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Sの悲劇【槍弓♀】/Novel by 煎じ

Sの悲劇【槍弓♀】

29,878 character(s)59 mins

7/14第22次ROOT4to5・クーエミFes!にて発行した美のりさんとの槍弓♀合同誌「IT'S HER!」より、事前告知しました通り、煎じ分を全文Web再録いたします。(頒布時にWeb再録の旨ご案内が不足しており申し訳ありません)
会場でお手にとっていただき、ありがとうございました!

FGO時空、後天性女体化
槍に恋してしまった弓がとある聖杯のかけらにより女になってしまい、しかも槍が急にやさしくなって戸惑ったり怒ったりする弓…みたいなお話です。せっかくの女体化なのに女体化成分が少なくて申し訳ないです。
次回リベンジしたい所存です。

【再販等アンケートについて】
同日7/14に発行した新刊二冊について、再販等アンケートをおいてますので、お手にとっていただけそうな方はぜひご協力いただけますと幸いです。(リンク先はGoogleフォームです)
1~2週間おいておきます。よろしくお願いします!
https://forms.gle/2XS51xqciTfaxL9LA

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掴めば手からこぼれ落ちる豊満な胸。滑らかな曲線を描くくびれに幾分華奢な腰が続き、ふっくらと丸い尻が可憐に上向いている。すらりと伸びた足には上品に肉が付き、細い足首が「彼」の肢体の美しさをありありと物語った。
「――なぜ」
己が身に降りかかった天変地異を振り返って、アーチャー・エミヤは顔を曇らせる。
馴染みのない身体、鈴を転がす声色。
一夜にして性別の変わった、世にも不思議なサーヴァント。
「なぜ、こんな事に……」
エミヤがこれに至る理由について、話は数日前に遡る。


「ランサー、君に懸想している」
その日エミヤは、如何にも不完全燃焼といった顔で廊下を歩いている青い槍兵を捕まえた。周囲に睨みを効かせ苛々を振りまく犬っころは迷惑極まりない有様だったが、今日ばかりはありがたい。一応答えだけは聞くかと腕を組んで仁王立ちのまま待っていると、槍兵――ランサーのクー・フーリンは、紅い目を瞬かせて固まった。
「……は?」
たっぷり十秒。のんびり屋のお返事は大変こちらの意に沿うもので、思わず口元が歪む。微笑んだつもりだったが、奴には嘲りに映ったらしく、切れ長の眼差しがさらに険を帯びた。
「分かりやすく言ってやろうか。私は君に恋慕の情を抱いているわけだ、残念ながらな」
「意味が分からねえ」
「それは困った。生半可な覚悟で言った訳ではないのだが」
顎を浮かせ、いやに目を細めて、僅かばかり低い位置にある流麗な顔立ちを見下ろす。どれだけ粗野であろうと怒り荒くれていようと、クー・フーリンという男の美しさは損なわれない。内側から滲む神性は鮮烈な赤を刻む。神々しい覇気を纏い、他に類を見ない正真正銘の大英雄は、エミヤにとってはいつ何時も眩い存在であった。その戦士に惚れ込んで幾星霜。少年のような憧れはいつしか恋情へと形を変え、たゆまぬ縁に結ばれて何度もめぐり逢い闘った末に、今ここカルデアで、決別のため奴に相対している。
エミヤの懸想は本物だった。間違いなく、ランサーが好きだった。
だがしかし、己の分を超え、育ち膨れ上がった恋心はいつしか、エミヤ自身を苦しめるようになった。
元々、許される感情ではない。疎まれ、反りの合わないクー・フーリンとの間に仲睦まじい関係を築けるはずもなく、ましてや恋仲など以ての外、精々互いの間で血が飛び交うぐらいの、甘さ皆無の間柄なのだから救いようもなかった。
不相応の恋に焦がれ、サーヴァントとしての責務に支障を来すくらいなら、座に還った方が遥かにマシだ。ならば最後のあがきにと、いよいよ手を打つことにしたのが、今日の告白だったのである。
「……呆れるだろう?」
――ランサーに振られる。その事実を以て諦める。エミヤの取った手段は実に単純明快で、迷いがない。だからたとえ男が怒り狂おうと嫌悪を露わにしようと構いやしなかった。己の目的が達成されるのであれば。
奴はただ、「否」と言ってくれればいい。
「……な……」
ほんの一瞬、ランサーが動揺した。無機質な床の隅を見つめていた目を上げる。すると奴は、苦虫を百匹も千匹も噛み潰したような表情でこれでもかと不快感を示し、絶句していた。握りこんだ白い拳がひどく戦慄いている。憤怒と屈辱に耐えているのだろう。
告白の答えは、火を見るより明らかだった。
(まあ、そうだろうな)
エミヤの恋は死んだ。落胆の念がないとは言わない。
だがこれで良かった。これでやっと、己はランサーへの恋慕の呪縛から解き放たれよう。
「やっと貴様を諦められた」
むしろ礼を述べねばならぬ程だ。エミヤは心からの微笑みを浮かべ、ランサーに向き直る。正面から奴の顔を見つめ、これまでの苦悩を思えば、少しは心が晴れる気がした。


それ以降、ランサーの姿は見ていない。
ああ、避けられているのだろうなと思った。憎い男に惚れた腫れたを暴露されたのだから当然といえば当然である。
しかし何の腐れ縁だか、エミヤが何もせずとも、ランサーの動向は勝手に耳に入ってきた。今日もレイシフトで活躍した、大盛りごはんをかき込む様が気持ちいい、兄貴らしく男前で、生前は彼を囲む美しい女性たちがいて――。
空虚に似た何かが、耳元を通り過ぎていく。
「…………」
エミヤは自室のベッドで眠れない瞳を閉じて思った。最初から叶うはずなどないと解っていながら、未だ男の影は消えない。馬鹿らしい。死んだ恋心がことある事に蘇ってしまっては、意を決して当人の前で恥を晒した意味がないだろう。
あるいは。クー・フーリンという色を好む英雄相手、私がもしも女性だったら、もしも彼奴に好かれる見目であれば、万万が一にでも、もしかすると。
「……馬鹿らしい……」
エミヤは舌を打ってきつく奥歯を噛んだ。
誰にも口外せぬ、多少の夢想ならば許されるだろうか。
もし自分が女性で、ランサーに愛されるに相応しい人間であったなら、いつかどこかの世界線で交わることもあったかもしれない。そういう詮無き妄想が頭を過ぎるぐらいは、どうか大目に見てくれまいか――薄い布地に包まれ、エミヤは目を閉じる。冷たい肌触りに肩が震えた。
こうだから、救われないというのだ。


事が起こったのは翌朝。起床と同時にエミヤを出迎えたのは、凄まじいまでの違和感と不快感であった。
「いや、いや待て、待……」
己の胸に、あるはずのないものがある。
己の股間に、あるべきものがない。
カルデアに現界してからというもの、あらゆる珍事や災難に苛まれてきた弓兵は、見た事もないおぞましい自分の姿に腰を抜かした。
「女、になっている――……」
真っ先に目に入ったのは礼装の下ではち切れんばかりになっている乳房。そこらの女性サーヴァントに負けないくらいの立派な脂肪の塊は、エミヤが動くたびにふよふよと所在なさげに揺れている。
ああ。夢なら夢だと言ってくれ。まさか私の昨晩の妄想が、形になったとでもいうのなら昨日からやり直そう。嘘だと思いたかった。だが常より下がった目線、肩や頬や腰やらはすべて丸く、尻や腿には肉がむっちりとへばりつき、声だって高く上擦っている。髪は短くともふわふわと甘く膨らみ、下りた前髪がまろい額を覆い隠している。キュッとくびれたウエストは布が余り、逆に胸元はきつくて仕方がない。恐る恐る鏡の前に立てば一目瞭然、エミヤは紛うことなき「女」としてそこに立っていた。
「…………いや、焦らずともいい」
状況を理解するにつれて、段々と冷静になってくる。ご都合主義の霊基異常、深く考えてはいけないぐだぐだ因子、まるで便利グッズの聖杯――思い返せば、要因と思われる事象はいくつも経験してきた。ハイハイまたコレか。仕方ないなマスターは、実験は程々にしたまえよダ・ヴィンチ女史……十中八九、今回もそんな所であろう。
手のひらで魔力を練り、馴染みの夫婦剣を投影する。
それを手に幾らか身体を動かしてみれば、戦えない程でもない。余計なモノがついたせいで少し動きづらいが、髪は視界の端をよぎる程度で、細っこい四肢は逆に身のこなしを軽くし、武装も今の自分に合うよう魔力を調整すれば問題ない。
今までの経験則からして、トンデモ案件はしばらくすれば元に戻るのがセオリーであるから、慌てて対処に飛び回る事でもないと至極冷静にエミヤは結論づけた。念の為、歳若いマスターとカルデアの最高技術顧問には事情を知らせねばなるまいが、その他は特に気にするべきものはない。
何ならこの不思議な状況を楽しんでやるか――と、この時のエミヤは空元気にそう思っていたのだが。
「あっ! まさかエミヤ、キッチンの果物食べた!?」
「は……?」
運良く他のサーヴァントや職員に出会わぬまま、マスターがいるという管制室まで出向くと、こちらを向いた少女がぎょっとして、あからさまにまずいという顔をした。
今のエミヤを見て「女になっている」どうこうに驚くよりも、第一声が「果物」だなんて、何かがあるに違いない。
怪訝に思って問い詰めると、マスターは昨日レイシフト先――アガルタだという――から持ち帰った聖杯の欠片を、なんとキッチンカウンターにある果物かごに放り込んだと白状した。
カウンターに常備してある、あけびのツルで編まれたかご。エミヤは確かに昨日、子供たちへ配る菓子の試作をしようとこの果物かごからりんごを数個取り、出来たアップルパイを試食した。他にパイを口にした者はいないから被害は最小限だろう、だがしかし。
「なぜそんな所に聖杯を置いたんだ!」
「わっ美人が怒ると迫力が……うん、それが……ちょうどレイシフトから帰ってきた時に誰かに呼ばれて、でも聖杯の欠片をホイホイ持ち歩く訳にも行かないから少しの間だけそこに隠したんだけど……もちろんもうきちんと仕舞ったよ! だから、その……運が悪かったね、エミヤ……」
そういう問題ではない。誰の手に渡るともわからない所に(カルデアのサーヴァントの中には喉から手が出るほど聖杯を欲している者もいるというのに!)ほいほい置くなど、不用心極まりない。エミヤが無言で眼光を光らせると、少女はごめんなさいと謝って、早く元に戻れるようきちんと手は尽くすからと背筋を正した。
彼女を慰めるとすれば、たかが体の性別が女になっただけで、致命的な不便は感じていないことか。違和感はあれど、見た目を除き異常は感じない。我が身のためにマスターの手を煩わせる暇があるなら、もっと他に力を向けて欲しいとも思う。けれどどうしても疑問は残る。万能の願望器と呼ばれる聖杯の、欠片。その影響が対象者を「女にする」ことだったというのは、些か承服しかねる。
「……一体なぜ性別が変わったんだ?」
エミヤが首を捻ると、背後から「それはね」と涼やかな声がした。振り向けば、栗色の髪を豊かに伸ばした美女、ダ・ヴィンチちゃんがにこやかに歩み寄ってくる。
訳知り顔の彼女は、土地と聖杯の相性がね、とエミヤに微笑んだ。
「立香ちゃんが拾ってきた聖杯の欠片はアガルタ産だろう? あの特異点は女性優位の土地だった、その思想の影響を受けて、対象物を女性にする要素を持った欠片が転がっていてもおかしくないかもだ」
「おかしいとしか思えないがね……」
うーん、そうだねえ。エミヤのステータスをチェックしたダ・ヴィンチは、性別転換以外の霊基異常や能力低下などが見られないことを付け加えながら、いたずらっ子かのごとくにんまりと笑う。
「まあまあ、落ち着いて。聖杯の影響を受けた食物を少量口にしただけだから、君には微小な効力しかないはずだ。しばらくすれば元に戻るから心配しすぎる必要はない」
「それは確かか?」
「本当さ。不運な君を慰めるとするなら、そうだね――私も同じような存在だ。先輩として助言すると、意外と悪くはないよ? 女の身体もね。鏡は見たかい? すっごい美人になっちゃってるよ、エミヤ君! 目が大きくて髪ふわふわ、睫毛がばっしばしで」
呆れ混じりに目を伏せる。鏡は見たが田舎臭い芋娘しか写っていなかった。お世辞は軽くいなして、エミヤはううむと呻く。ダ・ヴィンチのそれとは根本的に違う気もするが、ことエミヤの「女体化」に至っては心配無用らしい。ただし冷蔵庫に眠っている試作のアップルパイは自分で片付けねばなるまい。これ以上、被害者が増える前に。
「本当に、特段の影響はないんだな?」
「ああ、もちろん! 良かったら楽しむといい。目覚めたら女の子になってた~! なんて、現代のライトノベルみたいな不思議体験、中々出来ないかもしれないよ」
「……出来なくても良かったんだがな」
まるで他人事だな、と思いながらエミヤは管制室を出る。兎にも角にも、大事はない。ならば普段通り、己は己の仕事に励むだけだ。
管制室の重い鉄扉を開くと外から白い光が射し込んだ。少し眩しくて目を細める。そのままエミヤが一歩廊下に踏み出すと、突然目の前でドタタッと何かが床を叩く音がした。
「――……?」
光の中に、青い礼装が見える。青い――ランサーの姿。
どうやら奴が廊下でたたらを踏んだらしい。驚愕にまみれ、瞠目した顔は随分と久しぶりに見る気がした。避けられ、距離を置かれても彼の輝きは衰えることなくエミヤを貫く。諦めたと思っていたのに。顔を合わせれば奴を不快にさせるだけだ。偶然とはいえ、ランサーの不運を憂う。彼の正面には遠ざけ続けた疎ましい男の姿があるのだ、言葉を失くすのも無理はない。
だと思ったのだが。
「ランサー……?」
ランサーは紅玉を上から下から忙しなく動かしてこちらを睨んできた。どこか様子がおかしい。何も言わずに立ち去ろうと思ったものの、あまりの挙動不審ぶりに無視できず立ち止まる。
「な、な、な……ッ」
そしてエミヤが「どうした」と話しかけるより早く。
割れんばかりの音量で、男の叫声がどでかく響いた。
「てめえ、何だ、そりゃあ……ッ!?」
ああ、そうか。早くも順応しすぎて忘れがちだが。
――私は今、「女」なのだった。



「一体……何が起こっている?」
天変地異。青天の霹靂。驚天動地。
エミヤは眉間に深く渓谷を刻み、苦々しく手元を睨めつける。ずだんずだんと鈍く悲鳴を上げるまな板とカボチャは、そのままエミヤの混乱と困惑を表していた。
その元凶――エミヤが先日告白しあえなく振られた相手、ランサーのクー・フーリンは、何とも晴れ晴れしい笑顔をこちらに向けてくる。
「よぉ、アーチャー。今日のメシ何?」
……こんな会話、今まで一度たりともしたことがない。
こんなに気安かったこともない。他にも。
「ンな重いもん持たなくていい。手伝いぐらいやってやる」
「お前ちゃんと寝てるか?顔色悪ぃぜ、ちょっと休めよ」
「危ねぇっ! すぐそこにワイバーンが!」

「一体何なんだ……!!」
あの日――エミヤが女になった日からこっち、あろうことかこの男は、突然ベタベタと構ってくるようになったのである。
突如始まったランサーの奇行を列挙し始めたらキリがない。とにかく構ってくる上、甘えもすれば優しくしてくることもあって戸惑いには事欠かなかった。
奴より低くなった身長を面白がってか、頭を撫でたり肩や腰を引き寄せてくる。たまに同じレイシフトに出向けばくっついてくるわ余計な気遣いを見せるわで非常に居心地悪く、普段からも馴れ馴れしくキッチンに入り浸り、どうでもいい話を持ちかけてきた。エミヤの胸や尻を見るとあからさまに機嫌が良くなり、偶然それらに触れることなどがあれば一気に下心を見せて抱きつき、あらぬ口説き文句を囁くのだ。
明らかに今までなかった振る舞いだ。ランサーとはずっと犬猿の仲であった。最低限の協力以外、極力関わらないようにしてきた。もちろん殺伐とした間柄でありながらいらぬ感情を芽生えさせてしまったのは己である。捌け口を無くして恋慕を吐露したのも己である。だがこの仕打ちはないのではないか。この報いは、あんまりなのではないか。
(――忌々しい……)
エミヤは憮然と唇を引き結ぶ。
ランサーはどうも、こちらを女扱いしてからかっているらしかった。
柔い肉の塊のような身体を喜び、女性にするかのごとく振舞ってやさしくそつのない男を見せようとしてくる。まるで女性を口説いているようだ。――私なんぞを相手に。
「なあおい、聞いてっか? お前肌ツヤ良くなったなって褒めてんだけど」
エミヤは胡乱げにエプロンを纏った己の体を見下ろした。男の頃から愛用していたエプロンは、鎖骨の下から大きく盛り上がって二つの丘を余裕なくぴっちりと覆っている。第二再臨のノースリーブから覗く腕は細く、奴の言う通り、きめ細かい肌が露わになっていた。女の結晶。そう認めた途端、胸の裡が黒く澱んでいく。
「……知らん」
声は高めに響いた。そっけなく返事をすると、ランサーは後ろ髪をかきながら腰を屈めてこちらを覗き込み、困ったように笑う。何だ、その顔は。
「つれねーなぁ。何かもうちょいよぉ……あー、まあ何だ、そうツンケンすんなっての。頬膨らませて凄んでもカワイイだけだぜ」
――悪趣味な。歯の浮くような台詞を耳に、エミヤは苛々と包丁を動かした。何度調理の邪魔だと言っても、邪魔しねえから、手伝うからと縋って聞かない。大英雄が聞いて呆れる。無駄口を叩く暇があるなら槍の一つも磨いてこいと釘を刺しても、「お前がここにいるんだからしょうがねぇだろ」と唇を尖らせる。その仕草が恋人に甘える男のようで、ひどく落ち着かなかった。
厨房を放り出そうにも今日はエミヤが夕食当番のため叶わない。他に興味を向けさせようとすれば余程物好きなのか、エミヤの傍を好んで離れず、かえって周囲からの痛い視線を煽る結果となった。嫌がらせにしては手が込みすぎている。
「……チッ、勝手にしろ」
「おう、勝手にする」
仕方なく諦めると、ランサーは嬉しそうにはにかんだ。
何だ、何だその顔は。男の眩しさに反して、エミヤの表情は薄暗く翳っていく。
男が男に想いを寄せ、愛を告げたことの腹いせに下した鉄槌がこれであるなら、確かに大成功だろう。心臓に杭が突き刺さるたび、杭を引き抜くたび、夥しい血が溢れ出す。それを愉快に思うなら好きにすればいい。
良からぬ想いを抱いたのは、エミヤなのだから。


今度のレイシフトの件でマスターに呼ばれていると、ようやく去っていった背中を見送り、エミヤは深く息をついた。夕飯の下拵えは何とか終わったものの、心はここにあらず。包丁を握っていた手を見つめる。節くれがなくなり、細く丸っこく伸びた指の先に桜色の爪がくっついていて、水仕事のせいか僅かにささくれ立っている。女の手。
「……」
随分細っこくなっちまって、とこの手を握られた。剣は握れんだろうなと吹っかけられたのには当たり前だと凄んだ。無理すんなよ、と笑いかけられたのは、侮辱か、慰みか。
どちらにしろ、有難いものでは決してない。
「……エミヤさん?」
ハッと顔を上げる。厨房の外から聞こえた声に振り向くと、褐色肌にオリエンタルな美貌を振りまく淑やかなキャスターがいた。地底世界アガルタで相見えた女。彼女が動くたび、しゃらりと凛とした音が鳴る。
「不夜城の、キャスター殿……」
真名・シェヘラザード。皆が知る、千夜一夜物語の語り手だ。常に控えめで目立つ行動を避ける彼女から声をかけてくるのは珍しい。エミヤはカウンターの方へ近づきながら、ぎこちなく微笑んだ。
「やぁ奇遇だな。何か飲み物をご所望だろうか? それとも茶菓子でいいなら食べる物も多少は――」
「ありがとうございます。でも、そうではなくて」
エメラルドの瞳が湖面のように揺れる。僅かに傾いた首筋。「何か、お悩みでしょうか」と問いかけ、こちらを案じるような色を見せると、エミヤは面食らって腰が引けてしまった。
アガルタの女。彼女を見ると否が応でも己を女に変えた聖杯の欠片を思い出す。そしてあの男を。悩んでいるというには乏しいが、奴の目に余る振る舞いに辟易しているのは確かだった。
「もし、よろしければ……何か気の休まるお話でも、いたしましょう」
シェヘラザードは静かに微笑み、手元にランタンを出現させた。彼女の宝具――彼女の語る物語に、一刻心を落ち着けてもいいか。己が女になってから一日、身体に影響はなくとも精神に与える負担は少なからずある。幸い、夕食はあと調理するだけで、タマモキャットが手伝いに来てくれるとも聞いていた。ほんの気休めに、彼女の申し出をありがたく受け入れてもいいだろう。
「――ではありがたく。やはり紅茶を淹れよう、お好みの茶葉はおありかな?」


たまたま食堂に立ち寄ったというシェヘラザードと、隅のテーブルに向かい合って座る。丁寧に淹れた紅茶を振る舞いつつ、エミヤは「面倒なことになっているだろう」と苦笑した。すでにカルデア中に知れていることだ。ランサーでなくても、面白がって指さす者もいるに違いない。
「女性、に……なってしまわれたとか。災難でしたね……」
「ああ、まったくだ。私が女性になったところで、何の利もないというのに」
自身の体に視線を走らせる。黒い礼装に包まれた肉体は、彼女に負けず劣らず豊かに張り詰めていた。特に胸は、動くたびにたゆたゆと揺れ続けるので、きつい下着を投影して押さえつけている。そのせいか、少し息苦しくもある。
「事実は……物語よりも、奇なりと申しますから」
確かに、聖杯の欠片ひとつでこんな目に遭うとはついぞ思いもしなかった。おそらく、あらゆる物語を具現化してきたシェヘラザードなら、性別が変わるなんてド定番のシチュエーションをいくらでも見聞きしたはず。何か有用な解決策でもなかろうかと何となく訊ねてみると、彼女はそうですね、と涼やかに喉を震わせた。
「男性が女性に……という設定は、よくありますから。所謂王道、定石……故に解決策もパターン化されています。しばらくすれば戻る、寝て起きたら戻っている、キスすれば、性交すれば、神の御加護で、はたまた夢オチ……」
「貴方の物語の守備範囲は随分広いな……」
「語り手、ですので……。性別が変わったことによる苦悩、試練……恩恵も、よく描かれるものですね。きっと今のエミヤさんにもおありでしょう」
エミヤの脳裏に青い槍兵が現れる。女と見るや、急に態度を変えた男。女性であれば誰でもいい。女になった姿を見て揶揄せずにはいられない。そう言われた方が何倍もマシだと思うくらいには、面倒な相手だった。並々ならぬ感情を抱いているからこそ、ただ切り捨てるだけでは済まぬものもある。何より、飢えた己が奴の甘い言葉で「勘違い」してしまう事が恐ろしい。
「……いや。まだ慣れていなくてな、そうでもない」
ランサーだけではない。目の前で優雅にカップを傾ける彼女に、女の自分はどう見えているだろう。不自然な大女、目を背けたくなる歪さ、毒々しく肉のついた元男――どれも正解だ。
「そうですか。では、物語を一つ、語り聞かせましょう。きっとお役に立つはずです――」
シェヘラザードは瞼を伏せて綴る。
十六世紀、貴族に生まれたとある美しい青年は、異国の姫との恋、詩人としての挫折を経験したのち、七日間の昏睡状態に陥る。眠りから覚めると、青年は自分の身体が女性へと生まれ変わっていることに気づいた。女性としての振る舞い、男性との恋を通じて青年はやがて己が女性であることを真に自覚し、女性であることの歓びを覚え、女性であることを全うする。殆ど姿が変わらないまま十八世紀、十九世紀を生き、結婚や出産の経験、女性としての地位、幸福を得た青年は、最後まで女性として立派に生を燃やした――。
「――という、お話だったのです」
語り口をしめやかに閉じ、シェヘラザードはうっすらと微笑んだ。千夜一夜物語に留まらない、摩訶不思議な冒険譚。圧倒的な存在感と現実感をもって物語を語る様はさすがという他にない。男が女になるなんてありえない! と語る筋合いはエミヤにはないけれど、ではなぜ、彼女はこの物語を語り聞かせたのか。
「……とても興味深かった。だが――」
主人公の青年は、男に戻ることはなかった。そういう危機感を抱いてサーヴァントの使命を全うしろという意味だと言われれば、否定はしない。
「私は語り手ですから、作者の意図を正確に推し量ることはできませんが……そうですね。「思い詰めることはない」でしょうか。エミヤさんが何にお悩みかはわかりません……でも、男性であること、女性であることが重要ではないのだと、私は思います」
特に、サーヴァントはそうでしょう。宝石色の瞳と目が合う。シェヘラザードはそう言って手元のランタンを宙に溶かした。
今この時だけに存在している、英霊としての力と思想の権化がサーヴァントである。そこに男女の別はさほど関係ない。これまで己が男だと思っていた偉人が、実は女性だった例だって往々にしてある。無銘の英霊であるエミヤが突然性転換した所で、大した驚きには及ばないと、容易に想像できた。
(それは、そうなのだが――)
では、クー・フーリンのあれは何だ。女に変わったと見るや、目の色を変えて近寄ってきた。今までの「私」などなかったかのように。いけ好かない男の「私」は不要かのように。
その意味を、考えたくない。
「女性を楽しむのも悪くない――と、ダ・ヴィンチさんなら仰るのではないでしょうか。私も、命に関わらないのなら、そう思います……」
「ああ……そうだな……」
膨らんだ胸、細い腰、丸い尻、滑らかな肌。
女を楽しむ。この身体を有効活用するという意味であるなら、むしろ。いっそ、ランサーに――。
頭を過ぎった邪で穢れた考えにエミヤはぞっと肩を震わせた。とっくに消えたと思っていた恋慕の渦に、恐怖が芽生える。
「お気に召しましたら、幸いです……」
「……ああ、ありがとう」
会話の途絶えた静かなテーブルの上で、空になったカップがからりと揺れた。


 ◇


夕食の時間を過ぎると、人の絶えなかった食堂も火が消えたように静まり返る。手伝いを買って出てくれたタマモキャットやブーディカと手際よく片付けを進めながら、驚くほど普通だな、とエミヤは思っていた。
三日も経てば、特異な光景も日常になる。女になったエミヤも、それに付き纏うランサーも、今やカルデアに溶け込んで違和感すら無くしてしまった。飼い主に駆け寄る犬よろしく、厨房まで一直線にやってきた男を見ても、「旦那が来たぞ」とタマモキャットがほくそ笑むだけで誰も止めてはくれない。
「旦那ではない。……ランサー。何をしに来た」
カウンターにへばりつくようにしてこちらを凝視してくる槍兵を、ちらりと一瞥する。すると尻尾を振らんばかりに機嫌を良くした男が、にっかりと目元を綻ばせた。
「お? 今日は無視じゃねえんだな。何か手伝うか?」
「いい。あっちへ行っていろ」
シッシッと片手を振って答えると、奥にいたブーディカが呆れたように笑うのがわかった。皿を拭きながら歩み寄ってくる。
「まあまあ、そう言わずにさ。手伝ってもらったら? そこにある食材の山、倉庫に運ぶって言ってたでしょ?」
「力仕事か? 早く言えよ、やってやっから」
「っ、いい! 必要ない! 私が非力だとでも思っているのか……!」
「そうじゃねえって。使えるもんは使えよ……っと、これで全部か?」
「……!」
無理やり食材の詰まった木箱を三つ奪い取られ、エミヤはギリギリと奥歯を噛み締める。その形相に折れた様子で、ランサーはうんざりと眉を下げ、「じゃああと一つはお前が運べよ」と木箱を指さした。やけになって奴の言う通り木箱を担ぎ、先に厨房を出る。ブーディカとタマモキャットに見送られる視線が痛かった。
「お前って、そうも頑固だったか」
半歩前を歩いていたつもりが、長い足であっという間に隣に並ばれる。慈しむような目。次から次へと知らない顔を見せられ翻弄される。一体何だというのだ。これではとても、女性の自分を楽しもうとは思えない。
「……貴様が知らないだけだろう」
「そうかねぇ。ま、ぷんぷんしてんのも可愛げがあっていいがな」
思わず目を見開いた。恐ろしい甘言だと思った。
「貴様は」
エミヤの声が暗い廊下にこだまする。
「今までもそうやって、数々の姫や女王を口説いてきたのか」
彼には生前、懇意にした女性が何人もいた。時には自身を危険に晒してまで熱意をもって口説き落とした相手もいたはずだ。ランサーは斜め上を見遣り、生前の記憶を反芻する。
「あー……どうだったかね。あったかもしんねえな」
「……」
図星か。揶揄まじりに、口説いているとでも言いたいのか。
女扱いされたいのではない。同じように愛でて欲しいわけなどあるはずがない。男の時は殺気で満ちていたくせに、女になった途端手のひら返し、それを悪いとも思わない。
ただただ、虚しい。
「度し難い程に、愚かしいな、ランサー」
「あぁ?」
「遊びも大概にしておけ。見苦しいぞ」
心臓に剣が突き刺さる。なぜ己が――こんなことを。たどり着いた倉庫に木箱を運び込み、中身を選別して収納する。 
無心で手を動かしていると、共に歩いていたはずの男がいつまで経っても入って来ない。後ろを振り向く。ランサーは倉庫の入口に立って神妙な顔をしていた。睨みつけているようにも見える。奴の背後で膨れ上がった強い魔力に、エミヤは眉を顰めた。
ガタン、とランサーは木箱を床に置く。
「お前、オレに惚れてんじゃなかったのか」
次にその口から飛び出した台詞に、エミヤは茫然と声を失くした。
――どの口が、どの口が言う!
男との距離を二歩で埋め、ぶつかるようにしてその胸倉を掴んだ。眦が怒りに吊り上がる。
「ふざけるな」
己より高い目線が憎い。見下ろしてくる紅が恨めしい。他人の恋慕に驕り、勝ち誇って貶める。屈辱だ。女だからか。男を好きになったからか。褒めそやすふりをして、並び立つ戦士としてではなく薄弱な女として扱って、自分が上に立つことを望んだか。
いつからそう矮小になったのだ、クー・フーリン。
「何が気に食わねえ」
ランサーは鋭く告げた。曇りのない眼。
「ヒステリーなら好きにしろ。だが、オレまでコントロールしようとすんじゃねえ。オレはオレがやりたいようにやるだけだ」
「貴様!」
「普段とは違うっつーんで、戸惑うのも解るがな。ちっとは素直になりやがれ。せっかくイイ顔してんだからよ」
「な……」
ああ――何故。何故こんな男に惚れてしまったのだろう。ここまで侮辱されながら、どうして忘れられずにいるのだろう。鮮やかだからか。己という暗闇に差した、一筋の光明のようであったからか。馬鹿だ。エミヤの胸に果てしない虚しさが去来する。
「もうやめてくれ」
掴んでいた手を離し、奴の胸板を叩いて押し返した。するとその腕を掴み返され、ひどくやさしく握られる。男女の力の差以前に、その気遣いに絶望した。
「嫌だね」
ランサーは口端を上げて不敵に笑った。
私が女性だったら、奴はこんなにも優しい。
私が女性だったら、奴はこんなにも柔らかい。
私が女性だったら、奴はこんなにも笑ってくれる。
男に戻ってしまえば消える泡沫の甘やかさを、覚えさせて殺す。ひどい男。きつく唇を噛み締めれば鉄の味が滲む。 
込み上げた悲嘆は言葉にならなかった。
サーヴァントの身になってなお、女だ男だと喚き散らしたくはない。だのになぜこうも儘ならない。幻の愛撫を何度受け取ればいい。男の嘲りで何度身を裂けばいい。その度どれほど悔いればいい。――彼を好いた己は間違っていたと。
情けない。みっともない。
エミヤはランサーの、凪いだ瞳を睨みつける。
貴様の目の前にいる「女」は、こんなにも醜い。
――そうだろう? ランサー。


 2


よう、オレはクー・フーリン。
一部からはランサーだの兄貴だの呼ばれている半神半人の槍兵だ。突然だが告白する。オレは惚れた奴に告白された瞬間相手に惚れていることに気づいた大馬鹿者だ。
おいマジか! オレから言いたかったのに――! 
……などと今更後悔したとて遅い。言えるわけがない。
何故ならオレはたった今、己のとてつもない恋心とやらを自覚したのだから!


そんな事情があったものだから、想いを告げられた驚きと先を行かれた決まりの悪さで、ランサーの形相はお世辞にも美しいとは言えなかったろう。意味がわからねえ。なぜ今まで気づかずに――平気でいられた? 何事かを続けて言う弓兵の姿に見惚れ、ぼんやりと上の空。ようやく口から相槌が零れたかと思えば、すっかり色を失くした弓兵――アーチャーの顔を見て、ランサーは自分の悪手を悟った。
今のは両想い同士の態度ではない。しかしこちらの動揺に反して、男は「そうだろうな」と得心したように頷いただけだった。カルデアの真白の廊下で腕を組み、険しい表情を浮かべたアーチャーは、嘆きも落胆もせずただ安堵して笑ったのである。
「――だろうな。ああ、皆まで言わずともいい。これでやっと貴様を諦められた」
ありがとう、と謎の礼を言われて頭の中にハテナが飛び交う。どういうことだ。自覚、即失恋。中々の波瀾万丈である。しかも呆気に取られたまま迷いのない赤い背中を見送ってしまい、ランサーは己に絶望した。これがまた悪策だった。いやいやここで諦める男ではないとアーチャーを追いかけようとしたランサーの両腕は、背後から伸びてきた同じ色をした腕に捕まってしまう。
そうだ、己はアーチャーに呼び止められる前、何をしようとしていたのか。
「お〜い槍持ちのオレよ。麻雀ボロ負けして酒取りに行ったの誰だっけな?」
「……遅い」
右肩にキャスター、左後ろにオルタ。
どちらも同じクー・フーリンだ。これにこの場にいないプロトを加えて夜な夜な賭け事に興じていた所、今日の負け犬はランサーとなり、金銭に加え罰ゲームとして厨房へ酒とツマミを取りに行く最中だったのだ。ちょっとしたヘマで大損したのが大層悔しく、苛々と廊下を歩いていたのを、アーチャーが愛の告白とやらをぶつけてきたのですっかり忘れていた。しかし、今はそれどころではない。
「ちょ、うるせえ、今大事な……ッ」
「うるせぇ〜だァ〜〜? いいから早く行って来いやコラ」
「うおっ! あークソッ、押すなテメェ!」
「いいから行け」
キャスターに頭を小突かれ、オルタに背中を蹴られて前につんのめる。アーチャーの姿はすっかり消えていた。気配を探って追いかけることも出来ようが、酒に酔ったケルトヤクザ×2は厄介な事この上ない。この場だけは仕方なく従ってやることにして、ランサーは大きく舌を打った。
(明日、覚えとけよ――!)
実はこれがまた、ランサーにとっての不運の始まりだったのである。


なぜか、アーチャーが捕まらない。レイシフト、日々の食事、シミュレーターでの鍛錬、廊下でのすれ違い――閉鎖的な天文台であの男に会いたければいくらでも機会はあったはずだった。夜に部屋まで押しかけようとすると、別のケルトヤクザに捕まる。食事時ならと厨房まで駆け込むと、当番でなかったりたまたま用事で出ていたりして、弓兵の礼装の色さえろくに見かけることは出来なかった。
そうこうしているうちに数日が経っている。告白から何日も日が空いては、脈ナシだと思われて避けられてしまう。相手はあのアーチャーだ、さっさと座に還ろうとマスターへ進言すらしていそうで、ランサーは柄にもなく焦っていた。
「あ? アーチャー? さっき管制室まで走ってくの見えたぜ。急いでる風だったがな」
また何かやらかしたのか? と遅い朝食を摂っているキャスターの自分は、二日酔いなのか目が半分据わっている。昨日負けたのはこの男だった。
「おい、てめぇもクー・フーリンなら頭使えよ。あの弓兵相手に、何事もドストレートで上手くいくと思うな」
ランサーの思惑などとっくに知れているドルイド様の有難いお言葉は耳に痛い。槍持ちの遅すぎた春に辟易しているようにも見える。ヘマだけはすんなよと、指輪の嵌った無骨な指がびしりとこちらを差してくるのに、ランサーは「わかってる」と鼻で笑い飛ばした。
「耳元で喚くな、頭に響く」と手を振られる。わざと大声で礼を言って、すぐさま管制室へと向かった。
今日こそはアーチャーに告げよう。最速の英霊の名を欲しいままに、夏空の髪を靡かせ駆けつけた廊下で、ランサーはその目を疑った。
開かれた鉄の扉の奥から姿を現した「女」。
やけに見覚えがある。赤と黒の礼装、白く短い髪。そして、ふわりと豊かな胸元。
「な――……」
アーチャーだ。仰天してまともに言葉を紡げないでいると、己が知るより高い、滑らかな声がランサーの耳を擽った。
「……ランサー?」
アーチャーが女になっていた。大きく育った胸、片腕で回りきってしまう細腰、首は細く腕も華奢で、尻はふっくらと安産型。むちむちの太ももは見慣れた礼装に包まれ妙にエロく、上から下まで、出るところが出て締まるところが締まった、最高にいい女。
「て、てめぇ、何だそりゃ……っ!」
だからランサーが驚くのも無理はない。はくはくと情けなく口を開閉させながら、ぎらぎらと奴を凝視する。穴が空くほど見つめても、やはりアーチャーは女になっていた。
呪いか? 魔術か? よくわからない霊薬か――?
女に至った原因は置いておいたとしても。
(待て、待て、すっげえ好み……)
一瞬でのぼせた。総毛立った。元から童顔ぎみであった顔立ちは、性別が変わったことによりさらに丸みを増している。 
白い睫毛が密に瞼を縁どり、褐色の頬に小さく影を落とす様が綺麗で、桜色の唇がきゅっと引き結ばれているのを見ると今すぐキスしてやりたくなった。
先に明言しておくとすれば、ランサーはアーチャーの男女の別に関わらず惚れている。己の感情を量り間違うほど落ちぶれてはいないのでそれは確かだ。だが「女」のアーチャーという新しい一面を目にして、「これは役得だ」とも思っている。
こんなにもイイ女が他にいるだろうか――しかも中身は惚れた男。
「……何だ? 用がないならもう行く」
「いや、いや、待て待て。アーチャー」
アーチャーを引き留める台詞も華がない。ここ数日ですっかり惚れ込んでしまっていたせいで、奴がきらきらと輝いて見える。ランサーの好みど真ん中の外見。甘いバリトンは低めのアルトに変わり、お得意の皮肉っぽい口ぶりすらいじらしく聞こえた。盲目もいいところだ。現金なやつめと笑われても、好いた男の(今は女だが)一挙手一投足を愛しく思って何が悪い! ――と、ランサーは喉を鳴らす。
「なあ――オレと付き合おうぜ、アーチャー」
うっとりと目を細める。惚れたなら、手に入れるのが男の流儀。たとえ今は女でも、元は男でも、アーチャーであることに変わりはない。すらりとした指先を手に取る。飴色の手の甲に落とすは求愛のキス。これで完璧、両想いだと確信したランサーの青頭には瞬時にアーチャーの睨みが突き刺さって。
「馬鹿かッ」
まったく容赦のない鉄拳が飛んだのである。


 ◇


アーチャーへの恋情が募るのに反比例して、アーチャー自身の態度は日に日に冷めていくのが手に取るようにわかった。やはり最初の振る舞いが悪かったのだろう。だからと言ってハイそうですかと諦めるような男ならば、ランサーは英雄として浮き名を流してなどいない。
名誉を挽回し、「諦めた」というのを撤回させ、もう一度振り向かせるために力を尽くそうと決める。これまでの距離を埋めるようにアーチャーへと近づけば、ランサーはどんどんのめり込んだ。知れば知るほど、アーチャーはいい女、そしていい男だったのだ。
「いい加減鬱陶しい。どこかへ行け、貴様に構っているほど私は暇じゃない」
「はあ? ンなの意味ねえだろ……あ、おい、てめえ体冷やすなっつの」
見慣れた赤の礼装を脱ぎ、黒の礼装のみとなったアーチャーの肩や二の腕はどこか寒々しい。他に肌を露出した女性サーヴァントは数多く居るけれど、相手がアーチャーであれば気になって然るべきだろう。それに、晒された脇が甘い。どうしてもエロくて目が行ってしまう――。
「布が少なくて動きやすいのはわかるけどな、冷えは女の敵なんだろ……って、危ねぇ!」
「うるさい! 余計な真似をするな!」
投影された夫婦剣の片割れが飛んできて、朱槍で打ち返す。魔力に還った刃の塵を見遣り、無茶すんなとため息をついた。とんだじゃじゃ馬だ。
アーチャーの女体化現象はその日のうちにカルデア中に知れ渡っている。ダ・ヴィンチの話によれば、魔術回路や霊基に影響を及ぼすものではないらしく、しばらくすれば元に戻る程度の魔術であるようだ。だが、話はそう簡単ではない。
男から女になったというだけで珍しいというのに、アーチャーの野郎はすごく――それはそれはものすごくイイ女になってしまったものだから、色好きの男たちのやましい視線が非常に煩わしかった。しかも当人は気づいていない。
ランサーがこうして傍にいなければ他の男にすぐ攫われてしまうことを――とはいえアーチャーもサーヴァントなので少し大袈裟だが――まったく、これっぽっちも解っていないのである。
「おっと」
「――!」
暴れるせいでよろめいたアーチャーの身体を、片腕で抱きとめる。胸や尻にでかいのを付けて、男と同じくちょこまかと動き回るからだ。影響は少ないと言っても、まったくないわけではない。戦闘だって体の使い方の違いに慣れるまで多少の時間を要したのを、ランサーはよく知っていた。同じレイシフトのメンバーに入れろとマスターに詰め寄ったのはつい昨日のことだからだ。
支えるついでに、軽く抱きしめておく。誰も手を出すなという牽制兼威嚇のつもりで、腕や胸に当たる柔らかさはたまのご褒美と思うことにした。もちろんアーチャーにはひどく抵抗されるのだが。
「っ、さわるなっ!」
「不可抗力だっつの。足元気をつけるこった」
「ぅ、ぐ……ッ」
図星なのか、悔しげに顔を歪める様はどこかしおらしい。マイナス十センチほど、少し下がった目線。こちらの胸筋に必死に腕を突っ張っているので、渋々解放してやった。あからさまに距離を取られ、下衆を見る目で睨まれるのは慣れたものの、やはり寂しくはある。
(――んな、嫌わんでもいいだろーが)
カルデアキッチンで唯一与えられた、皿拭きという仕事をこなしながらアーチャーを見つめる。
諦めるつもりもヒヨるつもりも毛頭ないが、短期間でここまで疎まれるとさすがに堪えた。ランサーが近づけば近づくほど、アーチャーが遠のいていく。早い所捕まえたいのに、今手を出しては「女なら誰でもいいのか!」と刺されて振られるのがオチだ。もう振られてるも同然だろ、というのは言ってはならない禁句である。
「アーチャァ〜、なあ、こっち向けっての」
「……」
無視。ここ数日ですっかり慣れっこだ。まな板の上の大根を叩き割り続ける背中は、何度呼びかけても微動だにしない。事情通のブーディカのアドバイスにならって台所仕事を手伝っても、アーチャーは苦い顔をするばかり。多少でも助けになればと思ったが、逆効果だったようだ。まあ、ワーカホリック気味の奴の仕事を減らすことには成功しているので辞める気はない。
「……何のつもりだ」
「ん?」
アーチャーが振り返らずにそう訊いた。お次はまな板を替えて鰤を捌いている。今晩はぶり大根か、美味そうだ。味の染みたやさしい舌触りを思い出しながら訊き返すと、「いい加減にしろ」と低いアルトが響く。
「ご機嫌取りか? 暇つぶしか? 私に構って何になる。無駄なことはもうやめたまえ」
「無駄じゃねえだろ。ま、あんま助けになってんのは自覚してるがな。教えてくれたら何でも手伝うぜ?」
「それが不要だと言っている。君には君のやるべき事があるだろう。馴染みも他にいる。いつまでもこんな所にいなくていい」
淀みなく喋るアーチャーの手が止まっている。何に思い悩んでいるかは知らないが、すげない態度の裏にあるそれはそんなに重たいものなのか。洗いたての皿が積み重なったカウンターを離れ、ふわふわの白い頭を見下ろす。俯いているせいでつむじがよく見える。ランサーは我慢できずにその髪にゆっくりと手のひらを差し込んだ。雲を掴むようにゆるく撫でる。銀糸を梳いてやれば女にしては逞しい、けれど細っこい肩がびくりと揺れた。
「こんな所、じゃねえっつの」
和らいだランサーの目元に、この男は気づいていない。
自分で思っていたよりも甘やかな声が滑り落ち、ストレートに口説き文句を舌に乗せる。
「オレがお前の傍にいたいだけだ。お前が信じなくてもな」
アーチャーがぐっと息を飲むのがわかった。理解したなら、そのまま堕ちてこい。オレの手の中まで。
見方によってはあどけない、硝子の瞳を覗く。あわよくば狙ってっけどな、と相好を崩せば、恨めしげな瞳が見上げてきた。
「……。好き者め。ふざけた口を抜かす暇があるならさっさと手を動かせ」
つれない。可愛い。不意の上目遣いに胸を衝かれながら、ランサーは天を仰ぐ。ああ、勿体ない。今までこんな男を野放しにしていたとは。己を想ってくれていたのを知らないで、のうのうと過ごしていたとは。
「おっまえ、ほんと」
かすかに震えるその唇に、今すぐ吸いついてやりたい。
「素直じゃねえよな」
必ず手に入れる。男でも女でも――ランサーは瞳の奥の炎を鋭くぎらつかせ、にたりと笑った。


 ◇


アーチャーは難攻不落の砦に等しい。どんなに言葉を尽くし態度で示しても少しも靡いてはくれないせいで、ランサーはとっくの昔に焦れていた。
――こいつ、オレのこと好きだっつったよな?
故に自分の記憶違いを疑うのも無理はない。頬を染めて気まずそうに上目遣いで……とは行かないものの、いやむしろ腕組み仁王立ちでマジでそれ告白する態度? と聞き返したくなる振る舞いではあったが、間違いなく己の耳は懸想だ恋慕だの、いわゆる愛の告白を受け取っている。諦めた、と勝手に幕引きされたことは、未だ許してはいない。
「今までもそうやって、数々の姫や女王を口説いてきたのか」
夜の廊下。アーチャーが小さく呟いた。倉庫へ運ぶという荷物を二人で分け合い、いつものごとくアーチャーの気を惹きながら隣合って歩くのは、少し前の自分たちを思えば大進歩と言っていい。何しろ、男の時はなるべくなら近づかないよう、互いに努めていたはずだから。
「あー……」
ランサーはアーチャーを見下ろした。正面を睨んだまま振り向かない奴の荷物には、立派な胸がたゆんと乗っかっていて、これも男の性か、目を奪われる。アーチャーの問いに答えるなら、イエスでもありノーともいえるか。生前のことなので、記憶がはっきりしない部分もある。
「まあ、あったかもしんねえな」
図らずも、はぐらかしたような返事になってしまった。だが誓って言う、たとえ女になったからといってアーチャーを姫さんたちと同一視するはずがない。「今はお前に本気だ」とキメ顔で囁いても、こいつはぴくりとも揺れないだろう。そろそろやり方を変えねばと思っていた所だ、さてどこから攻めようか。
が、アーチャーは急に足を早め、愚かしい、と嘆いた。
さすがにひでぇだろうと剣呑な相槌を返すと、遊びだとか、見苦しいとか、好き勝手言い切って倉庫へと消えていった。
(――何だと?)
癇に障ったと言うが正しい。奴の皮肉も嫌味も罵詈雑言も慣れたものだ。だからといって何でも許すと思われては業腹と言う他ない。それなりに心を尽くしてきた己の胸懐を疑われ、遊びだと決めつけられ、果ては間抜けだの見るに堪えないだのと侮辱されるのが、あいつの可愛い照れ隠しだと論じるには無理がある。
――ならば、まさか。
思い至った可能性に吐き気がする。目論見はわからないが、もしやあの告白自体が、ランサー自身をおちょくる虚構だったとしたら。
確かめずにはいられない。なぜならオレは、あいつを。
「お前、オレに惚れてんじゃなかったのか」
倉庫の入口に突っ立ったまま、ランサーは静かに問うた。中が暗く逆光なせいでアーチャーの顔は見えず、そしていらえもない。が、暗闇の中で突然、ぶわりとアーチャーの気配が膨れ上がった。その怒気の凄まじさに歯軋りすると同時に、眼前まで迫ったアーチャーに礼装の襟をきつく掴まれる。
「ふざけるな」
それはこちらの台詞だ。ランサーは眦をぐしゃりと歪める。逆上して騙されたこちらが悪いと喚くか。それとも無様だとせせら笑うか。アーチャーの言葉はそのどちらをも肯定する強さがある。
――見くびられたものだ。
ランサーは女らしく丸みを帯びた男の顔を見つめる。その程度で手のひらを返すなら、初めから惚れていない。無視するなら振り向かせるまで、嫌うなら好きにさせるまで。強引だろうと傍若無人だろうと、それがランサーの、クー・フーリンの流儀だ。欲しいものは手に入れる。体も、心もだ。
(好き勝手言ってんじゃねえ)
己の目は節穴ではない。芳しくない態度を見せながら、奴がランサーのすべてを疎んでいたわけではないと知っている。あの告白が嘘でも、気持ちがまったくないとは言わせない。でなければああも毎日、アーチャーの傍にいることを許すわけがなかろう。
奇しくも、奴は今女に変じている。順応性の高い弓兵だとしても、普段とは勝手が違って戸惑うのもわかる。素直でないのはいつも通りだが、せっかくイイ女であるのに、仏頂面は勿体ない。たまにでいい。こちらに笑いかけてくれるなら、もう二度と手放さないというのに。
ランサーはアーチャーに惚れている。好きだと思う。それは本物だった。
「もうやめてくれ」
ランサーを睨めつけたまま、アーチャーはぶるりと震えた。その気迫は急激に萎み、華奢な腕はランサーの胸元に置かれる。突き放そうと押し返してくる力は弱い。まるで自身を断じているようで、拳に浮いた白い筋が痛ましかった。
勿体ねえ。水仕事で荒れた指先を包み込み、できるだけやさしく、アーチャーの手を握る。女の手。そのか弱さは、ランサーが惚れたアーチャーにはなかったものだった。
「嫌だね」
得意げに、ふんと鼻を鳴らす。てめえが本気で嫌がるまではやめねぇさ。アーチャーは唇を丸め、拙く肩を戦慄かせた。
最低でも、アーチャーが男に戻るまでは奴を愛でるのをやめられない。女だから勘違いした、女なら誰でもよかったとでも言われれば癪だからだ。この男は厄介極まりない。ランサーがアーチャーという男に惚れ込んでいる事実を、アーチャー自身に刻みつけねばおちおち座にも還れないのだと、一体どこまで理解しているだろう。柄にもなく必死なのだ。クー・フーリンという男は。
「おい、唇噛むなって」
俯いたままふるふると震えているアーチャーの、赤い唇に親指を添える。気障だと笑われても、己は今、目の前の「男」を欲している。血の滲む頑なな唇に触れたいと思うのは、アーチャーが女だからなのではなく、アーチャーがアーチャーだからだ。ランサーの意志はずっと、ブレてはいない。
「可愛い顔が台無しだぜ」
アーチャー。
お前が男に戻っても、オレは同じ事を言ってやる。


 3


「おかあさん」
エプロンの裾をくいくいと引かれているのに気づいて、エミヤは視線を下げた。白い髪の少女たちだ。マスターを始め、誰彼問わず「おかあさん」と呼びかけるのがジャックの性質だったが、果たしてこれまでジャックにそう呼ばれたことがあっただろうか。
「おじさま、本当におかあさまみたい」
ジャックの隣でナーサリーがくすくすと微笑む。その隣のジャンヌ・オルタ・サンタ・リリィもまた、うんうんと頷いてこちらを見上げてくる。
エミヤは複雑な心持ちで眉を下げ、苦く笑った。
「こんな成りだからな、今だけさ。それで、今日もおやつの督促かね? 今日はシフォンケーキだよ」
「シフォンケーキ!」
「シフォンケーキですって!」
「美味しそうです!」
「もうすぐ出来るから手を洗って座っていたまえ。紅茶も淹れよう」
きゃあきゃあ鈴を転がす子供たちを見ていると穏やかな気持ちになれる。エミヤが女に変わって早一週間、元に戻る気配は今のところはない。女の体の生活、戦闘、周囲の反応等々、その殆どに慣れきってしまい、男でなくても何とかやっていけている。だがやはり早く男に戻りたいと思う。
己はシェヘラザードの語る、女性を全うする青年にはなれそうもない。――男である自分が邪魔をするのだ。
「さあ、召し上がれ」
行儀よくアフタヌーンティーを始めたレディたちへ恭しくおやつをサーブし、にこやかに辞する。可愛らしい光景だ。思わず微笑んでしまうくらいに。
「本当に、母のようですね」
彼女たちを眺めてゆっくりと目を細めたエミヤに、凛と話しかける者がある。シェヘラザード。数日前に夢物語を語り聞かせてもらった、不夜城のキャスターである。
「ああ、ご機嫌よう。君もケーキはいかがかな」
余りもので悪いが――と口にし、「お言葉に甘えます」と笑う美女に椅子をすすめる。控えめに生クリームを添えたケーキと淹れたての紅茶を出し、同じように召し上がれと声をかけた。
「この前はありがとう。いい気晴らしになった」
「それは……良かったです。エミヤさんも、随分慣れていらっしゃって」
「いいや。いつになったら戻るかと心待ちにしている所さ。やはり私は、女性を楽しむには向いていないのかもしれない」
「? それは、どういう――あら」
シェヘラザードの手が止まる。視線が己の背後に向いていて、まさかと振り向けば、そこにはあの男の姿があった。本当に、いつまでも付きまとってくる。この前倉庫で言い争ってからというもの、奴の嫌がらせは勢いを増す一方だ。
「お、何食ってんの」
まるでそれが自然とばかりに、後ろから腰を抱き、肩に顎を乗せてくる仕草に腸が煮えくり返る。シェヘラザードに子供たちと、レディが多くいるここで声を荒らげるのは本意ではない、だが。
「ッ離せ、ランサー! 人が……っ」
「ああ、私のことはお気になさらず……」
「んー。な、オレも腹減った。何かねえ?」
「だ、からっ、この手を……!」
人前でべたべたとくっついてくる男を肘で押しやりつつ、じたばたと暴れていると、優雅なアフタヌーンティーに興じていた少女がぱたぱたとこちらへ走ってきた。いつも通りであれば、おやつのおかわりだろう。背中に張り付いた駄犬は放っておいて、少女――ジャックに向き直ると、エミヤより先にランサーが明るく笑った。
「おうジャック、いいもん食ってんなあ」
柔らかく白い髪をぐりぐりと撫でる。慣れた手つきだ。
「えへへ、そうだよ。おかあさんのケーキ、すっごくおいしいの! おじさんももらったら?」
「ほぉ……おかあさん、ね。そりゃいいな」
「ジャック、おかわりだろう? 今持っていくから座っていてくれ」
「? はーい」
ランサーから良からぬ気配がする。体をねじり、危ない槍兵から離れようとした途端、ぐんっと腕を掴まれた。何をする、そう叫ぼうとした瞬間。
「ああ、待て。なあ、お前って今子供作れんの」
ランサーはとんでもないことを宣った。
「は……はあッ!?」
エミヤは二の句が告げずに男を凝視する。背骨に氷の剣を突き立てられた気分だった。正気か、いや冗談でも許されるはずがない。一体どれだけのデリカシーを捨て腐れば、そう無神経なことが言えるのか。
ランサーはジャックたちとエミヤを交互に眺め、どこか恍惚とした目で、だが至極真面目に呟く。
「いいな、子供。欲しい」
「…………!?」
絶句した。力の抜けたエミヤの両腕がだらりと垂れ下がる。
好きでもない男と子作りがしたい? 何を言っている? 混乱の渦に飲まれたまま、エミヤはこれでもかと目を剥いた。
「な……」
「な、どうだ? サーヴァントも身篭るのかねぇ」
ランサーはにこにこと脂下がり、エミヤを見つめてくる。今のは、何だ? それ以前に、自分とランサーはそのような関係ではない、まったくもってない。性別を捨ておいても、恋仲に並びたてる間柄では決してないのだ。
(――本当に誰でもいいんだな)
唐突に理解する。反りは合わなかったが下手に気が知れている元男というだけあって、多少粗雑に扱ってもいいと思っているのだろう。最悪も最悪。嫌がらせなら超一流、ふざけているなら天下一品の悪趣味だ。
(――ちくしょう)
与えられた屈辱も侮蔑も、余計な施しも、何の意味もない。確かにランサーに惚れていた。不実にも今もそうだ。彼には相応しくない、不要の情だったろう。その後、不運にも女の体になった。男とは違う、柔らかで馨しい肉体は奴の興味を引いたかもしれない。奴に惚れた男に似合いの、罰だった。
これが「女性であったならあるいは」と夢想した罪なら、もう何も言うまい。
エミヤの中で忍耐の糸がぷつりと途切れた。ふつふつと感情が波を打つ。紛れもない怒り。そして途方もない無情に、目の前の男を思い切り突き飛ばした。投影した刃をいくつも投げつけ、そのすべてを弾き飛ばされて、エミヤは零す。
「もういい」
「ッ、何だよてめぇ! おい、アーチャー!」
「……もううんざりだ」
赤の礼装を纏い、身を翻した。向かうはマスターとダ・ヴィンチの元。今すぐ男に戻してほしいと進言するつもりだった。
そしてあの馬鹿げた男と自分自身に現実を見せてくれと、何もかも元に戻してくれと首を差し出す。そうするしかないと思った。
「おい、待てッ!」
ランサーの怒号が突き刺さる。もう何もかもどうでもよかった。この苦しみから逃れられるのであれば。
「困りました……もしや、お二人はすれ違っていらっしゃるのでは……?」
消えたエミヤとエミヤを追って食堂を飛び出したランサーの背中を見つめ、青ざめた顔で呟いた語り手の存在を、未だ誰も知らない。


霊基がどうなってもいい。どんな副作用があったとて構わない。報酬ならばいくらでも支払おう。だからどうか私を、早急に男に変えてくれ!
「本気かい?」
ダ・ヴィンチの工房に飛び込んできた「女」を見やり、カルデアの最高技術顧問は困ったように眉根を寄せた。マスターはマイルームにいるらしく、許可は取ったと平気で嘘をつく。遠くから近づいてくる恐ろしいまでの魔力を感じ取り、困ったなぁと笑う彼女に、エミヤは必死に追い縋った。
「頼む。もう我慢ならない、早く」
「でもわざわざやらなくても、そろそろ聖杯の欠片の魔力も尽きる頃だと思うけど?」
「待っていられない」
「ヤバいのがすぐそこまで迫って来てるから?」
ダ・ヴィンチはしたり顔で覗き込んでくる。わかっているなら早くしてくれ。ロックの掛かった工房のドアが尋常でなく揺れている。この様子ではそのうち突破されてしまう。
あの男は、ランサーは、どうやったってこちらを暴いて貶めたいようだった。奴の目に留まるのなら。このでかすぎる胸も高く上がった尻も、丸い頬も細い指もすらりとしたふくらはぎもすべてが疎ましい。不要だと思った。ランサーへの恋情ごと、すべて塵と変えてしまいたい。
「うーん、わかったよ。幸い、少し霊基をいじればどうにかなりそうだ。無茶には変わりないけどね」
根負けしたダ・ヴィンチはちょちょいとエミヤのステータスをいじくる。勿体ないなあ、と少し苦い顔をして。
女の体が金の光を纏い始める。背筋かぞわりと沸き立つ。
「そんなに、面白くなかったかい?」
指先をくるくると滑らせながら彼女が訊いた。物語の中の青年にはなれそうもない。エミヤの答えは一つだった。
「……ああ、不快で不愉快極まりなかった」
――そして身に余る、幸福だった。
欠片とはいえ、あれは聖杯だ。手にしたものの願望を叶える装置だ。ランサーへの恋心を吐き出し、女性だったらあるいはと描いたエミヤの幻に、欠片が反応したとも考えられる。アガルタの聖杯はその幻が幻だと身を持って教えてくれたのかもしれない。これ以上、夢を見ないように。
「じゃあ、いくよ」
「ああ」
少しの間女の身でいて、己はおかしくなったのだ。女扱いでも屈辱でも、あのランサーは奇跡だった。男の身では決して得ることのない、 稀有な喜劇だったのだと思う。だが惜しくはなかった。エミヤが欲しかったのは、女を愛でるクー・フーリンでもエミヤを愛でるクー・フーリンでもない。
「――〜〜ッ、やっと開いたッ、アーチャー!」
金色の光の向こうに、血相を変えた槍兵が見えた。
ぶわりと風が巻きあがる。女の体は魔力へと変わり、消え、次いで見慣れた流線を描いていく。男に変わる。内側から隆起し膨れ上がる魔力の渦が、硬く大きく元の身体を造り上げ、聖杯の縛りを解き放つ。
「――……っ」
誰もが固唾を飲んで見守った。手出しなど出来はしない。肉体を形作った青と白の光が大きくうねり、エミヤへと収束する。強い光が立ち消えた後その場に立っていたのは、英霊エミヤ、元の皮肉屋で現実主義者な――男のエミヤだった。
「ちょっっと勝手なことしてる!?」
「おや、遅かったね」
ランサーの後ろから慌てた様子でマスターが飛び込んでくる。ダ・ヴィンチはのうのうと手を振っていて、マスター許可など元からなかったことはお見通しだったらしい。
彼女なりに、こちらの心情を慮ってくれたのだとわかった。本来なら、彼女の工房で霊基をいじる処置に当たるなどやらないだろうから。
「あ、あ〜〜、戻っちゃったか」
「ほとんど戻りかけだった。それを手伝ってやっただけさ。――さてエミヤ君、気分はどうだい」
碧い瞳が穏やかに撓む。エミヤは一つ頷いて、問題ないと頭を下げた。男に戻ったならそれでいい。入口で固まったままの男は恐らく、己の仕出かした過ちに青ざめている頃だろう。訳もない。あの泡沫は塵と消えたのだ。
「では失礼する。何か食べたい物があるならいつでも聞こう、ダ・ヴィンチ女史」
それはありがたいな、と笑う彼女のいらえを聞く。そのままランサーのすぐ隣をすり抜けた。互いにもう用はなかった。
――はずだった。
「待て」
逞しく見違えたエミヤの右腕を、ランサーが掴む。
「戻ったのか」
見ればわかるだろう。エミヤは顔を歪めて腕を振り払った。それに対し、男は意外にも、ほっと安堵した表情を見せる。
「急にキレんなっつの……どうした?」
どうした、だと。
「貴様に関係があるか。戯言は慎め。俺の刃を口に突っ込まれたくなければな」
エミヤがランサーを鋭く睨みつけると、奴は一転して怪訝に眉を顰めた。激昂した、わけではなさそうである。「だから何にキレてんだって」と唇を尖らせ、両手をひらひらはためかせるのがまた腹立たしい。
「さっきのやつか? そりゃいつかは……と思ったんだが、お前がそう嫌がるとは、まあスマン。話が早すぎたな」
まったく悪びれない態度に心の底から失望する。謝罪が欲しくて己は男に戻ったのではない。ただもう、解放してほしいのだ。
「……話にならん」
エミヤは男に背を向け大股で廊下を駆けた。案の定追いかけてくる気配がする。まだ何かトドメを刺したいのか。
女でない体に興味などないくせに。
「二人とも! ケンカしないでね!」
長く白い回廊をマスターの声が矢のように飛んでくる。返事はせずに突き進めば、背後で男が「わかってる」と叫ぶのが聞こえた。知ったような口ぶりに頭の血管が数本切れる。全速力で走る。目的地などなく、とにかく背を狙ってくる煩わしい獣を振り切ってしまいたかった。
「だぁーっもう、おい! アーチャー!」
ランサーは難なくついてくる。こちらが本気を出せば何時でも追いつけるのだと力を誇示しているようで、さすがは最速の英霊様だと舌を打つ。
苛立って、人気のない廊下で急ブレーキをかけ、エミヤは烈火のごとく怒った。
それが苛立たしいというのだ!
「ッ! 何なんださっきから! 着いてくるな鬱陶しい! 私は男に戻ったんだ、もう何の用もなかろう!」
エミヤに対峙したランサーも、売り言葉に買い言葉で髪を逆立てる。血の色をした虹彩がカッと見開いた。
「てめえこそ何だ? まるで女だからオレが構ってたみてぇな言い方しやがって!」
「その通りだろうがたわけめ!」
「ああ!? 好きな奴に構って何が悪ぃっつーんだよ!」
この期に及んでまでくだらない痴れ言を重ねるか。何が悲しくて、男に戻ってまで奴の嘘っぱちを真に受けなければならない。エミヤの感情の奔流は収まらず、噛んだ奥歯から激しく火花が散る。
「だから女の私は消えたのだ! 見えないかね、もう太った胸もでかい尻も肉の乗った太腿も消え失せた! 貴様の興味を引くものも食指を動かすもの既にない、現実を見ろ! 何度私を見下せば気が済むッ」
「んだと」
一瞬で距離を縮めたランサーがエミヤの胸倉を掴み上げた。至近距離で男を射殺さんばかりに睥睨すると男の双眸がぐしゃりと歪み、鋭い険を帯びる。
「誰が見下したっつーんだよ! オレが惚れてんのはお前であって、男だ女だ今は関係ねーだろうが!」
「ある! いけ好かない男が女になって愉快だったか!? 女なら誰でも良かったのだろう! 侮辱するのもいい加減にしろ、この色情魔が!」
「ざけんなッ! 誰でもいいわけねぇだろうが、勝手に勘違いしてんのはてめぇだ! いいからちゃんと聞きやがれッ」
「うるさい! 貴様の甘言なぞ聞くに堪えん、もう二度と私の前に……っ」
矢継ぎ早に交わされる暴言のさなか、突然身体に雷に似た衝撃が走った。全身がびしりと痺れ、一瞬呼吸が潰える。
次いで、遠くから厳しい命令が突き刺さった。
「二人とも! ケンカするなって言ったでしょう! 令呪を以て命ずる、そこに正座ッ」
「がッ」
「ぅぐっ」
ビタン! と無様にリノリウムの床に這いつくばった男共を見下ろし、駆け寄ってきた赤髪の少女が眉を吊り上げる。
「……聞いていればわかります。貴方たちは言葉不足、認識相違、独断専行が過ぎます! いい、誤解が解けるまでそこに正座してちゃんと和解して。わかった!? クー・フーリン、エミヤ!」
「……ああ」
「……応」
こんな事で令呪まで使わせてしまっては、頷かないわけには行かない。渋々顎を引くと、よし! じゃあ一時間後にまた来ます! と勇ましく言い残してマスターは去っていく。
エミヤとランサーといえば、カルデアの壁を背に、窓を見やる形で隣合って正座し、互いに目を逸らした。沈黙が痛い。和解も何も、分かり合えることなど何もないではないか――と、人知れずため息をついた時。
「アーチャー」
ランサーがそっと口火を切った。
「お前に惚れてる」
「……まだ言うか」
エミヤは目線を手元に落とした。両膝の上で丸くなった拳。ランサーの言葉は、正座という古典的な罰から早く逃れたいがための口実にしか思えなかった。
「何回言っても信じねえなあ、お前は」
「……わかった、信じる。それでこの話は終わり、「和解」だ、ランサー」
そういうことにすればいいのだろう。エミヤだって初めから、ランサーと腹を割って話をするつもりなどない。無駄にしかならないとわかっている。
「違ぇ。逃げんなアーチャー」
「逃げてなど……」
「じゃあ、ちゃんと聞け。嘘でもおちょくってんでもねえ、本気で言ってんだぜ。さっきはてめぇがもしや座に還ると言い出すんじゃねえかと焦ったが」
ダ・ヴィンチ工房でのやり取りを言っているらしい。「お前は思い詰めると何しでかすか分からねえ」と称されるのは不服だった。ランサーがその程度で焦るはずもない。心配するようなことを言って同情を引きたいのか知らないが、今更嘘幻を信じるほどおぼこではないのだ。
「アーチャー、こっち向け」
右隣からランサーの腕が伸びてくる。顎を掴まれ、右へ振り向けられて初めて、ランサーの顔を正面から見た。およそこの場には似つかわしくない、真摯な目をしている。こちらを向けと、今まで何度も言われた。そして何度も無視してやった――意味がないからだ。乾いた笑いがこぼれる。
「ハッ、本気で私に惚れたと? 君が?」
「そうだ。ま、自覚したのはお前に言われた後だったが――」
「それこそ戯言だ。勘違いも甚だしい。ランサー、君は好意を寄せられると問答無用で相手を意識する、そんな簡単な男だったか? 歴戦のクー・フーリンが?」
「だからー……」
はあ、と重々しくついたため息をそのままに、ランサーは「わかった、言い方変えるわ」と前髪をかき回した。奴の正座は、とっくに粗雑な胡座へと形を変えている。
「じゃあお前はオレがどうだと思ってたんだよ。お前に言い寄るオレが滑稽だって? 嘘っぱちも大概にしろって? ひとっつも信じずに?」
「わかっているなら聞かずともいい」
「いいから」
「……」
有無を言わさぬ目で睨まれ、エミヤは肩を竦めた。わかりきっていることをなぜわざわざ。ため息と共に口から文句を押し流す。
――女になったことを、エミヤは疎んでいた。なぜなら。
「……私が女性になったから、君は近づいてきたのだろう」
「あ?」
ランサーは怪訝に片眉を跳ね上げた。
「そういや、さっきもそんな事……」
「英雄色を好むとはよく言ったものだ。憎き弓兵であろうと、女になってしまえば守備範囲とは、いやはや誠に恐れいった。だが成りはそうでも、私は男だ。女扱いされ、口説かれ、孕めと言われて黙っていられる訳が無い。ふざけた思いを抱いた私への意趣返しというならそれもよかろう。嫌がらせに関しても天下一品だな、君は」
――この上ない屈辱と侮蔑をありがとう、クー・フーリン。
ぐちゃぐちゃと臓腑が淀む。皮肉げに口端を歪めて笑ってやると、ランサーがひくりと顔を震わせて硬直した。図星か。まさかバレているとは、思いもしなかったか――。
「馬鹿かテメェは!」
「……っ!?」
ダンッ! と鈍い音がして、二人の間の壁にヒビが入った。ランサーが殴りつけたのだ。言い当てられて逆上する状況ぐらいは予想の範囲内であったので、エミヤはじっと冷めた目で男を見つめるだけだ。やはりそうであったか。逆ギレが全てを肯定する証拠だと、エミヤは唇を真一文字に引き結ぶ。
「おい、壁の修繕は……」
「そんなもんどうでもいい! てめぇな、何をどうひねくれて考えたらそういう思考回路になんだよ! 女になったから? 女だったら誰でもいい? 侮るなッ」
激昂したランサーは膝同士がぶつかるほどに身を寄せてくる。逃げようとすれば膝の上の手を取られて、下からぎらついた瞳で覗かれた。もう一回言うからよく聞け、と凄む紅の、揺るぎないこと。
「オレはテメェに惚れている。気づいたのがテメェに告白された後で機を逃しちゃいるが、誠意でもって口説いたつもりだ。男だ女だ関係なく、お前自身が欲しいとな。それすらわかっちゃいなかったっつーことか?」
ランサーの告白に、エミヤは僅かに狼狽えた。
「な……だが重い物を持つな、休め、体を冷やすな等と女性に対する振る舞いしかしなかっただろう! レイシフト先でもこれ幸いと庇ったりして……、女扱いされて嬉しいとでも思ったか! 突然べたべたとくっついてきて、甘ったるい言葉をかけて、私の慰めにでもなると……!」
「好きな奴を想ってやったことだがな。悪いか?」
「……ッハ、笑わせる。では私の女体に触れてニヤニヤと脂下がっていたのは何だというのだ? 子供が欲しいと、腹があるなら誰でもいいと言っているようにしか聞こえなかったがな!」
「あー、まあ眼福だとは思ったぜ。だがそれは好いたお前が相手だからだ。誰彼構わず迫ったりなんぞしてねぇだろ……子供だってな、お前との間に出来んなら、そりゃ僥倖だって話だ」
「は、ぁ……っ?」
ランサーはぼりぼりと後ろ頭をかきながら、「不義なんざ何もない」と断言する。男の台詞が信じられずふるふるとかぶりを振ると、項を手のひらで押さえられて引き寄せられた。夏空の色をした髪の隙間から、マグマのような瞳が覗く。
ぐらぐらと煮えたぎる、地獄の釜。そこに足を踏み入れれば最後、抜け出すことは叶わない。
「どうやら本気ですれ違ってたみてぇだな。が、これで誤解は解けたろう――アーチャー」
突然、底知れない焦りがエミヤの胸を焦がした。このまま流されては確実にまずい。予想外の方向へ話が転がっている。
ランサーが私に惚れている? 女だからではなく、私だから? 冷やかしでも揶揄でも嫌がらせでもなく、あれは全てランサーの求愛。自分の物にすると決めたからこそ、女の私にではなく、私自身への愛情表現――。
「ら、ランサー。待て、これ以上は意味がない」
「はあ?」
呆れた表情でランサーが迫ってくる。逃がす気はない、もう容赦はしないとにじり寄り、ニイと獰猛な笑みを形作った。
「オレに惚れてるだろう、アーチャー。嘘だとも諦めたとも言わせねえぜ。なあ、両想いってやつだ」
「ありえな、い……!」
反射的に飛び退ろうとして、腰をがっちりと固められていることに気づく。一人真面目に正座していたのが裏目に出たか、ろくに動けない状態でランサーという蛇に睨まれるのは些か分が悪く、せめてもと眉間に力を入れると何故かランサーの目がとろりと濡れた。
「……ラ、んッ」
距離を無くした唇同士が、無骨にぶつかる。乾いた皮膚に柔らかな肉。馬鹿みたいに収まりがよかった。信じられるはずがない。だが、無理やり信じ込ませ、結果を手繰り寄せるクー・フーリンという男にどうやったって引き寄せられる。
「……ハ、耳真っ赤」
「貴様……っ、何を」
諦めるなぞ、最初から望みは薄かった。己の恋慕は、肉体を飛び出したがために花開き、男女の垣根を超えて男に届く。
もしかすると最初から、奴の手の内だったのかもしれない。
「――やっぱ可愛いな、お前は」
色めいた雄々しい瞳を、いとおしげに撓ませてランサーが笑う。甘やかな牙が喉元にまで迫る。
手放しはしない、もう二度と。
「やっとオレのもんだ」
クー・フーリンの腕に捕まる。口説き落とされ、やっと通じ合ったその証。
それがエミヤに降り掛かった最大の悲劇であり――彼の至る、幸福だったのである。


おしまい

Comments

  • 弧弧
    November 1, 2025
  • September 18, 2023
  • May 22, 2022
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