「今来てますよ、津波が。今到達してるよ、テレビ朝日!」。15年前の東日本大震災直後のテレビ中継で、津波の襲来に気づかない東京のスタジオに、現地から机をたたいて怒鳴ったアナウンサーがいた。盛岡市の岩手朝日テレビの山田理(さとる)さん(47)。2年前に退社してフリーになったが、変わらず岩手を拠点にしている。「テレビの枠にとらわれず、避難や防災の大切さを訴えたい」。震災報道に関わったことで背負った責任を、地元で果たそうと思っている。
画面の津波予測は関東や東海も
2011年3月11日。午後3時22分、岩手県宮古市のホテル屋上の情報カメラが海の変化をとらえた。横一線の高い白波が猛スピードで岸壁に向かい、海岸にしぶきを上げて押し寄せている。
盛岡のスタジオは騒然となった。だが全国放送のオンエア画面は、その海の映像を覆うように関東や東海など各地方の津波予測を表示していた。東京の女性アナウンサーは、その予測の読み上げを続けている。
全国放送が盛岡のスタジオからのものに切り替えられない限り、津波が目前に迫っていることを山田さんが伝えるすべはなかった。
思わず「テレビ朝日!」と叫んだ
たまらず、キャスター席の山田さんはマイクに叫んだ。「何でここでその状況を伝えてるんですか! テレビ朝日!」
異変はやっとテレビ朝日に伝わり、直後に盛岡のスタジオからの放送に切り替わった。山田さんは夢中で避難を呼びかけた。
「ご覧いただいているように、海岸からどんどん波が押し寄せている様子がみてとれます。沿岸へお住まいの方はただちに避難を始めてください」
「情報カメラ、寄れますか。津波がどんどんとこちらに押し寄せている」「建物をのみこむ様子がみてとれます。ただちに、歩いて避難を始めてください」
叫んだ場面はニュースで流れなかったが、1カ月後の報道検証番組で舞台裏として紹介されると「アナウンサーのかがみだ」という称賛のコメントが寄せられた。
地方局のアナウンサーが、東京のテレビ局を呼び捨てにしたこともインパクトがあった。映像はSNSで拡散した。
大役を果たした山田さんは「津波の危険性をいち早く伝えた」と評価され、この年のテレ朝系列アナウンサーの大賞に選ばれた。
震災報道で背負った重荷
だが胸中は複雑だった。情報カメラがとらえた宮古市だけで500人以上、岩手県では6000人以上が犠牲になった。揺れから津波の到達までは30分ほどの時間があった。「もっと命を救う放送ができたのではないか……」
震災後しばらくは、ニュース番組の中で自ら取材した被災地の現状を伝えた。だが1年ほどすると、むなしさが込み上げた。工夫して報じているつもりでも被災地の様子は変わらず、復興の兆しが見えない。「被災地の番組より時代劇の方が視聴率がよかった」という声も聞いた。
15年に営業部門へ異動になると、震災報道の重荷から解放され、少しほっとしたような感覚があった。
ただ、地元の人は山田さんを忘れていなかった。「テレビ朝日!」と怒鳴った影響は大きく、営業に行く先々で「あの山田さん」と声をかけられた。
ありがたい半面、「震災から逃れられない」とも感じた。気がつけば営業の合間をぬって被災地を訪れ、住民の声を聞くようになっていた。
避難を呼びかける適切な言葉とは
23年春。8年ぶりに報道現場にアナウンサーとして戻ると、自らの集大成となるような震災番組を制作しようと考えた。
あの日、自分は「今すぐ高台へ避難を始めてください」と呼びかけた。それは適切な言葉だったのか。自問自答を繰り返してきた。
災害時にアナウンサーはどんな言葉で避難を呼びかけるべきなのか。その答えを求め、東日本大震災やその後の津波警報の報道に携わった人たちを訪ねて回った。
そして完成した番組が「命を守る言葉」。全国放送されて反響を呼んだが、この番組の制作中に局アナを続けることに限界を感じ、退社の決意を固めた。
災害時にアナウンサーは言葉を尽くし、工夫して伝えているつもりなのに、被災者にはきちんと届いていないと感じざるを得なかったからだ。
たとえば、避難に車を使う人がなかなか減らない。津波からの避難は、渋滞が起きて動けず車ごと流される危険から「徒歩が原則」とされている。
しかし、津波警報・注意報が出るたびに避難車による渋滞が各地で起きる。東日本大震災では、高台をめざす避難車がふもとで多数、波にのまれた。
テレビへの疑問が膨らみ退社
これまで、テレビにしかできないことがあると信じてきたが、人の行動を変えるまでには至らなかった。「避難の大切さを訴えても、伝わらなければ意味がない。結局、テレビは頼りにされていないのではないか」。もどかしさや疑問が大きくなった。
24年夏に退社してフリーになった。アナウンサーとスポーツマネジメントを主な業務とする会社を設立し、メジャーリーガー、菊池雄星投手が手がけた野球施設「King of the Hill」のプロモーションなども担当している。
フリーアナウンサーの多くは仕事のチャンスが多い大都市を拠点にする。でも山田さんは岩手を離れなかった。「震災から何年たっても苦しむ被災者を見てきた。それなのに会社をやめて報道の現場を放棄し、岩手から出てしまうことはできなかった」
そしてこう続ける。「地元でフリーになるということは、震災報道に関わった私なりに責任を持つということ。被災地で何かあったらすぐに取材できる。東京に出るよりもそれを優先した」
フリーで活躍するには知名度が必要だ。山田さんの場合はまぎれもなく、震災が知名度を高めた。「十字架を背負っているというか……運命でしょうかね」
テレビの枠にとらわれず訴えたい
局アナに限界を感じた山田さんは「テレビという枠にとらわれず、津波避難や防災を訴えたい」と思った。現在はフリーアナウンサーとして、「話し方」や「命を守る言葉」をテーマに講演をしている。最近は地方のテレビ局に呼ばれ、防災の勉強会で考えを伝えた。
あの日から15年の歳月が流れ、こうして取材を受ける立場になって気づいたことがある。
改めて当時を振り返ると、これまで交流のあった被災者の顔が浮かんだ。テレビ局時代に取材したが、疎遠になっていた人もいる。
「気にはなっていたけど、会社員としての忙しさにかまけて……。フリーになって時間に余裕ができたから、もう一度、一人一人を訪ねたい。最近、ようやく自分がやるべきことが見つかったような気がする」。復興の歩みや災害への備えについて耳を傾けたいと思う。
山田さんは震災報道で一躍有名になった。そのために重荷を背負ったが、伝え続ける責任を感じている。「誰もが『自分ごと』として感じる『防災』を発信できるアナウンサーでいたい」
そのより良い手段は、多くの人の話を聞いて勉強を重ね、見つけていきたいと思っている。
取材を終えて
「テレビ朝日!」と叫んでいる山田理さんのことを知った時、「東日本大震災の時の私と同じだ」と感じた。
東京都千代田区の毎日新聞東京本社でデスク業務をしていた私は強い揺れの後、NHKのニュース映像にくぎ付けになった。仙台市上空からの中継では、どす黒い津波が陸上にあるすべてのものをのみ込んでいった。「早く、早く逃げろ!」と叫びたい衝動と強い無力感に襲われたことを覚えている。
発生直後こそ10日ほど現地取材の機会があったが、その後は被災地を取材することはなかった。ただ、毎年3月11日は会社を休んで被災地に足を運んだ。岩手で生まれ育った記者として、震災を忘れたくなかったからだ。
24年春、いくつかの偶然が重なって盛岡支局に赴任した。そして今回、同じような思いを持つ人に取材することができた。震災から15年たち、私はやっと被災地を取材する記者としてスタートラインに立ったと思っている。【佐藤岳幸】