【本編完結】Ib ~ゲルテナ展 10周年記念展~ 作:梅山葵
『???』
メアリーも救い隊、その映えある会員No.1に立候補させて頂く。
メアリーにハッピーエンドを。それこそが、私が慣れないペンをとった全ての原動力だったのだから、それくらいはいいだろう?
まず、この作品を読んでくれて、こんな後書きにまで目を通してくれて、有難う。そして敬愛する観客の方々へ向ける言葉なのに、敬語を使わない無礼を赦してほしい。ただ、おそらくこの方が「らしい」と思われるから、あえてこの語り口調でいかせてもらう。きっと最後には、皆も納得してくれるだろうと信じている。
さて。それでは書いた張本人である私から、畏れ多くもこの作品のテーマについて解説させて頂こう。
その内容を一言でまとめるなら、「生きているとは何か?」
原作Ibで、一般にメアリーのハッピーエンドとされているものは2つある。ご存知の通り、『いつまでも一緒』と『ようこそゲルテナの世界へ』の2つだ。
しかし、私は疑問に思っていた。果たしてこの2つは、本当の意味でメアリーにハッピーエンド足り得るのだろうか、と。
『いつまでも一緒』は、メアリーとイヴが絵空事の世界を脱出するEDである。ギャリーが消え、イヴは記憶を忘れるこのED、プレイヤーからすればバッドエンドなのは間違いないが、メアリーの「外へ出たい」という願い、それを達成したという意味では、確かにあの瞬間はメアリー視点ハッピーエンドであることだろう。
しかし、ここで疑問の余地が残る。
はたして外の世界で、あの後のメアリーは幸せになれたのか?
メアリーの外への憧れは、「お菓子を食べてみたい」だったり「友達がほしい」だったりがあるが、絶対に忘れてはいけない理由が1つある。「お父さんに会いたい」、だ。
メアリーには、「外の世界に出られればお父さんにもう一度会える」と信じている節が見て取れる。これは真ゲルテナ展での台詞からも明らかだが、彼女の考えが正しくないことは言うまでもない。原作Ibにおいて、ワイズ・ゲルテナは故人であることは明言されている。
……このことが示唆するのは、次の事実。メアリーは父が死んでいることを理解していない、「死が何か、分かっていない」ということだ。
外に出たいと願った理由のうち、下手をすれば一番大きなものが叶わないと、外に出たメアリーはすぐに知ることになる。素晴らしいものでいっぱいだったはずの外の世界。しかし、その夢と現実の落差は如何ほどのものだろう?
現実には確かに楽しいこともあるが、それ以上に辛かったり苦しかったりすることの連続だ。宝探しで心が壊れたギャリーが語る誰かへ向けた独り言は、まさに現実世界の嫌な側面を彷彿とさせる。それは、生きている以上、どうしても付き纏ってくる問題だ。
他にも、懸念点はある。なんと言っても、メアリーの癇癪持ちな性格は何も治っていない。証拠となる場面は幾つかあるが、自分が一番厳しいと感じたのは「邪魔だなぁ」と石像の頭(スケキヨ)に八つ当たりするシーンだ。
極端な話、利害が対立する相手に攻撃的なだけなら、まだなんとかなるのだ。別に外の世界で待っているのは、メアリーの敵ばかりという訳ではないのだから。だから、ストーリー内で入れ替わり対象のギャリーに激昂するのは、この際は無視してもいい。しかし、石像の頭(スケキヨ)はどう考えても作品の仲間、つまりは身内である。些細な怒りで身内を攻撃してしまう性格のまま、外に出たところで……。容易に悲劇が起こりうると考える自分は、果たして考え過ぎだろうか。
結局私が言いたいことは、『いつまでも一緒』は長い目で見た時、決してメアリーのハッピーエンドには見えないということである。
では次に『ようこそゲルテナの世界』を考察してみよう。イヴとギャリーをあの世界の仲間に加え、みんなで永遠に遊び続けるこのEDはどうか?
問題は、いつまでメアリーが心壊したイヴとギャリーに飽きずにいられるかだろう。メアリーが外の世界へ出たいと考えたのは、絵空事の世界に飽きたから、という理由もあるはずだ。そこで、「単純に友達が増えたからもう外の世界に出なくてもいい」と、それこそ永遠に思い続けられるだろうか?
ある意味、作品達だってメアリーの家族で遊び友達である。でも彼ら作品の存在は、メアリーが外を目指すことを思い留まらせる理由にはなっていないようだ。新しく仲間に加えたイヴとギャリーは元々は作品ではないが、心壊したイヴとギャリーはもはや、『忘れられた肖像』のように、作品の一部と言えないだろうか。そんな2人にいつまで飽きずにいられるか、私は非常に疑わしく思う。その場合、結局いつかまた外にあこがれて、入れ替わる誰かを探し始めることだろう。
ここまで考えた結果、原作Ibには真の意味でメアリーのハッピーエンドは無い、という結論に行き着いた。さらに発展させて言うと、「メアリーはただ脱出させただけでは幸せになれない」。……おやおやぁ? 等価交換の原則だけでも問題山積みなのに、さらに難易度が上がってしまったね?
ところで諸君。「原作Ibの一番のハッピーエンドはどれ?」と訊かれたらどう答える? 『再会の約束』を挙げる人がほとんどではないかな?
イヴとギャリーの脱出EDは『片隅の記憶』と『再会の約束』の2つがあるが、どちらがハッピーかと問われれば、『再会の約束』しかあるまい。2つを決定的に分ける差異は、「脱出した2人が絵空事の世界の中での記憶を持ち帰るか否か」、それだけである。にもかかわらず、これら2つのEDから受ける印象は、それこそビターとハッピーくらい、天地の差がある。同意してくれるよね?
IbのOPテーマ曲名は『記憶』。あの美しくもどこか物悲しいメロディの名前が示す通り、『記憶』こそIbという作品が掲げるテーマの核であることは間違いない。
『いつまでも一緒』では、イヴは絵空事の世界の記憶を持ち帰らない。メアリーは覚えている可能性もありそうだが、イヴから思い出すきっかけを奪っていくあたり、どうやら不都合な、忘れたい記憶なのだろう。
さて、ここで思う人はいないか? なんか『いつまでも一緒』と『片隅の記憶』ってイヴが絵空事の世界の記憶を忘れるって意味では状況が似てるな、と。
そこで私が考えたことはひどく単純。
イヴとメアリーが脱出した上で、2人ともが『記憶』を持ち帰るEDがあってもいいのでは? つまり、『再会の約束』に対応するイヴとメアリーの脱出ED、真の意味でのメアリーハッピーEDを書いてやろうじゃあないか。
これが全ての出発点となる。
メアリーが外の世界で幸せになるにあたっての障害たりえるのは、先程述べたように他者への攻撃を躊躇わない、倫理観の欠如にある。メアリーは純真無垢なだけでその根は決して邪悪ではないが、かと言って「代わりの誰かが必要という事情があっただけで、普通の女の子と変わらない」と解釈するのはちょっと難しい。むしろ無知過ぎるがゆえの危険性、これを秘めているのがメアリーなのだ。このような価値観に育ってしまった原因を明らかにしないことには、彼女の矯正は難しいのだが……その原因と思わしきものについて、私はある仮説を立てた。
ズバリ、「メアリーにはろくに痛覚がない」。
根拠となるシーンはいくつかある。まず、原作Ibでギャリーに突き飛ばされて気絶するシーン。そして、クライマックスである、自分の絵画を燃やされるシーン。メアリーは「あ……」とか「嫌……」とかは口にしても、「痛い」とか「熱い」とかそういった苦痛を叫ばず、やけに静かなのだ。
次に、メアリーの薔薇が造花であること。Ibにおいて、薔薇は一心同体、命の象徴だ。その言葉通り、花びらが落ちることがそのままダメージ、「痛み」を意味する。では、造花のメアリーはと言うと……そもそもダメージを受ける描写が無い。勿論、「ゲルテナに愛されたメアリーは作品達に襲われないから、ダメージを受ける状況がなかっただけ」という見方もあるのだが、そもそも「造花のように花びらが落ちない」=「『痛み』を感じない」身体である、という解釈は自然ではないか?
関連する興味深いシーンを紹介しよう。イヴとメアリーが連れ添っている際に、イヴがダメージを負う限られた方法の1つをご存知か? それは、メアリーにイヴの赤薔薇を貸すことだ。渡されたメアリーはイヴの赤薔薇を散らしてしまうが、「これはメアリーの悪意による故意か?」と考えると、違うと思われる。この時点ではメアリーは「イヴと2人で脱出しよう」と考えているはずで、イヴを傷つけようとする理由はとくに無い。にもかかわらずイヴの赤薔薇を散らせてしまうのは、「悪気もなくぞんざいに扱ってしまったから」という理由が濃厚だ。ここでは、メアリーはイヴの「痛み」に気づけていない。
『うっかりさんとガレット・デ・ロワ』についても述べさせてもらう。メアリーが作った世界、Sketchbookのタッチなどを鑑みても、作者XXXX=メアリーであることはほぼ確定的である。残酷な結末を迎える童話や絵本の例は枚挙にいとまがなく、最初にあのオチを見たときは、「これもその類かな」と考えたものだ。しかし、後にギャリーの宝探しで伏線が回収された時、あの絵本の結末には別の解釈の余地があると私は感じた。すなわち、「あの絵本で鍵を取り出すために腹を割かれた青い子は、実はピンピンしている」という可能性。腹から絵の具玉を取り出された青い人形が元気だったのと、全く同じように。ちなみに青い人形はギャリーに蹴られると「イタイ」と言うが、首がもげても大丈夫な者の「イタイ」が我々の「痛い」と同じだとは考えないほうが良いだろう。つまり、『うっかりさんとガレット・デ・ロワ』は、作者メアリー視点ではブラックジョーク溢れる残酷な話ではなく、本当にただの笑い話だったのでは、ということだ。実際、いろいろと無邪気なメアリーが、ブラックジョークのなんたるかを解しているとは、ちょっと考えにくくはないか?
「痛み」と「死」。この2つは非常に近しい概念だと、私は思う。いずれも、「生きること」と切っても切り離せないことだから。これらが「生きる」という単語を通じて互いにリンクしているとすれば、複数に渡っていたように感じたメアリーの問題は実は一つに集約され、一挙に解決できることにはならないだろうか。「生きるとは何か」、「死ぬとは何か」。メアリーにこれらを学んでさえもらえば、それに関する記憶を持ち帰る行為そのものが、メアリーの倫理観の欠如や憧れと現実のギャップという、幸せを阻む障害を解決する手段にもなりうる。例えば、「自分がされて嫌な"痛い"ことは、他の人にもやったらダメ」といった言葉のようにね。
Ibにおいて、「痛み」は必ずしも悪いものだとは描写されていない。薔薇の花びらが落ちることは、その精神が本物であることの証。心壊したギャリーを正気に戻すのは、イヴの平手打ちによる「痛み」。そしてイヴがハンカチをギャリーに貸す切っ掛けはギャリーの怪我、すなわち「痛み」であり、それこそが脱出後のギャリーに絵空事の世界での記憶を呼び覚まさせる。つまり、「痛み」を感じることこそが、「生きている証」なのだ。
とすると、「痛み」を感じないメアリーは、「生きているようで生きていない」。そう考えると、イヴ・ゲルテナ・メアリーの中で、最も「命の重さ」を知るべきはメアリーである、と言うことになる。命と等価の薔薇を手に取る時の、Ibを象徴するあの一文は、本当は誰に宛てるべき言葉なのだろうね?
さて。ここまでの話の中で、この小説の主人公は実はイヴではなくてメアリーだったということはもう皆様にも伝わっていると思うが、それでイヴやギャリーの魅力が隠れてしまうようなことはあってはならない。イヴ・ギャリー・メアリーの3人揃ってこそのIbである。そこでこの小説で私がイヴやギャリーに与えた役目は、メアリーに「生きる」を教える先生役である。
ギャリーの性格を決めるのは、比較的簡単だった。着想元は、ギャリーのテーマBGMの『袋小路』。どうしてギャリーのテーマが袋小路なのかを考えた時、真っ先にギャリーが心壊した時の台詞を思い出した。その結果、ギャリーには現実世界で生きることに疲れた、大人らしい大人の役を担ってもらうことになった。
難しかったのは、イヴである。なにせギャリーやメアリーと違い、操作キャラであるイヴはほとんど話さない。手がかりが少ないのだ。それをそのまま、大人しい性格と解釈しているのが一般的に浸透しているイヴ像なのだが……。私はこれに異論を唱えさせてもらおう。
イヴの性格を明らかにするには、会話の選択肢などの数少ない手がかりから、少しずつ読み解いていくより他に道はない。特に象徴的なのは心壊したギャリーを叩くシーンの「もう一発」である。ここにこそイヴの魅力が詰まっているのであるが、この行動は「大人しい」からはかけ離れてはいまいか?
その疑問を抱えるままに、他のイヴの会話での選択肢についても考察していこう。
ギャリー視点でイイトコのお嬢様だったり、両親からは物持ちが良い良い子と思われているのは確かなようで、この点までは「大人しい」というイメージとは合うだろう。
しかし、真っ暗闇になってギャリーから「いるか」と訊かれた時。「いない」とか「……」という選択肢がこの非常事態で思い浮かぶのは、正直けっこういい性格をしていると言わざるをえまい。一応、命がかかった非常事態だぞ?
また、メアリーにパレットナイフで茨の像を壊せるかどうか意見を訊かれた時、「やればできる」と言ったイヴは、メアリーには冗談じゃないように見えたようだ。ここから読み取れるのは、体育会系的なスポ根精神である。
結局のところイヴは、大人しいのか、そうではないのか。ところで、性格とは言わば精神である。Ibという作品において、精神の具現であるとするモチーフがあったね? それを参考にしようではないか。
イヴの薔薇の色は赤。その花言葉は、「愛情」、「美」、そして「情熱」。この「情熱」という単語が、イヴがギャリーをビンタして救ったこと、怒ると怖いお母さんの血をイヴが継いでいること、この2点と重なった時、イヴの本質はこちら側であると確信した。
原作Ibでメアリーを燃やすのは、メアリーに追い詰められたことによる、正当防衛的な流れがある。ただ、そんなルートの中で1つだけ、ギャリーから貰ったレモンキャンディーを食べ、動かなくなったギャリーからライターを持ち出したイヴだけは、本当にそうだったか怪しい。
たかがレモンキャンディー1個の違いで、持ち物が一杯かそうでないかが変わる、という状況は考えづらいだろう? つまり、あの場面でイヴがレモンキャンディーを持ったままギャリーのライターを手にしないのは、イヴの感情が要因だろうというのが私の推察だ。
レモンキャンディーを舐めてギャリーとの記憶を思い返しながら、ライターを手にする。一連の行為は、イヴが復讐の覚悟を決めるための、儀式であったようにも思う。メアリーが燃え尽きる間際に見たイヴの眼は、どんな色の赤だっただろうか。
ちょっと話は逸れるが、自分はリメイク前ギャリーの、メアリーを燃やした後の「女って怖いわね……」という言葉が好きだ。とは言え、残念ながら修正されたのは仕方ないかもしれない。Ibが世界的に有名になるに当たって、下手をすれば差別的だと誤解されかねないこのセンシティブワードは、残すわけにはいかなかったのだろう。
ただ、ギャリーが思わずこんな発言をしてしまったのは、『~服の女』達に追われ、『無個性』達に追われ、最後に『メアリー』に殺されかけるという経験からだ。そしてそれは「女は怖い」と作品を通じて訴えていただろうゲルテナに、無意識に共感してしまったようなものである。そしてその感想を、実は怒ると怖い女筆頭のイヴについ漏らしてしまう、というウィットに富んだシーンだと私は捉える。女の怖さは、美しさと表裏一体。それを象徴するのが、あの言葉だったのではないだろうか。
まあそうやってまとめると、大人しいイヴは仮初の姿、というのが自分の中での結論である。まあ、「操作キャラだから喋らない」を大人しい性格だと見做さなければならないなら、どこぞの配管工のおじさんや原点にして頂点だって大人しくなってしまうことだし。(そう言えばあの2人も、赤がイメージカラーだったね。)
では、何故イヴはそんな大人しい姿をとっているのか? 2つ理由が考えられる。まず1つは、「両親など、大人の前では猫を被っているかもしれない」という理由。そしてもう1つは、「摩訶不思議な美術館で迷子」という原作Ibの特殊な状況である。たとえ元来は情熱的な性格でも、あんな目に遭えば幼い少女から声が奪われてしまっても責められまい? 実際ギャリーも心の中で、気丈に見えた少女だけど参ってきているようだと、イヴのことを評していた。これらを加味すれば、情熱系なのに一見大人しいという相反する性質は、決して矛盾せず両立する。……そして言い方を変えれば、あまり喋らないからと言って心の中まで静かである必要も無い、ということである。
このことは、思わぬ副産物も生んでくれた。世間一般が想像するイヴからギャップ発揮してくれることで、「予想通りの展開による飽き」を軽減してくれる効果が見込めそうだと思ったのだ。これに気をよくした自分は、合間合間でお客様方に楽しんでもらえるよう、かなり辛辣なことをイヴには考えてもらうことにさせてもらった。まあ、このくらいの年頃で、普段良い子を演じてるなら、「そんな自分は偉いんだ」って、心の奥底では思っててもいいではないか。なんてったって、お嬢様だ。ちょっと高飛車だったとしても、これぐらいなら可愛いかろう?
このようにして。外面は大人しい文化系優等生を演じているが、1つ皮を剥けば生意気なクソガキ成分が顔を覗かせる、熱血系毒舌お嬢様イヴちゃんが誕生した。
さて。大人らしい大人のギャリー、一見大人しい子供のイヴとくれば、最後は子供らしい子供のメアリーと結んでこそ美しい。メアリーの特性の1つ「死を知らない」は、決して非生物にしか起こりえないことではない。何も知らない生きた子供だって、この状況はあり得るハズ。幼い子供が遊びで無邪気に、虫を殺したりすることは珍しくなく、それはきっと花占いをするメアリーにも重なることで、ならばそんなメアリーは、子供らしい子供と言えないか?
そうしてやればこの3人は、それぞれの立場を異にしたままに、上手くパラレルを成立しうる。まさにそう気づいた時、3人の誰もを埋もれさせず、それぞれの見せ場を残すまま、ストーリーを展開できると感じた。
原作Ibにおいて。イヴの最大の見せ場は、心壊したギャリーを救うためにギャリーを叩くシーンだと思う。そして、ギャリーの最大の見せ場は、イヴを救うために自ら犠牲となって薔薇交換を進み出るシーンだと思う。
ただ、この2つのシーンは実のところ、原作Ibでのハッピーエンド『再会の約束』に進もうとする場合には邪魔となるフラグである。ギャリーの方に至っては、『再会の約束』に進むルートで上記のシーンを拝むことは絶対にできない。
これが意味することは、『再会の約束』の感動は他のビターエンドによって支えられているからこそであり、Ibの魅力の本質はビターエンドの方にあるということ。
『忘れられた肖像』や『いつまでも一緒』でギャリーが居ない寂しさ、『片隅の記憶』ですれ違う哀しさ、そういった甘くない後味こそがIbの最大の魅力である。「3人脱出EDがないからこそのIb」と言われたりするのは、おそらくそのためだ。メアリーも救い隊である私には、3人脱出EDを望む人の気持ちも分かるのだが、それが強く反対される理由も分かる。
だから私は、この作品を紛れもなくIb小説とするために、ギャリーにはゲルテナの世界に残ってもらわざるをえなかった。ギャリーが犠牲になってしまうのは、本当に心苦しいのだが、そうしなければイヴとギャリーの魅力を表現し切ることができない。Ib小説の後味には、苦さが含まれているべきだ。
ただ、1つ。「ビターエンドとハッピーエンドは、両立しないのか?」ともやはり思う。Ibのテーマが記憶ならば、Ibを象徴する苦い痛い記憶こそが、後のハッピーエンドに続く布石になっても良いのでは、と。
皆様方は、裏・ゲルテナ展でちゃんと日記の言葉は読んでいるかな? 文字が滲んでいてよく読めなかった? それはいけない。一部だけ穴埋めして、改めてお伝えしよう。「作品は完成した時点でその■■を失ってしまう」。
「完成した」とは、とても耳触りが良い。しかし逆に言えば、そこで終わりで、それ以上が無いということ。時間が止まると同義と言えよう。それによって失われる何かを、我々はきっと無視してはいけないのだと思う。だからぜひ皆様方には、「この作品はここで終わりなんだ」と、勘違いしてほしくはないのだよ。
メアリーには、いつまでも未完成であり続けてほしい。そうして噛みしめてほしいのだ。単なる甘さだけではない、酸いや苦み、辛さや涙のしょっぱさも全て入り混じった、「生きている」という奇跡の味を。それを彼女が記憶して、成長していった先にこそ、彼女のハッピーエンドはきっとある。そう信じて、私はこの小説を書いた。
読者諸君も著者の私も、イヴ・ギャリー・メアリーとは今を生きる世界が違う。3人に声を届けることはできないし、3人がこちらに気づくこともない。我らにできることと言えば、こうして作品という形で可能性を示し、黙ってそれを見守ることだけ。だからどんなに頑張ろうとも、これが3人のためにしてあげられる、私にとっての精一杯だ。
最後にちょっとした豆知識。この小説、実はここまで来るのに10年かかったと言えなくもないんだ。初めてこの小説を書きたいと、プロットを立ち上げたのは10年前。あの原作Ibが公開されて私がプレイしたすぐ後のことだ。
でも、私はこれまで小説など書いたこともなくて、実際にちょっと文章を書こうとしてみても、その大変さにすぐに諦めてしまった。何かを創り上げるというのは、本当に難しい。小説に限った話じゃない。絵画も、彫刻も、音楽も。マンガも、アニメも、そしてゲームも。そういった全てに言えることだ。二次創作ですらこうなのだから、フリーゲームとして0からIbを創った、氏の凄さを思い知らされるばかりだ。
そしてそのまま何年も。ずっと何もできず、でも忘れることもまたできず。たまに頭を過ぎっては、構想だけは膨らんで、でも実行には移せない。そんな感じだったよ。
でもちょうど10年が経ったある日のこと、あのIbが10周年記念で、なんとリメイクすると言うじゃないか。そうしてそれをプレイして、私は確かに思い起こされたとも。これまでずっと夢だった、Ib小説を書き上げたいと思ったあの記憶。だからこの小説の執筆が再開して、やっとここまで来れたのは、やっぱりIbのお陰なんだ。
さて。本当に随分と長い時間、話に付き合ってもらったものだ。改めて感謝するよ。そろそろ良い頃合いかな? もう秒針は再び時を刻み始めていたことだし、だいぶゼンマイも回ったことだろう。話は変わるが、空想と現実は非常に曖昧で、容易に交換しうるというのが私の持論だ。それはつまり、どっちに想像してもいい、ということなんだ。そんな夢の境目の先、皆様は何を思い描くか。どうかこの私めに、教えてくれはしないかな?