「静かな脳」が幸福感を生み出す 神経科学で探る幸せのメカニズム
「幸福とは何か」――。この問いは古代ギリシャの哲学者アリストテレスから現代に至るまで、人類が探求し続けてきた根源的なテーマの一つだ。幸福を感じるにはどうすればよいのか。近年の脳神経科学が客観的な視点から迫り始めている(文中敬称略)。
理化学研究所のチームディレクターである佐藤弥は、10年以上にわたり、人が主観的に感じる幸福感を脳神経科学の手法で研究してきた。佐藤は最初に幸福感と脳構造の関係に注目した。20代の男女51人を対象に幸福度を問うアンケートを実施し、磁気共鳴画像法(MRI)で脳構造を解析した。
主観的な幸福度が高い人ほど、右脳側にある「楔前部(けつぜんぶ)」と呼ばれる領域が分厚く、体積が大きい傾向が見つかった。楔前部は脳の内側面に位置し、頭頂部と後頭部の間にあたる。佐藤らが2015年に発表したこの成果は、幸福という主観的な感覚が、脳の特定の物理的構造と結びついていることを世界で初めて示した。幸福感は捉えどころのない概念ではなく、脳内にそれを生み出す神経基盤が存在することが明らかになった。
幸福な人ほど楔前部が活発に働いているのだろうか。研究が進むにつれ見えてきたのは、楔前部は「大きい」ほど幸福感が高いが、その活動はむしろ「静か」な方がよいという直感に反する事実だ。
佐藤らは、何も考えずにぼんやりしている安静時の脳活動を調べた。安静時には、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と呼ばれる神経ネットワークが活発に働き、楔前部はその主要な構成要素の一つとして知られる。機能的MRIによる解析から、幸福度が高い人ほど安静時の楔前部の血流が少なく、活動度が低いことが分かり、2019年に論文を公表した。
なぜ楔前部の活動が低い方が幸福につながるのか。楔前部は自分のことについて考える「自己参照」に関わる部位で、現在の心理状態、過去の記憶、将来の計画を統合する役割を担う。活動が高まるのは、否定的な自己意識や後悔、不安にとらわれた状態、いわゆるマインド・ワンダリングのときだ。幸福感の高い人では、こうしたネガティブな思考を生み出す脳活動が比較的静かに保たれていると考えられる。
さらに佐藤は、感情処理を担う「扁桃(へんとう)体」と楔前部の関係にも注目した。幸福度が高い人では、右脳の扁桃体と楔前部の神経活動の結びつきが強い。社会的な関係が豊かになることで扁桃体が落ち着き、その影響が楔前部に伝わり、幸福感が高まる可能性があるという。
2025年に佐藤は、神経の電気的活動を高感度磁場センサーで捉える脳磁図(MEG)を用いて、幸福感に脳波のレベルで迫った。幸福感の高い人の楔前部では「ガンマ波」と呼ばれる脳波活動が低かった。脳の様々な部位において,「安静時のガンマ波が低下している部位ではGABA放出量が増加しているという複数の知見がある」と佐藤はいう。GABAはリラックスや睡眠の質向上に関与し、楔前部の体積維持にも寄与していると考えられるという。
うつ病患者の脳ではGABAに関わる異常が報告されており、主観的な幸福感の神経基盤にGABAが関与している可能性は高い。
アリストテレスは人生の究極の目的を幸福とした。ただ幸福を追い求める人生が果たして本当に幸せだろうか。哲学や宗教で語られてきたこの問いに、将来は脳科学の知見で答えを出せるかもしれない。佐藤の一連の研究は、幸福が「強い自己意識」を手放し、脳を静かな状態に保つところから生まれる可能性を示している。
(編集部 岩井淳哉)
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- 著者 : 日経サイエンス編集部
- 発行 : 日経サイエンス
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