ここは神域。とある龍の棲まう地の麓。
かの龍以外の生物が生きていくことのできる、ぎりぎりの境界線に、その家は建っている。
それは、かつて袂を分けた龍という存在へ、人が繋いだ僅かな糸のようなもの。そこから先へと踏み込んでいこうとする人々の、最後の人家。
あるいは、愚かにもその地へと踏み込み、かの龍の洗礼を受けながらも奇跡的に生き残った人が、最初に辿り着く人家。
極地──それは必ずしも北や南の果てを指す言葉ではない──とは、『そこに人が住んでいる』だけで大きな意味を持つのだ。
「ギルドの職員だって!?」
「ええ、一応だけどね。このアトリエも許可を貰っているし、ときどき届く物資はギルドからのものよ」
重度の怪我人からようやく杖なしで歩き回れるようになり、案内してもらった書斎の中で、マーチは悲鳴にも似た声を挙げた。
古い紙の香りに満ちたその空間は音が反響せず、溶け込むように消えていく。
今も昔も変わらず、本というものは贅沢品だ。雑誌ならともかく、しっかりと装丁のなされた本はそれなりに値が張るし、そもそも手に入りにくい。
グレイの書斎は決して広いというわけではないが、壁と化している本棚には本や資料がところ狭しと並べられている。
ここまでの本を揃えるのは、趣味人でもそうそういない。商人気質のマーチにとっては興味深いものだったが、今ばかりはそれどころではなかった。
「ま、まさかとは思うが、急にギルドナイトが訪ねてくるようなことはないよな……?」
「ないわよ。……って断言はできないのだけど、たぶんしばらくは来ないはずよ」
「俺がここから出た途端に捕まるなんてことは……」
「悪いことをしたのだからそうなっても文句は言えないと思うけれど、密告なんてしてないってば。私からあちらに出向くことなんてまずないんだから」
グレイの言い分ももっともではある。マーチは災難に遭ったが、それでも罪を犯した身であることに変わりはない。
それでも、人には心の余裕というものがある。今話している相手がハンターや街の治安を取り締まる組織の一員であると知って、冷静を保てるはずがない。とマーチは言いたかった。
「……分かったよ。これ以上は言わない。でも、どうしてそんな役職を? 繋がりが見えてこないんだが」
彼女は以前、自らが生粋の錬金術師であり、ハンターではないという話をしていた。
ハンターズギルドと繋がりを持つのは、ハンターや商人、あとは加工屋くらいのもの。
グレイの生業から考えられるのは薬師だが、それだけでこの辺境まで訪れる必要があるのだろうか。いや、マーチが錬金術を過小評価している可能性はあるが、それでもだ。
「あなた、特殊調査員とか辺境監視員って知らない?」
「監視員?」
「ええ、古龍の棲家とか過去に大きな災害があった場所の近くで生活して、そこで大きな異変が起こったときに最寄りのギルドにそれを伝える人のことよ」
「へえ、いや、知らないな。世の中にはそんな仕事もあるのか」
「そうなの。それで、私は神域の担当というわけね」
グレイ曰く、他にも霊峰と呼ばれる山の麓や、北の雪山の奥地にも派遣されている者がいるらしい。
どちらも聞き覚えのない地域だ。マーチが世間を知らないだけか、それとも情報に制限がかかっているのか。マーチは少しばかり怖くなった。
「選ばれた理由は、こんな場所で生きていけるのは私くらいのものだから、だって」
「そりゃそうだろよ……」
深く頷かざるを得ない。異常気象が日常的に繰り返されるこの地で、一人で生きていける者はかなり限られてくる。
それを為そうとするのであれば、一日で真夏から真冬へと転じるような寒暖差や数々の自然現象にその都度対応できることが、前提として置かれるからだ。
その点で、万能性のある錬金術は相性が良い。
思えばこのアトリエは、ときどき凍えるほど寒かったり汗をかくほど暑かったりしながらも、なんとか人が生きていけるだけの気温が保たれている。
それこそ、彼女の錬金術によって作られた熱交換器と断熱材の賜物なのだろう。まさにこの防壁の中で、マーチは生かされているのだ。
「じゃあグレイはもともとここの住人じゃなくて、派遣されてきたってことか」
「いいえ? 私はずっとここにいたわ。ごく限られていたけど、人との繋がりもあった。そこに新しく役割を置きに来たのがギルドということね」
マーチの中で納得できる筋道が思い浮かんでそれを口にすると、あっさりと否定されてしまった。
彼女の謎は深まるばかりだ。いっそのこと年齢を聞きたくなってしまうが、先日に軽率な物言いで怒られたばかりなので話題にしづらい。
「……そんな経緯でね。ここにはたくさんの本があるけれど、その中身は錬金術に関するものばかりではないのよ」
そう言って、グレイは立ち上がっていくつかの本を取り出した。
掃除や管理が行き届いていないと彼女は言っていたが、その割に埃を被っておらず、虫食いの被害にもあっていないように見える。比較的最近に本棚に加わったということだ。
「これはこの家に訪れた調査隊の人たちの調査記録。もうひとつはこの辺りに点在する集落の伝承や歴史をまとめた本。言ってしまえば、仕事関係の本ね」
「つまりそれは、神域の」
「ええ。そこに棲んでいると言われる煌黒龍についての資料が、ここに保管されているの」
とは言ってもほんの数冊程度だし、だいたいは都市や街に写本があるはずだけれどね、とグレイは付け加えた。
「どうしてこんな辺境の地にわざわざ保管してるんだ……? そういうのを編纂するのもグレイの仕事なのか」
「いいえ。あくまでも保管するだけね。私はここで生きることが仕事のようなものらしいから。ここに本を置いているのは……たぶん、社会から秘匿するためなのでしょう」
静かにそう言ったグレイの、その言葉の意味をしばらく考えていたマーチは、やがて恐ろしいことに気が付いた。
機密だ。それも最上級の。
街の統治者や王族など、人々の上に立つ者は一般民衆には知られたくない情報も管理する必要がある。
俗世から隔離しつつ資料を残せる場所などそう多くはない。その点で、このアトリエは都合がよかったのかもしれない。
最悪の理由を挙げるとすれば、焚書から逃れるため、ということもあり得る。あまりにも強大な存在に対しては、そういった過激な思想があると噂で聞いたことがあった。
少なくとも、自分が居ていいような場所ではない! マーチは踵を返して逃げ出そうとしたが、その直前にグレイが釘を刺しに来た。
「あなた、あの龍の姿を見たのでしょう。その時点で、逃れることは難しいと思うわ」
ぐっとその場に縫い留められる。
それは意気地だとか誠実性だとかの話ではなく、理屈の話だ。だからこそ説得力がある。
マーチは既に秘密を知ってしまった。見てしまった。グレイのこの書庫を見る限り、下手に話せば社会から消されかねないほどの秘密を。それを望んでもいないのに。
きわめて理不尽で、酷な話だ。けれど、もとより古龍とはそういうものと聞く。その立場になってしまった以上は、諦めるしかないのだろう。
「わかったよ……それで、呼び止めたのなら何の用で?」
しぶしぶとそう答えると、グレイはおもむろに羽ペンと紙を取り出した。
「あなたが見た『黒く煌めく星の龍』について教えてほしいの。要点をメモするから」
「保管するだけが仕事じゃなかったのか?」
「あなたの事例がかなり特殊だからというのもあるけど……主に私の興味かしら。隣人、と言うと凄みがないけれど、傍にいると気になってしまうものよ」
「…………わかった。これも償いと思えば気晴らしになる」
黙考の後にマーチはそう答えた。
以前からそう言われているように、この地から逃げ出すには、ある程度かの龍に向き合う必要がある。
空や大地は繋がっているもので、ここはまだ、かの龍の影響が色濃く表れているからだ。思い出すだけで吐いてしまうほど雁字搦めにされていては、迂闊に外にも出られない。
それに、ほんの僅かな繋がりだったとはいえ、数十人の同乗者の中で唯一生き残ってしまった負い目もある。少しでも情報を残さなければ、その犠牲も浮かばれないだろう。
「……俺が一瞬だけ見たやつの姿は、おとぎ話に出てくる龍そのものだった。リオレウスとかジエン・モーランのスケッチは見たことあるけど、そんなのとはぜんぜん違った」
「四本脚に一対の翼を持っていたんじゃない?」
「そこまでは分からなかったけど……大きな翼を持っていたのは確かだ。空を飛んでいたから」
四本脚に翼となると、つまりそれは昆虫のような六本脚なのではないか。あのリオレウスだって脚は二本だ。
グレイに問うと、古龍種にはそういった身体のつくりをしているものが多いらしいという答えが返ってきた。
マーチが不勉強だったというのもあるが、子どもの頃に読んだ絵物語の龍たちは空想の姿ではなかったようだ。十数年ぶりにこんなことで気付かされるとは。
「この前のあなたの話を聞く限りだと、外観は寒々しかったのではなくて?」
「ああ、その通りだ。辺り一帯は息をするのも億劫なくらいの、真っ赤な溶岩地帯だったのに、あれはまるっきり真逆だった。今でも記憶が狂ったか、幻を見たんじゃないかって思うよ」
「そう……つまりあなたは、かの龍が氷の属性を纏っているときに出遭ってしまったのね」
「氷の属性を、まとう?」
グレイの言葉を反芻する。あまり聞き覚えのない表現だったからだ。
「ええ。言葉通りの意味ね。かの龍は、たくさんの属性を混ぜ合わせて内包していて、その時々によって表出させるものが違うの。ちょうどあなたのときには氷属性だったということね」
グレイはできるだけ分かりやすいように噛み砕いて話したつもりなのだろう。
しかし、マーチははあ、と気の抜けた返事を返すしかない。ぱっと呑み込むのが難しい内容だ。
マーチも流石に属性の概念くらいは分かる。
扱ってきた商品で例えるなら、燃石炭は火属性だ。氷結晶は氷属性だし、雷光虫は雷属性だろう。ルドロスの水袋などは水属性と言っていいかもしれない。
そして、それら属性は固有に持ち得るもののはずだ。水の温度が下がって氷になったり、雷に打たれて出火したりといった関連性はあるかもしれないが、ものに宿る属性はひとつ、というのが常識だった。
グレイが纏うと表現したように、自身の属性をいくつも入れ替えていくようなことが生き物にできるのだろうか。
あるいはそれは、ハンターと呼ばれる人々が武器や防具を付け替えるように。
錬金術師であるグレイが、ひとつの窯からあらゆるものを創り出してみせるように。
「そも、凡人があんな存在を推し量ろうとするのが野暮な話か……」
「賢明な判断ね。その謎が解明されていたなら、私にこんな役を与える必要なんてなかったでしょうから」
グレイは先ほど取り出した本のページをめくり、そこからある図説のようなものを探し出してマーチに見せてきた。
そこに描かれていたのは、半人半龍のような出で立ちの壁画の模写であったり、空に輝く星を表したような標だったりする。
「かなり古い資料だけれど、これだけ抽象的ならあなたも下手に刺激を受けないでしょう。それ、全部がひとつの龍のことを指していると書き手は考えたみたいね」
「全部がか? 五匹の竜の話は読んだことあるけど、あれみたいに別々の竜が書かれてるように見えるけどな」
しかし、書き手はその手の専門家なはずだ。それにケチをつけるのは身の程知らずだろう。
それらが全てかの煌黒龍のことを表しているのだとすれば、それは身に纏う属性によって、見る人の受ける印象が大きく変わってくることを指しているのかもしれない。
「宵の恒星に明けの死星、宵闇の煌黒星……それで例えるなら、俺は死星に遭ったのかな」
「昔の人もあなたと同じで、そこに何体も龍がいると思ったから、別々に書いたのでしょうね。私だって、間近で見たらまともな判断なんてできなくなるでしょうから」
実際、マーチはここで教えられなければ、氷雪を司るものとしてかの龍を認識していただろう。この身でその説を実証していることになる。
「そう考えると、今はほんの少しでも解明が進んでいるのかもしれないな」
「そうとも言えるし、そうでもないと言えるわね。あくまで分かっているのは、そこにいるのがひとつの存在だったこと、それだけよ。それを大きな進捗と捉えるかどうかは読み手次第ね」
グレイはそう言うと、本棚にその本を戻した。
ただでさえこの辺りは厳しい環境だ。わざわざそんな場所に住むのはグレイくらいで、伝承など皆無に等しかっただろう。
そう考えると、あの編纂書は値段がつけられないくらい貴重なものなのかもしれない。
「そこまでしてここに用があるのか、人は。火山は鉱物資源が豊かなのは知ってるが、それ以外に何かあるのか?」
「あなた、お気楽と言うか、根っからの商人気質ね……。そうね、恐れているからだ、と前に来た調査隊の人は言っていたわ」
……それはまた、ハンターに負けず劣らずの胆力だなとマーチは思った。
未知の存在への恐怖は、知ることによって受け止められるようになる。それは日常的にも言えることで、商人のマーチも意識していたことだ。
ただ、流石にここまでの存在を相手にそれをしようとは思えない。背を向けて、見なかった振りをするのが精いっぱいだ。
もしマーチが調査隊に誘われたとしても、絶対に参加しようとは思わないだろう。二度目は冷静に見れるどころか、泡を吹いて倒れてしまいそうな気がする。
「それで、その調査隊とやらの編纂書も残っていたりするのか。見ようとは思わないけどさ」
「ないわよ。彼ら、皆戻ってこなかったから」
「…………」
「日常茶飯事、ではないけれど。このアトリエに寄り道するか否かはともかくとして、自分の意志で神域に踏み込んでいく者はそれなりにいるわ。けど、そこからちゃんと生きて戻ってこれた人はほとんどいないの」
ハンターが出向くこともあった、と彼女は語った。
ハンターズギルドから正式な依頼を受けて、希少な素材で作られた装備を担いで、街でも一位二位を争うような実力派のハンターたちが神域へと向かっていったのだと。
彼らに驕りはなかった。伝説に近しい存在を自分なりに認識し、僅かな情報からできるだけの対策を立てて狩りに臨んだのだ。
「それでも、彼らは戻ってこなかったわ。何か変わったことと言えば、その日の天気がいつもより少し荒れたくらい。かの龍からしてみれば、いい迷惑程度のものだったのかもしれないわね」
……改めて、よく生きて帰ってこれたものだとマーチは思った。本当に、次元の違う存在だ。
今となっては見逃されたというよりも、眼中になかったというのが正しいのかもしれないが。もし注目が向いていたならば、この命はあまりにも容易く奪われていただろう。
その強さだけでなく、力の及ぶ範囲も常軌を逸している。
気象というのはもっと大きな、それこそ気流とか太陽とか海とか、そんな規模の出来事だと思っていた。その現象に生き物が収まるとは、一般人のマーチには到底納得できなかったのだ。
だが、それは違った。古龍という存在はその理を逆転させる。
常に天災に見舞われる神域に棲んでいるから、かの龍は恐ろしい姿になったのではない。
かの龍がこの地を棲家として選んだ結果が、この神域の空と、大地なのだ。
「少し顔色が悪いわね。ごめんなさい。深入りはさせないって言ったのに、詮索が過ぎてしまったわ」
「まあ、いいよ。本当に口を割れない情報だってことが心の底から分かったから」
少し申し訳なさそうな表情をするグレイに対し、マーチは笑みを浮かべてそう答えた。
その笑みはかなり引きつっていたような気がしたが、仕方がないだろう。
黒龍。人の社会、歴史における禁忌であり、資料を遺すどころか、その名を呼ぶことすらはばかられる古龍。
世界に数体といないだろうそんな存在と出遭って、生還した。
そこに意味を、なにかの価値を見出さなければならないような気がして、マーチは深く息を吐いた。