【本編完結】Ib ~ゲルテナ展 10周年記念展~ 作:梅山葵
「なんかここ……、見覚えある気がするわ……」
まだ人がいた頃の美術館と、寸分違わず同じ間取り。そんな景色に気づいたギャリーが、ポツリとイヴの横で呟いた。
電気が消えてて暗いってことと、他に誰もいないってこと。その2つ以外には何一つ、不思議なことも見つからない。展示された作品達は、当たり前のように動かない。それが普通なはずなのに、ここに来るまででイヴはもう、動く作品に慣れ過ぎた。動かない作品が並んでる、今がむしろ変な感じ。
イヴが他の人達からはぐれた時も、最初はこんな感じだった。そこからだんだん現実じゃ、起こり得ないようなことが起きるようになって、不思議の世界に巻き込まれていった。
つまり怪奇現象が起きないここは、ゲルテナの世界の中でも浅い場所で、かなり外に近いとこまで来てるんじゃ。
お母さんとお父さんの元に、やっと帰れるんだっていう実感が沸く。それはとても嬉しいこと。
だけど手放しで喜べないのは、どうしても心残りがあるからだ。
「…………」
黙って後ろを付いて来てる、メアリーの方を振り返る。
薔薇を返してもらってから、メアリーは酷く大人しくなってしまった。トボトボ付いては来るけれど、その青い眼は伏せられたままで、ほとんど何も喋らない。持ち前の元気さや明るさは、もう見る影も無くて、まるで牙を抜かれた猛獣か、あるいは糸が切れた人形のよう。
でもそんなメアリーに、かけられる上手い言葉も見つからない。だからイヴも、隣のギャリーも、あまり話さず、あまり喋らず。すぐ先に迫る選択を先延ばしにするように、出口らしき方へと向かっていた。
作品であるメアリーは、誰かと存在を交換しないと、外の世界に出られない。だから、ここから出られるのは2人だけ。
知らなかった。何も考えていなかった。そんな事情があったなんて、薔薇を盗られる直前に言われるまで、全く思ってもみなかった。
あの長い廊下でメアリーが、こわごわイヴに訊いてきたこと。「考えたくない」と目を背け、イヴが答えず切って捨てた、そんなIfの3択問題。それが実は、絶対に避けては通れない問題だったのだ。
"バカだ、私。大バカだ"
3人で出ればいい。頭の中がお花畑なイヴは、メアリーとギャリーにそう言っていた。イヴの言葉を聞いていたメアリーは、あの時どんな気持ちだったろう。イヴの言葉を信じてくれてたギャリーは、今この時どんな気持ちだろう。
メアリーを外に出してあげたい。それは誓って、本心だ。あのクレヨンの太陽の下、一緒に結んだ約束は、ウソの気持ちなんかじゃ絶対ない。
……でも。「じゃあ、イヴが代わりになれるの?」と訊かれたら、イヴは首を振ってしまう。迷ってあげる、ことも出来ない。自分でも冷淡だと思うけど、メアリーを応援したいっていう気持ちはあくまで、友達レベルのものとして。自分が代わりに閉じ込められてまで、メアリーの願いを叶えたいとは、どんなに頑張っても思えなかった。
ならばいっそ開き直って、3人一緒に出られる方法を今から探す? でも少なくともメアリーは、それが無いんだと信じてる。知らないことも多いメアリーだけど、このゲルテナの世界についてなら、イヴ達より詳しいのは明らかだ。そんなメアリーがずっと追い求めて、そうしてやっと見つけた方法が、あの存在の交換だけ。他にいい手段があるなら、メアリーは廊下で問いを投げかけたり、イヴの薔薇を手に葛藤したりする必要なんてない。そんな都合のいいものを探し当てるなんて、どんなに永い時間がかかることか。
イヴには、帰る場所がある。まだやりたいことも、沢山ある。だからメアリーの言っていた、存在の交換相手っていうのには、なってなんてあげられない。メアリーと3人揃って出るための、手段を見つけるための探索に、ずっと付き合うこともできない。代わりの誰かを、探してほしい。
"でも……。そんな誰かなんて、本当にいるの?"
外の世界を生きてる人は、みんなそれらを持ってるはずで、そんな全てを捨て去って、誰かの身代わりになれる人を、イヴは頭に描けない。自分では代わりになれない癖に、自分でも他にいると信じられない癖に、「代わりの誰かを探してね」って考えは、とても他人事で薄情だ。そしてそんな自分も騙しきれない理屈で、言い訳する卑怯者が自分だった。
前と同じ階段を、暗い気持ちを抱えながら上ってみれば、『吊るされた男』って題の絵画が、突き当たりの壁に飾られてる。よくよく思い返してみれば、ギャリーの奇抜な後ろ姿を、見咎めたのは此処だった。初めてギャリーと会った場所に、遂にイヴは戻ってきた。
"あの時、ギャリーはコレを見てたんだ"
ちょっと記憶を辿ってみれば、灰色の大広間にも、同じヤツが飾られてた気がする。ゲルテナ作品集の1ページにも記載があった。男がロープで逆さ吊りにされた、どこか不吉に感じる絵。あの時ギャリーが見てた絵だけど、ちょっと好きにはなれないかも。
曲がり角を折れた先。『無個性』三人衆と『指定席』の横を通り抜け、休憩所の看板が見えてきた。その案内に従ってまたもう一度、あのやけに段の多い階段を上る。
イヴが生きてきた中で、ダントツ一番大きなあの絵が、そこでイヴ達を待っている。それがこの世界の出口なんだと、イヴはもう悟っていた。
てっぺん付近に差し掛かると、視界全てを埋め尽くすように、あの巨大な額縁が見えてくる。イヴはそこで、ある違和感に気づいた。
"絵柄が、前と変わってる……?"
「なに、この大きな絵……。『絵空事(えそらごと)の世界』?」
ギャリーが呆然と、絵を見上げている。背の高いギャリーのことを、イヴはいつも見上げていて、ギャリーは逆に見下ろす側。だから、見上げる側のギャリーというのは、とても新鮮にイヴには思えた。
"絵(え)、空(そら)、事(こと)。読み方、そのまま繋げるだけだったんだ"
実はこの3つの漢字自体は、もう学校で習ったことがあるものばかりだった。ただ、イヴにはこの3つの漢字が並んでできる、ギャリーが今言った"絵空事(えそらごと)"っていう言葉をよく知らなくて、読み方に確信が持てなかっただけなのだ。
「ねぇ、この絵って……元の美術館じゃない?」
中央に虚ろな眼のお魚さん、右に大きな赤い薔薇のオブジェ、左に青い液状のヒトガタ。ギャリーの言う通り、それはとても見覚えがある、とても普通な美術館の景色。
"一度入ると、もう戻れない。ここでの記憶も、全て失う。それでも貴方は飛び込むの?"
ギャリーがさっき読み上げた題名の下に、小さく注釈が付け加えられていた。それはこの大きな絵の世界観を表現したフレーバーテキストのようであり、あるいはイヴ達に直接宛てたメッセージレターのようでもある。
チカチカッ…………
注釈の意味に、思いを巡らせるより先に。絵の全体が一瞬、明るくなった。一番最初、ひとりぼっちでこの絵を見て、周りが一瞬暗くなったと感じた時と、どこか対照的だ。
そして、ふと気がつけば。さっきまでこの絵を囲んでた、額縁が全て消えている。絵と世界を分ける境界が、どっかへ行ってしまったみたいだ。
だけど、それよりもなによりも。絵のところどころを揺らめく細い棒状の何かに、イヴの眼は釘付けになって動かない。
人だ。人がいる。
ずっと探し回っていた、イヴ達以外の他の人達。そんな人達が何人も、キャンバスの中で動いてる。そしてその中の動く1人が、目立つ赤い服を着ているのを、イヴはしっかりその赤い眼で見留めた。
もう二度と会えないんじゃないかって。そんなふうにさえ思った家族が、すぐ向こうに。
帰れる。帰れるんだ。お母さんとお父さんの待つ外の世界に、やっと。
吸い寄せられるように、イヴはキャンバスの中へと手を伸ばしかけ……
「……行っちゃえばいい」
後ろからボソリと呟かれたメアリーの言葉で、我に返った。
「……信じたわけじゃ、ないんだから。……外に出るのをやめて、お父さんが帰ってくるまで、待つことにしただけ。イヴもギャリーも、間違ってる。私はお父さんに、絶対にまた、会うんだから」
納得し切った訳ではないけれど、そう強がるしかない。そう言わんばかりに、メアリーはくるりと背を向ける。この絵が間違いなくこの世界の出口なんだってことは、そんなメアリーのお陰で確信できた。
でも途端に、さっきまでイヴを包み込んでいた多幸感はどっか行ってしまって、居た堪れなさと罪悪感に襲われた。声の方を、直視することができない。声に対して、返事することも出来ない。だって、どうしろというのだ。「またね、バイバイ!」とでも、笑顔で言えというのか。
メアリーをただの怖い子だと思い込んだままだったら、きっとこんなに苦しまなかった。作品のメアリーを敵として切り捨てて、イヴとギャリーの2人で手をとり、この世界から脱出する。それで終わり、Happy End。めでたしめでたし。
でも、イヴはもう知っている。メアリーは外の常識を知らなさ過ぎて、とても危うい子ではあるけれど、自分が外に出たいにもかかわらず、最後はイヴに薔薇を返してくれた、とても優しい子でもあるのだ。メアリーの声を聞く瞬間まで、自分が帰れることで頭が一杯になっていて、オマケにメアリーがこうして「行っていい」と言ってくれて、どこかホッとしてしまった、自分本位なイヴとは違って。
手を伸ばしたままの状態で動きを止めたイヴを心配してだろう。足元を見下ろしながら、ギャリーはそっとイヴに囁いた。
「……段差が、ちょっと高いかしらね。イヴ、ひとりでもジャンプできそう?」
「できる、と思う。でも……」
『絵空事の世界』は壁一面を覆うような巨大絵画で、他の通常サイズの絵画達と比べれば、床から絵の下端までの距離は小さめである。おかげで、子供のイヴでもそこそこ本気のジャンプをすれば、身体ごとキャンバスの中に飛び込むくらいは出来そうだ。
ただ、後ろのメアリーを居ないものとして、脱出方法についての話を進めるのは、いくらなんでも残酷な気がする。だから、「でも」と遮ってしまったけれど。
「……イヴ。迷っちゃダメ。お母さんとお父さんが、待ってるんでしょ?」
背中を軽く叩かれながらそう窘めるように言われて、イヴは覚悟を決めるしかなかった。
「イヴ。落ちても受け止められるように下から見ててあげるから、先に行きなさい」
ジャンプの心配をしてくれるギャリーの言葉に戸惑いがちに頷いて、『絵空事の世界』の前に立つ。ちょっとだけ、助走が必要かもしれない。ギャリーがじっと見守っていてくれる中で、じりじりと後ずさりをしながら踏み切りまでの距離を調整する。……うん、ここだ。
場所が決まって、最後にもう一度。メアリーの様子がどうしても気になって、その場で後ろを振り返った。振り返ってしまった。
メアリーはどこか焦点の合わない眼をしながら、こっちの方へと手を伸ばしていた。クレヨンの太陽の下で夢を教えてくれた時、太陽に向かって手を伸ばしていた時の姿と似ている。どうしても欲しくて、でもどうしても届かないものへ、無意識に出てしまったような、そんな仕草だった。
「行きなさい、イヴ!」
ギャリーの言葉より先に、イヴはもう駆け出していた。心がもう堪えきれそうになくて、だから逃げ出した。リレーのバトンのように、赤い薔薇をしっかりと左手に持って、そうして走る。
ギャリーが見てる。メアリーも見てる。キャンバスが近づく。そうして最後に、右足で強く踏み切って、空いている右手をキャンバス中央に向かって思い切り伸ばした。
"あ 届いた"
その勢いのまま、キャンバスに、全身でまるごと飛び込んで。……そこで途轍もない寒気を、背中に感じた。そうして気づく。間違えた。
順番を、間違えた。
飛び込むのは、ギャリーに先にしてもらうべきだった。先にギャリーに飛び込んでもらって、こっちに手を伸ばすギャリーの手を掴んで、一緒にこの世界から脱出する。それが正しいルートだった。
『絵空事の世界』のキャンバスの中から、ギャリーの方を振り返る。ギャリーはそんなイヴを見て、どこかやり切ったような顔をしてる。その印象があまりにも儚げで、生気が感じられないことにゾッとした。なぜか異様に、胸騒ぎがする。
「どうしたの、ギャリー……? 早くギャリーも、こっち来てよ……?」
おそるおそる、ギャリーの方へと手を伸ばす。でもイヴがこうやって呼んでいるのに、ギャリーはそこから動かない。寂しそうに微笑んだまま、イヴのことを見つめてる。そのまま少し遅れて、名残惜しそうに口を開く。
「……イヴ。……あのさ……。悪いんだけど……、先に行っててくれない?」
そんなの、できるわけがない。
すぐに、そう思った。……メアリーのことは、置いて行く決断ができたのに。
だってギャリーとは、出会ってからずっと一蓮托生。だから元の世界に帰る時も、当然一緒じゃなきゃ嫌だ。
そうやって首を振るイヴを見て、ギャリーは言葉を選んでいるようだった。
「アタシ、ちょっと……ゴメン。なんと言ったら、いいのか……」
そしてギャリーは、こう続けるのだ。
「……ウソなんてつきたくないけど……、本当のことも言いたくない」
その台詞を受けて、嫌な予感は膨らむばかり。それはどんどん大きくなって、イヴの首を振る大きさも、それに伴って大きくなる。
遂に我慢しきれずに、絵の外へ腕を出そうとして……どうやっても指先がキャンバス外に出ないことに、そこでやっと気づいた。
方向によって、距離感が違う? 進むのは簡単なのに、戻ることは全然できない。一方通行を思わせる、歪んだ白い空間の境界に、今のイヴはいるようだった。さっき流し見ただけの文章が、激しく脳内をリフレインする。
"一度入ると、もう戻れない。ここでの記憶も、全て失う。それでも貴方は飛び込むの?"
もっと躊躇すべきだった。もっと逡巡すべきだった。メアリーへの後ろめたさに支配されて、他のことが疎かになってた。
「ギャリー……!! お願い、ギャリー……!!」
嫌だ、嫌だ。ギャリーの方から手を取ってくれれば、今からでも間に合うハズなんだ。
「後で追いかけるから……、先に行ってて……」
なのにギャリーはイヴの手を掴むどころか、絵の中に入ったイヴから目を逸らし、さっきまで意識して完全に反応しないようにしていたはずの、メアリーの方へと向き直った。
これから目の前で、何が起こるのか。ギャリーがいったい、何をするつもりなのか。イヴにはそれが、朧気ながら分かっていて、だからこそ受け入れられるわけもなくて。だから必死に、声を張り上げる。我儘で全く聞き分けの無い、ただの小さな子供のように。
ギャリーのことが、好きだった。
たった1人で迷子になってた時に、やっと会えた他の人で。この世界で襲ってくる苦難に、一緒に立ち向かってくれた人で。……そして、見知らぬ他人の子供でしかなかったはずのイヴを、最後まで見捨てないでくれた人。
だから、ギャリーのことが好きだった。メアリーのことも好きだったけれど、それ以上に。
「2人しか出られないなら誰と出る?」なんて答え、ほんとはとっくに決まってたんだ。ただそれをメアリーに、言える勇気がなかっただけで。
つまりこれは、罰なんだ。選択肢から逃げ出した、そんなイヴに課された罰。
ギャリーが、メアリーが、遠くなっていく。あのゲルテナの世界が、遠くなっていく。
怖くてたまらなかった、はずのあの場所。もう居たくなかった、はずのあの場所。
そこに今、どうやっても。手が、届かない。
結局、手が届かなかった。そんな外の世界へのキャンバスに、イヴが飛び込んでいく瞬間を、ただぼんやりと眺めてた。
中に入ったイヴは振り返って、ギャリーも飛び込みやすいように、こっちに右手を伸ばしてる。
だからギャリーもその手を掴んで、私はそれをひとりで見送る。眼を閉じてたって簡単に描ける、そんな流れ。
「ねぇ、メアリー……」
だから、そんなイヴを余所目にして、ギャリーが私の名前を呼んだ時、一瞬そうだとは気付かなかった。
だってイヴの方はともかく、ギャリーは私のことを無視してたじゃない。こんな「さあ、一緒に出るぞ!」っていうタイミングで、急に私の方を呼んでくるなんて、ちょっと想像つかないよ。
イヴから薔薇を盗んだりした、私のことを嫌いになったんじゃなかったの? イヴ、呼んでるよ? 早く行かなくていいの?
だけどギャリーは私の前に回り込んで、顔の高さを合わせるようにしゃがみ込むと、私の頭の上に軽く右手をのせた。
「あの時、イヴの薔薇を千切るのを、踏み留まってくれて、ありがとう。外に出たい気持ちもあったでしょうに、それでも我慢できたメアリーは、本当に偉いわ」
「……別に。イヴのために、我慢したわけじゃない。やろうと思っても、出来なかっただけ」
「それでも。メアリーが偉かったことに、変わりはないわ」
ギャリーが眼を細めながら、ゆっくりと私の頭の上で手を動かす。それに合わせてさらさらと靡いた髪の毛が、ちょっとだけ顔にかかって、それがどこかこそばゆかった。
「そんないい子なメアリーに……。話したいことが、あるのよね……」
そう言うとギャリーは、右手をコートの中に入れ、そこから何かを取り出した。
「あ……」
「これ、お父さんのなんでしょう……? 勝手に借りちゃったりして、悪かったわ」
お父さんの、パレットナイフ。ギャリーはそれを、刃先を自分の方へと向けるように、無防備に手渡してくる。
「返してくれるのは嬉しいけど……。危ないことしてるって気づいてる? それがあれば、ギャリーをやっつけちゃうのも簡単なんだよ?」
「フフッ、そうなの? じゃあアタシは今から、メアリーにやっつけられちゃうのかしら?」
面白そうに笑うギャリーがなんか癪で、返事もせずにお父さんのナイフを受け取る。手の中のパレットナイフを眺めながら、ぼんやりとギャリーが言ったことを考えた。
これを使ってギャリーから薔薇を奪う? 今さらそんなことをしてどうなるの? そう考えてしまってる時点で、多分ギャリーの思い通りなんだろう。
「……それで? これで終わりなら早く行けば?」
『絵空事の世界』に入ったイヴの方に目配せして、イヴを待たせていることをギャリーに伝える。
パレットナイフを持ったまま、私は特に動かない。ギャリーはそんな私を確認してから、私の肩に手を当てて、じっと私の眼を覗き込んできた。
「……いいえ。本題は、ここから」
ギャリーの青い眼の中に、私の青い眼が映っている。どっちも青い眼だけれど、ギャリーの眼は小さくて、私の眼は大きかった。こんな小さな眼で世界を観るの、ギャリーは窮屈じゃないのかな。ギャリーがやけに勿体つけるから、私は空いた時間の中で、そんなことを考えた。
そしてギャリーは深呼吸して、私に言った。
「……メアリー。私の薔薇、アンタにあげてもいいわ」
――???
あ。たぶん私、今ポカンとしてる。
「え」
え……? ……なんで? ……どうして?
ギャリーが言ってることが、分からない。私、最初はギャリーの方から薔薇を盗っちゃうつもりだったんだよ? 大人で、男の人で、イヴほど仲良くなれそうじゃなかったから、だから要らないって、しちゃうつもりだった。
それなのに。そんな酷いことをしようとした私のために、どうしてギャリーがそんなことを言ってくれるの?
「な、なんで……?」
「……。メアリーに……、夢を、見続けてほしいと思ったから、かしら……?」
夢。それは私がSketchbookで私が話した、外でやりたいことのこと? あの時の私の本気の気持ちが、ギャリーにはちゃんと伝わってたの? それこそ、存在を交換してもいいって、言ってくれるくらいに。
大人だから、男の人だから、私といっぱい違う人だから。だから私のことを、イヴより分かってくれにくい人なんだと思ってた。でも実際はそんなこと無くて、私の一番強い気持ちのことは、ちゃんと読み取ってくれる人だった。そういうことに、なるのかな?
「でもね、メアリー……。よく聞いて。外の世界はアンタが思ってるほど、楽しいことばかりじゃあ、ないかもしれない。それでもアナタは、外に出たい?」
あれ? まだその設定、続くんだ。でも、おかしいな? その設定って、私が外に行くのを諦めさせるためだったんじゃなかったの? それなのにギャリーは、私が外に行く協力をしてくれるって言ってる。
混乱する頭を、整理しきれないまま。それでも私は、ガクガク頷く。楽しくない外の世界なんて、私には想像できなかった。
ギャリーはそんな私の様子をしっかりとその眼に収めると、安心したように深く頷く。
そして本当の本当に、手に持つ青薔薇を私へ向けて、ゆっくりと差し出した。ウソなんじゃないかって疑っていた私は、それでどこかに行っちゃった。
眼の前に掲げられた、青の薔薇をじっと眺める。私の大好きな、青色だ。私の瞳の青色だ。イヴの赤薔薇も綺麗だったけど、ギャリーの青薔薇の方が好きかもしれない。
「ホラ、大事にしなさいよ」
ギャリーが薔薇をくれるって、存在を交換してくれるって、言ってる。私のためにギャリーはそう言ってくれてるのに、私はただ黙ってそれを受け取るだけでいいの? 私はギャリーに、何か返さなくていいの?
でも、今の私はもうちゃんと、薔薇の重さを知っていて、それに釣り合うものなんて……。
そうだ、交換。交換、なんだから……。私は反射的にソレを、ギャリーに突き出す。
「メアリー、それ……」
私の、黄色いバラ。それがギャリーの、青い薔薇とクロスする。
直感的に、これが正しいと思った。ギャリーやイヴの薔薇とは違うって、もう分かってはいるけれど、それでも釣り合いそうなものなんて、これくらいしか思いつかない。
お父さんが私のためだけに創ってくれた、この世界にたった1本の特別なバラ。私の一番の宝物で、これまで手放すことなんて、想像だってしたことない。でも今、ギャリーにだったらあげてもいいって、私の特別をあげてもいいって、自然にそう思えたの。
「交換、だから……」
「……そうね。交換よ」
こわごわと、お互いが差し出し合う、薔薇とバラを交換する。イヴの赤薔薇を持ってた時と同じ、いやそれ以上に腕に感じる、なんとも言えない重み。だから落とさないように大切に、しっかりと両手で胸に抱えた。そしてそんな私の様子を、上から下まで眺めると、ギャリーはしみじみとため息をつく。
「ああ……。やっぱり、そんな気はしてたのよね……」
「?」
ギャリーの呟きの意味が分からなくて、私は眼をパチパチさせる。
「いやさ。赤い眼のイヴに、赤い薔薇は似合ってたじゃない?」
イヴを象徴する色を選ぶなら、それは赤だ。赤い薔薇、赤いスカート、赤いスカーフ。イヴはたくさんの赤を着ている。でもイヴの赤で一番印象的なのは、やっぱりイヴの眼の色だ。薔薇もスカートもスカーフも、きっとイヴの眼の色に合わせて、その色が選ばれたんだろう。
「だから。青い眼のメアリーには、青い薔薇が似合うわね」
「――!!」
私を象徴する色は今まで、黄色なんだと思ってた。この髪の毛だって黄色だし、お父さんから貰ったバラも、すごく綺麗な黄色だったから。
でも、ちょっと考えてみたら、お父さんに貰ったスカーフは青で、私の眼の色は青だった。そして実は黄色より、青の方が私は好き。
それをギャリーに気づかせてもらって、好きな青が似合うと言ってくれて、私の心はポカポカした。
「……ほら!! 外に出るんでしょう? 早くイヴを追いかけなさいな」
「あ……」
ギャリーが私の背中に回って肩を押して、私をキャンバスの前へと立たせる。そこで『絵空事の世界』を見て……絵の中で顔をぐちゃぐちゃにしながら、何かを叫んでいるイヴに気づいた。
キャンバス越しで何を言ってるかよく分からなかったけど、それでも分かる。イヴが手を伸ばす先は、私じゃなくてギャリーの方だって。イヴはギャリーを、置いて行きたくないんだって。
「……ギャリーは。これから、どうするの?」
だから、ふと。この世界に置いて行かれる、ギャリーがどうするのか気になった。私は首だけ後ろに回して、肩越しにギャリーの顔を見た。
「……この世界を、ゆっくり満喫させてもらうことにするわ。……ちょうど、やりたいことも出来たしね」
ギャリーはすごく綺麗な顔で笑ってた。
私にとってはもう飽きちゃったこの世界だけど。まだ来たばっかりのギャリーには、まだまだ楽しめるところがあると言う。それはおかしな理屈ではなくて、だから代わりになってもらうことへの、ギャリーへ向けた負い目の気持ちはずいぶん薄れた。ギャリーと一緒に帰りたい、イヴへの申し訳なさは残るけど、それだけだったら呑み込めた。
「……だから気にせず、先に行きなさい。アンタら子供は、大人の心配なんてしなくていいの」
「……うん」
大人。私にとって一番身近な大人は、お父さんだった。ならやっぱりお父さんも、こんなふうに考えるのかな。こんなふうに言ってくれるのかな。
知りたい、と思った。だから外に出てお父さんに会ったら、まずそのことを訊いてみたい。そう思って目の前のキャンバスを、外の世界へと続く道を見上げる。その中に遠く小さくなりながら、こっちへ手を伸ばすイヴの姿。
イヴには向こうで、ちゃんと話そう。ギャリーが私と、薔薇を交換してくれたこと。ギャリーが私に、夢を見続けてほしいと言ってくれたこと。それがとっても、嬉しかったこと。ギャリーが大好きなイヴとは、それで喧嘩になっちゃうかもだけど、それでも今のこの気持ちを、私はイヴに伝えたい。
トンッ……と背中に軽く、力を受けた。ワンテンポ遅れて、ギャリーに後ろから突き飛ばされたんだって気づく。
「あ……」
乱暴なのに優しいその手に押されて、私は咄嗟にジャンプした。青い薔薇を、手に持って。先に行った、イヴの手を目がけて。
あんなに遠かった、外の世界。どんなに手を伸ばしても、届かなかった、外の世界。それはこんなにも簡単に、私のことを受け入れる。