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書評:謎と痛みが織りなす短歌の迷宮――川本千栄歌集『裸眼』を読む(ネタバレあり)      

あえて情報を与えない第一章

 歌集の冒頭から、愛の喪失をめぐる言葉の洪水に読者は放り込まれる。しかし、その原因や具体的な出来事は一切明かされない。まるで深い霧の中に迷い込んだような心許ない感覚の中、読者の目に映るのは、漠然とした、しかし耐え難い苦しみの断片である。

   螢烏賊オリーブオイルに浮いているどうにもな
   らない午後十一時
   ひっくり返された虫が手足を動かしているよう
   に手足動かしている

 これらの歌は読者の感情に訴えかけるが、その源泉は謎に包まれている。作中主体の内面の混乱や、現実と虚構の境をさまよう精神状態は、自分を「マトリョーシカ」と見立てた連作や、「偽の城」を眺める日々を詠んだ歌々に色濃く映し出される。

   マトリョーシカ 君が外側壊してもよく似た私
   走り出て来る
   胴体がパチンと割れて同じ顔苦しんだこと無か
   ったように
   にせの城眺めて過ごした日々のことベランダに
   いつも植えて朝顔

 具体的な背景を知らないまま、読者はひたすらにその痛みに引き込まれていく。作者はあえて情報を与えないことで、普遍的な人間の苦悩として歌を提示し、共感の層を分厚くしていくのだ。第一章では、個人的な悲しみや絶望だけでなく、社会的な出来事や歴史的背景をも巧みに取り入れ、感情の襞を幾重にも重ねている。

第二章 真相開示

 そして、この「謎」は第二章の、それも巻末近くに配置された連作「迷宮」で劇的な形で解き明かされる。歌集全体を覆っていた苦しみの正体が、たった一首の歌によって明らかにされるのだ。

   私の夫を奪いたいという歌だった ○付けてい
   た 寂しく閉じる

 夫を略奪した女性が詠んだ歌に「良い歌だ」と○印を付けていた、という歌である。自分で自分の破綻に〇を付けていたという事実の重さが「寂しく閉じる」に集約される。歌人同士の世界だからこそ起こりうる、残酷な皮肉だ。

読み返しによる重層化

 この一首は、読者の読書体験を根底から覆す。この衝撃的な真実の開示によって、それまで意味の霧に包まれていた第一章の歌々が、俄然、痛切な意味を帯び始めるのだ。この遅れてくる真相開示が促す読み返し・再解釈によって、歌集全体が多層化・重層化される。

 例えば、米国の政治的混乱を歌ったと思われた「平和的」という連作は、夫の裏切りという個人的な苦悩と深く共鳴する。「盗まれた」という言葉は、より切実で個人的なものに変わる。

   盗まれた あると信じていたものを無かったの
   ならこの混乱は何
   遠い遠い所を差している指よこれは現実ぼんや
   り泣いた

 また、事実を知った上で第一章を読み返すと、心の痛みが肉体的な症状として現れる歌や、愛の記憶を詠んだ歌が恐ろしいほどに生々しい意味を帯びる。

   本当なんだと君が言った夜全身の肉ひとつずつ
   切断されて
   ヒレうろこ鳥の体毛こころとろかせる愛撫の記
   憶沈めて

 これらの歌は、過去の愛の記憶が心をとろかせるものではもはやなく、むしろ消し去るべきものとして認識される様を、そして言葉の刃によって肉体が引き裂かれるような凄まじい苦痛を、読者に痛切に伝える。

 そして、この真実を突きつけられた作中主体の苦しみは、第二章「部屋」の章で、家族の崩壊という具体的な情景を伴って詠まれていく。かつて幸せだった日常の痕跡が、痛みとともに再認識される。

   そうだった覚めれば私の家だった私と君の家で
   はなくて
   幸せな家族であったこともあるあの頃床にはレ
   ゴ落ちていた

 真実を前にして、複雑に絡み合った感情は「半夏生」のように、白と緑の間で揺れ続ける。

   半夏生半分白い群れながら絡まりながら湿地に
   生える

 その後、作中主体は過去の愛の記憶を再定義し、新しい人生を歩み出すことを決意する。過去の絆を断ち切る痛みを経て、家族が「一人と一人と一人に」なる現実を直視し、自己の内面と向き合う歌が続く。

   断ち難き子の両親という絆 三人が一人と一人
   と一人に
   愛ではなく支配愛ではなく依存さるすべりの花
   こぼれ続けて

「裸眼」で見た世界

 真実を直視する「裸眼」で見た世界は、決して美しいものではなかった。

   裸眼で見る海の底にんげんの心の底のように荒
   んで

 それでも、作中主体はひたすらに歌を紡ぐ。それは、痛みから逃れるためではなく、その痛みに向き合い、記録し、魂の整理を試みる行為であったのかもしれない。痛ましい出来事を経て、作者が「裸眼」で世界を見つめ直した、その魂の記録なのだ。

「ネタバレあり」が必須な歌集

 私は、この書評のタイトルに「(ネタバレあり)」と記した。短歌の世界で、書評にこの言葉が必須となる作品が、これまでどれだけあっただろうか。この歌集の巧みな構成は、作者の強い構成意識の表れであり、それこそが本作を現代短歌の重要な達成の一つへと押し上げている。この歌集は、遅れてくる真相開示によって読者に深い衝撃を与えて読み返しを促す。これは、一つのテキストを重層的に読者に解釈させることで、より深い読書体験へと読者を導く極めて先鋭的な文学的挑戦なのである。

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コメント

2
川本千栄
川本千栄

ありがとうございます!深く読んでいただいて心から御礼申し上げます。歌に残して良かったです。
私のXで記事を紹介させてもらってもいいでしょうか?

ハウルの動く黒子
ハウルの動く黒子

川本さんご本人からコメントをいただけるなんて感激です!ご覧下さってありがとうございます。
ご紹介いただけたらこれ以上の光栄はありません。
これからもどうかよろしくお願いいたします

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