歌集評:死は硬くない——食卓と身体を通過する喪失の手ざわり(鳥さんの瞼『死のやわらかい』)
はじめに
432円。スーパーの鮮魚売場に並ぶパック詰めの魚に貼られた値札の数字である。その数字を、この歌集の作者は「棺」の管理票と見なす。
大陸で暮らす魚のはるばると432円の棺 p.9
大陸の海を泳いでいた一個の生命が、はるばる運ばれ、その行程の果てに値札を貼りつけられて、発泡スチロールのトレイに収まる。それを「棺」と読み替えたとき、日常の買い物は弔いの儀式に変わる。だが作者の筆致からは厳かさのようなものは感じられない。432円という端数の生々しさが、死をむしろ卑近なものとして差し出す。
この一首に、歌集全体を貫く態度が凝縮されている。死は崇高な主題として屹立するのではなく、値札のついた日用品のように、生活のいたるところに紛れ込んでいる。
鳥さんの瞼の第一歌集『死のやわらかい』(点滅社、二〇二四年)は、二十八の小章から構成されている。「棺」「速度たち」「虹」「心の理論」「乱暴さについて」「優しさについて」「ケージ」「メランコリア」といった章題が並び、死と生、食と身体、家族と孤独、精神の病と日常が繰り返し交差する。初版から三か月で第二刷に至った事実は、この歌集が少なからぬ読者の切実さに触れたことを示している。
書名の「死のやわらかい」は、形容詞の連体形が宙に浮いたまま名詞に接続しない、奇妙な構文だ。「やわらかい死」ではなく「死のやわらかい」。まるで死の属性としてのやわらかさを、名詞で受け止めることを拒むかのようだ。死はふつう「硬い」。終わりであり、断絶であり、動かない。にもかかわらず、この歌集を読み通したときに残る感触は、硬さとは正反対のものだ。死が日常のあらゆる表面にうっすらと浸み込んでいる、その湿り気のような感覚。
この小文では「浸透」を読みの鍵にする。この歌集において死は、食卓、身体、文体、そして画面の中へと、異なる経路を通じて浸み込んでいく。その浸透のさまをたどったうえで、歌集の構成が全体としてどのような流れを作っているかを見ていきたい。
本論
1. 食卓への浸透——食べることと殺すことの距離
この歌集には食べものの歌が異様に多い。魚、肉、卵、麦茶、メロンパン、カレー、天ぷら、カニかまぼこ、ほたて、アンパンマン(の顔)。だがそれらの食べものは、ただ美味しいとか不味いとかいう次元では詠まれない。食卓に並ぶものはすべて、かつて生きていた何かの死体であるという認識が、つねに背後にある。
会うことのなかった四羽の心臓が一つに刺されて完成している p.6
冒頭章「鳥」に置かれた一首。焼き鳥のハツ(心臓)の串だ。四つの心臓が一本の串に刺されて「完成」している。「会うことのなかった四羽」という認識が鋭い。生きていれば出会うことのなかった鳥たちが、死によって初めてひとつの串の上で「出会い」、料理として「完成」する。死が結合の条件であり、破壊が完成の条件だという逆説が、食卓のうえでさりげなく成立している。死はここでは、串という日用品を介して食卓に浸み込んでいる。
期限切れ卵がこんなに残ってて私は生きるつもりだったね p.8
こちらは食べる側の事情についての歌。賞味期限切れの卵は、かつて「生きるつもりだった」自分の痕跡でもある。卵を買った過去の自分は、それを食べる未来を想定していた。しかしその未来は来なかった。使い切れなかった卵の数が、生への意志の衰弱を静かに測定する。死は、食べられなかったものの中にも浸み込んでいる。冷蔵庫を開けるたびに目に入る「残っている」卵は、食べなかった日数ぶんの生(とその空洞化)を数えている。
メロンよりメロンの味がしてるグミ(死んだら記憶なくなるらしい) p.12
上句はグミの人工的な甘さについての軽い観察だが、括弧の中に突然、死後の記憶消失という重い認識が挿入される。メロン味のグミがメロンより「メロンらしい」ように、生きている間の記憶もまた、本物の何かの代替にすぎないのかもしれない。模造品と本物、生と死の境界が、グミの甘さの中でやわらかく溶ける。括弧という表記が、この認識を本文から一段奥へ押し込めている。浸透は、表層ではなく括弧の奥で起きている。
死んでからはじめて体が真っ直ぐになったと知らない海老の天ぷら p.12
海老は生きているあいだ身体を丸めている。天ぷらにされて初めて「真っ直ぐ」になる。死によって姿勢が矯正されるという事実を、海老自身は「知らない」。この「知らない」が効いている。死によって何かが初めて実現するという構造は、流れ星が落ちて初めて燃えるのと同様だが、ここではそれが天ぷらという卑近な食べものの上で起きている。死の浸透先は厨房の揚げ油の中にある。この奇妙な事実が、この歌集の態度を端的に示す。
食卓の短歌群が積み上げているのは、食べるという日常行為のなかに死が構造的に組み込まれているという認識だろう。私たちは毎日、死んだものを口に運ぶ。その行為を当たり前のこととして続けられるのは、死の手ざわりを感じないようにしているからだ。この歌集は、その手ざわりを一首ごとに回復させてくれる。食卓は、死の浸透の最も日常的な現場なのだ。この歌集はそこから出発している。
2. 身体への浸透——母と皮膚をめぐる連鎖
食卓の次に死が浸み込む先は、身体だ。とりわけ「母」の身体と「私」の身体が交差する場所に、この歌集の最も痛切な歌群がある。
死にたいと私が入力する時も帝王切開の傷を持つ母 p.25
「私」がスマートフォンに「死にたい」と打ち込んでいる、まさにその瞬間にも、母の腹部には帝王切開の傷がある。二つの身体は物理的には離れているが、「私」を生むためにつけられた母の傷と、「私」が死にたいと打つ指が、一首の中で同時に存在する。死への願望が浸透しているのは「私」の精神だけではなく、その「私」を産んだ母の身体にまで遡って傷跡として刻まれているのである。「入力する」というデジタルな動作と「帝王切開の傷」という身体の記憶が、同じ時間の中に重なる。
刃をあてて皮はぶあつく切れていく母もわたしも生きづらいひと p.87
何を切っているのか、一読では判然としない。料理の場面——野菜か果物の皮を剥いているのかもしれないし、自傷の場面とも読める。その両義性を抱えたまま、「母もわたしも生きづらいひと」という述懐が続く。「皮はぶあつく切れていく」という触感は、生きづらさの手応えと重なる。母と「わたし」の生きづらさが、刃物を扱う身体の動作を通じて接続される。死は、料理と自傷の境界が曖昧になる場所に浸み込んでいる。
柔らかな獣のにおい母さんの鞄の牛の牛の母さん p.44
母の革鞄の匂いを嗅いでいる。革は牛の皮膚であり、その牛にも母牛がいた。「母さんの鞄の牛の牛の母さん」という連鎖は、人間の母→革鞄→牛→牛の母という四段階の所有と被所有の関係を、「の」の反復で畳みかける。「柔らかな獣のにおい」は、母の体臭なのか革の匂いなのか判別がつかない。その判別不能な領域に、人間と動物、生者と死者の境界が溶け合っている。
おかあさん大好きひとりで母になる前のあなたを助けたかった p.45
母への愛を述べる上句から、「ひとりで母になる前のあなた」への遡行が起こる。母が母になる以前——つまり「私」がまだ存在しない時点の母を「助けたかった」という願望は、原理的に実現不可能だ。自分が存在しなければ助けることもできない。だがその不可能な願望が切実に発せられるとき、「私」の存在は母の苦痛を救済するどころか、苦痛の原因ですらあったのではないかという逆転した認識が浮上する。死は、生まれる以前の時間にまで浸透している。
母をめぐる歌群は、食卓の歌とは異なる経路で死の浸透を描く。食卓では「食べる/食べられる」という関係を通じて死が日常に入り込んでいたが、身体の歌では「産む/産まれる」という関係を通じて、死が世代をまたいで浸み込んでいく。母の傷は「私」の存在の痕跡であり、「私」の死にたさは母の傷への応答でもある。死は食卓から身体へ、そして親子の時間の連鎖の中へと、浸透の領域を広げている。
3. 文体への浸透——壊れかけの言葉で死に触れること
死はテーマとして詠まれるだけでなく、文体そのものにも浸み込んでいる。鳥さんの瞼の技法上の最大の特徴は、文体の統一を意図的に拒否していることだ。口語、ネットスラング、記号、括弧、英語が一首の中で衝突し、ごくまれに文語がひと言だけ差し挟まれる。その衝突の仕方に、死の浸透がもうひとつの形で現れる。
乱暴な言葉を使うやつは死ね、、死ねも乱暴か。皆で死のう(?) p.22
この一首は自己言及の螺旋だ。「死ね」という暴力的な言葉を発したあと、その言葉自体が「乱暴」であることに気づき、訂正を試みる。しかし訂正の結果たどり着くのは「皆で死のう(?)」という、暴力性を集団化しただけの提案だ。しかも「(?)」。この表記は、この思考が作者の内部で絶えず回転している自問の断片であることを示す。句読点のゆらぎ(「、、」)も含め、整った韻文の形式がわざと壊されている。「死ね」という語が文中に出現した瞬間、文体そのものが動揺し、句読点が乱れ、文末は閉じそこなう。死は内容だけでなく文体の表面をも侵食している。
フェニックスイフェクサーキメラユニコーン脳の病気がなおるとよいね p.21
「イフェクサー」は抗うつ薬の商品名だ。フェニックス、キメラ、ユニコーンという神話上の生き物のあいだに実在の薬品名が紛れ込んでいる。空想の存在と実在の薬が等価に並ぶとき、両者の境界が融解する。治癒への願いは祈りに近づき、祈りは文体のうえではカタカナの奔流という形をとる。「脳の病気がなおるとよいね」という下句のひらがなの柔らかさが、カタカナの硬質な連打と対照をなす。病と死の影が、語の配列そのものに浸み込んでいる。
(美しい・醜悪な)あなたをずっと(許せない・愛してる)私をどうか(嫌ってください・知らないでいて) p.31
括弧と中黒による選択肢の並列。読者はこの歌を読むとき、括弧内の二語のどちらかを選んで文を完成させなければならない。だがどちらを選んでも「正解」にはならない。美しいと醜悪、許せないと愛してる、嫌ってくださいと知らないでいて——これらは排他的な選択肢ではなく、同時に成立している感情の層だからだ。短歌の線条性を括弧で分岐させるこの手法は、一つの感情に収束することを拒む主体の姿を文体に刻み込んでいる。感情が一つに定まらないこと自体が、生と死のあいだで揺れる状態の文体的な表現だ。
うわ〜〜〜〜〜〜任意の長さで叫んだらいつか死を克服できる文学 p.57
「うわ〜〜〜〜〜〜」という叫びの直後に「任意の長さ」という抽象的な語が来る。叫びの長さは「任意」であり、どこまでも引き伸ばせる。それを続ければ「いつか死を克服できる文学」になるのか。この一首は、文学が死を克服できるという信念を半ば茶化し、半ば本気で試している。叫び声の波線記号と「文学」という硬い概念の衝突は、死を言葉で扱うことの不可能性と必然性を同時に差し出している。文体が壊れかけていること自体が、死に触れようとする言葉の限界を体現する。
この歌集の文体は、壊れかけのまま機能している。整った短歌の形式を保とうとする力と、それを内側から崩そうとする力が拮抗し、その不安定さ自体が、死と生のあいだを揺れる主体の状態を体現している。死は主題の水準でのみ存在するのではなく、表記、句読点、括弧の使い方、口語とネットスラングと記号の混ざり合いといった文体の組織の中にまで浸透している。
4. 画面への浸透——SNSとAIの中の死
食卓、身体、文体に続いて、死が浸み込む第四の領域がある。画面だ。この歌集を同時代に位置づけるうえで、スマートフォンの画面を経由した死の表象は避けて通れない。
これは あの、AIアプリに囁いた「死にたい」を基に描かれた絵です。 p.24
画像生成AIアプリに「死にたい」と入力し、生成された絵を差し出す。人間の苦痛がアルゴリズムの入力値になり、視覚的イメージとして出力される。その絵を他者に見せるという行為——自分の「死にたい」を翻訳し、加工し、提示可能な形にするという、表現行為そのものへの問いがこの一首にはある。短歌を書くこともまた、「死にたい」を別の形式に変換する行為ではないのか。画像生成AIと短歌が、「死にたい」を変換するメディアとして並置されている。死はアプリの入力欄を通過して、画面の上に絵として浸み出してくる。
遅くまで起きてるみんなの死にたいを結んで名前のつかない星座 p.62
深夜のSNSに浮かぶ無数の「死にたい」を星に見立て、それらを線で結んで星座を描く。しかしその星座には名前がつかない。既存の物語には回収されない、匿名の苦痛の集合体。この一首は、個別の「死にたい」を集合的な現象として捉え直すと同時に、その集合に名前を与えることをあえて避ける。安易な連帯にも、安易な物語化にも回収されない痛みが、深夜のタイムラインという画面の中に浸透している。
こんばんは見なくてもいい悲しみをつい見てしまうひとはいますか p.62
「見なくてもいい悲しみ」とは、スクロールすれば通り過ぎることのできるタイムライン上の誰かの苦痛だろう。だが「つい見てしまう」。この「つい」に、画面を介した死や悲しみとの距離感が凝縮されている。見なくても生きていけるが、見ずにはいられない。その中間的な態度は、この歌集全体の態度でもある。死は「見なくてもいい」ものだが、この歌集は「つい見てしまう」視線で成り立っている。
生きているだけでえらいの生きている定義がそもそも違う気がする p.33
SNS上で流通する「生きてるだけでえらい」という励ましの定型句を、この歌は内側から解体する。「生きている定義がそもそも違う」とは、ただ呼吸しているだけの状態と、社会的に機能している状態の落差を指しているのだろう。画面上で流通する善意の言葉が、受け手の実感と噛み合わない。励ましの定型句が届かない場所に、死は浸透している。
ちょwお前w有名人じゃんでもそんな死に方選ばなくてもいいじゃん p.63
ネットスラングの軽さで語られる他者の死。「ちょw」「お前w」の「w」は笑いを示す記号だが、死の報に接したときにもこの記号が選ばれてしまう。画面越しに知る誰かの死は、ネットスラングという軽い言葉遣いの中に吸収されていく。その受け止め方の軽さと、「でもそんな死に方選ばなくてもいいじゃん」という語りかけの切実さが、一首の中でぶつかり合っている。死は画面上の軽い言葉の中にも、等しく浸み込んでいる。
食卓から身体へ、身体から文体へ、文体から画面へ。死の浸透はこの四つの経路を通じて、この歌集の隅々にまで行き渡っている。だがこれらの経路は並列的に存在するのではない。食卓で感じた死の手ざわりが、身体の歌で世代を遡り、文体の破綻として表面化し、画面上の言葉としてさらに拡散していく。浸透は一方向に進行し、深度を増していく。
5. 構成への浸透——歌集全体が描く流れ
最後に、死の浸透が歌集全体の構成にどう組み込まれているかを見る。歌集全体に目を通したときに感じ取れる流れがある。それは、直線的な変化ではない。しかし死は、その濃淡を変化させてゆく。
冒頭章「鳥」は前述のとおり、串に刺された心臓の歌一首で構成される。食卓の上の死であり、浸透の起点だ。この一首が冒頭に置かれたことで、読者はまず「食べもの」という入り口から歌集に入ることになる。
「棺」「速度たち」「虹」と続く序盤の章では、食と死を重ねる歌が密度高く展開される。だがそこに母の歌や自死への言及が少しずつ混じっている。歌集の序盤は、食の死を前景にしながら、その背後にもっと深い層を覗かせるという構造を取っている。
中盤の「やばピ」章は歌集の中で異質だ。その前にある「し」「電子レンジ」の章にもすでに内面の切迫は満ちているが、「やばピ」章では短歌という形式そのものへの懐疑が前面に出る。
タンカタンカ!!スーハースーハー!くんくんはぁ…はぁ…作れない!はあっあああぁん!!!!!!! p.60
「作れない!」という叫びは、短歌を作ること自体の困難だ。この叫びが歌集のほぼ三分の二を過ぎた地点に置かれていることで、読者にとって一種の息継ぎの場所になっている。整った一首を読み続けてきた目が、ここで形式の崩壊に出会い、読みのリズムが一度リセットされる。
「もう来ない友人」以降の後半で変わるのは、死を語る相手の現れ方だ。前半にも他者への言及はあるが、後半では具体的な喪失——もう来ない友人、離れた恋人、いなくなった飼い主の言葉を繰り返すインコ——が前景に出てくる。
ああそんなふうに光るな君のいる最後の夢だと気付いちゃうだろ p.66
夢の中で光る「君」に向かって「そんなふうに光るな」と呼びかける。光り方が美しすぎるから、それが最後の夢だと気づいてしまう。死者が夢に現れるという古典的な主題が、「気付いちゃうだろ」という口語の切迫によって現在の声になる。前半の食の歌が「食べもの」を介した間接的な死だったとすれば、ここでは特定の「君」の死が名指されている。
街路樹になった恋人たちが根を道路の下で繋いでいます p.73
「安らぎがあってほしい」章のこの一首では、死は断絶ではなく、地下での接続として描かれる。根が道路の下で繋がっているという幻視には、前半の食の歌にはなかった静けさがある。死んだものを切り分けて食べるのではなく、死んだものが地下でつながり続けているという像は、歌集の後半に独特の色調を与えている。
大丈夫わたしもさっき起きたとこ、ところでこの星、海があるのね p.83
「少し暖かい曇りの日」章に置かれたこの歌は、地球に降り立ったばかりの存在の声のようだ。歌集の終盤近くにこの視座の転換が置かれていることで、死と生活に密着してきた視線が一度、宇宙的な距離を取る。俯瞰の位置から見れば、海の存在すら驚きに値する。ここには死の浸透と呼ぶべきものはなく、むしろ浸透しきった日常から一瞬だけ離れる軽さがある。
終章「憶えていないものたち」は一首で閉じる。
死をねだるような真紅のくちびるで父の話はしない子だった p.91
「死をねだるような」唇の赤さは、生命力の過剰な表出であると同時に、死への接近でもある。「父の話はしない子」という下句は、歌集全体を通じてほとんど言及されなかった「父」の不在を最後の最後で浮上させる。家族の歌は母と祖母を中心に展開されてきたが、「しない」という否定形によって、語られなかった領域の広さが一瞬で示される。歌集を閉じた瞬間、語られなかったものの中にも死が浸み込んでいたことに読者は気づかされる。
冒頭の「鳥」(串に刺された心臓)から末尾の「憶えていないものたち」(語られなかった父)へ。この歌集は、死んだものの集合から始まり、忘れられたものの集合で終わる。その間に、死の浸透は食卓から身体へ、文体へ、画面へと、さまざまな経路を同時に走っている。構成が描くのは一本の線ではなく、死がどこにでも浸み込んでいるという状態そのものだ。冒頭からすでに深く、終盤に至ってなお新しい経路を見出す——その果てしなさが、この歌集の構成が伝えるものだ。
なお、巻末のあとがきは「存在は痛みを伴います。痛みに視線を向けないでいられることが、幸せという状態なのだと思います」と記す。そして「死も生も存在もみんな良いのだと思います」と続けたうえで、「そう信じていて、あるいは、信じるためかもしれません」と結ぶ。歌を書くことが信念の表明ではなく、信じようとする行為そのものであるという告白だ。二十八章をかけて死をあらゆる場所に浸み込ませたこの歌集は、そのすべてが「信じるため」に編まれている、と言っても過言ではないだろう。
この歌集を知るための10首
きっぱりと枇杷の浮かんでいるゼリー美しい死後もあるかもしれない p.20
「きっぱりと」の力強さが、ゼリーの透明感と不意に響き合う。琥珀色のゼリーに封じ込められた枇杷は、木から切り離され、砂糖で煮られ、ゼラチンに閉じ込められている。果実としては「死んでいる」。だがその姿には否みがたい美しさがある。「美しい死後もあるかもしれない」は、死と美が矛盾しないことへの静かな発見であり、「かもしれない」の控えめな語尾が、断言ではなく仮説として差し出されていることに注意したい。
逆マリー・アントワネットがやってきて私の全てをパンにしていく p.8
マリー・アントワネットの「パンがなければケーキを食べればいい」という(俗説の)言葉を反転させる。「逆マリー・アントワネット」は、すべてをパンに変えてしまう存在だ。「私の全て」がパンにされる——あらゆるものが最も基本的な糧に還元されていく、その過程の暴力性と滑稽さ。贅沢の剥奪としても、存在の質素化としても読める。固有名詞の大胆な転用が一首の世界を一瞬で構築する手つきに注目したい。
手品師のかばんに暮らす白鳩の幻想的な就業規則 p.18
手品師の鞄の中にいる白鳩は、呼ばれれば飛び出し、驚きを演出する。それが鳩にとっての「就業規則」だという見立てが秀逸。「幻想的な」の位置が絶妙で、就業規則の内容が幻想的なのか、就業規則という概念自体が鳩にとって幻想なのかが揺れる。労働と飼育、自由と拘束の関係が、鳩と手品師のあいだに凝縮されている。軽妙な調子の奥に、ケージに入れられた存在への視線が潜む。
諸経費や原材料高騰により小顔になってゆくアンパンマン p.39
アンパンマンは自分の顔を食べさせるキャラクターだ。原材料高騰で小顔になるとは、与えられる愛(パン=顔)が縮小していくということだ。経済用語と子ども向けキャラクターの衝突は笑いを誘うが、その笑いの底には、やさしさが維持できなくなる社会への視線がある。風刺とナンセンスが高い水準で融合した一首。「小顔になってゆく」の漸次的な変化の表現が、じわじわと進行する困窮を映す。
ドラえもん柄のGUCCIのお財布になるまで生きたうつくしい牛 p.42
高級ブランドと子ども向けキャラクターのコラボ商品。その素材である革が「うつくしい牛」の皮膚であったという認識。「なるまで生きた」という表現が鋭い。牛はGUCCIの財布に「なる」ために生きたのではない。だが結果としてそうなった。生の目的と結果の乖離が、「生きた」の一語に圧縮されている。ブランド名とキャラクター名が並ぶ華やかさと、「牛」の一字の素朴さとの落差が効く。
練乳が奥歯にしみる愛されて育ったことがたまにくるしい p.43
甘いものを食べると奥歯にしみる。その身体的な痛みを、「愛されて育ったこと」の苦しさに接続する。愛された記憶が苦しいのは、その愛に応えられていないという罪悪感か、愛された自分がなぜこんなに生きづらいのかという疑問か。練乳の過剰な甘さが、過剰な愛情の比喩として機能している。「たまに」という副詞が、常態ではなく不意に襲ってくる苦しさの質を正確に伝える。
生きるのにちょうど良い国なんてなくぬいぐるみの身体になりたいな p.29
「生きるのにちょうど良い国なんてない」という認識は政治批判というよりも、存在の居場所のなさについての述懐だろう。「ぬいぐるみの身体になりたい」は、痛みを感じない身体への渇望であり、同時に誰かに抱きしめてもらえる柔らかな存在への変身願望でもある。「な」の語尾が切実さと軽さを同居させている。上句の硬い認識と下句のやわらかい願望の落差が、一首の振れ幅を大きくしている。
死ぬことが悲しいだけでなかったこと落ちて初めて燃ゆ流れ星 p.58
流れ星は軌道を外れ、大気圏に突入し、燃え尽きる過程で初めて光を放つ。「死ぬことが悲しいだけでなかった」は、死の中にある肯定的契機への気づきだ。「燃ゆ」という文語動詞の(唐突な出現とその活用形には若干の違和感も否めないがこの語彙の)選択が上の句の認識に古典的な格調を与え、感傷に流れることを防いでいる面はあるだろう。落下によって初めて可視化される光——それを「悲しいだけでなかった」と受け止める視線の冷静さが、この一首の美しさの核にある。
亡骸のわたしが発見されるまで生きていてくれるはずのサボテン p.28
孤独死を想像する歌だが、視線は自分の死体ではなくサボテンに向けられている。水やりの頻度が少なくても生きるサボテンは、「わたし」の死後もしばらく枯れない。発見されるまで「生きていてくれるはず」という計算には、自分の死後の部屋にひとつだけ生き物がいることへの奇妙な安堵がある。「はず」の推量が、その安堵の頼りなさを正直に示す。
ほんとうのしあわせなんて無いのだし おすし ほたてはたいてい美味しい p.56
「無いのだし」の「し」と「おすし」の音の連鎖。悲観的な認識を述べた直後に「おすし」が唐突に挿入され、「ほたてはたいてい美味しい」という素朴な断言に着地する。絶望から寿司へ。この跳躍に理屈はない。しかし、たいていのほたてが美味しいという事実は否定しがたい。全角スペースによる間(ま)が、思考の飛躍を視覚的にも示す。絶望と食欲の共存を笑いとともに肯定する、この歌集の姿勢を凝縮した一首だ。
おわりに
冒頭で引いた432円の棺に戻る。あの一首において、死は値札のついた商品として食卓に届いていた。そしてこの歌集を読み通したとき、死が値札をつけて流通しているのはスーパーの鮮魚売場だけではないことに気づかされる。母の腹部の帝王切開の傷に、句読点の乱れた一行の中に、深夜のSNSのタイムラインに、そして最後には語られなかった父の不在の中に——死はいたるところに、やわらかく、静かに浸み込んでいる。
この小文が追った浸透の五つの経路——食卓、身体、文体、画面、構成——は、いずれも死が「特別な出来事」ではなく「日常の質感」として存在するさまを照らし出している。この歌集における死は、壁のように立ちはだかるのではなく、膜のように日常を覆っている。その膜ごしに私たちはものを食べ、人を抱き、画面をスクロールし、眠り、朝を迎える。膜の存在を忘れているとき、人はそれを「幸せ」と呼ぶのだろう。あとがきの「痛みに視線を向けないでいられることが、幸せという状態なのだと思います」は、おそらくそういう意味だ。
鳥さんの瞼の達成は、その膜に何度も触れたことにある。触れるたびに、膜の向こう側——死の側——がすこしだけ透ける。だがその膜は破れない。やわらかいから。
書名の「死のやわらかい」は、連体形のまま宙に浮いている。何がやわらかいのか、最後まで名指されない。読み終えたいま、その形容詞が修飾すべき名詞は「膜」かもしれないし、「手ざわり」かもしれないし、あるいは、この歌集そのものかもしれない。名詞を欠いたまま宙に浮くやわらかさ。それは、死と生のあいだに立って、どちらにも倒れずに言葉を紡ぎ続ける、この作者の姿勢そのものなのだ。



コメント