【本編完結】Ib ~ゲルテナ展 10周年記念展~ 作:梅山葵
視界一面に広がる、黄色と緑色の暴力の形。クレヨンで描かれた、薔薇の花と茨の棘。それらは階段を埋め尽くし、ギャリーとイヴの行く手を頑なに阻む。
これまで"Sketchbook"の世界で見てきたような、憧憬や希望に満ち溢れた楽しい描き方ではない。ついさっき描かれたばかりの、荒々しく描き殴られた力任せのタッチは、これの描き手が今、明確に他者を拒絶しているのだと雄弁に語る。
「ここから出てって!」という心の叫びが明確に形を持って、眼の前に具現化しているかのようだ。
でも、だからこそ強く確信する。これを描いたのは、メアリーだ。間違いなくメアリーはこの先に、この階段を上った先にいる。
自然とイヴと眼が合って、確認するように一緒に頷いた後、ギャリーは茨から成る壁を睨んだ。
メアリーから、イヴの命と等しい薔薇を、絶対に取り返さなくてはいけない。
ただ、今のギャリーを突き動かす動機は、決してそれだけでは無かった。ギャリーの眼から、先程のメアリーが、焼き付いて離れないのだ。
「ウソつき! ウソつき! ウソつき! ウソつき! ウソつき! ウソつき!」
その綺麗な金色の髪を振り乱して、何度も繰り返し、そう喚いたメアリー。
とてつもない、重圧だった。息が詰まって、呼吸するだけでも苦しくて。まるで深海の底で溺れているのかと、錯覚させられるほどだった。
それに気圧されて、行かせてしまった。止めることも出来ず、走り去らせてしまった。
……あんな状態の子供を独りになんて、絶対にしてはいけないのに。
この世界から出られるのは、2人だけ。メアリーが外の世界に出るには、命と等価な薔薇を、外の世界の誰かと、交換しなくてはならない。
あの時メアリーが言っていたことが思い返されて、片手に持つ青薔薇を意識する。
それを聞いた時、確かにギャリーはとても驚いたが、同時に納得してもいたのだ。
"ああ。だからあの時、あの作品はアタシだけを引き離そうとしたのね"
『嫉妬深き花』が、その茨の石像で、イヴ・メアリーとギャリーの組み合わせに、引き裂いた理由。今となっては、それを想像するのも簡単だ。イヴとメアリーの2人で外の世界に帰って、ギャリーはこの世界に残る。そんな単純な、計画だったのだろう。
つまりあの時の攻撃は、いたいけな女の子2人をかどわかそうとしたものなどではなくて、大人の自分を狙ったものだったわけだ。……そこまで、考えついて。
全くと言ってもいいほどに、怒りが沸いて来ない自分に驚く。
普通ならば、自分の命の方が狙われていたと知れば、そっちの方が許せないものなんだろう。ただ、そもそも外の世界で生きる意味そのものを半分失いかけていたギャリーにしてみれば、それはどこか馴染みがない感情だった。
もちろん、進んで死にたいと思うほど、自殺願望に溢れているわけでもないのだけれど、死ぬ日が今日だと言われたところで、「あ、そうなんだ」と黙って受け入れてしまえるような、そんな感覚。
そしてもう1つの理由は……。ギャリー自身も、「それが正解だ」と思ってしまったから。
分かりやすい例を、考えてみよう。何らかの事故で、子供2人と大人1人が閉じ込められている。助けられるのは、2人だけ。さて、誰を助ける?
そんな質問に対して、「それなら子供2人を優先すべき」と考えるのは、至極当たり前のことだと思うのだ。ましてや残る大人が、人生に疲れ切ったような、こんな萎びた奴なら、なおさら。
よって残る問題は、ゲルテナ作品である『メアリー』を1人の人間の子供として扱うかどうかだけであって、それについてはもう、ギャリーの中で結論が出ている。外へ憧れるメアリーの声を聞いた、あの時あの瞬間から。
だから今。ギャリーはイヴの薔薇を取り返すためであると同時に、あのまま行かせてしまったメアリーを助けるためにも。眼の前の茨の檻を、早くどうにかしなくてはならないのだ。
クレヨンで描かれただけの茨なら、『無個性』達をどかしたみたいに、腕力でなんとかならないか。そう思って、半ば破れかぶれで、できる限り棘を避けるようにして指をかける。
「ッ……」
「ギャリー、血が……」
引きちぎろうと力を込めた瞬間、指先を走った鋭い痛み。咄嗟に声を押し殺すも、それを受けて反射的に、掴んだそれを手放してしまった。イヴの言葉を受けて視線を手に移すと、棘が刺さって切れてしまっただろうところから、赤い血が滲んで玉になっていた。
大した怪我じゃないけれど、たかだか一本の蔦でこうして躓いているようでは、ギャリーがただ痛みを我慢した程度で、なんとか出来るレベルではなさそうだ。
ギャリーが掌を見つめながら唇を噛んでいると、その掌に被せるように、純白の布が重ねられた。目線を上げると、イヴがギャリーの怪我した指を包むようにハンカチを巻いてくれている。
「ハンカチ……。いいの?」
問いかけるギャリーに対して、イヴは巻いたハンカチを結んだ後に、黙って頷いた。
「こんな怪我は、唾でも付けておけば治るわよ」という台詞が浮かぶも、わざわざイヴが手ずから結えてくれた後に、突き返すのは忍びない。それにそもそも今は、そんなふうに気を遣い合って時間を取られている場合ではない、と思い直した。
「ありがとう、イヴ。借りさせてもらうわね」
肌触りの質感とその光沢から、本物のレース、それもかなり上等な代物だと分かる。また、結んでくれている最中に一瞬だけ垣間見えた、彼女の名前を省略したであろう「Ib」の刺繍文字。そこから考察するに、ズバリこれは一点物なのでは、という恐ろしい仮説が頭をよぎるが、ギャリーは意識してそれを無視した。ただ、どうにも育ちの良さが隠しきれないこのイヴという9歳の少女が、間違いなくイイトコのお嬢様なのだと、ここに至って確信する。もしかしたら、とんでもない大富豪の家出身なんじゃ。穢れ1つない白い布が、自分の赤い血で汚れていくのを見ながら、ギャリーはふと、そんなことを考えた。
「……イヴ。身体が引き裂かれるように痛いとか、そういうことない? 我慢してるとか、ないわよね?」
「……うん。……今のところ、何ともないよ」
万が一にでも強がって隠していないか、すごく注意してイヴの姿を眺めるが、幸いなことに、変にどこかを引きずっていたり、庇ったりしている様子はなかった。それまで持っていた赤薔薇が手元に無いことに、どこかソワソワと不安な気持ちは隠せないようではあるが、それは当たり前だろう。
メアリーがイヴの薔薇を持ち去ってしまってから、すぐにその後を追ってきたけれど、それでも薔薇を散らすくらいならいくらでもできる時間が、既に経ってしまっている。メアリーがイヴを殺す気だったら成す術が無かったというギャリーの不甲斐なさを示す事態だが、逆に言えば、今こうしてまだイヴが無事であると言うことが、メアリーがイヴの薔薇をすぐにどうこうするつもりは無いということを意味してもいる。すなわち、メアリーはギャリーが想像する通り、純粋な悪い子では決してない。
ただ、それに安心できる状況かというと、もちろん違う。今のメアリーは、唯一の親であるゲルテナの死をギャリーとイヴから伝えられたばかりで、酷く不安定だ。そしてこの世界を支配する「薔薇が命と等価である」というルール、これが良くない。
極端な話、幼いメアリーが癇癪を起こして一時的に酷く暴れたところで、それだけならば大事には至らない。メアリーが落ち着くのを待って、受け入れてもらえるまで真摯に話す。それであの子は、絶対にいつかは理解ってくれる。
ただそこに。薔薇の花びらを散らすだけで簡単に命が奪えてしまうという事情が重なると、一気に話が難しくなる。メアリーが受け入れようとしている途中で、悲劇を起こしてしまうことが、あり得る。そんなことにならないように、すぐにでもメアリーからイヴの薔薇を取り上げなくてはならない。イヴの体を守るためにも、メアリーの心を守るためにも。
……今、メアリーはこの茨の向こうで、どうしているのだろう。ひとりぼっちで奥に篭り、イヴの赤い薔薇を手に、何を考えているのか。
それを心配に思った時に、ふと気づいた。
"思えば、茨を隔てて2:1のこの構図、アタシとメアリーが入れ替わっただけで、あの時と同じね"
石像の茨とクレヨンの茨。そんな細かい違いこそあるけれど、挟んだ茨に分けられて、向こう側にいる人の元に行けないところは、何もかも同じ。
あの時もギャリーは、3人を隔てる茨をどうにかできる方法が何かないかずっと探していて、結局何も見つけることができなかった。
……いや、1つだけ。『無個性』や顔だけの石像に邪魔されて、あの時、試すことすら許されなかったものがあった。
吸い寄せられるように、コートの内ポケットに手が伸びた。そうしてギャリーが手にしたのは、ただ一本のパレットナイフ。
馬鹿げている。こんな満足に刃物とも言えないような小さな金属片1本で、眼の前の頑なな茨の森を、どうこうしようとするなんて。
だから傍らのイヴにパレットナイフを見せながら、半ば冗談めかした口調で、訊いたのだ。
「……イヴ。これでこの茨、なんとかできると思う?」
そんなギャリーの質問に対して。確かにイヴは、こう言った。
「やればできる」
耳に入って来た声の意味を疑い、反射的にイヴの方を見た。イヴはどこまでも真剣な眼で、両手をグーに握りながら、ギャリーのことをじっと見つめている。直感的に、悟る。イヴは、本気であると。
「……フフフ」
「……なんで笑うの、ギャリー?」
込み上げてくる笑いが、止まらない。ああ、だって、まさか。肯定されるなんて、思わないじゃないか。
この小さなお嬢様は、眼の前のただの大人が、この小さなパレットナイフ1つで、この茨の山をなんとか出来るものだと、本気で信じてやまないらしい。イヴの頭の中で、ギャリーはみんなのヒーローか、憧れのお父さんか、あるいは何でも出来る執事さんか。
良いじゃないか。お嬢様が、それをご所望なら。それに応えてこそ、真の執事。この期待を現実のものにしてあげたいと思わなかったら、それこそ嘘だろう。
……ふと、思う。どこか物静かな雰囲気で、大人びて見えていた、この小さな少女。でもそれが、ただの仮面だったのであれば。ならば本当の彼女は、本当の彼女の頭の中は、実はとても愉快なことになっていたりするんじゃないだろうか?
"そうだったら、いいわね"
イヴの命を握られているこの状況、見ようによっては絶体絶命のピンチなのだが、少しずつ不安が消えていくのを、ギャリーは感じる。
ちょっと特殊な事情はあれど、今回のトラブルの本質は、「親を喪った子が、まだそれを認められない」という、現実でだって十分あり得ること。
ならばきっとその結末も、誰かがそれで殺されてしまうとか、そんな非日常的なものではなくて、外の世界でもありふれた、そんな終わり方にきっとなる。そんな根拠もない自信が、ギャリーを確かに満たしていく。
その自信を力に変えて、イヴに借りたハンカチを巻いたその右手に、パレットナイフを逆手に持ち、ギャリーは茨の前に静かに構えた。
そうしてその手を振り下ろし、パレットナイフとクレヨンの茨が、接触したとき。ギャリーも、イヴも、目の当たりにした。
パレットナイフのその先が、七色に輝くその瞬間を。
ギィッ……。下で扉が開く音。誰かが家に入る音。
紛れ込んだそれに邪魔されて、思い出のお父さんに浸るための、ひとりの時間は終わってしまった。深く潜っていた私の意識が、今に向かって浮上してくる。
私の世界に侵入られた気がして、大事な記憶が穢された気がして、それがとてもムカムカした。
私の心の呼び声に、お父さんが応えて帰って来てくれた? この期に及んでさすがの私も、そんな勘違いはしたりしない。
姿を見れたわけじゃないし、声が聞こえたわけじゃない。それでも、イヴとギャリー、なんだろう。
玄関に引いた黒い線を、なんとかして乗り越えて来たんだ。私の想像以上だよ。すごいね、2人とも。……でも、それで終わり。
新しい道を書くだけで済む、入口とは、違うんだ。お父さんのプレゼントを真似て描いた、この黄色と緑の壁は、上描きなんて出来やしない。上描きなんてさせやしない。
……それでもイバラの向こうでは、どうにか足掻いてるみたい。動き続ける人の気配が、消える兆しが全然ない。
その気配が、嫌で嫌で。追い出したくて、堪らなくて。だからしゃがんで、座り込む。耳を塞いで、目を瞑る。
そのトゲトゲを見れば、分かるでしょ? 私は2人に、会いたくないの。いい加減諦めて、はやくここから、出てってよ。
はやくここから、出てって! はやく! ハヤク!! 早くっ!!
瞼の裏にちらつくふたりに、そう怒鳴りつけた。
……やがてそうして、静かになった。やっと、観念してくれた。
……だけど思い通りになったのに。それはそれで、どこか寂しい。それはどうしてなんだろね?
そんな疑問が浮かんだ直後だった。
ゴゴゴゴゴ……。
床が小さく、揺れている。私の世界が、揺れている。そんな揺れを足裏で感じて、私はうっすら眼を開けた。
ゴゴゴゴゴ……!!
だんだん揺れは大きくなる。床、壁、天井、散らばる玩具。そんな全てが揺れ始める。そんな揺れを目で見て感じて、私は耳から手を外した。
「なに……!? なんなの!?」
揺れの中心は床下みたいで、自然と視線は階段に向いた。頑丈に描いたハズのトゲトゲが、揺れで激しく軋んでる。
そんな蔦の隙間から、狼狽えたままの私の顔に、七色の光が差し込んできた。
七色。虹色。全部の色。私の大好きなお父さんの色。
あり得ない、あり得ない。今になってお父さんが、私の声に応えるなんて、そんな都合の良いことなんて、絶対絶対あり得ない。
でもそんな素晴らしい、幻のようなもしかしてが、私を掴んで離さない。
私の心の葛藤が、期待に揺れたその瞬間。強さを増した煌めきが、イバラに生えてるトゲトゲだけを、ただ一閃で消し飛ばす。
そうして広がる七色は、階段下から弧を描き、私の足元を照らし出す。それはさながら、橋のようで。
人影が、奥に見える。眩しくて、よく見えない。朧げにしか、分からない。
ただ、大きな影だった。私よりずっと、大きな影。
その影は大きな右手に、パレットナイフを持っていた。
かつての道具をその手に持って、迎えに来てくれたその人影。私にはそう、見えたんだ。
心にずっと描いてた、お父さんが現れた。