批評は人を傷つけるためにある
室町 礼
ところでふと思ったのですが、あらゆる芸術は
一種の余暇の芸術という側面をもっている。
つまりある程度生活に追われない、時間の余裕
のある人たちが文学や絵画に魅せられて没入し
ていく。もちろんゴッホのように極貧生活的に
甘んじた人もいるし日本のむかしの作家は概ね
貧乏だったとしても、彼らはそうやってでも余
暇をこしらえて、そこにおいて芸術行為に没入
していた。そういう面からいえば文学音楽絵画
などの芸術活動はお茶、お華などと同じく余暇
の趣味といってもいい側面をもっている。
しかし、わたしの見る所、批評という行為はど
うもそうった余暇の芸術とは違うのじゃないか
と思うのです。批評の原型というか、みなもと
は、芸術や趣味とは逆で、生活の余裕の無さか
ら出てきたものじゃないかと。
つまりは現状への批判が批評の根底にあるので
あって、批評にはそもそも余暇など必要ないし、
また、そうであるならば批評の本質は本来、
論理ではなく倫理ではないかと思えるのです。
しかし倫理の行使、発現というものは人を傷つ
ける。
たとえば吉本隆明と武井昭夫の共著『文学者の
戦争責任』論のように、戦後、のうのうと口を
つぐんで詩人や批評家を続けている人たちの過
去の戦争責任を追求すると当時の文壇の長老た
ちからは「若造の暴論」として強い拒絶にあう。
そして陰湿な批判が底で湧き上がる。それは多
分、その言説が人を傷つけるからでしょう。し
かし吉本は戦争のせいで学徒動員され、敗戦後
は洗脳された皇統遵守教育の崩壊によって精神
的ダメージを受けているのだから、どちらが先
に傷つけたのかというと、これは批評によって
傷つけられたというほうが、批判の刃によって
かれらが隠し持っている危険な刃の刃先を削ら
れる=傷つけられるということでしょう。
倫理性が本質である批評の当然の結果だとわた
しは思うのです。しかし、人々はどうしても倫
理から逃げる。その結果、批評は倫理的である
よりも論理的になり、詩の批評も構造や修辞に
ばかり偏って倫理が語られなくなった。
それは批評の本来性である倫理から傷つけられ
たくないからではないのか。そう思うのです。
でも本来、批評は一般芸術とは違って庶民大衆
の生活に根をもつもので、もともと倫理的なも
の(空疎な観念論を生活の側から批判するもの)
です。誤解されるかも知れないが「人を傷つけ
るための批評」というものが批評の本質ではない
かとわたしは思っています。これはキリストが
いったマルコの言葉にある「わたしが地球上に
平和をもたらすためにきたと思うな。平和では
なく、剣をもたらすためにきたのだ。」と重ね
て考えてもらってもかまわない。
「傷つくことばかりが上手にな」った令和の詩
人たちは、安全な批評ばかりやっている。
修辞/構造/言語技法/作品分析ばかりに逃げて、
倫理を忘れたネット上の自称批評の大家先生、
批評家さんにわたしは問いたい。
「あなたは今どこに立っているのか?」
論理は安全だが倫理はダンビラを振り回すよう
なものです。
倫理的批評は、必ず誰かを傷つける。戦争責任/
階級的責任/歴史的責任/共同体の欺瞞/言語の欺
瞞、これらを問うと批評家は“敵”を作る。
雑誌に書けなくなる/仲間から外される/仕事が
減る/批評家としての地位が危うくなる/だから
倫理を避ける。つまりほんとうの批評をさける。
(まあ、それ以前に批評とは何かちっともわか
っていないわけですが)
それはしかしまあ当然だともいえる。今の批評
家にもともと大衆庶民の生活なんかないのだか
ら。だから
戦争批判も国家への揶揄も差別反対も、表面的
的には批判的なスタンスをはとっているが内実
はだれも傷つかないよう言語ゲーム化されている。
「国家」「資本」「差別」「戦争」などの語彙
は、現代では“正しい言葉”として安全に使え
る。しかし、具体的な誰かの責任を問うと危険
になる。
差別と戦うということは国家や巨大資本や天皇
制と戦うことではない。隣近所(生活)と戦う
ことが差別との戦いの本質なのだ。
「国家」「資本」「差別」「戦争」あるいは
「リルケ」「尹東柱」「トーマスマン」を出
そうが、自分の娘が黒人と結婚するとなると
近所の目を気にしておろおろする人が昔は多
かった。
いまや詩人や批評家にとって批判的な語彙は
おまんまを食い続けるための廉価な“文化資
本”でしかない。
倫理を避けて論理に傾くこういう時代が続く
とどうなるか。
もうその兆候は、始まっている。
軍靴の足音が近づいている。
だから今、批評はその剣を抜いてだれかの刀
の刃先を傷つけるためにそこに置く。
といっておきます。
あひっ。