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楽園喪失(槍弓)/Novel by 湯屋

楽園喪失(槍弓)

36,002 character(s)1 hr 12 mins

久々に筆を取ったら手癖をすっかり忘れていて、思った以上に時間がかかってしまいました…
前回花吐き病を書いたので、今回も何かありふれた物を書いてみたいと思い、オメガバースに手を出してみました。
相変わらず私設定の嵐ですみません…好き勝手にオメガバースした結果が、この長さですよ!!
難産ではありましたが、筆が乗りました…思うままに書けて楽しかったです。
他に狂王黒弓と、今回は以龍成分も含まれておりますのでご注意下さい。あとはちょろっと、魔王信長と沖田オルタちゃんという異色も。
こんなに長文を書いたのは久々なので、何か可笑しな所があったら指摘して下さると助かります!

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楽園喪失



人理が崩壊してからというものの、まるで世界の常識までもが崩れ落ちてしまったかのように。ここでは日々、あり得ないような事ばかりが起きてしまう。
ぐだぐだ粒子だの、エリザ粒子だの、チョコレート粒子だの。本当にまるで意味が分からない。このカルデアに居る者にしか分からない常識ばかりが増える。
だから、この展開ですらも、ここではあり得てしまうのだろう。だからそんな、ある意味いつもの事件が起きてしまうのも。決して不可思議ではないのだ。

「おはよう、エミヤくん。今日の朝食を頂けるかな?」
「おはよう、坂本君。今日の私のメニューはぶり大根定食だがよろしいかな?洋風ならキャットのオムライスがあるが」
「ぶり大根…!あぁ、ごめん、僕とした事がつい、取り乱してしまった…是非それを頂きたいのだけれど」
「ふ、お気に召してもらったようで何より。待ち望まれるというのは、作り手にとっては有り難い物だ」
「おーい、お竜さんも忘れるな赤い人~カエル定食はどうした?」
「あぁ、おはよう、お竜さん。そちらは確か、先ほどキャットが作っていたから少し待ちたまえ」

よくある光景、ここでは見慣れて見飽きてしまった光景だろうが。記憶に遠い幼い己にこの未来を告げた所で、果たしてこれを真実だと実感できるだろうか。
あの、教科書でよく目にした維新の英雄に。まさか己が作り出した朝食をご馳走するなどと。まさに信じられないような光景だが、ここではそれが日常で。
今日は私が食事当番であると、誰かから聞いたのかもしれない。きらきら期待に満ちた目で、その海兵のサーヴァントは今か今かと朝食を待ち望んでいる。
期待してもらえるのは純粋に嬉しい事だと。彼の分と、彼女の分の朝食を用意して。いつものようにそれを手渡す。そうしてそれを眺めるまでが私の日常だ。

「――うん、美味しい!美味しいねぇ、お竜さん」
「うむ、ここのカエル料理は中々だ。生でそのまま食べるのもいいが、こういう創意工夫も馬鹿に出来ないな。ニンゲンというものは」
「キャットさんに感謝しないとねぇ…いやでも、彼女は人間、っていう括りでいいのかな…いや、ここではそんな事些細に過ぎないか」

出身の与り知らぬサーヴァントである私ではあったが、ここでは古参なのもあり。また随分と長きに渡って調理場を預かってしまったからか、信頼は大きい。
特に和食の腕を認められ、日本出身のサーヴァントとは良好な関係を築けていると思う。やはり同じ国出身の英霊を前にすると、私も冷静ではいられなくて。
ついつい、リクエストを聞いてしまったり甘やかしたりしてしまうのだ。身に沁みた名前を口にする度に、なんとも得難い感情に満たされては笑みを零す。
ここでは自らの出自について悩むのも馬鹿らしいくらい、あり得ない日常が地続きで。だからこそ私は、英霊として一番穏やかで居られた場所のように思う。

(まぁ、掃除屋以外で喚ばれる事の方が珍しいからだが…、…無数にある記録の中で、こういった日々の事だけが深く刻まれてくれればいい)

瞳を閉じて、宙を仰いで。生身の人間がするような、思い出を振り返る、ような事は英霊の身には出来ないから。瞳の裏に思い描く景色は何もない。
それでも擦り切れた無数の記録の中に、それでもいくつかの本が積み重ねられる。それは確かに、この身に起きた奇跡のような召喚の日々。
それは故郷の冬木での記録だったり、または遠いどこかの電子の海での記録であったり。その記録だけを頼りに、この身はまだ駆けていけると息を吐けば。


「――っ!!」
「おい、どうした!?リョーマ!?」
「っ!おい、どうした!?」


がしゃん、一際大きな音が鳴り響いて。意識をそちらに向ければ、床に蹲り苦しむ維新の英霊の姿がそこにあり。並々ならぬ異常を察する。
調理場を抜け出し急ぎ駆けつければ、彼は己の身を守るかのように両腕で強く抱きしめ。触れればその身は何て熱く、けれど寒いのか震えている。
一体何が、どんな異常がと、考えるよりも先に体が動く。その、向けられた多数の視線にゾクリと背筋を震わせる。向けられる視線の、何て鋭利な事。

「っ、皆、どうした――!?…、…いや、待てよ…?っ、この感覚は、身に覚えがある…!何だ、何だというんだ!?ッ、記録、確かにどこかに記録が」
「ッ、なんだ、お前ら――!!お竜さんのリョーマを見るな…!そんな、そんな発情した目を向けるな!!アァ、ナラバ、コチラガ――!!」
「…、…発情…?――あぁ、確かにこの、視線、は…」

蹲り酷い熱に犯されたその表情に、どこか既視感が蘇り。何だ、何だというんだ、私は一体何にデジャヴを感じている?そこに蹲る彼に、一体誰を重ねて。
さっきまで日常の1シーンだった食堂には、当たり前のように多くのサーヴァント達が居て。その多くが、こちらをまるで獲物を見る目で見つめているのだ。
だが仮にも英霊だ。それが自らの意志ではないこと明らかで。だからこそ必死に、その激情に耐えている。身を委ねないよう、必死に。だが視線は雄弁で。
そう、その射貫くような視線は――確かに、発情した獣そのもので。その全ての視線が、この維新の英霊に向けられていて。これは、この既視感は。


「――あぁ、これは、まさか、」
『皆、緊急事態だ。落ち着いて聞いてほしい。今現在、全てのサーヴァントに身体的異常が現れている。皆、決してそれに身を委ねないよう』
「っ、聞こえるか、ダ・ヴィンチちゃん。私はこの異常事態、身に覚えがある。これがあれの再来なら、恋仲状態や夫婦状態のサーヴァントは決して離すな」
『その声は、エミヤかい?対処法を知っているのなら、助かる。分かった、言う通りにしよう。そして急ぎ、私に説明してほしい』
「あぁ、分かっている。これは恐らく“オメガバース”だ。そうしてどうか――抑止の代行者を全て、同じ部屋に。そして決して、誰も入れぬような結界を」


彼の身から発する、甘すぎる香りに身に覚えがある。そうしてその熱に魘された状態、向けられる下賤な視線。それは、第二の性が備わったという現状で。
カルデア内に響く声に、急ぎ通信を繋ぎ現状を理解する。今全ての場所で、同じ熱に浮かされているサーヴァントで溢れている。ならば自らが為すべき事は。
一つしかないだろうと、その熱い身に肩を貸し立ち上がる。歩くのも辛いだろうが、少しばかり我慢して欲しい。そうして今にも暴れそうな彼女を牽制して。
何かあればすぐに臨戦態勢に移れるよう、囁き慣れた言葉を呟きながら。ぐったりと項垂れる彼を守る事が何より先決だと、ここを一刻も早く離れなければ。


「――君の言う通り、恋仲の者や夫婦である者たちは同じ部屋で待機してもらっているよ。こちらは比較的落ち着いているようだ。問題は」
「あぁ、それ以外の多くのサーヴァント達だろう?そうして恐らく、一番酷い状態なのは…ここに集められている彼らだろう」
「そうだね、君の言う通りだ。かくいう私も、その噎せ返る香りに本能が揺らぎそうになるんだけど…これは一体、どういった異常状態なんだい?エミヤ」
「私の知る記録通りなら、これは――“オメガバース”という状態だな。恐らくはここに居る全ての者に、第二の性が付加されてしまったのだろう」

ソファに横たわる者、床に蹲る者、椅子に座り震える者――様々居たが、皆が一様に同じ熱に浮かされているのだろう。何も出来ない自分が歯痒いけれど。
それでも、何より今は一番ここが安全なのだ。彼女の工房が、私がドア前を抑えている現状が。本来なら多くの術師達に結界を施してもらうべきなのだろう。
だが今は、隔離が先決で。何より全てのサーヴァントが身に余る熱を持て余しているだろうから。出来る事といえば、咄嗟に私が花の盾を展開するくらいか。
未だそれを張らずに居れる事に安堵しつつ、けれども決して気の許せない状況に。遙か遠く置き去りにしたその記録を、座の書庫から必死に手繰り寄せ。

「オメガバース…?第二の性…?私の知らぬ知識だね、何なんだい?それは」
「数回、それを常識とする世界線に喚ばれた事があってな。俄かには信じられないだろうが、その世界には男女以外にもう一つ、性が存在していたのだ」

男と女――この世界では、性別といえばその二つのみが存在していて。いや、ここでは精神的性別や特異な身体を除きあくまでも常識を述べるならば、だ。
しかし私が以前喚ばれた世界では、その他にもう一つ。オメガバースと呼ばれる、α、β、Ωという3つの性に更に区分されていたのだ。
平坦平凡な数多くのβと、一握りの優秀な逸材αと、そうしてこちらも稀だが――生殖機能に優れたΩという。それはある意味差別にも近い世界だった。

「つまり、あらゆる意味で優秀なαではあるが、著しく繁殖機能に劣っていると…そうしてまるでそれを補うように、Ωという性があるんだね?」
「あぁ、私の知る限り、Ωは生殖機能に特化しており。女性でも男性でも子を宿す事が出来た。だが半面、ヒートという酷い発情状態に悩まされる身でもある」
「その、ヒートという状態が、今の彼らの状態に酷似していると…?…あぁ、確かに、言い方は悪いが、全身で誘われているようだ。無意識だろうと、ね」
「噎せ返るようなこの甘い香りこそが、ヒートであると私は確信している。あぁ、君も見る所αなのだろう。辛いだろうが頼む、彼らのためにも耐えてくれ」
「それはまぁ、ね?同意でないのに、そういった行為に及ぶ程猿ではないつもりさ、これでも。だが、なるほど、これは中々…辛いだろうね、彼らが一番」
「青天の霹靂だろう、彼らにとっては。キャスター達が回復したならばすぐにでも抑制剤の開発に取り掛かってほしい。それまでは暫く、私が彼らを預かろう」

英霊という存在である以上、ここに居る多くのサーヴァントはαと認定されているはずだ。そうして逆手に取り、多くの職員達はβと認識されるだろう。
だから問題は、Ωである事を決定付けられた彼らの身だ。そこには自分と同じ抑止の守護者と呼ばれる者達が、突如襲った熱に浮かされ喘いでいる。
抑制剤がない状態で、その熱を持て余すのは辛かろう。だがもう暫し待って欲しい。その身はこちらが何を以ってしても守護し庇護すると誓うから。

「英霊という存在上、多くがαだというのは納得できる。皆何かに特化した、優秀な人材であるからだ。だが、だからこそ、“彼ら”が分からない。そして、君も」
「…まぁ、当然の反応だろうな。だがまぁ、理由は憶測出来ても、これといった答えを私も持たないのだ。私がそうだったから、としか答え様がなくてな」
「君自身、が…?…いや、確かに君からも、微かに甘い香りがする。だが、意識しても本当に微かに、だ。それもまた、何か事情が…?」
「んん、まぁ、それを説明するのも聊か特異な事情があって、としか言えないのだが…あぁ、そうか、番の説明を忘れていたな」
「番…?言葉通り受け取るならば、君が恋仲や夫婦である者たちを離すな、と言った事と関係があるのかな?」
「あぁ、その通りだ。番はまさしく、契約だ。婚姻以上の、本能での結びつきと言ってもいいかもしれない。恐らくもう、番になっている者も居るだろう」

何が何だか分からぬまま、それでも魂のまま惹かれ合った者たちならば。自然と番になって、第二の性の煩わしさから解放されて落ち着く者も現れるだろう。
それをこそ、待っているのだ。その営みをさすがに覗くわけにはいかなかったから、少しの猶予を与えるしかこちらには出来ないけれど。
ここにはあらゆる運命を乗り越えて、心寄せて繋がっている者たちが少なくはなかったから。そうして番になる者たちには、祝福と祈りを捧げるばかりだ。

「αとΩの間で交わされる、お互いを唯一と決める儀式のようなものだ。その契りを結べば、Ωは無差別なヒートを起こさなくなるし、αも惑わされなくなる」
「あぁ、なるほど…だから離すな、と言ったんだね?確かに、バイタルが落ち着いてきているサーヴァントが複数いるね。どれも皆、相手がいる者たちだ」
「ならば一旦、彼らは安心だと言えるだろう。監視状態を解いていい。もしかしたら番いたいがために、Ωに変貌していた者も中には居ただろうが」
「ん?…あぁ、本当だ、君の言う通りだ、エミヤ。ここの彼らと同じような状態の者が、複数確認されているね。でも番になったからか、皆落ち着いているが」
「英霊という存在である以上、全てがαで在るべきなんだろうが…まぁ、その、自分のそれを覆してでも譲れない者が、ここには多く居ただろうからな…」

そういった存在を、見てこなかったわけではなかった。愛する者を、どこぞの知らぬΩに運命として奪われるならば。自らが運命になれという逆転論だ。
相手の唯一になれるのならば、自分の性区分なんて些細な事だ。αである相手を縛り付けるためだけに、自らをΩとする。そういった者も少なくはないだろう。
だが他にも、Ωの特異性を持ったまま優秀なΩとして存在する者も居るだろう。想像するのは、殺生院キアラや、カーマ辺りだろうか。そこも忠告しておき。
そうしてようやく記録の底から絞り出した設計図を元に、手元にその存在を複製する。一人一人の体質を理解するのに随分時間がかかってしまった。

「その首輪のような物は…?」
「…番は、項を噛まれる事によって成立する。それが無理やり踏み躙られる事のないよう、彼らを守るための首輪だ」
「…なるほどね。英霊だからこそ、普通の人間以上の事が簡単に出来てしまう。その尊厳が踏み躙られる事のないよう、こちらも全力を尽くすよ、エミヤ」
「あぁ、頼む、そうしてやってくれ…抑止の守護者は、“世界に尽くす奴隷”という意味合いが強いからか、誰しもがΩと決定付けられてしまうえようだから」

例えどれだけ優秀だろうとも。そう自嘲するように囁き、横たわる皆へそっと優しく刺激しないようその首輪を嵌めていく。少しの刺激すら彼らには辛かろう。
ここには、彼らのフェロモンに反応してしまうだろう者たちが多すぎた。まさに、針のむしろといった状態だろう。私が出来るのは、せいぜいこのくらいで。
一番楽になるためには、私と同じ状態になってしまうのが一番なのだろうが。葛藤する彼らの心を、そっと押すくらいは許されるだろうか。決めるのは、君だ。


「…アサシン、君は…その身を預けてもいいと思う者を、思い浮かべられるか…?いないのなら一先ず、天の杯の傍に居るのが最も安全だとは思うが」
「…っ、そんなもの、僕には、僕、に、は…いないと、分かっている、のに…ここではないどこかに、その運命が居るのだと…悔しいけど体が、叫んでるッ」
「そうか、君にも、運命の番が居るんだな…だがまだここで出会えていないのなら、番う前に事態が落ち着くかもしれない。辛いだろうが、暫し耐えてくれ」

「沖田オルタ、君はそもそも生まれたばかりで、感情の吐露すら覚束ないだろうが…、…誰かに助けてほしいと、思う相手を思い浮かべたり出来るか…?」
「――っ…、…あぁ、私、は…、…会い、たい、あいたい…っ…、…あの、燃えるような、アヴェンジャー、に…どうしてこんなにも、縋り付きたい、のだろうっ」
「燃えるようなアヴェンジャー…?…ジャンヌオルタ、じゃない、あぁ、そうか。魔王信長だな?そうか…ならば後程、私の方から掛け合ってみよう」

「お竜さんは、君の宝具という扱いだから性がないのだな…君がαであったのなら、すぐに番になって落ち着けただろうに…歯痒いな」
「っ、はは、お竜さん、に…そんな事は、させられない、というか…本当は僕にも縛られず、自由に生きてほしい、んだけどね…」
「怒るぞ、リョーマ。それに、もう分かってるんだろう?お前は今、あのクソ雑魚ナメクジを欲している。さっさと跨ってお前の所有物にしてしまえ、何を焦る?」
「あー…はは、なんだ、お竜さんにも、お見通し、なのかぁ…はは、それこそ、同じ理由だよ…以蔵さん、を…僕なんかに、縛り付けたく、ない、でしょ…?」
「…そうか、君がそれを選ぶのなら。私もそれを見守り、支えよう。落ち着くまでは、私の傍に居るといい。少しはそれで和らぐ事もあるだろう」


一人一人、同業である抑止の守護者たちへ声を掛けながら。優しく、そっと、決して刺激しないよう、細心の敬意を払いながら。尊厳を守る枷を首に嵌める。
この無機質な首輪が、彼らの尊厳を、心を、どうかどうか、守ってくれますよう。守るための枷となるよう。心を明け渡すまでは、決して壊れない盾となれ。
そうして最後の一人、始まりは同じでも別の道を辿った自分へ。苦々しい表情をしながら、それでも抵抗する力すら沸かないのだろうその姿に苦笑し。

「お前を守るのは、骨が折れそうだな…こんな枷、いとも簡単に噛みちぎってしまうだろうに、あの茨の王は」
「分かり切っているのなら、決して折れない檻を作れよ、オレ。というより、アンタのその状態は何なんだ?その――空っぽな番は何だ」
「何…?…あぁ、そうか、お前は私だものなぁ…理解してしまうか。まぁ、お前の想像通りと思ってくれて構わんよ。それが答えで構わない」
「き、さま――っ、う…はぁ…ぐ…不公平だ、こんなのッ…アンタもオレならば、同じように、苦しめ――!」
「はは、まぁ、私はもう、想像以上に苦しんだというか…だから、まぁ助言するならば。そのまま身を委ねてしまえば楽になるぞ?私は死んでも御免だがな」

そんな状態になっても、向けられる悪態は変わらないのだなぁと。変化しないで居てくれる己自身に酷く安堵して。そうしてぱちり、最後の枷を嵌める。
私の現状を、唯一正しく把握しているんだろう。まったく、同一存在とは困った者だ。明け渡したくない記録さえ、同じ名の元に流れ込んでしまう。
難儀だなぁ、と思いつつもどうしようもない。そう、俺はどうしようもないのだから――だからこそ、全て諦めて。どうする気もないのだと自嘲し溜息を零す。

「それは…私が聞いてもいい話なのかな?エミヤ」
「ん?あぁ、まぁ、私だけが何故唯一平気なのか、それを説明するには――私には既に、番がいるからだ」
「それは…まぁ、そうでないと、説明が付かないとは思ったが…それは以前、番った相手がここに居るから、それを記録として受け継いだ、ということかい?」
「…少し違うな。私の番は、ここにはいない。いや、人理が崩壊している以上、現状もうこの世界のどこにも存在していない、ということになるんだろうが」
「ここには、いない…?…以前、君はこの第二の性が蔓延る世界線に召喚されたと言ったね?そこで番った相手がここに居なくとも、契約は続くのかい?」
「有り難い事に、な。その時の私のマスターが、魔術師でありながら優秀なαだった者で。番状態になってもらったんだ。その記録が今も持続しているようだ」

同じ姿を、ここで何度も見かけた。あの翻る黒い長髪と、自分の外套にも似た鮮やかな赤を思い描く。その姿だけはきっと、何があっても鮮明に思い描ける。
あぁ、その番を結ぶ時、一体何と言われたんだったか。何か、泣きそうな顔で、叫ばれたような気がするのだけれど――その言葉は、忘れるべき過去だ。
だから記録されず、以前俺は確かに彼女の番だった。その事実だけが不可思議にも、ここまで継続されていて。だから私は、一人蚊帳の外で自由に動ける。

「現状で唯一、自由に動けるのは私だろう。状況を理解し、αを惑わす事はなく、同じΩを落ち着かせる事が出来る。だからどうか、私を使ってくれ」
「使う、とは、一体何に…?」
「この現状を打破する駒としてだ。恐らくは特異点が発生するだろう。動けるサーヴァントは数少ないし、抑制剤の開発にも勤しまなければならないしな」

何よりその性状態を理解している。恐らくマスターですら知らないだろう。発生した特異点を修復するには、自分が何より有効策であると名を売っておく。
逃げられないとは分かっているが、忙しなく動き回っていれば次第に落ち着くだろう。そう、今は信じるしかない。何より最優先すべきを誤ってはいけない。
まずはキャスター達に抑制剤の作成を、そしてΩ達を隔離するための部屋に強固な結界を。それは彼らの心が自ら許した相手にしか、開かない扉だから。
他の誰にも開けさせてはいけない。優秀な英雄が多いとはいえ、どこで過ちが起こるか分からないのだから。過ちばかりの身を持って思い知っている。


「特異点が発生したのならば、すぐにでも呼んでくれ。赴くサーヴァントは番状態で安定した者たちで在るべきだ。そうしてまずは、彼らの庇護を頼む」
「あぁ、回復したキャスター達に声を掛けてみるよ。勿論、この私も助力を惜しまない。このカルデアで、心の過ちなど起こさせて堪るものか」
「それは心強い。あぁ、あと、激情を持て余すαが多く現れるだろうから。発散のためにも戦闘シミュレーションをフル稼働させてやってほしい」
「はは!なるほど!ここは戦闘狂が多いからねぇ、うん、そういう事ならフル稼働を許そう。それで発散してくれるのなら、こちらも有り難いしねぇ」


すべき事は多くある、だからまずは一つ一つ着実に片付けていかなければ。全てを一気に終焉へ導くような才能を私は持たないから。地道に進むしかない。
一歩一歩、何、我々にはあのマスターが付いている。彼女がそこに立つのならば、皆が手を差し伸べるだろう。解決へとその身を貸すだろう。
勿論この身もだ。だから一番の懸念は――その視線をこそ、どうのらりくらりかわしていこうかと。そればかりが私の頭を悩ませ続けるのだった。


僅かではあるが特異点反応が観測され、レイシフトに備えてメンバーを調整中だ。それと同時に医師や術師のサーヴァント達と共に研究開発も進めていき。
私という研究材料もあったからか、こちらはスムーズに進んでいった。抑制剤ももう少しで完成するだろう。だがそれでもΩ達は強制待機ではあるのだが。
せめて少しは魔力の消費を抑えられるよう、軽い食事を手にそれぞれの部屋を回る。アサシンはαの天の杯と共に居れば少しは落ち着くようだった。
こちらは任せていいだろう。沖田オルタは魔王信長の庇護下に入れたようだし、こちらも安泰だな。だから問題は、残りの二人の存在で。

「――…、…まるで狂犬だな、君も」
「あぁ?…おん、おまんか」
「いや、失敬。見張りをしてくれるのは純粋に助かるよ。これ、坂本君に食事、頼めるだろうか?トレーは後で回収に行くから。それとこれは、君に」
「…やけに用意がえぇの」
「何、きっとここに居るだろうと思ってな。確信はなかったが」

威嚇するような、牽制するようなαのマウントを隠しもせず。部屋の前で、まるで仕事人のようにそこに佇む彼の気配に。少しだけ震える背筋を叱咤して。
Ωであるから仕方ないのだが、こうして一々αに怯えるのも疲れるというものだ。番持ちで助かった。そうでなければ私も、共に部屋の主になっていただろう。
敵ではないと両手を挙げるように、食事のトレーを見せつけて。それと同時に彼に握り飯を手渡す。きっといるだろうと、その予想は当たっていた。
彼らは一体どんな結末を迎えるのだろうか。それは私の与り知る所ではないのだが、双方納得する形に落ち着く事をただ願う事しか私には出来ないのだ

「――狂王、食事を任せてもいいだろうか?」
「あぁ」
「助かる…、…君は比較的落ち着いているようだな」
「こんな物に負ける程、俺は柔じゃねぇ」
「そうか…あれを、よろしく頼むよ。面倒臭さは一級品レベルだが、あれの運命はまさしく君なのだろうから」
「あぁ…お前も程ほどにな」

オルタの私の部屋を訪れれば、現れたのは茨の王で。それもそうかと息を吐き、それはきっと安堵の笑みだった。自然と零れ落ちた言葉に自嘲する。
こんな物にすら惑わされない彼の強さが純粋に羨ましい。私もそう在れたらと強くそう思うのだ。そして手にした食事のトレーを手渡し、信頼を預ける。
するとぽんぽんと、頭を軽く撫でられる。窘められているのか、労わられているのか。そのどちらかもしれないが、それを有り難く受け取って笑みを零せば。


「――っ!!」
「――…、………おい、アーチャー」
「…、…ランサー…」


視線だけで射殺されるかと思った、背筋が震え凍るような視線だった。だがその瞳は、その色と同じ激情を孕んでいる。熱情に支配されている。
あまりに強いそのプレッシャーに思わず膝を折りそうになるが、そんな無様な真似は見せられない。真正面から馬鹿正直に受け止める必要はないのだ。
のらりくらりと、かわせばいい。そういうのは得意だっただろう?それに怯える必要など、どこにもないのだ。私は最早、彼の運命などではない。

「…、生憎オルタの私は、君のオルタが引き受けている。己自身から獲物を奪うなどという不毛な争いをここで仕掛けてみるか?」
「ッ、分かってる癖に、回りくどい言い方をしやがるなぁ?テメェも…俺の獲物はテメェしかねぇだろうが、アーチャー」
「私が…?それこそ、可笑しな事を言うものだな?ランサー。分からないのか。私はもう、既に首輪付だという事が」
「――何…?…、…ッ!」

平常心を装え、欺瞞で全てを塗り潰せ。生憎と神霊に渡せるような物は何一つとてこちらにはないのだ。震える脚を叱咤して、身震いする背を一蹴する。
鉄のように無機質な瞳で相手を見据え、黒い私も赤い俺も貴様に委ねる気はないのだと。いつもの軽口は明らかな挑発となりいとも簡単に彼を煽る。
しかし優位はこちらにある。私はもう、出来る事全てをやり終えた後なのだから。首筋を掴まれ匂いを確認されて、それこそが現実だと突き付ける。

「テメェ――俺以外に運命が居るはずねぇだろうが。一体どこの誰に誑かされやがった…?」
「そんな生々しい殺意を向けてくれるな、みっともない。生憎だが、ここには居らんよ。良かったな、これで無意味な殺人罪を背負わずに済むだろうに」
「何――?…このカルデアじゃないどこかで、俺以外の誰に、その身を委ねたというのか。答えろ」
「――事態を重く見た、どこかの優秀なマスターが。私の失態を見かねて番ってくれたのだよ。これが事実だ。それで満足か?」
「――遠坂の嬢ちゃんか。なるほど、それなら見当が付く。だがそれをおいそれと納得出来るかはまた別問題だろうが」
「…、…覚えているのだな、私の以前のマスターを…、…まぁいい。貴様が納得しようがしまいが、それが現実だ。私はもう、番持ちだ。他を当たれ」

一体その自信は何処からくるのだと、相変わらず私を運命などとほざくその口を縫い付けてしまいたい。呆れるような溜息を吐き、精神を落ち着かせる。
ここに彼女が居なくて良かったと思う、いや、同じような顔ならば存在しているのだが。彼はきっと、いとも簡単に彼女を殺してみせただろう。私を奪うために。
それを止めるのはさすがの私とて手が折れる。いや、比喩で済めばいいような表現だな、これ。しかし一番厄介な問題がこれで解決してくれそうで何よりだ。
彼が何をどうしようとも――私をどうする事も出来ないのだから。早々に諦めて、他に相応しい相手でも見つけてしまえばいいのだ。綻びが露見する前に。

「オイ待て、話は終わってねぇぞ」
「離せ、ランサー。貴様などに構っている暇はない。現状を把握しろ。今はこの異常事態を解決する方が先決だろう。私は何か間違った事を言っているか?」
「――チッ、クソ…、………駄目だ、頭が茹ってやがる…少し、頭を冷やしてくる。だがな、まだ話は終わっちゃいねぇからな」
「何を話す事があるんだ、これ以上…さっさと頭を冷やしてこい。そして二度と私の前に姿を見せるな」

こちらは既に状態異常を免れた身であるからこそ、自由に動ける。だが彼は違う。まだ番を持たないαだ。Ωを前に理性を失くしたとて可笑しくはないのだ。
だから私はここを離れられない。部屋には狂王が居るとはいえ、黒い私とはまだ番っていないようだったし。あれも私だ、過ちが起きたとて不思議ではない。
己を挺して己を守るだなんて、言葉遊びにも程がある。熱情を孕んだ瞳でじっと見つめられ、しかし根を先に上げたのは彼の方だった。余程キツいのだろう。
私の肩をぎりっと強く掴んで、そのまま熱いその身を持て余すかのようにその場を後にした。あぁ、今なら背後からも狙い撃てそうだと、不謹慎な事を考えて。

「――オイ」
「っ、な、なんだ…?と、すまない、煩かったか…?」
「あぁ、アイツが『痴話喧嘩は他所でやれ、煩くて敵わん』だと」
「ちっ…!わげんか、などではないが…、…あー、すまなかった、安静にしていろ」

嵐が過ぎ去りホッとしたのも束の間、いきなり扉が開いてその巨体がぬっと出現する。もう食事が終わったのか?と一瞬過ぎったが勘違いに過ぎなかった。
扉の隙間から中を覗けば、顔は見えなかったが確かに中指だけが天井を向いていて。黒い私の静かな怒りが見えるようだった。さすがに申し訳ない。
私が狂王のαに落ち着けないように、あれもまた槍兵のαに落ち着けないのだろう。ここでする会話でもなかったと反省し、素直に謝罪して後にする。
まだまだやらなければならない事は山積みなのだから。ここで立ち止まってはいられない。一刻も早く現状を解決しなければと、自然駆け足になるのだった。


いつもと同様、微小特異点が発見され。そこはやはり、オメガバースが常識とされた世界で。いつもと同じように、我々はその在り方によって恩恵を受けた。
基本αは、いつものステータスより割り増しして力を発揮出来るようであった。だが番を持たぬαは、Ωの敵に引き寄せられる習性を抑え込むのが難しく。
逆にΩは当然いつもよりかなりステータスダウンしていた。戦闘に参加させなくて正解だろう。例外として番持ちだけはステータスに変化は見られず。
いつも通り戦えるのだが、Ωという性質上敵からの攻撃を受けやすい傾向にあった。つまりはターゲット集中状態か。分かっていれば対処しやすい。

「基本は有利クラスで行くとして、どうしても難しい場合はΩには私のような回避スキル持ち、もしくは回避無敵、防護アップの礼装でも付けるべきかもな」
「うん…番であるαとΩはなるべく同じ編成の方がステータス上昇の恩恵を受けるみたいだし…ごめんね、エミヤ。いつも頼りにしちゃって」
「何、サーヴァントとして当然の事だ、気に病む必要はない。何より、このカルデアで要らぬ過ちを起こさせたくはないだろう。そのためには一刻も早く」
「そうだね…一刻も早く、この状態を何とかしてあげなくちゃ」

特異点で何度か軽い戦闘を重ねた後、すぐに拠点に戻り現状を確認する。同行出来るサーヴァントは限られている。選りすぐりしている時間はない。
番持ちは連戦だろうが何とか耐えてもらい、サンプルになり得るだろう現地の素材をカルデアに持ち帰っては医療チームと技術班に明け渡す。
そんな日々を繰り返していた。カルデアキッチン組も大分人数が少なくなってしまったから、調理もほとんどが己の仕事となった。これくらい何ともない。
駆け回っていれば、余計な事で悩まずに済むからむしろ有り難かった。疲れを知らないかのように走り続けていたら、そのそっくりな赤に縫い止められた。

「――擬態、剥がれかけてんぞ」
「――ッ!!」

鋭い紅き瞳、だがその瞳は私を見ているようで、私の影を見つめている。だからこそ、見逃してくれている。泳がせて、許してくれているのだと勘違い。
獲物を杖に変え、術者を気取った所で。その存在が、クー・フーリンで在る事に違いはないのだから。思わず項を手で覆う。それこそが答えだっただろう。
油断していた、わけではない。だが、あまりにも目先の些事に囚われ過ぎて己自身の事を忘れ切っていたのだ。いつもの何てない失態に過ぎなかった。

「…、…君も、番持ちじゃないんだ、αとて辛かろう…何か、必要な物があったら言ってくれ。出来うる限りは用意しよう」
「ハッ、同情か?いいンだよ、俺ぁ…俺の“運命”は、あの燃える街に居る事だけは違いねェんだから」
「…運命、か…君たちは揃いも揃って、どうしてその言葉に拘るんだ?そんなもの――ただの錯覚に過ぎないだろうに」
「アァ?馬鹿言うな、その拘束力はテメェが身を以って思い知ってるだろうが。その言葉が、表現するのに一番相応しいからさね」
「相応しい…?何を表現するというんだ、そのちっぽけな単語一つで」
「己の感情全てをだ――恋、愛、嫉妬、独占、蹂躙、所有、好敵手、友、番…言い表せねぇ全てを、まるっとその単語一つで表現出来んだ。便利だろ?」

フードの奥底で、爛々と赤い瞳が嗤っている。捕食者の瞳だ、私を狙うのは筋違いだろうに。でもそうか、彼もαならば仕方ないかと筋違いの納得をして。
理知的のようでいて、本能は獣と同じ。さすがクー・フーリンだ。意味の分からない理論を振り回して、そうしてこちらを翻弄してくる。いつも、いつも。
まるで意味が分からないと、眉を顰める。生憎、こちらはただの弓兵だ。知恵問答は得意ではないのだ。言葉遊びには、皮肉しか返してやれない。

「さっぱり分からんな?まぁ、神代と現代の常識の違いは埋められんし、仕方なかろう。理解出来ない物を考えた所で時間の無駄だ」
「ハハハッ、まぁ、今はそうやって余裕ぶっこいてろよ?“俺”のしぶとさは知っているだろう?弓兵」
「思い知りたくもないがね。まぁ今回ばかりは私も上手くやるさ。御子様の供物になどなる気はないのでね」

すれ違い様、ぽんと術者の肩と叩く。それだけでそのαは膝を折る。番持ちのΩにどれ程のフェロモンが出せるかは知らないが、効果抜群のようだった。
必死に己の本能を喰い止めているその姿を一瞥し、哀れだなと同情さえしてしまえた。だってそうだろう、私の影などに。その高貴な思いを寄せて。
彼とて叶わぬ想いを抱いている、私と同じように。そうして抗っている、私とは正反対のやり方で。だって成就してしまった、あの反転した存在を目にしている。
オルタの彼と、オルタの私。本来在り得ない存在だからこそ、その運命は成り立っているのだと噛み砕き。だからこそ、正史の我々が成就してはいけない。


(何が運命だ。そんな物に私と――アレを巻き込むな、くそったれ)


そんな物に縛られたくはない、何より縛りたくはない。あの思いがけない夜の運命は、青い剣士だけでいい。彼女だけが、俺の運命でいいのだ。
だからそこに、介入しないでくれ。その赤い槍で、この心臓を穿たれたのは私の未熟さ故。だからそれを運命などと、どうか呼ばないでくれないか。
胸が、君に貫かれた心臓が張り裂けそうに痛むから。どうかどうか、あの未熟な己を思い出させないで欲しい。それはただの死骸で、私はその残骸だから。


少しずつ、少しずつ。自分の知らぬ間に、甘い甘い毒を塗り込まれているような感覚。どろどろ、どろり。意識が溶ける、混濁する。それはまるで夢のように。
サーヴァントは、夢を見ない。だからこれは、あの特異点と重なった事で繋がった記録たち。かけがえのない、いや、些細でちっぽけな記憶たち。
教会の前で、私を敵と認め槍を向ける好戦的な視線。釣り勝負に明け暮れる私を、やれやれと見守る視線。私が作る料理を、美味しそうに眺める視線。
無数の記録が、浮かんでは消える。ここではない電子の海でも、不可思議な優しい日常の中ででも、戦闘服ではない私服を身に纏った街の中ででも。

(――あぁ、どの世界でも、君の…私を見つめる目は本当、様々だな…私は私を、好敵手と認めてくれたあの視線だけで良かったのに)

目が血走って、口元からは笑みが消える。一番最初の、私のクラスを知らない状態での戦闘ではない。お互いに獲物を知りながら、私が盾を構えた戦い。
アレを私は、敗北と取ったのに。苦々しい表情を浮かべていた彼こそが、負けを認めていたのだっけ。交わした言葉は覚えていない、映像だけが記録され。
どうしてそんな物を記録しているのだろう、私には不要の産物なのに。それがどうしてか、繰り返される4日間での、不可思議な日常となって。
可笑しくなったのは、きっとそこから。日常で出会うのにも違和感を感じなくなって、いつの間にかどんな場所でも。気が付けばふらり、彼が隣に居て。

(だからきっと、勘違いを…、…錯覚を起こさせてしまったのだ。それこそが私の失態、ならば、)

汗がぽたりと、首筋に落とされる。動かない身で、首だけで振り返れば。零れ落ちたのは汗ではなく、涎だった。今まさに、捕食しようとしているその瞬間。
私は駄目だと、はっきりと拒絶を口にした。でもそれは、叶わぬ願いだった。その捕食を、身体は確かに悦んでしまった。それこそが、私の過ちだ。
縛るつもりはなかった、どうか許してほしい。起きてしまった事は仕方ないと、貴様はあっけらかんとそう言うのだろう。でも私は、そればかりは許されない。

(この首は、この首輪は世界の物だ。私は、抑止の守護者。世界の掃除屋、アラヤの奴隷――だから、君の物にはなれない。私の物には、させない)

手を伸ばし、その記録を握り締める。まるで初めから、そんな物存在していなかったかのように。ぱちん、シャボン玉のように一瞬で霧散して。
瞬間、目が覚めた。ぱちりと、目を覚まして。最悪な夢見に、表情を歪め頭を抱えた。どうしてあんな記録、夢だなんて認めたくはない。
この身が、この性質が関係しているのは確かだった。だからこそ、一刻も、また過ちを犯してしまうその前に。現状をどうにかしなければと思うのに。
ハッと気付いた時には、部屋から出られなくなっていた。扉の外を、目を細めじっと睨み付け。はぁ、と深い溜息を吐いて。通信を彼女へ繋ぐ。

「――マスター、」
『おはよう、エミヤ。どうかした?』
「今日の、私の出番はどうなっている?生憎――部屋から出られそうになくてね」
『えっ、体調不良とか!?大丈夫!?あ、抑制剤なら色々ダヴィンチちゃんが開発してくれたのがあるよ!』
「いや、私の体調は至っていつも通りだ、問題ない。問題なのは…、…私の部屋の前に、場違いなαが居るって事だな」
『え?…あ、ホントだ…エミヤの部屋の前を陣取ってるサーヴァントが居るね…まるで番犬みたいだ』

ぐるると、腹を空かせた狼が唸り声を上げているような錯覚を受ける。術者の、あの眷属の狼ならばどれ程良かっただろう。あのもふもふは最高の癒しだ。
いや、現実逃避している場合ではない。己のサーヴァントの居場所を、端末で確認してくれたのだろう。マスターはくすくす楽しそうに笑っているが。
生憎こちらは、笑い話にもならない。だってそうだろう?己を食わんとしている者が、扉の前で今か今かと待ち構えているのだ。気が気じゃない。

「以蔵じゃあるまいし、勘弁してくれ…」
『あはは、確かに以蔵さんも立派な番犬だね!龍馬さんから離れそうにないし。まぁおかげで、私も安心出来るんだけどさ』
「まぁ、彼はあぁ見えて、坂本君にだけは真摯だからな。その点は頷こう。というわけでマスター、すまないが」
『うん、分かった!今日はエミヤはお休みね、最近働き詰めだったし。あぁ、それと、本当に難しそうだったら相談してね』
「む?相談とは、何を?」
『番犬さん。どうにもなりそうになかったら、フェルグスとメイヴちゃんとスカサハ師匠で突撃するからさ!』
「そ、その編成は少し勘弁してやってくれ。私相手に騎士王と金星の女神とインドの女神をぶつけるような物だろう?」
『エミヤの場合は、そこに虎の子とアイヌの女神も混ぜると良いってメディアが言ってたけど?』

あの魔女、私に一体何の恨みが…もう料理を教えてやらんぞ、とぶつぶつ愚痴ながら通信を閉じ。そうして、ふっと息を零す。思わぬ休日になってしまった。
それでも、部屋から出られないのだから隔離と大して変わらないかもしれないが。そうだ、隔離されているΩ達は大丈夫だろうかとそう考えた瞬間。
ガンッ!と扉を小突く音が聞こえた。いや、そんな生易しい音じゃない。あれは確実に槍の音だ。何だ、喧嘩でも売っているのか。絶対に買わないが。

(…、…まさか、私が別の者に意識を取られたのを察したとか…?…ははは、まさか、な)

じとーっと扉を睨みつける。調理場には行けないが、今日のメニューは何にしようと考えても廊下は静かで。だが今日の編成は誰だったかを思い出せば。
またガンガンッと扉を突かれる。何だ、何なんだ一体、読心術でも心得ているというのか、あの御子殿は。まさか、術者の方じゃあるまいな?
そう思えばまた更に音が煩くなり、思わず止めろ!と叫んでしまった。すると、なんだ居るんじゃねェか、といつ以来か、彼の声を久々に聞いた気がして。
いつもはあれ程、煩く毎日聞いていたのに。忙殺されてすっかり忘れていたが。これだけ言葉も顔も合わさないというのも、なんだか不可思議な心地で。

(…いや、普段が会い過ぎなだけだ。顔を合わせれば喧嘩…とまではいかなくなったが、そもそも、こいつがちょっかいをかけてくるのが…、…)

文句の一つでも言ってやろうかと、扉に近付いて。その噎せ返るような香りに、さすがに足を止めた。これは、αのフェロモンだ。間違いない、それにしても。
何なんだ、この濃厚さは。まるでこの部屋を通る者全てに、この部屋の主は自分の物だと主張するかのような勢いで。生半可なβなら死ぬだろう、これ。
カルデア職員には既にマスターが通達してくれているだろうし、他のβと言えばマスターとマシュくらいだから。大丈夫なのかもしれないが。
それにしたって、私を狙うような物好きなαなど居るわけがないだろうと。呆れるように溜息を吐けば、ハッと人を小馬鹿にするような声が聞こえてきて。

「…なんだ、挑発には乗らんぞ」
「いやぁ?テメェを狙うような馬鹿は、少なくともここに一人居るんでな。他に何人居たって可笑しくねぇだろう?そうじゃなくてもテメェはすけこましだしよ」
「ふはっ、その言葉、そっくりそのまま貴様に返すとしよう。君こそ引く手数多だろう?君程優秀なαは居るまいよ。いい加減私などに尻尾を振るのではなく」
「テメェ――それ以上言ったらこの扉ぶち破んぞ」
「っ、おぉ怖い怖い…ったく、何なんだ君は一体…戦闘に出られず暇を持て余しているのは分かるが、だからって私に八つ当たりしてどうする」
「テメェ以外の誰に八つ当たりしろって言うんだよ、居ねぇだろ普通に」

扉越し、互いの顔が見えないという安堵からか。私はいつものように至って冷静に、落ち着いて話をする事が出来た。相手がどうかは知らないが。
暇なのは自分も同じなので、仕方がないから扉に背を預けるようにして腰を落ち着かせる。ぐっ、と唸るような声が聞こえたがきっと気のせいだろう。
私は既に番持ちなのだから、そのフェロモンにやられるなんて可笑しい。そう、可笑しいのは彼の方なのだから。私は何も悪くなどない。

「ッ、オイ、コラ!テメェ、俺が手出さねぇと思ってんのか!?んないい匂い近付かせやがって…!!」
「はぁ?言いがかりも止してくれ…既に手付きである私に、しかも扉越しでフェロモンを感じるなどと…、…君の野蛮な性癖には付き合いきれんぞ」
「野蛮な性癖って何だよオイ!!」
「略奪や強姦は私の時代では普通に犯罪だから止めてくれよ?英霊が犯罪を犯すだなんて笑えない。即刻縁切りさせて、いや、そもそも縁などないか」
「て、めぇ…!!今日はいつにも増して絶好調だな?その舌よぉ!噛み付いてやろうか!!」
「ハハ、怖い怖い。躾のなっていない犬め…生憎とこちらは、その区分に振り回されるステージから既に飛び立っているのでな。優位性を持っているんだよ」

すらすらと、確かに彼の指摘通り私の舌は良く回った。それこそいつも以上に、その調子を取り戻すかのように。あぁ、だってそうだろう、当然だ。
だって背後には、彼が居るのだ。彼は私のせいで、体調を崩しているのかもしれないが。私はその逆。彼が傍に居るからこそ、居心地がいいのだ。
当然だろう、だって、だって彼は私の――瞳が胡乱に溶ける。その瞬間、ガンッと頭を扉に打ち付けて理性を取り戻す。今、私は、何を、思った――?

「――はっ…ぐ…」
「…?オイ、アーチャー、どうし」
「っ、いや、いい、何でもない、気にするな。私は不調など、起こさない」
「なら、何」
「起こすとするなら、それは…貴様がそこに居るからだ。煩わしい、α性め…いい加減、誰でもいいから首輪を付けて飼いならしてもらうといい」
「――…、んだよ、さっきまでイイ感じに話してたじゃねぇか、クソッ…、…いい、分かった。俺が居て落ち着けねぇんなら、離れてやっからちゃんと休め」

僅かな頭痛と、確かな吐き気を。頭を伏せる事で何とか耐える。自分自身の思考に反吐が出そうだった。それは私の物ではない、私の記憶ではない。
さっきまでの甘さは一体何処へ、地を這うような恨みがましい雑言を吐けば。珍しく彼は、その挑発に乗る事はなく。至って冷静な反応を見せた。
それに一瞬戸惑う。あぁ、どうしてそういう半端な優しさを見せてしまうんだ、貴様は。ただただ、私のΩだけを求める、卑しいαで在ってくれたなら良かった。


「――っ、…、…すまない、ランサー…もう少し、もう少しで、その勘違いから、解放してやる、だから…もう少しだけ、耐えてくれ、頼む…」
「――そこで名前を呼ぶなよ、アーチャー…勘違い、しちまいそうになるだろ…離れ難くなるって分かってやってんのか…?」
「たわけ、そんな訳あるか。いいからさっさと、何処へなりとも言ってしまえ。出来れば遠く、私の瞳の届かぬ場所まで、果てまで」
「ハハッ、それは無理だろ。何処に居たって、テメェの鷹の眼は俺を見つけるだろうし。俺の槍も、テメェを瞬時に捉えるだろうさ」


腹の奥が疼くこの不快感を、どう説明したらいいだろう。あぁ、この身はたった一人、己だけのαを求めている。卑しく浅ましく、その性を利用して。
孕みたいと願う思いは、一体誰の物だったのだろう。私はそんな事、望んではいない。私は彼の女になどなりたくはない。私はただ、友で居たいだけなのだ。
そのちっぽけな願いを、どうして叶えさせてくれない。何も要らない、他に何も要らないのに。ぎり、と奥歯を噛みしめれば微かな鉄の味が舌に沁みた。
あぁ、でも確かに、彼の言葉は真理だった。何処に居たって、きっと私の眼は君を捉えてしまうし。君の槍は、私の心臓を貫いて離れないのだろうな。


その記録をトレースすべきではなかったのだろうと、今更気付いた所で遅すぎた。ただその知識だけをダウンロードしていたならば、隠し通せたかもしれない。
Ωの私が、どんな結末を迎えてしまったのかを。思い出したくない、記憶ではなく、記録としてでも。それを読みたくない、見たくない現実から目を背けて。
無かった事にしたかった、忘れたままで居たかった。どうして都合の良い記録だけ、摩耗したままで居られないのか。あの特異点さえ、無かったのならと。
そんな無い物強請りをした所でどうにもならない。このΩとしての体質を取り戻そうとする浅ましい身体と。折り合いを付けていかなければいけないのだ。

(私は、わたし、は――彼女の、凛の…番、だ…)

ハッハッと浅ましいこの身はまるで犬のようにだらしなく荒い呼吸を繰り返し。これでは彼を嗤えないなと、考えただけで軋むこの身体が憎い。
この場に彼女が居てくれたなら、まだどうにか誤魔化せたかもしれない。でもここに、彼女はいない。彼女と同じ顔で、違う存在が居るだけだ。
日に日にΩとして目覚めていく身体、自己暗示がどうにも効かない。いっそ女神に頼んでしまおうか。あれは同じ顔をしているが、全く違う性質だ。
一度身を委ねたが最後、どうなるか分からずゾッとする。酷い自殺行為だ。強めの抑制剤を撃ち付けて、私は逃れるように工房へと辿り着く。

「…、…エミヤ、くん…?」
「…っ、君…、なんだ、その甘ったるい匂いは…?番持ちと、聞いて居たような気がする、んだが…」
「…傍に、番がいないからか…どうにも契約が、切れかかっている、ようだ…すまない、世話になる」

そこには先客がいて、同じようにぐったり項垂れる坂本君とアサシンの姿があった。同族にほっとするだなんて、それにこそ嫌悪した。
自分一人が辛いのならまだしも、彼らの症状に安堵するだなんて最低だろう。だが今ばかりは、彼らを気遣えない。手前の事で手いっぱいだ。
この工房は無数の結界と障壁に守られていて、一番安心出来る場所だった。暫くは自分も隔離状態になるかもしれない。そればかりが申し訳ない。

「無様な姿だな」
「…、…オルタ…お前は、落ち着いたのか…良かった」
「フン、あれの物になるなど、御免被るがな…逃げるのも無意味になるくらいの拘束力だろう、あれは」

ばちり、項を守るための拘束具を外して。刈り揃えられた項には、痛々しいくらいの噛み痕が主張されている。隠すという事をしないのが彼らしかった。
無意味な事はしない主義なのだろう、この黒い私は。それを隠した所で、彼が狂王の所有物になった事実は変わらないのだし。不要な装飾品は付けない。
当初の嫌悪感とはまるで正反対。無事に番になれたのなら、半身が落ち着けているのならそれでいいと。安堵の笑みを零せば、それにこそ不満なようで。

「頼む、黒い俺。私の代わりに、特異点を、」
「断る。待機しろと言ったのはアンタだし、解決すると言ったのもアンタだろう」
「フッ、正論過ぎてぐうの音も出ないとはこの事か」
「やり遂げろ、それがアンタの役目だろうが」
「…無茶を言うな…この辛さは、お前も実感しただろうに…誰だ、こんな性格に仕上げたのは」
「アンタだろうが」

それもそうだと、自嘲する事すら今は身体に負荷がかかる。日に日に、ヒートが増していくその身に。まるで以前の彼のように、強い抑制剤を撃ち付けて。
こうなったら完全なヒート状態になる前に終わりにしなければ。そうだ、終わってさえしまえば。この熱からも解放され、全て勘違いで始末が付く。
それがいい、それこそが最高の結末だと。茹る身体を必死に引きずって、工房の扉に手をかけた途端。噎せ返るような香りに思わず膝を付きそうになる。

「――アーチャー、」
「っ、な…!なぜ、ランサーが!?こいつと私を近付け、ぐっ!」
「ふはっ!情けねぇなぁ、テメェもよ!あんだけ俺に知ったような口聞いておきながら、そのザマかよ!!」

ぶわり、濃厚な香りが充満する。ほれ見ろ、他の二人だって蹲っているじゃないか。止めろ、止めてくれ。貴様のαは、刺激が強すぎるんだ。
坂本君とアサシンが僅かに後ずさる気配を感知し、二人を守らなければと思うのに。そんな心配は不要だとばかりに、彼は私しか見えていないようで。
いつものように罵る言葉にぐうの音も出なくて、遠慮なく当然のように距離を詰められる。けれど、至近距離だからこそ彼の必死の抵抗が見え隠れする。
本能と、理性とを天秤にかける間もなく。本能を選び取る主義だと思っていたのに。必死に奥歯を噛み締め耐え抜いて、そっと私の指先を握り締める。

「っ、ラン、サー…?」
「…ッ、テメェが…手を出すなと、言ったんじゃねぇか。俺は、運命からのお願い事には弱くてな」
「…、…我慢、出来るという、のか…?」
「あぁ、すげぇギリギリだけどな」

武器を扱う手でなく、幼き子供を強引に撫で回す手でもなく。そっと、壊れ物に触れるような、そんな優しい手だ。そんな手付きを、私は知らない。
必死に耐えている。噎せ返るような香りは健在で、意識はずっと私の項に注がれている。あぁ、同じだ。あんまりにも状況が同じだというのに。


「――なら、どうして…どうしてあの時は耐えてくれなかったんだっ…!!」
「あ?いつだよ、それ」
「っ、ここではない時空で、同じような状況で、君は…、…理性を失くし、あろうことかこの私を…蹂躙した。その屈辱を、私、は、」


耐え切れず、熱を孕んだ紅玉を睨みつける。射貫くような視線は、きっといつもの半分以下の鋭利さしかなかっただろう。それ程に、翻弄されている。
その目は、あの時と同じだ、何も違ってはいない情欲塗れの紅で。それなのに――あぁ、意識するんじゃなかった。記録がフラッシュバックする。
嫌だ、止めてくれと、どれだけ心中で叫んでもその記録をダウンロードするのを止められない。一切合切消し去って、デリートしてくれたなら良かったのに。


状況は今と、然程変わらない。聖杯の欠片から漏れ出した影響か、はたまたどこかの並行世界の世界観をトレースしたのか。原因はどうだっていい。
それはいきなり降って沸いて出た異常だった。英霊は英霊であるが故に、α性を持ち。一般人はβ性で、優秀な魔術師が時折α性を獲得し。
だが私は、あのβの小僧以下に成り果てた。世界の奴隷である私には、Ωがお似合いだとレッテルを貼られ。男でありながら発情期に酷く苦しみ。
そうしてそれを、厄介な事にこの獣に見つかった。そのぎらついた視線は、獲物を捉えた捕食者と同じだった。抵抗空しく、私の身体は呆気なく陥落し。

(やめ、止めてくれ、ランサー、頼む、頼むから、ランサー…!!)

惨めでもいい、みっともなくて構わない。私は泣きながら喚きながら必死に懇願した。暴かれる事を望む身体を無視して、それでも必死に訴え続けた。
結果はこの通り。彼はその性に抗ってはくれなかった。初めて暴かれる戸惑いに必死に翻弄されぬよう、奥歯を噛みしめて震えた手で項だけはと死守し。
それも空しい抵抗だったのだ。彼は呆気なく、私の項に噛み付いて。そうして番の契約は結ばれてしまった。彼を、私のような存在に縛り付けてしまった。

(…、…こんな…こんな事を、望んでいたわけではなかった…)

翌朝、気怠い身体を起こして。一度霊体化して、それを解いても。身体の痕跡は消せても、項の噛み痕だけは消えなかった。ぎり、と奥歯を噛みしめて。
私はふらり、そのまま彼女の屋敷へと赴いた。頼れる存在が、彼女しか居なかったから。きっと今にも死にそうな顔をしていた私を、彼女は招いてくれて。
私の計画に、苦々しい顔で首を縦に振ってくれたのだ。そうでもしなければきっと私は、すぐさま私自身を射貫いていただろうから。

(本当に、いいのね?アーチャー)
(あぁ…、…頼む、凛。そして…すまない。君の運命を、こんな形で歪ませてしまって)
(馬鹿ね、アーチャー。運命なんて、自分で決める物よ。こんな物じゃ、運命は縛らせないわ。私も、あんたも)

彼が私との繋がりに安堵して、今を見逃してくれている一瞬の内に終わらせなければ意味はないのだと。私は囁き慣れた呪文をいつものように繰り返して。
瞬間、己が手には魔女の裏切りの短剣が握られていて。あぁ、本当にこいつは便利だ。契約関係ならば何でも、いとも簡単に断ち切ってくれるのだから。
そうして私と彼の番関係をリセットして、彼女の前に膝を折る。一瞬でも、彼の物になれて良かっただなんて露にも思わない。例えこの身が熱に犯されても。
この辛さと同居していく方がマシだと。そうして彼女は、ありったけの力で私の項を噛んだ。全然痛くなかったのはきっと、それ以上の熱を知っていたから。

(――ありがとう、凛。これで私は…)
(貸しにしておいてあげるわ。だから、ちゃんと返しなさい。利子は高く付くわよ)
(…あぁ、すまない、凛。私は暫く、姿を消す)
(えっ?あ、ちょっと、アーチャー!!)

契約が切れた瞬間、向けられた殺意に背筋を震わせる。一体何処に居るかまでは分からなかったが、一度番になってしまったから察知出来たのだろう。
もう番でも何でもない。なのに、私を逃さないとばかりの執着に脳が警鐘を鳴らす。こういう時霊体化は便利だ。このシステムだけは褒め称えたい。
実体を解いてしまえば、さすがの彼も私を捉える事は出来まいと。例え、彼女を人質に取られたとしても。それでも私は、決して姿を現す事をしなかった。

(――ランサー、君は…この空のように、在るべきなのだ)

凛からの魔力供給を経ち、一人高いビルの上で空を見上げ。心地よい風を透けた身に通しながら、その青空を見上げた。彼のように澄み切った色を。
あの青空のように、彼は自由であるべきだ。どこの世界で、どんな風に召喚されたとしても。それでもやっぱり、君には何にも縛られてほしくないのだ。
自由気儘に、理屈に囚われず自分の心情のままに凪いで。だからあんな、例え事故だったとしても。私のような存在に、縛られる事はあってはならない。
私はもうすぐ消えるだろう。魔力が底を尽きても補充する気はない。この異常は、きっと彼女が解決してくれる。ならば私は、いない方がいい。


(私はただ――彼と同じ時空に、召喚されるだけで満足なのだ…敵でも、味方でも、何でもいい。けれど私自身が、彼を歪める事だけはしたくないから)


摩耗していく記憶の中で、きっとこの記録も砂の中に埋もれていく事だろう。それでいい。たった一度でも、彼の物であった事実なんて私には不要だ。
それは彼にとっても不要な物。だからこれはただのアクシデントで事故でしかない。オメガバースという、その現象の記録だけを書き記して。
私と彼が、一晩番で在った事などどうか消し去ってくれと。そう思っていたのに、そう願っていたのに。どうして私だけが、その記録を覚えているというのか。


「――あぁ、覚えてねぇな」
「ならば…それこそが、運命なんだ。私だけが覚えていて、貴様は覚えていない…ならばあの関係性は、間違いだったという事に他ならない」

思い出したくない記憶に翻弄されてのた打ち回る私を前にしても、彼は手を差し伸べるような事はしない。分かっている、触れてしまったら終わってしまう。
意識を持って触れた途端、そこに居るのはただのαとΩになってしまう。そんな、獣になるのは嫌なのだ。私は彼と、対等に肩を並べていたいだけ。
この浅ましい思いにはひっそりと鍵をして。運命などと思い上がりたくない。出会った事自体が間違いだったとは、思いたくないのだ。

「ハァ…テメェはホント、昔の記録ばっか読み漁りやがって」
「な、に…?」
「俺はな、過去のテメェとの記録なんざ知らねぇよ。まぁ何かしら刻まれてるもんはあるだろうがな」

蹲る私の前に膝を付いて、君には例え負傷した時ですら膝を折ってほしくはないのに。いとも簡単に近付く距離に動揺する。かち合った視線が揺らぐ。
伸ばされた手は、寸での所で空を掴む。触れたら最後、あの時と同じ結末が見えているのは私だけでないようで。その事に少しだけ安堵する。
私の記録を一蹴しないでほしい。大切な、残された記録なのだ。例え過去の出来事だったとしても。それでも彼と見つめている方向は、やはり真逆で。


「だって――今、があんだろ?これから、があるだろうが。なのに過去ばっか見てられっかよ」
「――は」
「今とこれからのテメェを見るのに、俺は手一杯なんだ。生憎俺は、器用じゃなくてね。今で精一杯、過去なんか振り返れねぇ。悪いか」
「っ、な…!!」


ひゅぅ、と茶化すような口笛は誰の物だったか。あぁ、今更、ここには坂本君とアサシンの他にも。工房の主が居たことを忘れ、にやにやとした視線を察し。
けれど今、そちらに意識を移した途端。彼はきっと私に本能をぶつけてくる。それがひしひしと分かっていたから、なるべく周りを意識しないよう努めて。
それにしたって、あまりに眩い発言に呆気に取られる。私が後ろを振り向いて過去を大切に抱き留めている間にも。貴様は前へ前へと進んでいくのだな。

「…なぁ、アーチャー。このカルデアを、どう思う?テメェは」
「何だ、突然…、…あぁ、そうだな、ここは――奇跡のような場所だと、そう、思うよ」
「それは、何故?」
「…罪無き誰かを、殺めずに済む。無意味な殺戮を、繰り返さずに済む。それに、」
「それに?」
「君と、殺し合わなくて済む」
「ははっ、まぁ、概ね同意だわ。ま、俺はテメェと殺し合うのも気に入ってるがな」

まるで幼子に言い聞かせるように、彼は一体私から何を聞き出したいというのか。熱に浮かされた現状では、上手く言葉を包み隠す事も出来ない。
馬鹿みたいな本音がぽろぽろ溢れ出して、けれどそれを。その優しい手が全て掬い上げてくれる。あぁ、そんな綺麗な物ではないのに。醜さしかないのに。
けれどその私の本心こそが大切なんだと、彼が笑っている。それにフと、思わず笑みが零れ落ちてしまった。あぁ、本当に、まったくどうしようもない。
今を、この瞬間を私は命がけでも守りたかった。このカルデアでの日常を、愛してしまった。それを崩すような出来事は、消し去ってしまいたかったのに。

「相変わらずの戦闘狂だな、救い様のない」
「そういうテメェだって、俺と向かい合うと良い顔するぜ?それだけはどこの時空でも変わんねぇだろ、俺達はよ」
「たわけ、貴様の熱につられただけだ。あまりに情熱的な視線で、私を見るのでね」
「ハッ、言ってろ。ていうか煽んよオイ。今だって結構ギリギリなんだぜ?これでも俺はよ」
「フ、それを言うなら、私だってぎりぎりだ…だがな、心情的には、少し余裕が出来たかもしれん。私も案外、安い男だな」
「あ?それってどういう、」

肩の荷が降りたようだった、憑き物が落ちたようだった。未だ熱を孕んだ身体だったけれど、それでも思ったように動かせる。ゆっくりと立ち上がって。
掌を握っては開いての繰り返し。投影も問題なく出来そうだ。これならばハンデにもなりやしないだろうと。それに隣には、きっと彼が居てくれるのだろう。
慣れた手付きで、通信を繋ぐ。きっとこの状況を今も見守っている彼女へ。あぁ、彼女には我儘ばかり言ってしまっているな、私は。

「マスター、聞いているのだろう?」
『うをわっ!?なななななっ!?』
「すまない、マスター。一つ頼みがあるんだが」
『え、えぇっ!?…何、エミヤ、何でも言ってよ。私に出来る事なら、何でもするから…!』
「あぁ、それは何と心強い。次のレイシフトが、最後になりそうだと言ったな。ならばどうか、私と彼を同じ編成に」
「待てエミヤ、それは技術顧問として看過出来ない願いだ。危険が過ぎる」

通信を開けば、慌てたような彼女の声に。やはり筒抜けだったかと苦笑する。きっとこの技術顧問が通信を送ったのだろう。全く、見世物じゃないんだが。
だから全てに決着を付けようと思ったのだ。私の過去と、彼の未来を。私達の今へと繋げていけるように。もう、この第二性に振り回されるのは懲り懲りだ。
そんなもの、そんな物がなくたって。繋がる物はあるし、止まらない物だってあるんだと。そう証明したい。そうすればきっと、私は漸く認められる気がする。

『エミヤと、槍ニキを…?…あぁ、それはなんて、なんて頼りがいのある編成なんだろう!そこに私と、マシュが居れば安泰だね』
「ふはっ!俺とアーチャーと嬢ちゃんか!いいじゃねぇか、最強の布陣が過ぎるだろ。後ろは嬢ちゃんに任せられるし、背中はテメェに任せる。アーチャー」
「ふ、異存はない。そういう事だ、ダヴィンチちゃん。私達は番ではないが、きっと…それ以上の力を発揮すると約束する」
「…ハァ、分かった。ラブコメに首を突っ込む程野暮じゃないつもりだよ、私はね」
「待て、ラブコメとは何だ!?」
「いやそれ以上に待てアーチャー。お前今サラっと凄ぇ事言わなかったかオイ!?」

ぎゃーぎゃーと喧しい。そう、それはまるでいつも通りのやり取りだった。そこにαもΩもなく、ただの弓兵と槍兵が居るだけだ。いつもの日常だった。
だから私は、それを守る事に固執して片意地を張っていたのだと思う。壊してしまった前科があったからこそ、尚更敏感になっていたように思う。
あの時空での私は、どんな結末を迎えたのだっけ。肝心な所が摩耗していて覚えていない。きっと誰に伝えるでもなく、一人虚空に消えたのだろう。
だが今は、違う。伸し掛かった責任は重たい。私がこのカルデアから消え去ってしまったのなら、初期の記憶もキッチンでの活躍も全て消えてしまうから。

「ランサー」
「お、おう、何だよいきなり、改まって」
「この特異点が解決したら、君の話を聞き届けよう。だからそれまで――待て、くらい出来るな?それくらいの躾はされていると願いたいのだが」
「て、めぇは本当に一言多いよな!?悪態吐かなきゃ俺と会話も出来ねぇのか、ったく…おう、待った分だけご褒美が貰えんだろ?なら待つ」
「ははっ、こうなってなかったら、今多分勢いでグッボーイと君を撫でていた事だ…危ない危ない」
「…喧嘩売ってんのか?それとも煽ってんのか?どっちだよ」
「どっちの意味も同じじゃないのか?それ」

まるでいつもと変わらない軽口を交わしながら、お互い戦闘準備に勤しむ。番のいないαを前にして、ヒート中のΩを前にして。それでも変わらない現状。
それにアサシンは、やれやれと息を吐いて。坂本君はどこか、眩い物を見るかのように目を細めていた。だからきっと、私の確信は外れない。
なんとなくだが、この特異点の現況に見当が付いていたのだ。だって、始まりはそこから。ならばきっと、原因もそこからだと思うのだ。
なればこそ、私は彼と話をしなければならないと思うのだ。君の知らない事を、私の知っている事を。伝えなければきっと、彼が報われる事はない。


嫌だ嫌だと喚く姿は、まるで幼子が宝物を誰にも取られないよう必死に握り締めている姿に重なった。自分には、必死になって守る物などなかったけれど。
全て失った幼少時、そうして最後の砦も喪って、失い続けた人生だったけれど。それでも掴めた物はあった。微かな光でも、この掌に残る物が確かにある。
けれど今、目の前で聖杯の欠片に囚われる彼は。大切な物を失ったあの日のまま、そこから一歩も動けないで。そうしてそのまま、抑止力となったのだろう。
その隣に、あの艶めかしい黒蛇が居ない事だけが、私の知る現実と違う。彼女がここに居ない。だからその分岐点が、きっと彼を追い詰める帰路となった。

「だって、だってこの世界なら――!!…以蔵さんと僕は、ずっと幸せに過ごせる…ずっと、ずっと…誰に何を、邪魔されるでもなく、幸せにっ…」
「――…、……」

始まりは、彼だった。この世界での彼が、聖杯の欠片にそう祈った事で異変が起きて特異点となった。だからカルデアの彼も、一番最初に異変が起きた。
この世界の坂本龍馬は、お竜と出会わなかったのだろう。一人で、たった一人で時代の維新を担って。そうして死んで絶望して、友に会う事だけを望んだ。
岡田以蔵に出会う事だけを願い、抑止力の奴隷となって。そうして出会った瞬間、失いたくないと願ったのだろう。何よりも強い結びつきを渇望して。

「僕は…僕は、彼だけのΩで、彼も、僕だけのαだ…こんな、魂の結びつき以上に強固な絆があるかい…?」
「…私の知る坂本龍馬は、寧ろそんな抗えない絆に身を委ねるような者ではないがね」
「…、…そっちにも、“僕”が居るのかい…?なら、以蔵さんは」
「あぁ、二人共健在だよ。ただ今も、この第二性に抗っている。そんな物に身を委ねずとも、二人には揺らがない結びつきがあるように見えるがね」
「…な、ん…だって…?」
「番にならずとも、自然坂本君は以蔵を頼りにしているし。以蔵も、そんな坂本君を放っておけずまるで番犬のように傍に居る。そんな二人が、こちらに居る」

目の前の彼の消滅は近い。お竜のいない彼は、我々にとって強敵とはならなかった。だからそればかりが歯痒い、そればかりが切ない。欠けているのだ。
彼を守って盾になった以蔵の亡骸を抱えて、彼はまた再び絶望に喘いでいる。そればかりが苦しい。あぁ、誰も悪くない。ここに悪人はいない、それでも。
私達はこの特異点を解決しなければならない。誤った歴史を、修正しなければならない。それでも、消えるのならせめて。悔いのないよう座に戻りたいだろう。

「きっと、君の以蔵だって同じはずだ。運命とは自分で決める物だ。αでもΩでもなく、きっとβだったとしても。君の傍に居たはずだ。信じられないか?」
「…そん、な…、…以蔵さんは、僕なんか、見ないよ…見て、くれない。こんな…あの時、救えなかった、愚かな僕を、許してくれは」
「………儂を…甘く見んなよ、龍馬ぁ…」
「っ、以蔵さん…!!」
「ふはっ、こんなの、なくたってのぉ…儂はおまんの、友じゃし…おまんも、儂の友じゃろ…、…なぁ…?」
「…、…いいの、かい…?こんな、こんな僕の…友達で…居てくれるっていうのか、以蔵さんは…」

消えゆく友を前に、我々が掛ける言葉はない。ならばせめて、その結末を見送るだけだ。そう言い残して、霊基が消える。彼の顔は、泣き腫らした顔だった。
けれどもまるで、憑き物が落ちたような。清々しい顔をしていた。きっと最初から分かっていたのだ。それでも抗わずにはいられなかった。それは誰とて同じ。
大切な物との繋がりを信じられなくて、喚いて足掻いて。けれどそれは、最初から隣にあったのだ。ただ見えていなかっただけ。繋がりは目に見えなかった。

「…、………ごめん、ね…僕の我儘に、付き合わせて…君にも、迷惑をかけた」
「いや、いい。生憎とこちらは慣れている身でな。同じ抑止力として、後始末を引き受けよう」
「君も、抑止の守護者なのかい…?…そっかぁ…なら、安心、かな。ありがとう、名も知らぬ守護者さん。そっちの以蔵さんにも、謝っておいて、ね」
「了解した。だがその謝罪を、彼が素直に受け取るとは思えんがな」
「ははっ、確かに…あはは、以蔵さんはどこに居ても、変わらないなぁ…」

霊基の消滅を確認する。光の粒子を見送って、この手に聖杯が残る。これで終わりだ。終わりはいつだって、こんなにも呆気ない物だった。
それでも、彼は答えを得ただろうか。いつかの、私のように。この先もずっと、世界を背に負うだろうけど。それでも答えさえ得たのなら、まだ走り続けられる。

「終わったな、お疲れさん」
「あぁ…、…君もな。体調は大丈夫か?」
「テメェが良い匂いすぎてムラムラする以外は、ぴんぴんしてんぜ」
「元気が過ぎるようで、良い事だ」

聖杯を手に視線を伏せる私の肩に、自然と手が伸ばされて。相も変わらずな彼に、自然こちらも笑みが浮かんでしまい。私も腑抜けているなぁと自嘲する。
後ろでほっと息を吐く彼女達に、こちらも安堵させるように笑みを向けて聖杯を手渡す。これで幕引きだ。さぁ早く、我々のカルデアに帰ろう。
この付与された第二性も、明日には消え去ってしまうだろう。そうしてまた、日常へ元通りだ。だからあと一つ、片付けなければいけない事がある。

「ランサー、この後時間は取れるか?」
「あ?ンだよ」
「少し、付き合って欲しい事があるんだが。難しいだろうか?」
「いんや、全然。言ったろ?運命のお願いには弱いってよ」

一人で立ち向かっても良かったのだが、生憎と私は彼女という存在に弱かったから。もしかしたら、言い負かされてしまうかもしれなかった。
だが君が隣に居てくれるのなら、きっとまるであの日々に戻ったかのように。私も私のままで立ち向かえると思うから。ただ隣に、居てくれればそれでいい。


「すまない、君には全く以って無関係の話であるのだが。それでも君にしか頼めない事なんだ、イシュタル」
「――なんでよ?だって、貴方が私の物になりたいと願ったのでしょう?何の問題があって?女神に相応しい、美味しそうな供物じゃない」

裏切りの短剣で番状態を解除出来ないかと試してはみたが、時空の違う契約だからかエラーが起きて弾かれた。だから本人に頼むしかなかった。
その少女は、女神であって主人ではなかったけれど。それでもその身に刻まれた契約なら、解く事も容易だろうと。だから問題は、どう説き伏せるかだった。
金星の女神は、ニッコリと有無を言わせない笑みを浮かべて。これは難題だぞ、と冷や汗を滲ませて。するとぶわり、挑発に簡単に乗る空気を感じて。

「これは俺のだ」
「あら、怖い怖い。なら代わりに、何の供物を捧げてくれるというの?光の御子様は」
「手持ちはこれしかねぇ」
「ふぅん?…まぁ、悪くはないけど、貴方の番の代わりがこれっぽっちでいいと言うのかしら、貴方は」

ランサーの手に握られていたのは、魔力のたっぷり込められた色とりどりのルーン石だった。恐らく、キャスターに頼んだのだろう。私のために申し訳ない。
何か美味しい物でもキャスターにはご馳走しよう、と思い浮かべて。目の前でにやにやとそれでも揺るがない女神を前に。閃きをそのまま口にする。

「イシュタル」
「なぁに?」
「君の好きな紅茶を、特性のケーキと共にご馳走しよう。君の望む時に、いつだって、だ」
「…、…なんか私、安く見られてない?」
「いいや、仕えるに値する主人だと思っているよ。心の底からね」
「…仕方ないわね。それで許してあげるわ」

外見が同じだったとしても、性格の節々に神々しさを感じて。瞳の色も違う、纏う空気も。けれどもその黒い髪が流れる様子を見て、あの日々を思い出す。
私を呼び出したマスターが、彼女で良かったと。あれこそが私の運命だったのではと、そう思うから。だからつい、甘い瞳を向けてしまうのだ。
違う存在だと分かっていても、その姿を大切に思わないというのは無理だろう。いくらでも尽くそう。身も心も、までは無理だったとしても。精一杯、誠意に。


「けれど貴方も、まったく面倒な事してくれるじゃない?何なの、この無意味な契約は」
「えっ?」
「だって貴方たち――運命で繋がっているじゃない」
「――は、」
「――ぷっ、アハハハハ…!!!!!」


首筋にしなやかな指先が向けられて、ばちりと一瞬音がする。本当に呆気なくその契約は打ち切られた。だがそれ以上の衝撃に言葉を失くす。
運命は、この主人に似た彼女にこそ感じていたというのに。カッ、と一気に顔を真っ赤にする。あれだけ、耐えて忍んで苦しんで!その運命を否定したのに。
金星の女神が、うっそりとその金色の目を細めて。まるでそれが神託のように、拒否も拒絶も出来ないなどと。そんな運命信じたくはない。

「はーっ!そりゃあいい!女神様のお墨付きだぜ?アーチャー」
「笑えない…嬉しくも楽しくも面白くもない…」
「ふふっ、まぁ感情に左右されるのって、人間だけの楽しみよね。せいぜい振り回されなさい?お互いにね」

そう言い残して、またふわふわと女神はカルデア内を彷徨う。金目の匂いを嗅ぎつけて、その度に波乱を起こして。それはまるで、楽しい日常の続きだ。
一瞬だけ、私の方をちらりと見る女神の横顔は。どこか寂しそうに見えたのは気のせいだっただろう。まるで手放すのを惜しむような、そんな表情に見えた。
大爆笑するランサーをよそに、こちらはじわじわと熱が燻っていくのを感じて眩暈がした。あぁ、これだ。思い出したくもない、ヒートの予兆だ。

「あー…、…ぐっ、ふは、はははははっ」
「え、あ?ンだよいきなり…オイ、とうとう壊れ、ッ!!」
「ははっ、何、すっかり忘れていた、ヒートの熱さを思い出して、な…ふふ、あまりのしんどさに、笑いが、耐え切れなかった、だけ、だ…」
「うっ…!て、めぇ…ぐ、その噎せ返るような、匂いは…、…とにかく、場所変えんぞ、歩けるか?」
「…すまない、肩を借りて、も?」
「あぁ、そんくらいなら問題ねぇよ、っと」

ぐらり、視界が揺れて。思わず目の前の彼に、縋るような視線を向けてしまう。こんな、発情期の雌猫みたいになるのが嫌だった。こんな姿見せたくなかった。
目の前の、彼だけには。でも今は、そうは言っていられない。明日まではまだ、ここはαの巣窟で。こんなヒート状態のΩは毒でしかないだろう。
ひとまずは場所を移動しなければ。体が重くて上手く歩けそうになくて、ここは片意地張らず肩を借りる事にする。そうでもないと、抱え上げられそうだった。
そんな気迫を見せた、横顔だった。あぁ、私の物にしたくはないのに。私を君の物にしてほしいだなんて。そんな馬鹿みたいな事を熱の上がった脳で思った。


お互いにぜぇはぁと獣のような荒い呼吸を上げながら。私の部屋に運ばれて、ベッドに腰を落ち着かせる。誰もいない空間に落ち着けた事でほっと息を吐く。
さっきから射貫くような視線をずっと首裏に感じている。立ち尽くす彼を見上げれば、獲物を前に必死に待てをしているような。捕食者の瞳の色だった。
それにぞくりと背筋を震わせて、自分も大概だなぁと笑ってしまう。そんな私を不思議に思っている彼を、ベッドをぽんぽんと叩いて促す。隣に座ってほしい。

「何だよ、俺を試すような真似は、いい加減やめ――ッ!?」
「…今日、一日限りの番、だが…それでもいいの、なら」
「…ッ、どういう心境の変化だよ?あれだけ散々嫌がっておいて…というか、誘い方下手過ぎんだろ、お前」

久々のΩの熱に魘されながら、そっと首裏に手を回し項を露出させる。弱点を自ら曝け出すような行為に、恐怖に震えが走るけれど。
それ以上にぶわりと、αの威圧感を感じる。奥歯を必死に噛みしめても、隙間から唸り声が漏れ出ている。その必死さに、他人事のように笑ってしまう。

「ただ、噛むだけだ。番の契約を、するだけ。この身体を渡す事は出来ない」
「ッ、あ?どうしてだよ」
「…するなら、何でもない時がいい。それなら、言い訳は出来ない、だろう?」
「何でもない時…?」
「αや、Ωのせいにして…逃げようとする私の逃げ道を、塞いで欲しいんだ」

呼吸が上手く出来ない、二人して荒い息遣いで思考も上手く回らない。だから、言葉足らずの私の意図を汲み取ってもらえたか少し不安だったが。
αだとか、Ωだとか。その状態異常に犯されたから、お互いそれに誘われただけとは思いたくない。そういう物のせいにして、互いを縛りたくはない。
縛るのならば、そんな物ではなく。互いに互いの意志で、自ら手を差し出したい、差し伸べたい。それを分かってもらえるだろうかと、ゆっくり手を伸ばせば。

「…というか、今更だが…今も君は、こんな私の身を、望んでいる、のか…?明日にはもう、Ωは消え去ってしまうが…」
「それこそ馬鹿だろ、テメェ。俺はこうなる前から、それこそ出会ってからずっと。テメェを俺の物にするって決めてンだよ」
「は…、…酔狂で、悪食だな…貴様も」
「言ってろ…そういうテメェは…俺の事、欲しがらねぇのかよ」

伸ばした手を、ぎゅっと強く握り締められる。その熱さに更に背筋を震わせるけど、同じ失態は二度は犯さない。あの時のような無様な真似は晒せない。
彼が耐えているのなら、私とて耐えよう。獣の本能を押し殺し、人の理性で向かい合いたい。彼の空いた手がそっと、項を撫で続けているとしてもだ。
対話が出来るのなら、分かり合える。お互いの気持ちを伝え合うのだって、不可能じゃないはずだ。じっと見つめるその視線に、こちらも情けない顔を向けて。


「…君は…手の届かない、存在だと、思っていた、から…私は、醜い掃除屋、で。君は、神霊も同然で…」
「そういう御託はいいから、簡潔に本音だけを述べろ」
「無理を、言うな…本当は、こうして触れる事すら、禁忌なのではと、思っている…でも今は――触れた途端、身が焼け落ちてもいいから…君に触れたい」
「は――ハハ、それはテメェ…情熱的が過ぎんだろうが!?」
「うわっ!?――っ!!!!!」


繋がった手をぎゅっと握り返す。それこそが皮肉屋の私の、精一杯の返答だと受け止めてほしい。その手を頬に手繰り寄せて、その熱に酔いしれれば。
瞬間、酷い勢いで押し倒されて。そのまま噛みちぎらんばかりの勢いで項に噛み付かれる。その多幸感に思わず息が漏れて、情けない声さえ零れそうで。
ゆっくりと、息を吐く。深呼吸して、その余韻に耐え抜く。このまま身体を繋げてしまえば、どれほど楽だっただろう。でも私達は、その選択を拒んだ。
目尻に涙を浮かべれば、熱い手でそれが拭われる。触れた身体が熱い。互いに熱を持て余しながら、それでも馬鹿みたいに笑い合う。

「は、ははっ…何をこんな…意地になって、我慢している、んだろうな…我々は…」
「ッ、テメェが!先に言ったんだろうが!?ハッ…俺も苦しいんだから、テメェも苦しめ」
「はは、まさにお互い様、というやつだな…というよりこれ、私の外套で、隠れる位置か…?」
「いや何で隠すンだよ?んな必要ねぇだろ。俺のモンだって証だし」
「わざわざ人に見せる物でもないだろうに…私だけが、知っていれば、いいのだし」
「…テメェ、いきなりデレ出すの、何?もうちっと小出しにしてくんね?今本当に無理なんだけど」

押し倒す身から解放されて、二人ごろりとベッドに寝転がる。戦闘後でもあるし、色んな疲労が相まって。きっとこのまま寝てしまいそうな気がしている。
もううとうとと、瞼も重い。だから眠りに落ちるまで、他愛ない内緒話をしようじゃないか。二人きりでひそひそと、声を潜めて夜に紛れて。
何も可笑しくはないのに、笑いがばりが込み上げる。明日は頬も筋肉痛になっているんじゃないかと。英霊の身でふと、そんなくだらない事を考えて。

「…あぁ、そういえば…凛が、言っていた事を、思い出したんだった」
「何て言ってたんだ?嬢ちゃんは」
「こんな物に、縛られず…自分の運命は、自分で決めるべきだと」
「ははっ、さすがテメェのマスターだなぁ」
「だからこれは――私が、私自身が…選び取った運命、なんだ」
「あ?ンだよ、ッ…!!」

二人このまま、手を繋いだまま眠りに落ちるのも悪くないなと思うけど。それをきちんと伝えなければと思うんだ。こんな熱に浮かされた状態だったとしても。
そうして彼の手を取って、薬指を口に含める。そうしてがぶり、ありったけの力で噛み付く。そうして見事、そこには永遠のような歯型が刻まれる。

「ははっ、君にやられっぱなしというのは、私の性に合わないのでね…これで君も、私の物だ、ランサー」
「あー…、…惚れた方の負け、って言葉があるけどよ、それを今更実感してるわ…テメェ、正気に戻ったら覚えてろよ。次の日開けとけや」
「ん…?それなら私の方が、負けっぱなしだと思うがね…君に勝てた試しなど、一度もないだろうよ」
「ハハッ、互いに負けず嫌いな癖に、こういう時はお互い負けを主張すんのかよ。ホント、どうしようもねぇな、俺らってよ」

薬指に刻まれた歯型は、霊体化したらすぐにでも消え去ってしまうだろう。けれど私が、この項の噛み痕を消さないように。この歯形だって消えない。
物理的な意味ではなく、精神的な意味で、だ。例え目に見えなくなっても、そこに確かに存在する物があるという事を。どうかどうか、忘れないで欲しい。
摩耗してしまう身でも、君と番になれたという特異な事実を座に持ち帰ると約束するから。だから君も、また次どこかで会う時は。それを覚えていて欲しい。
名残惜しいけれど、夢から覚めるようにゆっくりと瞳を閉じる。明日、この契約が無かった事になったとしても。この繋がりは、消える事はないだろう。


その夜は多くのサーヴァント達が、夜を二人で越えたらしいと聞いた。皆はその時、何を語り合ったのだろう。この唯一無二の、奇跡のカルデアで。
次会えるかなんて保障はない、会えたとしても敵同士だなんてざらにある。そんな世界で、それでも。確かにここで、誰かと愛を語り合った。
夜が明けるその時まで、番という特別な絆に縛られながら。朝を迎えても、その絆が消え去る事はないように。ただただ私は、祈る事しか出来なくて。

「もし全てが終わって、私達との別れが来たとしても。もしくは君が、聖杯戦争に巻き込まれて。ここに居る私達ではない、私達を見たとしても」
「…うん」
「それでも、マスター。どうか、覚えておいてほしい。心の片隅にでもいいから…ここに居た者が、誰かを愛し、誰かと番になったという事実を」
「…っ、うん…大丈夫…ここで起きた事は、全部覚えておくよ。安心して、エミヤ」
「あぁ…例え世界が忘れ去っても、君さえ覚えておいてくれたのなら。その愛は無意味じゃないと、私達の誰しもが胸を張って英霊として立ち向かえるから」

精神安定の効果を持つカモミールティーを、そっと彼女に差し出して。彼女は私の首に巻かれた包帯を見て、そっと微笑んでくれた。それを忘れたくない。
けれど私達は所詮は影法師で。本体ではなく分霊で、ここで感じた全ての心を座に持ち帰れるわけではないから。全てを覚えてはいられないから。
ここで番った誰かが、次出逢ったら敵同士だったなんて。そんな事は当然の世界で生きている。だからこそ、その重荷を背負わせてしまって申し訳ないが。
この旅の終わりまで、最後の最後まで付き従うから。だからどうか、旅の続きを君だけが歩き続ける。その先もずっと、ここに居た者を心に置いてほしい。

「エミヤはさ――エミヤは今、辛くない?幸せ…?」
「うん?私か?私は…そうだなぁ、そもそも幸せを甘受出来るような、そんな真っ当な存在ではないのだがね」
「もう!またそうやって、皮肉で本音誤魔化す!」
「ははっ、お見通しか。まぁ、そうだなぁ…今までで一番、恵まれた職場だと思うよ。こんな、穏やかな心持で居られる時間が…永遠に感じられるくらいには」

こんな、主人との他愛ない日常会話に付き合いながら。共に同じ紅茶を嗜んでしまうくらいには。ここに馴染んで、彼女との絆も深まった。
そのありふれた日常こそを、かけがえのない日々だと感じるくらいには。得難い物をあまりにも多く、ここで受け止めている。両手から溢れんばかりの光を。
だから近付いてくる、その存在を感じながら。それでも逃げる事はしなかった。私が彼から逃げる意味なんて、もうどこにもないのだから。


「おいアーチャー!テメェこんな所に居やがったのか!!」
「む、なんだね。騒々しい。私が何処に居ようと、私の勝手、っ!?」
「おいマスター、こいつ借りるぞ。明日は俺もこいつも、どんな求めにも応じねぇけど構わねぇよな?」
「は、はぁっ!?お、おい貴様、何を勝手に決めつけて――」
「っ、あはは!いいよ、今回の功労者だしね、二人は。思う存分、いちゃいちゃしてよ」
「なっ…!ちょ、こら、ランサー!!は、離せ!?ど、どこを触っているおいこら!!
「いって!!ちょ、本気で暴れんな!?だーもう!まどろっこしい!!」
「なぁっ!?ま、待て、抱え上げるなっ、降ろせ!降ろさんか、たわけ~~~!!!」


肩を抱くように拘束されて、それが拘束だと気付かずに。こういう奴だったのに。まさか昨日の今日で、手を出してはこないだろうと油断していた。
腕を引かれて強引に拉致される。激しく抵抗する私に埒があかないと思ったのか。ひょいっと軽々しく抱き上げて、そのまま連行される。
その途中で、土佐の三人とすれ違った。お互い大変だねぇ、と彼は笑っていた。それはもう、幸せそうに。だからそれだけで、私は満足してしまった。
明日、もしかしたら立てなくなるくらい愛されてしまうのかもしれないが。それでもいいだろうと観念する。だってこれは、私が選び取った運命なのだから。




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