岡山市内を南北に流れる旭川から分岐した百間川に近い河川敷に週末、球音が響き渡る。中学生の硬式野球チーム「東岡山ボーイズ」の専用グラウンドだ。ちょうど10年前の2013年。そのブルペンで、ひたむきに投げ込む野球少年がいた。当時中学3年生だった山本由伸投手。プロ野球オリックスで今季まで、いずれも3年連続の15勝以上、防御率1点台、沢村賞とパ・リーグ最優秀選手(MVP)など輝かしい実績を挙げた球界ナンバーワンの右腕だ。
山本は今、米大リーグの世界に鳴り物入りで乗り込もうとしている。中学時代をよく知る指導者たちは「想像すらもできなかった」と口をそろえる。一方で、こんな印象も残っているという。「探究心が旺盛。たとえ打たれても、引きずるようなことはなかった」。その性格は、球界の大エースになってからも、どこか重なり合うイメージがある。やがてダイヤモンドへと磨かれていくことになる原石を温かく見守った東岡山ボーイズの監督らが、山本少年の素顔を語った。(時事通信社 小松泰樹)
山本は岡山市の東に接する備前市出身。よく知られているように、オリックスのチームメートで2学年上の頓宮裕真選手と実家が隣同士の幼なじみだった。小学生の頃は2人とも軟式野球の「伊部(いんべ)パワフルズ」に所属。その後は頓宮が瀬戸内ボーイズ、山本は東岡山ボーイズで硬式野球に打ち込んだ。
「型にはめない」指導者たち
日本少年野球連盟(ボーイズリーグ)に所属する東岡山ボーイズは、約40年の歴史を持つ。会長で創設者の藤岡末良さん(76)は関西高3年だった1965年夏、勝てば甲子園という東中国大会決勝で岡山東商高に惜敗。相手のエースは、後に「カミソリシュート」を武器にプロで通算201勝をマークした平松政次投手だった。監督を15年ほど務めている中田規彰さん(54)も関西高OB。87年夏の甲子園でベンチ入りし、チームはベスト8進出。芝草宇宙投手のいた帝京高に敗れた準々決勝では、代打で出場した。
藤岡さんも中田さんも、強豪校でもまれてきた経験と球歴を持ちながら、選手たちに対しては押しつけず、自主性を重んじてきた。チーム内の規律に厳しくても、野球に関しては「型にはめたくはない」(中田さん)と中学生世代の伸びやかな成長を重視している。
キャッチボールで「スーッと伸びた」
「ユニホームがぶかぶかでした」。中田さんは、きゃしゃな体つきの山本がチームに入ってきた中学1年生の頃を懐かしむ。当初は二塁手。その後、投手もやり始めた。中田さんは「キャッチボールを見ていたら球筋がとてもいいので、『ピッチャーをやってみるか』と聞いたら『やってみたいです』と言ってきたのがきっかけでした」と振り返り、こう説明した。「地肩が強かったのでしょう。(キャッチボールで)投げる球がスーッと伸びていく感じでした。そこが、ほかの子とは違っていましたね」
闘志をみなぎらせたり、グイグイと引っ張ったりするタイプではなかったという。練習では、いい意味で要領がよかった。監督やコーチの目が届かないと見るや、ちょっと手を抜く。そこを見逃さない監督らが「コラッ、由伸!」と言いかけるや否や、すぐにギアを入れる。中田さんは「かわいいさぼり方でしたよ」とほほ笑む。グラウンド右翼側の隅から左翼側の隅まで「往復1分以内」で走るというドリルがあり、「55秒くらいで楽に走れるはずなのに、いつも59秒でしたね」。余分なエネルギーは使わず、効率良く―。手先も含め、そうした広い意味での器用さが、やがて投手としての技量にもプラスに働いていったようだ。
「遊び心と器用さ」が進化
その一例が変化球。中田さんは「中学生だから遊び心もあったのでしょう。自分でいろいろと考えながら変化球を覚えていったようです。カーブを例に取れば、器用だからスローカーブなんかもうまく投げていましたね」。今の山本が投げる、縦に大きく割れる独特のカーブは、中学時代がルーツになっているのかもしれない。後年、プロ入りしてから投球時の体の使い方に陸上のやり投げを応用するなど創意工夫を積み重ねた。中学時代の「遊び心と器用さ」から大きく進化、発展させていったのだろう。
中学3年生になると、レギュラーとして背番号「4」を付けた。投手と二塁手を兼ねていて、「1」は馬迫宙央投手。山本との2本柱だ。二塁手での打順は2番や6番で、「エンドランなど、つなぎの役割にたけて、小技もうまかったですね。外野手の間を抜く長打もありました」と中田さん。東岡山ボーイズは真夏の全国大会、第44回日本少年野球選手権を目指した。その岡山県支部予選決勝で、中田さんの記憶に鮮明な、山本のこん身の一球があった。
一発を浴びても引きずらず
支部予選の前から腰を痛めていた山本は準決勝に野手で出場後、決勝ではスタメンを外れた。あと1勝で全国大会。それでも中田さんは「ここがゴールではない」と大事を取った。すると山本が、こう直訴した。「投手はできます。(救援で)投げさせてください」。倉敷ボーイズとの決勝は馬迫が先発し、打線も活発で大量リード。山本の心意気を知る中田さんは最後のイニングを託す。2死後、見逃し三振で優勝を決めた。「ストレートが外角低めにずばり。気持ちのこもった素晴らしい投球でした」
迎えた全国大会では、初戦で高崎ボーイズ(群馬)に1―9と完敗。先発の馬迫を救援した山本と3番手で投げた投手が、それぞれ同じ選手に一発を浴びた。豪快な2本塁打を放ったのは、逸材候補とされボーイズリーグ関係者に知られていた桜井一樹選手。後に八戸学院光星高(青森)でエースとして甲子園に出場した。中田さんによると、山本は力の差を感じつつも、「それを引きずることはなく、ケロッとしていました」。痛打されたことをバネにしたのか否かはともかく、苦い結果を冷静に受け止め、次への糧にするメンタルは、今の山本に通じる一端も垣間見える。
一期一会、岡山から宮崎へ
山本にその後、大きな出会いがあった。県内の作陽高(現作陽学園高)でコーチを務めた後、都城高(宮崎)の監督に就任して間もない森松賢容さんがある日、東岡山ボーイズの練習場を訪れた。そこで目に留まったのが山本だ。「うち(都城)にぜひ」と懇願。都城高にはチームの1学年先輩も進学していて、山本自身も意欲を見せたことから、話はトントン拍子に進んだ。藤岡さんが言う。「ああいう出会いが、一期一会なんでしょうね」
東岡山ボーイズの3年生は8月を終えたら、練習には参加しても大会出場などは「引退」となる。山本には、それまでに甲子園常連のような強豪校からほとんど声が掛からなかった。資質は別にして、客観的なレベルでは普通の選手という域だったと言える。それだけに、高校野球のステージに向けてモチベーションが一気に高まったようで、それからはブルペンでの投球練習に熱が入った。中田さんは「夏休みの頃は124キロほどだった球速が、その後130キロになりましたから」と中学時代のラスト半年での成長を強く感じたという。
抱いた期待をはるかに超越
あれから10年。球界を代表する投手へと変貌を遂げた山本だが、藤岡さんも中田さんも「正月にはよく、ここ(専用グラウンド)に寄ってくれます」と目を細める。打撃練習で使っているマシンは、山本が寄贈してくれた。新チームの主将を務める中学2年生の藤田楓翔投手は「メジャーリーグでも頑張ってほしい」と大先輩にエールを送り、「山本投手のように、球が速くてコントロールもいい投手になりたい」と目を輝かせる。
藤岡さんは「体をしっかりとケアしながら、活躍してほしいですね」と、孫の世代にも近い山本のさらなる飛躍を願う。中田さんも「けがなく、息の長い投手になってほしいと思います。大リーグでもタイトルを取ってほしいですね」。実感を込めて、こう結んだ。「これまで僕らが彼に寄せてきた期待を、はるかに、はるかに超越しています。本当にすごいですね」
山本は阪神との日本シリーズ第6戦で「これぞ由伸!」とファンをうならせた。14奪三振で1失点完投勝利。第1戦では0-0の五回に集中打を許し、六回途中までによもやの7失点で黒星を喫していた。「負」の要素を引きずらない。次元は異なるが、中学時代からの資質が高度に培われた修正能力のようにも映る。日本球界で見納めになるかもしれない「ラスト登板」を圧巻の投球で締めくくった。