【本編完結】Ib ~ゲルテナ展 10周年記念展~ 作:梅山葵
■■■■が最後に残した言葉。それが意味することなんて、到底受け入れられるはずもなくて。だから首を横に振りながら、ぐちゃぐちゃの顔で精一杯、ただ何度も名前を呼ぶ。
無我夢中で、何かを掴もうと足掻いてた。ただ、どうしてもそれには届かなくて。だから指先に触れたものを手当り次第、なんでもいいから引っ掛けようとした。
そうしてなんとか、掴めたもの。それが望んでいたものよりも、ずっと小さかったことだけ覚えてる。
……気づいたら、休憩所にいた。
離してはいけないのは何だったか。そうだ、右手。
無意識に強く握りしめていた右手に目をやれば、ひしと結ばれた誰かの左手がある。
その左手の先から、腕、肩、そしてゆっくりと頭の方へ向けて視線を移すと、眼をパチパチさせながら、自分の身体を見下ろしているメアリーの横顔。
――さっきまで、何をしていたのか思い出せない――
思い出せないということは、大したことではないということだ。まあ、休憩所にいるんだから、休憩してたんだろう。ちょっとだけ、ウトウトしてしまったみたい。
……そうだ、そうだ。今日はメアリーの誕生日祝いもかねて、家族4人でゲルテナ展を見に来たんだった。お母さん、お父さん、メアリー、そしてイヴ。家族4人、全員で。
主役がメアリーだってことを忘れて、お母さんが作品に没頭しそうな予感があったから、2人でこうして手を繋いで、先に回ることにしたんだった。
メアリーと顔を見合わせた後、自然と繋いだ手を離す。メアリーはそのまま、両手を自分の顔の前に持ってくると、閉じて開いてを繰り返す。そしてそれが終わった後には、今度は視線を自分の両足に移し、床を軽く踏み鳴らした。そうして一頻り満足したのか、嬉しくて堪らないといった様子を隠さず、メアリーはイヴに確認してきた。
「イヴ……。私達、出れたよね……? ここは、外なんだよね?」
「……?」
メアリーは、何を言ってるんだろう? ここが建物の中なのは、どこをどう見たって一目瞭然。メアリーがとってもおバカさんなことを言うもんだから、メアリーの頭が心配になって、自然と眉に力が入る。
せっかくの誕生日なのに、風邪引いたりしてたら台無しだよ? そう思ってメアリーの前髪を掻き分けて、そのおでこに右手を添える。……特に熱は、無いみたい。
「……やっぱりイヴ、怒ってる?」
傍からジロジロ覗き込まれて、居心地悪そうなメアリーは、どこかちょっと不安げな様子だ。
「怒ってないけど。……どうして?」
怒ってるなんて勘違いされた、原因に見当がつかなくて、理由をメアリーに問い返す。
「……だって。ほら……」
するとメアリーは眼を少しだけ不安そうに揺らし。
「ギャリーの代わりに、出てきちゃったから……」
戸惑いがちに、こう言った。
「……でもね!!」
その言葉を境に、メアリーの雰囲気が塗り変わる。
「ギャリーの方から、そうしなさいって言ってくれたの! だから、私、嬉しくって、それで……」
メアリーは少し赤らめさせた両頬に手を当てながら、矢継ぎ早に言葉を捲し立ててくる。その顔はとても幸せそうで、溢れ出る喜びを共感してほしくて堪らないみたいだ。
そんなメアリーの姿に、イヴは心のどこかでイラッとするのを感じる。
「あのさ」
でも、話がまとまっていないままでは、どうしてそう感じたのか、分かるわけないから。
「ギャリーって、誰?」
とりあえずイヴは、そこから訊いた。
外に出れた喜びを、その全身で実感していた。
キャンバスを通る途中、掌を通じて青い薔薇が、私の中に入って来た。だから目には見えなくても、無くしちゃった、わけじゃない。ちゃんと私の中にある。
実際、キャンバスから出た瞬間。何かがハッキリ変わったと、すぐに私は身体で感じた。だからそれを確かめるように、手足を動かしてみていた最中だった。
……それなのに。
「ギャリーって、誰?」
そう言うイヴの赤い眼はダルそうで、口調もかなりぶっきらぼう。まるで話の内容自体には、本当は興味が無いみたいで、私が話すから仕方なく、聞いてあげてるだけって感じ。
外に出れた喜びに、急に曇りが差してくる。訳が分からない私はイヴに向かって、どうしても声を荒げてしまう。
「何……、言ってるの……? ギャリー、ギャリーだよ! さっきまで、一緒にいたじゃん!?」
初めて会った時にはもう、イヴとギャリーは一緒だった。ギャリーはイヴのことを知っていて、イヴはギャリーのことを知っている。それは全く当たり前のことで、それが私の知ってる2人。
「……だ、か、ら。知らないってば、そんな人。……だいたいさ。知らない人についてったらダメって、いつも言われてるじゃん。お母さんの言いつけ、また破ったの? 叱られちゃっても、知らないよ?」
面倒臭そうに、鬱陶しそうに、イヴは自分の髪に視線を移して、毛先を指でいじり始める。ギャリーのことなんかどうでもいい。ギャリーのことなんか知りもしない。イヴの態度がそう言ってる。髪の触り心地を確かめる方が、今してる話より大事みたいで、それがすごく嫌だった。
ギャリーのことを知らない人だと、ついていったらダメな人だと、眼の前のイヴはそう言った。でも、私の知ってるイヴだったら、ギャリーと一緒にいることを、むしろ自分から望むハズ。それなのに今のイヴはまるで、ギャリーと一緒にいた時間は全部、ウソだったみたいに言ってくる。
……そして、そのことに気づいた時。どうしようもなく恐ろしい、そんな閃きが私を襲った。
ギャリーと一緒の時間がウソなら、私と一緒の時間はどうなの?
「わ、私のことは? わ、分かるよね?」
片手を胸に当てて自分のことを示しながら、なんとか声を絞り出した。怖くて怖くて堪らない、そんな仮説を振り払いたかった。そうやって慌てる私を見て、イヴはいよいよ胡散臭そうにしてる雰囲気を隠さなくなってきたけど、それでも私の質問に答えてくれた。だから。
「メアリー」
私の名前を呼んでくれた瞬間、すごくホッとして。
「私の妹」
そう続けられた瞬間、すごくゾッとした。
"トモダチ"でもなく、"シンユウ"でもなく、"イモウト"……?
私を"イモウト"と呼べるのは、お父さんが創った家族のみんなだけ。そしてイヴはお父さんに創られた作品じゃあない。イヴと私の関係は、"トモダチ"か"シンユウ"であるべきで、"イモウト"なんかじゃないはずだった。
このイヴ……、私の知ってるイヴじゃない。
「どうしたの、メアリー……。さっきから、変だよ?」
イヴから離れるように。一歩、また一歩、と私は後ずさる。
赤いその眼も、茶色の髪も。白のブラウス、赤のスカーフ・スカートも。全部イヴと同じなのに、何か決定的なものが違ってる。それは一体、なんだろう?
お父さんの作品だってことも含めて、隠し事のない"ホンモノ"の私を、一緒にいる仲間と認めてくれたこと。それこそが、私がイヴを大好きな理由の中で、一番大きなものだった。
お父さんの作品であること。それはイヴやギャリーのような、「外の世界の人とは違う」って点で、最初はコンプレックスだったこと。でも本当は、他でもないお父さん自身の手で創られたことは、私にとっては自慢でもあって、だからそれらを全部丸ごと、受け入れてくれた2人が好きだった。
けれど今、こうして私に話しかけてくるイヴは、そんな"ホンモノ"の私を全部無視して、"ニセモノ"の家族関係を主張してくる。
このイヴは、私のことを見てくれてない。"ホンモノ"の私を、受け入れてくれてない。そう思ってしまったら、もうダメだった。
「やだっ……」
イヴとそっくりなイヴでないナニカは、私にとっては恐ろしいもので。後ずさるうちに下り階段に足が差し掛かった私は、近づいてくるイヴを払いのけると、回れ右して逃げるしかなかった。
階段を一気に駆け下りながら、考えてたことは1つだけ。
お父さんに、会わないと。
何か、おかしなことが起こってる。あっちの世界で仲良くなったイヴが、全く別人になっちゃった。こんな大変なトラブルでも、お父さんならなんとかできるはず。
階段を下り切ったその先には、私が見たことないくらい、沢山の人達がいた。大多数は大人だけど、それに連れられた子供もちらほら。いろんな人が一杯。誰もがあちこちに散らばって、お父さんの作品を眺めてる。
そんな沢山の人の中に、お父さんの姿がないか、キョロキョロ辺りを見回してみるけど、私の期待とは裏腹に、お父さんは見つからない。
そもそもよく考えてみれば、外の世界は遊びつくせないほどに、とってもとっても広いはずで、ちょっと周りを探した程度じゃ、見つけられなくて当然なのかもしれなかった。
なら、もう誰かに訊くしかない。
「ねぇ、お姉ちゃん! お父さんがどこか、知らない?」
ちょうど近くに『無個性』なお姉ちゃん達が、3人揃って立ちんぼしてたから、お父さんの居場所を訊いてみた。
……お姉ちゃん達は答えない。それ自体は、いつも通り。『無個性』なお姉ちゃん達は頭が無いから、元々喋ることはできたりしない。ただ、いつもと勝手が違ったのは、動いてもくれないことだった。
あ、そっか。いつもの癖で訊いちゃったけど、ここは外の世界なんだった。"ホンモノ"のお姉ちゃん達は、あっちの世界でお留守番してるんだ。
もう一度、お姉ちゃん達を見上げる。
お姉ちゃん達は、喋らない。お姉ちゃん達は、動かない。お姉ちゃん達は、遠い場所にいる。
あれ……? そういうのをなんて呼ぶか、私、聞いたことがあるような。
何故か言いようのない焦りが、私のことを包みかけた時。
「そこの可愛いお嬢ちゃん、どうしたの?」
お姉ちゃん達を眺めてた、大人の男の人が話しかけてきた。
「わ、私……。……お父さんに。お父さんに、会いたくて……」
「おや? お嬢ちゃん、迷子かい? お嬢ちゃんのお名前とお父さんのお名前、言えるかな?」
一見、優しそうなお兄さんに見えた。私がお父さんを探してるってことを言うと、心配そうに眉を曲げて、私の傍に近づいてくる。外の世界のことは、外の世界の人に訊くべき。私にも分かる、簡単な理屈。
「わ、わたしメアリーって言うの……。お父さんの名前は……」
だから私は自己紹介した後、ハッキリとお父さんの名前を言った。
「ワイズ・ゲルテナ!」
その私の答えを聞いて、その人が浮かべた表情を、なんと表現すればいいだろう。ただ少なくとも、さっきまでのような口を真横に結んだ真剣そうな雰囲気は消えてしまって、どこかおかしそうに、お兄さんは嗤ったんだ。
「ハハハ……! メアリーちゃんのお父さんは、ワイズ・ゲルテナなのかい? そりゃ、すごい! 将来は芸術家さんだね!」
何が、面白いんだろう。私はこんなにも困ってるのに。私はこんなにも焦ってるのに。眼の前の人は、そんな私を嘲笑う。
「でもね、メアリーちゃん。いくら新しく知った言葉で遊びたいからって、自分が迷子だっていうウソをつくのはよくないよ? そんなことをしたら、本当に迷子の子供が困っちゃうだろう?」
ウソつくのはよくない。そう言われて一瞬、言葉の意味が分からなかった。だって私はウソなんてつくまでもなく、ホントのことしか喋ってないんだから。
「わたし……、ウソなんてついてない……!」
私を上から見下ろしてくるお兄さんの眼を、見返しながらそう言い返す。精一杯声を出したつもりなのに、首を上に向けた体勢では、いつもほどしっかり声が出せない。
「……まだ続けるのかい? あのね。メアリーちゃんは知らなかったかもしれないけど、ゲルテナ氏はもう死んじゃってるんだ」
「――!?!?」
「だからメアリーちゃんが、ゲルテナのお子さんなんてあり得ない。ウソだって、簡単にバレちゃうんだよ?」
「……っ!!」
私のお父さんは、ワイズ・ゲルテナ。これはもちろん言うまでもなく、私にとって本当のこと。それなのにこの男の人は、私がウソをついてるって、その前提で話してくる。
ウソをついてないのにウソつき呼ばわりされると、まるで私が"ニセモノ"なんだって、そう言われているみたいで、苦しくて辛くて堪らなくなった。
それだけじゃない。"シンジャッテル"。目の前のこの人は、お父さんのことをそう言った。もう会うことができないくらい、遠い所にいる人なのだと。
それはイヴやギャリーが言っていた、間違いであるはずだった。あるいは私を外に出さないための、ウソであるはずだった。でもよくよく思い返せば……。どんなに私が否定しても、イヴもギャリーも最後まで、それだけは撤回してくれなかったってことに気づく。
「どうしたんです?」
私が頭をグチャグチャにしていると、『指定席』の方から遠目に私達の様子を窺ってた人がこっちに来た。真っ先に問いかけた先はお兄さんの方で、まるで信頼できない私を、はなっから無視しているかのよう。
「いや、この子が迷子だって言うから親御さんの名前を訊いたんだけど、ワイズ・ゲルテナだって言うんですよ」
「ええっ? いくらなんでも、それはないでしょう?」
新しくやって来た男の人も、私のことを信じてくれない。変なものを見るかのような眼で、私のことを睨めつける。
……やめて。……もう、やめてよ。お願いだから。
私がお父さんの娘だってこと、ウソだなんて言わないで。私がお父さんの子供だってこと、"ニセモノ"みたいに言わないで。
私という存在自身を、根本から全部否定されて、頭がぐちゃぐちゃでおかしくなりそうだった。
咄嗟にお父さんのパレットナイフに手が伸びる。私を邪魔する人達を、これで描き換えてしまいたい衝動に駆られた。……でもそこで、これを返してくれた時のギャリーの顔が浮かんできた。
ギャリーがあの時に褒めてくれたのは、イヴの薔薇を千切らなかったからだ。今ここでこのパレットナイフを振り回すのは、裏切りみたいで違う気がする。
「あっ……、ちょっとお嬢ちゃん!?」
だからいよいよ手段がなくなっちゃって、私をウソつきだと決めつける2人から、振り切って逃げ出すことしか出来なかった。
人、人、人。人だけは、2人以外にもいっぱいいる。こうやって美術館の中を走っていると、そんな人達はみんなうるさそうに、私の方を睨んでくる。さっきの人達に言われたことが、こびりついてる私には、それがとても怖かった。きっと他の人達だって、さっきの2人と同じなんだ。もうこの世界の人達なんて、怖くて誰も頼れない。
だから人を避けながら、必死にお父さんのことを呼び続ける。
「お父さん……、どこ……!?」
私は間違いなくお父さんの子だって、今すぐそう言ってもらいたいのに、肝心のそのお父さんが、どこにいるのか分からない。まるであっちの世界でイヴやギャリーと、喧嘩した時に言われた通り。……そして。私はそれを認めなかったのに、そうやって頷こうとしない私を、2人は頭ごなしに否定しなかった。さっきの人達とは、そこが違った。
それにイヴとギャリーは少なくとも、私がお父さんの娘だって打ち明けてから、そのことを疑ったりはしなかった。こうして外の世界の人と話してみて、そんな人と出会うのは、ホントはすごく難しいんじゃないかって、私はやっと気づき始めていた。
"外の世界はアンタが思ってるほど、楽しいことばかりじゃあ、ないかもしれない"
私を送り出してくれた、ギャリーが私に言ったこと。それが頭の中で膨らんで、どんどん重さを増していく。
帰りたい。
急に、そう思った。
あっちの世界に帰れば。家族は待ってる、ギャリーもまだいる。
通ったキャンバスのとこに行くため、さっき下りた階段の下まで戻って来た。
こんな訳が分からない、とても怖い世界から、早くおうちに帰りたい。そう心に念じながら、階段をてっぺんまで上ってみれば。
「え……?」
そこには白い壁しかなかった。
何が起きてるか意味不明で、呆然と壁をペタペタ触る。壁以外にあるものは、小さな窓が2つだけで、壁一面を覆うキャンバスなんて、影も形も無くなっていた。まるで私が住んでたあの世界自体、幻だったんだよって言われてるみたいに。
え……? これ、どういうこと……?
帰り道の心配なんて、考えてみたこともなかった。外の世界に出てからは、お父さんと暮らす気だったから。だからあっちに戻る必要なんてなくて、たまに家族のみんなに会いたくなったとしても、お父さんと一緒に里帰りすればいいだけ。そんな未来を想像してた。
あっちの世界には、家族みんなを置いてきちゃってる。それだけじゃなくてギャリーには、私のために残ってもらった。そしてそんなあっちの世界に、家に帰る方法が、これっぽっちも分からない。つまり今の私にとって、あっちの世界は行けないくらい、とても遠くになっちゃったってこと。それこそ、これからずっといつまでも、行けないかもって思うくらい。
つまりこれって、下手したら。ギャリーもみんなも"シンジャッタ"。そういうことに、なったりしない?
「ギャリーもみんなも"シンジャッタ"」。その響きは、意味もよく分からないはずなのに、酷く私を焦らせる。
そしてそれが私の中に、じんわり染みこんでくるにつれて。「お父さんが"シンデイル"」も、実は本当だったんじゃないかって、私自身でも思えてきて、頭が軋む音がした。
優しかったイヴとギャリーが、「お父さんが"シンデイル"」と、それでも私に言ってたのは、他でもない私のために、教えてくれてたって可能性はないの? そしてそんな2人の言葉をアリエナイと、切って捨てたのは私だから、今さらになってそれに気づいても、もう自業自得でしかない。
お父さんは、見つからない。イヴは、知ってるイヴじゃない。ギャリーは、向こうに置いてきた。家族のみんなは、喋らないし動かない。外の世界で会った人は私のことを、全部ウソだって言ってくる。
私の知ってる人がいない。私を知ってる人がいない。私の大切な思い出が、"ホンモノ"だって言ってくれる人がいない。
あれ……? だったら、まさか。むしろ私の記憶が"ニセモノ"だった。その方がずっと、自然なんじゃ。
私がお父さんの子供だっていうのも、全部ウソで。
私が家族と過ごしたあの世界も、全部ウソで。
私がイヴと"シンユウ"になったのも、全部ウソで。
私がギャリーに送り出してもらったのも、全部ウソで。
瞬間、私を襲うクラッっという眩暈。それに合わせるかのように、美術館の形と色が、グニャリと互いに混ざり始めた。足元がぐらぐらぐらついて、立っているのもやっとだし、電気は点いてるままなのに、だんだん暗くなる。
怖いよ。寂しいよ。息がすごく、苦しいよ。
どこに行けばいいか、分からない。何をすればいいか、分からない。ただ、その場に取り残されるのだけは怖くて、覚束ない足取りで精一杯、暗くなっていく世界をさまよった。
形はどんどん歪んでく。壁も、床も、天井も。動かなかった家族のみんなも。元々の形が混ざりあって、ドロドロの液に融けていく。
色はどんどん暗くなる。赤も、青も、黄色も、白も。元々の色が混ざりあって、黒ずんだ絵の具に変わっていく。
そうして垂れてきた液体が、足元にどんどん溜まって来た。重くてネバついた液だから、足に纏わりついてきて、歩くだけでも大変だ。
最初は、足先だけだった。でも、すぐに足首まで水位が上がって。……そして今、気づいてみれば。もう、腰までどっぷり浸かってる。
あ。もう、ダメ。
足の重みが、限界を超える。足をとられた私は頭から、どす黒いペンキに突っ込んだ。
慌てて顔を上げようとしたけど、もう眼を開けてみたとしても、どこもかしこも真っ暗闇。
やだ……やだ……! なにこれ……何も見えない!
息が、出来ない。何も、見えない。何も、聞こえない。
私、壊れちゃうんだ。ここで。こうやって、ひとりぼっちのまま。
なんで……なんで、こうなるの? 外はもっと明るくて、楽しくて……。いい人だって、いっぱいいるはずで……。それなのに、なんでわたしは今、ひとりぼっちなの?
うううぅぅ……イヴ……。会いたいよ……さみしいよぉ。
怖いよ……。たすけて……。ギャ……ギャリーっ……!
…………お父さん…………!
みんなに助けを呼びながら、私は独り後悔する。
「おうちに、帰りたいよぉ……!」
融ける。融解していく。私の記憶が、私の心が、"ニセモノ"として融けていく。
そうして遂に私自身が、"ニセモノ"として融け切る間際。
ほっぺたを走る鋭い"痛み"が、私の形を思い出させた。
「やだっ……」
怯えたようなメアリーが、イヴのことを振り払って、逃げるように後ろの階段を下りていく。
ただ、なんとなく。メアリーのことを追った方がいいんだろうなとは思って、だけどお行儀が出来ているイヴは、メアリーみたいに階段を駆け下りたりせず、ちゃんと一段ずつ下りることにする。
階段を下りる途中。メアリーのあの変な様子は、なんだったんだろうと考えた。
メアリーが言っていた、ギャリーっていう人のことを、イヴは全く知りもしない。でもメアリーの態度はまるで、イヴがギャリーを知っていて、それが当然って感じだった。
どっかでそんな名前の人、会ったりしたことあったっけ?
でも逆に、こうやって。ちょっと考えても思い出せないってことは、別に大切な人じゃないんでしょ。
"本当に?"
その声はイヴ自身と、全く同じ声をしていた。そんな気がした。でも声の発生源を探してみても見つからないから、たぶん気のせいに違いない。
"忘れちゃって、いいんだ?"
しつこいなぁ……。忘れちゃって、いいんだよ。だって、憶えてないんだもの。あまり大事なことじゃないから、忘れられる。だって普通は、そうだよね?
"そうかな……?"
なんか、言いたげだね?
"大事な思い出でも、あえて無理矢理、忘れようとしてる。そういうことも、あるんじゃない?"
えぇ……? それ、どういう状況よ。
"うーん、例えば……。思い出すだけでも辛くなる、そんな出来事とか"
ああ、そういうパターン……。
……でも、やっぱりその場合も、忘れちゃっていいと思うな。
"どうして?"
だって思い出したら、辛くなるんでしょ? そんな記憶を無理に抱えて、ネガティブになる必要なんてない。そんな過去なんかさっさと忘れて、新しい思い出を作りに行った方が、きっと人生楽しいよ。
"……そっか。それも1つの考えだね"
イヴに話しかけるもう1人のイヴは、それである程度は納得したようだった。
休憩所前の階段を下りて見渡せば、すぐにメアリーは見つけられた。さっきよりももっと焦った様子で、美術館の中を走り回っていたから。
"……それでも、言わせて。どんなに辛い思い出でも。どんなに悲しい思い出でも。そこで感じた気持ちは絶対、無駄になんてならないよ"
明らかに普通じゃないメアリーの様子に、心配そうに見守っている人もいるけれど、その人達が近づこうとする度に、メアリーが酷く怯えた様子で逃げ出そうとするから、声をかけられていないようだった。
「お父さん……、どこ……!?」
キョロキョロと怖そうに寂しそうに、あちこちうろつくメアリーは、まるで迷子の子供のよう。お父さんはお母さんと一緒に、まだ美術館一階にいるに決まってるのに。
"ねぇ、ホントに何も思わない? ひとりぼっちで迷子になって、大好きな家族を探してる。そんな怖かったあの時を、無かったことにしてホントにいいの?"
たくさん周りに人がいて、ひとりぼっちの訳が無い。そう心の中で言い返そうとして、出来なかった。
自分がひとりぼっちだと思ったら。それはもう、本人にとってはひとりぼっちなのだ。そうだってことを、イヴはよく憶えてる。
イヴに話しかけているのは、あの時のイヴだった。イヴの眼の前で怯えるメアリーは、あの時のイヴだった。
見知らぬ世界に迷い込み、死んだ方がマシだとさえ思った、あの孤独。胸の奥に刻まれた、決して消えないあのトラウマが、忘れるんじゃないとイヴに囁く。
そして声の正体を悟ったとき、イヴは全てを思い出した。ゲルテナの世界に迷い込んだこと。ギャリーとは、そこで出会ったこと。メアリーとは、そこで友達になったこと。メアリーは、ゲルテナの作品だったこと。外に出られるのは、2人だけだったこと。そして。……イヴとメアリーを外に出して、ギャリーだけは向こうに残ったこと。
ああ、そうだ。忘れようとしたんだ。大切な人と会えなくなったと、認めることが辛過ぎて、ならばいっそ会えた記憶ごと、無かったことにしようとした。
思い出してしまったから、案の定。辛くて、悲しくて、寂しくて。そんな気持ちが、止まらない。
でも、そんな数々の思い出達が、今、イヴの背中を突き動かす。あの時の自分自身は、あの時の自分と同じメアリーは、自分じゃないと助けられないよ、と。
先を走るメアリーはふらついていて、マトモに真っ直ぐ走れてもいない。焦点の合わない眼差しで、アチコチに視線を揺らしてる。
あと一押しの勇気が欲しくて、自然とポケットに手が伸びた。ギャリーに貰ったキャンディを、両手で強く握り込み、祈るようにおでこに当てた。
「お願い、ギャリー……。力を貸して……」
本当は……今でも。メアリーよりもギャリーの方が、好きなことは変わらない。ギャリーの代わりになって外に出てきた、メアリーを憎んでしまう気持ちも捨てきれない。
でも、他でもないギャリー自身が、自身を犠牲にしてまでも、メアリーを外に出すことを選んだ。もしもギャリーがここにいたら、あんな状態のメアリーを、放っておく訳が無いんだ。イヴはギャリーが好きだから、ギャリーの気持ちを蔑ろになんて、そんなことできるはずもなかった。
そうしてやっと、覚悟が決まった。本気でイヴが走り出せば、身体がグラグラ安定しない、メアリーに追いつくのはすぐだった。
メアリーが躓いて、床に倒れこむ。イヴはその隙間にギリギリ滑り込んで、なんとかメアリーを抱き上げた。
「メアリー……! ねえ、メアリー……!」
何度も名前を呼ぶけれど、メアリーは無闇矢鱈に腕を振り回すだけで、声が聞こえてるようには見えない。覗き込んだメアリーの瞳は、激しく動いてはいるけれど、その視線がどこを向いても、映っているものは何もなくて、此処ではない別の何処かに、囚われてしまっているようだった。
どうすればいい……、どうすればいい……?
そうやって迷っていたら、メアリーの口元が僅かに動いて、小さく何かを呟いた。
「おうちに、帰りたいよぉ……!」
は……?
言っている意味を理解して、カッと頭に血が上る。
ギャリーが身代わりになってそれでやっと、メアリーは外に出れたんでしょ……?
なのにこんなに出てすぐに、もうメアリーは外が嫌になった……?
だったらギャリーの犠牲の意味は? 無駄だったとでも言いたいの? 要らなかったとでも言いたいの?
許せるわけがなかった。こうしてイヴが傍にいるっていうのに、勝手にひとりぼっちだと勘違いしていること。ギャリーから沢山のものを貰ったはずなのに、全部蔑ろにするようなことを言ったこと。そして何よりも、イヴやギャリーからそれらを引き出せるだけの輝きを持っていたはずのメアリーが、こうして燻ぶっている姿が気に喰わない。
感情のままに振り上げた手を、メアリーのほっぺに力任せにぶつける。
パンッ……!
急に始まった暴力騒ぎに、遠巻きに様子を見てた人が、ギョッとするのを感じるけれど、それを気にしていられる余裕は、頭の中に残ってなかった。
「…………?」
激しく瞬きをするメアリーは、何が起きたか分からないようで、反応はまだ鈍いまま。
ふーん? へぇー? あ、そう……。これでも、まだ分からないんだ。
じゃあ、もっと効くように。
握りこぶしで、もう一発。