ローワンの乙女
アポクリファを読み、彼の伝記を読み、周囲の赤騎弓の流れに呑まれました。
「willow maiden」パロディの赤騎弓、短いですが、どうぞ。
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あるところに、ひとりの年若い男がおりました。男は狩りに来ていて、背に弓と矢筒を背負っていました。
「ちくしょー……どこだ」
男が溜息を吐きながら、先程射落としたはずの鳥を探して、とっくに日も暮れ、月のために仄かに明るい森の中をうろうろとしておりました。歌声が聞こえました。女の声です。それは聴いたことのない、重く柔らかな声音で緑の空気に溶け込み、男の元まで流れてきています。男は興味を引かれて、そちらへ足を進めました。
その声は繰り返し、こんなことを歌っておりました。
ご覧
わたしの手は雨受け
わたしの掌は日除け
わたしの身体は星に伸び
そして緑の歌で、春が来ることを教えるだろう
一本の小高い丘のに聳える、盛りのナナカマドの樹の枝の上に、その女はおりました。
花のように真白い髪と、木肌色の肌をした、年若とも、しかし老いているとも言い難い姿かたちです。濃い緑の衣を纏った女は、枝枝の間で樹に紛れてしまっておりました。女は腕の中に先程男が落とした鳥を抱えていて、そのために掌が赤く濡れてしまっており、それだけが月の光の中で一層に鮮やかでした。
女は男に気が付くと、そして男が自分を見ていることがわかりますと、瞳を大きく見開いて、歌を止めました。
「これは君の射落としたものか?」
女の声は全く金気のない、重く静かなものでした。問いは滑らかに空を伝わり、男は光景に束の間言葉を忘れて肯首しました。男の心は一瞬にして、女も与り知らぬうちに、腕の中の射落とされた鳥となりました。それでしたので、男は気前よく笑顔を作って乙女に礼をし、その鳥はあなたに差し上げよう、と言いました。
しかし女は小さく首を振って、これはもう息をしていないから、君が持っていくべきだ、と言いました。
「わたしは、鳥は食べない」
「そうなのか」
男は僅かに落胆して、乙女が凛と頷くのを受け止めました。女は続けました。
「食べられるか、此処で朽ちるか、どちらでももうこの鳥は構わないだろうから。これは君が射落として、君が見つけたのだ、君が持って帰ればいい」
二本のすべらかな脚が枝の上に立ち上がったかと思うと、身のこなしも鮮やかに、乙女は大地に舞い降りました。長い緑のチュニックから覗いた膝は健康そのものといった張りをしていましたが、木肌色をした爪先が赤い茸の横に降りるころには、元通り淑やかに衣の裏に隠れてしまいました。
差し出された鳥を男が受け取ると、女は至極あっさりと背を向けて、また木の上の住人と成ろうとしました。男は慌てて手首を捉えて、女を引きとめました。
「なにかね?」
媚もそっけもなく、乙女はいっそ迷惑そうに振り返りましが、却って男はその新鮮な、はきはきとした瑞々しい反応を歓びました。
「なあ、お前も一緒に来いよ。鳥が駄目だというのなら、果物はどうだ?イチジクに、オリーブに、ナツメグに、レモンだ。一緒に来て、俺の客人になってくれないか」
「君、わたしをよくご覧」
乙女は初めて小さく笑って手首を振り解き、両手を広げました。その笑みは水面の煌めきに似て、眩く男の目には映りました。
「わたしは森の音なんだ。君が見ているのは、月の幻のようなものなんだよ。だから一緒に行こうなどと言わないでくれ」
「じゃあ」
男はもう一度女の身体を手繰り寄せようとしましたが、女は見事というほかない動きでその指先を掻い潜りました。この乙女が類を見ない強者であることと同時に、これ以上は嫌われてしまうことだろうと男は理解しましたが、尚も去り難く、ならば俺はあなたの客人になりたいのだ、それも叶わないのだろうか、と如何にも悲しげに乞いました。乙女は僅かに口籠り、此処には何もないけれど、それでもいいのなら好きにすればいい、と許しました。二人はそこで名を交換して、それぞれの住まいへと引き返しました。
鳥を射殺した矢は真中から折れ、木の根元に打ち捨てられたままになりました。そして男も女も、それを思い出すことは終ぞなかったのでした。
男は毎日のように、森の奥へと通いました。雨の日も風の日も、ある時は揃いの新緑の衣を纏い、ある時は手に黄色の花を捧げ持ってやって来ました。
女の若々しく、それなのに落ち着いた美しさは、彼の周りにいたどのような乙女とも違っておりました。水晶のような瞳と髪は、盛りの花が散り終わってもなお美しく、呆れたような表情を彩って男を迎えました。赤銅色の肌はいつでも瑞々しく、立居振舞すらも凛として、どこか愛されるべき少年を思わせる風情でした。衣の色は夏になり、秋になるにつれて、ナナカマドの葉に添って移り変わっていきました。
男も阿呆ではありません。女が人ではないなどとはとうによくわかっていましたが、しかし人でないなどというのは男には些細なことと思われました。男はその頃になると、もうすっかり乙女に夢中でした。この樹の妖精は種族に並はずれて賢しく、控えめで、律義で、そして頑固でした。乙女のことを知ってしまいますと、その全てが好ましく、愛らしかったのでした。
「なあ、俺の心は、もうすっかりお前のもんだ。心底からお前に、俺の妻になってほしいんだ。エミヤは、俺が嫌いか?」
「そんなことはない、決してそんなことはないとも、アキレウス」
乙女の名前を呼ぶことと、乙女に名を呼ばれることは、大層男の心を浮き立たせました。そしてエミヤもその頃になると、アキレウスに慣れ、男がその身に触れたり、抱きしめたりすることには、呆れたと言いながらも決して嫌がったりはしないようになっておりました。それもまた、男にはこの上なく嬉しいことでした。
しかし、膝に抱きとめた女に、何百と愛を囁いても、乙女はひたとアキレウスを見つめて、首を振るばかりでした。
「だが、わたしは君とは結婚できないよ。それは決して叶わない」
そして、一番最初の文句を繰り返すのです。わたしは月の幻だから、と。
そうして、遂に葉が残らず落ち、女の衣がナナカマドの実を映して真っ赤に色づいた、ある日の事でした。
男は遂に、妖精の女を妻にしようと決意しました。乙女を連れてきて妻とし、子を生し、添い遂げることは、代え難く甘美な夢でした。男は斧を念入りに研ぎ澄ますと、森に分け入りました。
アキレウスをいつものように出迎えてくれたエミヤは、その手の中の斧を見て、さっと青褪めました。瘧の様に唇が震え、男の名前を呼んで止めるよう懇願しました。しかしアキレウスは優しく微笑むと、有無を言わさず女を樹から引きはがしました。
「お前がここから離れられないのなら、俺が解放してやるよ」
「止めろ、やめ、止めてくれ!」
鋭い斧の一撃でした。根本の少し上につくった溝に向けて、男は何度も刃を振り下ろしました。枝先が揺れるたびに赤い実がパラパラと零れ、雲雀たちが二度と戻らない巣を惜しんで、しかし素早く飛び去っていくその様を、エミヤは息を詰め、血の気の引いた面持ちで見詰めていました。
アキレウスの剛腕では、一本の細い、なよやかな樹を切り倒してしまうことなど、全く造作もないことです。幹が遂にゆっくりと傾ぎ、ざわんと音を立てて大地に臥したのを満足げに眺め、男はエミヤを振り返りました。女は自分の身体を、今にも失せてしまうのではないかと固く抱きしめながら、その場に突っ立って呆然としておりました。男は無用になった斧を放ると、木肌色をした女の身体をしっかと抱きしめて快哉を叫びました。
「ははっ! ほうら、平気じゃないか、エミヤ、どうして泣くんだ」
女は変わらず柔らかく温かく、なにひとつ変わり様もありませんでした。もうなにひとつ煩うものなどありはしないではないかと、男は本当に満足して、頬を女の白い髪に擦り付けうっとりと笑いました。
「さあ、これでお前は俺のものだ。もうナナカマドの寝床で寝起きする必要はない。まずは、そうだな、テントで汚れを落として服を着替えよう。ああ、勿論その赤い衣も素敵だぞ? でもキトンに、金のフィブラなんか、お前に似合いそうだと前々から思っていたんだ」
赤い茸を蹴散らし、手を取って歩き出しますと、女は一瞬つんのめって転びかけましたが、縺れる足運びで男の後を追いました。アキレウスは乙女が嫌がらないことに更に気をよくして、あれこれと連ねました。
「それが終わったら宴会だ。エミヤはイチジクは好きか? 胡桃のケーキは? 肉は駄目だったな、そうだな、山羊のチーズ、蜂蜜のパイ、そして葡萄酒だ。お前の口に合うと良いんだが。ああ、宴に間に合うようにマージョラムで冠を作ってもらうとしよう。思っていたんだが、エミヤは髪を伸ばしても良いな。きっと美しい御髪になる。そうしたら油を塗って、毎日綺麗に結い上げよう」
女は声もなくしたしたと涙を流れるままに任せ、裸の足で草を踏み、男の背中を景色のように見つめていました。風も月明かりも差し込まない夜の森を、女は半ば駆け足じみて歩きました。石ころひとつとして、女の足を傷つけるものはありませんでした。
遂に森は途切れました。煌々と地に落ちかかる月の光に二人が照らされた途端、女はがくりと脚から頽れました。振りほどかれた手に驚いて男が振り返ると、エミヤは不思議そうな面持ちで、彼と顔を合わせました。
「なにに躓いたんだ? おっちょこちょいだなあ」
男はおかしそうに笑って、立たせようと手を取り直しました。女は導かれるままに立とうとし、はてなにに躓いたのだろうと後ろを振り返って、息を留めました。その目線を追ったアキレウスも、腕に籠めかけていた力を失いました。足は爪の先から、もう膝まで、まるで土塊のようにばらばらと砕けていっていました。
「嘘だ」
まだ柔らかい乙女の身体を掻き抱き、男は慟哭しました。音もなく、瞬きの合間に女の脚は消え、腰が壊れ始めました。
「嘘だ、嘘だ、なあエミヤ、嘘だろう、なあ、行かないでくれ、俺の傍に居てくれ」
女は本当に不思議そうな顔をして自分の崩れていく脚を見つめていましたが、ふと銀の皿のような瞳に男を映して微笑み、泣き濡れるその頬に手を添えて、涙を払いました。初めて両腕をアキレウスの背に回し、今までにないくらいに身を寄せて、幼子にするようにとんとんと男の震えをあやしました。しかし次の拍の前に、女の両腕は崩れ落ちてしまいました。
「エミヤ」
繰り返し呼ぶ名にはなんの応えもないまま、女は目を瞑ってあるかなきかの息を吐くと、遂には幻のように砂になって消えてしまいました。鮮烈な赤の衣の一切れすら、抱え込んだ両手には残りませんでした。緩く吹き渡る風が一粒残らず乙女を攫って、森の影に連れ込んでいきました。
アキレウスは言葉を知らぬ獣のように、大地に臥して咆哮しました。舞い散った砂を手探ってみるも、最早どれが乙女であった欠片で、どれがそうではないのか、男にはわかりませんでした。全ての砂色は緑の根元に潜り込んで、男の目からは隠れてしまっていました。
覚束ない足取りで真っ直ぐに通い慣れた駆け戻りましたが、乙女の寝床は男がそうした通り、切り倒されて微動だにしませんでした。男は女の名前を呼び、根本にすがって泣きましたが、もうそこには歌が生まれたりはしないのでした。
空が白むまで泣き続けたアキレウスは、くったりと重い背を丸めたまま起き上がり、赤い実をつけた枝を一本折り取りました。そして森の入り口まで戻ると、皮袋に、乙女が散ってしまったあたりの土を拾い集めました。男はそれを住まいに持ち帰ると、枕元に並べて眠りました。時折そっと、赤い実に接吻することもありました。そんなことをしても乙女が返ってくるわけはなかったのですけれども、男はそれで良しとしました。からからに乾いてしまった一振りの枝と、一握りの土塊は、どこにも行かないのですから。
男は二度と森には近づきませんでした。ですから、森の奥にある倒れたナナカマドの傍に、真白い花が咲くようになったことを、男は知らないままでした。その白い花は決まって月夜の晩に咲き、いつも、いつまでも静かに、森の歌を歌っておりました。