light
pixiv's Guidelines will be updated on March 18th, 2026.
View details
The Works "優しいけど易しくない 世界と(槍弓)" includes tags such as "腐向け", "FGO" and more.
優しいけど易しくない 世界と(槍弓)/Novel by 湯屋

優しいけど易しくない 世界と(槍弓)

25,905 character(s)51 mins

彼女は笑う、楽しそうに笑う。様々なもう一人の自分に囲まれて、色んな結末を見届けて。幸福も悲劇も全て等しく美しい終わりとして受け入れる。
幸せだ、と泣いた。終わりのある物語であることに、嬉しくて嬉しくて涙する。幸せね、幸せよ。本に囲まれ、彼女はくるくる踊り笑う――

ちょっと不思議な槍→←弓です。たまに不可思議な設定で書きたくなるんです。

1
white
horizontal

優しいけど易しくない 世界と



「――……、…」

何か、なにか。そう、とても大切な何かを、忘れている気がしたけれど。それが一体何だったのか、思い出せないまま。瞼はゆっくりと瞬いていく。
微睡むような空気、音のない音楽、微温湯のような温かさ。確かに大切だったはずなのに、忘れてしまうというのは所詮その程度だったということか。
僅かな違和感に頭痛を覚えながら、ぼんやりと。現状を把握できないまま目だけが覚めて、意識が追い付かない。ここはいつで、どこだったか。
果たして自分は何だったろう。何も思い出せなくて、分からなくて。だからせめて名を、名前さえ呼んでくれれば…自分の意義を思い出せたのに。

「――おい、エミヤーっ」
「――…、………」
「エミヤー?まだ寝てんのかぁ?お前にしちゃ珍しく寝坊だなぁ」
「………あぁ、大丈夫、起きているよ」

名前を呼ばれ、視線だけを向ければ。そこには見間違うはずもない、青い槍兵の姿があった。勝手に人の部屋のドアを開けて、待ちぼうけをくらうように。
朗らかなその表情から、自分が待たせてしまっていたことを理解した。頭痛を振り払うように頭を振って、馬鹿らしい幻想を振り払う。
そうだ、恐らく寝すぎたのだ。珍しく、泥に浸かるように眠ってしまったから。思い出せない夢でも見たのだろうと納得して、寝台から起き上がる。

「すまない、待たせてしまったか。して、用件はなんだろう?」
「ちょっと狩り付き合ってくれや。お前が前言ってた、あー、なんかの葉っぱ?もいっぱいあるみてぇだしいいだろ?」
「葉っぱ…あぁ、そういえばハーブの生えている場所を見つけたと言われたんだった…でも、いいのか?君の狩りに私が同行しても」
「は?何今更遠慮ぶってんだよ。俺がついてきて欲しいって言ってんだよ。遠慮する仲でもねぇだろ?」

にかり、と笑われる。その笑みに何故か違和感を覚えつつも、その正体が分からず。だからそれが正しい。彼の言う通りなんだろう。
彼に誘われる狩りなど、それこそ数えきれないくらい赴いた。特別狩りが好きというわけではないのだが、補給物資が手に入るのは有り難い。
そういった理由で同行するようになったのだっけ。まぁそれだけではないのだが。何より気さくな彼の笑みが、それを伝えてくる。

「…そうだ、そうだった、な…すまない、まだいささか寝ぼけているようだ」
「おいおい、しっかりしてくれよ…?で?そのままで行くつもりか?まぁ、その姿でも俺はいいけどよ」
「ん…?あぁ、ッ」

眠る瞬間のラフな格好から、いつもの赤い外套へ戻せば。苦笑しながら彼が近づいてくる。そうしてわしゃわしゃと、髪を撫でられて気付く。
前髪が降ろされていた。眠っていたのなら当然か。苦笑しながら撫でる手を牽制していつも通りに戻せば。満足そうに彼も笑う。

「おう、いつものお前さんだな。っし、じゃあ行こうぜ、エミヤ!」
「あぁ、お供しよう――って、こ、こらっ、そんなに急がずとも獲物は逃げないぞ!」

まるで邪気のない笑み、心底楽しそうな声音に、気が付けば腕を取られていた。早く早く、と急く姿は散歩を強請る飼い犬のよう、とは決して言えないが。
腕を引かれ駆けていく。そんな我々の姿は最早ここでは当然の光景で。すれ違う誰もが穏やかな笑みで二人を見守っていた――


「で?今日は何を狩るのだね」
「この間、ここででけぇ鳥?みたいなの見つけたんだよ。ちっと手強そうでな…だからあれはお前と狩るって決めてたんだよ」
「…、…いや、別に私とでなくともよいのでは?他にも狩り好きの面子いるだろうに」
「俺が、お前と、狩りてぇってだけで理由になるだろ?それにお前の目当ての葉っぱもあるし。いいから付き合え付き合え」

ばんばん肩を叩かれ、ぐいぐい引っ張られる。相変わらず人の話を聞かないし、自由奔放な奴だ。だがそれに悪い気がしないのは何故だろうか。
仕方ない、と苦笑しながら。あくまでも彼に連れて来られたからと装い、心の奥底に滲む楽しさを隠しながら。軽口をかわし目的地へ向かう。

「――いた、ほらあれだ。でけぇだろう?」
「確かに大きいが…あれくらいなら君一人でも仕留められるだろうに」
「まぁそうかもしれねぇが。お前との共闘は燃えるし。あれ、料理できんだろ?」
「…なるほど、それが本音だな?」

そこには数メートルはあろうかという、とても大きな鳥がいた。まだこちらの気配には気付いていないようだ。ひっそり繁みの中から様子を伺う。
だがドラゴンでなければ猛獣でもない。彼の茨の槍で十分だろうに。それでも共に戦いたかった、と下心なしで言われては完敗だろう。
それに確かに、あの大きさならばしばらく鶏肉には困らない。そんな理由もあって誘われたのか。我ながら剣以外に扱える武器が多すぎる。


「さて――それじゃあいきますか。軽く仕留めようぜ?エミヤ」
「言ってくれる――君の期待に応えるためにも、全霊を持ってお相手しよう」


瞬時に茨の槍を取り出し、双剣を投影し。同時に駆け出していく、そのコンビネーション。彼が槍で薙ぎ払えば、その隙間を縫って双剣で切りかかる。
飛ばれては厄介だと翼を狙い、足を穿ち、切り伏せ斬りかかる。言葉はいらない、相槌は不要。相手が何を想い、何を目指すか呼吸で分かる。
あぁ、認めよう。何より楽しい戦闘だった。戦いに楽しさなど求めない。必要なのは効率。だがどうして、背中を預ける相手があるとこうも違うのか。
彼は目をぎらつかせながら、終始笑みを浮かべ。呪いの槍を投擲し、それに合わせるように弓矢を放てば。あっという間にそのダンスは幕を閉じた。


「いっちょ上がり、っと!いやー、てめぇとは息が合い過ぎて早く終わっちまうな。もったいねぇ、もっと剣捌きも射撃も見てたいのによぉ」
「…それこそ、私には勿体ない言葉だな。さて、さすがに大きすぎるな…部位事に分けたとしても、我々二人では手に余るか」
「切り分けてから、誰か呼べばいいんじゃね?さすがに荷物持ちまでは考えなかったな。てめぇと狩ることしか頭になかったし」
「まったく…それしか頭にないのかね?」

幕切れは呆気ないもので、大きな音を立ててその巨体は倒れる。そうして見渡せば、大きな卵まで発見し。ついでとばかりに頂くことにする。
必要以上に大荷物になりそうだと、苦笑しながら糸を投影する。それを巨大な鳥の切れ目に巻き付けて印をつける。

「何してんだ?」
「切り分けて運ぶのなら、部位事に切り分けてほしくてね。こうして目印をつけておくから頼めるか?その間に私はハーブを採ってこよう」
「お、なるほどな。じゃあさっさと採ってこいよ。こっちもさくっと終わらせとくからよ」

その言葉に頷き、少し歩いてはハーブが群生している場所に向かう。鶏肉にハーブがあれば、香草焼きがいいかもしれない。
あの大きな卵があれば、添え物にも困らないだろう。そうして今日の献立を考えつつ、ハーブを摘み取り戻れば、すっかり終わっていた託した作業。

「さすが、寸分の狂いもないな。頼んで正解だったよ」
「おう、だろ?なら終わりだな。まだ時間あるだろ?俺に付き合えよ」
「付き合う、って。まだ何か狩るのか?これ以上何を」
「いや、狩りは終わり。でもまだ時間余ってるだろ?なら、まだまだデートは終わらねぇ、ってな」

にかり、歯を向けて笑うその口から出た言葉に。思わずははは、と笑ってしまった。なんて乾いた笑みだったんだろう。それに彼は不貞腐れて。
いやだって、笑うしかないだろう。なんて不釣り合いで、相応しくなくて、だからこそくすぐったい言葉。茶化してもしないと、みっともない顔になりそうで。

「何をそんな、大の男が二人でデートなどと…」
「あぁ?好きな奴同士が出かけてんだ、立派なデートだろ?ほら、こっちこっち」
「ははははは」

あまりに彼が無邪気で、本当に楽しそうなものだから。どう反応していいか分からない。毎度ながら真っすぐすぎて対応に困る。乾いた笑いしか出ない。
だがきっと見抜かれてしまっているのだ。隠した顔に灯る熱も、隙間から見える緩んだ口元も。本当、馬鹿らしい。そんな事で喜ぶだなんて。
獲物を取られないようルーン魔術で結界を張り、再び手を取られ引っ張られていく。その背中の眩さに瞳を細めれば、更に眩い景色が広がる。

「これは――見事なものだな」
「だろ?綺麗だよなぁ…な、今度は釣りにしようぜ?いや、素潜りでもいいか」
「ふむ、次は魚か…悪くないな」
「いや、デートの誘いだって分かってるか?」

森林を抜ければ、辺り一面の草原、広がる青空。そして、崖の上から見下ろせばきらきら眩い水面。地平線の彼方まで、海原が続いていた。
あまりに美しい景色に微笑めば、満足というように彼も微笑む。その気高さ、美しさ、稀有さ。たなびく青の御髪が眩くて。自然と笑みが零れた。
いつ果たされるか分からない次の約束に頷いて。今日はここまでとばかりに引き上げる。あぁ、きっと。その海の蒼さを忘れることはないだろう。


「――あ、おかえり!槍ニキ、エミヤ、ってうわ!またいっぱい採ってきたね!?」
「あぁ、ただいま、マスター。すまないが、人手を寄越してくれないか?まだまだ荷物が残っていてね」
「うん、分かった!力自慢のサーヴァント達に頼んでくるよ!今日はまた美味しそうなの期待してもいいのかな?」
「うむ、腕を奮うと誓おうか。っと、調理番のサーヴァント達もいるだろうか。さすがにこの量は、私の手でも余るというものだ」

レイシフトから戻れば、マスターである彼女に出迎えられ。多く携えた手荷物を見てすぐに動いてくれる。そうしてわらわらと、力自慢のサーヴァントが集まり。
次々と調理場へ運ばれていく。手伝いたい、と告げてくれた女性陣にはハーブ類を頼み。あっという間に調理場は賑やかになった。
運よく居てくれた調理番のサーヴァント達に手伝ってもらい、さぁここからは私の時間だ。腕の奮い甲斐がある食材に囲まれ、やる気に満ちる。

「さぁ、ここからは私たちの番だ。君の獲物を、最高の姿でもてなすと約束しよう。暫し待っていてくれ」
「おう。ってか俺の獲物じゃなくて、俺らの獲物だろ?二人で狩ったんだからよ、そこんところ間違えるな」
「あぁ、そうだったな。間違えた、すまない」
「分かればいいんだよ。じゃ、邪魔にならない程度に観察してるわ。俺、お前が料理してんの見るの趣味だからなー」

見つけてきたのは彼で、仕留めたのも彼なのに。これは二人の手柄だという。彼のそういう所には本当に敵わない。敵うつもりもないのだが。
食堂からこちらが見える席に居座り、にこにこ楽しそうな視線を送る。気恥ずかしさを感じながらも、止める術を持たないからそのままにしておく。

「あらあらまぁまぁ。今日もクーさんはエミヤさんのことが大好きね」
「ははっ、見せつけてくれるねぇ。でもま、私は二人が幸せならそれでいいけどね」
「…からかうのはやめてくれ、頼光、プーディカ」

居た堪れない視線に囚われ過ぎないよう、調理に集中すれば。それを狂わせてくるのは何も彼だけじゃない。調理を共にする彼女たちにも敵わない。
だがその視線が、本当はからかう物ではないこと知っていた。彼女たちは間違いなく母の視線だ。慈しまれて、悪くはないが居た堪れない。
やはり女性には勝てないものだと苦笑すれば。じーっと見つめる視線がもう一つ。彼と同じように、調理中の私を間近から見つめていて。

「ふふっ、エミヤおじさま、楽しそう。楽しい?幸せ?」
「――ふ、まぁな…ほら、ここに居ても危ないよ。ジャックやリリィたちと遊んでおいで」
「ふふふっ、はーい!」

長い三つ編みを揺らして、にこにこと微笑む彼女のその無邪気さに。だからそれが、悪い物ではないのだと瞬時に分かってしまった。
棚から飴玉をいくつか取り出し、彼女たちと食べておいでと手渡す。それを受け取り駆けていく彼女の姿を見つめながら、最後まで見届けなければと思った。


「――お待ちどう様」
「おう!待ちくたびれたぜ!美味そうな匂いが漂い始めてから限界だったぜ」

ことり、彼の前に料理を差し出す。鶏肉の香草焼きに、添え物として新鮮なスクランブルエッグを添えて。作り置きのスープとサラダも忘れずに。
我ながらいい焼き加減だと自画自賛して。後は美味しく食べてもらうだけだ、と満足すれば。じっと彼に無言で見つめられた。

「ん?何か足りない、あぁ、酒か?ちょっと待ってろ、今用意し――」
「違ぇよ。てめぇの分は?それ持ってさっさと席に着け。一緒じゃねぇと食べないからな、俺は」
「――分かった分かった、同伴するからそう怖い顔で睨まないでくれ」

何か求められているのかと思い、酒が思いついて持ってこようとすれば。ぱしりと腕が捕まれ、許さないとばかりに睨まれる。
あぁ、そうか、なるほど。私は人に施すのが趣味で、自分の分は勘定に入れていない。それを見抜いて、それに怒っているのだ、彼は。
その優しさに思わず口元を緩め。すぐに自分の分を用意する。もう給仕はしなくていいと調理場からも追い出され、仕方なく彼の席に腰を落ち着かせる。

「――いただきます」
「どうぞ、召し上がれ。私も…いただきます」

両手を合わせて、私の国のマナーに従うように。感謝の言葉を込めて、そう囁く。その甘さに、自分の作った料理の味など分からなくなりそうだった。
必要のない心配だったかもしれないが、それでも感想を求めてしまう。もっとも、その浮かんだ笑顔だけで全てが語られてしまっているのだが。

「うんめぇぇぇぇ…相変わらず、俺の嫁さんの飯は最高だな~」
「誰が嫁だたわけ。まぁ、気に入ってもらえたなら何よりだ」

満面の笑みを向けられ、悪い気はしない。手を止めずに食べ続ける彼を見続けながら、自分もフォークを手に取った。我ながら悪くない味付けだ。
材料が新鮮なおかげもあるだろう。和やかで穏やかな空気のまま、皿が空っぽになるまで。他愛ない話を彼とし続けた。

「食った食ったー!ごちそうさん!今日も最高に美味かったぜ」
「ご馳走様。相変わらず見ていて心地いい食べっぷりだな、君は」
「美味いんだから残すはずねぇだろ。あ、片づけか?俺が皿洗っておくから、お前はお茶でも飲んでろよ」
「そうか?なら…せっかくだし頼もうか」

自主的に私の皿まで持っていき、いいっていいってと笑顔で片づけをする槍兵。その姿があまりに珍しいので、浮かべた笑みが止まらなかった。
暖かな日本茶に心身共に温めて、見守る視線に気付きながら気付かないふりをした。まだ日付を回るまでは暫くの猶予がある。

「終わったぜ~さて、この後はどうすっか」
「そうだな…他愛ない話をして、一緒に風呂にでも入って…共に寝ることにしようか」
「ははっ、いいなそれ。最高に幸せな時間だぜ」

誘うように彼の部屋へ赴き、そうしてなんでもない話をし続けた。終始笑みを浮かべ、穏やかで優しい声音に耳を傾けながら。
共に風呂に入り、まるで子供のように無邪気に背中を流したり髪を洗ったりして。そこに艶っぽさはまるでなく、だから安心して身を委ねられた。
彼の長い髪を拭いて乾かして、寝台で寛ぐ。だから、もうそれだけで十分だった。それ以上は贅沢過ぎるし、何より溺れてしまいそうだったから。

「――行くのか?」
「――あぁ。眠れない子供に、ホットミルクを淹れてあげなければならないからな」
「…そっか。お前らしいな」

彼がラフな格好で寛ぐけれど、私はいつもの外套のままだった。たったそれだけのことで、彼は全てを把握してしまったのだろう。
だから、彼は許してくれた。振り返らずに、部屋を後にする。未練は既に焼き切れている。それだけ幸せな時間を過ごすことができた。


「じゃあな、エミヤ。楽しかったぜ」
「こちらの台詞だと言わせてもらおう。またな」


手をひらひらと、挨拶はたったそれだけでいい。仕組みは分からずとも、それを理解している。その矛盾、その齟齬、その違和感。
全てがいつも通りで、その中でたった一つだけが違っていて。だからそれこそが答えなんだろう。ならばそれを、私は選ばなければならないから――



「――あら、エミヤおじさま?こんな夜にどうしたの?」
「――それはこちらの台詞だよ。眠れないのなら、ホットミルクでも淹れようか」
「ふふっ、ありがとう。じゃあ遠慮なく頂こうかしら。本当は楽しくて眠れないだけなのだけれど」

くるくる回って、ふわふわ笑う。長い三つ編みを揺らす少女は、いつものように楽しそうに。にこにこと食堂で一人世界を眺めていた。
小さな少女、可愛らしい少女。優しく笑みを零し、二人分のホットミルクを淹れて。同じ席に着き、一日の終わりをゆっくりと眺めていた。

「随分と楽しそうだな…何か良い事でもあったのか?」
「ふふふ、だって楽しいわ。とってもとっても楽しいの。幸せなお話は、いくつ見ても飽き足りないわ」
「そうか…君が幸せそうで何よりだ」
「楽しいわ、とってもとっても楽しいわ。おじさまもそうでしょう?」

無邪気に満面の笑みで彼女が歌う。きらきらと、きゃらきゃらと。だからこそ、これは悪い物ではなかった。疚しさも悪徳も不純物は一切なかった。
だからこそ、気付くのに少し遅れた。悪意あるものならば、瞬時に反応できた。だがそうでないから戸惑い、甘受し、そして理解した。
これはなんて、幸せな夢だったのだろうと。彼女はただ、私の幸せを祈っているに過ぎなかった。誰かの為の祈りを、どうして跳ね除けられただろう。


「あぁ――とっても幸せだったよ。だからこそ…可憐なレディ」
「――え」
「私は――帰らなくてはならない」
「―――――――――――いやよ、」


彼女の名前が分からない、だから名を呼べない。それでも悪い少女ではなかったから。最大の敬意を払って、私は彼女にさよならしなくてはならない――



「うわぁ、本だらけ…別に嫌いってわけじゃねぇけどよ、ちまちました敵は苦手なんだよな~」
「ごめんね槍ニキ~今ちょっと作家陣が原稿中でさーここには来たくないって言ってて」
「文句を言うな。マスターの命に従うのが我々サーヴァントだろうに」
「そうよねぇ、これだから野蛮は戦士は…たくさんの本に埋もれていいじゃないの」

本に強く得意な作家連中は、やれ原稿に忙しいだの働きたくないだのと。都合よく逃げ回っては素材集めのレイシフトに参加しようとしない。
だからこうしてこちらにツケが回ってきた。まるで運命のように繋がれてしまった赤い弓兵と、希代の魔女を連れてロンドンへ赴く。

「まだ頁とやらは足りねぇのか?マスター」
「うん、あとちょっとなんだけど…ごめん、もう少しだけ付き合って。集め終わったら好きなことしていいからさ」
「しかし…本当に凄いな、この場所は…見事に本だらけだ」
「面白そうな本がたくさんあるのよねぇ。少しくらいなら持って帰ってもいいかしら?」

魔力を孕んだ小さな本を切り伏せるだけの簡単なお仕事。だからこそ退屈で仕方なかった。この槍はもっと大きな獲物を欲している。
それに、せっかくの彼との共闘だというのに。これじゃあ背中合わせで戦うこともできやしない。まぁ、共に居れるだけでも嬉しいのだが。
だから、少し油断していたのかもしれない。マスターもいて、あの魔女もいたというのに。それに気付けなかった自分の浮かれ具合が悔しくて。
彼の幸運値の低さが呼び寄せたのか。不意に彼が手に取った一冊の本が、淡く光り出したかと思ったその瞬間。強烈な閃光に包まれる。

「っ、おいアー」
「ッ、来るな、ランサー!!」

魔力の奔流、津波のような洪水。思わず手を伸ばすが、見事に突き飛ばされる。手を伸ばしたのに、掴めなかった。だからそれこそが失態。
対魔力の低さを知っていた。なのにどうして彼は自分を庇うような真似をしたのか。巻き込ませないと必死なその表情が焼き付いて離れない。

「え、エミヤ!?」
「ちょっと、何事!?」
「おい、アーチャー、アーチャー!?」

光が徐々に収まり、空間が元に戻る。弓兵は、確かにそこにいた。だが安心したのも束の間、彼はふらりと揺らいで。思わずそれを抱きとめる。
何らかの魔術が干渉したのか。彼はぴくりとも動かない。まるで眠ってしまったかのように、酷く静かにそこに横たわっている。

「おいっ!っち、何だ、何の魔術だ…?…ルーンが効かねぇ。キャスター!」
「えぇ、分かってるわ待って。――――駄目、呪いじゃないみたい。解呪できないわ」
「っ、私の礼装でも駄目っ…どうしよう…!」

色々な方法を試すが、どれも上手く作用しない。原因が分からないから、何をすればいいのか対処できない。なんという歯がゆさ、悔しさ。
ただ眠っているようにしか見えない。だからこそ厄介なのだ。これが永遠に目覚めないような、そんな予感をふつふつと湧きあがらせるからだ。

「一体何が原因で…ランサー、貴方何か見てないの!?」
「何かって何…、………本、そうだ、こいつ、何か本に触って、」
「本…?彼、何も持ってないわよ…?でも、本が原因というのはありそうね…マスター」
「っ、うん、分かってる。作家組呼んでくる…!」

強く頷き、まだ幼い彼女は急いでカルデアと連絡を取る。緊急事態だ、誰しもが彼女の力となってくれるだろう。本に込められた呪いだとでもいうのか。
それなら自分は専門外だ。何もできないのが本当に歯がゆくて悔しくて。だから早く目覚めやがれと、唸るように彼を見つめるしか出来なかった…



「――どうして…私、何か、間違えてしまったの…?」
「いいや、君は完璧だった。世界、人物、空気…どれをとっても、私の知るカルデアに違いなかったよ」
「なら、ならどうして………貴方は気付いてしまったの…?」
「何より、レディ。君が私の知る人物ではないんだ。一番近い人物の霊基を借りたのかもしれないが、私の知るナーサリーは、そんな色をしていない」

今にも泣きそうな彼女は、確かに外見がナーサリー・ライムそのままだった。形だけ見れば、瓜二つで気付かなかっただろう。
だからこそ、その決定的な違いが浮き彫りとなった。彼女は色を反転していた。黒い三つ編みに、白いドレスに身を包み。誰しもがそれに気付かない。
それこそが大きな違和感。彼女こそがこの世界の創造主と見て取れた。泣きそうな彼女を見つめ、落ち着かせるように穏やかに微笑む。

「何より、私の知るランサーは…私のことを、エミヤとは呼びはしないんだ」
「っ、で、でも…!呼ばれたいって、そう、思っていたでしょう…?」
「…あぁ、そうなのかもしれない。だからこそ、ここが私の知るカルデアではないと分かったんだ。何よりその彼こそが、違和感の塊だったからね」

始めに私を出迎えた彼、その口から零れたあまりに親密な呼び声。当たり前のように名前を呼び、自然に私に触れて語り掛ける。
それこそが幻想だった。まるで、私の願望を叶えるかのように。甘く柔らかく、儚い夢だ。彼女は夢魔だとでもいうのだろうか。

「君に悪意が全くなかったから、こうして身を委ねてしまったんだ…でももうすぐ、一日が終わる。ならば魔法は解けなければならないだろう…?」
「――そう、シンデレラを知ってるのね、貴方」
「あぁ、有名な話だからね…魔法が解ける前に、君の目的を聞いてもいいだろうか」

ここでは時間はあってないようなもの。でも、私の願いを叶える夢のようなもので。意識すれば自分が焼いたクッキーもテーブルの上に乗せられた。
思い通りの世界、意のままの空間。だがそれに溺れるわけにはいかないのだ。例え彼女を、泣かせることになってしまっても。

「――だって物語は、ハッピーエンドじゃなければいけないの。そうでしょう…?」
「ふむ…そうだな、悲恋も悲劇もそれはそれで悪くはないが…白状するなら、私とて幸せな結末を見届けたいものだな」
「そうなの、私はハッピーエンドを生み出すために創り出された。なのにそれを知らないから…だからどうしても、見てみたかったの」
「…ハッピーエンドを、知らない…?」

彼女がナーサリー・ライムによく似た姿なのは、本質がとてもよく似通った物ではないか。そう考えた。自分が目覚める前の出来事を思い出す。
確か、古びれた一冊の本を手にした。その瞬間眩い光に包まれて、気が付いたらここにいた。だからここは、あの本の世界ではないかと思うのだ。
生憎、意識して取った本ではなかったので。タイトルが分からないのが悔やまれる。でも、結末を知らないという言葉には違和感を覚えた。

「恋人たちは、幸せでなくちゃいけないの。そうして二人仲良く幸せに暮らしました、めでたしめでたし…私は、そういう物語でありたいの」
「…待て、私と彼は、別に恋人というわけでは」
「でも、貴方の意識に語り掛けたら、あの男が浮かび上がったわ。貴方だって、彼と二人で幸せそうだった」
「う、っぐ…き、君のような幼い少女から語られるのは、いささか心苦しいものがあるな…」

彼女が願い、私が望んだ。そんな世界だというのなら、確かに彼の配役は正しい。本物ではなかったから、私は彼の名をそう呼べなかったけれど。
確かに心に一番強くあるのは、あの光の御子だと認めよう。だがこんなに甘い関係ではないのだ。甘酸っぱくて、頬を染めてしまうようなこんな我々では。
それも大きな違和感の一つだった。彼女と彼と、その矛盾点が綻び。でも甘言もなければ、毒でもなかった。だから様子を見るしかなかった。

「…そうだな、認めよう。私はあの男に、一方的な思いを抱いている」
「そうでしょう?そうでしょう?それがここでは叶うの。ずっとずっと両想いで、幸せで最高な結末なの。だから」
「――あぁ、ここは幸せな空間だな。だからこそ…私は帰らなければならないのだよ、すまない」
「――どうして、ここはこんなにも幸せで、暖かくて、心地いいのに」

泣いてしまいそうな大きな瞳に、現実を突きつけるのは心が痛む。彼女がどうしてか、私の幸せを形にしたがっているのが分かる。
そして純粋に、ただそれを見ていたいだけなのだと。理由は分からないが、彼女はそういう物語なんだろうか。まるで竜宮のお城のよう。
それでも、暖かければ暖かいほど。幸せならば幸せなほど。なおさら帰らなくてはという思いが強くなる。私の現実は、ここではない。

「そうだな…ここはとても平和なのだろう。誰かが傷つくことも、傷つけあうこともない、優しい世界だ。君の想いに満ち溢れている」
「なら…ここにいましょう?ずっといましょう?ここなら何もかもが、貴方に優しい世界だわ」
「…すまない、それは出来ない。私がここにいることで、現実の彼らを、悲しませてしまうんだよ」
「――…、………」

ここはとても暖かくて、幸せで。これから戻ろうとする現実では、戦えば血を流すし。何かを失うこともあれば、過酷な特異点へ挑むこともあるだろう。
だが、それこそが現実だ。だからこそ、その一瞬一瞬を必死で戦い抜くことができる。何よりその過去を、なかったことにしたくはない。
過酷な現実でも、幸せばかりでない事実でも。それでもそこに、確かに居たい。例え彼と甘い関係でなかったのだとしても、ここで溺れることはできない。
外で自分がどうなっているかは分からない。でも聞こえる、確かに聞こえる。自分を呼び続ける声が、確かにこの胸に届くから。

「ここで私一人幸せになっても意味がないだろう…?外で彼が、自分のせいだと泣いてしまうかもしれない。君も、誰かを悲しませたくはないだろう?」
「――でも、それじゃ、それじゃあ私は…?私は、どうすればいいの?もう嫌、一人で、幸せな結末を探し続けるのは、もう嫌なのっ」
「――…、……」

ぽろぽろと、大きな瞳から無数の涙が零れ落ちて。ぽたぽた、真っ白なカップの中に吸い込まれていく。甘いだけの夢は、終わってしまった。
彼女はずっと、一人だったといった。あの書庫で、埋もれてしまっていたのかもしれない。ならばそんな彼女を、拾い上げると誓うから。

「そうだな、あそこで独りぼっちは寂しいな…なら、私が君を持ち帰ろう。それなら寂しくないだろう?」
「…でも、駄目、駄目なの…私は、途中だから…もう一人の私が、ずっとずっと見当たらない。だからずっと、ハッピーエンドにはなれない」
「…あぁ、そうか。君はまだ、途中なのか…だからハッピーエンドが見たくて、この世界を描いたのか…」

確かに、ここは幸せな世界だ。私が望んだままの世界。だがそれは、彼女が望んだ世界でもあった。ならば、それが答えなのだろう。
独りぼっちで、終わることのできない彼女。ならば私がそれを、何としてでも終わらせてみせよう。それが最大限、彼女に与えられる報いだから。

「――ならば、私が君を必ず、ハッピーエンドに導くと誓おう」
「――ほん、とうに…?」
「あぁ、必ず。約束するし、誓う。信じられないのなら、指切りでもしようか」
「………うん、」

柔らかく微笑んで、小指を差し出す。おずおずと重ねられるのは、なんて小さな指。ぎゅっとそれを握り、呪いにも似た誓いを小指に宿す。
約束しよう、孤独にしないと。全てを救うことのできない私だけれど、それでも目の前の命を無駄にはしたくない。そう、自然に思えるから。


「――約束よ、おじさま…必ず私を、ハッピーエンドに導いてね」


泣き顔が、ふわり、優しい笑みに変わる。だからそれにこそ、報いたいし、信じたい。遠い誰かに、救われた男の笑みを重ねながら。
甘い夢が、終わる。暖かな空間が、消え去る。全てが夢想となり、泡となって、眠りに落ちるように、夢から醒めるように。現実へと引き戻される――



「おい、なんだ急に呼び出して…仮眠中だったんだ、高くつくぞ?」
「どうしたの?どうしたの?エミヤのおじさまに、何があったの?」
「ごめん、上手く説明できなくて。とりあえずエミヤを見てもらってもいい?呪いじゃないって、槍ニキとメディアは言うんだけど」

本に埋もれたその場所に、外見ばかりは幼い二人はよく馴染んだ。この場所に最も馴染みのあるサーヴァントは、紛れもなく二人だっただろう。
相変わらず眠ったままの彼に、アンデルセンとナーサリーは近づいた。魔術に詳しくなくとも、本に込められた思いならば読み取れないはずがない。

「…フン、なるほどな。おい、これはお前のカテゴリーだろう?ナーサリー・ライムよ」
「何か分かったの!?」
「これは――そう、貴女はずっと、忘れ去られてからもずっとずっと…ハッピーエンドだけを探し続けていたのね…」

幼い少女が、哀しそうに微笑む。そっと彼の体に触れた途端、一冊の本が現れた。その本は、まるで最初からそこにあったみたいに。
大切そうに、弓兵が抱えていた。それに誰しもが驚くが、二人だけは驚かなかった。その本の真意も、正しく読み取ってしまえたから。

「こんな朽ち果てた場所で、それでも誰かを待っていたとはな…一途なほど哀れさは増す。いっそ燃やしてやった方が本のためか?」
「あら、そんなの私が許さないわ!だってこの子は、物語の途中で、それでもずっとずーっと、ハッピーエンドを待っていたのよ。それを今、叶えられてるの」
「あー…悪ぃ、嬢ちゃんら。俺達にも分かるように説明してくれねぇか?」

危機感のないやりとりに一瞬脱力しながら、それでも聞かずにはいられない。彼らの様子からして、命を落とすような呪いではないと信じたい。
生憎、どんな効力か。その本は彼の腕から離れそうになかった。無理やり取ろうとすれば、当の本人である弓兵がそれを拒んでいるのだから。

「その本のタイトルをよく見てみろ…フン、『恋人たちの物語』か…まるで捻りのない、駄作中の駄作だな。反吐が出る平凡さだ」
「もうっ、いいじゃないシンプルで!私は好きよ。きっととっても、愛しい恋話が詰まっているんだわ…でも、だから哀しいの。だってこの物語は、終わらない」
「終わらない…どういう意味、あっ」
「この本…上巻、って書いてあるわ…終わらないって、そういうことよね?」

作家の小さな指がなぞる背表紙には、『恋人たちの物語』と記してあった。作者は誰も知らなかったから、有名な人物ではないのだろう。
終わらない、と少女は言う。それはこの本が、上巻とだけ書いてあることを意味しているのだろうか。まだ途中、終わらない物語。

「じゃあ、下巻を与えてやりゃこいつは目覚めるのか?」
「フン、馬鹿め。ここに下巻があったのなら、そいつはそんな事にはなっていないだろう」
「どういうこと…?」
「…この子は、ずっと終わりを探して待ってたの。でも、それはきっと与えられなかった…だから、それなら…自分で物語を作ってしまうことを選んだのね」

優しい手で、少女はその本を撫でる。慈しむように、憐れむように。全ての本の味方である少女は、どんな物語でさえ愛してみせるのだろう。
喜劇も、悲劇も、幸福も、失恋も。全ての物語に終わりがあるのなら、それを与えられない本はどれほど寂しいだろうと。

「与えられなかった、ってのは…あー、つまりは下巻は出なかった、っつうことなのか?」
「なんだ、少しは考える知能もあったんじゃないか。まさしくその通りだ!作家が息絶えたか?それともあまりの駄作加減に出版できなかったか?」
「もう、理由なんてどうでもいいでしょう!とにかく!この子は終わりを与えられなくて、ずっとずっと独りぼっちで寂しかったの。だから、」
「…だから、アーチャーを取り込んで、結末を作り上げようとした…?…この空間に居た本なら、それくらいの魔力を持っても仕方ないわね」

その本は、ずっとずっと待っていて、待ち望んでいたという。終わるための結末を。出版されなかった下巻、ずっと途中のまま続かない物語。
あまり本を読まない自分には分からない。だが終わらない物語というのは、本にとっては残酷なのかもしれない。その本は、永遠にも近く待ち続けた。
たかが本だとしても、それだけずっと強い想いを持ち続ければ魔力とて宿るだろう。だがそれで、彼が連れ去られるのは許せない。

「じゃあなんだ?こいつは今、この本の中にいるのか」
「えぇ、そうね。きっとこのタイトル通り、幸せな恋人の夢を見せられてるんだわ。だってこの子は、それしか世界を知らないはずだもの」
「恋人――」
「…ハッ、これは駄作を通り越して傑作だな。こいつがその夢を望む限り、目覚めることはなかろうよ。叶うはずのない、幸せな夢ならなぁ?」

その本のタイトルが『恋人たちの物語』だというのなら、取り込まれた弓兵もその通りの夢を見ているという。恋人と過ごす幸せな夢を。
あぁ、ならば尚更許したくない。彼の思う人が誰なのかは分からない。だが今ここに現実に居る自分より、彼を思う奴がいるとは考えたくもない。
自分以外と寄り添う弓兵など見ていられないだろう。でも彼が誰かと寄り添う夢を幸福だと思っているのなら、そこから目覚める理由もないのだと。
小生意気な作家に全てを悟られ、揶揄われたとしても。それでも弓兵の眠りを妨げたい。彼の幸福を壊す事になろうとも、それは所詮夢でしかない。

「こいつを起こすにはどうしたらいい?この本を壊せばいいのか」
「そんなの絶対駄目よ…!そんなことをしたら、それこそおじさまは永遠に目覚めなくなってしまうわ」
「じゃあどうすりゃいいんだよッ…!」
「お、落ち着いて槍ニキ…!ねぇ、何か方法があるんでしょう…?」

茨の棘を取り出し、本に突き刺そうとすれば。少女が必死になって止める。壊せばいいのなら簡単に壊してやれた。だが事態はそんなに簡潔ではない。
苛立ちと焦燥だけが募る。らしくない、情けない。それでも彼が目覚めないなどと、そんな運命は許したくない。そんな離別は許されない。
マスターの懇願の声に、少女と見た目だけは幼い彼も。考え込み、答えを出せないでいる。それほど深い眠りからの目覚めは、難しいというのか。

「こちらから何を仕掛けても、夢には届かんだろう…奴が、夢より現実の方がいいと自力で目覚めん限りは、どうしようもなかろう」
「そんなっ…だって、幸せな夢なんでしょう…?そこから目を覚ますだなんて、どうすればっ…」
「――この子は、ハッピーエンドを願ってる。なら、こっちから幸せな結末を与えてしまうってのはどうかしら?そうしましょうよ!」

いやこいつなら、と思うのは。その面倒な性格を知っているからだ。現実主義者で酷く達観している彼ならば。作られた幸福に身を委ねたりしないだろう。
だが対魔力が低いから、それを夢ではなく現実と認識させられていたら。確率は五分五分だ。前者の可能性を信じたいけれども。
誰かと寄り添う彼を攫ってしまいたい――あぁ、それこそこの手で幸福を与えらえたらと。夢想していたら、少女がそんなことを言い出して。

「幸せな結末、ってどんな…?」
「もちろん決まってるわ!お姫様は王子様のキスで目覚めるの!」
「――なるほど。そうして二人は幸せに暮らしました。めでたしめでたし、というわけだ。だそうだ、そらご指名だぞ。光の御子殿…?」
「――ハァッ!?」

少女は無邪気に笑う。彼女は童話から生まれた存在だ。彼女向けの童話なら、その結末こそがハッピーエンドなのだと。
にやにや、作家が笑う。魔女までもがにたにたと。マスターはそれで助かるなら、と奮いつつもなんだか楽しそうで。

「お前らな~~~っ、遊んでる場合じゃねぇだろうが!」
「あら、お嬢ちゃんはとっても真剣よ。ねぇ?」
「えぇ、だってハッピーエンドはそうでなくっちゃ!」
「あーあーあーあーーーー!!!」

誰かにこの秘めた思いを告げたつもりはないのに。そんなに一目瞭然だというのか。皆してにやにやにたにた人のことを小馬鹿にしやがって。
だが悔しいことに、それは事実だ。俺はこいつに惚れている。だがこいつはそうではない。哀しいかな、一方的な片思い。
それを覆せるものなら覆してやりたい。葛藤するのも束の間、周りからは口付けを囃し立てる声が煩く捲し立てる。ならばそれに、応えてやろうじゃないか。

「だーっ、分かった分かった!すりゃいいんだろ、すりゃあ!!」

横たわる彼の顔に近付いて、まじまじとその顔を観察する。綺麗な、整った顔だ。白い睫毛に彩られた瞼が、僅かだが震えている。
眠っているだけのその表情は、何故か自分には哀しそうに見えた。こいつは分かっているのでは、とさえ思う。夢と現実の違いを。
ならば無理やりにでも起こしてやろうか。本当にそんなカラクリで目を覚ますというのなら。吐息が聞こえる距離まで、ゆっくりと影を落とし――



とても良くできた夢だった。非現実的など微塵もなく、些細な違和感も潰えてしまうような。そんな、望んだ世界で、祈りに満ち溢れた奇跡。
だが彼だけが違った。彼だけが、私に優しすぎた。だからそれは彼じゃなく、幻だった。それこそが、決定的に違っていたからこそ気付けた。
これは現実ではなく、夢なのだと。最初は悪夢の呪いかとも思ったのだが、それは違った。悪意とは真逆の、善意に満ち溢れた真白き夢。
悪意ならば切り伏せた。善意に見せかけた狂気にも対抗できた。だがどちらでもなかった。あったのは、幼き少女の儚き祈り。

(――でも、あの世界は、私の世界ではない…)

誰も戦わなくていい世界、血も涙も見ることはない。誰もが幸福に暮らしていて、足りない物など何もない。全てが満たされ完結した世界。
だからこそ、自分にそこは相応しくない。数々の戦場を越え、血も涙も浴びて。そうして答えに辿りつき、そして今も誰かの為に戦い続ける。
その意義からは逃げられないし、逃げたくない。何よりその途中だったからこそ、彼と出会えて。こうして今、共に居ることができる。
そこに甘さなどなくていい。一方通行な思いだったとしても、それは願ってはいけない夢。叶えられることのない幻想だからこそ、胸に抱いていける。

(だから――私自身の、幸せな結末は見せてあげられそうにない…あぁ、これでは約束を破ってしまうことになるかもしれないな…)

この想いは遂げてはいけない。この想いに幸せな結末はない。どう見てもバッドエンド。それが分かっていても、現実に戻らなければならない。
夢に逃避は許されない。自分自身の幸福を見せてあげられずとも、他に違う形はいくらでもあっただろう。私などの恋より、彼女の望む可愛い恋が。
それを現実で探して届けるから、だからどうかそれで許してほしいと――漂う現実感。もうすぐ目覚めが近い。瞬きは増え、ゆっくり目を覚ます――


「――…、………アーチャー………?」

「――………、………ランサー、………あぁ、そうだ………それで、いい、んだ………」


目の前に、なんとも近い彼の顔。驚いているのか、目を見開いて。名を呼ぶ彼の声は、私の真名を告げはしない。だからそれが、現実だ――


「アーチャー!お前起き、ぐはっ!!」
「――近いわ、たわけ…」
「エミヤ!!」

あまりに彼の顔が近すぎて、動揺するまま彼の腹に拳を叩きこんで距離を取らせた。いささか乱暴だったかもしれないが、寝起きなんだ許してほしい。
咽込む彼を放っておいて、ゆっくり意識を取り戻す。僅かな頭痛と眩暈は、魔術の後遺症だろうか。それでも体に、異常はなさそうだった。

「マスター…、…すまない、私は…少し眠っていただろうか…?」
「っ、うん!そう、そうだね…ただ、寝ちゃってただけ、なんだよね、エミヤは…うん、うんっ…それでも…目覚めてくれて、良かったっ!」
「…心配を、かけたようだな」

涙目で抱き着いてくる彼女を受け止めて、頭を軽く撫でてやる。どれほど眠っていたのかは分からない。だが心配をかけてしまったようだ。
見渡せばそこは本に埋もれた場所で。共にレイシフトした槍兵と術士以外に、少女と作家の姿を見つけて。かけた迷惑の重さを知る。

「すまない、君達の手を煩わせてしまったようだな…と、何故ナーサリーはそんなに不貞腐れているのだね…?」
「おじさまが、一人で勝手に目を覚ましてしまうからだわ!こんなの望んだハッピーエンドじゃないもの!」
「うん…?…すまない、説明してくれないか。目覚めてはいけなかったのか?私は…」
「いいや?絶妙なタイミングでの起床だったと褒めてやろうじゃないか。生憎俺はひねくれていてね、悲劇の方こそ好むからなぁ!」

頬を可愛らしく膨らませて、不貞腐れた顔を隠しもせず向ける彼女と。対照的になんて楽しそうに悪い笑みを向ける彼と。全く現状が理解できない。
とりあえず、術から解けたのだ。それをよしとしよう。この現実感こそ、戻ってきたのだと知るのに手早い方法だった。

「っ、てんめぇな~~~!!痛ぇじゃねぇか!!」
「必要以上に近い君が悪い。さてマスター、手間取らせた分、汚名返上を――」
「エミヤ…?…あぁ、その本。ずっと抱えていたんだよ」
「――…、………」

煩い槍兵の言葉は無視して、勘を取り戻そうと立ち上がる。そして気付いた。自分が一冊の本を手にしていたこと。まるで最初からそこにあるみたいに。
先ほどの本だろう。背表紙をなんとなく見やれば、そこに書かれたタイトルに。なるほど、と納得すると共に自嘲するしかなくて。

「『恋人たちの物語』、か…ふ、なるほど…我ながら、くだらない夢を見たものだ」
「え…?エミヤ、もしかして…悪夢でも、見てたの?」
「いや、真逆だよ、マスター。悪夢でなかったからこそ、滑稽だと思ったのだ」

酷く現実味のある世界で、滑稽な非現実的幻想だった。自分の想いを嫌というほど自覚させられて。そしてその叶わなさを突きつけられて。
叶わなくていい、報われなくていい。自分とでは駄目だ。釣り合わないどころではない、不幸にさせる。自覚しているからこそ、その幸福が痛かった。
自分がそんなことを望んでいたのかと、突きつけられて。恥じ入るしかない。子供でもあるまいし。だからこそ、この本に見せるべき結末ではないのだ。

「ナーサリー、彼女は恋人たちの幸せな結末を望んでいた。それは、どんなものがいいだろうか?カルデアの面子なら、一体誰が相応しく」
「――駄目よ、おじさま。この子は、おじさまに一番最初に出会ったの、出会ってしまったの。それは運命だわ。その運命は、覆せないの」
「…どうしたって、私の結末でなければ駄目だと…?それは…残念ながら、無理なんだ」
「でも、約束したのでしょう?ならその約束を、守ってあげて。この子は何より、ただエミヤのおじさまの幸せを、願っているだけなの」

約束したから、幸せな結末を届けると。どうすればいいか分からないが、本ならば読んでほしいと思うに違いない。忘れられたくないのなら、尚更。
だから誰か、寄り添う恋人たちに読んでもらうのはどうかと思ったのだ。それで彼女が少しでも報われて救われてくれればと、思ったのは嘘じゃない。
でも他の誰かでは駄目だと、少女は告げた。本を掴む私の手をぎゅっと握って。どうかその本の夢を奪わないでほしいと、痛切に訴えかけるのだ。

「それは――難解、だな…」
「――アーチャー、」
「…、……分かった、できる限りの努力は、してみるよ。それでも無理だったなら、その時は素直に謝罪しよう」
「えぇ、頑張ってあげて。でも、きっと大丈夫だわ。私が保証してあげる!」

行動する前に諦めるなど、私らしくなかった。例え微塵も可能性がなかったとしても。玉砕するくらいの覚悟を持たなければ、彼女に申し訳なかった。
初めて出会ってしまった他人が、私という不幸。それでも彼女は、こんな英霊崩れに託した。たった一つの己の願いを、私に託したのだ。


『――約束よ、おじさま…必ず私を、ハッピーエンドに導いてね』


その瞳は、潤んでいて。不安と戸惑いを隠せずにいた。躊躇いの視線を私に向けていた。初めて出会った他人である私に向ける、縋る眼差し。
信じたい、信じてみたい。疑うことを知らぬ彼女は、それでも震える指で私に託した。ならばそれに応えない方が嘘というものだろう。


「――…マスター、すまない。私はこの彼女との約束がある。それを果たさずしてここから帰れない。すまないが先に戻っていてくれないか?」
「えっ…、…大丈夫、なんだよね…?またさっきみたいな事には、ならないよね…?」
「あぁ、大丈夫だ。何、もしもの時のために、そこの槍兵を見張りに付けてくれれば構わない。暫し、付き合ってくれるか?ランサー」
「…、…あぁ、また倒れられちゃこっちも困るんでね」

本を示して、マスターに告げる。一瞬不安そうな顔をしたマスターであったが、それも当然だろう。私自身、完全回復とは言えない事態だった。
でもだからこそ、と念を押す。ここで逃げては、この願いは解けない。そして都合よく、彼を引き留めるよう誘導して。

「行きましょう、マスター。おじさまなら大丈夫だわ。それに彼も付いてるし、私たちは邪魔になるだけよ」
「え?えっ、あぁ、そーいう…!ごめん気が利かなくて…!頑張って、エミヤ!!」
「まったく…とんだ穀潰しに付き合わされたもんだ…おい赤いの、後で何か振舞え。それでチャラにしてやろうというんだ。お安い御用だろう…?」
「昔からの馴染みだから言うけど、早く落ち着きなさいよね、あんた達は…じれったくて仕方ないのよ、こっちも」

少女がぐいぐいとマスターの背を押していく。夢の中で出会った彼女ではない、形は同じでも色が違う少女が。全て分かった笑みで三つ編みを揺らす。
それに作家と魔女も続いて。全てお見通しとは居た堪れない。気を効かせてくれたことに感謝して。何か奢らなければと頷き微笑んだ。
そうしてその本だらけの空間に、ただ二人取り残されて。埃っぽい独特の空気の中、本を手に私はかける言葉を見つけられないでいる。

「…で?まだその本の呪縛から、解き放たれてねぇってのか?お前は」
「まぁ、そうなるかな…呪縛、などという恐ろしい物ではないがね。ただの一冊の本が願う、密かな祈りだよ」
「だとしても、それをお前に託すってこと自体呪いみたいなもんだろ…俺としちゃ、誰と夢の中でいちゃついてたのかって方が気になるね」
「何故、あぁそうか、彼女が居たんだった…本についてなら、彼女の眼は誤魔化せなかっただろうな」

未だふらつく体を誤魔化すように、眩暈を隠して床に座る。同じように彼も隣に座り。その距離の近さに心臓がざわつく。
そしてその言葉、視線。まるで嫉妬を隠しもしない。相変わらずのその真っすぐさに、羨望した。自分にはついぞ持つことの出来ない前向きさ。

「何度も言うがな、アーチャー。俺はお前を、諦めねぇぞ。俺はお前が好きだ。いい加減観念して、俺の物になれ」
「何度も言うがね、ランサー。私は君に相応しい器ではないし、君に似合う存在ではない。君の物になるつもりは…、……」
「…?アーチャー?」
「いや…、…そうだな、逃げてばかりは、許されないな…」

相変わらずの反復、何度繰り返されたか分からない問答。思いは平行線。本当は同じ方向を向いているくせに。自分だけが向き合えないでいる。
だってそうだろう。不釣り合いすぎるのだ。光の御子と称される大英霊と、ただの掃除屋でしかない守護者の自分とでは。器が違いすぎる。
そうやってずっと逃げてきた。いつか彼が諦めてくれると信じて。その時が自分の失恋だと、ようやく受け止めることができるだろう、でも。

(――それでいいと、ずっと思ってきた。この身になってからの宿命だと、諦めては捨ててきた。それを…受け止めろというのか、彼女は)

捨てるのは簡単で、いつだって取捨選択を迫られてきた。そういう人生だったし、今更それを変えられない。この身は何かを捨て続けるしかない。
それを、今更拾えというのだろうか。多くの嘆きを切り捨ててきて、自分の幸福を拾えと?そんなのは都合が良すぎるし、何より自分が許せない。
なんて自分にとっては重い選択だ。例え何があろうとも、それが揺らぐことなどないと、そう思ってきた。例え誰かに、背を押されたとしても。

「…、…すまない、ランサー。少し、時間を貰えるだろうか?この本を、最後まで読んでみたいんだ、私は」
「…いや、別に構わねぇけどよ。付き合うって決めたしな。じゃあ代わりに膝貸せ。捕まえてねぇと危なっかしくて仕方ねぇからな、お前さんは」
「…、…何の代わりなのかも分からんし、別にもう消えたりしないが…まぁいい。仕方ない、それを等価交換と認めよう」

伸ばした脚の上に、彼がごろんと頭を乗せて寝転がり。一見楽しそうに見つめながら、その奥赤い瞳の向こうに確かな意志があった。
見張らずとも、もう本の中に吸い込まれることはないだろう。きっと言っても納得しないから、その不可思議な膝枕を受け入れることにする。
無邪気な接触に若干心臓を跳ねさせながらも、古いその本に指を這わせた。ありきたりなタイトル、知らない作家。それでも彼女がそこに居た。
なら読まない理由にはならないだろう。表紙を開いて、一枚、また一枚。ページを捲っては、刻まれた文を一文字一文字丁寧に読み進めた――


『――お兄様は、素晴らしい人でした。文武両道、快活な性格に、太陽みたいに眩い笑顔。皆、みんな、お兄様が大好きでした。私もその一人でした。
 そんなお兄様の元には、たくさんの人が集まります。皆お兄様を頼ります。お兄様は応えます。でもお兄様は、あんまり楽しそうじゃありません。
 あんなに人に囲まれて、頼られて。でもお兄様は楽しくなさそうで。私はどうして?と聞きました。幼い私には、分からなかったからです。
 お兄様はちょっとだけ寂しそうに笑って。良い人もたくさんいるけれど、皆俺の地位によってきてるだけだ。そう瞳を伏せて言いました。
 たくさんのお友達がお兄様と一緒に居ます。それでも、お兄様は孤独でした。皆お兄様は素晴らしいと決めつけて、その心に寄り添わなかったのです。』

『――そんな、ある日のことでした。お屋敷に、新しいメイドさんが雇われてきました。この辺りでは見ない、珍しい瞳と髪の色をしていました。
 彼女はいわゆる、孤児でした。私のお屋敷は、孤児院から定期的に子供たちを引き取り働かせました。いわゆる、慈善事業というやつです。
 そのメイドさんは、ちょっと変わった色をしていたけれど。とても働き屋さんで、でもだからこそ疎まれました。誰よりも働けてしまったのです。
 他のメイドさんたちは狡賢くて、そのメイドにたくさんの仕事を押し付けました。メイドさんは文句も言わず、それを完璧にこなしてしまいました。
 屋敷の人間は、何も言いません。仕事がきちんとされていれば、それは誰でも良かったからです。誰も、そのメイドさんの事を気に掛けませんでした。
 それが変わったのはあの日のことです。お兄様の元に、ある一匹の犬が贈られてきました。品種も毛並みもいい、立派な犬です。
 ですがお兄様が、その犬に触れようとしたその瞬間――なんと、その犬はお兄様の腕に噛み付いたのです。幸い、大きな傷にはなりませんでした。』

『――送り主を今すぐ問いただせ! ××様に危害を与えようとしたこの犬を処分しろ! 毒など塗られているかもしれん。急ぎ医者を!』

『――屋敷中が、大騒ぎでした。大丈夫だから、というお兄様の言葉は誰にも届きません。屋敷の人間は皆、お兄様がとても大切でした。
 でも、大切なのはその器だけでした。いずれこの屋敷を背負うお兄様。けれどその心は、誰も見向きもしません。心など主を務めるには不要だったから。
 そんな時、その白い犬に。あのメイドが近づきました。優しく、声をかけて。柔らかく、触れます。するとどうでしょう。犬は穏やかに尻尾を振り始めました。』

『――知らない場所に、いきなり放り出されたのです。怯えも興奮もするでしょう。この犬は悪くありません。不用意に近づいたのがいけなかったのです。』

『――なっ、こいつ、××様に逆らうのか! このメイドを解雇しろ! この犬共々処分してしまえ! ××様に盾突こうなどとは、やはり卑しい身分よ!』

『――××様、貴方様のお考えをお聞かせ下さい。悪いのは誰です?この犬ですか?何も悪くない命を、貴方様は処分されるのですか?』

『――お兄様は唖然として、そのメイドの顔を見ました。真っすぐ、ただ真っすぐに。メイドは自分の瞳を見つめて、自分の意見を言ってきます。
 そして、自分の意見を聞いてきます。それは、初めての体験でした。誰もお兄様に意見などしなかったし、その心を聞いてきたりなどしなかったからです。
 初めて、自分以外の他人をお兄様は認識しました。それほど、それは尊い経験だったのです。心とは、この瞬間に生まれたようなものでした。』

『――いや、俺が悪かった。謝罪しよう。その犬は悪くない、処分する必要はない』

『――ありがとう、ございます。どうか許されるのならば、この犬を私に預けていただけないでしょうか?立派な番犬に育てると誓います』

『――分かった、お前に預けよう。ただし条件がある。お前は、俺専属のメイドになれ。お前の名前は何という…?』

『――それが、お兄様とメイドさんの出会いでした。メイドさんは孤児でありながらとても優秀で賢くて、多くのことをこなしました。
 けれどお兄様が重宝したのはその点ではありません。メイドさんは、自分の意見を持っていました。それを自分の言葉で告げることのできる人でした。
 お兄様にきちんと意見が言えました。だからこそ、お兄様はそのメイドを傍に置いたのです。頷くだけでなく、首を振ることができるから。
 メイドさんは孤立していて、お兄様は孤独でした。二人の立場は全く違っていたけれど。その心は同じでした。だって、私に優しく微笑んでくれたから。
 私は、それだけで十分でした。二人が惹かれあって、寄り添うのに。他に何が必要だったでしょう?ただ一つ、身分という高い壁が、立ちはだかるだけで』


その物語は、ずっとずっと“彼女”の視点で続いていく。彼女の兄と、そのメイドが惹かれ合っていく。その時間がゆっくり、彼女の言葉で語られていた。
己の兄と、メイドとの身分違いの恋。それはありふれた物語だったかもしれない。二人は少しずつ惹かれ合い、そして寄り添い、絆を深める。
そして読み進めていくと、そのカラクリが理解できた。どんな場面も、彼女は見透かす。その場所にいなくとも、彼女はずっと、二人を見ているのだ。
彼女が直接的に、二人と会話する部分は少ない。触れ合う事もない。だからきっと、彼女は――二人の一番近くで、見えない形で見守っていたのだろう。


「 メ ア リ ー 」


彼女は、物語の中でさえ。ただ見守ることしかできない存在だった。確かな描写はないけれど、読み解けば謎の答えが見えてくる。
二人が彼女に話しかけるその場所には、いつも写真立てが存在していた。彼女の姿は誰にも見えない。もう既に、他界した人物だったのだろう。
それでもずっと、己の兄を見守り続けた。唯一の肉親である妹にしか、心を開かなかった。その妹が失われ、本当の孤独になってしまった兄を。
そして写真に写る自分に、優しく微笑んでくれたメイドとの。身分違いの恋を。彼女はずっとずっと応援し続けた。だからそれこそが、確かな未練だったのだ。

「…、…は、なんだよ、アーチャー…お前…泣いてんのか…?」
「…え…?…あぁ、本当だ…何故、私は…泣いてなど、いて………あぁ、」

ぽたり、ぽた。滴はページに染みを作り、また膝で寝転がる彼の頬を濡らした。そうしてようやく、自分が泣いているのだと自覚した。
ありふれた物語だ、身分違いの恋など。哀しく切なくとも、泣く程ではない。なら何故、と思い気付く。この身はまだ、この本と同化していたということを。

「彼女が…、…いや、メアリーが、泣いているんだと、思う」
「メアリー…?」
「この、本の意志だ。私を夢に引き込んだ彼女の名前、だと思う。一度も呼んでやれなかったが…恐らく、読んでもらえて、嬉しいんだと思う」

物語は読まれるために存在する。丁寧に読み進めて、とうとう最後のページに辿りついてしまった。だからこそ、彼女がメアリーだと確信が持てるのだ。
誰にも接触できることのないメアリーは、兄とメイドの恋模様を追いかけ続けて。そして最後、二人が仲違いする場所で幕が閉じられている。
読んでくれてありがとう、どうか――そんな声が聞こえた。この物語は、未完なのだ。そんな途中で幕を閉じられて、彼女はずっと哀しいまま。
ずっとずっと、見守り続けて。どんな形にせよ、終わることができない。読んでもらえて嬉しい、けれど終われないのが哀しい。

(あぁ、それは確かに……哀しい、な…)

涙が止まらない。彼女に同調して、共鳴する。この身とて、終わりを願ったことがある。だからこそ、歪んだ願いを聖杯に掲げたこともあった。
終われないことの虚しさを知っている。今ここにいる自分も、いつか朽ち果て終わるのだろう。だがきっと、以前と違い穏やかに朽ちるはずだ。
答えを得て、そして――彼と再び巡り合えた。自分の生は、それだけで満足だったと微笑める。だが彼女は、終わりを知らずずっと彷徨い続けている。

「…、…泣くなよ、アーチャー。俺はてめぇの泣き顔なんざ、見たいわけじゃねぇぞ」
「…、…そう、言われてもだな…私の意志でないというか……、ん」

優しい手に、涙を拭われる。その暖かさに、思わず頬を寄せてしまいそうになる。その熱に、奪われてしまいたい。この身の、運命そのものを。
彼はきっと、私の運命だ。私に終わりを与えてくれる英霊だ。そう、信じている。私が終わるその時は、その茨の棘に埋もれたいとさえ思ってしまう。
眩くて、まるで太陽みたいな彼は。この物語の兄にとてもよく似ていて。あぁ、ならば私は孤児であるメイドだろうか。相応しすぎて笑えない。
この物語の結末は、悲恋か成就か。誰にも分からない。けれど彼女は、ずっとずっとそれを望み続けたのだ。誰もが笑える、ハッピーエンドを。

(…あぁ、そうだな。私もできるなら、幸福な終わりがいい…、…私の幸福、などで…いいのだろうか…君は、満足してくれるのだろうか、メアリー)

今一時でもいい、一瞬でも刹那でさえ。その代償にこの身が地獄の業火に焼かれても。それでも構わない。心臓の傷痕を撫でながら、身を焼かれよう。
己の幸福など、望むべくもなかった。けれど願いに応えたい。どうか、幸せな結末を。彼女に、彼に――そして、私に。こんな惨めな、私に。
可能ならば、許されるのならば。どうか、手を。この手に触れることを、許してほしい。頬に沿う手に、ゆっくりとその手を重ねて。私は微笑むだろう。

「――ランサー、」
「っ、な、んだよ…アーチャー、」
「君はまだ……こんな私を、思ってくれているのかね…?」
「――…、…当たり前だろう。俺を舐めるな。てめぇが何を言おうがな、俺はてめぇが好きだ、アーチャー」

躊躇いもなく、真っ直ぐに告げてくる。その潔さに心底感心しながら。握り返された手の熱さに、思わず眩暈がしそうになる。
こんなに幸せでいいものか、そればかりが怖い。報復も裏切りも全て受け止められよう。だが、その純粋な想いが怖くて収まりきらない。
ぎゅっと強く、握りしめられる。後悔も未練も、全て見透かされているかのように。ならば応えよう。答えを、零そう。もう想いを、隠しておけそうにない。


「臆病者の私を、どうか許してほしい…」
「ハッ、何を今更…怖いってんなら、俺が全部受け止めてやるから。だから、なぁ、アーチャー…言ってくれよ、お前の本当の想いを」
「――私は……………君が、好きだよ、ランサー」


躊躇いがちに、言葉を並べて。稚拙だけれども、それでも、君へ囁こう。偽らざる本心を、仕舞い込んでおけなかった恋心を。
それに君が、満面の笑みで応えてくれる。ならば、それが――何よりのハッピーエンドだ。あぁ、メアリー。君にもこの結末が、届いているだろうか――



とある一冊の本が、カルデアの食堂に置かれることとなった。皆がそれを何気なく手にして、読みふける。そうして当然の疑問に辿りつく。続きは、と。
その本の隣には、同じ装飾の本が置かれている。そしてページを開いて、皆がその真白さに首を傾げる。何も書いてないじゃないかと。
そうして一番最後の後書きに、目を通す。それを読んで、なるほどと納得する。優しい皆は備え付けのペンを握ってくれる。

『――これは哀しくも、未完で、終わることのできなかった物語。だからどうか、貴方の思う結末を書きこんでほしい』


その白紙の本が、様々なエンディングで彩られる日もそう遠くはないだろう――

Comments

  • emikof
    September 23, 2024
  • September 14, 2022
  • 如月
    April 5, 2021
Potentially sensitive contents will not be featured in the list.
© pixiv
Popular illust tags
Popular novel tags