────これは悪い夢だ。と思った。
あるいは、悪事を働いた自分たちへの裁きなのか、とも。
全身が強い浮遊感に包まれる。それと同時に、凍えてしまうような寒さを感じる。
寒風が吹き荒れる空の中、その青年は大勢の人々を乗せた飛空船の上にいた。
その飛空船は完全に浮力を失っていた。燃焼器の炎は掻き消えて、気球の球皮は冷気に包まれて萎んでしまっていた。
さっきまでは、空の上を飛んでいてもむせ返るほどの熱さに苛まれていたはずなのだ。
厚い雲に覆われる前に見えた地表は火山地帯だったから納得はできたし、それだけなら耐えられた。
それが今はどうだ。まるで、吹雪の中に飛び込んだかのよう。緯度も高度もそこまで高くはなかったはず。それなのに、どうしてこうも急に気温が下がる。
船の上に地面と平行な場所などもうなかった。濃密な雲の中で、暴風に弄ばれ、上下左右に揺さぶられて。耐えられなくなった人々が悲鳴を上げながら転がり落ちていく。
死にたくない。柱にしがみ付いていた青年は痛切にそう思った。こんな状況で落下傘もなしに空中へ放り出されれば、間違いなく死んでしまう。
と、そこで、雲の中を這い回っていた雷がとうとう船へ直撃した。鼓膜が破れるかというほどの轟音と共に、船の横腹が稲妻に食い千切られる。
船内に逃げ込んでいた人々が零れ落ちていく。この揺れで壁や机にぶつかって、既に血塗れになっている者がほとんどだった。
みんな死ぬ。この期に及んで空中分解など助かりようがない。
現実を見たくなくて、青年はぎゅっと目を瞑った。それでも、ばしばしと肌を打つ雹がその絶望的な落下速度を伝えてくる。
どうして、どうしてこんなことに。遅すぎる後悔が思考を支配する。
やはり、あのとき船を降りるべきだったのだ。そうしたら青年の首は物理的に飛んでいたかもしれないが、こんな恐怖を味わうよりはまだよかった。
そう、あのとき。飛空船はおろか、陸路でも進入が禁止されているこの領域を飛んでいくと船長が決めたときに、逃げ出しておくべきだった────。
ふっと冷気が途切れた。雲を抜けたのか。
途端に身を焦がすほどの熱波に晒される。それと共に、オォ、と巨大な洞が共鳴しているかのような音が聞こえて、青年は僅かに目を開けた。
滲む視界の中で映ったそれは、蒼銀。そして黒。
雲は赤く染まり、その赤色は空の彼方から地表まで続き、煮えたぎる溶岩が大河のように流れていく。
この世の終わりのような光景の中で、頭上の雲とその黒いナニカだけが別世界のように凍てついていた。
重厚な景色の中にただ一点在る。
それだけなのに、周囲のもの全てを凌駕する存在感を放っている。
底なしの重力を持つようなそれが、大翼を広げて空を舞っている。
天を貫くその角が、ゆっくりとこちらへと差し向けられたような気がして。
瞬間、強烈な衝撃と閃光を受けて、青年の意識はそこで刈り取られた。
ふつ、と意識が微睡みへと移り変わったとき、最初に感じたのは柔らかな布の感触だった。
これはベッドか。随分と寝心地がいい。目を開けるのが億劫になる。
やがて、自分がぐっしょりと冷汗をかいていることに気付いた。暑かったわけではない。何か悪い夢でも見ていたかのよう。
そう……あれは夢だったのだ。
まったく、悪夢にしてもたちが悪すぎる。あのような度を越えた恐怖を、どうして夢などで刻み付けなければならないのか────。
「あら、起きた? そんな感じの声が聞こえたけど」
聞き覚えのない女性の声。青年は思わずぱっと目を開いた。
最初に目に飛び込んできたのは、太い木が柱となって嵌め込まれた天井と壁。独特な装飾が施されている。その何れもが、見慣れないものだった。
そして、声をかけてきた当の女性は。
「……魔女……?」
「一言目がそれ? そんなに変な見た目かしら」
思わず口に出してしまった。彼女の着ている服は、青年にとってあまりに奇抜だった。
全体を通して縦の縞模様。どこかで見た道化師の衣装を彷彿とさせる服の構造。色合いは紫基調に統一されていて、怪しげな雰囲気を醸し出している。
フードは脱いでいて、そこからは深紫の髪が伸びていた。耳は尖っていない。であれば、こんな出で立ちでありながら竜人族でなく人間なのか。
女性は少しばかり戸惑った様子で服の裾を引っ張る。
「これでも一応正装なの。マカルパって名前がちゃんとあるのよ」
「な、何のつもりで俺を……?」
「もう、警戒しすぎよ。そんなこと言ってたら食事を抜いちゃうんだから」
食事。それを聞いてようやく、青年は自分が飢えていることに気付いた。
香ばしい肉の匂いが漂ってきて鼻をくすぐる。我を忘れて身を起こそうとして、その瞬間に襲ってきた腹部の猛烈な痛みに呻いた。
「いっ、づ……」
「急に動いたらだめ! まだ傷が塞がりきってないんだから!」
慌てて駆け寄ってきた女性が掛布団を取り上げる。青年の腹には幾重にも包帯が巻かれていた。そこから血が滲んでいないか確かめようとしている。
しかし、青年はそれどころではなかった。痛みによって眠気が一気に吹き飛び、思考が現実を直視する。
この傷が否応なく伝えてくる。あの地獄のような光景は、決して夢ではなかった。あまりの恐怖に、認識を歪めてしまっていた。
自分は命を拾ったのか。他の人々は……想像したくもない。
強烈な不安に駆られる。肚の底の恐れが消えない。今もまだあの存在に見られているような気がして、青年は縋るように硝子張りの窓から外を見た。
その空は、夕焼けとは程遠く。昏い、赤色をしていた。
「────う、ぇ」
「えっまさか吐きそう? 吐きそうなの? ちょっと待って……!」
腹が疼く痛みよりも、吐き気の方が勝った。
女性が桶代わりの小タルを差し出すよりも前に、青年は目の前で喉からせり上がってきたものをぶちまけた。
空っぽの胃からは、強い酸味のある液体しか出てこなかった。
「……すまん。迷惑をかけた……」
「過ぎたことは仕方ないわ。落ち着いたのならよしとしましょう」
交換された敷布団、巻きなおされた包帯。吐瀉物で汚れてしまった物の後片付けが一通り終わったころに、青年はぼそりとそう呟いた。
今、青年はようやく食事にありつくことができていた。思った以上に衰弱していて、十分に咀嚼もできない。彼女はそれを悟っていたらしく、食材は全て柔らかく煮込まれていた。
お世辞にも美味しいとは言えない。だが、今のような空きっ腹では何を食べても涙が出るほどにありがたい。
「俺はどれくらい眠っていたんだ?」
「二日程度よ。死の間際から戻ってきた時間としては悪くないんじゃないかしら」
異国の魔女のような服を身に着けた彼女の名は、グレイというらしい。
彼女曰く、青年を見つけたのは近くの森の中でのことだった。河原でフロギィと呼ばれる走竜に喰いつかれているところを偶然見つけたのだとか。
もう一分見つかるのが遅かったら、内臓まで引きずり出されて死んでいた。そう考えるとぞっとするものがある。
「その、ありがとう。本当に助かった……」
「いいのよ。助けたのは私の勝手だから」
礼はそっけなく返された。照れ隠しと言うよりも、お礼を言われる筋合いを感じていない。そんな雰囲気だ。
「それよりも、あなたの名前を教えてほしいのだけど。私も名乗ったのだし。あと、どうしてあんなところに倒れていたのかも、ね?」
意味深な笑みを浮かべられる。あれは、青年の境遇についてある程度察している顔だ。
思わず目を逸らすが、それでも言わなければならないのだろう。青年は自らの命が彼女に握られていることに気が付かないほど愚かではなかったし、命の恩人に対して横暴をはたらくほど落ちぶれてもいなかった。
「俺の名はマーチ。しがない商人だ……元、だけど」
「マーチ、悪くない名ね。それで?」
「数日前、俺はある儲け話に乗っかって飛空船に乗り込んだ。……ギルドや役人に嗅ぎ付けられたくない品物だったから、正規の船着き場を使わずに、街から離れた村から出発したんだ」
「ふうん。密輸ってやつね」
「そうさ。だから、空の上でも他の船に見つかるわけにはいかなかった。それで、船長があそこなら誰も近寄らないから、って……」
「……神域を、通ろうとした、と」
彼女が呟いたその地名に、マーチはぞわりと肌が泡立つのを感じた。
「ほ、ほんの少し掠める程度だって船長は言っていたんだ。それくらいなら誰でもやってるって。でも、その空域に入ってしばらくしたら急にでたらめな風が吹き始めて……」
言い訳をしているかのように言い募る。
それが彼女に向けてのものだったのか、自分が内心で恐れている何かに向けてのものだったのかは、分からなかった。
飛空船が墜ちるまでの数時間。
まるで、姿かたちのない巨大な生き物に、呑み込まれてしまったかのようだった。
舵は効かなくなり、高空に逃げようとしても、何かに抑えつけられているかのように阻まれる。どう足搔いても抜け出すことができない。
乗員の怒号と悲鳴を添えて、飛空船はゆっくりと、しかし着実に、あの冷たい嵐雲の中へと引きずり込まれていった。
「お決まりの展開ね。あなたが聞いたようにやり過ごせたり見逃されたりした船もあったでしょうけど、それはただ運が良かっただけなのよ。ただの天気が悪くなりやすい場所とでも思われているのかしら」
グレイはそう言って嘆息する。マーチたちが遭遇した災難についてよく知っているような口ぶりだ。
風変わりなその姿や、家の外の様子を見るに、本当に何かを知っているのかもしれない。ただ、それを尋ねるよりも前に、グレイは声のトーンを一段階落して言葉を重ねた。
「それで、あなたたちは何を運んでいたの? 奴隷? それとも貴族の愛玩用の飛竜の卵かしら。もう積み荷は回収できないし、生き残りはあなただけでしょう。言ってみなさい」
返答次第では今後の対応を変える。そんな目つきだった。
今の口ぶりから察するに、彼女は本当に積み荷の中身を知らないようだ。かまをかけている様子もない。
であれば、どう答えようとその真偽を確かめる術はないことになる。強いて言えば、グレイがマーチの嘘を見抜ける可能性がある程度か。
そこまで考えて、マーチはため息をついて首を振った。
グレイが訝しむが、マーチは自分の小物ぶりに嫌気がさしただけだ。グレイが挙げたようなものを運んでいたなら──実際にそういう者たちはいるらしいが──まだ凄みを持てたかもしれない。
「……香辛料だ」
「……本当に?」
「税金を取られたくなかったんだ。下手な宝石や金属よりも管理が行き届いてる分、密輸に成功すればまとまった金になる」
「それだけのために神域を飛んだというの?」
「扱う商品が何であれ、密輸は重罪さ。もしばれたら、都市によっては即刻牢獄行きか強制労働だ」
ある商談で騙されて手持ちの金を奪われてしまい、途方に暮れていたところを拾われた。いや、そういう者を狙っていたと言うべきなのだろう。
金に困った者の行きつく先としてハンターという職業があるが、あれはほぼ自殺と同義だ。そうやって命を落としていった同業者の話は飽きるほどに聞いている。
そのような道を選ぶくらいなら。マーチは彼らの手を取り、共に市場で香辛料を買い占めた。
「もしそれが本当なら……ふふ。やることは姑息なのに、神域を通ろうだなんて大きく出たものね」
「どうとでも言えばいいさ。あのときは他に生き残る方法なんて考えられなかったし、今、こうして生き残ったところで……」
皮肉に言い返す気力もない。警戒を解いてくすくすと笑うグレイとは対照的に、マーチは意気消沈していた。
詐欺は騙される方も悪い。この業界では分かりきっていたことだ。この件で自分の商いの腕にも自信が持てなくなってしまった。
挙句にこの様だ。運命というものがあるなら呪ってやりたかった。今やマーチは、生き残れたことを不幸中の幸いとすら思えなかった。
「あら、思ったより参っているようね。慰めるつもりはないけれど、卑屈になられるのはさらに願い下げだわ。あの天災に相見えながら五体満足なんて奇跡のようなものなんだから、ちゃんと元気になってもらうわよ」
「……おまえは、アレのことを知ってるのか?」
「ええ。あなたも、窓の外を見ただけで吐いちゃったくらいだし、忘れることはできなかったみたいね」
それで、知りたいの? と、マーチの意志を確かめるようにグレイは問うた。人という種にとって忌まわしき名であろうことは、それだけで分かった。
マーチは自分にも分かる小心者だ。自分の記憶からあの姿を消し去ってしまえればどんなにいいか。
けれど、時すでに遅く、あれは一度見れば二度と忘れられないのだと直感が告げている。だからこそ、あれを得体のしれないものとして放置したくはなかった。
頷いてみせると、彼女は笑みを深めた。
「正式名は禁句だから気を付けてね。二つ名は『黒く煌めく星の龍』。黒龍の名を冠する、神域に棲まう古龍よ」
こんばんは。お久しぶりです。初めましての方は初めまして。Senritsuです。
四万字程度の短編ですが、一話にまとめるとさすがに長いので何話かに区切っています。今日から毎日投稿していく予定です。
白熱したバトル!って感じではないです。むしろ淡々としています。そういうのを望んでいない方には申し訳ないです。
それでもいいよという読者さんは、どうぞよろしくお願いします。