【本編完結】Ib ~ゲルテナ展 10周年記念展~ 作:梅山葵
気がつけば、お父さんは消えていて。代わりにいたのはギャリーだった。そしてその背に隠れるように、イヴも後ろに付いて来てる。トゲトゲだけが無くなった、クレヨンの蔦を掻き分けて、2階に上がってきたようだった。
まずい、まずい。シャキっとしないと。ふたりに此処まで、私の秘密の部屋まで来られちゃったからには、もう余裕なんて少しもない。なのに、ちょっとお父さんに見えかけただけで、さっきまで溜まりに溜まってた、2人をどうしようもなく憎かった気持ちが、どっか遠くに行きかけちゃってる。
首を何度か左右に振る。なんとかお父さんの幻影を、瞼の裏から追い出して、私はイヴとギャリーに向き直った。
「……どうやって、この部屋に入って来たの?」
一応それを訊いてみるけど、私の中では答えは出てる。お父さんが愛用してた、パレットナイフを使ったんだ。なかなかお父さんが帰ってこないから、道具一式まとめて奥の方に仕舞いこんでたハズだけど、ギャリーはそれを見つけてたみたいだ。
お父さんの道具を使うのは、いくらなんでもズルいよ、ギャリー。そんなの、私が描いた絵なんかじゃ、太刀打ちできるわけないじゃん。
お父さんのパレットナイフを持たれてる以上、私が何を描いたって無駄。新しく何かを描き上げるより、それを壊してしまう方が、ずっと簡単ではやいから。だからクレヨンでの抵抗は、もうどうしたって間に合わない。
私の質問にギャリーは答えない。ただ代わりに、私にこう言った。
「メアリー……。イヴに薔薇を、返してあげて」
そう言われるだろうってことは、予想してた。
左手の中にある、イヴの薔薇の感触を確認する。……大丈夫。それでもまだ、主導権はこっちにある。
ギャリーがこっちへと、足を踏み出そうとする。そのタイミングを見計らって、私はイヴの薔薇を見せつけた。その花びらに指をかけて。
「こっち、来ないでっ……!!」
「――!?」
ギャリーの脚が、それだけでビタッと止まる。それを見て、自分の考えが正しいって、私は確信を強くする。
「言うこときかないと……。このイヴの薔薇に付いてる花びら、全部引っこ抜いちゃうんだから……!!」
何かを壊すのは、とても簡単。それはこっちにだって言えることだよ。ギャリーやイヴが近づくより、この花びらを毟り取る方がずっとはやい。だからイヴの薔薇を持っている、私の方が優位なんだ。お父さんの仕事道具っていう、反則アイテムを持ってきたところで、それはどうしたって覆らない。
……でも逆に、散らした後は? イヴの薔薇が無くなったら、私を守れるものはなくなる。イヴの存在を奪った後、そんな私をギャリーは許すの?
許さなかったら、どうなるんだろ。お父さんのパレットナイフで、きっと私は壊されちゃう。それはどのくらいまで? 両腕が取れるくらい? 両足が取れるくらい? 頭が取れるくらい? それとも木っ端微塵になって、私の形がなくなっちゃうくらい?
そうやっていっぱい壊されて、動けなくなっちゃった私はずっと、誰かが直してくれるまで、ずっとここで待つのかな。それじゃあ結局、外には行けない。お父さんにも会いに行けない。
だからまずやるべきことは、お父さんのナイフを取り返すこと。そもそもお父さんの持ち物を、借りられたままってゆーのが気に食わない。
「ねえ、ギャリー……。そのパレットナイフ、返してほしいな。それは大好きな、お父さんのなの」
「……そっち行って、渡せばいいってことかしら?」
「ダメ! ……それは、絶対ダメ」
大人のギャリーに近づかれたら、万が一の時に敵わない。ましてやお父さんのナイフを持たれたままじゃ、不意討ちの一突きで終わっちゃう。
「じゃあ放り投げるか、足で蹴るかして寄越せってこと?」
「……そんな乱暴なのも、ダメ」
「どうしろってのよ、もう……」
かと言って、お父さんの大事な道具を、そんな手荒に扱われるのも許せなかった。でもそうなってくると、次どうすればいいかなんて、それこそ私にも分からなくなる。
ここは私の家だけど、結局ここは行き止まり。1階へと降りるためには、2人の横をすれ違わないとだけど、そんなすぐ傍を通るのは、いくらなんでもリスキーだ。
それに仮にすれ違えたとして。後ろの壁に掛かってる、私の額縁はどうなるの? 位置がそっくり入れ替わったら、2人はそれを好きにできちゃう。やっぱり私もこの状況、追い詰められてるってことは変わらない。
そうやって、お互いに。動けない時間がしばらく続く。睨み合ったままの時間がしばらく続く。
「……メアリー。どうしても薔薇が、欲しいなら……」
沈黙に耐えきれなかったように、ギャリーが何かを言い出そうとしていた。でもそれに被せるように。イヴが私に、言い放つ。
「花びらを抜くなんて、ホントにできるの?」
って。
「ちょ、イヴ!?」
「ギャリーはちょっと、黙ってて」
イヴは、何を言ってるの? 花びらを抜いてくことなんて、モノを壊すことなんて、そんなすごく簡単なことが、出来ない訳がないじゃない。それなのにイヴは落ち着いた眼で、薔薇に手をかけたままの私を、疑わしそうに眺めてる。
「……で、できるに決まってるじゃん、何言ってるの?」
「なら、なんでもうやってないの? 私達がここに来る前に」
イヴに図星を突かれて、ドキッとした。確かに一度、やりかけた。一度イヴの薔薇に、手をかけた。
なのに、それを止めた理由。それを私は、あえて無視する。無視しなくちゃ、いけないの。だってそれに気づいたら、いよいよ私に後がない。
「それが出来なかった時点で、メアリーにはもう無理だと思うよ。私達を間近で眺めながら、花びらを千切っていくなんて、絶対に出来っこない」
「へ、へぇ……、言うじゃん。なんでそんなこと、私じゃないイヴが言えるわけ?」
私のことを見透かしているかのように断言するイヴに、そう言い返す。
「メアリー。あの時、私、言ったよね? メアリーのこと、私はもう怖くないって」
イヴの言う、あの時。それは、イヴに私が作品だとバレた時。……そしてそれは、イヴが作品の私を受け入れてくれた時。私がそうだと、思った時。
おかしい、おかしい。怖がらせてるのは私の方で、怖がるのはイヴの方でしょ? なんで私の方が怖がって、イヴの方が怖がらせてくるのよ。これじゃあまるで、あべこべじゃない。
「メアリーのお父さんのことも……、3人揃って出られないことも……、どうすればいいのかなんて、分からないけど。でもメアリーのことは分かるから、だからよく聞いて」
まだ遠くにいるはずなのに、かなり離れているはずなのに、イヴがやけに大きく見える。そしてイヴは私によく聞こえるように、ゆっくりはっきり言ったんだ。
「その花びらを抜いたら、私は"痛い"よ。全部抜かれたりなんかしたら、きっと"死んじゃう"」
その2つの単語が出た瞬間、全身がビクリと震えたのを隠せなかった。私が知らなかった2つの単語。私が恐れる2つの単語。
「じゃあ、今からそっちに行くね」
「え……?」
そうしてイヴは、薔薇に手をかけたままの私を気にせず、こちらへ一歩を踏み出した。
「来ないで……!」
イヴが、歩いてくる。こっちの方へ、私の方へ。ゆっくりとした足取りで。でもしっかりとした足取りで。
「来ないでってば……!」
ウソでしょ? なんでこっち来るの。なんでこっち来れるの? 今の状況、分かってないの?
そうだ、薔薇。はやく抜かなきゃ。そうやって指に力を入れて、やっと自分を襲う異変に気づいた。
花びらが、薔薇が、重い……!?
本気で力を入れてるのに、手や指は激しく震えるばかりで、ぜんぜん言うことを聞いてくれない。そんな、そんなはずないでしょ? 花びらなんて、風にのって飛んじゃうくらい、とても軽くて柔らかいもの。私の両手に余るような、重いものなわけないよ。
「はぁ、はぁ……!」
全力を振り絞ってるから、息遣いだって荒れていく。
そんな私を尻目にして、どんどんイヴは近づいてくる。もうこれで、部屋の半分を越えられちゃった。
このままだと、間に合わなくなっちゃう!?
そんな焦りが手に伝わったのか、やっと1枚、抜くことができた。と同時に、絹が裂けるような悲鳴が上がって、驚いた私は、抜いた花びら1枚を摘んだまま硬直する。
「イヴ!?」
「――心配、しないで……!」
床に倒れ込んだイヴに、奥のギャリーから心配の声がとぶ。けれどイヴはそれでは止まらず、また立ち上がろうとしてる。そのおでこには、1滴の脂汗。
花びらたった1枚でこの大騒ぎ。別にイヴの身体の何処かが、無くなっちゃったわけでもないのに、それでも大事件のようだった。
じゃあ全部を取ったりしたら、それこそいったいどうなっちゃうの? 私が全然分からない、"シンジャウ"ってそのことなの? 動けなくなるだけじゃすまないの? 話せなくなるだけじゃすまないの? どうして動けなくなった後に、会えない遠くに行ったりしちゃうの?
なんなの、この薔薇。なんなのよ。
はずみで1枚抜けたせいか、イヴは足を引き摺ってるけど、でもまだ止まった訳じゃない。だから続きをしなきゃなのに、さらに薔薇は重くなる。
せめてバランスを崩して落とさないように、指先に神経を尖らせて、私は初めてそれを感じた。
茎を通る水の流れ。千切った花びらから染み出す湿り気と香り。薔薇の鼓動、息遣い。
私が持ってる、これは何?
分からない、分からない。これが何かなんて分からないし、どうすればいいのかも分からない。
分からないから、助けを求めた。心の中のお父さんに。お父さんはなんでも知ってる。お父さんだったら答えてくれる。
だから私の記憶の中で、答えになりそうな言葉を全て、片っ端から探していく。声で残してくれたもの。文字で残してくれたもの。私へ向けて言ったこと。他の誰かに言ったこと。全部、1つも残さずに。
……そうして1つそれっぽいのに、私はなんとか行き当たる。憶えているのは得意だから、イヴが私のとこにまで、届いちゃう前に間に合った。
けれど私は動かない。けれど私は動けない。答えは私を動かすどころか、もっと私を動けなくした。
そうして動けない私の元に、遂にイヴが辿り着く。両手で私の手を包み込み、固まりきった私の指を、1本1本解きほぐしていく。そうして開いた掌から、赤い薔薇だけ抜き取った。
「返してくれて、ありがとう」
私が動きも暴れもしなかったからか、イヴは私にありがとうと言った。盗られちゃった側なのに、お礼を言うなんておかしいね。
でもそんな状況になってさえ、まだ私は動き出せない。
イヴが薔薇を取り返したのをしっかり見てから、ギャリーもこっちに駆け寄ってきた。その手にはまだ、お父さんのパレットナイフも握られたままだ。
「イヴ。薔薇は? 身体は?」
「ん。平気」
でもそんな状況になってさえ、まだ私は動き出せない。
ただ、お父さんが残した言葉の意味を、噛みしめるだけで精一杯。
そうしてやっと私の身体が、雁字搦めから抜け出せた時には、もう私は力も出せなくなってて、へなへなその場にへたり込んだ。
お父さんが残した、あの言葉。難し過ぎて今の今まで、意味不明だったあの言葉。
お父さんは、言っていた。
「命の重さ、知るがいい」