歌集評:上川涼子歌集『水と自由』──まなざしの光学、テクスチャの再発見
序——目を濡らすということ
変なことを言い出すようだが、この本を読みながら、自分の目が濡れている、と思った。別に泣いていたわけではない。ただ、この歌集を読んでいると、眼球の表面に薄く水の膜が張っていることを、なんとなく思い出させられる。同時に、喉の奥でわずかに波打つ自分の呼吸の音にも、ふと耳を澄ませていた。光と水と息——そんなごく当たり前の感覚の装置が、自分のなかにあったことを思い出させられる。
上川涼子の第一歌集『水と自由』(現代短歌社、2025)は、研ぎ澄まされた感性と知性が交差する場所から世界の微細な手触りを言葉で捉え直そうとする、批評的な意志に貫かれた一冊だ。
タイトルに掲げられた「水」と「自由」。それは本書を読み解くための大切な二つのキーワードである。「水」が持つ透明さやどこにでも染み込んでいく流動性は、自分と世界との境界をかき混ぜ、新しい知覚の扉を開いてくれる。一方で「自由」は、その流れやまどろみの中でどうすれば確かな輪郭を持つ<わたし>として立ち、言葉を紡いでいけるのか、という切実な問いへと私たちを誘う。それはまた、無限の選択肢の中でいかにして意味のある形式(=短歌)を選び取るかという、創造行為そのものの問いでもある。
この歌集を読んでいて強く感じたのは、その独特の「光学的な想像力」だ。カメラのレンズや鏡、あるいは昆虫の複眼のような装置を通して世界を捉えるまなざしが、見慣れた日常の風景をまったく違うものに見せてくれる。〈蜂の眼〉という連作タイトル。〈鏡〉〈ピンホールカメラ〉〈銀幕〉〈水晶体〉など器官/装置/媒体をめぐる語彙。それらが体系的に響き合い、光と視覚の詩学が一つの軸として立ち上がる。この光学的なアプローチが私たちの身体感覚とどう結びつき、世界の新しい質感を発見させてくれるのか。いくつかの歌を手がかりに探ってみたい。
<水>というレンズを通して
この歌集をそっと覆っているのは、「水」あるいは「透明」というモチーフだ。けれど、それは単に風景の一部として描かれるのではない。上川にとって水やガラスのような透き通ったものは、世界を認識するための特別なレンズだ。対象をありのままに映すだけでなく、光を屈折させかたちを変え、思いがけない像を結ばせる。
スイミングプールに爪先から浸る あたらしい服に身体を通す p.22
二つのささやかな行為を並べることで、身体と世界のあわいで生まれる繊細な感覚を捉えている。プールに爪先からそっと入っていくとき、水の冷たさや柔らかな抵抗が自分の身体の輪郭を不意に意識させる。並べられた「あたらしい服に身体を通す」という行為もまた、布という膜を通して自分自身の身体を再確認する営みだろう。どちらもある種の「界面」で起きる出来事だ。水も服も、身体を外界から守ると同時に外界と私たちを繋ぐ。この鋭敏な感覚こそが、歌集全体の底を流れている。
景物はぬれて映れりみづうすく張りてひらける人の眼に p.25
見るための器官である「眼」そのものが水を含んだ存在として捉えられている。眼球の表面を覆う涙の薄い膜に、外の世界が濡れて映り込んでいる。この発見は、見るという行為が乾いた機械的なプロセスではなく、湿度を帯びた生身の営みであることを思い出させる。世界は、涙の膜というきわめてパーソナルなスクリーンに映ることで、初めて<わたし>のものになる。この歌集において「見る」という行為は、いつもこうした身体の湿り気と対象との潤んだ関係を伴っている。
蛇口から水いつしんに奔りきてみづからを篩ひ落とす筋力 p.110
水はただ受け身の存在ではない。この歌を読むと、水そのものが意志と「筋力」を持った生き物のように思えてくる。蛇口からほとばしる水は、自らを「篩ひ落とす」という激しい運動を見せる。この擬人化は、あらゆるものに遍在する「水」に生命の躍動感を与える。あらゆるものの輪郭を洗い磨き上げ変容させていく能動的な力。上川のまなざしはこの水の運動とともにあり、静止した風景の中にダイナミックな動きを見出していく。
こうした歌を辿っていくと、「水」や「透明」は、単なる背景ではなく、世界を感覚しなおすためのレンズであり、同時に感覚を一時的に受け止めるための「器」として機能していることがわかる。身体・環境・物質の境界線は、水の存在によってたえず揺さぶられ、引き直される。読者の知覚もまた、その揺れに巻き込まれていく。
知性と響きあう感覚
上川の短歌の面白さは、鋭敏な感覚の世界を、科学や数学や音楽といった理知的な言葉で組み立ててみせるところにある。一見すると馴染まない要素が溶け合うとき、世界は不思議な奥行きを持つ。感覚を客観的な座標軸の上に置いてみることで、かえって感覚そのものがシャープに立ち上がってくる。
沈黙が純正律に限りなく近づく夜のチェス・プロブレム p.15
「純正律」は、単に数学的に美しいハーモニーというだけでなく、平均律のように自在には転調できない、特定の調にしかぴたりとは合わない響きでもある。その語感を踏まえると、この歌が捉えている「沈黙」は、どこにでも持ち運べる一般的な静けさではなく、「いま・ここ」にしか成立しない一回限りの沈黙として読めてくる。「限りなく近づく」と言いながらも決して到達したとは言わない。その一度きりの局面に耳を澄ませつつも、完全な調和には触れきれない、漸近線のような宙吊りの感覚がにじむ。結句の「チェス・プロブレム」は、解が原則として一つしか想定されない作為的な局面の名であり、ここでの沈黙もまた、別の調や別の状況へと転用できない、ただ一度きりの「盤面」として立ち上がる。音の不在としての沈黙が、「純正律」と「チェス・プロブレム」という二重の比喩によって、不可逆で張り詰めた局面として強く輪郭づけられている。
蠟梅や モジュラーシンセサイザーの回路にめぐり逢ふ0と1 p.57
遠く離れたイメージを大胆に結びつけてみせる一首。まず「蠟梅」という日本の伝統的な美の象徴が詠嘆とともに置かれる。これは先行する「蠟梅の淡き上枝へ鳥は来て飛び去るのちの鳥に重なる」(p.57)という景とも響き合う。次に、その繊細な枝ぶりがパッチケーブルの複雑に絡み合う「モジュラーシンセサイザー」へと重ねられ、結句ではさらに抽象度を上げて「0と1」という情報の最小単位の、「回路」でのめぐり逢いへと飛躍する。自然の造形から人工物の有機的な外観へ、そしてすべてを貫く抽象的な原理へ——この三段階の跳躍が一首のうちに圧縮されている。具象から抽象へと連想を畳みかけていく運動は、自然と人工物の境界線を軽々とまたぎ越える新しい世界の捉え方を示している。
ひぐらしのむくろ乾きて緊まれるはちひさき秋のパンタグラフか p.121
夏の終わりに道端に転がっているひぐらしの骸。その乾いて引き締まったフォルムを電車の屋根についている「パンタグラフ」だと見抜く視線は、マクロとミクロ、有機物と無機物を一瞬でつなぐ。ひぐらしの脚や翅の構造的な美しさが、機能美の塊である工業製品に重ねられている。この精緻な比喩は単に読者を驚かせるだけでなく、死という終着点で生き物がたどり着くある種のデザイン的な完成度への畏敬の念を感じさせる。上川の歌の中では、こうした知的な比喩が対象への深い観察眼と静かな感動を伴って現れることが多い。
そしてもう一つ、この歌集の知性が親しく手を結んでいるのが「音」と「呼吸」の感覚だ。
調弦を了へたるのちの楽団の余韻しづもり冬となりゆく p.69
音楽が止んだあとの「余韻」の静けさ。そこには、季節の移り変わりまでが溶け込んでいる。
ソノリテを浚ひしのちのくちびるを使ひて夕べは人語を話す p.209
フルート奏者の基礎練習語彙が、楽器から日常の会話へと切り替わる「くちびる」の感覚として捉え直されている。
息の緒にひとつらなりの空間とわたしのからだ うたふ うたへる p.221
ここに至ると、呼吸はもはや単なる生理現象ではなく、「うたう/生きる」ための空間そのものとして立ち上がる。光とレンズの詩学がタイトルの「水」の側を支え、音と息のリズムに耳を澄ませる詩学が「自由」の側を支えている——そういう二重の構図がここから見えてくる。『水と自由』という題には、視覚と言語・呼吸の二つの運動が重ね書きされていると言ってよい。
感覚の微細さと、科学・数学・音楽語彙による抽象の枠組み。その両方を使いこなしながら、世界の質感と構造を同時に掴もうとする試みが、歌集全体に通底している。
現代都市とメディア——スクリーンに映る身体
上川の視線が「光学的装置」や「媒介された知覚」というテーマをもっともあからさまに引き受けているのは、都市生活とメディア環境をめぐる一連の歌だ。たんに消費社会の滑稽さをなぞるのではなく、スクリーンに映し出される身体像や暴力のイメージが、どのような経路で私たちの感覚に入り込んでくるのかが、静かに問われている。
H&Mのウェブにてかがやけるスパンコールのブリーフを見つ p.143 ブリーフをタイツの上に穿きかさね颯爽とせりケンダル・ジェンナー p.144 接頭辞のなす陰翳は深々と「カーダシアン家のお騒がせセレブライフ」の、お p.145
ここで扱われているのは、特定のブランドやセレブそのものというより、画面越しに消費される身体イメージのあり方だろう。通販サイトの小さな商品写真、SNSやリアリティ番組で半ば「記号」として流通する人名や肉体。その連なりは、私たちが「身体」をもはや生身ではなく、光の粒子に還元されたイメージとして受け取っているという事実を、どこか滑稽で、しかし冷静な距離から照らし出している。上川は単に文化的記号を引用して遊んでいるのではない。「スクリーン」という光学的装置を介してしか世界に触れられない現代の知覚構造そのものを視野に入れている。
汐留のライブカメラをよぎりゆく列車は時を押し流しつつ p.158
汐留のライブカメラを横切っていく列車の歌では、その意識はさらに明確だ。主役は列車そのものではなく「ライブカメラ」という装置である。現実の時間の流れは、そのレンズを通過し、圧縮された映像データとして世界へ配信されていく。列車は「時を押し流す」だけでなく、時間そのものが光学的に加工され、別の場所で再生されることを象徴している。上川の関心は、都市風景の描写にとどまらず、「見ること/見られること」がカメラという装置に媒介されるとき、時間と身体の感覚がどう変質するのか、という点に向けられている。
白リン弾で検索をせり真白なる煙を吸はば肺は焼くると p.150 垂れさがる煙を述べて水母なる比喩美しければ押し黙りたり p.151
戦争の映像やニュースに触れるこれらの歌も、同じ問いの延長線上にある。検索窓に打ち込まれる「白リン弾」という言葉。その先に現れるのは、誰かが撮影し、編集し、アップロードした「映像」としての暴力だ。「真白なる煙」を吸い込む想像は、画面の向こうにあるはずの惨禍を、自分の肺のなかへ引き寄せる試みでもある。一方で、「煙を述べて水母なる比喩」を美しいと言えてしまう瞬間には、遠く離れた場所の被害を「イメージ」として消費してしまう危うさもひそんでいる。上川は、光学的に媒介された戦争のイメージに接続する自らの感覚を、単なる倫理的断罪でも陶酔でもなく、その狭間の揺らぎとして捉えようとしている。
現代詩文庫を包むビニールのやぶれやすきも秋の一閃 p.125
こうして見てくると、書店に並ぶ現代詩文庫を包むビニールさえ、ひとつの「スクリーン」として読み替えられてくる。薄い透明な膜は、本と読者との間に介在する保護膜であると同時に、指先の感触を通して簡単に破れてしまう境界でもある。「やぶれやすさ」という物質的性質に「秋の一閃」という光のイメージを重ねることで、メディアに包まれたテクストの脆さと、その膜を破る読者の行為を、ひとつの光学的事件として描き出している。
ファッションサイトの小さな商品画像から、ライブカメラ、検索結果としての戦争映像、ビニールに包まれた詩集にいたるまで——これらはすべて、世界と私たちのあいだに挟まる「媒介」の諸形態だ。『水と自由』における現代都市とメディアのモチーフは、個々の固有名にとどまることなく、「光」と「膜」と「スクリーン」をめぐる上川の詩学と深く響き合っている。水が世界と身体の界面をなすレンズであったように、メディアの装置もまた、私たちの知覚をかたちづくる透明な水槽=「器」として立ち現れている。
日々の手触りとささやかなユーモア
ここまで見ると、きわめて知的で緊張感の高い歌集、という印象が先に立つかもしれない。しかし『水と自由』には、生活の手触りや、ふっと口元がゆるむようなユーモアのラインも確かに息づいている。
生活に夢を見る 生活を夢に見る そのまにま丸善へ行く p.48
「生活」と「夢」という大きな抽象語を掲げながら、結句ではあっさりと「丸善へ行く」という具体的な行為に着地する。夢見る生活でも、生活のような夢でもない、その「あいだ」に本屋がある。この肩の力の抜けた結末に、作者のユーモアと、本とともにある日常への愛着がにじむ。
キャットフィッシュ・レコードは古きアパートの一室にしてタトゥー屋のとなり p.49 日が永くなつたことなど話したり小籠包をれんげに寄せて p.64
古いアパートの一室にあるレコード店と、その隣のタトゥー屋。休日に誰かと小籠包をすくいながら交わす取りとめのない会話。こうした場面に現れるのは、難解な思弁ではなく、ごく素朴な「好きなもの」の感覚だ。音楽を買いに行く足取りや、湯気の立つ飲茶の匂いといった細部が、歌集全体の密度をやわらかく支えている。
放尿の抛物線のごとく昏れ犬につづいてゆく人の影 p.126
欲望のかげりなきまで眩しきに茄子、茗荷など並ぶコンビニ p.186
カルヴィーノ読まばや夏の浜に似たカルビーのポテトチップス溢して p.98
放尿の放物線にたとえられる夕暮れの犬と人の影、コンビニの棚に並ぶ茄子や茗荷の「欲望のかげりなきまで眩し」さ、カルヴィーノ/カルビーのささやかな駄洒落を含んだポテトチップスの光景。どれもやや唐突で可笑しみのあるイメージだが、そこにあるのは嘲笑ではなく、どこか慈しみのある視線だ。高踏的な文学とスナック菓子を同じテーブルに並べてしまう軽やかさも含めて、ケンダル・ジェンナーやカーダシアン家の歌と同じく、「おかしさ」に向けられる視線の奥に、現代の生活を丸ごと抱きしめようとする温かさがある。
こうした歌を並べてみると、『水と自由』は決して冷たい理知だけの歌集ではないことがわかる。レコード屋、丸善、小籠包、コンビニ、ポテトチップス——生活の細部に宿るちいさな可笑しみと愛着が、ときおり硬くなりかけた思考をほどき、読む側の呼吸もふっと楽にしてくれる。その緩急もまた、この一冊の魅力の大きな部分を占めている。
歌集という旅——配置と構成について
全七章からなるこの歌集は、作者が「あとがき」で触れているように、必ずしも作られた順番通りには並んでいない。しかし通して読むと、そこにはひとつの旅路のようなものが感じられる。歌の主体のまなざしが閉じた内的な空間から開かれた外の世界へ、そして再び自己の内面へと還っていく——その往還の軌跡として読むことができる。
植物の生温かき呼気満ちてパウル・クレーの夢精が青い p.14
Ⅰ章、最初の連作「回廊温室」に置かれたこの歌は、歌集全体の序奏のような役割を担っている。「回廊温室」というタイトルが示すのは、閉ざされ、人工的に管理された空間だ。そこに満ちる植物の「生温かき呼気」は、湿度と生命感にあふれたどこか官能的なムードを醸し出す。その感覚が「パウル・クレーの夢精が青い」というイメージへと飛躍する。温室に満ちる「生温かい」生命力に対し、芸術家の知性と夢想を象徴する「クレー」の名が「夢精」という生々しい身体性と結びつく。そして「青い」という寒色がこの現象全体を包み込む。生温かさと青さ、身体と精神——その両極がこの一首の中で交錯している。見る者と見られるものの境界は溶け合い、空間全体がひとつの生き物のように脈打っている。この濃密で内側へ向かう世界認識が、この歌集の出発点にある。
Ⅰ章の他の連作タイトル——「アウフタクト」「透明な花束」「アンビエント」——もまた、閉じた空間での微細な感覚の揺らぎを予感させる。やがて歌集は、Ⅱ章「二階」「澄みわたる距離」、Ⅲ章「冬の市」「思惟」、Ⅳ章「蜂の眼」「鏡」「StillLife」と、室内と都市、自然と人工物を行き来しながら、視線の届く範囲を少しずつ広げていく。
全天が繊月を得しこのゆふべ行き交ふ人の荷のひとつ、鍵 p.184
Ⅵ章の連作「水と自由」冒頭のこの歌は、歌集冒頭の「回廊温室」とは対照的に、大きく開かれた空間を詠んでいる。連作タイトルに歌集と同じ名が与えられていることからも、ここが一つの核心であることがわかる。「全天」というマクロな視点から地上を行き交う無数の人々へとカメラが寄り、最終的にそのうちの一人が持つ「鍵」というとても小さくて私的なものにピントが合う。このスケールの大きな移動は、世界の広がりとその中で生きる一人ひとりの孤独や固有性を同時に描き出す。鍵は、それぞれが帰るべき場所あるいは閉ざすべき内面を象徴しているのだろう。主体はもはや閉じた空間の中だけでなく、開かれた世界との関係の中で自分自身を捉え直している。
ひとすぢにのびるなみだの清浄が水鳥の脚に満ちて立たしむ p.223
最終章であるⅦ章の最後の連作「恩寵と息吹」に置かれたこの歌は、浄化と再生のイメージで静かに全編を締めくくる。「恩寵」という言葉が示すように、ここでは自力では到達しえない何かが、外から与えられるものとして詠われている。「なみだ」という内側からあふれ出る感情が「水鳥の脚」という外の世界の生き物へと流れ込み、それを「立たしむ」力になる。自己の内面から生まれたものが世界と溶け合い、新しい生命のサイクルを生み出していく。
「回廊温室」から「水と自由」へ、そして「恩寵と息吹」へ。閉じた空間から開かれた世界へ、そして与えられるものを受け取る静かな境地へ——連作タイトルの変遷は、歌集全体を巡るまなざしの旅を確かに映し出している。
形式と自由——制約の中の運動
序で掲げた二つのキーワードのうち、「水」についてはすでに見た。ここで残るもう一つ——「自由」について考えてみたい。水のように流動し境界を溶かす世界認識のなかで、この言葉はどう響くのか。
この歌集の「水」と「自由」は、どちらも真空中に単独で浮かぶ観念ではない。眼球やプール、涙の膜、そして短歌定型や連作構成、都市空間といったさまざまな「器」を介して初めて、触れ得るものとして立ち上がる。
興味深いことに、この歌集には「自由」という語が直接詠まれた歌は見当たらない。にもかかわらず作者はそれをタイトルに掲げ、Ⅵ章の連作名にも採用している。この不在の中心にこそ、上川涼子の「自由」観を解く鍵がある。
たどりつくべき港などなきゆゑに鋏は紙をしづかにすすむ p.17
歌集の冒頭近くに置かれたこの歌は象徴的だ。鋏の運動は何かを完成させるという目的から解放されている。ただ紙という平面の上をしずかに進む運動そのものが肯定される。しかし見落としてはならないのは、鋏が「紙を」進むという点だ。鋏は紙という制約の中でのみ、その自由な運動を実現できる。結果や効率性が重視される現代社会の中で目的を持たない行為の余白を回復しようとする意志の表明であると同時に、三十一文字という定型の「器」の中でいかに無限の知覚の運動を展開できるかという、短歌という営みそのものへの問いかけでもある。
フォルムから放たるるとき存在はうつくしい裏声に近づく p.171
この歌は「自由」をより直接的に主題化している。「フォルムから放たるる」とは、定められた形式や輪郭からの解放を意味する。そのとき存在は「裏声」——通常の発声とは異なる、どこか身体の制約を超えた響き——に近づくという。形式を離れることで初めて届く美の領域への憧れがある。しかし「近づく」という表現が示すように、完全な解放ではなく、あくまで漸近的な運動として描かれている点が印象的だ。自由とは到達すべき地点ではなく、近づき続ける運動そのものなのだろう。
先に見た「全天が繊月を得しこのゆふべ行き交ふ人の荷のひとつ、鍵」の「鍵」というイメージを、ここでは別の角度から読み直してみたい。鍵は閉じることと開くことの両方を可能にする道具であり、束縛と解放の両義性を一身に担っている。私たちは皆、何かを閉ざし何かを開く鍵を持ちながら、広い空の下を歩いている。自由の問題は、最終的にはこうした一人ひとりの私的な領域に帰着する。
秋風はひぐらしの声淡くして吹き初むるなり無私なるゆゑに p.185
同じ連作に置かれたこの歌には「無私」という言葉が登場する。秋風が「無私なるゆゑに」吹くという認識は、自我の欲望や意図から離れた状態にこそ真の自由があるという思想を想起させる。風は何ものも所有せず、どこへでも吹いてゆく。その無私の運動がひぐらしの声を「淡く」する——夏の濃密さを薄め、季節を移行させる力となる。ここでは「水」の流動性と「自由」の無私性が、風という媒介を通じて静かに重なり合っている。
ながくひかりを吸つてこころはうつろふとしてピンホールカメラにのこる冬の市 p.76
「ピンホールカメラ」は、記憶や心のイメージがどのように形作られるかという、認識そのものへの問いを秘めている。「こころ」の移ろいやすさと、ピンホールカメラに記録される風景の永続性が対比されながらも、「うつろふとして」という宙吊りの状態で両者は共存している。
注目すべきは、「ながくひかりを吸つて」という句が、そのままピンホールカメラの長い露光時間を思わせることだ。針穴から光を取り込む装置と同じように、歌のリズムそのものが時間をかけて光を吸い込むかのように感じられる。定型という制約の中でなお自由な呼吸を実現しようとする、上川の批評的な実践がここにある。形式からの微かな逸脱が内容と深く響き合い、「自由」は抽象的な理念としてではなく、一首の身体そのものとして実現されている。
先に、「現代詩文庫を包むビニールのやぶれやすきも秋の一閃」を、書店に並ぶ詩集と読者とのあいだに挟まる透明なスクリーンとして読んだ。ここでもう一度、その一首を「器」という観点から読み直しておきたい。薄いビニールは本と外界を隔てながら、そのやぶれやすさゆえに、指先の感触ひとつでたやすく境界を変形させてしまう。通常なら欠点とみなされるその「やぶれやすさ」に「秋の一閃」という鋭い美を見出す視線は、既成の価値観に回収されない自由の実践にほかならない。
あとがきで作者は
水は一日をとおして色を転じながら、しかし闇を湛えても透明です。そのように澄んだ眼で、あるいは文体で、一切を見透すことができたら p.224
と書いている。この「ビニール」もまた、歌集というテクストをいったん受けとめ、光と手触りを変調させながら読者へと手渡す小さな「器」として見えてくる。やぶれやすい器であるがゆえに、そこに走る一瞬の光が、日常に埋もれた世界の質感をあらわにする。上川の短歌は、言葉という鋭いナイフでなめらかな日常の表面に切れ込みを入れ、その下に隠された現実のザラザラとした肌理を立ち上がらせる。その営みは、見慣れたものの見方から自らを解き放つ、精神の自由の実践でもある。
ゆつくりと息がからだを離れゆきてそのまま鳥になるフェルマータ p.221
最終のⅦ章の末尾に置かれたこの歌は、身体という制約からの解放を夢想する。息が身体を離れ、鳥になる——この変容のイメージは、物質的な束縛を超えた自由への憧れを静かに結晶化している。「フェルマータ」は音楽用語で、音符を本来の長さより延長して保持する記号だ。息が鳥になる瞬間は、このフェルマータの中で永遠に引き伸ばされ、宙吊りにされている。時間という制約さえもがここでは溶けてゆく。
結び——書き得たものと書かれざるもの
上川涼子の『水と自由』は、現代短歌のなかでも、知性と感性の結びつきがひときわ印象的な一冊だ。光と水、レンズとスクリーンという視覚のモチーフに加えて、音楽と言葉、呼吸と鼓動といった聴覚的・身体的なモチーフが、生活の細部やささやかなユーモアと絡み合いながら、世界を多層的に映し出している。この歌集の核心は、そうした「装置」を通して世界をもう一度見つめ直し、その質感を言葉によって再発見しようとする批評的な精神にある。情報化され身体の感覚が薄れがちな現代社会で、もう一度世界の確かな手触りを取り戻そうとする切実な試みだ。
一つひとつの歌は、研ぎ澄まされた比喩と的確な言葉選びによって私たちの凝り固まった知覚をリフレッシュする力を持っている。抽象的な思考は常に身体の感覚に根を下ろし、感覚的な描写は知的な構造に支えられている。この両者の間に保たれた緊張関係が作品に強度と奥行きを与えている。そこに、丸善やレコード店、小籠包やコンビニといった日常の光景がさりげなく差し込まれることで、一冊全体の表情は決して硬直せず、どこか人懐こい温度を帯びる。
もちろんこの理知的なアプローチは、時に世界の複雑さや割り切れなさを整理しすぎてしまう危うさを孕んでいる。
心的と心理的との差異などを思ひつ車の離合眺めつ p.112
こうした歌では、概念の整理が前景に出て、感覚の生々しさがやや後退している。しかし、その危うささえもがこの歌集の魅力の一部だろう。整理しきれるものと整理しきれないものとの境界で揺れ動く精神の軌跡が、かえって読む者の心を惹きつける。あとがきに記された、
書くきっかけとして心に萌したことがらと、結果として書けたことがらは隔たりがあることが多いものです。それでも、書き得たものと未だ書かれず言葉のなかに息をひそめるものとの相剋に、創作の動力の一端はあることでしょう。 p.224
この言葉は、第一歌集の読後感を的確に言い当てている。書き得たものとまだ書かれていないものとの間で格闘する精神の軌跡こそが、この一冊を忘れ難いものにしている。私はきっとこの本を何度も本棚から取り出し、そのページをめくることになるだろう。そのたびに、目と耳と呼吸のどこかが、少しだけ湿度を取り戻していることに気づきながら。


コメント