうになる。
「大丈夫か、オルタ」
自分を抑えるようにとうずくまったのを案じるように支えて覗き込んできたその首もとに顔を寄せ、匂いを思いきり吸い込む。コイツの匂いは甘く誘うようなのに落ち着く。噛むならばコイツがいい。これが俺のものであって欲しい。そう思いながら伸ばした手は相手の首元ではなく己の服のポケットに突っ込んだ。抑制剤の小さなアンプルを出す。少量で短期間ではあるが効果の強いそれを己の首に突き刺す。こんな所で大事な者を襲うようなことをしたくない。急速に効いた薬のせいで一気に冷めた体は、普段よりも気だるく眠気が出てくる。
「私がこんなところに連れてきたせいだ……すまない」
そんな、アンタは悪くない。そう伝えることもできずに、申し訳なさそうなその顔を最後に意識がとんだ。
「目が、覚めたか? さすがに病院に……と、いうのは君も大事になりすぎて困るだろうと思って、うちに運ばせてもらったんだが……」
見慣れないその部屋にああ、と納得する。小さい何もない部屋は確かに枕元に座る男の部屋なのだろう。窓から西日が射しこんでいるのを見ると、大分時間が経っただろうことが解る。
「食事は冷蔵庫に作り置いたものが有るからそれを食べてくれて構わない。疲れもたまっているだろう? ゆっくりお休み」
起き上がろうとするのを制し、優しく髪を撫でてくれる手を掴むと、少し困ったような顔で見下ろされる。安心する優しい甘い匂いが恋しくて引き寄せた体が倒れてくるのを受け止め視線をおろせば、首元に小さな痕が見える。ゾワッと一気に血液が冷えたのか逆に沸騰したのか解らない。ただ、放たれた殺気に驚いてこちらを見る目は、怯えとそして諦めがあった。
「誰かに、噛まれたのか……?」
間に合ったと思ったのに遅すぎた。コイツがとても優しくて、特別ではなくても優しくするのが当然の人間だと言うのを忘れていた。
「違う……。私には番はいないよ。……これは、恋の残骸だ」
まるで泣いているように見えるのに微笑んでいる顔に思わず固まり、そっと手を外させるその力ない手にも反抗する事できずに放してしまう。
「オルタ、君はもしかしたら勘違いしているかもしれない。私はね、君達の運命にはなれないんだ……」
「あ、おい! アーチャー……」
どこに行くんだと引き留めようとしたその声に、動きを止めたアイツは緩く首を振って見せた。あんな顔、見たことがない。全部を諦めきったあんな顔なんて見たこともないし、これから見るつもりもない顏だ。
「すまない。いくら君でもアーチャーとは呼ばないでくれ。今の君にそう呼ばれるのは、つらい……」
逃げるように部屋を出て行った相手を追いかけることもできずそのまま布団に座ったまま玄関を見る。小さい、狭い家。隅っこの棚にある写真立てにある幼い頃の写真だけが、住んでいた人の気配を感じさせるだけの家。俺は、初めてここで失敗したと実感した。
兄に聞けばよかった。アーチャーは良いのかと。兄の運命だというオメガのあの女を連れて来た時に。執着が強いのは家系で兄が恋人となる者を諦める事はないはずなのに。
アイツの事が好きだから行きたいのだと、俺のものにするために行ってくると。そう言えば良かった。少なくともそうしていたら、もっと先に知れたことがあったかもしれない。兄弟喧嘩の果てに得ただろう話を聞いておけば、彼のあんな顔を見せずに済んだかもしれない。
明日はもう彼は来ないかもしれないと思いながらも、ここが彼の家ならば出ていくのは自分のはずだから、となんの慰めにもならない事を考えながら彼の匂いの残るこの布団で眠りに落ちた。
夜も明けきらない時間、まだ暗い朝方にも満たない時間にふっと目を覚まして部屋を出る。まったくあの頃とは違う街並みで、ここがどこなのかも解らないけれども、古臭いこのアパートの階段に座る。
下から三段目。昔、並んで座った秘密の場所のようだったあの階段。このアパートの階段は大柄な自分が座ればすっかり塞いでしまって並んで座るには適さない。いや、昔住んでいた家の階段でもきっとそうだ。あの頃のように並んで座ることはもうないかもしれない。そう思いながら、座っていると新聞屋がぎょっとしてこちらを見た後、ポストに新聞を入れそそくさと逃げる。
日本を離れてから入れた顔のタトゥを触り、これが怖いのかと相手の反応に小さく舌打ちしていると、遠くから足音が聞こえてきた。トントンと少し速い速度で進むその音が近づきこちらに向かってくる。角を曲がり現れた白い頭が見え身を起こした。
「こんなところで何をしているんだ、オルタ」
驚いたと言う様に目を瞬かせながら現れたアイツは、少し腫れぼったい目をしていた。もしかしたら寝ていないのかもしれない。
「アンタに聞きたい事がたくさんある」
「ああ。ならば、家で話をしようか? さすがにあの頃のように階段に並んでと言うわけにはいかないだろう?」
中にお入りと促がす手の温もりに長い時間外に居た事を実感する。こんなに冷えて体を壊したらどうするんだ、なんて案じてくる相手に頷きながら部屋に入ると、てきぱきと冷蔵庫を開き料理を出していく。昨日食べないまま寝た事を思い出して盛大に腹を鳴らせば、仕方ないなと笑い返してくれる。ぎこちないその笑顔に頷きながら、話す前に食事だと仕切る彼に従い準備を手伝う。そうは言っても皿を出したり指示されたものを持ってくるという子供の手伝いだった。どれだけ大きくなっても、彼の中では俺は子供なのだろう。そう思うと胸がつぶれるような気持ちになる。
「なぁ、アーチャーと呼べないならば俺はお前を何て呼べばいい」
そうだ、兄の呼んだその呼び名しか彼を示す言葉は知らなかった。それをどうしたらいいかと尋ねれば、彼は苦笑を漏らした。
「そういえば私は君にちゃんと名前も言っていなかったね。私は衛宮シロウ。ただ、名前は好きじゃない。名字で呼んでくれ」
しっかりと注文を付けてそう言ったのに了解だと頷くと、また料理へと戻るその背中を見る。覗く項とそこにある噛み痕。一生残る傷跡になるようにと強く噛まれただろうそれは、一体何なのか。きっと食事が終わるまでは何も話さないだろうことは解っている。だから、黙ってその作業の終わりを待ち、黙々と空腹を満たす行為に没頭した。
「……君は、もし私がオメガで誰かの番だったら困る、のか?」
あらかた食べ終わり、入れられた茶を飲んでいるときに何の気なしにというようにポツリと言葉が投げられる。
好奇心からの質問と言うよりも、縋り祈るような問いかけに、ギリギリと痛む心臓を耐えるように奥歯を噛む。
「俺は、アンタが好きだ。ずっと、ランサーの番になったら困ると思って、アンタから甘い匂いがするのも黙ってた。アンタに追いついてオレを番に選んで貰えるまで秘密でいようと……」
「そう、か……。私はね、オメガ寄りかもしれないけれども、どこまでもベータなんだよ」
アルファの番にはなれないんだと頭を撫でる仕草に、初めて子供扱いするなと首を振って拒絶をした。好きだと言った相手に子供にしか見られていないのは屈辱だった。
「君の気にしていたこの痕は、別のオメガのフェロモンで暴走したランサーに噛まれたものさ。彼は噛んだことすら忘れているけれども。本当に、噛まれてもお互いなんでもなかったんだ。私も、彼も……」
何か有ったら逆に大変だからこれで良かったんだがな、と笑って見せる顏はちっとも良いという顏をしていない。
「それと俺がアンタを好きで番にしたいと思っているのは関係ない」
兄とも何でもなく、そして番も結ばれていないのならば、自分を選べば良いだけの事だろうと睨みつければ、緩く首を振られる。
「違うんだよ、オルタ。私はオメガではないから、君の運命になれないんだ。いくら好き合っても、いつかオメガを選んだときに送り出すことしかできないベータなんだ」
いい子だから、番にできない人間を番にしたいなんて言うべきじゃない、等と諭す言葉に知ったことかと無視をして体を捕まえるように抱き締める。番になれないなんて些細なことはどうでもいい。欠片でも良いからこの身に繋がるものが欲しい。
「俺が欲しいのが番じゃなければ、アンタは俺を選ぶか? 好きだと言う俺を受け入れるか?」
「……君は小さい頃の私が君に優しかった思い出で好きだと思って、思い出が美化されているんだよ。世界をよく見てみると良い。きっと私より良い人や、君のお兄さんのように、運命の番に巡り合えるかもしれない」
ランサーの事を知っていた。いや、もしかしたら昨日、連絡をしたのかもしれない。俺のことを聞くついでに、そして兄の結婚の事までも知ったのだ、彼は。
さっき、恋の残骸と言った彼は、きっと兄を好きだった。だから、離れた後もきっと好きで、今失恋したんだ。そう思うと良かったという気持ちと彼が哀れな気持ちと、そしてもう遠慮をしないで俺が好きにしても良いだろうと凶暴な獣が囁く。このまま、オメガバースの性にこだわる必要がないだろうと、こいつは俺の告白を受ければ良いのにと。
さっきから、あくまでも心の内を明かさない相手の首に噛みつく。項は噛めない代わりに噛みついた首に歯型を残せばうっすらと血がにじんでいるのが見える。
「見くびるな。俺は番じゃなくてアンタが欲しいだけだ。運命も番もアンタじゃないならそれは全部いらない」
エミヤがオメガであるならば、強固に繋がりを持てる番になりたいと願っていたが、番がエミヤじゃないならば、そんなオメガバースの性別なんていらない。無用な長物だと言って捨てれば、困ったような顔がこちらを見ている。
「ランサーが忘れられないならば、俺が全部上書きしてやる。だから、俺を選べ」
「考えさせてくれ……。君も、時が過ぎればそんなことを言わなくなる」
兄との間に何が有ったかは聞かないが、もしその過ごした時間が今のこのエミヤの拒絶を作っているのならば、帰った時にどれだけ殴ってやろうかと思う。
「解った。アンタが誰かに取られるわけではないと解ったんだ、長期戦で考える。ここに来るまで散々待ったんだ。少し位かまわねぇ」
「度量が広いな、君は」
今すぐに決めろという事ではないと解ったからか、安堵したように笑う相手にいや、と首を振る。
「惚れた方が弱いというだろう? 俺の初恋はアンタだ。アルスターの男は決めた相手に一途なんだ。俺にとってオメガよりもアンタが運命で、アンタの願いはなんであれ聞いてやりたいと思う程惚れてるんだ」
ストレートな言葉に弱いのか顏が赤く染まるのを見て気分は少し良くなる。くつくつとのどの奥を鳴らして笑えば、それに気付いたのか、不服気に睨まれる。
「君な……。全く。誤解しているようだから言うが、私はランサーを恋愛対象として好きだったことは無いぞ。彼に噛まれて何もなくてホッともしたが、それ以上に、私はオメガではないから、アルファとは結ばれないことが確定したことが私には苦しかったんだ」
さっきも『何か有ったら逆に大変だからこれで良かった』と言ったはずだと怒る言葉に、ならばほかに本命のアルファが存在していたのかと、機嫌がまた下降する。
「俺はどんなアルファにも負けねぇからな」
「ああ、せいぜい君の誠意を見せてもらうよ」
約束を君は守ってくれたようだしね、と小さく囁いた声に、コイツもあの日の朝の約束を覚えていたのかと嬉しくなる。
コイツが好きな相手を知るのは、後もう少し後のこと。ずっと昔から真摯に戻ってきたら結婚してと約束をねだった子供に、絆されていたのを知るのも……。
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- 優月February 3, 2024