『超かぐや姫!』見てなんか偉そうに批評してる自称オタクのクソアニメアイコンどもは倉庭恋々果様の前でそのキショいツイート朗読してこいオラ今すぐしてこいよオタク笑
話題沸騰ということもありNetflixにわざわざ千円を課金して『超かぐや姫!』を鑑賞した。結論から言うとこれは製作されるべきではなかった。
本稿において、私は『超かぐや姫!』に否定的な態度を取るアニメアイコンの主張を概観し、なぜ彼らの態度が一般的に見て好ましくないかを説明する。その後、近年のサブカルチャーを取り巻く環境の変化について言及し、「推し活最高⭐︎」「推ししか勝たん♡」とかなんとか言ってキャピキャピ燥いでるお馬鹿さん達を口汚く罵る。そして最後に、これからの生成AI時代において、コンテンツを消費する際に私が取るべきだと思っている消費者としての態度について述べる。
はじめに
血をもって書く
全国のアニメイト(注1)の諸君、ごきげんよう。Netflix社が満を持して打ち出したオリジナルアニメ『超かぐや姫!』を楽しんでいるだろうか。私は存分に楽しんでいる。冒頭でこの映画は製作されるべきではなかったと述べたが、あれは私が『超かぐや姫!』に対して否定的な感情を持っていることを必ずしも意味しない。むしろ超面白かった。感動した。もう大絶賛である。マジで。あまりにも素晴らしすぎて語彙力を喪失してしまった。
(注1)アニメ鑑賞を楽しむ同胞、の意
さて、興奮冷めやらぬうちに、インターネットで「超かぐや姫! 感想」と検索し、サジェストされた個人ブログやらまとめサイトやらを上から2つか3つ漁るとしよう。これは私が何かしらのコンテンツを消費した後に決まって行うお作法のようなものである。十分な語彙力や表現力を持ち合わせてないから、どこの馬の骨とも知れぬ誰かが紡いだ言葉を拝借して無理やり自分の感情に当てはめようとしている?殺すぞお前。
そもそも完全な創作というものは存在しない。完全なクリームパンが存在しないように、だ。昨今「自分の言葉で書く」ことの意義が再注目されているが、そもそも創作とは総じて今まで見聞きしたもののパッチワークである。無から何かがいきなり生まれてくるわけではなく、今までの経験を縢り合わせることでしか我々は創作を行うことはできないのだ。
ニーチェは「私はただ、血で書かれた物のみを愛する。血をもって書け」と述べた。だから私も血をもって書くつもりだ。これは粗製乱造のクソみたいな書き物が横溢する生成AI全盛期において、果敢にも世間に突き立てる私なりの中指である。ついて来れる奴だけついて来い。
みんな(アニメイツ)の感想
話を戻す。『超かぐや姫!』についてであった。
確かに『超かぐや姫!』は非の打ちどころのない超絶最高でファンタスティックなアニメ映画であったのは間違いない。しかし、私がいつものようにインターネットで感想を検索したところ、一癖も二癖もありそうなアニメアイコン達による否定的な意見が散見されたのだ。以下はそのうちのほんの数例である。
彼らによれば、『超かぐや姫!』のよくなかった点として
・ストーリーが薄っぺらい、というかシナリオの体をなしていない
・心情描写が無いに等しくキャラクターの行動原理が分からない
・VTuber、配信文化に対する解像度が低い
・KASSENの戦闘シーンがMAPPAアニメみたいに速いだけで分かりにくい
・ランキング争いなどの作中イベントの必要性がよく分からない
・盛りすぎとも言える彩葉の設定、その超人ぶりに現実味がない
・彩葉のコンプレックスっぽかった母親との確執がいつの間にか解消している
・『ワールドイズマイン』『ハッピーシンセサイザ』といった有名ボカロ曲のアレンジがなんか気にくわない
・終盤でカグヤとヤチヨに関する衝撃の事実が明かされるが手垢が付きすぎていてそこまで衝撃ではない
・東大文一志望の女の子が臥薪嘗胆する益荒男アニメだと聞いていたのに実際は東大推薦という事実上の女子枠らしくて顔ない
・俺はこんなに人生悲惨なのにお前らだけ楽しそうにしてんじゃねーよダボハゼが
などが挙げられる。
最後の一点を除いて、確かに彼らの主張は的を射ている。まず、東大推薦が事実上の女子枠であることは間違いないだろう。今すぐこの制度を廃絶し、推薦による入学者の学位を抹消すべきだ。これは極めて重要な事項であるため太字にしておいた。なお、この主張は決して個人的な怨嗟によるものではなく、そもそも私は東大関係者でも何でもないことを断っておく。
話を戻そう(ぺこぱ)。実際のところ、奔放なかぐやに彩葉が絆される過程、KASSENにおけるスタイリッシュなバトルシーン、受験勉強での熱血臥薪嘗胆、作詞作曲における産みの苦しみ、母親との確執および家族愛、月人との緊迫感ある戦闘、8000年の時を超えた笹の葉ラプソディー的SF、忠犬オタ公のえっちなASMR配信……などなど、山下監督が本作で描こうとしていた(あるいは、私が描いてほしかった)項目は2時間22分に詰め込むにはあまりにも膨大であり、結果としてそれぞれの描写が不十分となってしまい、本作が最大公約数的な仕上がりになり下がったのは紛れもない事実である。時間と予算が許せば、1クール12話でじっくり彩葉の家族の話や、ランキングイベントあたりを掘り下げるべきだったのかもしれない。
とにかく、これらの点で彼ら=冷笑系のアニメアイコンは真っ当な主張をしていると言えるだろう。しかし、いつでも正論を振りかざせばいい訳ではないことは本邦の女性と少しでも会話をしたことがあれば容易に理解できるはずだ。何より、純粋に『超かぐや姫!』を楽しんだいちアニメイトとして、ここはひとつ反駁させていただきたい。
もうそういうのええですやん(笑)批評の皮を被った冷笑も大概にしましょうや。すべてが予定調和で、すべてがご都合主義的で、気が滅入るようなシーンはご丁寧にもオミットされていて、Z世代のドパガキが飽きて離脱しないようにイベントは小出しにされており、女の子のキャラデザは結構かわいくて、ちょっと百合要素もあって、懐かしのボカロも聞けて、壮大なSF要素も含まれていて、ライブシーンは臨場感満載で、君たちは一体全体なにが不満だというのか?
「これは批評である」とか「あくまでnot for me」とか御託を並べて、誹謗中傷を正当化してやいないか?インターネットっていうのはみんなで作り上げる公共の場なんだよ。自我を出すんじゃねえよ。監督およびアニメーターの方々もお前らと同じ血の通った人間なんだ。それにネット上にはあなたの不遠慮な物言いで不愉快になる人もいるんです。さっさと社会の窓からまろび出たその汚いお気持ちんぽを仕舞い給え。
昔のアニメはよかった?キャラもストーリーも演出も?そうやって延々と懐古趣味に浸っていればよいんだ!どうせお前らはエヴァ/ギアス/まどマギ/ハルヒあたりの昔懐かしアニメを見て、やれ人類補完計画がどうだとか、ラグナレクの接続がどうだとか、円環の理がどうだとか、商業主義のキッチュさを引き継いだキャラとしての朝比奈みくるの文学性がどうだとかのチンケな考察を掲示板に書き込んでフォカヌポウwすることしか生き甲斐がないんだろう。ダン・シモンズの読みすぎだ。そうやって所詮アニメに教訓なんぞを求めてばかりいるからこういう消費の仕方しかできなくなるのだ!
いったい何が起こっているのか
とまあ多少の誇張は入ったものの、残念ながら『超かぐや姫!』を楽しむことができなかった悲しき天邪鬼たちに対する世間の声は、要約すると大体このような感じである。お断りしておくが、私は別に君たちの存在自体を否定したいわけではない(前段で既にブラウザバックしてしまった気の短いアニメイツには本当に申し訳ないことをした)。あくまで私は「世間ではもう完全にゲームチェンジが起こっているからせいぜいうまく生き延びたまえ」という警鐘を鳴らしているにすぎないのだ。なんなら、私の本来のコンテンツ消費スタイルは君たちのそれに限りなく近いといえよう。
実際、このような天邪鬼を取り巻く環境は年々厳しさを増している。『君の名は。』の大ヒットを契機に、2010年代後半から2020年代前半にかけてアニメーションは急速に民主化した。かつてアニメは、生きづらさを抱える社会的弱者が現実から逃避するためのシェルターとして機能していたが、いまや一般市民がファッショナブルに自己を演出し、円滑にコミュニケーションを取るためのツールへと成り下がった。
大衆化は下賤な商業主義と強く結びつき、商業主義は、アニメーションという総合芸術のいち側面にすぎないキャラクターを切り取り商品化する。営利団体である製作委員会がこのような資本主義の論理に抗えるはずもなく、製作における重点はストーリーの精緻さよりもキャラクターの造形へとシフトした。それに伴い、大衆の関心事は「このシーンは何を意味しているのか」「作品にはどのようなメッセージが込められているのか」という論述問題から「どのキャラクターを推すか」「どのカップリングが尊いか」という択一問題へと移行していく。というのも、わざわざ時間と手間をかけて難解な物語を紐解くよりも、特定のキャラクターを盲目的に支持する方が自己表現の手段としては圧倒的に手軽で効率的だからだ。
そして「ストーリーが薄っぺらい」「心情描写が不十分」などの正当な批評は「#いろかぐてぇてぇ」「#乃依くん推し」「#チンポを見せろ忠犬オタ公」といった忌まわしきハッシュタグ・システムに基づくシェア文化の波にかき消されていく。インターネット上の自由な言論は「嫌なら見るな」という一言によって事実上弾圧されている。
何かが、確実に、そして決定的におかしくなっている。
我々が子供部屋でブルーアーカイブにのめり込んで過酷な自慰行為に熱中している間に、なぜ世界はこんな有様になってしまったのだろうか?その答えを求めるには、まず「オタクはどこに消えたのか?」という問いから出発する必要があるだろう。つまり、90年代後半~00年代にかけて秋葉原を中心に生息し、電子機器とサブカルチャーに深い造詣を有する、「長門は俺の嫁」「ルイズ・フランソワーズたんの桃色ブロンドの髪をクンカクンカしたいお!」などと意味不明なことを口走っていたチェックシャツのイカ臭い男性がどこに消えたのか、という問いだ。
以降、本稿において「オタク」とは一般的な用法ではなく、彼ら―90年代後半~00年代にかけて秋葉原を中心に生息していたチェックシャツのイカ臭い男性―を指し示すことにする。私がこの段まで頑なに「オタク」という呼称を用いてこなかったのはかかる理由によるものだ。
オタクはどこに消えたのか?
今の秋葉原には絶対に足を踏み入れてはいけない
あなたはコロナ禍が明けた後の秋葉原を訪れたことがあるだろうか。もし未だに行ったことがないならば、そのまま永遠に足を踏み入れないことを強くお勧めする。なぜならあそこは吐き気を催すほど下品でクソキモい街だからだ。
もちろん秋葉原という街が歴史的に見てクソキモくなかったことなどタダの一度もないのだが、かつてのクソキモさには、なんというか、まだ救いがあった。
時は遡る。今から約20年前、2005年の秋葉原は異様な熱気に満ちていた。
昼下がりの15時、歩行者天国は行き交う人々でごった返していた。雑踏の中、ラジカセを抱えた一人の若者が聞き覚えのある電波ソングを流し、唐突に踊り始める。所謂「オタ芸」だ。持ち前の運動神経の悪さと動作性IQの低さゆえか、その踊りは正直ぎこちなさを極めてはいたのだが、なりふり構わぬ一生懸命さだけは痛いほど伝わってきた。
「なんだなんだ」と野次馬が集まり、みるみるうちに人だかりができる。そこへ一人、また一人と乱入者が現れ、思い思いのオタ芸を披露し始めた。振付はバラバラで、お世辞にも洗練されているとは言い難かったが、そこには奇妙な一体感―ある種のグルーヴが確かに存在していた。いつの間にか、周囲からは地響きのような手拍子が沸き起こっている。
曲が転調しサビに突入すると、「うおおおおお!」という野次馬の咆哮とともに即席会場のボルテージは最高潮に達した。腕を大きく振り回す激しいアクション。滴る汗を拭う間もなく、彼らは必死に踊り続ける。
サビが終わろうとしたその時、どこからともなく「散れ!」という鋭い怒号が飛んだ。その声がするやいなや、踊っていたオタクたちは弾かれたように四方八方へと駆け出し、雑踏の中へ雲散霧消していく。入れ替わるように、「路上パフォーマンス禁止」の看板を掲げた万世橋署の警察官が呆れ顔で到着。鳴り止まぬ群衆の怒号と歓声。その光景は、さながら発展途上国のプライメートシティのような、混沌としたダイナミズムに満ちていた。
警官の警告を背に、逃げるようにガード下の薄暗い路地へ入ると、そこには白日の喧騒が嘘のような、特有の静謐さと油の匂いを帯びた電子の迷宮が広がっている。
天井には無数の配線が走り、むき出しの蛍光灯がチカチカと不規則に瞬く。所狭しと軒を連ねる露店には、マニア垂涎の電子部品や基盤、出所不明のジャンク品が文字通り山をなしていた。限られた空間に、欲望と知識が地層のように積み重なり、増築に増築を重ねたその佇まいはさながら香港・九龍城塞のようであった。一歩足を踏み入れれば、二度と元の場所には戻れないのではないかという錯覚さえ抱かせる。
露店でパソコンの部品をいくつか見繕った後、雑居ビルの三階に上がると、「おかえりなさいませ、ご主人様♡」という甘ったるい声とともにメイドさんが出迎えてくれた。案内された席には、インターネットの掲示板で知り合った同胞・オリヴァさんが既に陣取っている。話題は昨日視聴した『魔法少女リリカルなのは』について。作画の良し悪しや物語の整合性をこねくり回し、魔法少女談義にデュフデュフ汚い花を咲かせていると、注文したオムライスがやってきた。運んでくれた可愛らしいメイドさんによると、なにやら美味しくなるおまじないがあるという。曰く、「萌え♡萌え♡きゅ~ん♡」 と。
いや俺の方が萌え~♡ 断言しよう。愛だ。愛が世界を救うんだ。
このように、かつて―1990年代後半から2000年代にかけて―の秋葉原は、間違いなく本物の「オタクの街」だったといえるだろう。そこにはオタクを中心とした、緩やかで平和な、それでいて底知れぬ活気に満ちた健全な生態系が形成されていた。当時の秋葉原は、学校や職場で迫害され、世間の冷笑に晒され、這う這うの体で亡命してきたオタクという名の難民たちが、ようやく辿り着いた桃源郷―あるいは、優しき解放区だったのだ。
…そのはずだった。はずだったのだ。
やんぬるかな、2026年現在の秋葉原は四つの勢力によって無慈悲に分割統治されている。メイドの皮を被った淫靡な風俗嬢、その背後で糸を引く反社会的勢力、円安に群がり街の文脈を無視して消費し尽くす外国人観光客、そして再開発の美名のもとに街を均質化し、高額な賃料を吸い上げるデベロッパー。
加藤の乱、AKB48全盛期、コンセプトカフェの旺盛、そして決定打となったコロナ禍およびインバウンドを経て、秋葉原に染み付いていたオタクたちの饐えた残り香はきれいさっぱり浄化された。今の秋葉原を歩いていて感じる既視感の正体―それは間違いなく、新宿・歌舞伎町そのものである。
偏愛全開の痛車は品性下劣な成金趣味のシャコタンにリプレイスされ、腕にヘンテコなお絵描きをした不機嫌そうなアウトローが運転席に座っている。かつて「お帰りなさいませ、ご主人様♡」と温かく迎え入れてくれたメイドたちは路上でミニスカートを翻し、甘ったるい猫なで声で通行人の袖を引く。その姿はもはや、悪趣味なコスプレイに身を包んだ立ちんぼとなんら変わりはない。強引な再開発によって聳え立った無機質なオフィス・ビルにはエリート然としたいけ好かないサラリーマンが忙しなく出入りし、路上では物見遊山中と思しき白人のアベックがアニメイトから微かに漂う酸っぱい匂いに顔をしかめ「こ、これがOTAKU…HAHAHA」と失笑を漏らす。
確かに、現在の街並みを注意深く観察すれば、かつてと同じような、冴えない挙動不審の若者の姿を認めることはできる。しかし彼らからは、あの頃のオタクたちが放っていた狂おしいほどの熱気が微塵も感じられない。
そこにいるのは徹底的に去勢された人畜無害なNPCだ。彼らは過剰な商業主義に塗りつぶされた街の中で、客引きのメイドやキャッチの視線を器用に避け、できるだけ景観を乱さないように、ただ俯いて歩いている。
この異様な光景は一体なんだというのか。呆然として歩道に立ち尽くしていると、私に気づいたメイド姿の少女が「お兄さん、メイドにゃんにゃんどうですか~♡」と勧誘してくれた。メイドにゃんにゃんには少々興味があったので振り返ると、その腕には「おっパブ30分10000円 ヌキありだぞっ♡」という意味深なフリップが抱えられていた(あらゆる意味で、この文章は刺激が強すぎた)。
そこで初めて私は理解する。この街は本当にイカれてしまったんだ、と。
教養主義の没落とオタクの死
現在の秋葉原の惨状を少しはご理解いただけただろうか。ここで一つの疑問が生じる。あの頃、秋葉原の豊かな生態系を謳歌していたオタクたちは、一体どこに消えてしまったのだろうか、という問いだ。
この問いは二つの問題に分解することができよう。ひとつは、「かつてのオタクがどこへ去ったのか」という問題。もうひとつは、「なぜ次世代のオタク候補が徹底的に去勢されたカスチンポにされてしまったのか」という問題だ。
まず前者の答えは残酷なほどに単純明快で、すべての人間は等しく歳を取るということだ。子供が永遠にネバーランドに居座り続けることができないのと同様に、かつてのオタクたちもまた、永遠に秋葉原の住人でいることは叶わなかった。彼らのうち何人かは無事に二分の三成人式を迎えて社会的有為な人材となり、何人かは過酷な自慰行為が祟りテクノブレイクでこの世を後にしたのかもしれない。しかし大多数は、いまや「弱者男性」と名前を変えて、職業安定所か精神病棟か、あるいはその両方のお世話になっている。
我々に彼らを救うことはできない。オタクがオタクでなくなるのは不可逆的な作用であり、かつて有していた迸る臭いパトスが決して復活することがないのは、熱力学第二法則のなんたるかを学習した理系諸氏なら容易に理解できるはずだ。要するに、子供部屋という孤立系においてエントロピーは増大の一途を辿り、彼らの内なる情熱は不可逆的に散逸してしまったということである。私はただ、一人の役者がまた舞台から去ってしまったことを残念に思うのみだ。
一方で、後者の問題――すなわち『なぜ次世代のオタク候補が徹底的に去勢されたカスチンポにされてしまったのか』――に関しては少々複雑である。これについては、まず教養主義の没落から紐解かねばならない。
かつて、社会におけるオタクの扱いは、原義のカースト制度における不可触民に等しいものがあった。しかし、彼らは圧倒的な知識と作品への偏執的な愛情を有しており、一般人もまた、その深遠な知識量に対しては一定のリスペクトを払わざるを得なかった。その意味で、「オタク」という呼称は忌むべき聖痕であると同時に、それが名誉か不名誉であるかはさておき――選ばれし者であることを示す特権的な記号でもあったのだ。
彼らの多くが、現在の基準で言うところのASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠如・多動症)のような特性を抱え、他者とのコミュニケーションに困難を感じていたことは想像に難くない。その孤立した魂が知識の集積に救いを求め、秋葉原に独自のゲットーを形成する様は、さながら「知のユダヤ民族」とも呼ぶべきであっただろう。当時のオタクたちがどこまで自覚的であったかは定かではないが、彼らは世間の冷笑を跳ね除けるだけの、強固な選民思想と矜持を備えていたのである。
少し考えてみてほしいのだが、我々――20代前半の若者と措定しておこう――がまだ小学生の時分、つまり00年代後半から2010年代前半にかけて、上記のような特性を持つ潜在的なオタク予備軍に限らずとも、他分野にわたる幅広い知識を持つ者は「ハカセ」等の贅沢な渾名をつけられ、一種の称揚に与ってはいなかったか(恥ずかしながらこれは私の話だ)。そこには間違いなく、情報へのアクセス難易度により担保された「教養」への憧憬が存在していた。我々の世代は、知識を得るために書物を紐解き、インターネットの海から真贋を見極めて正しい情報をサルベージするという、知的身体性を伴う学習体験を無意識的に享受できた最後の世代だったはずだ。
しかし、スマートフォンの登場がそのような風潮を根底から塗り替えた。多感で知的好奇心に満ちた中高生あるいはませた小ガキにそれが買い与えられるようになると、インターネット及びSNSは急速に大衆化し、そこは能動的に情報を探究する場としての広大な海洋から、受動的に情報を受容するだけの矮小な揺籃へとなり下がった。
その結果何が起こったのかは、読者諸氏も肌身で感じている通りである。
情報の価値は、その深さや正確性ではなく、アルゴリズムという名の神託にいかに適合し、アテンション・エコノミーの中でどれだけのインプレッションを稼ぐかという一点に集約されるようになった。手間暇とコストをかけた良質なコンテンツは、タイムラインを猛スピードで流過する、咀嚼されたファスト教養モノや文脈を無視した切り抜き動画の濁流に飲み込まれていく。
我々は今や、自らの牙で事実を嚙み砕くことを忘れ、アルゴリズムという親鳥が差し出した吐き戻しを、嘴を広げて待つだけの雛になり下がった。そこにあるのは知的な摩擦のない、ただ飲み込むだけに加工された情報のペーストだ。その結果我々は、もはや数分前に見た動画の内容すら覚えていないという、深刻なインターネット性健忘症に罹患しつつある。
実際、私がこの魔法の板を10年ほど弄することで得た実用的な知識といえば、せいぜい「Hey guys! We have a gift for you. 」という卑猥な英文を淀みなく暗誦できるようになったことくらいであろう。知識はもはや、自己を形成する骨肉ではなく、その場限りの刹那的な消費財へとなり下がったのだ。
そして、VTuberというインターネットキャバ嬢の登場により、オタク予備軍たちは完全に去勢されてしまった。ふにゃふにゃのカスチンポにされてしまった。
VTuberが提供する双方向の疑似的なコミュニケーションという麻薬は、孤独ゆえに研ぎ澄まされていた彼らの探求心を、安直な承認欲求の充足へと差し向けた。かつて、作品の解釈や技術的考察に費やされていた情熱は、コメント欄に草を生やし、スパチャという名の重税を納めることで得られる認知の快楽へと昇華されていく。
この点に関して、一階堂洋氏が『リアリティーショーを批判しているオタクもVTuber見てんじゃん』において、視聴者の当事者意識の変容を指摘した考察は極めて示唆的である。氏によると、VTuber黎明期においては、確かに「キャラクターの完全性」が担保されており、そこには牧歌的なコミュニティが形成されていた。それはオタクたちを収容する新時代のプラットフォームとなるポテンシャルを秘めていたのである。しかし、生配信によるエンターテイメント性の向上と、スーパーチャット導入による露骨な商業化がその平穏を切り崩した。VTuberが自らのエゴを切り売りし始め、双方向のコミュニケーションという美名のもとに金銭的なやり取りが加熱した結果、そこはもはやキャバレークラブと判別のつかない不健全な空間へと変貌を遂げてしまったのだ。
現代のオタク予備軍はリアルタイムで反応が返ってくる生身の虚像との共依存関係に陥り、かろうじて残存していた社会性や、外部世界を批判的に見る知性さえも剥奪されてしまった。彼らのリビドーはもはや作品の核心へと向かうことはなく、画面の向こうに佇む「ガワ」に飼い慣らされた、矮小な自己満足に収束していく。
彼らがいかに飼い慣らされているかは、クリスマスに何度チキンを冷まされようが、兎田ぺこらの配信枠に律儀にも廻り集いて回帰してくる悲しきモンスターたちを見れば容易に理解できるだろう。私のことだ。ぺこ~らいつもありがとう。ユニバーサル大回転ぺこぺこの舞☆
かくして、かつて秋葉原の路上に跳梁跋扈し、異様な熱気を放っていた気持ちの悪いオタクたちは、それぞれのおうちに引き籠ることとなる。アルゴリズムが最適化してくれた心地よい情報の檻の中で、彼らは幸福な去勢者として生きる道を選んだのでしたとさ。めでたしめでたしと。
そして、サブカルチャーの主体たる座をやすやすと明け渡した2020年代の我々は、侵略者による反吐の出るようなムーブメントを目の当たりにすることとなる。
そう、「推し活」だ。
何が「推し活」だ。くたばれ
推しが燃えた。だからどうした
推し活?極めてクソみたいな響きだ。根っからの博愛主義を標榜する私でさえ、この薄っぺらい言葉には生理的な嫌悪感を覚える。サピア=ウォーフ仮説は「使用する言語が思考を規定する」という言語学の分野では余りにも有名な学説であるが、流石のサピア先生とウォーフ先生もライブラリに「推ししか勝たん」「エモい」「メロつく」という数語のプリセットしか有しない極東のカスどもの存在を想定することはできなかったはずだ。そこには言葉によって世界を分節しようとする知性の残滓すら見当たらない。これはあくまで科学の敗北であり、彼ら/彼女らに罪はない。というかそもそも「エモい」ってなんなんだ。えも言われぬの略か?
もちろんこの主張に対しては、かつてのオタクの「萌え~♡」と何が違うんだという反論もあろう。うるさい。グリフィンドールからマイナス10点。
そもそも「推ししか勝たん」などという盲目的かつ無批判な態度は、先人が血反吐を履きながら連綿と築き上げてきたサブカルチャーという名の肥沃な土壌に対する厚顔無恥なフリーライドに他ならない。そこに「萌え」との決定的な隔絶があると言えよう。「萌え」という言葉には、その対象に対する独自の解釈や、社会との断絶を埋めるための倒錯した情熱、あるいは報われぬ愛への自覚が込められていた。対して現代の彼女らは、そこにある作物をあらかた食らい尽くし、跡を濁すだけ濁して去っていくイナゴの群れだ。コンテンツはもはや、彼女らが界隈とやらで仲良しごっこを演じるためだけの安価な消耗品へとなり下がった。かつての流行語――例えば「ンゴww」が、楽天の救援投手ドミンゴ・グスマンのある意味喜劇的な炎上を起源とする、文脈への深い理解を前提とした隠語であったことを、果たして今の女子高生の何人が知っているというのか。「チャッピー」や「ギュられる」といったウィットに富んだ造語群も、いずれ彼女らが発明し流通させたものとして歴史が改竄されていくのだろう。文化的堕落は、常にこうして無知なマジョリティの無邪気さによってもたらされる。
さらに耐えがたいのは、かかる低俗な人種が「オタク」という呼称を気軽なファッション感覚で名乗り始めたことである。この忌み名は、かつて世間から迫害され、社会の周縁に追いやられることを覚悟した者たちが、それでも捨てられぬ「業」を背負って自嘲気味に掲げた十字架であった。そもそも、その由来を調べれば明らかなように「オタク」というのは二人称であって、決して自ら進んで名乗るような類のものではない。20年前に「わたしって意外と『オタク』なんだよねwww」などと口にしようものなら、即座に秋葉原の歩行者天国に放逐され、便所の肥やしとなっていたはずだ。これだけは言わせてもらいたい。お前らは商業主義とアルゴリズムに踊らされているだけのクソみたいなマリオネットに過ぎない。自分の頭で考えることを放棄した所詮レイトマジョリティ共が人生謳歌してます!みたいなキラキラ感出してくるんじゃねえよダボハゼが。
私としたことが少し冷静さを欠いていた。文体を戻す。
だが、やはり「推し活」及びそれに盲従する群衆を私は到底許容することはできない。少し考えてみれば分かることだ。
君は慶應義塾大学経済学部経済学科という学位記生産工場の冴えない3年生で、ゼミがたまたま一緒だった倉庭恋々果さんという指定校推薦で入学してきた超絶美少女ギャルとありがたくもLINEを交換できたとしよう。彼女はenfjという謎のアルファベット4文字をインスタのプロフィールに書いていて、ことあるごとにマクロ経済学の課題の答えを聞いてきて(なぜか彼女は初歩的な偏微分すら理解していない)、26cmのカリ高チンポを持つ東大理系院生の彼氏がいる、と仮定する。
6月の珍しく晴れた日、君は図書館のラウンジで『ヨスガノソラ』を視聴しているところを偶然通りかかった倉庭さんに見つかってしまうが……
「え、ピザオ君アニメ好きなんだ!実は……私もなんだ」
えっ!?倉庭さんってアニメとかバカにしてると思ってた……アニメ好きならもしかして攻殻機動隊とk
「実は私めっちゃ『オタク』でさぁ〜!よく見るよ!呪術とかチェーンソーマンとか!」
「最近だと……超かぐや姫とか、めっちゃ良かったよね!特にかぐやちゃん!彩葉ちゃんとのやり取りが『てえてえ』かった!でも私、やっぱり乃依くんが『推し』かなぁー」
超かぐや姫、ですか……まあ拙者の場合アニメ好きとは言っても、メタSFとして鑑賞しているちょっとした変わr
「ピザオ君はだれが『推し』なの??」
女に手を上げてはいけないという騎士道的制約条件がある場合、君ならどうする。
おそらく私は何もできない。だってギャルって怖いんだもん。
潔癖化するポストモダン
『アクタージュ』の原作者であるマツキタツヤ氏が、別名義での活動を巡って再び炎上している。この騒動が露呈させたのは、作者の人格と創作物を切り離して享受することのできない人間がかなりの大多数を占めているという、本当にどうしようもない事実だ。小山田圭吾氏が悪質ないじめに手を染めていた過去が、彼の楽曲や音楽性を否定する理由にはならないように、たとえ犯罪者や倫理的欠陥者の手によるものであっても、作品自体の価値は独立して存在するはずである。このような態度がコンテンツに対する誠実な向き合い方だと私は信じているし、実際、かつてのオタク文化には作品との一対一の対話を可能にするストイシズムが根付いていた。
しかし、サブカルチャーの大衆化と「推し活」の蔓延がもたらしたものは全くもって逆の風潮であった。現代におけるコンテンツ消費の主流は、製作の背景や作者の属性にまで過剰な想像力を及ぼす「背景の鑑賞」へと変質している。犯罪者が生み出したというその事実が、作品の価値を即座にゼロ、あるいはマイナスへと転落させる短絡的な道徳観が支配している。これは「推し活」従事者のマジョリティを担う若年女性特有の潔癖な被害者意識が、最悪な形で表出した結果といえるかもしれない。あらかじめ断っておくがこれは決して女性蔑視ではない。両性の生物学的・社会的な特徴について議論することを直ちにジェンダー論の文脈に結び付けるのは短絡的思考の極みであり、言ってしまえば悪いがバカかフェミニストのすることだ(フェミニストという集合はバカという集合に包摂されているため、これらを並列するのは紙幅の無駄遣いではないか、という批判は的を射ていない。なぜなら全てのフェミニストは決してバカなどではなく、救いようのないクソバカだからだ)。事実として、この潔癖な被害者意識が文化的な豊かさに寄与した例を私は寡聞にして知らない。
話が逸れた。現代の大多数の人間にとって、コンテンツをコンテンツとしてそのまま消費することはもはや不可能であり、むしろそこに介在する人間性を消費することに終始している。とある識者によれば、SNSの登場によってインターネットは「緩い漫研の部室化」し、作品そのものの強度よりも、それを介したコミュニティーの調和が最優先事項となったという。本来、議論というものは、ささやかでその場限りの対立軸を作ることを含む知的な営みであるはずで、単なる同意と個人の感想をぶつけ合うことは野生動物の毛づくろいと何ら変わりはない。しかし、SNSの発達はこの毛づくろいを加速させ、議論をダンシング☆フィーバーナイトさせた。結果として、作品を深く読み解く能力は著しく低下し、内輪向けのメタネタに終始する作品が増えるという悪循環に陥っている。彼ら/彼女らにとって重要なのは、自分の「推し」や「推しカプ」が予定調和に画面の中でキャッキャウフフしていることであり、衒学的なディテールや、難解なストーリー、物語的必然性によって生み出される人間関係の摩擦などはノイズでしかない。それらはしばしば「解釈違い」という決まり文句の下に排斥される。
あらゆる表現は陳腐化し、臭いものには蓋がされ、作者の強烈なエゴも公共の福祉の名において封殺されていく。作品は個性を失って漂白され、アニメーションは単にキャラクターを愛でるための都合の良い舞台へとなり下がる。我々はキャラクターや、画面越しのアバターや、あまつさえコンテンツの創作者までをも、作品の構成要素ではなく消費可能な個人として勝手に切り取ってしまっている。
本邦においてこのような風潮が取り返しのつかないレベルで蔓延していることは、この世に存在するあらゆる仕事の中で最も高い職業倫理を持つとされる日本のマスコミが、今をときめく「りくりゅうペア」に対して投げかけた卑俗な質問の数々を見れば簡単に察せられるというものだ。世間はもはやアスリートとしての技術に興味関心はなく、その背後にある関係性という物語を自分たちの望む形で消費したいだけなのだ。
この章の最後に、かなり話を戻す。そもそも本稿は『超かぐや姫!』についてのレビューから始まったのであった。もちろん、山下清悟氏は素晴らしいアニメ映画監督で、大多数の受け手が最も欲するものを最も巧妙なマネタイズ手法で提供したことには一定の評価を与えるべきである。しかし、その商業的な大ヒットをもって、日本のサブカルチャーが完全に息絶えたことを証明し、その荒廃を決定的なものにしてしまった。そういう意味で、この映画は製作されるべきではなかったと私は考えている。あと忠犬オタ公には本当にチンポを見せて欲しいのですが。
おわりに
血をもって書け
長々と駄文を連ねてきたが、結局『超かぐや姫!』を楽しむことのできなかった悲しき天邪鬼が取るべき選択肢は、「曲学阿世の徒となり無心で『推し活』とやらに従事する」か、「秩序のないこの現代にドロップキックを食らわせる」のいずれかということになろう。
ここまで読み進めておきながら敢えて前者を選ぶ不届き者に関しては特に言うことはない。真理を曲げて世間に阿るというのも重要な処世術のひとつだ。君はおそらくクソみたいなJTCでクソみたいに出世して、クソみたいに結婚してクソみたいに平穏で幸せな家庭を築くんだろう。殊勝なことだ。では問うが、Q.そのように自分の信念や美学を犠牲にしてまで得た地位や名誉が、一体何になるというのだろうか?
A.地位や名誉になる
さて、後者を選んだ生粋の天邪鬼諸氏については、血をもって書く、ということを強くお勧めする。これは特攻志願兵の血書嘆願的な意味ではないし、鷲巣麻雀的なことでもない。いや、鷲巣麻雀は当たらずとも遠からずと言えるかもしれない。違うだろ!冒頭で引用したはずだバカが。
どうやら君たちは深刻なインターネット性健忘症に罹っているようだからニーチェ先生が『ツァラトゥストラはかく語りき』でしたためてくださったありがたいお言葉を再度引用しておく。
"Von allem Geschriebenen liebe ich nur Das, was Einer mit seinem Blute schreibt."
「およそ書かれたもののうち、私はただ、人がその血をもって書いたものだけを愛する。」
"Schreibe mit Blut: und du wirst erfahren, daß Blut Geist ist."
「血をもって書け。しからば汝は、血が精神であることを知るであろう。」
具体的には、次のような取り組みを勧める。
なんでもいいからこのクソみたいな世界に対する煮え切らない怒りを文章にぶちまけてみよう。
自分だけが正しいと信じて疑わない独善的な批評を書いてみよう。
それでも筆が動かないなら、何らかの犯行声明文を綴ってみるのもいい。ただし、それは決して公開してはならない。
こうした取り組みの際、決して「上手に書こう」などと思ってはいけない。レトリックを弄したり、付け焼き刃の知識を得ようと関連書籍を読み漁ったり、ましてや生成AIに頼るなどもってのほかだ。
本稿において、私は偉そうにオタク文化の終焉についての評論をしたためてきたが、前段で画像を上げた『教養主義の没落』はおろか、『動物化するポストモダン』も『オタク・イズ・デッド』も『ディスタンクシオン』も読んでいない。勿論これから読むつもりも全くない。それでよいのだ。そもそも高名な著作の権威を借りることが優れた評論の条件であったことなど一度もない。自分が無知であることを、あるいは正解から逸脱することを恐れるな。確かに、LLMはあらゆるデータから網羅的・効率的に学習する。だが、そのアウトプットは常に凡庸で平均的なところに落ち着くだろう(経営者やビジネス界隈のブルーバッチ共がタイムラインに垂れ流す、AI製と思しき含蓄ゼロの電子ゴミを見よ!)。そこには決して既存の枠組みを破壊するブレイクスルーなど、万に一つも起こり得ない。……少なくとも、ASI(人工超知能)が登場するまでは。
反対に、我々人間はあらゆるものから網羅的に学習することなど「できない」。その致命的な不完全性こそが、すなわち限られた素材から全身全霊で絞り出す偏った出力こそが、我々の最後の存在意義なのではなかろうか。血をもって書け。心臓を捧げろ。俺たちに残されているのはもはや体系化された知識などではない。偏愛だ。狂気だ。妄執だ。そういうバグみたいな感情を全部ごった煮にして濃縮して還元して抽出される「これを書きたい」という剥き出しの意思こそが、人間に残された最後の聖域なんじゃないのか。のたうち回り、苦しみながらも綴らずにはいられなかった思いの丈が、怪文書に込めた情念が、この狂ったクソキモい時代において我々が示すことのできる最後の抵抗であり、突き立てることのできる唯一の中指なのである。
余談:残念だがエヴァ完全新作はこうなる
去る2026年2月23日、Twitterに衝撃的な一報が放たれた。『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』にて文字通り終止符を打ったはずのエヴァンゲリオンシリーズであるが、その完全新作シリーズが製作されることが発表されたのである。
これに関して、正直言いたいことは腐るほどあるのだが、紙幅の都合上、次回以降に譲ることにする。
ここでは、エヴァンゲリオン完全新作の予告がどのようなものになるかひとつ予想をして、本稿の締めとさせていただきたい。
うっふ~ん♡♡♡ミサトよォ~ん♡♡♡
ゼーレより突如発表された、第一回NERV所属VTuber総選挙。
勃発する、惣流派と綾波派の醜いスパチャ合戦。
「推し」を勝たせるため、生活を破綻させるサードチルドレン……
果たして、愛の深さは札束の厚さでしか測れないのか。
『EVANGELION:30+』 第壱話 ゲンドウ、受肉
さぁて新作も…サービス、サービスぅ♡
やはりこの世界は間違っている。それとも、私が間違っているのだろうか。



感涙しました。勇気をありがとう
アニメじゃなく、アニメーション(魂を吹き込む魔法)おたくです。1930年代の破壊と毒素に満ちたディズニーアニメーションが大好きです。超かぐや姫はその末裔です。 ところでエヴァって何?
すばらしい文章力。ここまで話を広げるのは才能です。