神域の見送人   作:Senritsu

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8. いつか、あなたを出迎えるために

 

 

 空が、一段と赤く染まった。

 光が歪められ、景色の明度が下がっていく。陽の影とも夜闇とも質の違う、黒い幕を下ろしたかのような暗がりが広がっていく。

 群生する龍殺しの実も、立ち塞がる厚い木々の壁も意味を為さない。というよりも、役割を果たす前に全て消え去ってしまいそうな勢いだった。

 

 雑草に紛れ込んでいた火薬草が自然発火し始めた。萎びて生気を失った草原は火の手を受け入れて燃え広がっていく。

 背の高い木々に蒼い雷が次々と直撃し、真っ黒に焦げて軋み、倒れていく。

 空から霰が降ってきたかと思えば、地上付近を吹き抜ける熱風によって瞬く間に雨となって地面に染みをつくり、またその次に吹く寒風によって凍結する。ただの土が耐えられるわけがなく、あっという間に罅割れて岩石のような色に変色していった。

 

 多少の豊かさはあったはずの土地が、神域と化していく。その命ごと根こそぎ吹き飛ばされ、ただ龍脈の熱量だけが満ちた空間へと変貌してく。

 グレイはアトリエを出て、その様子を目に焼き付けていた。奪われていく自らの体力に構うことなく、風にたなびく髪を抑えながら、だたそこに佇んでいた。

 

 空の向こうに、黒く瞬く星が見える。

 それは少しづつ大きくなり、やがてグレイの目にもはっきりと見えるようになった。

 

「……あぁ、あなたが」

 

 うわ言のように呟く。どこか熱っぽさすらあったかもしれない。

 その理由は明白だった。グレイは、この瞬間に初めてかの龍をしっかりと見たのだから。

 

 神域に最も近しい領域で生きてきた彼女は、そこに棲む神を。

 これまでの人生で一度も、まともに見たことがなかったのだ。

 

 軽い地響きと共に、かの龍は大地へ降り立った。

 もしこの先の空を目指すのであれば、そのまま飛び続けて無視すればよかったものを、わざわざ降り立ってきたのだ。それが意味することは、何か。

 

 グレイが何度か見てきた大型の飛竜種よりも何倍も大きい。恐らくは。

 強烈な存在感によって、その輪郭や距離感があやふやになり、目測が信じられなくなってくる。

 

 かの龍の鱗を見て、恐れに近い強い違和感を覚える。何か生物として根本から別の進化をしてしまったかのような、異なる理に生きているような隔絶を感じる。

 かの龍の鱗がすべて逆鱗であるということは知っていた。けれど、知識と体験は違うのだ。胸から逆立って生える長大な甲殻は、重力という普遍的な概念に真っ向から抗っているようだった。

 

 やがて、数秒と経たずに直視ができなくなる。目が焼けそうなほどに痛い。かろうじて、放射熱によるものだろうことは感じ取れた。

 さっきまで、冷え切った氷を急に常温に晒したときのような、目に見える形で白い冷気が溢れていた鱗の隙間。

 それが、数秒と経たずに蒸気を上げて赤く染まり、溶岩も劣るほどの高温を発し始めていた。

 

 錬金術ですら全く説明ができない。そんな属性の移り変わり方をグレイは知らない。

 呼吸と同調しているのかと思ってしまう程の自然さで、属性が変遷し続けている。

 

 周辺はもう地獄の体を成している。あちこちから火の手が上がり、かと思えば真っ白に凍てついて氷像を形作っている。辺りを舞う灰や火の粉が、細かな黒い粒子となって消えていく。

 虹色を虹や絵画以外で表そうとしたとき、このような光景ができあがってしまうのだろうか。

 人の想像できる範囲をこうも軽々と超えてくる。故に神域とは、言い得て妙だ。そしてそこに、緑だけが存在し得ないのも、逆にかの龍を象徴している気がする。

 

 これが、あの熱量に満ち、生命に乏しいあの領域を創り上げたもの。

 

「アルバトリオン……」

 

 かの龍の緋色の瞳がグレイを捉える。

 そのときになってようやく、自分が思っていたよりも冷静だ、と言うことに気が付いた。

 

 マーチは、もしまたかの龍の姿を見ることがあれば卒倒してしまうだろうと言っていた。

 初めてその姿を見たときも、幻覚か現実かもはっきりと分からない、観察するなどという余裕は一切なかった、と。

 

 目の前に降り立ったのがそれだけの存在であることは、十分すぎるほどに分かる。

 本能の役割が自らの命を守ることなのだとすれば、これはたぶん、本能が最も忌避する類のものだ。

 そういった分析が行えてしまうくらい、今のグレイは落ち着いている。

 身体は金縛りにあったかのように動かないので、許容量を超えた恐怖は受け取っているのだろうが。

 

 かの龍が視線を寄越した瞬間は、時間が引き延ばされる感覚があった。

 しかしどうやらかの龍は、自身の名前を呼んだグレイに一瞥をくれただけのようだ。

 もしかするとかの龍は、自らの呼び名がアルバトリオンであるということを知っているのかもしれない。呼びかけに答えるような、そんな反応だったように思えた。

 

 グレイから視線を外したアルバトリオンが、その足を踏み出して歩き始める。

 一歩を踏みしめる度に、罅割れた地面は真っ白に凍てつき、あるいは真っ黒に焦げ付き、さらには水とも油とも分からない液体が溢れ出したりする。

 そこに居るだけで環境を変えていくというおとぎ話のような現象を、目の当たりにしている。

 

 周囲の惨状は既に語られている通りだが、グレイのアトリエもまた、その影響を免れることはできないようだった。

 どこからか出火し、内部の素材や家具を巻き込んで炎に包まれようとしている。

 アイザの代から錬金術を駆使し、耐火、耐氷、防塵、避雷と様々な対策が施され、見た目に反して下手な城壁よりも丈夫だった。

 それ故にこれまでの荒天も凌いでこられたのだが。今はもはや、嵐の中心、火山の火口が傍にあるようなもの。これに耐えろというのが無理な話なのだ。

 

 自らの、外気に晒されている顔の皮膚が火傷と凍傷でぼろぼろに剥がれていく。人であればその場にいることすら難しい。

 心そこに在らずといった様子で佇んでいたグレイの目の前に、ずん、とかの龍の前足が迫ってきた。

 

 ああ、私は。かの龍にとっては路傍の石と何ら変わりない存在なのだ。

 神域の傍でただ一人、グレイが長い時を過ごしたことなど、かの龍にとっては何も考慮に値しない。もはやここですら、あまりにも住む世界が違いすぎた。

 故にかの龍は、何の戸惑いもなくその脚を前に踏み出すだろう。それだけでグレイよりも大きい。蹴飛ばされただけで致命傷になることが容易に想像できる。

 今飛び退けば間に合うかもしれないのに、グレイの両足は根を張ってしまったかのように動かない。

 

「私、は」

 

 私は、ただの怖がりなのだ。彼には一言も話さなかった、話せなかった心の内がそこにある。

 

 グレイは神域の外の世界を知らない。

 知識としては知っていても、体験したことがない。そういう意味で、グレイが本当に知っている世界は、外から来る人間にとっては異常が過ぎるこの神域だった。

 際立った異常の中で日常を営んできて、彼らにとっての日常が異常と感じられるような日々を送ってきた。

 

 たとえマーチが、マーチでない別の誰かが、あるいは、たとえアイザが生きていて『ここから逃げて人里へ向かおう』と手を差し出してきたとしても、グレイはその手を取ることはできなかったのだろう。

 こんなに歳を取ったのに、錬金術という学びも得たのに、グレイの精神年齢は全く変わらないままだった。

 

 こころの中にいるもう一人のグレイは、ここでしか生きられないと固執した。

 かの龍に、人と相容れない存在である黒龍に()()()()()()()と思い込みたかった、幼い少女なのだ。

 

「私は……」

 

 震えていたその言葉の続きが紡がれることはなかった。

 グレイの予感通り、かの龍は一切の躊躇もなく、それを障害物と認識することすらせず、グレイに向かって歩を進める。逆立った鱗に覆われた前脚が迫る。

 

 研ぎ澄まされた灰水晶のように太く黒光りする爪と、グレイの身体が接触する。

 その、刹那の前に。

 

 グレイはほんの少しだけ、地を蹴った。

 

「────」

 

 ざん、と。その瞬間はあっけなく。

 

 並の金属製防具よりも頑丈だとアイザが豪語していた、マカルパの服。グレイが何よりも大切にしていた服。

 鋼糸を織り交ぜて幾重にも重ねたそれが、薄い紙のように、何の抵抗もなく引き裂かれていく。

 

 そして、その先にある柔肌を。

 紫電を纏った凶爪が抉り取った。

 

「あっ、が…………」

 

 内臓を引きずり出された──いや、神経の錯覚か。

 痛覚は一瞬で許容量を突破し、意識が飛びかけるのをなんとか抑えた。

 

 ショック状態で全身の筋肉が引きつる。

 上半身と下半身はなんとか繋ぎ止められているか。そうなっていたなら、この命と意識は数秒と持つまい。

 ばちばちと、腹から蝕龍蟲が蠢いているような音がする。血が流れるというよりも、患部が何かに侵されていっているような感触。命が急速に蝕まれているのは間違いない。

 口の中に入れていた粒状の秘薬を飲み込む。気休めにもならないかもしれないが、それで命が長らえるなら。

 

 なぜ、飛び退いたのだろう。

 

 一秒前までは、グレイはそのまま死ぬつもりだった。この地でしか生きられないのだから、その終わりもこの地の主に委ねてしまおうと、そう思っていた。

 ようやくかの龍と相見えることができるという想いと、グレイの人生の全てだったこのアトリエが失われるなら、いっそのこと。そんな諦念と決意がグレイの身体を縛り付けていた。

 

 けれど、黒い龍光を纏う爪がグレイに向かって迫ってきたそのときに。

 グレイがこれまで見送ってきた、僅かな非日常と接点を与えてくれた人たちが去り行くときの後ろ姿が、走馬灯のように脳裏を駆けていって。

 それが、咄嗟にグレイの足を動かしたのだ。

 

 地面に倒れ伏して、痛みに喘ぐグレイに、アルバトリオンがもう一度視線を向ける。しかし、それもすぐに向き直して、かの龍は空の彼方へ頭部を向けた。

 かの龍はこのアトリエを燃やしに来たのではなく、気まぐれにここに降り立っただけらしい。グレイもアトリエも無視して、その先の空を見つめている。

 

 意識が外の世界に向いているときがあることは、千里眼の薬で読み取れていた。それ自体は珍しいことではなく、それでも神域から出ようとしないのは、何か特別な理由があるのだろうと考えていた。

 それが、とうとう動いた。しかも、本格的に神域から飛び立とうとしている。

 アイザから聞いていた限りでも、それは初めてのこと。少なくとも百年か二百年は維持されていた均衡が今、崩されようとしている。

 

 天をつらぬく角を掲げ、アルバトリオンは彼方を見る。

 あの先には人の都市があったはずだ。とうとう、その災厄を史実のものへとするつもりなのか。

 

 だが、意識を失う寸前で踏みとどまっているグレイの直感を、語ってもいいのであれば。

 かの龍はその都市すらも越えた先の、本当に遠い場所を見ているような気がする。

 それこそ、この大陸を飛び越えて、広大な海を跨いで、人が辿り着けているかも分からないような地へ。アルバトリオンは向かおうとしている。

 

 そんなグレイの推察に応えることもなく。かの龍は翼を広げた。夜の煌めきを取り込んだかのような、漆黒の翼だ。

 ただ一度の羽ばたき。それだけで大気がかき乱される。グレイは風に煽られて、ごろごろと地面を転がった。

 飛翔する。飛び立つ瞬間にかの龍は強い冷気を纏った。

 ごお、と氷点下の突風が二度三度と駆け抜ける。熱気と冷気が拮抗していた周囲の温度が急激に低下し、一気に真白の世界へと塗り固められる。

 

 アトリエを包み込もうとしていた炎が一瞬にして掻き消えた。周辺の火の手も同様に、煙を吐いて鎮火した。

 再び空へと舞い戻ったアルバトリオンを見ながら、グレイは茫然としていた。

 飛び立つには低温よりも高温の方が適するはずだ。上昇気流が翼を支えてくれる。もしそうやって炎を纏っていたら、瀕死のグレイも諸共、この地は焦土と化していただろう。

 

 それに逆らってかの龍は氷を纏った。属性の力で強引に、自らが訪れたことによる災を封じ込めてから飛び立った。

 そこに意図的なものはなかったのかもしれない。絶え間なく属性が移り変わっていく中で、たまたまその瞬間に氷が表出していただけなのかもしれない。

 

 けれど、それでもだ。

 更地になると思っていたアトリエは、木々は、半壊に留められ、かたちを保っている。

 命を落とすと思っていたグレイは、生きている。

 

「…………きれい、だった……な……」

 

 漆黒の龍が空高く舞い上がっていく。嵐雲が追い付かない勢いだ。代わりに、かの龍の軌跡に沿って大気がかき乱され、線を描いたように雲が形作られていく。

 グレイは地面にその身を横たえたまま、その姿を見送っていた。

 神域とは反対方向の空へ。アルバトリオンが星のように小さくなって見えなくなってしまうまで、見送り続けていた。

 

 

 

 その場を凍えさせていた空気が少しづつ和らいでいく。赤く染まっていた空が、もとの淡い赤色へと戻っていく。

 青空や星空といった、グレイの見知らぬ空が現れる気配はない。神域の主が飛び去って行っても、神域の影響力は健在のようだ。何百年とアルバトリオンが居座ったことで、龍脈が定着してしまっているのかもしれない。

 そんなことを頭の片隅で考えながら、ざり、とグレイは腕と脚を動かした。

 

 たったの一裂きがあまりに重すぎて、立つことも四つん這いになることもできない。這ってアトリエの玄関口へと進む。

 ドアが凍り付いてなければいいが。あとは、中の焼失具合で生存の確率が変わってくる。経験したことのない状況だが、確率は五分五分くらいだろうか。

 

 苦痛に顔を歪ませながら苦笑する。

 数分前までは極限の状態で死を選ぼうとしていたのに、なんとも生き汚いものだ。

 

『人間ってのは生への執着が他の種族と桁違いなんだよ。たとえ無意識でもな。ありがたいかもしれないけど、同じくらい厄介なもんだ』

 

 マーチがそんなことをぼやいていたっけ、と思い出す。実際、その通りなのかもしれない。

 彼はそのうち借りを返しに来ると言っていた。それまでに全てを持ち直して体裁を保つことができるだろうか。命さえ繋げば、後遺症が軽ければ、できるかもしれない。

 

 かの龍はどうだろう。

 神域から出たとなれば、事情を知る者たちは大騒ぎだろう。下手に行方を追って刺激するわけにもいかない。慎重な対応を迫られそうだ。

 一息に飛び去ってしまったが、再びここに戻ってくるようなことはあるだろうか。分からない。けれど、今のグレイの最も大きな目標はそこにある。

 

 とうとう、人どころか神域に住まう神まで見送ってしまった。

 それなら、今度は出迎える側になってみたいと思ったのだ。

 

 ──神域とかの龍に関する文献に、龍による災を予言する巫女の話がある。

 それは火山が連なる辺境の奥地で、ひっそりと続けられていた儀式だった。外部から人が出入りするようになる最近まで明らかになっていなかったとか。

 恐らく、自分はその類の一人だったのだろう、とグレイは思っている。

 千里眼の薬を飲み続けてかの龍の気配を探ったのも、神域の麓に居座っているのもそれっぽい。実際のところは分からないが、グレイはその称号を気に入っていた。

 

 そして、それがもし真実だったならば。

 グレイはかつての神に等しかった龍に触れて、そしてその出立を見送ったのだ。

 ならば、かの龍の帰還を出迎える役もこなすのが、巫女としての正しき務めだろう。

 

 神域の見送人は、神域の出迎人へ。

 人の生きることができる限界の領域で、人と、龍を待っている。

 

 あらゆる人から排斥され、あるいは狂信され、滅ぼし合う運命にある黒龍を。

 美しいと謳い、旅立ちを憂いて、その帰還を祈っている。

 

「それ、なら…………死んじゃ……だめ、だよね…………」

 

 生々しい血痕を引き摺らせながら、冷たい炎の跡をグレイは這っていく。

 

 たったひとりの少女の、生き残るための挑戦が始まる。

 

 

 

 

 






これにてお終いとなります。
本作の煌黒龍は(というよりも私の解釈における黒龍たちは)強い(グラン・ミラオス迎撃戦記の宣伝です)ので、出張先で調査に乗り出している方々は撃退が精いっぱいなのではないかなと思います。たぶん。

前々作の後書きで語っていた宿題……二本の短編もこれで提出完了となりました。完全なストックゼロは久しぶりなような気がします。
これから先、本アカウントでの活動は未定となります。長々と引き摺りましたが、ここで区切りです。

本作を手に取ってくださり、ありがとうございました。
評価や感想をいただけると、とても嬉しいです。

それでは、また。どこかで会えることがあれば。

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