終わりゆく日々と、終わらない世界への七日間 作:Senritsu
人は歩いているとき、どのようなことを考えているのだろう。
いつも通りの道を歩きながら、そんなことを思った。
私にはとても思いつかないような、ふつうの人らしい思考があるのだろうと、勝手にそう解釈している。
あるいは、何も考えていないのかも。仕事とか、人付き合いとか、本来頭を使うべき場所は他にいくらでもある。歩くなんて行為に余裕を割けない、という意見もまた、正しい。
そもそも、歩かないという選択肢が一番なのだろうと思う。という話は以前にもしただろうか。
そんな非効率的なことに時間を使うよりも、自転車の方が気持ちよく走れるし、自動車を使った方が楽だし、そういう選択をあえてしないで歩く意味が分からない、と。
そういうことも人それぞれ、で許してもらえるのが今の時代のいいところなのかもしれないけど。それと同じくらい、ふつうから外れることの代償は大きい。
代償、なのだろうか、これは。私がそう見なしてしまっているだけかもしれないけど。しっかりと自分を持っている人なら、むしろ個性としてしまえるのかもしれない。
けれど、私にとっては。
人と違うくせに集団に甘えたい私にとっては、ただの欠点でしかなかった。
さて、歩行中の人が考えることについて。私は、どんな風に景色を見ているのか。
本来割くべきではないところに割かれた、無価値で、そのうち忘れてしまう程度に刹那的で、本当に何の役にも立たない思考を、言葉にしてみようと思った。
木々や草花の緑にも、数えきれないくらいの色合いがあることによく驚かされる。
普段は引きこもっていたり、昼間の明るい街並みが怖くて夜にしか出回らなかったりするから、毎回新鮮に感じてしまうのだろう。
特に夜や夕方の違いには驚く。日の光にはほぼ全ての光の波が含まれている、ということにも納得してしまう。
街灯や月光に照らされた、明度の低い植物というのも良い雰囲気を持つけれど、日光に照らされた、その鮮やかさにははっとさせられるものがある。
街路樹の枝に生えた葉の緑と、誰かの家の庭に生えた草花の緑というのは、似た色と言い表すことすら戸惑われるくらいに違うのだ。遠くの山々の緑と、すぐ傍の畑の緑も、同様に。
自然の中に溢れる色合いというものは、ひどく眩しい。
視覚があって色も識別できるということは、とても贅沢なもののように思えた。
……そんな思いには、常にうしろめたさも寄り添っている。
その感性は世間の役に立たないということと、その感性を役立たせるにはもっとその道を究めなければいけなかったということ。その二つだ。
世間や社会の役に立つか否かでずっと物事を判断してきた気がするけれど、果たしてその見方は正常なのだろうかとふと思った。
人は、信じたいものを信じると聞いたことがある。私の感性もそれに則ったものなのかもしれない。
ただ、それでも当たり前のように頷けてしまう。ある種の思考停止に近いものだ。
穀潰しや人罪。役に立たない人の存在そのものを否定する言葉はいくつもあるし、頻繁に見聞きするものでもある。
生きていさえすれば、という概念は限定的なものだ。生きているだけで降り積もる迷惑が、それ以上の貢献によって許されている人でなければ、それを肯定するのは難しい。
逆に言えば、そうでない限りは自己犠牲以外の何をしても許されない。怠惰で甘えで、生産性のないものは、何一つ。
とても厳しいようだけど、これは見方ひとつで簡単に突破できる枷だ。突破できていない人が周りに見当たらないくらいに。
つまるところ、その行動や思考によって自分が助けられていればいいのだ。それを認めてやれば十分だ。
自分で自分の在り方に責任を持つこと。自分が自分の役に立っていると言えるようになること。
それすらできていない私は、あのような淡い思考さえ、沈んだ気持ちが付きまとう。
何かの役に立つか、立たないかという視点はとても主観的で、地獄しか生まないと思う。
理屈ではそれを分かった気になった上で、あえてその視点に立ち続け、そのごみのように浅い好奇心が許されることは何かを考えた答えが、その道を究めることだった。
今更、だけれど。それこそ、自然に携わることのできる仕事や道はいくらでもあったはずなのに、私は私のことがよく分からなくて。いや、包み隠さずに言えば、その先にある新しい痛みと苦しみが怖くて、一歩を踏み出すことすらしなかった。
役に立たないものは罪で、そう在り続けたいならどうにかして役立たせなければならなかった感性を、ただ色だけについて語るだけのごみにしてしまった。
色とりどりの緑すら、私は素直に見つめることができない。美しさを感じることにすら許可が必要だ。そして、自分はそれを決して許さない。
私のスマホのアルバムは、空の写真ばかりが並んでいる。
今私がいる街のいいところのひとつだ。それなりに開けていて、電線が映り込むことのない、画面いっぱいの空を撮ることができる。
歩いているときの私は大抵、スマホか、草花か、地面か、空しか見ていない。私にとっての価値とはその四つで、それ故にごみなのだ。
空模様に好き嫌いは特になかった。そもそも私は嫌いなものが咄嗟に思いつかない性質だった。同じように好きなものも断言しにくい。
そう思い込んでいるだけで、本当はかなり好き嫌いが激しい性格で、何かしら歪んでしまっているだけなのかもしれない。
そんな理由で、特に好きな空模様というものはない。
強いて言うのなら、青空と夕焼け空がお気に入りかもしれなかった。
曇り空が何日も続くと元気がなくなっていくけれど、雲の動きは上空の風向きやその力を教えてくれる。雨も同じだ。振ってくる雨粒を見送るのは楽しい。ただ、写真という切り取り方があまり適していないだけだ。それか、私が写真を活かせていないだけ。
普段は引きこもっているから、開けた視界そのものが価値になる。スマホの画面に集中しているときにふと見上げる空は、そのたびに十秒ほどの新鮮な感情を与えてくれる。
どちらが大切かについて考えると、少し悲しくなるけれど。時間の無駄という言葉に、私はずっと自ら囚われに行っている。
特に、雨上がりの夕焼け空というのは特別なものだった。
今、このときのように。
そうそう訪れる機会はない。一月に数回もないくらいの、雨によって大気の塵が洗い流されて空はいつもよりずっと澄んでいる。
いつもなら、何かのついでに写真を撮るくらいのことしかしないけれど、そういった日だけは。締め切ったカーテンを開けた先の空が偶然そうだったときには、私はスマホを持って外へと出ていくのだ。
このスマホを持って、という行為が何とも私らしい。景色を撮るために外に出るような人でありながら、そのためにカメラを買うような気概を見せなかった、それそのものが罪だ。
見晴らしのいい場所へ歩いていく間は、そんな自責がずっと胸の内に燻っている。時間を使うという行為には、何かしらの価値が伴わなければいけないのに。
今、私は誰かから「そんなことをするくらいなら」と批判されるお手本のような行いをしているのだろうと思う。
でも、まあ、もうすぐでそういう日も終わるのだから。たまにはいいのかもしれない。
それはとても狭くなった思考の外からふと訪れた、考えたこともないような呟きだった。それ故に、自分でも驚くほどに動揺した。
……ごみだ。こんなことで感情を崩すのは本当にごみだ。世間からうざがられ、社会から弾き出される人そのものだ。
自分自身を許すという、果てしなく遠く思われた在り方は、実はすぐ傍に寄り添っているのかもしれないと思う。そこへ踏み入ろうとしていないだけで、本当はそこからずっと、手を差し伸べてくれているのかもしれない。
スマホを持って、顔を上げて道を歩く。空を見上げれば、茜色に染め上げられた雲たちが見えた。秒単位で刻々とその表情を変えていく、どこか急かされているような気持ちになる。
写真で撮るようなことは、実際はしなくてもいいのかもしれないと思った。その光景を目に焼き付けさえすればそれでいいような気がするし、レンズ越しにはどうしても掬えない情報がそこにある。
そんな偉そうなことを言うくらいならなおのこと、それを証明するために専用の機器を持って、もっと良い写真が撮れる場所へ行く、その投資をするべきだったと自分を戒める。
中途半端な行動力がごみの所以なのだから、私は何をしても間違っているし、何を言う権利もない。
ただ、そこにあるきれいな景色だけがきっと正しい。
ありきたりな風景の中でも、夕焼けは美しさを持つ。それくらいの認識なら、他の人も共有して持ってくれているような気がする。それは免罪符であり、数少ない拠り所なのかもしれなかった。
いくつかの写真を撮る。カメラ機能の扱いはきっと下手だ。きれいな撮り方も分からない。ただ何かに請われるように、画像としてそれを残していく。
まったく生産性のないその行為が何かしらの意味を持つとすれば、それは私がこの命を終わらせたときに、やたらと空の写真ばかりが載っているスマホのアルバムが残ることくらいなのかもしれない。
それを見た誰かは、こんなはた迷惑なことをする人なだけのことはあると吐き捨てるだろう。別に上手くもない空の写真を撮ってばかりのような人が生きていていい社会ではないのだから、道理だろうと、私もそう思う。
その場所に立っていたのは数分程度。まだ夜になったわけでもなく、深みのある赤へと移ろっていく空に名残惜しさを感じつつも、その場から去る。
なぜなら、十分すぎるくらいに不審者だからだ。人々が何の価値もない夕焼けに目もくれずに帰路へ就く中で、一人空へ向けてスマホを向けている、悪目立ちするのは間違いない。
存在が罪であることを何よりも恐れる私にとって、その視線はとても耐えられるようなものではなかった。人は案外他人のことを気にしないものだというけれど、私のそれはその域を超えているだろう。
自意識過剰だろうか。そうだとすればそれは、私の存在に対してか、他人の意識に対してか。分からない。
昔、こうして写真を撮っている様子を偶然知り合いに見られたことがある。
そのときに浮かべられた曖昧な笑みと距離を置かれた言葉が、全てを物語っている。そう私は思い込んでいる。
そうしてまた、歩いて戻る。その繰り返しだ。
その過程において、あまりにも生産性がなくて笑ってしまう。ごみのごみたる所以というものだ。
何気ない風景に心惹かれる。厄介な感性だなと思った。こんな価値観を持ったからには、そのためだけに生きるか、社会の大きな迷惑になる前に命を摘んでおくべきなのだろう。
いけない。もっと明るい話にするつもりだったのに、結局自分の内側の方をずっとのぞき込むようなかたちになってしまった。
けれど、もとよりその内外は深く結びついているというか、境界線もなくあやふやに溶け合っているものだ。避けようもなかったのかもしれない。
少なくとも、草花や空に罪はない。私という存在を介することで、この小さな社会において、なにもかもが間違いになるというだけだ。
では、社会の方は、と問いかけることもできる。
今私が歩いているその街並みへ、道行く車や人々へ。その雰囲気に疑問を投げかけるようなことだってできるのではないかと。
そう言われたなら、私は困ったような笑みを浮かべるしかなくなる。実際に言われれば、わが身が大事なこのごみのことだ、冷静に答えることはできなくなるかもしれないけれど、理想としてそう在れたらと思う。
『私が』間違っているのだ。そこだけを違えてはいけない。履き違えてはいけない。己惚れてはいけない。
私は、私を苦しめるこの街並みを否定することはできず、それどころか、その逆のものを見つけていける。
古びた電柱は、それを繋ぐ電線は、遠く山を越えた先の発電所から延々と電気を運び、確かな価値を持ってここに届けるために立っているのだ。その功績を否定できるはずがない。
地面のレンガ風の歩道は、十分な歩きやすさを提供してくれている。ただのあぜ道や砂利道ではそうはいかない。さらに、レンガの色によるデザインまでなされているのだから、その価値は十分すぎるほどだ。
住宅のひとつひとつが、個々の空間を守るための役割を果たしている。私もそうやって守られている者の一人だ。全ての家がそうとは限らないにしても、大きな視点で見れば大切な価値であることはきっと間違いない。
何かに八つ当たりするような気分でもない限り、この街並みに対して不満を抱くことはなかった。八つ当たりでもそんなことを思ってはいけないのだけど。
少なくとも、私よりは価値があって、その役割を全うしている。そうして成り立つ社会の中に、私は生かされている。
人の営みの全てを好くことは、きっとできないだろう。しかしそれと同時に、その全てを嫌うこともきっとできない。確かな価値の前に、牙を剥くことはできない。
それに比べれば、私の命の行く末など本当にどうでもいいことだ。本当に、その行為の重みはほとんど感じられない。
少しだけ笑った。この安心感にも似た何かは、万人が持てるものではないだろう。命に確かな価値がある多くの人は、必然的にこの意識まで辿り着けない。辿り着いていいようなものではないから、触れることすらしなくてもいいのだ。
豊かな自然の色彩の前に。ただ透き通る空の前に。確かに在る人の営みの前に。心底どうでもよくて、どちらかというと生き続けては迷惑な私の命がある。
ただ、それだけの話だと。そうやって笑うのだ。