なぜアメリカの大学ではポリティカル・コレクトネスを重視する風潮が強まったのか。その要因を「世代」にスポットを当てながら社会学的・心理学的に分析した書籍『アメリカン・マインドの甘やかし』(未邦訳)の議論を紹介する本連載。
第一回:「アメリカの大学でなぜ「ポリコレ」が重視されるようになったか、その「世代」的な理由」
第二回:「「ポリコレ」を重視する風潮は「感情的な被害者意識」が生んだものなのか?」
第三回:「アメリカでの「ポリコレ」の加熱のウラにいる「i世代」の正体」
背後にある「三つの不真実」
これまで三回にわたって、憲法学者のグレッグ・ルキアノフと社会心理学者のジョナサン・ハイトの共著『アメリカン・マインドの甘やかし:善い意図と悪い理念は、いかにしてひとつの世代を台無しにしているか(The Coddling of the American Mind: How Good Intentions and Bad Ideas Are Setting Up a Generation for Failure)』(未邦訳)を引用しながら、日本との比較を交えつつ論じた。
ルキアノフとハイトは、アメリカの大学生は三つの誤った考え方=「三つの不真実」を信じている、と主張する。
自分が傷付くことを恐れるあまり自分の考え方や価値観とは異なるものについて触れることも拒んでしまう「脆弱性の不真実」、自分の感情は常に正しく他人に対して非難や攻撃を行うことを正当化する根拠になると思い込んでしまう「感情的推論の不真実」、そして自分たちとは異なる意見を主張する人のことをただちに悪人だと認定して集団で糾弾することを是とする「私たち対やつらの不真実」である。これら「三つの不真実」については、一回目と二回目の記事でくわしく紹介した。
「三つの不真実」の背景には「六つの原因」が存在する。そのうち、「世代論」的な三つの原因(ソーシャルメディアを原因として若者の間でうつ病や不安障害が増えていること、現代の若者は子供時代から過保護に育てられてきたこと、親の監督下から離れて子供同士で遊んだ経験に乏しいこと)は前回で紹介した。
最後となる今回は、アメリカの社会的・政治的状況と関連する、残る三つの原因について紹介しよう。これまでと同様に、それぞれの原因について、日本の状況との簡単な比較も行なう。
政治の二極化
「私たち対やつらの不真実」に直結する原因が、「アメリカ社会における政治的二極化」である。
長らく二大政党制が続いてきたアメリカではあるが、特定の政治的なイシューに対する民主党支持者と共和党支持者の見解は、2000年代より前はそれほど分かれているわけではなかった。しかし、近年になって、民主党支持者も共和党支持者もその意見が極端なものとなっていき、互いの隔たりはどんどん増している。
特徴的なのは、アメリカ国民はあくまで「政党」によって二分されていることだ。たとえば人種・宗教・教育・年齢・性別の違いによる価値観の差は、支持政党の違いによる差に比べたら大したことがないのである。
ルキアノフとハイトは、この現象の原因をいくつか指摘している。民主党支持者の住む地域と共和党の支持者が住む地域が分離していったことにより互いに交流する機会が減ったこと、メディアの多元化やソーシャルメディアの登場により自分と同じ価値観の人の意見しか目に入らなくなる「フィルター・バブル」現象、議会における民主党と共和党の対立の悪化、アメリカ国民が一つにまとまるような共通の目標の喪失、などだ。
そして著者たちによれば、政治的な二極化は2010年代に入ってから一気に加速した。そのため、この時期に大学に入学した学生たちは、右派であるにせよ左派であるにせよ、「自分と異なる意見を持っている相手は敵だ」という意識を強く持つようになったのだという。
日本においても「政治的対立が激しくなった」という声はよく耳にするが、自民党による一党優位制が長く続いているということもあり、アメリカのようには「右」と「左」の対立は表面化していない。特に、若者は「政治ぎらい」であることが指摘されており、年長者に比べても政治的な物事に関わること自体を拒否する傾向が強い。この点に関しては、日本とアメリカでは様子がかなり異なっているようだ。
大学の「企業化」という要因
一回目の記事で「脆弱性の不真実」について紹介した際に、アメリカの大学に蔓延する「安全主義」(わずかな危険や刺激からも若者を遠ざけようとすること)の問題にも触れた。安全主義にも関わる原因が、「大学組織の官僚主義化と企業化」である。
硬直した官僚主義は大学のなかでトラブルが起こることを過剰に恐れて、安全主義を増長させてしまう。学生たちに学問を教えて彼らと直接向きあう立場にある教員たちではなく、大学組織の管理者側の人たちの権限が増したことも、学生たち本人のためにならない「事なかれ主義」を増長させた。
教員たちであれば学生からの反発を覚悟しても不愉快な事実や知識を彼らに学ばせて、また言論の自由や学問的中立性などの理念を守ろうとするかもしれないが、管理者たちは理念をたやすく放棄してしまうのだ。
同時に、大学が企業化して利益を追求するようになったことが、学生たちを「お客さま」扱いして、彼らの要求を全て受け入れる風潮をもたらした。教員の行なった授業や発表した論考の内容に対して学生が「不快だった」「差別的だと感じた」などとクレームを付けたなら、管理者側はそのクレームの妥当性を吟味することなく、教授に対してペナルティを課してしまうのだ。これにより学生はクレーマー気質を身に付けてしまい、自分にとって不快な意見や異なる信念に向きあって何かを学ぶことよりも、それを排除することを選択するようになったのだという。
日本の大学の制度がどうなっているかということについては、部外者である私には判断することが難しい 。しかし、ほとんどの大学に「教授会」という制度が存在するという点で、現時点では教員たちの発言権は保たれているようには思える。
また、日本の大学教員の多くはゼミなどで学生と密接に関わっており、海外であれば事務員や管理側の管轄であろう学生への進路指導や生活指導も、教員が行なっているくらいだ。学生と教授の距離が近いぶん、日本の大学では官僚主義化による「事なかれ主義」の影響は抑えられているかもしれない。
2010年代のアメリカで起きたこと
最後の原因は、「2010年代のアメリカでは社会正義への意識を高めるような出来事が続いた」ということだ。
たとえば、ブラック・ライヴズ・マター運動は2020年5月にジョージ・フロイド氏が警官による拘束中に死亡したことを受けて爆発的に広まったが、『アメリカン・マインドの甘やかし』では、警官による黒人の射殺などの事件は2010年代の時点から問題視されており、ブラック・ライヴズ・マター運動が創立したのも2013年であることが紹介されている。
また、2011年には「ウォール街を占拠せよ」運動が話題になっていた。2015年にはアメリカの最高裁が同性婚は合法であるとの判決を下した一方で、2016年にはノースカロライナ州がトランスジェンダーの人々に対して「生物学上」の性別に基づいた公共施設の利用を義務化する「トイレ法」を可決して、それに対する反対運動が巻き起こった。#MeToo運動は2000年代から存在していたが、活発化したのは2010年代になってからだ。
そして、2009年にバラク・オバマが黒人としては初めてアメリカ大統領に就任したことは、社会変革への期待のムードをもたらした。その後の2017年に人種差別的・性差別的な言動が多々指摘されるドナルド・トランプが大統領に就任したことは多くの若者たちを失望させたが、その失望もまた、正義を求める運動を活性化させる燃料となっているのだ。
上述の通り、特に2012年以降は社会正義に関するイベントが目白押しである。この時期に青春を過ごした若者たちであれば、無実の黒人が警察に制圧されて射殺される様子を映したショッキングで印象的な動画を一度ならずとも目にしたはずだ。
……そして、過去のアメリカにも、社会正義を求める声が現代と匹敵した状況が数年間だけ存在していた。ベトナム戦争の現場で起こっている凄惨な事態がメディアによって可視化されるようになり、それを受けて学生運動が盛んに起きていた、1968年から1972年の5年間である。
『アメリカン・マインドの甘やかし』で紹介されている政治学者のヤイル・ギタとアンドリュー・ゲルマンの研究では、1950年から1954年生まれのアメリカ人は他の年に生まれたアメリカ人に比べて民主党の支持率がきわめて高いことに注目して、ある人の政治的傾向はその人が18歳前後の頃に過ごした社会の政治的環境に大きく影響を受ける、と論じられている。
i世代の若者たちが置かれている環境は1968年の若者たちが置かれていたそれと近いのであり、社会正義に対する彼らの意識も、1968年の若者たちと同等以上に高まっていると考えられるのだという。
同時期の日本で起きたこと
では、日本の状況をどう考えればいいだろうか。上述した社会正義運動の議論に関しては、「その国でどのような事件が起こっているか」ということ以上に、どのような事件がメディアによって可視化されてその国の人々に強烈な印象を与えるか、ということの方が重要であるだろう。
スマートフォンで動画が撮れるようになったことや動画サイトとSNSの発展は、警官による黒人の射殺事件を可視化して、アメリカ国民をブラック・ライヴズ・マター運動に導いた。その運動は、社会正義に関わるものであると同時に、白人と黒人という人種間の「対立」を強調するものである。同様に、#MeTooに代表されるようなフェミニズムやセクシュアリティに関わる運動も、やはり男性や女性などの性別間における「対立」を強調しているのだ。
一方で、日本においてメディアを通じて国民の意識に影響を与えてきた出来事としては、東日本大震災に代表されるような「災害」が主となっているように、私の目には映る。災害を前にすると、人々の対立ではなく、連帯して困難に立ち向かうための仲間意識や「絆」の方が強調されるものである。
2010年代におけるアメリカの国民意識と日本の国民意識は、それぞれ真逆の方向に進んでいった可能性があるのだ――もっとも、2010年代後半以降はSNSの利用率拡大のもと、日本でも#MeToo運動をはじめとするハッシュタグ運動が活発になるなど、その傾向に変化が見られるかもしれないが。
また、そもそも日本は同調圧力や同質性が高いということもあり、対立が存在していてもそれが表面化することが少ない。それは、マイノリティが声をあげることが難しく、社会正義を求める運動が盛り上がらずに不正義が放置される、という欠点にもつながっていることには留意するべきだ。
これは「副作用」かもしれない
これまで四回の記事で紹介してきたようなアメリカの問題について、ルキアノフとハイトは「進歩に伴う問題(Problem of Progress)」と呼んでいる。彼らは、スティーブン・ピンカーが『21世紀の啓蒙』(草思社)やマット・リドレーが『繁栄: 明日を切り拓くための人類10万年史』(早川書房)で提唱しているような進歩史観や「合理的な楽観主義」――大雑把に言えば、人々の協働や技術の進歩によって社会は改善してきたし、これからも改善していくという見方――に賛同したうえで、これまでに論じてきたような問題は進歩の「副作用」として起きている、と論じているのだ。
「安全、快適、インクルージョンなどの領域で私たちが進歩を遂げるにつれて、私たちの期待は増してしまう。進歩は実際に起きているのだが、より良くなった環境に私たちはすぐに適応してしまうために、進歩が起きていることに気付くことができない場合が多いのだ。」*1
「三つの不真実」や「六つの原因」のさらなる背景には 、アメリカ社会が安全になって犯罪や事故による死亡率が下がったこと、インターネットや電子機器が発達して便利になったこと、などが存在している。ポリティカル・コレクトネス的な要求が過剰になされるようになったことは、安全や正義に対する「意識」が高くなり過ぎたことが原因であったのだ。しかし、安全や正義を重視すること自体は、望ましいことでもあり、否定されるべきではない。
そのため、日本について考えるうえでも、「アメリカと同じ問題が起こっているから間違っている」「アメリカのような問題が起こっていないから正しい」などと安直に判断するべきではない。問題が起こる原因や起こらない理由について、その都度、深掘りして考えてみるべきだろう。「副作用」が起こっていないからといって、その社会が望ましいとは限らないからだ。