【本編完結】Ib ~ゲルテナ展 10周年記念展~   作:梅山葵

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『無題』

 ……とても長いこと、眠っていたような気がする。いや、あるいはまだ夢の中にいるままなのか。心地よい微睡に半分浸ったまま、ただぼんやりと考える。

 

 気づいたら、此処にいた。

 

 自分が何者だったのか。さっきまで何をしていたのか。何もかもが思い出せない。

 

 何処へこれから行くべきかも。何をこれから成すべきかも。何もかもが分からない。

 

 寝ぼけ眼を叱咤して、周りの状況を確認する。まだ眼を開けたばかりだから、視界はくすみ朧気だ。

 

 真っ先に眼に留まったのは、すぐ傍にいた2人のお嬢さんだった。見る限り、年齢は同じくらい。高校生か、大学生か。ただ、着ている服がそれぞれ白いブラウスと緑のワンピースで、ふたりとも私服だったから、どっちかと言えば大学生の方が、それっぽいような気がする。片方はサラサラな茶髪に赤い眼で、もう片方はフワフワな金髪に青い眼で、そこまでは対照的だ。しかし顔の造形は、どこか共通しているような気もする。似ているようで、似ていない。そんな2人がそこにいた。

 

 どちらもとても感極まった様子で、眼を潤ませながらの笑顔で、自分の身体に縋りつき、「良かった」だとか「会いたかった」だとか、そんな言葉をかけてくる。

 

 自分とそう年齢が離れているように見えないこの2人は、たぶん自分の知り合いなのだろう。ただ、自分のことすら覚えていない現状、この自分を心配してくれたであろうお嬢さん2人のことも、当然覚えている訳もなく、それがとても心苦しい。

 

「ごめんなさい……。アタシ、自分のこともアナタ達のことも、何も覚えてないの……」

 

 その顔をきっと曇らせてしまうだろうなと、躊躇いがちに2人に告げる。けれど2人はそれを聞いても、その涙混じりの笑顔のまま、ただ黙って首を振るばかり。そんなことはいいのだと、そんなことは大丈夫なのだと、そう言っているかのようだった。

 

 そして2人のうちの片方の、金髪のお嬢さんは自身の眼元を拭うと。

 

「おいでよ、■■■■。ひみつのばしょ、おしえてあげる」

 

 こちらの右腕をその両腕で抱き込んで、そう言った。

 

 ■■■■のところだけは、ノイズがかっていてよく聞こえなかった。いや、記憶喪失のこの身には、それが自分の名前なのだと、実感できなかっただけかもしれない。

 

 隣の茶髪のお嬢さんも、そんな金髪のお嬢さんの様子を見て、何かを察したようにパっと笑うと、残ったこちらの左腕を、やはり両腕で包み込む。

 

 両腕を包む柔らかさはそのまま、腕ごと自分を引っ張り始めた。2人は自分を、何処へ連れて行くつもりなのか。そこで何をさせるつもりなのか。そんな疑問が頭をよぎる。

 

 でも、逆らわなくてはいけない理由すら、頭に何一つ無かったから。こうして2人の間に挟まれて、その両腕を引かれるまま、言われるままに付いて行く。まだ眼が明るさに慣れていないから、2人がこうして倒れないように、支えてくれるのは有難かった。

 

 自分がいた場所は、どこかの建物の屋内だったようで、そんな廊下を3人で、横並びで一緒に歩く。窓から黄金色の太陽の光が差し込んで、自分達の歩く道を照らしている。どうやら今は、昼下がりのようだ。案内人の2人と一緒に、突き当たりにある扉のドアノブに手を添えると、ポカポカとした木製の温かさが、掌へと伝わった。

 

「ここ……?」

 

 不安混じりの眼差しで、隣の2人に目配せすると、それぞれ眼を閉じて軽く頷く。それに背中を押されるように、ドアノブを握る手に力を込めて、ゆっくり捻って向こうに押した。

 

 次の瞬間。

 

 視界一面を埋め尽くす、色、色、色。ありとあらゆる種類の色が、一斉に飛び込んでくる。その色彩の暴力は、物理的な力を纏い、寝ぼけた自分を叩き起こす。

 

 目が慣れてくると段々と、"ひみつのばしょ"と呼ばれた今居る此処が、どんな場所か分かってきた。色彩豊かだった原因は、絵画やオブジェ、衣服など、ありとあらゆる様々なアートが、所狭しと並べられていたからだった。その数の多さたるや、すわ美術館かと見紛う程だが、展示されているにしては配置のされ方が無造作なのが気になる。

 

 ジッと目を凝らしてみれば、既に出来上がった作品に混じって、製作途中のようなものも多く混じっていた。例えば、背景の虹だけが描き込まれた油絵。それを塗るために使ったであろう絵の具付きのパレットナイフが、画架の縁に引っ掛けられている。例えば、襟付コートが下書きされていると思わしき型紙。近くには深い青色の生地が置かれ、まさにこれから仕立てる直前と思われる。他にも、筆・キャンバス・デッサン人形などの画材、ハサミ・ミシン・チャコペンなどの裁縫道具、粘土・石膏・大理石などの素材、そういったものが机なり床なりに鎮座していた。どうやら此処は、アトリエらしい。

 

 そんな散らかった中において、一部だけ綺麗に整頓されている、部屋奥のエリアが眼に留まった。その辺り一帯は床の掃除なども綺麗に行き届いていて、そこに飾られている作品達は、きっと何か特別なのだろう。その証拠に、それら全ての作品の傍に、題名を告げるプレートが掲げられている。

 

 壁伝いに並んだその作品達の方へ、自然と足が引き寄せられた。隣の2人が案内しようとしていた、最終的な行先も同じだったようで、彼女達も身体を寄せたまま、そんな自分についてくる。

 

 『暗い美術館の音色』。『心配』。『さぼりがちな秒針』。『月夜に散る儚き想い』。『ミルクパズル』。『争いの矛先』。『心壊』。『回転』。『隠した秘密』。『あこがれ』。『指定席』。『決別』。『精神の具現化』。『あずかりし心臓』。『手の届かぬ場所』。『絵空事の世界』。『永遠の恵み』。

 

 どこかで聞いたことがあるような、どこかで見たことがあるような、そんな作品達ばかり。こういった題名の作品達が、記憶のどこかにあったような。

 

 しかし、同時に不思議だった。眼の前に並んでいる作品達は、自分が記憶していたあの作品達を、とても強く想起させるのに、明確に違う作品なのだ。だって覚えていたものは、それぞれ独立した作品だったのに、眼の前のこれらは全てが一本、連続して繋がっている。

 

 共通して作品に登場する、10歳くらいの少女2人と、20歳くらいの青年1人。茶髪の女の子は白のブラウスと赤のスカートを合わせていて、金髪の女の子は緑のワンピースに青いスカーフを纏っている。そして残った青年は、くたびれた青いコートを羽織っている。

 

 そんな3人によって紡がれたストーリーが、時系列を追うように順番に、作品の形で並べられていた。

 

「この、作品達って……」

 

 知ってる気がする。この一連の物語を、■■■■は実際に経験した気がする。

 

 でも最後の一欠片だけが、どうしても見つからない。煮え切らない葛藤を抱えたまま、遂に最後の作品へと足を運ぶ。そしてそれに目をやった瞬間、雷に撃たれたかのように足が止まった。

 

 『ギャリー』。

 

 それは、ある青年の肖像画だった。それは、自分と同じ姿をしていた。

 

「……私達が2人で協力して。一緒に作ってきた作品達なの」

 

 絵画を凝視したまま動かない自分に、金髪のお嬢さんがそう言った。

 

「……絶対に忘れないように。そんな思いを込めた作品達なの」

 

 作品を凝視したまま動かない自分に、茶髪のお嬢さんがそう言った。

 

「「だから」」

 

 そして2人で口を揃えて。

 

「私とイヴが、あの時どんな気持ちだったか」

 

「ギャリーが、あの時どんな気持ちだったか」

 

「「一緒に思い出していこう?」」

 

 


 

 

 そうして今に至るまで、全ての作品にまつわるエピソードを、2人はそれぞれ話してくれた。

 

 作品解説という名目で始まった、2人の懐かしい思い出話。それを順番に聞いていく中で、ギャリーはあの世界であった出来事を、確かに思い出してきたのだ。

 

 同時に合間を埋めるように、ギャリー自身が何を感じていたかも、自然と呼び起こされてきた。

 

 改めて、2人の姿を見る。

 

「イヴとメアリー、なの……?」

 

 一緒にあの世界を歩いてきた2人の姿が、ついさっきのように瞼に浮かぶ。まだ背も低くあどけなくて、綺麗よりも可愛さが強かったあの2人。それに対して、今の眼の前の2人はどうか?

 

 イヴは、スラっとしたスタイルが印象的だ。手足含めて細長くモデル体形な彼女は、ギャリーにこそ及ばないものの、背が低いというイメージとはほど遠い。

 

 一方のメアリーは、曲線に富んだ柔らかそうなプロポーションをしている。服越しにも分かるメリハリのある身体つきは、グラマラスで健康的だ。

 

 もう、可愛らしいだけの女の子だなんて言えない。2人とも見違えるほどに綺麗な、大人の女性になっていた。同一人物だったなんて、一瞬見ただけじゃ分からないくらいに。

 

 でも、こうやって気づいてみれば。ハッキリと面影も残っている。イヴのサラサラした茶髪も、その凜とした赤い眼も。メアリーのフワフワした金髪も、その吸い込まれるような青い眼も。あの時から何一つ変わらない。眼の前のこの2人は、紛れもなくあの2人が成長した姿なのだ。

 

「こんなに立派な、一人前のレディーになっちゃって……!」

 

 感嘆の声が漏れる。気づけば、2人の頭の上に、それぞれ手が伸びていた。子供だった2人を撫でる動作に慣れすぎて、自然と出てしまった仕草だった。でも、ふと今の2人に対しては、子供扱いが過ぎる気がしたから、そのまま手の位置を滑らせて、代わりに髪を手櫛で梳かす。するとそんなギャリーの手に、2人は軽く頭を預けて、嬉しそうに目を細めるのだ。

 

「あれから、大丈夫だった……? 幾つになったか、訊いてもいい……?」 

 

「うん……。私、大学生になったの……。19歳に、なったんだよ……?」

 

 2人の成長を目の当たりにしたギャリーが訊くと、イヴはしっとりした目でそう答えた。

 

 19歳。あの世界で聞いたイヴの年齢が9歳だったから、丸々10年が経っていることになる。嗚呼、それだけの年月が経てば、あの子達がここまで大きくなるには、十分過ぎる時間だろう。

 

「ギャリー……。今の私はね、イヴの義妹なんだ」

 

 イヴの回答を繋げる形で、メアリーが現状を教えてくれる。

 

「だから今も、私はイヴと一緒にいるの。お義父さんもお義母さんも、本当の子供同然に、私のことを愛してくれて。だから私はあれからずっと、ちゃんと元気にやれてるよ……」

 

 メアリーがイヴの家族の一員として、愛されて元気に過ごせている。それを聞いて、ギャリーはすごくホッとしていた。

 

 それは数少ない残っていた懸念点だった。外の世界に出たメアリーが、出生不明の孤児として、児童養護施設に送られてしまう可能性だってあった。

 

 愛らしい性格のメアリーのことだから、それでも上手くはやっていけたかもしれない。けれどやはりこうして聞くと、そうはならなくて良かったと、胸を撫でおろさずにはいられない。

 

「……ギャリーは何もかも、あの時のままだね」

 

 しみじみとイヴにそう言われて、やっと自分の状況に気が回る。自画像製作などで使うためであろう鏡が、丁度良く近くに置かれていたから、それを覗き込む。

 

 そこには、あの時と全く変わらない、見慣れた自分の姿があった。2人がこんなに変わっているのに、ギャリーだけが変わっていない。まるで時の流れから、ギャリーだけが置いてかれてしまったようだ。

 

「どうなってるの、コレ……? そもそもアタシ、どうやってあっちの世界から……」

 

 鏡を呆然と眺めながら、自分の頬に手を当てる。10年経って、それ相応に老け込んでたっておかしくないのに、肌の感触もそのままだった。

 

 ギャリー自身、納得して諦めたのだ。あの世界に取り残されたギャリーが、別の脱出方法を見つけたのならいざ知らず、そんなことをした覚えもない。……と、いうことは。

 

「あの後、何があったの……?」

 

 外に出た後の2人が、何かしたとしか思えない。それを訊ねる意図を込めて、鏡から視線を2人に戻す。

 

「……あの後、こっちの世界に出た後に。ギャリーを連れて来る方法を、メアリーと一緒に探したの」

 

 言葉を吟味するように、イヴが答えを話し始める。

 

 半ば騙す形でイヴを『絵空事の世界』から送り出した以上、外の世界に出たイヴが、そうしようとするのはなんとなく分かる。

 

 そんなイヴの言葉を引き継ぐように、メアリーが続ける。

 

「……でも、見つからなかった。3人揃って出る方法どころか、あの世界に帰る方法すら、手掛かり一つ見つからなかった」

 

「……帰る?」

 

 3人揃って出る方法が見つからなかった、という結果についてはすぐに頷けた。それが想像できていたからこそ、ギャリーはあんな手段をとったわけだから。しかし、外の世界に出たくて堪らなかったはずのメアリーの口から出た「あの世界に帰る」という言葉は、無視するには違和感が強すぎた。

 

「……ギャリー、ごめんなさい。ギャリーのお陰で、出られたのに。ギャリーがあんなに、念押ししてくれたのに。私、もうあっちの世界に帰りたいって、そう思っちゃったことがある……」

 

「え……」

 

 俯いたまま自身の胸を両腕で抱え、二の腕に爪を立てるようにして、自分の身体を掻き抱くメアリー。そうして込められた力によって、その服と身体の形が歪む。自分を締め付けるようにして絞り出されたその言葉は、紛れもなく懺悔の言葉だった。

 

「……2人の言ってた、通りだった。外の世界は、楽しいことばかりじゃなかった。……外の世界に、お父さんはいなかった」

 

 お父さん。その単語を聞いて、メアリーの言わんとしていることをすぐに察する。メアリーが外の世界に出たいと思っていた理由は、たった一人の実の親に、会いに行きたかったというのが一番だろう。それが叶わないと分かったからには、帰りたいと考えるのは不自然ではない。

 

「メアリーと一緒に、調べたの。外の世界の、ワイズ・ゲルテナについて」

 

 下を向いて眼を伏せるメアリーに寄り添い、その背中に軽く手を添えながらイヴが付け足す。

 

 あの世界に遭難したことで、ギャリーもイヴも、ゲルテナについては詳しくなった。メアリーに至ってはあの世界でずっと暮らしてたわけだから、そんなギャリーやイヴすら超える。

 

 ただ、そういったゲルテナに関する詳しさは、あくまであの世界から見た、偏った情報に過ぎない。イヴは両親に連れられて来ただけだし、ギャリーはたまたま開催していた展示会にふらっと立ち寄っただけ。ゲルテナ展に立ち寄る前は、どちらもゲルテナについてはどこかで名前を聞いたことがあるか程度だった。

 

「外の世界のお父さんは、根強いファンこそいるけれど、どちらかと言えばマイナーな、そんな過去の芸術家の一人。私が思っていたような、なんでもできる神様じゃなくて、アートの才能があっただけの、ただの普通の人間だった。だから最後に行き着いた先も、お父さんの名前が刻まれたお墓だけで、そこでどんなに呼びかけても、返事は返ってこなかった」

 

 自分で傷を抉る様に独白を続けるメアリーに、どう声をかけていいか分からなくなる。

 

 世界の隔たりを超えてまで、会いに行こうとした父親が、既に墓に眠っている。物語の終着点として、それはあまりにも残酷極まりない。しかしどんなに何とかしてあげたいと思っても、ただの人間でしかないギャリーとイヴには、それだけはどうすることもできなかった。

 

「悲しかった。苦しかった。なんでも出来るって信じてたお父さんが、実はそうじゃなかったこと。そしてこの世界を生きてる人からすれば、そんなお父さんはもう過去の、終わった人でしかなかったこと」

 

 あの世界しか知らなかったメアリーにとって、父親とは自分の全てだったのだろう。

 

 子供からすれば大人というのは、自分に出来ないこともいろいろできる、ある種あこがれの存在だ。そんなあこがれの存在のうち、最も身近なものが親であり、だから子供は小さいうちは、どうしても親に幻想を抱く。そしてそれを向けられた親は、せめて我が子の前だけでもと、それを演じようとする。

 

 そうした過度な期待はいずれ、子供が大人になるにつれ、だんだん綻んでいくものだ。かつて大きく見えていた姿が、ある日とても小さく見える。それ自体は自然な現象だが、よりによってそれに気づかされたのが、メアリーにとっては父の死だった。

 

 聞いているこっちまで顔を背けたくなるような、悲痛な事実を並べていたメアリー。……しかし。

 

「でも、そうして泣いて泣いて、やっとそれを認められるようになった時。私は、気づいたの」

 

 その言葉を言い切ると共にメアリーは顔を上げると、ガラッと雰囲気を反転させた。

 

 大きく見開かれてギラギラと輝くその瞳。口角が上がったその顔は、どこか笑っているかのようで、ある種の怖さすら感じさせる。全身から放つ不敵なオーラに気圧されるまま、続くメアリーの言葉を待った。

 

「ただの人でしかなかったお父さんが、生涯を捧げたその果てに、あの世界にまで至ったなら。……私達にもきっと、届くって」

 

「は……?」

 

 すぐに、理解が及ばない。場違いな間の抜けた声が、ポカンと開けた口から漏れた。

 

「お父さんは、あの世界に行けた。だからあの世界に行くためには、お父さんと同じくらいになればいい。……ね、そうでしょ?」

 

 それはあまりにも、荒唐無稽な発想だった。

 

 つまり、メアリーはこう言っている。ワイズ・ゲルテナがあの世界を創り、自由に行き来することができた以上、ワイズ・ゲルテナに匹敵する芸術の力を持つことができれば、同じことができるようになるはず。そしてワイズ・ゲルテナが普通の人間だった以上、同じ人間である私達に超えられない道理が無い、と。

 

 確かに、理屈で言えばそれは成り立つかもしれない。しかし、たとえそれを思いついたとして、いったい誰がそれをやる?

 

「アンタ……!? それがどれだけ無茶で、そのためにどれだけのものを犠牲にしなきゃいけないか、分かってる……!?」

 

 隅から隅へ心ゆくまで、あの世界を鑑賞する機会があったギャリーは確信している。心の中に異世界を構築できる創造力と、それを作品として具現化できるだけの表現力。それらを高次元で両立し、遂には作品達に自我すら吹き込むことに成功したワイズ・ゲルテナは、まごうこと無き天才であると。彼が世間的にマイナー止まりになっている原因は、現代アーティストゆえにまだ評価が追いついていないことと、長い歴史上を見れば芸術の分野で他にも天才は数えきれないほどいるということ、その2点に依るものだけでしかない。

 

 メアリーの発言はそんな正真正銘の天才を相手に、「専門分野である芸術の土俵で、真っ向から追いつけばいい」と言っているに等しい。

 

 できるわけがない。あの世界をよく知る者であるほど、それが想像もつかないほど険しい道で、普通なら人生を賭けたところで、絶対に届かないということだけは分かる。ゴールに繋がっているかも非常に怪しく、寿命という制限時間すらあるという意味では、それはあの世界から出ることより、もしかしたらずっと難しい。

 

 でも、今こうして。ギャリーが外の世界にいるということは。

 

「まさか、アンタ達……! 本気でそれをやろうとしたって言うの……!?」

 

 物理法則を超えて世界を飛び越えられるだけの芸術の力量。そんな極まりきった業を身に付けるために必要な時間と努力はどれほどのものか。

 

「……10年かかっちゃったけどね」

 

 10年。イヴが告げた年数を聞いて、血の気が引いた。

 

 以前のイヴが、9歳で。今のイヴが、19歳で。つまり10年とは……、イヴとメアリーが外の世界に出てから、その時間の全てである。

 

 イヴからすれば、この世界で生きてきた時間の半分。メアリーからすれば、この世界で生きてきた時間の全て。ギャリーの年齢に匹敵する、合わせて20年分という時間と引き換えに、2人はギャリーを連れ戻しに来たという。

 

 聞こえてきた内容に耳を疑い、本当かもう一度確かめたくて、イヴとメアリーの顔色を伺おうとした。2人の肩に手を回し、軽く引き寄せるようにして、ぐっとその顔を覗き込む。そうやって間近で見つめてみれば、以前の2人とは異なる点に気づく。イヴもメアリーも、ナチュラルではあるが、メイクをしている。

 

 そりゃあ女子大生ともなれば、化粧くらいして当然だ。ただ、コスメにもそこそこ造詣が深い男なギャリーは、2人の化粧が主として隠そうとしているものが何か分かってしまった。これは、目の下の隈を目立たなくするためのものだ。イヴもメアリーも、十分に睡眠をとっていないのかもしれない。

 

 そうやって1つ気づいてしまえば、どんどんそれを皮切りに、他の点にも眼が留まってしまう。たとえば両手。あんなにすべすべで柔らかかった手に、はっきりタコが出来てしまっている。輝いていた爪は擦り減って、その先の隙間には、洗っても落としきれないくすみが見て取れた。元の小さく柔らかかった掌を知っているからこそ、ギャリーにはそれが痛々しくて堪らない。

 

 直視をするに耐えなくて、アトリエ全体を見渡した。解説を受けた作品だけでなく、あちこちに放置されたアートの数々も含めて。ちょっと注意してみれば、失敗して作り直しになったのであろう同じ構図の習作が、異様に多く混ざっていた。おそらく練習のために、何度も繰り返し模写・模造したのだろう。

 

 ちらっと流し見しただけでも、隠しきれない努力の痕が、そこらじゅうに刻まれている。だからメアリーの話がどんなに現実離れしていても、もうウソと切り捨てることなんてできなかった。ただ自分のために費やされたもの、それらのあまりの重さを前に、ただ途方に暮れて喘ぐだけ。

 

「忘れてくれて、良かったのに……」

 

 初めて出会って1日程度、同じ道を歩いただけの男。そんな見知らぬ男のために、華の10代殆どの時間を、捧げる必要なんてありはしない。ましてや、こんな自分のためなどには。そんなことは、他でもないギャリー自身が、一番よく知っている。

 

「アタシのことなんて全部忘れて、ただ笑って生きてくれたら。それで全然、良かったの……」

 

 イヴとメアリーを外に出して、ギャリーだけが残ったのだって、ただ彼女達が笑う未来に希望を見た、ギャリー自身のエゴに過ぎない。自己犠牲とすら呼べないその行いが、若い彼女達を負い目で縛りつけ、ずっと苦しませてしまったのだとしたら。それが申し訳なくて堪らなくなった。

 

「ふざけないで!!」

 

 でも、そんな思考を引き裂くように。イヴがギャリーの胸倉を掴み、嗚咽混じりに叫ぶのだ。

 

「ギャリーが自分を粗末にしたら、傷つく人がいるって分からないの!?」

 

 燃える想いを宿したその眼は、溢れる涙で滲みながらも、それでもギャリーを深く穿つ。

 

「あの時もそう! 勝手に全て決められて、「先に行ってて」なんて言われた私が、どんな気持ちだったと思う!?」

 

 ポカ、ポカ、ポカ、ポカ……。

 

 ギャリーの胸元にイヴの拳が、何度も何度も打ちつけられる。

 

 ギャリーの中で、イヴという少女は優しい子である。きっとかなり無理をして、強く振る舞っているのだろう、とは思った。実はもっと快活で、面白い子なのかもしれない、とも思った。それでも、誰かを思いやれる優しい子だという印象だけは、一緒にいた最初から最後まで、全く揺るぎはしなかった。

 

 だからこそ。ギャリーにはイヴが怒る姿だけは、どうしても想像できなかった。

 

 今、イヴは怒っている。ギャリーのことを叱っている。誰かを思いやれる優しいイヴは、誰かのために怒るのだと、ギャリーは今、この時知った。そしてそんなふうに怒るイヴを、ギャリーはとても綺麗だと思った。

 

 イヴを、泣かせてしまった。泣かせたのは誰か? ギャリーである。

 

 自分に価値などあるわけない。そう思っていた。誰かにそれを否定されたことは、人生で何度もあったけれど、そんなものは社交辞令で、馬鹿正直に受け取ったことは一度も無い。

 

 けれど今。イヴを泣かせたのはギャリーの仕業で。つまりギャリーはそれくらい、誰かの心を揺るがしうる存在なのだと、眼の前にはっきり示されてしまった。

 

 ギャリーの胸を叩くテンポが、次第に遅くなっていき、遂には止まる。

 

「……私、こっちの世界に帰って来たばっかりの時。メアリーが思い出させてくれるまで、あっちの世界のこと全部忘れちゃってた」

 

 さきほどギャリーが言った仮定。それはまさに一度起こったのだと、そうイヴは言う。

 

「確かに楽だったよ? 嫌なことに目を瞑って、ただの日常に戻るのは。でも……」

 

 イヴの口調は乱暴で、吐き捨てるという表現が合っていた。隠しきれない苛立ちがそこにはあって、でもそれらの矛先は実のところ、ギャリーにもメアリーにも向けられていないように思えた。

 

「忘れたままだったら、こうしてまたギャリーと会えてないじゃない!」

 

 瞳に潤いを溜めたままに、キッと強い眼差しでギャリーを睨み、イヴは叫ぶ。

 

 ギャリーが覚えているイヴという少女は、他人の眼を気にするタイプで、こんなふうに感情に任せて、自分の主張を出せる子ではなかった。でもあれは、あの世界に迷いこんでいて、いわば非日常のイヴの姿だ。だからギャリーは今初めて、情に熱くて涙もろい、イヴの素顔を知ったのだ。

 

「ギャリーが気に病む必要なんて、ないんだよ……?」

 

 ……一気に言葉を捲し立てたイヴの、息が整うのを待っていたらしいメアリーは、穏やかな笑顔で諭すように、横からギャリーへと語りかけ始めた。

 

「だって私は、この10年が辛かっただけなんて思ってないもん」

 

 優しいけれど、それでいて有無を言わさない。そんな雰囲気を両立させながら、メアリーは続ける。

 

「ねぇ、ギャリー……? なんでたった10年で、ここまで来れたんだと思う?」

 

 10年。「たった」と前につけるには、どう考えても長い時間だ。しかし、2人が挑戦したらしい「ゲルテナに芸術面で追いつく」という目標を鑑みれば、短過ぎる時間であることも間違いない。2人合わせたところで、ゲルテナが生涯でアートに費やしたであろう年数に、まだ遠く及ばないのだから。

 

 そんな問いをギャリーに認識させた上で、メアリーはおもむろに口を開く。

 

「想い出が、助けてくれたんだ」

 

「想い出……?」

 

「うん。お父さんは、きっと手探りだったと思う。でも、私には地図があったから。あの世界で過ごした、お父さんとの、ギャリーとの、みんなとの、大切な想い出があったから。だからそれらを道標にして、あそこを目指して歩けたの」

 

 メアリーが話す一語一句を聞きながら、ギャリーはゴクリと唾を飲む。

 

 アートでは、常に真新しさが要求される。新しい表現、新しい作品。まだ見ぬそういったものを創り出すことこそ、アートの神髄に他ならない。先の見えない暗い迷路を、自分の手で切り拓いていかねばならないこと。それこそが、世の芸術家達に立ち塞がる最大の壁である。

 

 ……しかしそれは、逆に言えば。誰かの後をなぞるだけなら、ずっと簡単に済むということだ。

 

 アートにおいて、真作と偽って作られる贋作は評価されない。それは先に述べた一番槍開拓者の栄誉を盗まんとする行いだからだ。

 

 ……ただ、そういった事実とは裏腹に、アートは「先人を真似る行為」それ自体は否定していない。模写・模造という概念があるように、むしろ奨励している側と言って良いだろう。今日の歴史に名を刻んだアーティストの多くも、その下積み時代などに模写・模造を行っていた例が見つかるのは枚挙にいとまがない。

 

 ギャリーは思い出していた。あの『ミルクパズル』での出来事を。メアリーはこと記憶力に関しては、常人を全く寄せ付けない、超人的な才能を持っていた。そんなメアリーならばあるいは、彼女が永くいたあの世界の詳細全てを、憶えていてもおかしくない。

 

 吸収したというのか。自分の頭に保存した、あのゲルテナの世界の記憶。それらをお手本代わりとして、ゲルテナの持つ芸術の世界観、その全てを。水やりされた花がすくすくと、それを吸って育つかの如く。

 

 記憶とは、ある意味それ自体が学習のプロセスである。教えられたことを、頭で、身体で、憶える。それは、最も基本的な"学び"="真似び"の在り方だ。

 

 無論、何も考えずに覚えるだけでは、応用は効かない。記憶が学びの全てであるわけではない。しかし新しい何かを生み出す行為だって、土台となるのは憶えた知識だ。

 

 ならばその記憶という分野で、人智を超える能力を持つメアリーには……あらゆるものを吸収するために必要な素地が、最初から完全に備わっていた。そういうことになるのでは。

 

 ゲルテナはメアリーを置いて逝った。しかしゲルテナは芸術家だ。そして芸術家という人間に限って言えば、自身が創り上げた作品以上に、何かを伝える言葉など在りはしない。ならばゲルテナはメアリーをただ置いて逝ったのではなく、彼女へ遺せるものは全て渡して逝った。それを否定できるだろうか。

 

 アートとは、歴史の積み重ねだ。ある人の作品が他の誰かの心を揺り動かし、影響を受けたその誰かが、また新しい作品を創り上げる。連綿と続くそういった継承・変遷の果てに今日のアートがあるのである。それはそれは文字通り、美術史という言葉が産まれるほどに。後世に与えた影響を鑑みて、死後に再評価される芸術家がいたりするのも、そのためである。

 

 そもそもアートという単語は、今でこそ芸術的意味合いを特に強くしているが、かつてはそれに留まらなかった。文学・医療・算術・土木建築・工芸・音楽・武道等を含むとても広い分野を包括した概念、それらをまとめてアートと呼んだ。その元々の語源は「究めるもの」。つまり、人が長い歴史の中でその業と叡智を究めてきた技術体系、そういった全てである。だからこそ、先人の智慧の結晶で、後の世にそれらを伝えうる遺物のことを、アーティファクトなどと呼んだりするのだ。

 

「絵を描いているとね。頭の中のお父さんが、ギャリーが、みんなが、あの時の声で応援してくれるの。お父さんやみんなから聞いたいろんな教え。あの時、薔薇をくれたギャリーの言葉。そんな声が聞こえるのが嬉しかったから、だから辛くなんてなかったよ」

 

「私も同じ。メアリーからギャリーにまた会えるかもしれない道を聞いた時に、一緒に行きたいって私が決めたんだ。あの世界で交わした、3人一緒にマカロンを食べに行こうって約束の想い出が、その時から私達の夢になった。それを現実に変えられるか、それとも夢のままで終わるかは、私達に懸かってるんだって、それが分かっていたから頑張れた」

 

 そして単純なアートの知識・感性という側面だけでなく、原点たる動機を支えたものも、培った記憶だったのだと2人は話す。

 

「あっちの世界だけじゃない。こっちの世界に出てきてからは、イヴがいろんな所へ連れてって、宝物みたいな想い出を、有り余るほど私にくれた。お菓子屋さんのスイーツバイキングでは、チョコクッキーもフルーツケーキも、全種類ちょっとずつ食べさせてもらった。ブルーベリーケーキが、今の私のお気に入りなの。動物園や水族館では、私が見たことも無い動物さんやお魚さんと会わせてもらえて、ウサギさんやイルカさんを撫でさせてもらったりもしちゃった。お洒落もいっぱい教えてもらえて、似合う服やアクセサリーを、一緒にブティックで選び合いっこしたりもしたよ。この前の夏休みにはみんなで旅行に行って、雪がしんしんと降りしきる夜に、オーロラだって見れたんだ。カラフルなカーテンの向こうでお星様が沢山輝いてて、とってもとっても綺麗だった」

 

 イヴはメアリーとの約束を守ったのだ。過去を懐かしむメアリーの顔を見れば、メアリーがこの10年でいかに素晴らしい想い出をこの世界で得ることができたか、楽しく人生を謳歌してこれたか、それが一目瞭然だった。

 

「そうやって憶えてきた感動を他の誰かに、今度は私が伝えたい。だからね、ギャリー。私がこの道を選んだのは、今となっては他でもない、私自身のためなんだ」

 

 あの世界で、ギャリーはメアリーに心を動かされた。外へのあこがれを込めてメアリーが描いたクレヨンの絵の数々は、確かにギャリーの共感を呼んだ。しかし、それはメアリーの純粋な想いに触発されたからであって、メアリーの絵の技量自体は、あくまで子供相応だった。

 

 ただ、よくよく考えてみれば、『メアリー』はゲルテナ最期の作品だ。ならばメアリーはもしかしたら、肝心の絵を実際に描いているゲルテナを観たことは、一度として無かったのでは? 完成形だけは多く知っていても、それではきっと絵は上手くなれない。

 

 あの閉じた世界だけで学べることは、どうしたって限られていた。そんな世界の中ですら、異彩を放っていたのがメアリーの憶える才能だ。そんなものを、新しいものだらけの外に出したらどうなる? ……決まっている。あらゆるものを呑み込んで、真の意味で花開く。

 

「メアリーの言うとおりだよ。他の誰でもない、私が決めたの。あの世界に迷い込んだばかりの頃は、最初は怖くて堪らなかったけど……。でもギャリーとメアリーに会えたのは、全部あの世界のお陰だった。そうやって思い返してみれば、恐ろしかったはずのあの世界での想い出は、いつしか時が経つほどに、どんどん大切になってきたの。こっちの世界に戻ってからだって、自分が今生きてるってことが、当たり前じゃなくて奇蹟なんだって、そう気づくことができたから、だから私もこの世界を、本当の全力で生きてみたいと思った。ねえ、ギャリー? 今日の私達の服はサイズが違うだけで、あの時の私達みたいでしょ? でもこれは全部、私が一から仕立てたの。他にもね……」

 

 イヴはくるりと回って自身の衣装を強調した後に、高級感溢れる白いレースのハンカチを取り出した。刺繍が入ったそれは、とても見憶えがある。しかし、ギャリーはまだイヴにそれを返していない。

 

「ギャリーに渡したハンカチは、お母さんに買ってもらったものだけど。今の私は自分の手で、それを再現できるまでになった。ギャリーにハンカチを渡したあの記憶が、私をここまで連れてきてくれたの」

 

 あの世界とこの世界、そのいずれもの中で集めてきた記憶の数々。それこそがイヴとメアリーに、アートの道を選ばせた。イヴとメアリーはギャリーのせいで、選択肢を奪われたのではなかった。イヴもメアリーも、自分の記憶を元に自分の意思で、自ら進む道を選んだのだ。

 

 自分のやりたい道で、生きていく。

 

 言うだけなら簡単だ。しかし本気でそれを選べる人が、この世界でどれだけいることだろう。

 

 生きる者は誰もが皆、できることならそうありたいと、心のどこかで願いつつ、しかしどこかで諦めて、ただ惰性に生きることを選ぶ。「所詮自分なんてこの程度だ」と、自分の限界に見切りをつけて、かつての夢を完結させる。

 

 「それが大人になるってことなんだ」と。「それが現実を見つめるってことなんだ」と。そうしたり顔で嘯いて、それが言い訳であることに眼を瞑り、なんとか自分を納得させる。

 

 だって、自分で決めるのだ。自分で決めた道の先に、何が待っていたところで、誰も責任なんてとってくれない。その結果から目を逸らすことなんて、他ならぬ自分が許さない。一度飛び込めば、もう戻れない。

 

 芸術家の道なんて最たるもの。成功できるかは、実力次第。どんなに頑張ったからと言って、頑張ったという事実だけで、評価されることは絶対にない。だから本気の全力で、その技術を磨き上げんとするのだが、それでもなお及ばなかった時、待ち受ける挫折は計り知れないものになる。

 

 そんな世界である以上、そこを勝ち残ってきた者達の中には、天才なんてもうゴロゴロいて。そんな天才達を相手取るうち、かつて自分に才能があると、信じていた者が筆を折る。そんな魔境がアートの道だ。それはこの世界に顕現しうる、悪意なき地獄の形である。

 

 そこに身を投ずるくらいなら、ただ誰かの勧めるままに、あるいは世間の常識に沿うように、敷かれたレールを歩く方がずっと楽だ。

 

 ……しかし。そんな地獄を歩いてきたはずの、イヴやメアリーの表情はどうだ? 決して楽な道ではなかっただろう。ギャリーの想像を超える苦難や挫折に、何度も出くわしたに違いない。けれどこうしてそれを乗り越えて、ギャリーへと向ける生き生きとした眼の輝きは、まるでこの世界を生きる誰よりも、この世界を楽しんでいるように見えないか?

 

「迷わなかった。怖くもなかった。何をしたらいいか、分からなくなったら。どう進めばいいか、分からなくなったら。心のキャンバスに刻まれた、宝物みたいな想い出達が、夜空に煌めく星くずみたいに、深海を照らすアンコウみたいに、色とりどりに輝いて、行きたい道を照らしてくれるの」

 

 自分の半分にも満たない子供で、笑える場所まで大人の自分が、連れてってあげなければと思っていたあの2人。そんな2人は気づけばもう、肩を並べるまでになっていて、今や逆に自分の手を引く。「この世界の歩き方はこうだよ」と、「この世界を楽しむ秘訣はこうだよ」と、人生の袋小路から自分を連れ出す。

 

「後悔なんて、あるわけないよ。ギャリー。私ね。今が、楽しくて楽しくて仕方ないの。今、私とイヴは、同じ藝術大学に通ってる。イヴは服飾専攻で、私は絵画専攻。私達の中にあるものを、外で形にする方法を、修行してる真っ最中。みんなすごい人達ばかりで、挫けそうになる時はあるけれど、私が思う綺麗なものが、みんなに届かない訳がないって、たくさんの綺麗な想い出が、私の背中を押してくれるから、どんなに批判されたって、またもう一度歩き出せるの。そうやって一生懸命頑張りながら、本当に少しずつではあるけれど、お父さんに近づけてるって実感が確かにあって、それがどうしようもなく嬉しいの。お姫様になるって夢だけは、ちょっと叶いそうにないけれど、好きになってくれることさえも、当たり前じゃないこの世界で、それでもこんな私のことを、世界で一番好きだと言ってくれる、そんな男の子だっていてくれた。どうしてもやりたいことがあり過ぎたから、ごめんなさいをしちゃったけれど、そんな風に言ってくれたことは、ほんとにとても嬉しかったの。こんなにも沢山の、宝物みたいな想い出が、たった10年で見つけられたんだから、まだ見つけられてないものだって、まだまだ隠れてるに決まってる。そうやって全く色褪せない、沢山の記憶のパズルピースが、1つ1つ組み合わさって、今の私があるんだよ」

 

 子供から大人への成長とは、肉体に限られたものではない。精神だって、子供から大人へとなるにつれて成長する。そして口から取り込んだ栄養を素に人の身体が形造られるとするなら、人の精神を形造るのは頭に取り込んだ記憶がそれだ。

 

 ならば人が生きる目的は、彩りに満ちた体験を探し積み上げ、想い出に色を足していくためなのかもしれない。それを成し得た者だけが、いつか来る最期の時に、これまでの人生を思い返し、笑って逝く権利を得るだろう。

 

 ここに至って、ようやく気づいた。このアトリエに並んだアート達が、なぜこんなにも色づいて美しく見えたのか。ここに積み重なったアートは全て、イヴとメアリーがこの10年を、全力で生きてきた証だったのだ。

 

「本当はね。お父さんのレベルになんて、まだ全然届いてない。完成した作品は意志を持たないし、世界そのものを創るなんてもってのほか。当然だよね。生涯をかけたお父さんが最期に辿り着いたあそこに、まだまだ先がある私達程度が届こうなんて、甘いなんてもんじゃないよ。でもイヴと2人でなら。こうしてギャリーを連れ戻すことだけに全てをかければ、私達の時間とギャリーの時間を交換するくらいなら、なんとかできるようになった。この一点だけにかけてなら。私とイヴは、お父さんだって超えたんだ。そして、こうしてギャリーを連れ戻す夢を叶えた今……、やっと。どんなに探しても見つからなかったお父さんの、背中が見えた気がするの」

 

 そこでメアリーは日向が差し込む窓際へと歩み寄り、その黄金色の光の中に身体を委ねる。そうして照らされたメアリーを、窓の外の風景を背景として見直した時に、ギャリーは気づいた。

 

 隠し切れない眼の下の隈。痛々しそうに見えていたペンダコ。爪の隙間にこびりついた汚れ。それらはそこだけ切り取れば、見ていて辛さが先立った。しかしそんな勲章があるお陰で、浮世離れした美しさがあったメアリーは、自然な生きた人間として、この世界に溶け込めるようになったのだ。

 

「イヴ。ギャリー。聞いて。私にはね。今、新しい夢があるんだ」

 

 メアリーは窓の外の太陽に眼を向けると、ゆっくりとそれへ向けて左手を伸ばした。その仕草は全てあの時と同じで、その左腕にはギャリーがあげた腕時計が、あの時と同様に巻かれている。唯一違うところと言えば、メアリーが大きく成長したことで、もう不釣り合いではなくなったこと。

 

「私、お父さんみたいな、お父さんを超えるような、そんな芸術家になりたい」

 

 あの時と同じだけの蒼い眼で、あの時と同じかそれ以上のあこがれを込めて、メアリーは再び夢を言う。

 

 ギャリーが心配するまでもなかった。大人になるにつれて"蒼さ"を忘れたギャリーより、彼女はずっと強かった。子供の"蒼さ"を抱えたままに、自分の足で歩いていける。そんな大人へと成長したメアリーは、ギャリーと同じ轍など踏まず、きっとどんどん先へ進む。

 

「お父さんに、見えていたもの。お父さんに、聞こえていたもの。そんなものを感じられるところまで、いつか私も行ってみたい」

 

 そう語るメアリーの姿に、直感的に悟る。

 

 メアリーは生涯死ぬまで、この道を征くつもりだ。亡き父の面影を追って歩き続け、そうしてきっとゆくゆくは、彼にすら辿り着けなかった、前人未到の域にまで手をかける。そんな無限の可能性が、未来に見えた。

 

 生きとし生ける者は、必ず死ぬ。それは絶対の真理である。

 

 しかし、たとえ終着点が同じだったとしても。そこに至るまでの軌跡すらも、全てが無駄だと言えるだろうか?

 

 人は生きるその過程で、様々な経験をし、それを記憶し、同時に何がしかの証をこの世に刻んで、そうしてあの世へ旅立っていく。

 

 そんな先人達が積み上げた業や叡智を武器に、今人達は現世を生き、さらにそれを磨き上げた上で、次の世代へ託すのだ。

 

 ならばそれら忘れ形見を通じることで、先人達の記憶と遺志は、今を生きる人々へと受け継がれている。そう考えることはできまいか。

 

 ギャリーがゲルテナの作品を通じて、彼の一生を垣間見たように。イヴとメアリーがゲルテナの芸術を通じて、彼と同じ道を歩み始めたように。

 

「イヴ。ギャリー。……ずっと。……こうやって3人揃える日が来たら言おうって、ずっと決めてたことがあるの」

 

 その場でくるりと振り向いたメアリーは、強い決意を秘めた眼差しのままに、ギャリーとイヴにそう切り出す。

 

「続きをしよう。世界のキャンバスに隔たれて、有耶無耶にしちゃったあの話の続き」

 

 言葉を切ったメアリーは、ゆっくりその瞼を閉じる。そして何かに思い馳せるように、そのまま大きく深呼吸すると、再び青い眼を見開いて、瞳にギラつく輝きを宿しながら、おもむろに核心となる言葉を紡ぐ。

 

「お父さんは、死んでない」

 

 そしてメアリーはゆっくりと。腕時計を巻いた左手で。自分を、自分の頭を、指差して言う。

 

ここにいる(I'll be right here.)

 

 その時。ギャリーには確かに、ダブって見えた。メアリーの姿が、ゲルテナと。

 

 ギャリーは、ゲルテナの顔も知らない。なのに、ギャリーは感じたのだ。今この瞬間のメアリーに、ゲルテナの魂が乗り移ったのだと。

 

「私とイヴが忘れないでいたことで、こうしてギャリーをあっちの世界から掬い上げれたように。私が憶えている限り、お父さんは死なないの」

 

 震えが、止まらない。一緒に話を聞いている、イヴも震えている。

 

 寒いのではない。怖いのでもない。メアリーが口にする一言一言が、どうしようもなくギャリー達の心を打つ。

 

"これが、本当に、あの子だというの?"

 

 美しいと思った。綺麗だと思った。ギャリーを連れ戻すために積み重なった、沢山の努力の結晶達を。そうした多くの経験を積み、ここまで成長したメアリーとイヴの姿を。しかし、きっと一番は。

 

"……嗚呼。アタシってば、本当に何も見えなくなってたのね"

 

 この世界に、素晴らしいものなど、綺麗なものなどろくに無い? バカを言え。今すぐ眼の前に、それがある。

 

 今を一生懸命に、生きる人。困難な現実と真正面から向き合って、それでもこの世界を全力で楽しんでいる人。

 

「あの時、あの世界から飛び出したばかりの私には、イヴとギャリーが何をくれたのかなんて、まだぜんぜん分からなかった。……でも、今なら。あれから10年この世界を生きた、今の私なら言えるんだ」

 

 生きるとは、何か。その意味は、何か。かつて何一つ知る由もなかった彼女が、この世界で10年生きて、今ここに自分なりの答えを見出した。

 

 彼女よりずっと長く生きてきたはずのギャリーですら、それがどうしても思い出せなくて、ずっと彷徨っていたと言うのに。

 

「……ギャリー。ありがとう。私を、この世界に出してくれて。ありがとう。私に、可能性をくれて。ありがとう。私に、生きる時間をくれて。ありがとう。私に、大切な人と別れる寂しさを教えてくれて」

 

「……イヴ。ありがとう。私の、友達になってくれて。ありがとう。私の、新しい家族になってくれて。ありがとう。私と、同じ時間を生きてくれて。ありがとう。この世界の右も左も分からなかった私の手を、迷子にならないように引いてくれて」

 

"……お父さん。ありがとう。私は、今ちゃんと幸せだよ"

 

~『色褪せぬ記憶達』~

 

 




いつまで経っても、忘れない。

そんな記憶を、ありがとう。


この小説をIbファンの皆に、

モノクロミュージアムのkouri氏に、

そして全てのアートを愛する者達に捧げる。





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