エミヤ教授は講義する。
前作については、シリーズ作品をご確認ください。
以下概要
・大学教授エミヤと刑事ランサーの推理小説。
・他キャラ多数、名前のないオリキャラも喋る。
・今回はアキレウスとケイローン多め
・シグルド実装前に書いているので、ブリュンヒルデさんの表現についてはご容赦を
以上を踏まえた上でお楽しみください。
※18.12.08 加筆修正しました。
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エミヤ教授は講義する。
1
「それでは、講義を始めるとしよう」
午前10時40分。
新都大学第8校舎の講義室のスピーカから、落ち着いた低い声が響く。
階段状に並べられた固定式の長机と、跳ね上げ式の椅子。ランサーは、教室の一番後ろ端の席に腰掛けて、理解できもしない話に耳を傾けた。
周辺を見回す。
真面目そうな生徒は殆どが前列に座っており、自分の周りにいる生徒は講義が始まる前から机に突っ伏していたり、漫画を読んでいたりする。
ランサーは高校を卒業して直ぐに警察学校に入学したので、大学がどういうものかは知らないが、授業中に居眠りをして叱責が飛んでこないというのは意外だった。
まあ、これだけの人数がいるならば、いちいち不真面目な連中を相手に講義を止めるわけにもいかないのだろう。広い講義室に収容された学生の数は100を超えている。
「さて、この含水鉱物だが『海水を含んだ地殻が温度と圧力の上昇による変性を受け、鉱物の結晶構造の中に取り込むことによって生じる物質である』と教科書に書かれている。要するに、『マントル近くの高温低圧でミネラルを含んだ地面が圧縮され、自然に生成された合金である』ということだ」
ふむ、と、顎に手を当てる。
何を言ってるのか全く分からなかった。これは居眠りする生徒に共感せざるを得ない。
「このように、特殊な条件下であれば、本来混じり合わないはずの物質同士が結合し一体になることがある」
なんとか聴き取れた最後の言葉に、鉱物とは関係の無い事が頭に浮かんだ。
特殊な条件下で、本来関わらない者同士が一緒になる。それはまるで、自分と、今、教壇で小難しい話をしているあの男の様ではないか。
混じり合い、結合するという言葉に不謹慎にもニヤついてしまう。
いや、自分達は、まだそこまで進んだ関係では無いのだが。
教壇に立つ男の名前はエミヤ・S・アーチャー。新都大学の物理学部教授。
時折事件解決のため警察に協力をしてくれており、そして、おそらく、多分、きっと、少し前から、男はランサーの"恋人"になった。
午後12時10分
大学というのは、どうやらチャイムは鳴らないらしい。教室の壁に掛けられた時計の長針がカクンと動く音と共に、エミヤが授業の終了を告げる。
先程まで机に突っ伏していた学生が、驚く程の速さで教室を飛び出していく姿に呆れながら、ランサーは、出口へと向かう学生の波に逆らって教壇へ向かった。
教壇に立つ男は、授業で使用した黒板を熱心に消している。
アーチャー、と。プライベートの時だけに呼ぶ名をその背に掛けようと、口を開きかけた時だ。
「エミヤせーんせ」
学生だろうか。二人の間を遮るように男が一人割って入った。
「何かね、アキレウス」
「分かんなかったトコあるから、教えてくれよ」
「見せてみたまえ」
エミヤは学生が開いたノートを覗き込む。
学生とエミヤ、お互いの身長が同等なせいだろうが顔が近い。近すぎる。
(っな、なんだこいつ!!)
立てた緑色の髪にオレンジ色のシャツ。快活そうな顔立ち。
どことなく、自分に似ている。ランサーは直感的にそう思った。それと同時に、素直な感想が胸中を満たす。
(気に入らねえ)
まごう事なき同族嫌悪。大人気ないのは重々承知だ。
ランサーは二人の会話が終わるのを直ぐ近くの机にもたれて待った。腕組みをした右手の人差し指が秒数を刻む。苛々を隠す様子もない。
「と、いうことだ。分かったかね?」
「ああ。凄え分かり易かったぜ。サンキューな、エミヤせんせ」
質問を終えた学生はにこやかに笑いノートを閉じる。
「それと、今夜の飲み会、8時にコペンハーゲン集合だから、絶対来てくれよ」
「ああ、分かった」
学生はエミヤの返事を聞くと、ランサーの事になど気が付きもせず、颯爽と講義室を後にした。
「それで、君はそこで何をしているのかね? ランサー」
「誰だよ、あいつは」
漸く自分に意識を向けた相手に、開口一番言い放つ。
「オレとは飲みに行ってくれねえのに、アイツとは行くのか」
目の前の男は、ランサーが散々誘いをかけていたにも関わらず、酒が弱いという理由で、一度も応えてはくれなかった。
結局男の家でご馳走になるという形に収まり、現在の関係に至っているのだが、やはり別の男の誘いに乗る姿を見るのは面白くない。
「質問は一つずつにしてくれないか」
エミヤは態とらしく溜息を吐き、人差し指をピンと立てた。
「一つ目の質問だが、彼の名はアキレウス。この大学の2年生で、私のゼミの学生だ」
次いで中指が立てられる。
「二つ目の質問は、"彼"の誘いではなくゼミの飲み会だ。学生達は皆、私からの出資を期待している。行かないわけにはいくまい」
ゼミだ何だというのは、大学生になったことの無いランサーにはよく分からない。だが、エミヤの話から、先程の学生は、この大学の中でもエミヤと近しい間柄にあるのだということは理解できた。
それが何とも気にくわない。
気にくわないが、嫌だ嫌だと子供のようにゴネるわけにもいかず、ランサーは納得がいかないと、むくれた顔のままエミヤの目をじっと見つめた。
「……君は、今日は非番だったろう。また事件に駆り出されたのかね」
目の前に横たわった問題を押しのけて、今度は男がランサーに質問をした。
男の言う通り、今日は非番だ。
刑事のランサーは年末からずっと仕事に駆り出されていたし、エミヤはエミヤで学期末から新学期にかけての準備やら、学会やらで暇がなかった。
電話越しでなく、顔を見て話をするのは久しぶりのこと。
「お前の顔を見に来たんだよ、悪いか」
皮肉屋な男の事だ。どうせ、「たまの休日を無駄にして」とかなんとか、可愛げのない返事が返ってくるのだろうとランサーは思っていた。
けれど予想に反して、エミヤは視線を右往左往させて狼狽えだすと、蚊の鳴くような声で「そっ、そうか……」と頬を赤らめた。
「その……照れくさくはあるが、悪い気はしない」
「お、おう」
伏し目がちに言われた言葉に、ランサーの頬も熱くなる。
ランサーは、汗の滲んだ手を閉じたり開いたりしたが、行き場もなく、ガリガリと頭を掻いた。
(こいつ、こんなに可愛かったか?)
それとも、自分の目に何か分厚いフィルターでもかかっているのか。
「あー、えっと、その、な」
言葉が出ずに接続詞ばかりが口を突く。締まりのない己を咳払いで誤魔化して、ふう、深呼吸をひとつ。
「時間あんだろ、一緒に昼飯食おうぜ」
毎週同じパターンで行動する男のスケジュールは把握している。
「ああ、良いだろう」
存外、穏やかな表情で返された言葉に、ランサーも頬を緩ませた。
さて、学内で食事をするなら学食だろうか。それとも、人の少ない喫茶店にするか。頭の中で行き先を選定していたランサーの尻のポケットから、突然、ありふれた着信が鳴り響く。
ああ、嫌な予感がする。
目の前の相手も、肩を竦めて苦笑いしている。
ランサーは、画面に表示された上司の名前に、がっくりと項垂れながら通話ボタンを押した。
「はい」
『ランサー、休みのところすまないが事件だ』
すぐに来いという御達しに、公務員は逆らえない。
「君も大概、運がないな」
まあ、それは私も一緒か、と、小さな声で付け足された言葉が唯一の救いだった。
2
事の起こりは三日前。
原因不明の発作で一人の女性が病院に搬送され、死亡した。女性の身元はすぐに分かった。何処にでもいる平凡な主婦である。悼むべき出来事だが、珍しい事ではない。この出来事は、おそらく事故か食中毒だろうと、特に取り沙汰されることは無かった。
しかしその翌日、全く別の場所で、会社員の若い女性が、これも原因不明の発作で倒れ、死亡。そして、今朝。雑貨屋を経営する女性がまた、原因不明の発作で死亡した。
一見何の共通点もない三人のようだが、一つだけ、彼女達には共通点があった。
「三人とも同じ宗教団体に所属、か」
『そうだ、風魔の調べでは、この近辺で活動している団体らしいが。ともかくこの案件は、同一犯による連続殺人の可能性がある』
三人目の被害者によって、ただの事故死が殺人事件に転じたわけかと、ランサーは電話越しの上司の声に頷いた。
『ところでランサー、今何処にいる。場合によっては、署に来る前にDr.ロマンの元に向かって欲しいんだが』
ジークフリートの問い掛けに、しばし無言で周囲を見回す。
「あー、大学の近くっすね。了解」
『すまないが、宜しく頼む』
お決まりの口癖を言い残して、通話は切れた。
ランサーは目の前に立ちはだかる医学棟を見上げる。
「くそ、昼飯一緒に食えたじゃねえか」
苦々しく吐き出しても、後の祭りだった。
ロマニ・アーキマン。通称Dr.ロマンは、新都大学に勤める法医学者だ。冬木署管轄で事件が起きた時、運び込まれた遺体を司法解剖するのが彼の仕事である。
ランサーは、病院によく似た医学棟の白塗りの壁を進む。ロマンの待つ法医学教室は地下一階。法医学棟入り口右手の階段を降り、突き当たりを左に曲がった先にある。
「それでは、私はこれで」
ランサーが角を曲がると、目的の扉の前に、見知らぬ人物がいた。
背は、ランサーより少し低いくらいか。金茶の髪を長く伸ばした男は、振り返り、こちらの存在に気が付くと、穏やかな笑みを浮かべた。
「失礼」
ぺこり、と軽く会釈をして、道を譲る仕草をし、そのまま颯爽と角の向こうへ消えていく。
事件の関係者だろうか。部外者がここに立ち入る事は無いはずなのだが。ワイシャツとスラックスを着ていたから学生ではないだろう。おそらく教員か、医療関係者かもしれない。男と入れ違いに入室したランサーは、コンコンと半開きにされたままのドアをノックした。
「やあ、早かったね」
ヘラヘラと、締まりのない顔がランサーを迎え入れる。
「よお、ドクター。今の男は誰だ?」
男の去っていった背後の廊下を振り返りながら尋ねた。
「ああ、彼かい? 医学部教授のケイローン先生だよ。臨床医学の権威なんだ」
「りんしょういがく?」
普通の医学と違うのだろうか。聞きなれない単語にランサーは首を傾げる。
「臨床医学は、そうだね。患者を治すにはどういった薬や治療が必要かを検討する、要するに考える医学ってやつさ」
「実際に治療はしないのか」
「臨床医学という分野ではね。彼は診察もしているよ。ほら、これを貰ったんだ」
ロマンはランサーに見えるよう、手にした黒いボードを宙に掲げる。
「今朝の被害者は、うちの大学病院で受診していたみたいでね。彼がその担当医だったんだ」
なるほど、カルテを預かったのかと、ランサーは寝台に横たえられた、女性の遺体に近づいた。
「それで、死因はなんなんだ?」
遺体に掛けられた黒いシートを捲る。中年の女性だ。土気色の顔に外傷はない。
「恐らくは毒物か中毒だろうね。喉の裂傷は嘔吐によるもの。吐瀉物は見つかっていないからトイレで吐く余裕はあったのかも。胃の内容物は嘔吐によりカラ、体内にもめぼしい毒物の検出はなし。昨日の被害者がここに搬送されれば、なにか共通点が分かるかもしれないんだけど……」
要するに詳しい死因は不明ということか。
最初の被害者は事故死だと思われた為、既に遺族の手によって埋葬されてしまっている。
二人目の被害者も、そうなりそうだったのを寸でのところで差し止めたのだ。手続きの関係上遺体の搬送には、もう少し時間が掛かるだろう。
「全員の診療記録に目を通してみたけど、抱えていた病気もバラバラだね。糖尿、痛風、急性鼻咽頭炎」
「急性……なんだ?」
聞いたことのない病気だった。何か難病なのだろうかと聞き返すランサーに、ロマンは人の悪い笑みを返す。
「鼻風邪のことさ」
「普通にそう言えよ」
今日は朝から小難しい話ばかり耳にしていて、いい加減頭が痛くなりそうだ。
「二番目の被害者は若い女性だからね。風邪以外の病気は特になかった健康体さ」
「それなのに、殺されちまうなんてな」
彼女達に何があったのかは分からないが、果たして、殺されるほどの理由があったのだろうか。
ランサーは、ふと女性の右手に視線をやる。手の甲に、何か紋章のようなものが描かれていた。
「なんだ? これ」
運動会で応援団が振り回す旗のようなものがモチーフになっている。
「そういえば、被害者達は全員同じ宗教団体に所属しているって話だったね」
ロマンの言葉に、上司から言われた情報を思い出す。
団体に所属する者は、紋章を身に刻んでいるということだろうか。だとしたら、標的としては狙いやすい。同じ宗教の団員を狙った犯行ならば、その宗教に恨みがある事も考えられる。
「先にこっちを調べた方が良さそうだな」
「そうだね、二人目の検視結果が出たら、また連絡させてもらうよ」
ロマンの言葉に頷いて、ランサーは新都大学を後にした。
午後2時15分。
ランサーはいつものパン屋の袋を下げて、冬木署捜査一課の事務所に入った。
「お疲れ様です、ランサー。休みのところ災難でしたね」
自分と同じく非番だったろう相棒のバゼットが、一足先に事務所で待機していた。
「まったく、おかげで昼飯食い損ねたっつーの」
デスクに腰を落とし、少し遅めの昼食に取り掛かろうと袋の中をゴソゴソと探る。
「ランサー、帰ってきたか。お前を待っていたんだ。すまないが……」
いつもの如く、上司のジークフリートがやってきたが、ランサーの姿を見て言葉を詰まらせた。タイミングが悪いのは毎度のことだが、流石に罪悪感を覚え始めたらしい。
「……後にした方がいいな」
「いや、いいっすよ」
気を使ってくれているが、勤務中には変わりない。ランサーは早々に焼きたてのパンを諦めて、袋を閉じた。ジークフリートは、そんなランサーに再度「すまない」と口にして、半歩下がると自分の背後に控えていた人物を自分の前に押しやる。
「ああ、シグルド、そんなに強引にされたら……私、困ります」
「…………!」
聞き覚えのある声に、げっ、と声が出そうになったのを寸でのところで押し留める。すぐ横にいるバゼットも、同様に息を飲んでいだ。
「すまない。彼女が、亡くなる少し前の被害者を目撃していたらしくてな。話を聞いてやって欲しい」
ジークフリートが連れてきた女の名前はブリュンヒルデ。白銀の髪を長く伸ばした美しい容姿だが、女神の様な見た目とは裏腹に、ジークフリートのストーカーをしている、少し危ないヤンデレ女だ。一年ほど前に起きた事件で重要参考人として事情聴取をしたことがあるが、心身喪失状態でまったく話が通じなかった。そんな女の話を聞けと言うのか。そもそもなぜジークフリート本人が話を聞かないのか。ランサーのじっとりした視線を感じ、上司は困り顔で「すまない」と口にする。
「俺が相手では会話にならないんだ」
「…………では、ブリュンヒルデさん、こちらへ」
悲しいかな公務員。上司の命令に逆らうことは出来ない。
ランサーは泣く泣く彼女を個室へと案内した。
3
翌日、午前7時。
ランサーとバゼットは、冬木市から車で30分ほど離れた隣の市にやってきた。
「本当にここで良いのでしょうか」
不安げなバゼットの声に、ランサーは奇妙な形状の建物を呆然と見上げる。
建物の外壁には、青髭ミュージアムと書かれ、現在催されている展示会の広告が、デカデカと貼り出されている。覚えのある場所だ。以前に捜査していた事件で訪れたことがある。あの時、隣にいたのは相棒のバゼットではなく、堅物な大学教授であったが。
ランサーは、蒸し暑い夏の日暮れを思い出し、回想に耽りそうな思考を慌てて振り解く。
「小太郎が調べた情報だ。間違いねえだろ」
「そうですね、ここの最上階でしたか」
二人がここに来た理由は、例の連続殺人の被害者達に共通する特徴にある。被害者達は皆、同じ宗教団体に所属していた。
その活動の本拠地がこの美術館の最上階にあるらしい。
「ブリュンヒルデの話も、今日の聞き込みで、何か手掛かりとなれば良いのですが」
「“シグルドが人々に施しを”ねえ」
昨日の事情聴取を思い出すと頭が痛くなりそうだった。
上司に言われて渋々引き受けたが、やはりというか、彼女の言葉を理解するのは至難の業だ。彼女は、一人目の被害者が亡くなる前日、港で被害者を目撃したと言っていたのだが。
「あれは間違いなくシグルドでした」
「いや、だからそのシグルドってのは誰だったんだよ! 性別、年齢、特徴は!?」
「下々の者に施しを与える慈悲深い彼の勇姿……あんな優しい姿を見てしまったら、私……ああ、困ります!」
とまあ、こんな調子である。
ランサーに理解できたのは、被害者は死亡する前日、港で謎の男から、何かを受け取っていただろうということだけ。
「そもそも、シグルドの基準ってなんなんだ?」
「彼女の好みの男性ということでは? たしかランサー、あなたも“シグルド”でしたよね?」
確かに、バゼットの言うとおり、ランサーもブリュンヒルデからシグルド扱いを受けている者の一人だ。その上、釣りが趣味なランサーは、釣れた獲物を知り合いや居合わせた人に配ることもしばしば。
つまり、バゼットが言いたいのは、おそらく“シグルド”は、たまたまいた釣り人で、配っていたのは魚。ブリュンヒルデの証言は、事件とは関係がない可能性が高い、ということだろう。
「ランサー、被害者と面識は?」
「バカ、俺はその時間、お前と一緒に犯人を追いかけてただろうが」
軽口を言い合いながら、二人は美術館の中へと進んだ。
『聖処女協会』
いずれ来たる、聖処女の降臨のため、この世を浄化することを目的とした非営利団体だ。
貸し切られた美術館のワンフロア。入口から一番奥の一段上がった壇上には教壇があり、その更に奥にはこの団体のシンボルなのだろう、大きな旗が架けられている。ただ広いフロアの中に教会に似た長椅子が並べられ、信者たちと思しき人々が男女問わず、旗に向かって祈りを捧げていた。
ランサーとバゼットは、団体の代表者である男に声をかけ、身分証を提示した。
代表者の名前はジル・ド・レエ。ランサーは、その男に一度だけ会ったことがある。その時、男はこの美術館の館長だと名乗っていた。
以前会った時はスーツに身を包んだ紳士といった風情だったが、今の男は、毒々しい色合いのローブに身を包み、カメレオンに似た顔立ちに穏やかな笑みを浮かべている。
いかにも怪しい宗教の教祖だった。
「おや、そちらの刑事さんは、以前お会いしたことが?」
館長、もとい教祖はランサーの顔と手帳を見比べて、ニンマリと笑った。
「その節はどうも」
ランサーの月並みな返事に構うことなく、教祖は笑みを崩さぬまま頷く。
「お聞きになりたいのは、我が同胞が何者かの手に掛けられた件ですかな」
察しがいいのはありがたい。いや、自分達の仲間が立て続けに三人も死んだのだ。分からない方がどうかしている。
「教団そのものが狙われている可能性があります。この団体の目的は聖処女の降臨だと聞いていますが、具体的にどのようなことを?」
ならばとバゼットが問いかける。
「我々は来るべき時に備えて、身を清め、大地を浄め、この世界を聖処女に相応しいものへと変えるための活動を……簡単に言えば、健康管理と地域の清掃です」
健康管理と地域の清掃。これから始まるであろう長々とした高説や、理解できない思想に身構えていた二人は、暫し呆気にとられて固まった。
「……それだけか?」
「ええ、それだけですとも」
漸く絞り出たランサーの問い掛けにも、教祖はただ穏やかに笑うのみ。
掲げる理想から、もっとカルトな集団を想像していたのだが、まるで地元の青年部のような活動だ。自治会と大差無い。
「健康管理ってのは神に健康を祈ることか?」
まさか、毎朝ラジオ体操をしています、とでも返ってくるのではないか。恐る恐る問い掛ける。
「それもありますが、皆にはこれを配っているのです」
教祖は前方に設けられた教壇から、小さな小瓶を取り出して見せた。
「聖処女にゆかりある神木の朝露です。これをクイッと一気に」
グラスを傾け飲み干す仕草。
ランサーは、渡された小瓶を受け取ってフタを開ける。無色透明の液体だ。匂いを嗅ぐが特に何も感じない。
得体の知れないものを口に入れる気はない。持って返ってディルムッドに調べてもらうかと、その小瓶の中身を証拠品として処理する事にした。
「被害者の死因が毒物の可能性がある。悪いが成分を調べさせてもらうぞ」
「皆が飲んでいますから、それが原因とは思えませんな」
ランサーの言葉に、教祖は嫌がるそぶりも見せなかった。きっと、その言葉は真実なのだろう。
「被害者達のここ最近の動向に何か変わった事は?」
教団に原因が無いのであれば、被害者たちの動向に原因があった可能性もある。
ランサーは教団への探りを諦めて、早々に質問を切り替えた。
「はて、我々は朝の祈りの時にしか、殆ど顔を合わせませんので、それ以外の時間、皆が何をしているかは存じません」
「4日前の夕方、被害者の一人が港で何かを貰っていたという情報があるんだが、それについて知ってることは?」
「ふぅむ、私には何のことやら」
「なあ旦那、俺、たぶんだけどそれ知ってるぜ」
ブリュンヒルデから得た目撃情報を念のためにと口にした時だ。
一人の青年が、会話に割って入ってきた。
「本当ですか、龍之介」
とてもCOOLですね、と独特な言い回しで賞賛された青年は、嬉しそうにはにかむと、ランサーとバゼットの方を振り向いた。
「斉藤さん……、あ、最初の被害者の人な。三日前の朝の時、知り合いに沢山もらったからって、クーラーボックスに魚いれて持ってきてたんだよ」
「おお、そうでしたね。とても美味な魚でした」
今思い出したというように、教祖が相槌を打つ。
「だから、港で貰ったんだったら、その魚の事だと思う」
「その魚を貰った人はどれだけいる? 誰が貰ったか覚えてるか?」
「俺も貰ったし、旦那も。みんな貰ってたと思うぜ、魚とか海藻とか貝とか色々」
やはり、予想していた通りだったか。
ランサーとバゼットは互いに視線を交わし、参ったと肩をすくめた。
彼らが嘘を吐いていないのならば、やはりこの証言は何の手掛かりにもならなかったのだ。
ランサーは念の為、他数人の信者たちに事情を聞いたが、やはり皆同じ答えだった。
4
午後6時45分。
蝉菜マンションの306号室。窓から見える景色はまだ少し明るい。
ランサーは無地のカーテンを引いて閉じ、日に日に長くなる夕空に背を向けた。
「本当に、こんなもので良かったのかね?」
カレーが盛り付けられた皿を手にしたエミヤが、二人分のそれを卓上に並べる。
「おう、めちゃくちゃ美味そうじゃねえか」
湯気の立つ皿を目に、顔がニヤけるのを止められない。
なんせ、男の手料理はたいそう絶品で、ここ数ヶ月をカップラーメンと菓子パンで過ごした身としては、これ以上ないほどのご馳走だった。いや、たとえ日頃からまともな食事をしていたとしても、この男の料理には敵わないだろう。そして何よりも“恋人”の手料理だ。
ランサーは、素早く席に着くと、溶けた野菜と香辛料の甘い匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。匂いを嗅いだだけで、口の中に涎が溜まった。
「アルコールはどうする?」
ワインならあるぞという男の質問に、首を横に振る。非常に残念ではあるが、いつ何時、招集されるか分からない身だ。特に今は、連続殺人事件の調査中。次の被害者が出たと呼び出されでもしたらたまらない。
「それより早く食おうぜ。待ちきれねえよ」
食事を待ち望む胃袋が、胃液を溢れさせる所為で痛い。
ランサーの姿に、やれやれとエミヤは苦笑を浮かべ、水の入ったグラスを手に席に着いた。
いただきます、と手を合わせて、スプーンに乗せた米とルーを口いっぱいに頬張る。
エミヤのカレーは美味かった。市販のルーを使っていたはずなのに、今まで食べたどんなカレーより美味いと思う。
気がつけば3皿も平らげて、ランサーはグラスに満たされたミネラルウォーターを一気に飲み干して、やっと腹が満たされた。
「凄い食べっぷりだな」
「おう、美味かったぜ」
率直に感想を述べれば、そうか、と満更でもない顔をする。もっと素直に喜べばいいのに、つくづく面倒な精神構造をしている男だ。
「お前の飯食うの、ほんとに久しぶりだからな……こうやってゆっくり話すのもさ」
目を細めて、男の顔を見る。
気に食わないと思っていた仏頂面も、不思議と可愛く見えてくるのだから、惚れた欲目というのは凄いものだ。
「今も忙しいのだろう。君が頑張ってくれているから、我々市民は健やかに毎日を過ごせるのだ」
ランサーを労わるように、肩に伸ばされた褐色の手。
今日一日、バゼットと二人、ひたすらに聞き込みをして回ったが、進展はなかった。被害者の死因も特定されていない現状では不毛だと判断し、切り上げたのだ。解決しない案件に苛立っていたが、暖かな言葉と手のひらの体温が、肩を通じて全身に行き渡る。
「守りてえ奴がいるからな」
そう答えて、男の手に自分の手を重ねた。
以前のランサーは、ただ犯人に報いを受けさせたいと、そんな思いだけで刑事をやっていた。もちろん今でもそれは変わらない。けれど、守りたい相手が出来たのだ。守る必要などない強い男だが、それでも、その生活を少しでも安らかにしてやりたいと、そう思っているから、どれだけ激務であろうと耐えられる。
重ねた手をゆっくりと撫でれば、擽ったかったのだろうか、エミヤはびくりと肩を揺らして、慌ててその手を引っ込めてしまった。
「そ、そう言えば……君の担当している事件をニュースで観た」
場の空気を誤魔化すように、コホンと、態とらしい咳払い。
「アキレウスが落ち込んでいたよ。被害者の女性と面識があったらしい」
「は? このタイミングで他の男の話なんてすんのかよ」
めちゃくちゃいい雰囲気だったのに。
突然切り出された話題に、眉をしかめる。アキレウス、覚えのある名前だ。確か昨日、大学で見かけた学生だ。エミヤのゼミの生徒だとかで、やけに馴れ馴れしい態度を取っていた。
ランサーの不機嫌を感じ取ったらしい、エミヤが、困惑した顔で弁明を口にする。
「彼は学生だ」
「卒業したら学生じゃなくなんだろ」
そもそも、相手がどう思っているかなど分からないではないか。ランサーがぐっと顔を近づけると、近づけだ分だけエミヤは仰け反った。
その仕草が気に食わない。
「やけに親しそうだったしな」
まるでずっと前から交流があったかのような“慣れ”のある会話だった。刑事の勘だ。
白状しろと、卓上に両手をついて、犯人への尋問のように問い詰める。鼻先がつきそうなほど近づいた顔に、これ以上は無理だという所までのけ反ったエミヤは、やがて観念し、苦し紛れに白状した。
「たっ、たまたま面識があったのだ。彼の育ての親が医学部の教授で、仲良くさせて貰っているから、その関係で……」
ほらみろ、やっぱり以前から交流があったのだ。まだモゴモゴと何か言おうとしているエミヤの両頬を掴んで固定した。
これ以上話を聞いていたら、嫉妬で何をするか分からない。
「キスしていいか」
それは、確認ではなく予告だった。何故なら、質問をした直後には、もう唇は触れ合っていたのだから。
「ラン……ッ!」
声を奪うように、繰り返し啄む。
ん、ん、という低い喉なりと吐息、そしてリップ音だけが部屋の中を満たしていく。
机を挟んだまま、顔だけを寄せたもどかしい触れ合い。
ランサーは、ハッと息を吐いて、額をエミヤのそれに擦り合わせた。
「なあ、駄目か?」
主語のない会話。
だが、エミヤは理解したのだろう。
キスによって溶けたひとみの奥が、熱の所為だろうか、蜃気楼のように揺れた。
「駄目、ではないが……準備がいる」
だから今日は出来ない。否定の声は興奮で掠れている。
「じゃあ、準備しなくてもできるコトをしようぜ」
ランサーの声も、興奮で掠れていた。
手を引いて立ち上がらせると、エミヤは抵抗しなかった。ランサーに導かれるまま、リビングのソファーに身を沈める。
ゴクリと、ランサーは無意識に喉を鳴らした。
男と想いを交わしてから、まだ、一度もこの身体に触れていない。ずっとお互い忙しかったのだ。ランサーは、自身の想いを自覚してからというもの、エミヤの痴態を想像して何度も眠れぬ夜を過ごした。
野郎の裸を想像して抜くなんて、今までの人生では考えられなかったことだ。けれど、堅物な男の乱れた姿を想像しただけで、ランサーのムスコはあっさりと勃ち上がった。
ソファーに沈み込んだ身体に、馬乗りに跨った。隠しきれない期待を瞳の奥に滲ませた男の下半身に、硬くなった己のモノを擦り付けた。
「……あっ」
小さく上がった声に、後頭部を殴られたような衝撃が走る。
「アーチャー っ!」
名を叫び、唇に噛み付いた。
獣のような姿勢で貪る。
下唇に噛みつき、耳たぶを舌でなぞり、首筋の匂いを嗅いで、喉仏を舐め上げる。浮き上がった相手の腰を掴み、四本の足をぐちゃぐちゃに絡め合わせる。持て余していた肉欲をようやく満たせるのだと、興奮に息が上がった。そしてランサーの手が、淫らに揺れるアーチャーの腰のベルトに触れた。
その時。
尻のポケットに入れていた携帯が、タイミングを見計らったかのように電子音を鳴らした。
聞き覚えのあるメロディ。ランサーの表情が、絶望に歪む。
「……出た方がいい」
「分かってる……分かってるからちょっと待て……」
エミヤの指摘に、頭を抱えて唸る。
心身共に色々と落ち着かせなければ、とても電話になど出れる状況ではない。
ランサーは、鳴り止まない着信音の中、エミヤの身体から降り、居住まいを正し、額に手を当てて何度も深呼吸を繰り返した。
そしてようやく覚悟を決めて、携帯の受話ボタンを押す。
「はい、もしもし」
『お疲れ様です、先輩』
「おまえかよ!!」
スピーカーから聞こえたディルムッドの声に、思わず叫んでしまった。このタイミングだ。絶対に部長の電話だと思っていた。
『……え? はい、午前中にいただいた、例の液体の中身、解析が終わったので報告です』
そんな報告、明日でも良かったのに。
口を突いて出そうになった言葉を必死に飲み込む。事件解決のために、こんな時間まで残業してくれている後輩に対して、いくらなんでもそれはない。敬意を示すべきだ。
「そうか、で、何だったんだ?」
『植物油です。それも非常に栄養化の高い』
「植物油?」
『サラダ油のことですよ。最近だとエゴマオイルとか流行っていますよね。オメガ3脂肪酸が多量に含まれていましたから、確かに毎日これを飲んでいれば、健康でいられそうな気がします』
「それじゃあ、特別変な成分は無かったってことだな」
『そうですね。原料は分かりませんが、ごく普通の油です』
「そうか、サンキューな」
通話を切る。
味気ない結果報告。
結局何の手がかりも無しかと、捜査の進展のなさにも頭を抱える。
ズボンの中のムスコはすっかりやる気をなくして項垂れているし、正直泣きたい気分だ。
「ランサー、やはり事件が解決するまでは、こういうことは控えた方がいい」
いつのまにか、すっかり身なりを元に戻したエミヤが、さっきまでの雰囲気などなかったかのように、テーブルに残った食器を片付けていた。コトの最中に止められるのは勘弁願いたいと、男の心の声が聞こえてくるようで、ランサーは「事件が解決したら覚えてろよ」と誰に対してなのかわからない怨嗟の言葉を吐き出した。
5
不幸な夜を越えたその翌日。
ランサーは、バゼットを引き連れて、新都大学の医学棟を訪れた。
建物の地下一階、うす暗く湿っぽい部屋の中で、Dr.ロマンは舞台役者のように両手を広げて宣言した。
「さて、彼女たちの死因が判明した」
これで一歩前進だ。
ランサーは、ようやく見えた解決の糸口に心の中で両手を合わせる。
「感謝するぜ、ドクター、で、何が原因だったんだ?」
ロマンは、ヘラヘラとした笑みを浮かべて、黒いボードを片手に答える。
「プロスタグランジン中毒さ」
「…………ぷろ」
聞き慣れない言葉に、心の中で合わせていた両手がゆっくりと離れていった。
すがるような気持ちでバゼットを振り返るが、自分と全く同じ顔で惚けている。ダメそうだ。
「……悪い、もう一回言ってくれ」
自分たちは刑事で、医療の専門家ではない。仕方ないことだ、と再度尋ねた。
「プロスタグランジン。簡単に説明をすると、妊婦の分娩を促す成分だね。それを多量に摂取した形跡がある。薬があるけど、普通の人には処方されないものだ」
「被害者の中に、産婦人科に通う人がいたのですか?」
ロマンの説明を理解したバゼットが、疑問を口にする。
返ってきたのは否定の仕草。
「いないね。何処かで手に入れたのか、それとも知らぬ間に飲まされたのか」
簡単には手に入らない薬。
素人の人間が、おいそれと手に入れられないのなら、犯人は医療関係者の可能性が高い。
「産婦人科にある薬なのか?」
分娩を促す、というのだから、少なくとも、子供を産むことができる設備が整っている場所でしか、使えない薬のはずだ。
「普通の薬局に置いてあるような薬ではないね、総合病院の薬剤室で管理されるような代物だ」
「総合病院……ですか」
バゼットは噛み締めるように言葉を紡ぎ、顎に手を当てて考え込んでいる。
薬があるのは総合病院、その辺の町医者ではない、もっと大きな、外科手術ができるような、大病院。
「ああ、バゼット巡査、君の考える通りだと、僕も思うよ」
ロマンの言葉に、三人の思考が一つに繋がる。つまり、怪しいのはこの近辺で一番大きな病院。
新都大学の大学病院だ。
ランサーとバゼットは手分けして、院内の聞き込みをすることにした。
「では、私は薬剤室へ」
「おう」
短いやり取りでバゼットと別れ、ランサーは目的の総合カウンターへ向かう。
幸い、今は空いている時間のようだ。順番待ちで並ぶ人はいないように見える。
ランサーがカウンターに近づくと、窓口で待ち構えていた受付係の女性が、椅子から立ち上がり笑顔を見せた。
「こんにちは、保険証の提示をお願いします」
「悪いな、病人じゃねえんだ」
警察手帳を取り出すと、途端に女性が顔を曇らせる。ランサーは極力相手の不安を和らげるよう、明るく笑って見せ、軽い口調で話しかけた。
「大したことじゃねえんだけど、ちょっと教えて欲しくてな。協力してくれるか?」
己の外見が、女性相手の聞き込みに、有利に働く事は自覚している。
ランサーは、まるでナンパでもしているかのように、カウンターにもたれ掛かり、女性の顔を覗き込んで小首を傾げた。
「刑事さん、イケメンね」
「そうかい? 嬉しいね」
ほんのりと頬を染める女性に、柔らかな笑みを向ける。
「よく言われるでしょ?」
「さてなあ、そういうあんたも患者さんの人気者だろ? ここにいるお嬢さん方は、みんな看護師さんかい?」
「いいえ、看護師じゃなくて受付の職員よ」
「そうなのか、頭が良さそうな顔してるからてっきり」
受付けのカウンターにいる女性たちは、照れたように、きゃあきゃあと笑った。
「受付の仕事も大変そうだよな。客は病人ばっかだし、医者ってのも、気難しい奴が多そうだしよ。そう言えば、頭がいい奴って変人が多いよな」
例えば、どこぞの誰かのように。
ランサーの頭の中を特定の人物が横切って行った。
「そうね、確かにそうかも」
頷く相手に、声を潜めて顔を近づけた。
「ここだけの話、嫌いな先生っているか?」
内緒話だ。
女性は慌てて、ランサーから目を逸らした。
カウンターの奥にいる他の女性陣たちが、互いに目配せをして、クスクスと笑う。
きっと、彼女たちの間では、話題に上がっている医師がいるのだろう。
「やだ、そんなの言えないわよ」
バレてしまえば仕事に差し障る。目の前にいる受付係は首を横に振った。
「絶対外に漏らさねえって」
「いいえ、ダメよ」
「口が固いねえ」
押し問答をしたが、本当に口が固そうだ。
仕方がない、とランサーは態とらしく肩を竦める。
「じゃあ、逆に好きな先生はいるか? 俺みたいにイケメンでカッコイイ」
あくまでも、ついで、という風に軽く尋ねる。
「それなら、ケイローン先生ね」
受付の奥にいた膨よかな女性が、率先として声を上げた。
「あ、私も」
「素敵よね」
「いつも差し入れとか持ってきてくれるし、私たちにも気を使ってくれて」
「優しいし、仕事もできるし……」
私も、私も、と受付中の女性が声をあげ、いつの間にやら話題はその“ケイローン先生”とやらの褒め合いに発展した。
ケイローン。何処かで聞いた名だ。
なんだったかと記憶を探る。
「ランサー、話は終わりましたか?」
己の仕事を終えたバゼットが、腕組をして背後に立った。
「悪いな。お目付役が来ちまった。お嬢さんたち、楽しかったぜ」
最後まで、爽やかな色男を演じながら、女性陣に手を振ってその場を離れる。
聞きたいことは聞けたのだから、これ以上この場にいる必要はない。
「何か分かったか?」
病院の自動ドアをくぐった直後、バゼットの収穫を確認する。
まだ梅雨前だが、天気が良く蒸し暑い。
ランサーはYシャツの長袖を肘の辺りまで捲り上げた。
「いいえ、何も教えてはくれませんでした。けれど、何か隠しているような雰囲気がありましたね。おそらくクロです」
バゼットの判断はきっと正しい。
病院の薬が紛失しました、などと、外部の人間にはそう簡単に言えることではないだろう。
「そちらは、どうでしたか?」
相棒の問い掛けに、今度はランサーが答える番だ。
「この病院で一番人気のある先生の名前は、ケイローン」
「そうですか」
バゼットは神妙な顔で頷いた。
病院というのはセキュリティが厳しい。人の命を預かる場なのだからそれも当然だ。その厳しいチェックを掻い潜り、薬を盗み出せる人物がいるとすれば、それは、院内で信頼の厚い人物。薬や、データを管理する係の者から好かれている人物に違いない。
ケイローン、ケイローン。
ランサーは聞き覚えのある名前を脳内で繰り返し、そして思い出す。
ああ、そうだ。自分は一度その男に合っている。
二日前、ロマンの元を訪れた時にすれ違った、穏やかな物腰の男。
ランサーは携帯を取り出して、署で待機しているだろう小太郎に連絡をする。
ワンコールですぐに繋がった。
「小太郎、大学に許可を取って、ケイローンって名前の医者について調べて欲しい。可能なら研究室の捜査も」
『わかりました。その人が事件の容疑者ですか?』
「確定じゃないが怪しい、だから大学に許可を取って調べてもらいたい。今回の事件の、三人目の被害者の主治医なんだ」
きっとこれは、単なる偶然ではないだろう。
6
「飯でも食うか」
大学での聞き込みを終えて時計を見る。あと30分程で昼時だ。
牛丼や立ち食い蕎麦なんかだと、手早く済ませられていいのだが、あいにくと店から少し距離があった。
「ランサー、学生食堂を利用させてもらいましょう」
相棒からの提案に、それが良いかと頷いた。
この大学の昼休みは、正午を少しすぎた時間からだ。今であればまだ食堂は空いているはずだ。
そうと決まればと足を向ける。
「学生食堂って何が食えるんだろうな。お前もたまには牛丼以外も食えよ」
「牛丼、いけませんか? あれは非常に効率的で良いものです」
バゼットは、食事を楽しむということも、自炊も全くしないらしい。毎日毎食牛丼やラーメンの様なファストフードばかり食べている。自分が言えたことではないが、もう少し栄養を考えた方がいいと、心配になるくらいだ。
(刑事としては、優秀なんだがなあ)
人としては……と、その先は考えない事にした。
「ところでランサー、今日は木曜日です」
食堂へと向かう道すがら、バゼットがおもむろに言い放った。
なんだ、と視線を向けるランサーに、ニヤニヤとした、下世話な顔が返される。
「今日のこの時間であれば、おそらく教授が食堂にいます」
「おまえなあ……」
確かにあの教授は、週毎の同じ時間に同じ行動を繰り返す傾向があるが。
ランサーは精神的な頭痛を感じて眉間を押さえた。
この相棒は、何故だか自分とエミヤの仲をお節介に取り持とうとしてくる。気持ちはありがたいのだが、出来れば仕事とプライベートはきっちり分けたいと考えるランサーには、ある種、悩みのタネでもある。
そして、結果的に言えば、バゼットの読みは当たっていた。
「ランサー、バゼット巡査。捜査中かね」
「よお」
「お久しぶりです、教授」
閑散とした食堂で、魚の入った定食を食べているエミヤの姿がそこにあった。
日当たりのいい窓際の二人席。小さな湯呑みでセルフの水を飲みながら片手を上げる男の向かいには、誰だろうか、同席者の姿。
「お知り合いですか」
「ええ、まあ」
相手の質問に答えるエミヤの顔は穏やかだ。気心の知れた相手のようで、ランサーは顔を見ようと、エミヤの隣の二人席にまわった。
同席者の姿を見て息を飲む。
(ケイローンっ……!)
間違いない。二日前、医学棟の地下ですれ違った男。バゼットは気が付いていない。ケイローンの姿を知らないからだ。
ランサーは、動揺を表に出さぬよう、ハンバーグ定食のトレイを置いて椅子に座った。バゼットも、親子丼のトレーを置いて、ランサーの向かいに座る。
「教授。そちらの方は?」
「彼は医学部のケイローン先生だ」
こちらへ振り返り、「初めまして」と穏やかに笑う男の名を聞いて、バゼットも息を呑んだ。
「ランサー、君には話しただろう、学内にゼミ生の育ての親がいると」
「おや、どんな話をしていたのですか?」
確かに、昨夜そんな事を言っていたような気がする。だがその時のランサーは嫉妬に駆られていてそれどころでは無かったのだ。
ケイローンは落ち着いた様子で、ニコニコと笑っている。
「お二人は、仲がよろしいのですか?」
恐る恐る、バゼットが質問を投げかけた。
「もう随分と、長い付き合いになりますね。知り合った当時、まだエミヤ君は院生でしたから」
「10年以上前になりますか」
年数を聞いて驚く。ランサーが思っていた以上に二人の関わりは深いようだ。
「先ほど彼が言ったように、私は幼い子供を預かっていました。戸籍上の繋がりはありませんが」
ケイローンも、やはり人にモノを教える立場の人間であるからか、穏やかな口調は明瞭で、聴きやすい。
「当時の私は、男の独り身であった為に料理など殆どした事が無かったのですが、子供を育てるのにこれではいけない、と思いましてね。当時いらっしゃった教授の伝手で、料理上手な彼を紹介していただいたのです」
「先生は器用ですから、私が教えなくとも出来たと思いますが」
「いいえ、眼の前で実践して説明していただける事は、本を読むより勉強になりました。おかげでアキレウスも、好き嫌いのない、元気な良い子に成長しましたしね」
昔話に花を咲かせる二人をランサーはじっと観察した。病院の事務員たちに好かれる優しくてカッコいいケイローン先生。
確かに、彼が上司なら理想的だろう。頭が良く、落ち着きがあり、きっと失敗を静かに諭してくれる良き師だ。
この男がもし、今回の事件の犯人だったとしたらその動機はなんなのだろう。
和気藹々と話すエミヤとケイローンを横目に、ランサーはハンバーグ定食に添えられたワカメまみれの味噌汁を啜った。
「そういえば、アキレウスは貴方のゼミに入ったそうですね」
「ええ、真面目に課題に取り組んでくれています」
二人の話題は例の学生の事についてだ。
先ほどの会話から想像するに、あの学生が幼い頃から、エミヤは知り合い、手料理を食べさせていたという事になる。
幼子の世話を焼くエミヤの姿を想像すると、飲み込んだハンバーグが胸のところでつっかえたように息苦しい。
らしくもない嫉妬だ。仕事に集中しろと、何度も己に言い聞かせた。
「自立して、一人暮らしを始めた時はどうなるかと思いましたが、自分で自炊もしているようで安心しました。山で採って来たキノコを食べたと聞いた時は、流石に注意しましたが」
そう言って笑うケイローンの姿は、何処にでもいる一人の親のように見えて、この男が容疑者であるなど、やはり間違いではないのかとランサーは思い始めていた。
穏やかな口調、手つきの優しさ。相槌を打つ時の相手を見る視線。教壇に立つものは総じて教えることが嫌いではないのだろうと思う。けれど、この男は好きなのだ、人に教えることが。
何故だろう。不思議とそう思えた。
これは、外れだったかもしれないな。
彼の部屋からは、多分、何もみつからない。直感的にそう思った。
けれど、尻ポケットに入れた、ランサーの携帯が鳴る。
少しずつ、学生の増え始めた食堂で、食事の手を止め、携帯の通話ボタンを押した。
「よう、どうだった」
『大学に許可を取って、例の場所を確認しました』
通話の相手は小太郎だ。
『クロです。ケイローンの研究室から、おっしゃっていた通りの薬剤が発見されました。大学病院に確認したところ、薬剤室から盗まれていたものだとのことです』
予想外の小太郎の報告に、ランサーは目を見開く。
だが、事実は事実だ。
「そうか、わかった。容疑者はこっちで連行する」
『お願いします』
通話を切って、携帯を元の場所に戻す。
「ランサー、行きますか」
「ああ」
バゼットの問い掛けに頷いて、グラスの中に入れた水を一息に煽った。
空のグラスをトレーに置いて立ち上がると、警察手帳を取り出して、身分証を突きつける。
「ケイローン。あんたの研究室から、盗品と思われる薬剤が発見された。悪いが、署まで同行してもらおうか」
エミヤが呆然とした顔で此方を見つめていたが、ランサーは振り返らなかった。
7
「そこまで調べてらっしゃるのなら、私が言うべき事は何もありません」
「それは容疑を認めるってことか?」
冬木署の取調室。
逃亡防止用の腰縄で自由を奪われた男は、それでもなお、穏やかに笑って見せた。
食堂でランサーが警察手帳を突きつけた時も、ケイローンは「そうですか」と頷いて、至極あっさりと要請に従ったのだ。
その行いに、抵抗したのはエミヤだった。
「どういうことだ、ランサー!」
珍しく声を荒げ、椅子を倒して立ち上がった男の言葉に、ランサーは答える事が出来なかった。ケイローンを連行する時の、エミヤの表情が忘れられない。視界の端に見えたそれは、驚きと、困惑と、裏切られたとでも言うような絶望。果たしてその瞳はどちらに向けられたものだったのか。
異常事態に勘付いた学生達の騒めきよりも「ランサー」と再度、小さな、縋るような声で呼ばれた自分の名が、耳に張り付いて離れない。
「動機は……動機は何なんだ」
納得させて欲しかった。
それならば仕方ないと、そう思えるくらいの理由を説明してくれなければ。ランサーは遣る瀬無い気持ちを押し殺して問い掛けた。
「ただの、探究心ですよ」
穏やかな頬笑みが、ランサーの心に爪を立てる。
「私は長年、臨床医学という分野に身を置いてきました。人は何故病に倒れ、どの様にして回復するのか、そればかりを考えて生きてきた」
臨床医学とは、考える医学だとDr.ロマンは言っていた。
どの様な薬を使えばどんな効果が得られるのか、ただひたすらに考えるのだと。
「試してみたくなったのです。どうなるのか。大学病院で知り合った患者に、効果を偽って、こっそりと薬を渡しました。彼女達は手に分かりやすい特徴がありましたから、統計を得るには打ってつけだと」
ランサーは、歯を軋ませてケイローンの語りを聞いていた。
「お前がやったのは人体実験だ」
漸く喉から絞り出した声は、獣の唸り声に似ていた。
片時も崩れぬケイローンの笑みに、もはや嫌悪しか感じない。人を殺して笑っていられるなど、こんな男をエミヤが信頼していたのかと思うと、悔しくて堪らなかった。
「学者というのは、貪欲な生き物です。飽く事なく知識を求め、数多の教えを以ってしてもまだ満たされない」
笑みを崩さなかったケイローンが、わずかに眼を伏せてそう言った。
「貴方はエミヤ君と仲がよろしいのでしょう。彼の秘密はご存知ですか?」
伏せられた視線が持ち上がり、ランサーを射抜いた。
エミヤの秘密。
ランサーはゴクリと唾を飲む。
話の流れから察するに、きっとそれは、あの男の研究室での、法律ギリギリの趣味のことを言っているのだろう。
「確かに私の行いは罰せられるものです。報いは受けましょう。しかし、人というのは簡単に道を踏み外すもの。ほんの少しの探究心が、人を殺すのです」
「オレは……」
はくり、と口を動かしたが、声は出ない。
エミヤは武器を作っていることを研究の一環だと言っていた。
今はそこで止まっている。
けれど、その欲望が、さらにその先に進んでしまえばどうなるか。
ただ、知りたいと。
そこに罪の意識などはなく。
「人は、探究心に逆らえない。彼が道を踏み外した時、貴方は一体、どうなさるのでしょうね」
ケイローンは、薄暗い取調室で、絵画の様に微笑んだ。
ランサーは、僅かに憔悴した面持ちで、ケイローンを引き連れて、取調室を出た。本人が自白しているのだ。これ以上の取り調べは必要ない。
「ふざけんなっ!! 放せよ、クソッ!」
「やめなさい! これ以上暴れると逮捕しますよ!!」
留置所へと向かっていたが、何やら受付の方が騒がしい。男の声と、バゼットの声だ。ランサーは留置担当にケイローンの身柄を預けると、小走りで受付へと向かう。
「ランサー! 良いところへ」
バゼットが焦りを滲ませてランサーを呼ぶ。暴れる男を抑えるのに必死らしい。男相手とはいえ、バゼットが力負けをするとは珍しい。先ほどから仕切りに暴れている男の顔を見る。
目があった瞬間、相手は怒りも露わにバゼットを振り解くと、猛然と迫り来てランサーの胸倉をわし摑んだ。
「てめえっ! よくも先生を!!」
「お前……アキレウス!」
ドンっ、と背中が壁に当たった。細身のランサーよりも体格の良い男の一撃は、中々に威力があった。
アキレウスは、名前を呼ばれた事を不思議に思ったのか、僅かに眉間を寄せ、けれど次の瞬間には怒りに我を忘れた様にぐるぐると唸りを上げる。
顔を見たのは一度きりだが、ここ最近で何度も話題に上がった青年だ。忘れたくとも忘れられない。緑色の髪を逆立てて、瞳の中で炎を燃やす青年は、慌てて駆けつけた複数の警察官に取り押さえられ、ランサーの元から引き剥がされた。
「先生を! ケイローン先生を解放しろよ、先生が犯罪なんてするはずねえだろ!!」
数人がかりで取り押さえられてもまだ暴れている。若さ故か、怒り故か凄い力だ。
このまま暴れ続ければ、公務執行妨害か、はたまた傷害罪か、取り返しのつかなくなる前にさてどうするかと思案していた時だ。
「やめなさい、アキレウス」
凛とした声が、フロアに響く。
「……せんせい」
留置担当に拘束されたケイローンが、奥の出入り口に立っていた。
あれ程暴れていたのが嘘のように、アキレウスは、ピタリと動きを止め、迷子の子供よろしく、くしゃりと顔を歪める。
「先生、なんかの間違いだよな。俺、先生が……」
「いいえ、アキレウス。私は罪を犯しました」
言葉を紡ごうとする青年を遮った、容赦のない一言。
「だからもう、帰りなさい」
それは命令だった。
ケイローンは背を向けて、振り返ることなく自らの足で留置所へと消えていく。アキレウスはもう押さえつけられてはいなかったが、床に這いつくばったまま、ピクリとも動かなかった。顔面を蒼白にさせたまま、ケイローンの消えた入り口を呆然と見つめていた。
それは最悪の結末だった。
ケイローンを慕っていた全ての人が、傷つき、悲しみ、突然の裏切りに愕然とする。
ただ、ギリギリと、奥歯を噛み締める事しかできない自分が情けなかった。
大勢の警察官に見つめられる中、アキレウスはのっそりと立ち上がる。
誰も一言も発しない。
ふらふらとした足取りで、受付の玄関口へと向かう青年の背中は、今にも消えてしまいそうだった。
8
話がある。
エミヤから連絡を受けたのは、その日の夕方だった。ランサーはバゼットに断って、一人、男の自宅へと向かう。
冬木市新都玄木坂四番地、高級マンションの自動ドアを通り抜け、エレベーターに乗り込んだ。
ランサーの足取りは重かった。
ケイローンとの話が、ずっと胸に引っかかっているからだ。
ランサーは警察官だ。犯罪を犯した者を逮捕するのが仕事だが、仮に、仮にもし、大切な相手が罪を犯してしまったら、果たして自分はどうするのだろう。
それは馴れ合いだ。好意ある相手の為に目をつぶり、仕事を疎かにするなど、本来はあってはならない事だ。けれど、現にランサーは、エミヤの行なっている法律ギリギリの趣味を知っていながら見逃している。
チン、とエレベーターの音が鳴り、3の数字が点灯する。辿り着いた三階の角、306号室がエミヤの部屋だ。
インターホンを鳴らすと、即座にドアが開いた。中に入れと引き込まれ、いつものリビングへと案内される。
連れ込まれるなら、もっと別の理由が良かった。軽口を叩くランサーをエミヤは腕を組んで睨みつけた。男の言いたいことは分かる。
「「彼は犯人ではない」」
台詞を予測して相手と同時に言葉を発する。
ギリっと、さらに強い視線で睨まれた。
「悪いがアーチャー、こればっかりは聞けねえ相談だ」
「私の言うことが信用できないと?」
「お前は、容疑者と身近過ぎる」
それでも違うのだ、とエミヤは下唇を噛んだ。
ケイローンが犯人だという、確固たる証拠がある。本人も容疑を認めている。これ以上どうしろと言うのだ。ランサーもエミヤ同様腕組みをして、梃子でも動かない意志を見せた。
「良いか、アーチャー。それとこれとは話が別だ。いくらお前が俺の恋人だろうと、署の決定が覆る事はない」
ぴくりと、エミヤの片眉が跳ね上がる。
「待て、ランサー……いや、今はいい。私は確かに彼と近しい間柄だ。だから彼を信じたいという気持ちもあるだろう。だが、彼が人に害をなすはずがないと確信しているからこそ、違うと言っているんだ」
「証拠があるのか?」
挑発する様な言い方になってしまったのは仕方がない。エミヤが怒気を強めた口調で話すものだから、こちらもつい、言葉に力がこもってしまう。何より、付き合いが長いのはわかっているが、自分より相手を優先させようとする姿に苛立ってしまうのだ。
「私の経験則だ。彼は、私が今まで出会った人の中で、最も理性的だ。その彼が後先も考えずに人を殺めるなど、あるはずがない」
つまり証拠はないという事だ。
エミヤは頭に血が上っている。恩人を捉えられた怒りに、いつもの冷静さを失っていると、ランサーには感じられた。
どうすれば納得してくれるのか、痛む頭に溜息が出る。
「……君は、どう思うのだ」
エミヤの不意な質問に、俯けていた顔を上げた。
「君自身は、何か変だとは思わないのか。本当に彼が犯人だと、心の底から思っているのかね」
そこにあるのは、教師の顔だった。
まるで、聞き分けのない生徒を諭すような、穏やかな目。なんだか背中の辺りが落ち着かない。ムズムズとする。
「ランサー、君は覚えているだろうか。君と共に捜査した事件のことだ。私は君に、私が事件の犯人であると偽ったが、君はソレを否定した」
覚えている。忘れるはずがない。
あの事件があったから、今の自分たちがあるのだから。
「刑事の勘を曖昧な自信だと馬鹿にした私に、君は確かな根拠を示してくれたな」
そうだ。そうしなければこの男は納得しないと思ったから、だから、自分が何故そう感じたのかを言葉にした。
黙したままのランサーに、エミヤは優しく語りかける。
「ランサー、君には鋭い洞察力がある。恐らく君は、人の視線や身振り、呼吸、言動から感情や真偽を感じ取り、そしてそれを頭の中で整理し、理論立て、結論を導く力がある。君は、殆ど無意識にソレを行なっているようだがね」
「そんな、小難しい事をした覚えはねえんだが」
「だから、無意識だと言っている」
エミヤの言葉が、あまりにも自分の行いとかけ離れている気がして、実感が湧かない。だが、この男には、ランサーがそう見えているのだろう。
「君のそれは、勘などという不確かなものではない。確かな理論に基づいた推察なのだ」
だから、ランサー。
エミヤは、真っ直ぐに前を向いた。
「私の事を信じられないのならそれでいい、だが君自身は、君お得意の"刑事の勘"はなんと言っている」
ああ、とランサーは再度溜息を吐く。先程のものとは種類の違った溜息だ。
頭に血が上っていたのは自分の方だったかもと、冷静に問うてくる男の言葉を噛み締める。
確かにあの食堂で、自分は、ケイローンが犯人ではないと、そう感じたのだ。あの男は善人なのだと、ランサーの勘が告げていた。
曖昧な自信というやつだ。
けれど、それはランサーにとって、何よりも大切にすべきものだった。
そして、この男の言葉を借りれば、それは、“確かな理論に基づいた推察”らしい。
参った。
エミヤは、ランサーの“それ”を信じてくれているというのか。
俯いて、ぐしゃりと前髪を掻き回すランサーに、エミヤはクスリと笑いを溢す。
「それに、君に協力しないと、私は銃刀法違反で逮捕されてしまうのだしな」
そうだ。確かにそうだった。
ランサーは、3度目になる溜息を、はー、っと大きく吐き出した。
そもそも、これはそういう約束だったのだ。
馴れ合いなど最初からなかった。この男はどこまでも、刑事であるランサーに、真摯に応えてくれていた。
今迄もずっとそうだったのだ。
男を疑った自分が、少しどころか、かなり恥ずかしい。ランサーは唇を噛み締めて、後悔に歪んだ笑みを向ける。
「わかった、教授。あんたの勝ちだ」
そんなランサーに、エミヤはいつもと変わらぬ様子で、腕組みをして、不敵に笑った。
「感謝するよ。刑事殿」
9
今回の事件で、一つだけ気になった事がある。
ケイローンには三人を殺す動機がない事だ。
取調室で、ケイローン本人は人体実験をしたと述べていた。けれど、やはりそれはおかしいのだと、ランサーは思っている。
三人の被害者たちは皆同じ中毒で死んでいた。過剰摂取すれば確実に死に至る類の中毒だ。
そんなものが、一体なんの研究になるのか。
毒を飲ませた実験体が死んだ。
死に行く過程を見るわけでもなく、ただ毒を飲ませて殺しただけ。
結論の分かりきった実験に、得るものなど何もないではないか。
けれど、ランサーは医学に明るくはない。研究者の気持ちを理解する事も出来ない。
確証が得られない。だからこそ、この男に頼るしかないのだ。
リビングのソファーで向かい合って、ここ数日で得た情報全てをなにもかも、洗いざらい話す。
ランサーが事件とは関係がないと思っていた事であっても、この男はいつもそこから何か答えを導き出していた。
だから些細なやりとりも、記憶している限り全てを話す。
時計の針は見る間に進む。
食事も取らず、気がつけば深夜だ。
エミヤはランサーの話に静かに耳を傾けて、時折目を伏せて何かを考えていた。
そして、ランサーが全てを話し終えた後、10分ほどの間、エミヤは目を閉じたまま、微動だにしなかった。
コチコチと、掛け時計の秒針が進む。
話をしていた時は意識もしていなかった音が、静寂の中に響き渡る。カチンと、短い針が進む音と共に、男はようやく口を開いた。
「被害者の中には若い女性がいたな。彼女は何か病を患っていたのか?」
被害者達は、全員違う病を患っていたはずだ。ロマンにからかわれたので、若い女性の病気はよく覚えている。
「たしか、鼻風邪だ」
それがどうしたのだと、問うランサーに、エミヤはニヤリと笑ってみせた。
見覚えがある表情だ。何か分かった時の顔。
「ケイローン先生は確かに、大学病院で知り合った患者に薬を渡したと、そう言っていたのだな」
これから始まる怒涛の解説を覚悟して、ランサーは「間違いねえ」と頷いた。
エミヤは、大きな仕草で足を組み替え、スッと息を吸い込んだ。
「ランサー、ならば彼は嘘をついている。ただの風邪では大学病院は受診できない。医大というのは基本、受信するための紹介状が必要なのだ。町の病院などで受診し、高度な医療や設備が必要だと判断された患者が紹介状を発行される。そこで初めて患者は大学病院を訪れるのだ。ただの風邪で紹介状は発行されないだろうし、仮に見舞いや、付き添いで来たとしたならば、医者から薬を受け取ったりはしないだろう。受け取ったとしても、それは自分で飲むものではない」
いつもの如く、早口でまくし立てられた言葉は、ケイローンの証言をあっさりと覆した。
だがしかし、何故、そんな嘘を吐く必要があったのだろう。何故薬を盗んだのか、いや、考えれば分かる事だ。理由など一つしかないだろう。
「つまり、奴は誰かを庇っている……?」
「そうなるな」
ランサーの言葉にエミヤが頷く。
「ケイローン先生は、臨床医学の権威だ。きっと誰よりも早く被害者達の死因に気が付き、自分に容疑がかかるよう、手を回したのだろう」
自らの人生を棒に振ってまで庇うべき相手とはいったい誰なのか。そんなもの、考えなくたってわかる事だった。にわか信じがたいことではあるが。
ランサーは、警察署の受付で大暴れしていた青年の姿を思い出す。
「アキレウスか」
「君の話から推察すると、恐らく、被害者が死ぬ直前に、海で魚を配っていた人物というのはアキレウスだろう。彼は君によく似ている。君が"シグルド"に該当するならば、そのブリュンヒルデというご婦人が、彼をシグルドと呼んでもおかしくはない。アキレウスは先日、山で採ったキノコを食べて、ケイローン先生に怒られていたからな。その行動力があるなら海で魚を捕るくらいするだろうさ」
そういえば、そんな話を聞いた気がする。
海で魚を捕るだなんて、ますます自分とキャラが被っているではないか。とどうでもいい事を気にしてしまう。
「魚、植物油、プロスタグランジン……なるほど、そういうことか」
「オレには何のことかさっぱりなんだが」
エミヤは一人で納得している。いったいどういう事なのか、勿体ぶらずに説明してほしい。
第一、こうして時間を潰している間に、アキレウスが身を隠してしまったらどうするのだ。
身を焦がすランサーに、エミヤは安心しろと、自信たっぷりに胸を逸らした。
「きっと、アキレウスは"自分が犯人だとは気が付いていない"だろう」
だから焦る必要はないのだと、悲しげに瞳を揺らめかせて。
「ランサー答えは明白だ。見ているといい。私は、辿り着いた答えが自分にとって快くないものだとしても、決して目を背けたりはしないのだとな」
10
翌日、午前9時10分。
新都大学の第11学棟、3階の東側廊下にエミヤの研究室はある。
「話ってなんだよ、エミヤ先生」
「アキレウス、そこに座りたまえ」
エミヤに呼びつけられたアキレウスは、浮かない顔のまま、ソファに座るランサーを一瞥した。
「なんで警察がそこにいる」
「彼の事は気にしなくて良い、いいから座りなさい」
エミヤは再度、着席を促したが、アキレウスは従わなかった。昨日の事が余程ショックだったのだろう。当然か。ランサーとの同席を拒否する姿勢に、仕方がない、と溜息したエミヤは、立ったまま話をする事にしたらしい。
「君を呼んだのは、聞きたい事があったからだ。一週間ほど前、君は港で知り合いの女性に魚を分け与えただろう」
男は質問ではなく、断定で話をした。自分の考えに確信を持っているのだ。そして、男の考えの通り、アキレウスは怪訝な顔をして、こくり、と首を縦に振った。
「それは、先日とある事件で亡くなった知合いの女性、で間違いないか」
「ああ」
短い返答を受け、エミヤはやはりと頷くと、携帯を取り出して画面を操作し、一枚の画像を読み込んだ。そしてそれをアキレウスの眼前に突き出す。
「その時、魚と一緒にこの様な海藻を渡さなかったかね」
画面を覗き込んだアキレウスは、目を見開いて、驚きに顔を上げる。
「ケイローン先生にも、同じことを聞かれた」
画面とエミヤの顔を何度も交互に見比べている。
ランサーはソファーに座ったまま、静かにことの成り行きを見守った。極力気配を消して、二人の邪魔をしないよう息を潜める。
「これは、オゴ海苔だ」
エミヤは、まるで講義をするかのように、落ち着いた声でゆっくりと説明を始めた。
「刺身のツマと言えば馴染みがあるだろう。ごく一般的な海藻ではあるが、実は市販されているモノは特別なアルカリ処理が施されていて、処理を施さずに食すと食中毒になる危険性がある」
「わからねえよ。俺も食べたし、他にいた人にも何人か配ったけど、他は何ともなかったんだ」
なのに何故。
アキレウスの疑問に、そう言えばとランサーは思い出す。被害者は聖処女協会の会員たちに、貰った魚介をおすそ分けしていた。死亡した他の被害者たち以外、教祖や、龍之介という青年も、それを貰って口にしたと言っていたはずだ。
「”食い合わせ”というのを聞いた事があるだろう。例えば、高血圧の薬を飲んでいる時にグレープフルーツを食してはいけない、とかな。これは、グレープフルーツの持つ要素が、血圧の薬の効果を阻害してしまう事に由来している」
エミヤの言葉は少しばかり難しい。食い合わせ。ランサーの知っている範囲で考えれば、スイカと天ぷらを同時に食べると、水と油で腹を下す、だとか、そういうことでいいのだろうか。
エミヤは眼前に手を突き出し、人差し指をピンと立てた。
「そしてこの海藻には特徴が二つある。一つは、脂肪酸と結合すると、プロスタグランジンという物質を多量に生成してしまう事」
次いで中指が立てられる。
「そしてもう一つ。生成されたプロスタグランジンは、男性よりも女性に、より強く影響を及ぼす」
オゴ海苔を食した他の人たちも、もしかすれば、腹を下すくらいのことはしていたかも知れない。けれど、死亡した三人は全員女性で、その上、宗教上の関係で普段から植物由来の油を飲用していた。処理を施していないオゴ海苔が、植物油に含まれた脂肪酸と結合し、影響を受けやすい女性が中毒になって死亡。
そういえば、ケイローンは三人目の被害者の主治医だった。
彼女が例の宗教団体に所属している事も知っていただろうし、あの植物油を愛飲していた事も知っていただろう。そして、アキレウスとも関わりの深いケイローンは、当然、アキレウスから、魚を配った話を聞いていたに違いない。
気が付いてしまったのだ。
自分が大切に想う相手が、知らぬ間に罪を犯していた事に。
さぞかし悩んだ事だろう。
悩んで、そして彼が選んだ手段は、自分が身代わりになる事だった。
きっと本来ならこれほどの大事にはならなかったはずのこと。特殊な条件下で起こってしまった悲しい出来事だったのだ。
「俺の所為か」
アキレウスは呟いた。自分の引き起こしてしまったことを前に、為すすべもなく呆然と立ち尽くしていた。暫くすると、脳が漸く事実を実感したのだろう、ふるふると、唇が戦慄き、端正な顔がぐしゃりと歪む。
「よかった」
安堵の吐息と共に発せられた言葉に、エミヤとランサーは驚いて顔を見合わせた。よかった、とはどういう事か。困惑する二人の前で、アキレウスは力が抜けたのか、泣きそうな顔を片手で覆い隠すと、どっと床に膝をつく。
「俺が全部悪かったんだ。先生じゃなかった。先生は、何も……」
片手で覆われた顔から、表情は伺えなかったが、本当に安心したのだろう。青年は、よかった、本当に良かったと、震える声で何度もそう繰り返した。
しばらくして落ち着いたアキレウスは、よろりと立ち上がると、話の間中、終始無視をしていたランサーの方へ振り向いた。
その顔は、最初に部屋を訪れた時に比べると、幾分か、晴れやかだ。
「俺を逮捕しに来たんだよな。罪を償う覚悟は出来てる。連れてってくれ」
きっぱりとした口調で告げられた言葉に面食らう。ランサーは、非常に大人気ない理由でこの青年を嫌っているが、その心意気は嫌いではないと思った。
けれど、と首を横に振る。
「覚悟を決めたとこ悪いんだがな、この国に、お前さんの罪を裁く法律はねえんだわ」
「なっ……!?」
逮捕されないことに難色を示す被疑者、というのも珍しいが、とにかくそうなのだ。
今回の件、海藻を配ったのはアキレウスだが、それを調理し食したのは被害者達の自由意志。つまり、彼女達はそもそも、被害者ですらなかった。時間差で起きた只の集団食中毒である。
「じゃあ、俺はどうすれば……どうやって罪を償えば良い」
このままでは自責の念に潰されそうだと、アキレウスは歯噛みした。しかし、法律は法律。ランサーにはどうしてやる事も出来ないのだ。
「アキレウス、償う方法など何処にもないんだ」
背にかけられた声に、青年は振り返る。
ランサーは、そこに立つエミヤの姿を見て、ああそうかと、男と知り合ったきっかけの事件のことを思い出した。
「死んだ者は生き返らない。仕出かしたことは無かったことになどできない。私達に出来るのは、誤ちを繰り返さない事だけだ」
エミヤだけが、今のアキレウスの心を理解することができるのだ。男もまた、自分の行いの所為で人が死んだと、その自責の念を背負って生きる者の一人なのだから。
エミヤは、唇を噛むアキレウスの両肩を掴んだ。しっかりと視線を合わせ、説き伏せる。
「学べ、アキレウス。もう二度と、同じ過ちを繰り返さないように」
そして、学び、得た知識を誰かの為に使うのだ。もう誰も傷つけることのないように、大切な人を守れるように、大切な誰かの力となれるように。
学べ、と。
エミヤの言葉にアキレウスは、真剣な眼差しで頷いた。
こんな思いをするのは、もう二度とごめんだと、そう小さく付け足して。
まるで講義だ。人生という科目の講義。
二人の姿を見てランサーはそう思った。
エミヤの言葉は、きっとエミヤ自身が自分に言い聞かせている事なのだろう。
大切な人を守れるように、大切な誰かの力となれるように学ぶのだという、エミヤの言葉を反芻する。
(なあ、俺は少しぐらい自惚れてもいいか)
その大切な人が誰なのか。
エミヤが力になりたいと、願う相手が誰なのか。ランサーが、守る必要のない男を守りたいと願うように、エミヤもまたそう思っているのだと。
エミヤの腕がアキレウスの背に回る。
幼子をあやすようなものだろう。
ランサーは自分の心に言い聞かせて、今だけはと、嫉妬の心をしまい込む。
そうして二人の邪魔にならぬよう、気配を消して、そっと研究室を後にした。
11
署に帰ったランサーの報告により、今回の事件は事故として処理されることになった。
これから暫くは、事後処理に追われることになるだろう。
留置所から釈放されたケイローンは、見送りのランサーに深々と頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けしました」
「もう二度とするなよ、本当なら偽証罪だ」
相変わらず、微笑みを浮かべるケイローンだったが、その笑みは羞恥と、哀しみに歪んでいた。
「アキレウスは、知ってしまったのですね」
遠い目をして、男は呟く。
男にとって、それは最も避けたいと願っていた事だったからだ。その為に、自ら濡れ衣を纏ったのにと。
「あんたがすべきだったのは、庇うことじゃなく、アイツの強さを信じて、側で支えてやることだったんじゃねえか」
壁にもたれ掛かったランサーの言葉に、ケイローンは「そうですね」と答え、窓の外、天高く登った太陽を眩しそうに見上げた。
「我ながら、恥ずべき事をしたと、反省しています」
「まあ、あんたなりの親心ってヤツだったんだろうがな」
「親心、ですか」
励ましのつもりで言った言葉だったが、ケイローンの顔は浮かなかった。むしろ、一層苦しげに歪むその表情が理解できない。
そんなランサーの様子に気が付いたのか、ケイローンは「私事ですが……」と肩を竦めて苦笑した。
「私は、親の愛情というものを知りません。望まれぬ子供だったのです。それ故に母は私を忌み嫌った」
穏やかな口調に似合わない、衝撃的な告白だった。
「まだ小さなアキレウスをペーレウス……彼の父親から預かった時、私は不安に思いました。親の愛を知らぬ私が、果たしてこの子を愛してやる事が出来るのだろうかと」
だからアキレウスには決して、己を父とは呼ばせなかったのだと。伏せられた目は、男の心情を表して、不安に揺れた。
「彼がその事に対し意見した事はありませんが、寂しい思いをさせていたかも知れません。なので、せめてあの子の為に何かしてやりたいと思ったのです。親らしいことの一つでもと」
けれど、ケイローンの行いは、アキレウスを深く傷つけただけだったと、ランサーは思った。警察署の受付で大暴れしたアキレウスの蒼白になった顔と言ったら、見ているこっちが痛いほどだったのだ。
「慣れないことをするものではありませんね」
やはり私は、親にはなれない。
吐き出された言葉が余りにも悲しくて、ランサーはつい、する気のないお節介に口を開いた。
「オレは、あんた達、二人のことは何も知らねえけどよ。でもよ、他人のオレから見ても、アイツは、あんたの事が大切なんだって分かるぜ」
顔を真っ赤にして暴れる姿も、蒼白になった顔も。自分の罪を知って安堵し、蹲っていた姿も。
愛を知らない子供の見せる姿なものか。
「あんたの愛情が本物だってことは、アイツが証明してるじゃねえか。信じてやれよ、あんた自身のことも、アイツのこともさ」
ケイローンは、ランサーの顔をじっと見つめ、パチパチと瞬きを繰り返す。
そんな風に見つめられると、自分の発言が恥ずかしくなってくる。やめてくれ、と顔を背けるランサーに、クスリと落ちた笑い声。
「教導に立ち、全てを知った気でいましたが、私もまだまだ未熟者ですね」
付け足された言葉に振り返る。
「教えて下さって、ありがとうございます」
向けられたケイローンの微笑みは、やはり何処かの絵画に似ていた。
人生とは学びの連続だ。今回の件でつくづく身に染みた。
ケイローンの取調室での発言は、咄嗟の嘘であったのだろうが、今思い出しても的を得ている。
人は、ほんの些細なことで道を踏み外すものだ。ある者は意図的に、またある者は意図せずに。時には道を踏み外した事にすら気が付かない。
だからこそ、人を信じることは難しい。
ランサーは、エミヤと言い合いになった時、エミヤの言葉を信じなかった。だが、エミヤはそんなランサーに自分自身のことを信じろと投げ掛けてきた。
正直に言うと、思い出すだけで腹の底がフツフツと沸き立つ。余計な嫉妬が邪魔をして、エミヤの言葉を信じ切れなかった自分が悔しくて堪らない。
確かに、人を信じることは難しいが、信じ切れなかった時に感じる痛みに比べれば、騙された時の痛みの方がずっとマシだ。
「と、オレは思うワケだ」
「殊勝な心掛けではありますが、信じる心で犯罪は減りませんよ」
容赦ないバゼットの野次が飛ぶ。
冬木署捜査一課の事務室には、キーボードのカタカタという音が、折り重なって響いていた。
「人生が学びの連続だと言うのなら、僕は、報告書の枚数が一枚でも減る方法を学びたいですね」
パソコンの画面を睨みつけたままの小太郎が、冷たい言葉でさらなる追い打ちをかけてきた。
「お前らさあ、ほんと、こう倫理観っていうか、情緒っていうかよ」
自分の考えを真っ向から否定されたランサーは、ふてくされた顔でデスクに頬杖をつく。
ランサーのパソコン画面に映し出された報告書は、先ほどから一行も進んではいない。
「皆、すまない。俺が本件を事件と断定してしまったばかりに……」
「ランサー、サボっていないであなたも手を動かしてください」
刑事事件とした案件が事故になったため、引き継ぎや関係者への報告書が山程あるこの現状。
皆で手分けしようという部長の指示に従い、捜査一課の面々は、先ほどから血眼になって書類を作成しているのだった。
ランサーは、仕方がないと画面を睨みつけるが、思考がふわふわと、明後日の方に飛んでいく。
そういえば、あの後エミヤはどうしたのだろうか。
落ち込むアキレウスと二人、あのまま研究室に置いて来てしまったが。まさか変な気を起こしてはいないだろうな。
思いかけたことを、いやいやと振り払う。
ついさっき、信じると決めたばかりではないか。
ランサーは再び画面に集中する。
いや、でもあの時のアキレウスは弱っていた。そんな時に優しくされたら、エミヤにその気が無くとも……
「ああ、クソ! 気になる!!」
「ランサー! 真面目にやってください!」
頭を抱えて机に突っ伏したランサーに、バゼットの怒りの声が飛んだ。
信じ切れなかった時に感じる痛みに比べれば、騙された時の痛みの方がずっとマシだ。
マシだと分かってはいるが、やはり、人を信じることは、とても難しい。
EPILOGE
今夜お前の家に行くから。
全ての事務処理を終えたランサーは、事件解決から数日経った頃、ようやくエミヤに連絡を入れた。
事件捜査の最中に約束した事をまさか、忘れたとは言うまい
身体の疲れもなんのその。意気揚々とエミヤの部屋に向かったランサーは、306号室のドアが開かれると同時に滑り込み、驚く男を壁に押さえつけ、唇を塞いだ。
ガチッ、と鼻先に眼鏡がぶつかるが、構うものか。もがくエミヤを身体全体で押さえ込み、思う存分口の中を蹂躙しついでとばかりに、期待で兆し始めた膨らみも太腿に擦り付ける。
「まて、ランサーッ!」
首を捻って口付けを躱したエミヤは、必死な様子で、ランサーの胸に腕を突っ張った。
「んだよ、つれねえな。言っとくが、オレはもう待たねえぞ」
エミヤの身体から、石鹸の香りがする。準備が出来ているのは明白だった。求めているのが自分だけではないのだと、そう思えることが嬉しい。
「マテも出来んとは、とんだ駄犬だな……!」
「犬でもなんでもいいから抱かせろ」
やや、血走った目で迫るランサーに、エミヤは押し黙って、頬を紅潮させた。
「……寝室に行く」
とん、と身体を押しのけられたが、今度は素直に従った。ガチャリと、玄関の錠がかかる音。背を向けるエミヤの、襟ぐりの開いたシャツから伸びる首筋が色っぽく見えて、ランサーは堪らず男を背中から抱き締めた。
「だから待てと……っ」
「やっと、恋人らしい事ができるな」
いつも何故だが邪魔が入って、中々先に進めなかったが、今日のランサーはいつもと違う。本気も本気。携帯の電源を切っている。
肺いっぱいに匂いを吸い込むランサーの言動に、エミヤは大袈裟なほどビクリと跳ねて、困ったように唸りを上げた。
なんだか様子がおかしい。
怪訝に思ったランサーは、抱きしめる力を緩め、どうかしたかと問いかける。
「その、だな……先日から気になっていたのだが、ランサー」
私たちはいつから恋人になったのだろう。
「…………は?」
エミヤのまさかの問いに、ランサーはピタリと固まった。
いつからってそんなもの決まっているだろう。エミヤに想いを告げられて、そしてランサーは自分の想いを自覚した。 だからあの日、お気に入りのパンを片手に、アーネンエルベを訪れて……訪れたあと電話が鳴って……その先の記憶がない。
いや、記憶はあるが、エミヤに対してはっきりと自分の気持ちを告げた記憶がない。
冷たい汗が噴き出して、背中を滝のように流れていった。
「ちょっと待て、じゃあ、お前、キスとか、オレのシてえとか、そういうの、どういう気持ちで受け止めてたわけ?」
「君の意図が読めずに戸惑っていた。あとは、まあ、君がお試し感覚だったとしても、棚ボタだなと……」
ごほん、と態とらしい咳払いで誤魔化そうとしているが、いや、それ照れるところじゃねえからな。なんだこれ、オレの独り相撲か?と、一人で浮かれていた自分に死にそうになり、ランサーの頭は、なんだかよく分からない怒りに支配される。
ランサーは、驚くエミヤの腕を掴み、強引に手を引くと、リビングを突っ切って、寝室と思われるドアを開けた。思った通り、殺風景な部屋に鎮座する大きなベット。
ランサーは、逞しい褐色の身体をボフンとマットに放り投げ、割れた腹筋の上に馬乗りになると、大きな声で宣言した。
「今この瞬間から、オレとお前は恋人だ!」
分かったな!!
と力強い発言に、エミヤは目を白黒させながら、「わ、分かった」と頷いた。
(なんだこれ)
ランサーは、己の、余りの不甲斐なさに頭を抱えたくなった。けれど、今はそれに構っている場合ではない。
据え膳が目の前にあるのだ。
食わずしてどうする。
ランサーは、少し冷静さを取り戻して、シーツに散ったエミヤの髪を手で梳いた。
「なあ、アーチャー。オレ、お前のことちゃんと好きだから、だから抱きてえんだ」
お試しだなどと思われたくない。
ランサーの言葉に、エミヤはうっとり、目を細める。
「信じるさ」
その言葉が嬉しくて、むず痒い。
ランサーは、そんな照れを誤魔化すために、それじゃあと、殊更大きな声で言う。
「男相手は初めてだからよ、オレに男の抱き方教えてくれよな、"教授"」
「出だしからシチュエーションプレイは如何なものか」
「うるせえ!」
冷静なツッコミのせいで羞恥が倍増だ。
けれど、エミヤはそんなランサーの背に腕を回して顔を寄せる。
軽く唇が触れ合って、ニヤリと挑発的な顔。
「それでは、講義を始めるとしよう」
エミヤ教授は抗議する 終
いや最高ですありがとうございます!!!!!!!!!!!