【本編完結】Ib ~ゲルテナ展 10周年記念展~ 作:梅山葵
「メアリー……。落ち着いて、聞いてほしいの……」
メアリーがお父さんについて触れた後に訪れた、とても永く思えた静寂。それを破ったギャリーの言葉は、イヴに向けたものではなかったけれど、耳を澄まさずにはいられない。
チラリと横目でギャリーの様子を流し見る。ギャリーの目元には陰がかかっていて、その表情を窺うことは出来ない。
そしてギャリーは遂に、その言葉を切り出した。
「アナタのお父さんは……。もう、"亡くなってる"わ」
「……? "ナクナッテル"? 何が無くなってるの?」
眼を伏せているギャリーと裏腹に、メアリーの眼が疑問で丸くなる。それがすごく対照的で、だからこそ傍から見るイヴは、それをとても悼ましい光景だと思う。
「亡くなってる」。メアリーには絶対に伝わらないだろう、その言い回し。しかし、ギャリーがそれを最初に使ってしまったことを、イヴは責めることが出来ない。だって、その単語を言ったら、核心に近づいてしまうから。それを直接メアリーにぶつけてしまうのは、余りにも残酷に思えたから。
口を開きかけて、閉じて。また口を開きかけて、唇を軽く舐めて、また閉じて。そうしてやっと、ギャリーはその単語を口にした。
「……"死んでいる"って、ことよ」
「……??」
たった10音にすら満たない、端的な一文。しかしそれを口にするのに、ギャリーがどれだけの勇気を振り絞ったか。イヴには、想像することしかできない。
誰かに会いたいと言う人に、その誰かが死んでいると伝えること。そんな嫌な役回りは、出来るなら誰だってやりたくはない。実際、イヴは、出来なかった。
ただ、だからって。気づいたにも関わらず、それを誰も本人に伝えないのは、やはりそれも間違っている。
……だから、イヴが逃げてしまったその仕事を。それを自ら引き受けたギャリーを、イヴは本当にすごいと思った。
「"シンデイル"って、なーに? イヴ、知ってる?」
軽く首を傾けて、イヴに言葉の意味をたずねてくるメアリー。その響きの中には、「死」という単語が持って当然の、重みが一切感じられない。
いや、事実、メアリーは本当に何も知らないのだろう。だからこうして、訊いている。
イヴだって、まだ9歳だ。「死とは何か?」なんて訊かれても、ハッキリした答えなんて、持ってない。
……ただ、イヴはそれでも分からないなりに、「死」に触れたことがある。そこがきっと、何も知らないメアリーとは違うところ。
それは祖母の葬儀の記憶。哀しくも懐かしい、お祖母ちゃんとの、お別れの日の思い出。
イヴにとってお祖母ちゃんは、お裁縫のやり方を教えてくれる人だった。お母さん曰く、お祖母ちゃんは怒ると怖いらしいのだけれど、少なくともイヴが知ってるお祖母ちゃんは、とても優しい先生だった。
特にしっかり憶えているのは、縫い方を教えてもらう最中に、誤って指を針で刺してしまった時のこと。痛みで眼が潤むイヴの手を取り、血が滲む指にハンカチを結んで留めてくれた。結局、その事件でその日の授業は中止。痛い思いをしただけで、なんの身にもならなかったけど、やけにハッキリ覚えてる。これがイヴが持っている、生前のお祖母ちゃんの姿。
そう言えば。今日のゲルテナ展にお母さんが着てきた赤い服は、お祖母ちゃんの御下がりらしい。あの小洒落たセンスあるスーツは、とても高級で有り難いものだから、いつかイヴ自身の手で自分に合わせて仕立て直せるようになったら、イヴに渡る番が来るのだと言う。すごく丈夫で良い生地を使っているから、ちゃんと大切に手入れして扱えば、それだけ保たせられる品だと聞いた。
お祖母ちゃんが、死んだ。お祖母ちゃんが、亡くなった。お祖母ちゃんが、他界した。お祖母ちゃんが、天国へ行った。
そういった言葉が、やけにイヴの耳に入るようになってから、お母さんとお父さんはとても忙しそうにするようになった。どこか焦った様子のお母さんと、あちこちに電話を掛けているらしいお父さん。さっきあげた言葉はどれも、イヴには難しくて理解らなくて、とりあえずお祖母ちゃんに何かあったんだなと、イヴはぼんやり思っていた。
「お願いだから、良い子にしててね」
そう言いつけられたイヴは大人しく、長ソファの中央に独り座って、家の中を駆けずり回る両親ふたりの姿を眺めていた。
一人っ子だったイヴにとっては、両親にほったかされる機会なんて無かったから、あの時がこれまでで、一番長く放置された時だった。
そうして終わった次の日には、お父さんが運転する黒いセダンに乗せられて、近くの教会に連れてこさせられた。なんでもイヴのお役目は、お花を運ぶことらしくて、ちょっと狭い後部座席に、赤薔薇の籠を抱えて座る。お母さんが選んでくれた今日の服は、黒一色でセンスが無い。だけど助手席に座るお母さんとペアルックであることに免じて、今回だけは我慢してあげることにした。
教会に連れられて来たことはあったけれど、この日だけはちょっと、雰囲気が違う。イヴの親戚だとか、お祖母ちゃんの古い友達だとか、イヴの知らない大人がたくさん、教会にうじゃうじゃ集まってる。みんな黒い服を着ていて、ぞろぞろと長い列を作って、受付の順番待ちをしていた。ちょっとじゃ見分けがつかないそんな姿に、やっぱりみんなお洒落じゃないなと、イヴは密かに蔑んだ。
お父さんとお母さんは、そういった人達への挨拶とかがあるらしい。やっぱりここ教会でも、イヴはちゃんと独りでいて、大人しくしてなくてはいけないようだ。
ただただ何もせず待つだけなのは、籠を抱えた両手が重くて辛い。ついでに退屈だったから、適当な机の上に籠を置くと、中の薔薇から1本だけ、手慰みに抜き取った。籠は薔薇で一杯だから、1本くらい抜いたところで、きっとバレやしないだろう。
教会の中は同じような人ばかりで、眺める景色も単調で、面白みの欠片もない。だから抜いた薔薇を片手に、ふらっと建物の外に出て、何かないかと周りをうろつく。
周りの大人は誰1人、イヴのことを気にしていない。それが悪いってわけじゃないけれど、なんとなくそれが面白くなくて、不貞腐れ気味に手に入れた薔薇を眺める。
とっても綺麗。この綺麗な赤い薔薇は、今はイヴのものなのだ。
本当に、なんの気無しに、なんとなく。イヴはその綺麗な薔薇の花びらの一枚を摘まんで、ちょっと力を入れてみた。すると特に抵抗もなく、綺麗な薔薇はあっさりと、その一部が欠けてしまった。自分の思い通りになったようで、それがどこか小気味いい。
「すき。きらい。すき。きらい………」
花占いと、言うらしい。別に占いたい特別な人が、今のイヴにいるわけでもない。これはちょっとした遊びなのだ。
「すき。きらい。すき。きらい……。あ、終わった」
花びらが全て無くなって、何も付いていない茎から手を離した。
足元にイヴが落としていった、赤い花びらが散らばっている。それを上から見下ろすと、その隙間を縫うように、小さい黒い点々が、蛇行した線を成していた。アリの行列だ。
黒くて小さいアリ達は、自分達の巣穴へ黙々と、エサか何かを運んでいるようだ。その姿はどことなく、教会を並ぶ面白くない、黒ずくめの大人達と似ている。
イヴは履いているローファーの先で、列の中の一匹を踏んでみた。靴をどかすと、踏んだところのアリは、ひしゃげて動かなくなっていた。そしてまた、新しいアリがそこに、代わるようにやって来る。だから、また踏む。また足を上げる。その繰り返し。
薔薇に恨みがあったわけではない。アリに恨みがあったわけでもない。葬儀の全ての準備が整って、両親に呼ばれるまで続いた一連のそれは、イヴにとってただの暇つぶしだった。
いざ始まったお葬式では、基本的に幼いイヴは、黙って座っているだけで良かった。神父さんが難しい話をしたり、シスターさん達が歌ったり。お父さんとお母さんが、来てくれた人にお礼を言ったり。それらをイヴは見ているだけ。
ただ、大分時間が経って、そろそろ終わりが近いかな、とイヴが察した当たりで、お母さんがこっそり耳打ちしてきた。なんでも、出席者一人一人が、お花をお祖母ちゃんに供える習わしがあるのだという。
「イヴ? お祖母ちゃんが気持ちよく眠れるように、お祖母ちゃんが一番好きだったお花を、イヴが贈ってあげてね」
お母さんから手渡された、真っ赤な一輪の薔薇。たぶんあの籠に入ってた、数あるうちの一本だ。これをイヴ自身の手で、お祖母ちゃんが眠ってる、箱型ベッドに入れてきてほしいらしい。そこに居る人全員が、何故かとても静かだったから、イヴもなんとなく雰囲気につられて、ただ黙って頷いた。
イヴが手慰みに散らした薔薇は、お祖母ちゃんへの贈り物だった。イヴは自分の番が来るまで、手の中の薔薇を見つめながら、その意味を考えていた。
イヴの番が来た。皆が見ている前でイヴ一人、お祖母ちゃんが眠っている、大きな箱の横に立つ。箱の中を覗き込むと、既にそれまで入れられた、色とりどりのお花で一杯。モノクロばかりなみんなの中で、お祖母ちゃんだけはカラフルだ。そしてそんな沢山の花をお布団にして、胸の前で両手の指を絡め、静かにお祖母ちゃんは眠っていた。その姿はまるで何かに向けて、祈りを捧げているみたいでもあった。だから、組んだその手のすぐ上に、一本の赤薔薇を添える。
お祖母ちゃんは、痛そうには見えなかった。お祖母ちゃんは、苦しそうには見えなかった。ただお祖母ちゃんは気持ちよさそうに、寝息も立てずに眠っていた。だからきっとお祖母ちゃんにとって、これは辛いことではないのだ。
でも、そんな安らかなお祖母ちゃんの姿を見て、イヴは直感的に悟ったのだ。もうお祖母ちゃんが、自分から目を開けようとすることはないのだと。もうお祖母ちゃんの声は、聞けないのだ。お祖母ちゃんの手が、イヴを撫でることはないのだ。お祖母ちゃんはどこか、とても遠くへ行ってしまうのだ。だからこれはお別れで、お祖母ちゃんにとっては辛くなくても、イヴにとっては寂しいことなのだ。
気づけば、イヴは泣いていた。声も出さずに、泣いていた。今まで、泣いたことは沢山あった。だけど声もあげていないのに、とめどない涙が延々と、目から溢れ出たのは初めてだった。
……ふと、ここに来る前に車の中で、お母さんに訊ねたことを思い出す。お祖母ちゃんが行った場所。それは誰も会いに行けないほどに、とても遠い所らしい。
……ならば、そこには誰がいるのだろうか。いや、そこには誰かいるのだろうか。もしも、誰もいないとしたら。そこに行った人達は、ずっと"ひとりぼっち"、なのだろうか。
その時。イヴは確かに、気づいてしまった。自分の遥か後ろから、ずっとついてくる"ソレ"の足音。自分を遠い何処かへと、連れ去らんとする"ソレ"の黒い腕。
その足と腕の持ち主は、その黒塗りの影の正体は、どんな姿をしていることだろう。お祖母ちゃんの、姿をしているかもしれない。お母さんの、お父さんの、姿をしているかもしれない。まだイヴが知らなくて、これから知り合う誰かの、姿をしているかもしれない。そしてあるいは……イヴ自身の、姿をしているかもしれない。
……お葬式の全てが終わった後。教会の建物から車に乗るまでの帰り路で、お葬式が始まる前に遊んだ、アリの巣の付近を通りかかる。
自分が歩くその先に、散らばった薔薇の花びらと、踏み潰されたアリさんの死骸があると気づいた時。イヴはあえて意識して、踏まないように避けていた。
薔薇が可哀想になったわけではない。アリさん達に復讐されるかもと、急に怖く思ったわけでもない。
ただ。赤薔薇をあの時のイヴが、理不尽に引き千切ったように。アリさん達をあの時のイヴが、理不尽に踏み潰したように。イヴ達の元にだって、いつか"ソレ"がやって来る。
"ソレ"が近づきつつある気配は、幼いイヴにはまだ怖い。眠っていたお祖母ちゃんみたいに、笑ってなんて受け入れられない。だから"ソレ"に追いつかれないよう、だから"ソレ"に捕まらないよう、歩みを止めるわけにはいかないから、ああいった遊びは止めたのだ。自分に"ソレ"がやって来るのは、まだずっと先であってほしかったから。
ただいつの日か、"ソレ"に追いつかれた時。忘れた頃にやって来た、"ソレ"の黒い腕に捕まった時。自分はお祖母ちゃんみたいに、笑って逝くことができるのか。それだけは最後まで分からなくて、そのことだけは、お祖母ちゃんを心底、羨ましいと思った。
これが、イヴにとっての"死"の記憶。これで全て分かったなんて、とてもじゃないが言えないけれど。それでもメアリーよりは知っていると、魂に焼きついて消えない記憶。
そうしてトラウマのように刻まれた記憶が今、イヴに口を開くよう訴えかける。だから、うまく表現できる気がしなくても、自分ができる精一杯を、振り絞らないといけないと思って。
イヴは、はっきり言葉を紡いだ。