歌集評:夢の前に書く言葉――500首による世界の再生成(丸田洋渡『これからの友情』)
500首。この圧倒的な物量が、今を生きる私たちの現実認識を根底から揺さぶってくる。丸田洋渡の第一歌集『これからの友情』は、壮大な詩的実験の書だ。
その核心は、あとがきにそっと置かれた一節にある。「夢を記述する夢日記は必ず夢の後に書かれるが、短歌は夢よりも前に書くことができる。つまり、見てもいない夢や、これから見る夢を先回って書くことができる」<p.505>。ここには、現実や夢を記録するのではなく、言葉の力でまだ見ぬ世界を先回りして創り上げてしまおうという、創造の意志がはっきりと宣言されている。
では、丸田洋渡は500首を連ねることで、どうやって独自の「世界」を立ち上げようとしたのか。<ゲーム/暴力><夢><身体/私><友情>といったモチーフと、作者ならではの世代的な言葉の感覚を手がかりに読み解いていきたい。
螺旋の引力と「量」の暴力
500首の連作は、わかりやすい起承転結を持つ物語ではない。いくつかのモチーフが形を変えながら周期的に現れる、巨大な「螺旋状の連詩」と呼ぶほうがしっくりくる。その構造を、ふと差し挟まれる一首が示唆している。
終わったと思ったときに階段はもうひとねじれある 新しく p.407
物語は決してすっきりと終わらず、いつも少しだけ位相をずらして再生されていく。この構造を支えているのは、やはり「量」だ。500首という物量は、読者を日常から引き剥がし、この歌集だけの法則が支配する世界へ深く没入させる。ただ、効果はそれだけにとどまらない。500首というイメージの洪水は、一首ごとの意味にこだわろうとするこちらの解釈を軽やかにかわし、思考を麻痺させるような感覚をもたらす。読者の時間を強制的に奪い、歌集世界に引きずり込む——これはある種の暴力性と言っていい。そしてこの「量」がもたらす感覚は、歌集が抱える「ゲーム/暴力」というテーマと、構造のレベルで響き合っている。
ゲームの残酷さと夢の実験室
この歌集の世界を覆っているのは、どこかゲームのルールにも似た、無機質で冷たい法則だ。そしてその「遊び」の感覚は、いつも生々しい「暴力」や「死」と地続きにある。
通り魔はきみを選んだ そこにいるきみが良かった スロット777 p.172
百人は冷蔵庫には入らない 切ったとしても切ったとしても p.181
あまりに理不尽な暴力に「スロット777」というジャックポットの記号が添えられ、グロテスクなイメージは無邪気な算数の問題のように詠われる。暴力の現実感を麻痺させ、どうにか乗り越えていくためのサバイブ術なのだろう。
こうした冷徹なゲームのルールから解放された場として、「夢」が描かれる。
法外なことをするため夢を見るうすむらさきのドアを叩いて p.211
生きてるのに生きてるって感じた 夢を見ながら夢と気付くみたいに p.328
「夢」は、現実では不可能な「法外なこと」を試し、新しい現実を生み出すためのシミュレーションの場所になっている。あとがきの「夢の前に書く」という宣言は、この夢の実験室で、世界のもうひとつの可能性を言葉によって先に創造してみせるという詩的な実践を指しているのだと思う。
ばらばらの身体、記号のともだち
社会に張り巡らされたルールは、個人の「身体」にまで染み込み、その輪郭を曖昧にしていく。この歌集の「私」は、どこか空洞で、常に誰かの視線を内面に取り込んでしまった存在として現れる。
わたしがわたしを演じだしたら終わりでしょ あーあ 河川敷で寝転ぶよ p.66
からだからからだいがいが抜け落ちたからだひとつだけを持ち運ぶ p.145
誰かを演じることなしには存在できず、身体は空っぽの器のようだ。さらにばらばらにされ、モノのように客観視されていく。<くるぶしを意識するのはくるぶしが俎上に載ったとき 夏の川>(p.101)では、身体の一部は危機的な状況になって初めて意識され、<心臓でできたガラスを包みこむ血管でできたブランケット>(p.288)では、臓器が生々しい組織ではなく美しい工芸品のように詠われる。
こんなふうに拡散し、脆い「私」にとって、他者との関係——つまり「友情」はどんな意味を持ちうるのか。その答えのひとつが、次の一首にある。読んではっとした。
昼のバレエ教室と思ってくれたらいいから これからの友情は p.126
どこかドライで、しなやかな共同作業としての新しい友情観。情緒的な結びつきを強いる友情の中で自分を見失いがちだった「私」が、他者と適切な距離を保つための処方箋のように響く。
ただ、この歌集が描く「友情」は、そんなにすっきりした話ではない。
美しいともだちの唯一の瑕疵それだけは誰にも伝えずにやってきた p.39
友だちがいつも以上に友だちを強調しはじめる昼休み p.278
友だちA・C・D・Eが消えていく神話のような積雪の朝 p.283
一、二首目に滲む、内に秘めた想いや、関係が揺らぐことへの不安。三首目の、友人が代替可能な記号として処理されていく冷たさ。特にこの記号化は、SNSの世界で私たちが日常的に感じている人間関係の頼りなさと地続きで、その冷徹さが一層切実に迫ってくる。歌集タイトル『これからの友情』には、明るい希望だけでなく、こうした危うさや困難さもすべて引き受けた上でなお探していくべき関係性なのだという、切実な響きが宿っている。
ハッシュタグの詩学と自律する言葉
この世界の再創造を支えているのは、1998年生まれの作者が呼吸するように使う、デジタルネイティブ世代の言語感覚だろう。伝統的な定型から自由でありながら、文体はかなり意識的にデザインされている。特徴的なのは、歌の頭に置かれるアルファベットの単語だ。
Sparkle 都市構想は構想の段階がいちばん気持ちいい p.45
Fragility 雪ふる耳に梵天を挿しこんだなら出来るよ短歌が p.124
これらの英単語は、歌の本文とは少し離れたところにいて、SNSのハッシュタグのように、あるいは音楽のタイトルのように、読者に特定のムードを示唆し、歌の世界への入り口を用意してくれる。デジタルカルチャーからの引用も印象的だ。
イヤホンをヘッドホンへと変えるとき イーブイがシャワーズに変わるとき p.388
世界のありようが変わる瞬間が、「ポケモン」の進化というアナロジーでごく自然に語られる。この世代にとって、現実はゲームのインターフェースを通して経験され、SNS上のパフォーマンスとして見せられていくものなのだ。こうした言葉そのものへの自覚は、やがて短歌という形式自体を突き放して見るメタ的な視線へと繋がっていく。
短歌の中で生きていくって超退屈 光冠と七角形の檻 p.176
乗せられて詠うのは詩の思う壺 詩は思っているよりも思うから p.41
短歌は自分の歌を歌った soft serve 花咲く狭いカラオケルーム p.394
「夢の前に書く」という強い創造の意志は、一首目の、言葉が息苦しい「檻」にもなりうるという感覚、二首目の、歌うという行為そのものが「詩」に操られているのではないかという疑い、三首目の、ついには短歌が作者の手を離れて自律し始めるという認識によって、常に批評的な視線に晒されている。
終焉へのシークエンス
歌集も終盤、残り20首を過ぎたあたりから、どこか終わりへ向かう気配が漂い始める。「雪/飛行/夜景/到着」といったモチーフが次々と現れ、読者をこの世界から送り出すためのシークエンスが組まれているかのようだ。
読めば読むほどスピードアップする雪の密室とその密室論議 p.481
Arrival of Lyrics 最終の飛行機が回転してみせた p.494
遠ざかる波の写真を見ていたら誤って全てを想起した p.500
加速していく思考、「Arrival of Lyrics」という宣言、そして最後の最後で「全てを想起」してしまうという結び。「Arrival of Lyrics」は文字通り「歌詞の到着」とも読めるが、500首の実験の果てにたどり着いた「短歌(=Lyrics)」そのものの到来、という意味も含んでいるだろう。これらの歌は、500首の体験を終えた読者が再び自分自身の現実へ帰っていくときの、めまいにも似た覚醒の感覚をなぞっている。
10首選
入院はしたことなくて中庭のうつくしさについては分からない p.2
経験していないことを語ることで、逆説的に世界のありようを問いかけてくる。「分からない」と正直に言う誠実さが、かえって詩的な奥行きを生んでいる。すべてを知る者としてではなく、限られた視点から世界に触れようとする。この謙虚さが、500首という長い旅の信頼できる出発点になっている。
花の盛りのその下を屈んで通る 心で全世界と話したい p.8
「屈んで通る」という身体的なミクロの行為と、「全世界と話したい」という精神的なマクロの願望。その対比が鮮やかだ。限定された場所にいながら、意識はどこまでも広がっていく。この内と外、身体と精神のダイナミックな行き来は、歌集全体の世界認識を象徴する動きだと思う。
悲しんで歌えば点数が上がった プールに浸されたビスケット p.13
感情でさえ「点数」で評価され、商品になってしまう。「悲しみ」がカラオケの採点のように外部の基準で測られ、下の句の「プールに浸されたビスケット」——ふやけて形を失っていくイメージが、本来の感情が損なわれていく様子を的確に伝えている。妙にリアルだ。
面白さが気持ち悪さに変わるとき缶蹴りの最後の方の缶 p.163
「遊び」が「不穏」なものへと変わる、そのギリギリの瞬間を見事に切り取っている。誰にでも経験があるだろう「缶蹴り」の終わり際に漂う、あの独特の緊張感や倦怠感。「気持ち悪さ」という言葉がそれを言い当てている。ゲームのルールが孕む暴力や空虚さというこの歌集のテーマを、日常の実感から描き出した一首。
想像が氷の橋を架けるとき橋脚の強度は無視される p.121
あとがきの言葉とも響き合う一首。言葉やイメージが世界を立ち上げるとき、それは現実の物理法則(橋脚の強度)をいとも簡単に飛び越えていく。「夢の前に書く」という創造の行ないが、いかに無謀で、それでいて根源的な力を持つか。「氷の橋」の比喩が美しく、同時に危うい。
血まみれのソフトクリームではなくてその逆と言った方が正しい p.263
暴力的なイメージと日常的なイメージを、論理をひっくり返すことでグロテスクに繋いでみせる。「ソフトクリームまみれの血」を読者に想像させることで、可愛らしいものや甘いものの中にこそ暴力が潜んでいるという世界の一面を暴き出す。奇抜なだけでなく、認識を揺さぶる批評的な力がある。
詠むことで死が変質しないかなあ 変質が目的なのかなあ p.269
短歌という形式そのものの意味を問うメタ的な一首。「死」というもっとも抗いがたい現実に対し、「詠むこと」でどうにか介入し、その意味を「変質」させられないかと願う。詩が現実を変える力を持つという祈りであり、作者の創作の根源にある動機が吐露されている。心に残る。
すき焼きの豆腐の横に短歌があり詩的に豆腐を描写してある。 p.270
前の歌のすぐ後にこれが置かれているのが面白い。崇高な目的を掲げたはずの「短歌」が、日常の食卓では「豆腐」の描写というちっぽけなものとして存在している。言葉の力を信じながらも、その限界や陳腐さを冷静に見つめる。この並びのバランス感覚が好きだ。
テニスコートの審判席は眠くなる太陽が近くで見てるから p.459
「見られる」という意識を、鮮やかなイメージで描き出した歌。人間からではなく、太陽という人智を超えた存在からの視線が、ルールを司るはずの審判席に眠気を誘う。社会的な監視というよりも、世界の構造そのものに組み込まれた、もっと根源的な「見られること」の感覚がここにはある。
うつくしさ、かあ 体感で八年の一秒が額にのしかかる p.455
「うつくしさ」という抽象的な概念を、きわめて身体的な「重さ」として捉え直した一首。「かあ」という呟きに、長い思索の時間が凝縮されている。「八年の一秒」という圧縮された時間の感覚が「額にのしかかる」という触覚に変わる。思考を身体の感覚として描こうとするこの歌集の姿勢が、端的に表れた一首だと思う。
おわりに
丸田洋渡の『これからの友情』は、500首という圧倒的な言葉の量によって、読者を日常から切り離し、それ自体がひとつの法則を持つ異世界へと誘い込む。その世界は、時に不条理なゲームのルールに支配され、時に夢のように自由で、常に、おびやかされる身体の実感が伴う。そのすべてが、デジタルネイティブ世代のしなやかで遊び心のある言語感覚に支えられている。ニューウェーブ以降、物語の解体や口語の導入が進んできた現代短歌の歴史の中で、丸田の試みは、SNS以降の世代がばらばらのイメージを「量」の力で束ね、もう一度巨大な「世界」を打ち立てようとする新しい段階の現れだと思う。
もちろん、すべてが成功しているとは言わない。暴力と日常を結びつける手法や意外な比喩の飛躍は、読んでいて時にその手つきが反復され、思考のショートカットのように見える瞬間もあった。500首という物量が没入を強いる一方で、モチーフの変奏が少し冗長に響くこともある。終盤で多用される「雪」や「飛行」のモチーフは、世界の終わりを効果的に演出しながらも、その頻度がやや予定調和的に感じられた。しかし、そうした小さな瑕疵を補って余りあるほどの強度と切実さが、この巨大な螺旋には満ちている。
この本は、閉塞した現実への単なる批判の書ではない。「夢の前に書く」という詩の実践を通して、現実とは異なる世界の可能性をシミュレーションする、壮大な思考実験の記録だ。そしてそれは一方的に差し出されるものではない。この歌集全体が、作者から読者へ差し出された<これからの友情>のひとつの形なのだろう。500首のテクストは、あの「昼のバレエ教室と思ってくれたらいいから これからの友情は」が示していた「ドライでしなやかな共同作業」の場であり、あとがきの「後のすべてはあなたの想像に任せる」は、読者をこの世界の生成における共犯者として招き入れる、友情の契約の言葉だ。


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