「エミヤ」
恐ろしいことに此度の現界で真名を呼ばれることに慣れてしまった。特殊な状況下とはいえ次はどうなるか分からない。別の世界で、別の陣営で、敵として出会うときには上手く真名の記録は消されるのか。弱味を晒すとも言えるそれを気にしない者も多いが、ぬるま湯に浸かってしまっているような気がしてならない。頭ではそう思うのに、どうにも己を呼ぶ声を無視することはできなかった。
「どうした」
「ん」
無防備に差し出された両手の持ち主はクー・フーリンオルタ。狂王と称される割に、ここにいるクー・フーリンの誰よりも穏やかに見えるのは戦場から離れているせいだろうか。
「なんだ。食事ならまだだぞ」
「違ぇよ」
キッチンのカウンター越しにぐいと押し付けられた両手。その意図が掴めずにいると急かすように鼻を鳴らす。子どものようなその仕草に、うっかり声が甘くなってしまったのは仕方ないだろう。
「どうしたんだ?オルタ」
押し付けてきた手の先にある尖った長い爪は不便そうに見えるけれど、そんな風にしている場面は見たことがない。器用なものだと思わず指でなぞってみれば、その爪先が小さく揺れた。
「それ」
「ん?」
「切ってくれ」
ウズウズする、と爪先を揺らす狂王はまるで猫科の動物のようで。似合わない様子に吹き出すと不機嫌そうに舌打ちをするくせに、手はこちらに預けたまま。少し、ほんの少し可愛いなどと思ったのは声に出さないよう、口を引き結ぶ。
「何も私でなくとも。君の女王様にでも頼めばいいだろうに」
「アイツにやらせるとロクなことにならん」
かの女王様を思えば、そのままが良いのにと頬を膨らませるか、それとも目をぎらつかせて更に鋭さを増すよう磨かれるか。
「それにお前が一番器用だ」
畳み掛けるよう、きっぱりとそう言われてしまっては断る気などなくしてしまうではないか。
「そういうことなら、仕方ないな」
準備をするから待っていろと告げれば今度は満足げに鼻を鳴らす。ああ、やっぱり可愛いかもしれない。
サーヴァントとはいえ、料理をする前はどうしても爪を気にする癖は抜けない。爪切りとヤスリはあるけれど、バーサーカーの爪。しかもあのクー・フーリンの。折角任せられたのだから美しく仕上げたい。そう思ってわざわざ投影した最高級の道具にオルタは興味を示さず、手元ばかりをじっと見つめている。
「そんなに睨まなくとも流血沙汰にはならん」
「……そうじゃねぇよ」
ぱちりぱちりと音を立てて短くなっていく爪は思っていたより固くはなく、ヤスリをかければきちんと滑らかになる。そうやっていく内にすっかり禍々しさを失くした右手を握ったり開いたりする姿はやはり子どもみたいだ。
「お気に召したかね」
「ああ」
僅かに上がった口角にこちらの頬も緩んでしまう。
「狂王様のお眼鏡に適って何よりだ」
できたぞ、と左手も返してやればまた確かめるように握り込んでいる。助かった、と律儀に礼を言ってから食堂を出ていく。その背にある尾が揺れていたように見えたのは気のせいにしておこう。
◇◇◇
「エミヤ」
爪切りをした翌日の昼。修練場から戻ってきた者たちのために軽食を用意していたら、昨日と全く同じように声を掛けられた。
「どうした?食事ならそこにできているぞ」
「ん」
やはり昨日と同じように、今日は顔を近付けてくる。腹が減っているのかと出来たものからすすめようとすれば、違うとでも言わんばかりにゆるく首を振る。だから、その子どもみたいな仕草はやめてほしい。甘やかさねばならないような気がしてくる。どうしたものかと近くなった目を覗き込もうと首を傾けたところで彼の唇から血が出ているのに気付いた。
「怪我なら医務室に、」
そう言いかけて、これくらいの傷はオルタなら自分で治せることを思い出す。
「なめても治らねえ」
唇に入った小さな亀裂からまたじわりと血がにじむ。これは。
「乾燥のせいだな……」
英霊、しかも神性を持つような者ですらこんな風になるのかと感心していたら、どうにかしろとでも言うようにまた顔を近付けてくる。
「分かったから、ちょっと待て」
聞き分けよく大人しくカウンターの椅子に座るから、結局また構う羽目になるのだ。
いつどこで仕入れたのか忘れたけれど、頭の隅に覚えていた知識がこんなところで役立つとは。純度の高いハチミツは以前レイシフトの土産に貰ったもの。食材はエミヤに渡しとくのが間違いない、とはマスターの台詞だったか。隠し味にしてみたり、菓子に添えたりと好評だったそれを一掬い。大人しくされるがままのオルタの唇にのせて上からラップをしておく。
「そのまま五分」
「あまい」
「あんまり喋るなよ」
本当は風呂上がりにするのが効果的らしいが、とりあえずこれで良しとする。
「こんなこと、よく知ってるな」
なんとかしろとやって来たはずなのに、感心するというのも変な話だ。
「ここには美しいお嬢さん方も多いのでね」
まあ、こんな知識が彼女たちに向けて発揮されることは今までなかったけれど。五分後、その美しいお嬢さん方も羨むような唇が完成してしまったのは言うまでもない。
◇◇◇
「エミヤ」
「どうした?オルタ」
三日目ともなれば振り向かずとも声の主は分かる。ただ、今日はやや苛立ったような声色。オルタがカルデア内でこんなにも分かりやすく苛立ちを滲ませるのは珍しい。
「ん」
「君はここ最近そればかりだな」
今回は何事かと振り返ってみれば、中途半端な位置にぶら下がった髪留め。一体何をどうすればそんな絡み方をするのか、いつものように束ねてさらりと流れる髪は見る影もない。
「まったく、どこで遊んできたのやら」
何も言われなくても次の行動に移ってしまうのは慣らされたのか絆されたのか。大人しく座って待つオルタの前にオイルと櫛を並べる。一度小さなお姫様たちの髪を扱って以来、何故か頼まれることが増えた為常備していたそれ。まさか狂王様に使うとは思ってもいなかったが、丁度良い。
「君の髪なら喜んで触りたがる者も居るだろうがね」
「まぁな」
「そういえばキャスターの君は可愛らしいことになっていたな」
キャスターの水色の髪は細かく一束に編まれて、その編み目に色あざやかな花を飾りつけられていた。
「無駄な装飾は要らん」
言葉の端から見るに、きっと彼もお姫様たちの遊びに付き合ったことがあるのだろう。今日も遊ばれた挙げ句、ほどくにほどけなくて絡まった、と言ったところか。青色の髪はここでも珍しく、彼女たちはいつも目を輝かせていた。この美しさが損なわれては、きっとがっかりさせてしまうに違いない。殊更丁寧に絡まりをほどいて、オイルを少しずつなじませる。毛先にだけ行き渡るようにして、指通りが良くなったら上の方から櫛を通していく。引っ掛かったらまた毛先に戻ってもう一度。我ながら上出来だ。艶としなやかさを取り戻した夜色の髪は触れていて飽きない。仕上げにいつも彼がしているようにゆるく髪を束ねてやる。
「私は君のお世話係ではないんだぞ」
「ああ、知っている」
まさに王様。それでもまた名を呼ばれたらきっと振り向いてしまうのだろう。このひとときを悪くないと思っている自分がいること、そろそろ認めざるを得ない。
◇◇◇
「エミヤ」
オルタがこうやって自室を訪ねてくるのは初めてだ。ここ数日のことを思い返せば、きっとまた何かさせられるのだろう。備え付けの椅子は譲って、ベッドへ座り直そうと立ち上がってオルタを招き入れる。
「どうした?生憎狂王様をもてなせるものはここにはなくてね」
「いや」
「……オルタ?」
一歩ずつ詰められる距離と昨日までと一変した空気。甘えとも苛立ちとも違う。強いて言うなら戦闘中、敵と対峙したときのような緊張感。
「エミヤ」
強引に手首を掴まれて、ひっくり返った視界の先いっぱいに映るオルタの顔。背に衝撃を受けなかったのは座ろうとしたはずのベッドの上に押し倒されたからだ。
「なんなんだ急に、」
危ないだろう、と続けようとした言葉は鼻先が触れる距離まで近付いたせいで飲み込んでしまった。
「下ごしらえ」
「は?」
「下ごしらえが大事だとお前が言った」
確かにそんなことを話した覚えはある。いつもキッチンに居るんだなと言われたから、美味い料理の為には下ごしらえが重要なのだと。だけどそれが今、この状況に何の関係があるというのだろう。押さえられたままの両手は悔しいくらいにびくともしない。
「オルタ」
「なんだ」
呼び掛ければ応えてくれるのに、明確な答えはくれない。だったら結局は馬鹿正直に聞くしかないのだ。
「オルタ、どうしたんだ?」
この何日か続けてきた会話をなぞるように問えば、赤色の両目がしっかりとこちらを見てきた。
「お前に触れる為だ」
爪先は要らぬ傷を付けぬよう切り揃えたし、唇も髪も触れて不快な想いをさせぬよう整えたつもりだ、といつになく饒舌な狂王様の口から溢れた信じられない告白。手首を押さえる力は強いがその爪が身を裂くことはない。頬を掠める唇は拒否し難いくらい柔らかいし、首筋に当たる髪はさらりとしてくすぐったいけれど不快な気はしない。そのどれもこれも自ら用意したものだというのに。
「……下ごしらえは振る舞う側がするものだよ」
「お前に任せるのが間違いないだろう。失敗する訳にはいかない」
ああ、もうどうしてくれよう。今にも食いつきそうな獰猛な目で見られているというのに。なんでだとか、どうしてだとか、聞きたいことは山程あるというのに。
「お前に触りたい。……ダメか?」
こちらが甘やかしたくなる顔をして、首をかしげるなんて。
「卑怯だ……」
手首の拘束が解かれて、その指先が頬をなぞる。輪郭を辿る唇も、それに合わせて肌を撫でる髪も全てが心地よくて目を閉じた。教えた覚えのない挨拶が遠く聞こえる。
ああ、食べられてしまう。