長らく商人をやっていて、忘れがちになっていたことがひとつある。
いや、その原因の多くはマーチ自身にある。商人全てが必ずしもそうであるとは言えないし、頷く人よりも首を傾げる人の方が多いかもしれない。
ただ、村や都市同士の移動手段がある程度確立され、街に引きこもっていても商売が成り立つようになってきたこの時代に、まさに典型的な若手商人として生きてきたマーチは思うのだ。
あるいはそれは、シュレイド周辺に生きる人々も同じなのかもしれないが。
この大地にはまだまだ、本当にたくさんの、人の手には届きそうにない領域があって、そこに生きる竜、あるいは龍がいて。
そういった場所に、人の生活圏の最前線で、暮らしを営む人もいるのだということを。
街に生きて、大量の商品を捌いていく商人にはまったく旨味のない、この辺境の地に。それでも人は生きているのだということを。
ざくっ、という小気味よい音と共に鋤が土を抉る。などと、働き者の農夫を外から見てきただけの者が抱く幻想にすぎない。
かつっ、という耳障りな音と共に、何度目かも分からない石に鋤の進入を阻まれ、マーチはやれやれと空を仰いだ。
今日も曇天は相変わらずだ。少し前まで、どこからか来たのかも分からない砂嵐に見舞われて外に出れたものではなかったが、今は小康状態になっている。
マーチは相変わらずグレイのアトリエに居候していた。体調も精神状態も外に出ることができるくらいまで回復し、今は畑仕事を手伝わされている。
リハビリという名目をいいことに、グレイは雑事をマーチに任せ、普段はできない仕事や作業に勤しんでいるようだった。
それは別に構わないが、彼女はけっこう、人使いが荒い。いや、加減が分かっていないと言うべきなのだろう。人に触れた機会が少ないから、どうしても自分基準になってしまうのだ。
家事全般も含め、一通りの仕事をマーチがそつなくこなせてしまっているのも大きいかもしれない。
見習いの時代、上司にどやされながらひたすらに雑用をこなしていたあの日々が、こんなかたちで役に立つとは思わなかった。
喉が渇く。風が乾いているからだろう。昨日は大雨が降っていたが、疑問を抱いても仕方がない。今日はそういう日ということだ。
そして、そんなでたらめな環境下にあっても、マーチの足元のドテカボチャは逞しく蔓を伸ばし、大きな実を育てさせる。鋤をも阻む、固く石だらけの地面に難儀しながらも、まだまだと生きている。
額の汗をぬぐい、周囲を見渡す。アトリエの周辺には、太い幹の木々が所狭しと群がっている。
流石に葉の数は少ないが、それでも生きてはいるようだ。幹同士の感覚は狭く、その間に生える若木や蔦、雑草が組み合わさって、人ひとりも滑り込めないほどの天然の壁ができあがっている。
それらは小型肉食竜の進入を防ぎ、さらに防風林の役割を果たす。かなり奥行きもあるこの森が、平地に建つこのアトリエを多様な天候から守っている。
さらに森を抜けた先には、龍殺しの実を群生させているのだとグレイは言っていた。木々の壁の内側、マーチが今見える側にもちらほらと生えているのが分かる。
龍殺しの実はその名の通り、龍が忌み嫌うとされている実だ。リオレウスをはじめとする大型の竜種の多くも苦手とすると言われている。
ほとんど市場に出回ることはなく、実際に生えているのを見るのはマーチにとって初めてのことだった。
それが群生しているというのだから、竜除けとしては十分に効果を発揮するだろう。この地の特殊さと、グレイの努力が伺える。
マーチの商人気質が頭をもたげてくるが、それを口にするのはあまりにも野暮というものだ。
こんな天気が続けば、植物など一本も生えない不毛の地となっていても何ら違和感はない。
それでも、種は偏っているとはいえここまでの緑が育つのは、この地に龍脈と呼ばれるものが通っているからだとグレイは言っていた。
龍脈。竜人族のやり取りを盗み聞いていたときにちらほらと聞いたことがあるような気がする。
それは主に地下深くに流れ、その地の生態系に大きな影響を及ぼす。溶岩とは似て非なるもの。当時のマーチは見当もつかなかったが、実際、ほとんど研究も進んでいないらしい。
今はどうだろうか。マーチは凡人で、商機以外の勘はほとんど持ち合わせていない。
それでも、このように結果として出来上がった光景を見れば、どことなく感じ入るものがある。
長らく家に引きこもって衰えた体を気合で動かし、数列の畝を作り上げた。そこにドテカボチャの種を丁寧に埋めていく。
仕上げに井戸から水を汲んできて、畝が崩れない程度に少しずつ水をやれば作業は一通り完了だ。今後大雨にでもならない限り、いくつかは芽を出してくれるだろう。
ドテカボチャは味こそ淡白だが栄養はしっかりある。森の中で僅かに育つ薬草と組み合わせれば、二人でもなんとか食い繋ぐことができる。
「ふぅ……」
水やりまでを終えて、マーチは一息つき、再び空を見やった。
当然のように太陽は見えず、そこから時間帯を読み取ることはできないが、マーチにとってはそれでも意味がある。
もう、この苦しい動悸とも付き合えるようになってきた。
あの恐怖を薄れさせることはできないだろう。今後も度々、あるいは毎日悪夢となって蘇り、精神を蝕むのだろう。それはもはや宿命づけられてしまった。
夜中に目を覚ましては戦慄いて叫び、そのたびにグレイにネムリ草で調合された鎮静剤を飲まされて泥のようにまた眠った。
そんな日々を、自らを、どうにかこうにかマーチは咀嚼しつつある。狂い果てることなく、無様な醜態を晒してでも、必死に落とし込もうとしている。
正しく恐れることが大切なの、とグレイは言っていた。
英雄のように、真正面からかの龍に向き合えというのは無理な話だ。正しく恐れると言っても、そもそもこの世の理の埒外にあるようなあの天災を、どう認識すればいいかも分からない。
ただそれでも、極度の恐れを抱く自分を客観的に見つめる努力をすることはできる。
正直に言ってかなりしんどい。もともと恐怖に支配されているときの人の思考はかなり狭くなっている。それをこじ開け、俯瞰し、飲み込むにはある種の訓練が必要だった。
ただ、それに才能は関係ない。
狂気は強制ではなく選択であり、少なくともマーチのような、直接的に致命傷を負わされたわけでもない、ただ恐怖を刻み付けられただけの程度なら、抗えずとも共に立てる。
かの龍を知るグレイと共に過ごし、かの龍についてグレイから学び、かの龍の領域でグレイが生きる姿を観た。
マーチが見たアレは、決してヒトとは分かり合えない存在だった。きっといつかぶつかり合う日が来る、大厄災が生物のかたちに収まっているような存在だった。
ただ、その延々と続く災厄の、その片隅で。
グレイという、自然に溶け込む竜人族ですらない、ただの人が。
錬金術という彼女にしか使えない業を使ってでも、生きている。滔々と生きている。
だからたぶん、マーチもきっと、生きて帰れる。
そんなどこにも根拠のない、むしろ物語的にはすぐに死にそうな予感を携えて、マーチはとうとうこの空を見上げられるようになった。
ここに来た当初は視界に映るだけで吐いていた状態から、見ていたら気分が悪くなる、くらいまで持ってこれたのだ。
「マーチ、そろそろ休憩したら……あら、もう終わらせてしまったのね。ありがとう」
「ああ。疲れたけど、思ったより早く体力が戻ってきてる気がする。フロギィの肉も無下にはできないな」
「いい感じに前向きな言葉が出てくるようになったじゃない。じゃあ、このあと休憩が終わったら薪割りを頼めるかしら。備えを増やしておきたいのよね」
「……まじか。動けると分かった途端に容赦がないな……」
何気なく加えられた仕事にマーチは声の調子を落とすが、当のグレイはにこにこしている。
彼女は人使いが荒いとは言ったが、決して無理はさせない。むしろ顔色や具合を見る目は一般人のそれを優に上回っていて、隠していてもすぐに気付いてベッドにたたきこまれる。
そんな彼女が追加で仕事を頼んだということは、つまりはそういうことなのだ。マーチは明日の筋肉痛を覚悟しつつ、ドテカボチャの蔓を避けながらグレイの元へと歩いた。
「なあ、グレイ」
「どうしたの?」
「俺、もうしばらくしたらここから出るよ」
「そう。分かったわ」
何気なく切り出して、あっさりと返された。
別にそれに驚きはしない。マーチはその反応を何となく予期していた。
マーチのことをどうでもいいと考えているわけではない、と思う。ただ、マーチがいずれここを去る身であることを前提に振舞ってきて、マーチが当たり前のことを言った。たぶん、そんな感じだ。
急かすまでもなく、引き留めるようなこともなく、マーチの成り行きをただ自然に見守っている。
紆余曲折はあったが、それに救われたところは大きいのだろうな、と。マーチは他人事のように考えていた。
以下、小説に組み込み忘れていた幕間です。
「おぉ……」
アトリエの地下、氷室へ続く階段とは別の入り口から下っていったその先には、思わず感嘆の声が漏れ出るほどの幻想的な光景が広がっていた。
その広さは安宿の二人部屋ほど、と例えられるだろうか。天井だけが低いが、立って歩けるだけの高さはあるので問題にはならない。
ヒカリゴケという苔が壁面や天井のところどころに群がり、ぼんやりとした光源となっている。要所に設置されたライトクリスタルがその光を反射させ、その空間は月明りの中にいるような明るさを保っていた。
壁面は固い岩盤だが、棚状になっている部分には枠が設置され、木が組まれたり腐葉土が敷き詰められたりいる。
水が流れていく音もした。どこからか地下水を引いているのかもしれない。
「うわっ!?」
壁に手をついて歩いていると、べたべたとした粘着質なものに触れて慌てて手を引いた。
この感触は覚えがある。よく見れば、指先ほどの大きさの蟻が近くで列をなしていた。
「踏んづけたりしないように気を付けて。彼らもちゃんとした住人だから」
マーチに先導して、ランタンを持って歩くグレイにたしなめられる。マーチは素直に頷いておいた。
彼らはセッチャクロアリと呼ばれる虫だ。彼らの生成物、あるいは彼ら自身にも、優秀な接着剤としての価値があることはマーチも知っている。
セッチャクロアリの他にも、ミミズも暮らしているようだった。枯葉や虫の死骸をせっせと肥料に変えてくれる。龍脈に拠らない土づくりだ。
組まれた木には立派なキノコが育っている。傘の色は主に青色、アオキノコだ。その他に赤の斑であったり深緑だったりするものも垣間見える。
遠くに隔離されて育てられているのはマンドラゴラだろう。マーチはあまり扱いたがらなかった品物だが、薬屋やハンターには需要がある。グレイも使っているはずだ。
ここにもセッチャクロアリがいて、キノコは虫食い状態になっていた。しかし、グレイは特に気に留める様子もなく、その中からいくつかを摘み取っていく。
他にも、落陽草が儚げな花を咲かせていたり、天然の水槽に水草が敷かれ、デメキンらしき魚が泳いでいたり。
一度通っただけでは網羅しきれないほどの生き物たちがそこにいた。
「採取で賄いきれないものは、ここで育ててみるの。日光がいらない子たちに限定されちゃうけど……キノコはなかなかうまくいっているのよ」
「いや、十分にすごいと思うぞ」
マーチは素直な感想を言うことしかできなかった。
まるで、一つの生態系のようだ──地下菜園やキノコ蔵はマーチも見て回った記憶があるが、ここまで密度が高く、種類が多岐に渡るものは見たことがない。
今後見ることもないだろう。これはきっと、目の前にいる彼女だからこそ創ることのできた場所なのだ。
しみじみと呟いたところで、ふと、マーチの頭に浮かんできたものがあった。
「……なあグレイ。こんなことを言うとまた怒られそうではあるんだが」
「どうしたの?」
「ここってさ、対費用効果はあるのか?」
「難しい言葉を使うわね……具体的に教えてくれないかしら」
「ええとな……この環境を作ったり、維持していくのってかなり大変な気がするんだが、それに見合った対価はあるのか? ここの生産物たちに」
そう尋ねるとグレイはきょとんとした顔をして、それからしばらく考えた後にゆっくりと答えた。
「そのものさしだと、見合わないかもしれないわね。たしかに、ここの管理はけっこう時間がかかるから」
「……対費用効果で測れない価値がここにあるってことか」
「あら。今度は自分でちゃんと答えを出せたじゃない」
マーチの呟きに、グレイはくすりと笑って返した。
対費用効果をある程度考えなくてもよいもの。マーチが知る中では道楽がいい例だ。
けれど、ここは決して道楽で創り上げられるものではないだろう。いや、本気で打ち込めば為せることなのかもしれないが、グレイはあくまでも生活の基盤として、この小さな楽園のような空間を保持させている。
グレイの言うものさしという表現を用いるならば、人のものさしに引っかからない存在はもうひとつ。
竜人族。人とは比べ物にならないほど長い時を生きる人々だ。
「…………」
「何? 私の顔に何かついてるの?」
「いや、耳が長くなくて、五本指の竜人族っているのかなと思って」
「いきなりどうしたの……?」
訝しむグレイになんでもないと手を振ってみせる。邪推するだけ野暮というものだろう。
少しだけ手作業をすると言って、手袋をはめて土いじりを始めたグレイを背に、マーチはぼんやりと辺りを見渡す。湿った土とカビの匂いが鼻をくすぐった。
人が長く居座れる場所ではないだろう。
けれどここでは、アトリエの中にいても聞こえてきた外の悪天候の音は届かない。とても静かで、不思議な場所だ。
案外、それだけで理由たり得るのかもしれない。なんとなく、そんな気がした。