歌集評:身体という戦場――記憶を書き換えるための暴力と再生(坊真由美『へしゃげトマト』)
率直に言って、この歌集の外見にはオンデマンド出版ならではのある種の「安っぽさ」が漂っている。そして、第一歌集として多くの作品を収めようとしたためだろうか、ところどころに荒削りな部分も目に付く。
だが、そんなことはどうでも良い。そう思わせるだけの凄まじい魅力と破壊力が、この一冊にはたしかに宿っている。坊真由美の第一歌集『へしゃげトマト』(デザインエッグ、2025)は、現代短歌がたどり着きうる、危険で誠実な地点を示した作品であり、トラウマの言語化という困難な営みに正面から挑み、短歌という形式の可能性を押し広げた、ひとつの達成と言えるのかもしれない。
ここに収められた422首は、単なる私的な経験の告白ではない。それは、暴力によって損なわれ、奪われてきた身体と言葉の主権を、三十一音を武器として取り戻そうとする、壮絶な闘いの記録だ。この本を貫いているのは、破壊された過去を前にして、ひとはどうすれば未来を肯定できるのか、という問いに尽きるように思える。坊の歌が、トラウマを負った身体を単なる記憶の容れ物としてではなく、新たな生を紡ぐための戦場として描き出し、定型を通してその記憶を書き換えていくプロセスを、じっくりと辿ってみたい。
暴力の系譜と「地上の楽園」
この歌集の核心にあるのは、家庭、学校、職場といった、私たちの日常に潜む暴力のテーマだ。それは単発の事件としてではなく、世代を超えて受け継がれてしまう「系譜」として描かれる。作者は自らの体験を、そして自らが成り代わって詠う伯母の絶望を、容赦のない筆致で刻みつける。その視線は感傷をいっさい排し、ただ事実を突きつけてくるかのようだ。
父ちゃんは母ちゃんを蹴り母ちゃんは私を殴るカレーが美味しい
振り下ろす男の椅子は真夜中の母の背中でまだ砕けない
一首目の、「カレーが美味しい」という結句は、暴力が日常に溶け込んでしまったおぞましい現実を、鮮烈に浮かび上がらせる。暴力を振るう父、それを子へと転嫁する母、そしてその中で「美味しい」という感覚だけがたしかに在る。この状況は、生き延びるために感情の一部を麻痺させなければならない子どもの姿を映し出しているように感じられる。二首目の「まだ砕けない」という描写は、終わりの見えない暴力の持続を暗示する。この「まだ」という一語に、絶望と、同時に破壊への密かな渇望が凝縮されているかのようだ。
これらの暴力の記憶と対置されるように詠われるのが、亡き愛犬「ボウちゃん」との日々や、自身の子どもたちとの触れ合いである。それらは作者にとっての「地上の楽園」として、繰り返し立ち現れる。
吸う 吐く を繰り返してるきみを見る日々が地上の楽園だった
暴力が支配する世界と、愛犬との穏やかな時間。この二つの世界の極端なまでの落差が、この歌集の構造を支えている。坊にとって歌を作ることは、暴力の記憶という地獄をまっすぐに見つめながら、失われた「楽園」の存在を言葉によって証明し、その光を現在に繋ぎ止めようとする行為なのかもしれない。
身体感覚の言語化とシュルレアリスム
坊の歌を読んでいて強く感じるのは、その言葉が徹底して身体感覚に根差していることだ。痛み、匂い、熱、嘔吐物、排泄物といった、ふつう詩的な言葉からは遠ざけられがちなものが、ここでは生々しいリアリティをもって現れる。それは、トラウマが精神だけでなく、私たちの身体にこそ深く刻まれるという事実を、読者に追体験させるための戦略のようにも思える。
髪の毛にしがみついてる嘔吐物ノロロタノロロタわたしのことか
拾い上げる犬のうんちの温もりに生きていいよと言われた夜よ
一首目の「ノロロタノロロタ」という奇妙なフレーズは、保育士としての極限状況における自己感覚の融解を見事に捉えている。この言葉は、集団感染の脅威であるノロウイルスとロタウイルスを重ね合わせた作者の造語であり、嘔吐物と自己、さらには病原体との境界が曖昧になるほどの疲弊と混乱が、この一語に凝縮されている。二首目では、「犬のうんちの温もり」という即物的な感覚が、「生きていいよ」という全肯定のメッセージへと飛躍する。これは、抽象的な慰めの言葉ではなく、具体的な生の感触だけが救いとなりうるという、作者の切実な実感から生まれた表現なのだろう。
こうした身体性に根差しつつ、坊の歌は時としてシュルレアリスム的な跳躍を見せる。現実の過酷さがあまりに大きすぎるとき、その歌は論理を超えたイメージの世界へと突き抜けていく。
公園を燃やしていこうひとつひとつそうしてみんな幸福であれ
虐待の記憶が刻まれた「公園」を燃やすという破壊的なイメージは、しかし「そうしてみんな幸福であれ」という祈りへと繋がっていく。これは単なる復讐願望ではない。過去を物理的に焼き尽くすことでしか得られない解放と浄化(カタルシス)への渇望であり、トラウマからの再生を願う、暴力的でさえある祈りの形なのかもしれない。この現実と幻想の境界を壊してしまう力こそが、坊の歌を単なる告白から、普遍的な詩へと昇華させているように感じられる。
▲マークの機能と声の重層性
この歌集の目次を見て気づくのは、章立てと「▲」という記号が、きわめて意識的に使われていることだ。あとがきで作者は、▲マークを付けた連作が「子供のころを詠んだもの」であり、「同様の被害に合った方々の読後の心のショックが少ないように」という配慮からだと記している。これは、歌集そのものが読者に対する一種のケアとしてデザインされていることを示している。私たちは▲を目印に、心の準備をしながら読み進めることも、あるいはその部分を避けて通ることもできる。この選択の余地を残すという行為自体が、この歌集の誠実な態度を物語っている。
さらに注目したいのは、「桃色の上着」という連作が、あとがきによれば「伯母(二十歳で実父の子を宿したまま水死)に成り代わって詠った」ものである点だ。
桃色の小さな上着が落ちていて上着は小さな空を見ている
桃色の小さな上着が落ちていて上着は小さな桃色だった
この連作を読むとき、私たちは作者自身の声と、彼女が憑依させた伯母の声という、二つの声を同時に聞くことになる。一首目では、「小さな空を見ている」という擬人法によって、置き去りにされた絶望と、それでも天を仰ぐ純粋さが描かれている。そして連作の最後に置かれた二首目では、「空」が「桃色」へと回帰する。これは、外部の世界への視線を断ち切り、ただ「桃色」であったという自己完結した事実へと沈んでいく魂の軌跡を象徴しているのかもしれない。作者自身のトラウマと、血縁者のそれが響き合うことで、この本における暴力の主題は個人的な体験を超え、より普遍的な射程を手にしている。
告白の先にあるもの
現代の短歌において、自身のトラウマや心身の不調をうたう作品は、ひとつの流れを作っている。しかし、坊真由美の作品は、単なる「告白」や「癒し」の言葉に回収されることを、きっぱりと拒んでいるように見える。彼女の歌は、安易な共感や同情を許さない、激しい強度と暴力性を内に秘めているからだ。
父母の暴力さらし過去を売りやがて私も売られるだろう
本当は愛されてたいだけなのに短歌詠んでるやつバカヤロー
これらの歌には、トラウマを作品化することへの冷めた自己客観視と、その行為自体への苛立ちや自己嫌悪が隠されていない。歌によって救われると同時に、歌によって自らを切り売りしているという感覚。この引き裂かれた自己認識こそが、坊の作品を際立たせている。彼女は、短歌が持つ救済の機能を信じながらも、それが孕む欺瞞や消費の論理から目を逸らさないのだ。
『へしゃげトマト』は、だから、私的な痛みの記録であると同時に、トラウマがどのように語られ、消費されていくのかという、現代社会そのものへの批評的な問いかけでもある。その意味で、この本は短歌というジャンルに留まらず、より広い文学的、社会的な文脈で読まれるべき強度を備えている。坊真由美は、この一冊をもって、現代短歌がたどり着きうる、危険で、そして誠実な場所を指し示した、と言えるのかもしれない。
10首選
地球という気泡を知らず兄ちゃんの小さな肺は羊水を出る p.12
この歌は、歌集全体に流れる不在と喪失というテーマの、原点を描いているように思える。生まれることなく死んだ兄の存在は、作者の世界に原初的な「空洞」をもたらした。歌の核心は、「地球」を「気泡」と捉えるその独特の認識にある。私たちが生きるこの広大な世界も、羊水に浮かぶ胎児にとっては、まだ存在しない泡のようなものに過ぎない。その「気泡」を知ることなく、兄の「小さな肺」は、満たされるはずだった空気の代わりに「羊水を出る」。この「出る」という動詞の選択が巧みだ。あえて排出を意味する言葉を選ぶことで、生への移行が断絶された瞬間、命が零れ落ちていくイメージを鮮烈に描き出す。壮大な宇宙観の中で、しかしどこまでも静かな悲劇として描かれる兄の死。この静謐な絶望感が、後に続く苛烈な生の体験の序奏となっているかのようだ。
中学は廃校とする。今日からは私が私の先生である。
これは、学校という制度からの決別と、自己の主権を取り戻すことを宣言する、力強い一首だ。「満場一致の無視」や「壊されていた自転車」といった、陰湿ないじめの果てに、作者は既存の教育システムを「廃校」と断じる。この主体的な宣告は、被害者という立場から脱し、自らの学びと成長の主体になるという決意の表れだ。「今日からは私が私の先生である。」という下の句は、誰かに教えを乞うのではなく、自分自身の経験と感覚を指針として生きていくという覚悟を表明する。ここには、既存の価値観への根本的な不信がある。これは単なる不登校の肯定ではない。自己を抑圧する共同体との関係を断ち切り、自分だけの法を打ち立てるという、孤独だが誇り高い革命の宣言なのだ。この一首があるからこそ、歌集全体が持つ、逆境に屈しない強い意志が私たちに伝わってくる。
子ウサギの声 輝ける便座たち ラメの指先 カメラの死角
保育士としての経験から生まれたのだろうこの歌は、無垢と危険が同居する現場の緊張感を、断片的なイメージの連なりによって描き出す。「子ウサギの声」「輝ける便座たち」「ラメの指先」「カメラの死角」。一見すると無関係な要素が並べられることで、ある不穏な物語が匂い立つ。「子ウサギの声」はか弱く愛らしい子どもの象徴だが、それはすぐに不吉な気配を帯びる。「輝ける便座たち」という無機質な明るさ、「ラメの指先」という具体的なディテール、そして「カメラの死角」という決定的な言葉。すべてのイメージが、虐待の可能性という一点に収束していくようだ。作者は何も断定しない。しかし、この言葉の配置だけで、監視の目から逃れた場所で起こりうる事態を読者に想像させる。個々の言葉が持つポップな明るさと、全体が醸し出す冷たい恐怖感との対比が、この歌に異様な深みを与えている。
脳内に切り傷のあるわたしから始まる長い娘の自傷
トラウマが世代間でどう連鎖するのか、その宿命的な恐ろしさを、この歌は冷徹なリアリズムで描き出す。「脳内に切り傷のあるわたし」という比喩は、目には見えないがたしかに存在する精神的な傷を的確に表現している。その見えない傷が、現実の「娘の自傷」という見える傷へと繋がっていく。この因果関係を、作者は一切の感傷を交えずに、事実として突きつける。「わたしから始まる」という認識には、自分を責める罪悪感と、どうしようもない事実を前にした無力感が滲む。さらに「長い」という一語が、この連鎖が簡単には断ち切れないであろう未来を予感させ、私たちを慄然とさせる。母から娘へと暴力が直接振るわれるのではなく、母の内に在る傷そのものが、娘の自己破壊として現れる。その残酷さが、家庭という密室で起こる悲劇の、もっとも深い暗部を抉り出している。
はにかんだへしゃげトマトの一生を守れる土に私はなりたい
歌集の表題ともなったこの一首は、作者の再生への意志と、他者への深い共感を象徴しているように読める。「へしゃげトマト」とは、傷つき、不格好で、規格外とされた存在のメタファーだろう。それは虐げられてきた過去の自分であり、社会の片隅で声を上げられずにいる、すべてのか弱き者たちの姿でもある。その不完全さを「はにかんだ」と捉える視線には、欠点ごと肯定しようとする慈愛が感じられる。そして作者は、そのトマトをただ憐れむのではなく、その「一生を守れる土に私はなりたい」と願う。「守る人」ではなく、トマトが根を張り、生を全うするための基盤である「土」になりたいと願う点に、成熟した愛の形が示されている。傷ついた経験を持つ者だからこそ持ちうる、究極の優しさがここにある。暴力の連鎖を断ち切り、次世代を育む存在へ。この静かで揺るぎない決意表明は、この本が未来に向けた希望の書であることを高らかに宣言している。
吸う 吐く を繰り返してるきみを見る日々が地上の楽園だった
亡き愛犬「ボウちゃん」へ捧げられたこの歌は、幸福が非日常の出来事ではなく、ありふれた日々の繰り返しにこそ宿るという真実を、静かに教えてくれる。「吸う 吐く」という生命の基本的な営み。その「きみ」をただ「見る日々」。それこそが、作者にとっての「地上の楽園」であったと、過去形で語られる。この過去形が、取り返しのつかない喪失の痛みを際立たせる。しかしこの歌は、単なる悲しみに留まらない。かつて楽園が存在したというたしかな記憶が、現在の作者を支えていることが伝わってくるからだ。暴力に満ちた人間社会とは対照的に、犬との関係は絶対的な信頼と無償の愛に貫かれている。その記憶は、人間への絶望に苛まれる作者にとって、唯一の聖域だったのかもしれない。平易な言葉で綴られながら、読者の胸に静かな感動を呼び起こす一首だ。
桃色の小さな上着が落ちていて上着は小さな桃色だった
三十首連作「桃色の上着」の最後に置かれたこの歌は、語られることのなかった悲劇のすべてを凝縮している。連作の途中には「桃色の小さな上着が落ちていて上着は小さな空を見ている」という歌があるが、そこでは上着はまだ「空」という外部の世界と繋がっている。しかし、連作最後のこの歌では、その視線は完全に内側へと閉じられる。「空」は消え、上着はただ「小さな桃色だった」という同語反復へと帰着する。これは、絶望の果てに世界との関係を断ち切り、自己存在そのものへと沈んでいく魂の動きを象徴しているようだ。彼女の生は、ただ「桃色だった」という事実だけが残る。この表現は、悲劇を物語として消費することへの抵抗のようにも読める。同情も解釈も拒絶し、ただそこにあった色彩という事実だけを突きつける。あとがきでこの連作が伯母に捧げられたものと知ったとき、この一首の重みはさらに増す。声にならなかった声、物語られなかった死が、この三十一音の中に永遠に封印されている。
公園を燃やしていこうひとつひとつそうしてみんな幸福であれ
この歌は、坊真由美の作風が持つラディカルさを最も象徴する一首かもしれない。虐待の記憶と結びついた「公園」は、作者にとってトラウマの現場だ。その場所を「燃やしていく」という行為は、過去の記憶を浄化し、破壊するための儀式に他ならない。「ひとつひとつ」という言葉が、その行為の丁寧さと執拗さを物語る。衝撃的なのは、この暴力的なイメージが「そうしてみんな幸福であれ」という、普遍的な祈りへと繋がることだ。ここでの「みんな」とは、誰を指すのだろう。この解釈の広がりが、歌に奥行きを与えている。トラウマからの解放は、時としてこのような破壊的な想像力を必要とする。忘却や和解といった穏当な手段ではなく、すべてを灰にすることでしかたどり着けない「幸福」があるのだという、痛切な逆説がここにはある。
父母の暴力さらし過去を売りやがて私も売られるだろう
トラウマを作品として発表することへの葛藤と自己客観視を、これほど冷徹に詠んだ歌は稀だろう。「父母の暴力さらし」という直接的な言葉で自らの創作を規定し、それを「過去を売り」と断罪する。ここには、表現者としての誠実さと、その行為が消費社会の論理に加担してしまうことへの、引き裂かれた意識が表れている。「やがて私も売られるだろう」という下の句は、作品が作者の人格から切り離され、批評やゴシップの対象として流通していくことへの諦念と恐怖を物語る。この歌は、創作という行為が孕む倫理的な問いを、私たち読者と作者自身に突きつける。痛みを語ることの必要性と、その危険性。その両義性を自覚しながらも、なお歌い続ける覚悟が、この一首には込められている。
あぜ道はいい道なんだこのままで生きていいよと誰か言うんだ
歌集の終盤に置かれたこの一首は、それまでの苛烈な世界を経て、作者がたどり着いた受容と肯定の境地を示している。「あぜ道はいい道なんだ」という単純な言葉の繰り返しが、自分自身に言い聞かせる呪文のように響く。「友のないひとり」「歩くのが遅い」といった、孤独や欠点、悲しみを内包した上で、それでも「いい道なんだ」と肯定する。そしてこの歌で、その肯定は「このままで生きていいよと誰か言うんだ」と、外部からの声へと転じる。この「誰か」が誰であるかはわからない。その曖昧さこそが、この歌を普遍的な救いの言葉にしている。長い闘いの末にようやくたどり着いた無条件の自己肯定。それは、この本を読み通した読者にとって、深い安堵と静かな感動をもたらしてくれる。
『へしゃげトマト』は、読む私たちに覚悟を求める本だ。そこには、目を背けたくなるような暴力と、胸が張り裂けそうな悲しみがある。しかし、坊真由美の歌は、決して読者を絶望の淵に置き去りにはしない。なぜなら、その言葉の根底には、いかに傷つけられても、生きることを諦めないという、鋼のような意志が一貫して流れているからだ。
この歌集の中で、身体はトラウマを刻まれる場所であると同時に、新たな生を産み出し、世界と交感し、そして何よりも歌を生み出す主体として描かれる。坊は、身体という最も具体的な場所から出発し、記憶を再編成し、自らの物語を書き換えていく。そのプロセスは、時に「公園を燃やす」ような暴力的な想像力を必要とし、時に「犬のうんち」の温もりに救いを見出す。この両極を往き来する振れ幅の大きさこそが、彼女の詩の世界の豊かさと強度を支えているのだろう。
本書は、虐待やいじめといった問題に対する貴重な文学的証言であると同時に、短歌という形式が持つ可能性を極限まで押し広げた、現代短歌の一つの到達点だ。安易な癒しを語るのではなく、地獄の底から、傷だらけの身体を通して、それでもなお「このままで生きていい」という肯定の言葉を紡ぎ出したこと。その一点において、『へしゃげトマト』は、傷つきながら生きるすべての人にとって、大切な歌集となるにちがいない。これは、赦しの物語ではない。闘いと再生の記録であり、その果てにたしかに存在する光を、私たちに見せてくれる一冊だ。


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