宅の中にも三年〜医学部合格までの孤独な浪人譚〜
はじめに
こんにちは、みどふぃです。
よく誤解されるのですが、みどふぃの名前の由来はミドルフィンガーではありません!
由来が知りたい人は直接会ったときにでも聞いてください。
2025年、僕は京都府立医科大学に合格しました。"最低点切り合格"という、決して誇らしげに語れるものではありませんが...... (詳しくは後述します)
このnoteでは、非進学校出身であり、医学部志望と言ったら笑われるような塵芥の如き成績から、3年間の宅浪を経て、独学で国公立医学部医学科に合格した僕の体験を、誇張も美化もせずありのままに綴りました。
合格体験記、と呼ぶにはあまりに無様なものかもしれません。輝かしいサクセスストーリーでもありません。しかし、遠回りな道を歩んだ僕だからこそ、伝えられることがあると信じています。
受験生はもちろん、それ以外の方々にも面白いと思ってもらえるような内容を目指して書きました。拙い文章ですが、時間があるときに読み物として楽しんでもらえたら嬉しい限りです。
独りで闘い抜いた三年間の記録が、誰かの一歩を踏み出すきっかけになれたら......
高校入学までの人生
(徒然に書きつけているだけなので読み飛ばしてもらっても大丈夫です)
2003年8月19日、兵庫県明石市に生まれる。
家族は、公務員の父と専業主婦の母、そして兄と妹。
片働きの家庭に三人兄弟のため、経済的に余裕はなく、幼い頃から「自分は贅沢をしてはいけない」と心に言い聞かせて育った。また、親は極度の放任主義であった。これらのことが今後の人生に大きく響いてくる。
小学時代
周囲の友人たちがスポーツやピアノ、公文などに通っているのを横目に、僕は一度も習い事を経験したことがない。やってみたい気持ちはあったけれど、金がかかると思うと親に言い出すことすらできなかった。
だから放課後は、毎日のように近所の公園に行って、友人と遊ぶか、誰もいないときはひたすら泥団子を作ったり、四つ葉のクローバーを探したり、空を見上げて雲の形に意味のない想像を巡らせたり。そんな、生産性のかけらもない空虚な日々を送っていた。(医学科に限った話ではないのかもしれないが、同期と話していると、幼い頃から様々な習い事や塾に通うなど、自分とは全く異なる環境で育ってきた人が多いことを実感する。幼少期からの豊かな経験を持つ仲間たちに囲まれていると、彼らとの積み上げてきたものの差を憂いてしまうことがある。もしも子どもができたら、興味のあることを自由にやらせてあげたいな。)
中学時代
地元の公立中学校に入学。
中学時代といえば、ソフトテニス部でキャプテンをしていたことくらいしか思い出がない。
スマホも持っていなかったし、友達とどこかに遊びに行ったりすることもほとんどなかった。本当に何をしていたのかだろうか。思い出せない。
1年生のときの定期テストの順位は、210人中およそ130位。平均点が取れたら上出来だと思っていたし、親からも「勉強しなさい」と言われたことがなかったので、勉強に特別な思い入れはなかった。
ところが、2年生の夏休みに転機が訪れる。
ちょうど誕生日の8月19日、部活の練習中に腕を骨折してしまい、2ヶ月ほど練習を休むことになった。部活中心だった生活から急に解放され、ぽっかりと時間だけが余った。その時間をどう使うか迷った末、なんとなく勉強をしてみることにしたのである。すると意外にも結果がついてきて、定期テストで50位前後を取れるようになった。公立中学校の50位なんてのは何も大したことではない。しかし、当時の自分にとってはとてつもなく嬉しかった。
3年生になると、30位前後をキープ。クラスの担任から「頑張れば明石北高校(学区では加古川東高校や小野高校の次に賢い)を目指せる」と言われ、本格的に勉強に取り組むようになった。
しかし、最終的な内申点は、音楽と国語が3、理科が5、その他が4。はっきり言って雑魚である。
とはいえ、公立高校入試の倍率はわずか1.1倍程度。だから、大きなミスさえしなければ受かってしまう試験なのである。(自分の1個下の学年に至っては定員割れで全員が合格したほどだ)
結局、自分も無事に合格できた。最低点+5点のギリギリの合格だったのだが......
零れ話① 医者を志した理由
僕が医者を志すに至った動機は、内容も内容なだけに、SNS上に書くべきか迷いました。しかし、医学生となった今、自戒を込めて、ここに書き記すことにします。
詳しい内容はぼかしますが、小学生のとき、自分にとって大切な人を癌で亡くしました。それが、人の死に触れた、人生で初めての経験でした。
すぐ治ると聞いていたのに、日に日にその人の体調が悪化していく様子を見て、小さかった当時の僕は、医者が体の中に毒を入れているのだとばかり思い込んでいたのです。そこから、医者に対して強烈な嫌悪感を抱くようになりました。
中学1年のときに書いた『死ぬまでにやりたいことノート』の1番上には、大きく「誰一人として利権に、医者に、癌に殺されない日本にする」と書いていました。それは、ただの厨二病的な正義感。世のため人のためというよりはエゴであり、全くもって高尚なものでもありません。
勉強は全くできなかったので、その当時は医者になりたいと思ったことすらありませんでした。しかし、その大胆不敵な目標は、いつまでも僕の頭の中を支配し続けていたのです。
医者を目指し始めたのは、現役時に兵庫県立大学(後期)を受験した翌日だったのをよく覚えています。
興味もないのに、理系だからとなんとなくで選んだ工学部。そこに入学し、このまま一生何も成し遂げられず、何者にもなれずに死んでいくのかと思うと、言いようのない恐怖を感じました。
そのとき、あの中学時代の目標を達成するのに最も適した道は医者だと気づいたのです。そして、今まで人生で大きな挑戦をしたことがなかったので、医学部受験という無謀な冒険に挑んでみようと決意しました。
あれほど「日本を変える」などと息巻いていましたが、今はもう、そのような野望はありません。(完全に消え失せた、と言えば嘘になりますが)
浪人生活と大学での学びを経て、かつての目標がいかに途方もないものであったかを痛感すると同時に、もっと大切なことに気づかされたからです。
今はただ、優しい医者になり、目の前の人を一人でも助けることができたら、それが本望です。
そして、それこそが、幼い頃の自分が本当に願っていたことなのかもしれないと、今になって思うのです。
高校時代
明石北高校 普通科(みんこう偏差値61)に奇跡的にギリギリで合格できたというのにもかかわらず、なぜか自分は賢いのだと勘違いして、ろくに勉強もせず、部活に明け暮れていたのが高校時代である。
(ここで、明石北高校について軽く説明しておく。学科は、普通科(偏差値61)と自然科学科(偏差値69)の2つに分かれている。自分の代の進学実績は、京大1名 阪大3名 名大1名 神大9名となっているが、これら難関大の実績はほとんど自然科学科の人たちのものであり、普通科は産近甲龍・関関同立・兵庫県立大学あたりがボリュームゾーンである。ちなみに、あの学歴モンスター高田ふーみん氏(彼は自然科学科)の母校ということもあり、ネット上で"学歴厨の聖地"と度々ネタにされる😢)
1年生
高校入学と同時にスマホを買ってもらう。
部活の練習が週7日と忙しく、毎日家に帰るのは19時過ぎ。帰宅後はただYouTubeを見たりゲームをしたりしてあとは寝るだけ。毎日その繰り返し。
2年生
世の中はコロナ禍真っ只中。ステイホーム期間でももちろん勉強せず。
3年生
とりあえず神戸大学を目指すという人が周りに多かったので、自分もなんとなく神大志望になった。
4月に共通テスト本番レベル模試を受けてみると、900点満点中352点で偏差値42.6。当時の自分はこれが良いのか悪いのかもよく分かっていなかったのだが、今見るとおぞましい成績である。
偏差値42.6
6月初旬に部活を引退。
そして6月中旬、自分の進路について深く考えるきっかけとなる出来事が起こる。wakatte.tvがハイスクール調査で高校に来たのだ。その当時は彼らのことをよく知らなかったのだが、同級生が嬉々としてインタビューを受けているのを見て興味をもち、動画をいくつか観てみた。するとそこには、明石北のOBが、街ゆく人に学歴を聞いて罵倒している姿があるではないか!
世間知らずだった自分は、名状しがたい危機感や恐怖を覚え、本腰を入れて受験勉強に打ち込むことを決心した。
とはいえ、何から手をつけたらよいのかさっぱり分からなかったため、「夏休みから本気を出そう」と先延ばしにしてしまい、具体的な行動に移すことなく高校3年1学期は終わった。
夏休み初日、小学2年生のときからずっと一緒に過ごしてきた愛犬がこの世を去った。突然のことで心の準備ができておらず、そこから1週間は毎日泣いていた気がする。自習室ですすり泣きながら新品のシス単をパラパラめくっていたとき、ふと目に飛び込んできたaffection という単語が、今も鮮明に心に残っている。自分の愛情はあの子に伝え切れていたのだろうか。
そんな最悪のスタートを切った夏休みだが、毎日8時間は勉強していた。どの教科もほぼ初学のような感じだったので、常に新しい知識を得ていく感覚が案外楽しかった。
そして迎えた8月末の共通テスト模試。目標は一丁前に70%と掲げた。しかし、結果は48%(432/900)で偏差値45.8。現実はあまりにも厳しかった。
受験の天王山───そう呼ばれる夏休みは、何の成果も得られぬまま無情に終わりを告げた。
偏差値45.8
9月以降も、何が正解なのか分からないまま惰性で勉強し、時間が過ぎ去っていった。12月の共通テスト模試で初めて偏差値50を超えて満足していた。神戸大学には箸にも棒にもかからない学力なのだが、入試本番ではなんとかなるだろうという根拠のない自信だけはなぜかあった。
偏差値45.9
偏差値51.1
ついに迎えた共通テスト本番、なんとかならなかった。
2022年の数学ⅠAは平均点38点と史上最も難しく、試験直後に泣き出す受験生もいて、会場全体がお通夜のような重苦しい異様な空気に包まれていたのを鮮明に覚えている。自分はというと、数弱すぎて難化していることにすら気づかず31点だった笑
合計点数は900点満点中546点(60.7%)。
仲の良かった友人たちのほとんどに負けた。模試で常に自分よりも成績が低かった人にまで追い抜かれ、言いようのない屈辱感に襲われた。不甲斐ない自分から目を逸らしたくて環境のせいにした。全て自分が悪いと分かっているのに。
あろうことか、高校に提出する自己採点の点数を30点ほど盛ってしまった。そうすることでしか、脆い自尊心を保てなかったのだろう。この未熟な虚栄心は若気の至りで済まされるものだろうか。慚愧に堪えない。
盛った点数でさえ共テリサーチで神戸大学E判定という現実を突きつけられ、学校からの帰り道、一人で泣いた。今のところこれが人生最後の涙である。
滑り止めのつもりで関西大学の最も偏差値が低い学科を受けた。しかし、到底学力が及ばず、約50点という大差で落ちる。
受けていないので分からないが、たぶん産近甲龍あたりも合格するのは厳しかったと思う。
国公立前期は、大阪公立大学 理学部化学科に出願した。
この年は、大阪市立大学と大阪府立大学が合併して大阪公立大学が設立された初年度。どのような入試問題が出題されるか確定していなかったため、倍率が低くなることを期待しての出願だった。理学部にはさほど興味はなかったのだが、理系学部の中で最もボーダーラインが低いという理由だけで選んだ。
狙い通り倍率は低かったものの、結果は24点差で不合格。
入試当日の面白いエピソードがあるのだが、内容が過激なので、このnoteでは伏せておく。また別の機会にでも。
中期の大阪公立大学 工学部は192点差で不合格。箸にも棒にもかからないとはまさにこういうことである。
❌-47点
後期は兵庫県立大学 工学部 応用化学工学科に出願。
人々で賑わう姫路駅からバスで30分、閑散とした山の麓にある姫路工学キャンパスに2次試験で訪れたとき、「ここに4年間通うのは違う気がする」と感じてしまった。また、ちょうど2ヶ月前、まさにそのキャンパスで23歳の学生が飛び降り自殺をしたというニュースを見ていたこともあり、どうしても嫌悪感が拭えなかった。
2次試験は物理と化学のみ。数学と英語が壊滅的にできない自分にとってこれほど都合の良い条件はない。しかも、後々判明したのだが、実質倍率はたったの1.08倍だったらしい。
結果は、合格。
いや、むしろ合格"してしまった"と言うべきかもしれない。合格発表で自分の番号を見つけた瞬間、ため息をついたのは後にも先にもこのときだけだ。
合否に関わらず浪人して医学部を目指すと決めていたし、入学金や授業料がもったいないので、入学しないつもりでいた。しかし、母に「大学に通ってみたら浪人しようと思わなくなるかもしれないし、お金のことは気にしなくていいからとりあえず入学してほしい」と説得され、結局入学することにした。記憶にある限り、親が自分の進路に干渉してきたのは、このときが最初で最後であった。
零れ話② 宅浪という選択、勉強法と参考書
宅浪という選択
僕が予備校に行かずに宅浪を選んだ理由は、金銭面で家族に負担をかけたくない、アホすぎて授業を聞いても理解できない、他人の力を借りずに自分だけで何かを成し遂げるという成功体験を積みたかった、などいろいろありますが、一番の理由は、「宅浪で受かったら面白くね笑」という、ただそれだけなのです。単なる逆張りです。
僕の考えとしては、よっぽどの事情がない限り浪人生は予備校へ行くべきです。そのように言う理由は、このnoteを全て読んでくださったらなんとなく察せると思います。
勉強法
まず断っておきますが、「僕の考える最強の勉強法!」みたいなものがあるはずもないので、長々と書く気はありません。
下手に僕なんかを参考にしたら、3浪してしまいますよ!
これは謙遜でも何でもなく、事実です。こんな考えの人間もいるんだな程度で軽く読んでほしいです。
浪人中、勉強法に関する本を30冊以上は読み漁りました。そこには、ポモドーロ・テクニック(25分集中して5分休むというのを繰り返す時間管理術)だとか、エビングハウスの忘却曲線に合わせて復習するべきだとか、いかにも"科学的に正しい"とされる方法論がこれでもかと並んでいました。しかし、そういった堅苦しい方法論は、僕には一切合いませんでしたね。
僕は自他共に認める怠惰を極めた人間です。スタプラをつけることさえ面倒くさくなって数日でやめ、長期的な勉強計画を立てるのも致命的に苦手。せいぜい次の日のToDoリストを作るのが限界でした。
世の中の「成功する勉強法」は、多くの場合、ある程度の真面目さや自己管理能力を前提に作られています。僕のような人間は、そのスタートラインにさえ立てていなかったのです。
3年間の宅浪生活で意識していたことがあるとすれば、 一つは「常に考え続けること」です。
弱者が弱者のまま強者を下すにはどうすればよいか。
僕はそれを常に考えていました。
ここで言う強者とは、恵まれた環境や才能を持ち、世間で良しとされる勉強法を素直に実行できる人たちのことです。それ以外の弱者である我々が、彼らの真似事を始めた時点で勝負は決まっています。
「あの人がこの参考書で成功したから」「東大生がこの勉強法を推奨していたから」───。
そんな理由だけで強者のメソッドを猿真似し、自分も強者になれるなどと思い上がった時点で、もう彼らには勝てません。なぜなら、それらの方法はその人の怠惰さや弱さ、能力などを前提に作られていないからです。
結局、自分だけの最適解を地道に見つけるしかないのです。僕がやっていたのは、体系化された立派な勉強とは程遠いものでした。
「朝起きるのが無理だから、いっそ夜中に集中しよう」
「計画を立てると続かないから、その日やりたい科目だけ徹底的にやろう」
「1冊の参考書を完璧にするのが苦痛だから、飽きたら別の参考書をつまみ食いしよう」
これらは全て、一般的なセオリーの真逆を行くものです。しかし、怠惰な僕が継続するためには、それしかありませんでした。
もう一つ意識していたのは、「量をこなすこと」です。
東大や京大、難関医学部に余裕で合格していく人たちの並外れた学力は、そのほとんどが、彼ら自身も気づいていないかもしれませんが、圧倒的な演習量に裏付けされています。
「質か量か」という議論はよくありますが、少なくとも受験勉強において、十分な量をこなす前に質を求めるのは時期尚早です。
量をこなしていくと、最初は見えなかったパターンが掴めてきます。解法が身体に染み込み、思考のスピードが上がる。その過程で、自分なりの効率的な解き方や間違いやすいポイントが、副産物として勝手に見つかっていくのです。
小手先のテクニックや効率論に逃げる前に、まずは机に向かい、手を動かす。泥臭く、ひたすらに量をこなした先でしか見えてこない景色が、必ずあるはずです。それは「この分野はやり切った」という揺るぎない自信かもしれませんし、「これだけやっても間違えるなら、それは自分の限界だ」という、ある種の諦観かもしれません。質を求めるのは、それからです。
僕が意識していたのは、結局のところ、「弱者を自覚し、自分の頭で考え続けること」と「質を語る前に、まず量をこなすこと」、この2点だけでした。
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一応、これはやってよかったという勉強法を2つだけ紹介しておきます。
1つ目は、「勉強した時間を測るのではなく、勉強していない時間を測る(睡眠時間は除く)」というものです。
僕はスタプラをつけることさえ面倒で続かなかった人間です。時間を記録すること自体が苦痛でした。
そこで発想を逆転させ、「勉強“以外”のことをした時間」だけを測るようにしました。YouTubeを見た、漫画を読んだ、ぼーっとした......その「サボった時間」だけを記録していくのです。
これは諸刃の剣です。現実を直視するため、自己嫌悪に陥る可能性が非常に高い。しかし、受験生は1週間だけでも挑戦してみてほしいです。この「サボった時間」を1週間で10時間以内に収められたら大したものです。ちなみに僕の自己ベストは、1浪の12月に打ち立てた1時間14分です。
これは、計画的な勉強ができない怠惰な自分を無理やり机に向かわせるための、僕なりの荒療治でした。
2つ目は、勉強に疲れたら休憩として読書をすることです。
休憩時間にスマホを眺めるのは最悪の選択だというのは誰でも分かると思います。ダラダラと時間が溶け、罪悪感だけが残ります。
その点、読書は違います。「休憩している」という罪悪感なく、脳の違う部分を使える感覚でした。活字に慣れることで読解スピードが上がり、教養も身につく。良いことしかありません。
僕はこれのおかげで、現代文はもちろん、結果的に全教科の成績が上がった実感があります。スマホを見る時間があるなら、小説でもいいのでぜひ本を読んでみてください。
参考書
何の参考にもならないと思いますが、僕が使った参考書とそれらの使用時期を一覧にまとめました。
様々な大学の過去問演習もしていたのですが、いつやったかを記録していなかったので除いています。
⭐️は、特に役に立ったと思うものに付けています。
質問などあれば、Twitter(X)のDMに来てくれたら時間があるときに答えます。学力は本当に低いので勉強に関してというより、京府医についてやメンタル面についての質問とかだと答えられると思います。
1浪
兵庫県立大学という仮面を被り、幕を開けた浪人生活。
1浪目の僕を一言で表すと我武者羅であり、我武者の具現が僕であった。どういうわけか、勉強法や医学部受験に関する情報など一切調べようとせず、とにかく机に向かい続けた一年である。
はっきり言って1浪目は完全に失敗に終わった。
医学部が京都大学と同じくらいの難易度だというのを聞き、当時の自分はとにかく難しい問題を解けるようになることが医学部合格に必須だと勘違いしていた。そのため、難易度の高い参考書に手を出し、冠模試も阪大・京大・東大しか受けていない。ほぼ毎日10時間以上勉強したにもかかわらず、基礎を疎かにしたせい成績は最後までほとんど伸びなかった。
4〜6月
4月の初めに、「3ヶ月間、数学に勉強時間のほとんどを費やし、数学を極める」という計画を立てた。具体的には、4月と5月で『青チャートⅠA・ⅡB・Ⅲ』の例題を全て完璧に解けるようにし、6月に『1体1対応の演習Ⅰ・A・Ⅱ・B・Ⅲ』を自力で解き切るつもりでいた。
結論から言うと、共テ数学ⅠAで31点を取るほどの馬鹿にこの計画は無謀すぎた。青チャートのレベル2の問題ですら解けないことが多く、1問にとんでもない時間がかかってしまうのだ。1日にせいぜい15問ほどしか進まず、結局3ヶ月で終わったのは青チャのⅠとⅡのみで、AとBとⅢは手をつけることすらできなかった。
他教科は、食事中や寝る前に『鉄壁』『原点からの化学』『漆原晃の物理基礎・物理が面白いほどわかる本』を読むだけで問題を解いたりすることはなかった。
7〜10月
7月以降、実力が全く見合っていないくせに『せか京』『英文読解の透視図』『化学の新演習』『名問の森』に手を出し、何も得られない無駄な日々を過ごす。
あっという間に8月になり、遂に猛勉強の成果を発揮!!!......できるわけもなく以下のような成績で目も当てられない😭
偏差値37.9
偏差値40.2
偏差値41.5
11月〜
忘れもしない2022年11月4日、僕が感情を殺した日。
この日は、King&Princeの3名脱退発表、乃木坂46齋藤飛鳥の卒業発表、中居正広の休業発表、と世間に疎い自分でも聞いたことがあるようなビッグネームたちが立て続けにネットを騒がした日だ。
これらのニュースを見た瞬間、なぜだか平家物語の冒頭が頭によぎった。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
あれほど一世を風靡したトップスターたちですら、いつかは斜陽に成り果てる。ならば、どれだけ足掻いても日の目を浴びることすら叶わないかもしれない自分は、このまま一生日陰で生涯を終えるのではないか。医学部などという雲の上の存在を目指してよい人間ではなかったのではないか。一寸先も見えない未来への不安が、19歳の未熟な自分にとって、あまりにも鮮明に、恐怖として迫ってきた。
僕は何かから逃れるように、その日、感情を封じ込めることに決めた。感じなければ、傷つかない。期待しなければ、絶望しない。そう信じて。
(この日から浪人が終わるまでの3年間、あらゆる感情を殺し続けてきた。その代償だろうか、大学生になった今でも涙を流せなくなってしまった。映画を観ても、音楽を聴いても、心が動かない。忘れてしまった感情を思い出させてくれる人や出来事に出会いたい、切実に。)
秋以降も模試の結果は相変わらず惨憺たるものだったが、偏差値や判定に焦る気持ちは消えていた。むしろ、東大実戦で偏差値35.3という数字を叩き出したときは、もはや清々しくて笑いが込み上げてきたほどだ。この境地に達したら、もう怖いものはない。勉強マシーンとして机に向かい続けるだけである。
偏差値41.7
偏差値45.8
偏差値35.3 理二E
偏差値54.6
人生二度目の共通テストは601点(66.8%)。
総合得点は現役のときから55点上がって成長しているように見えるが、実際は平均点も38点上がっているので、偏差値的にはほとんど伸びていないという厳しい現実。
ただ、12月から初学で勉強を始めた倫理政治経済が、東大理三に合格したSakiさんと同じ点数だったことだけは心の救いだったなあ。
共通テスト66.8%で受かるような国公立医学部などあるはずもなく、負けると分かっている戦いをするよりは、難関大学に合格して自信をつけた方が良いのではないかと考え、大阪大学 工学部(前期)と大阪公立大学 工学部(中期)に出願した。
2次試験の2月25日までに、大阪大学の物理と化学、英語の過去問はそれぞれ8年分解き、それらの準備は万端だった。しかし、数学からは逃げ続けていたため、確率・数列・ベクトル・数学Ⅲは勉強が間に合わず、潔く捨てることに。
そして入試当日、数学の問題用紙を見た瞬間、血の気が引いた。確率1問、ベクトル2問、数学Ⅲ2問、と捨てた分野が見事に試験問題の全てを埋め尽くしていたのだ!そうして、250点満点中18.75点、得点率にして7.5%という冗談としか思えない点数をたたき出したのである。
英語はかなり易化していたので手応えがあったものの、得意だと思っていた物理と化学が壊滅的にできず、意気消沈して会場を後にした記憶がある。
結果として、大阪大学は120点差で不合格。
大阪公立大学も104点差で不合格。
こうして1浪目は完全敗北で幕を閉じた。
零れ話③ 宅浪のお金事情・バイト
大学受験は自分の力だけで乗り越えてこそ意味があるという謎の思想と、誰にも迷惑をかけたくないという信念があったので、親からはほとんど経済的支援を受けなかった。
「私立医を受けている時点で、金には困っていないだろ!」と言われそうなので、先に釈明しておく。僕は、もしも私立医に入学することになったら、学費のほぼ全額を借金して通おうと考えていたおバカさんですこんにちは。
小さい頃から物欲がほとんどなく、お年玉は一切使わずに貯め続けていた。その結果、浪人を始める時点での貯金は15万円もあった。だが、宅浪といっても、大学受験は金がかかるものである。特に参考書や模試は金額が嵩むったらありゃしない。
1浪目は、バイトはせず勉強だけに専念した。
節約のために昼食は毎日素焼きナッツだけしか食べていなかった。ただ、まさか2浪するとは夢にも思っていなかったので、必要のない参考書まで計画性なく買い漁って、貯金をかなり使い込んでしまった。
2浪目に突入する頃には、貯金はほとんど残っていなかった。
3月初旬、当時まだ籍があった兵庫県立大学の学生という身分を使い、中学生の家庭教師のバイトを始めた。この家庭教師は、結局3浪の終わりまで続くことになる。
やがて食費すら惜しくなり、5月1日からは一日一食生活を始めた。
3浪目になると、勉強時間よりバイト時間の方が長いという、浪人生としてあるまじき異常事態に陥っていた。
いろいろな経験を積もうと、多種多様なバイトをやっては辞め、やっては辞めを繰り返していた。当時は精神的にかなり追い詰められており、接客業をこなす余裕がなく避けていたが、今となっては飲食バイトなども経験しておけばよかったと少し後悔している。
やっていたのは、主に単純作業系のバイト(荷揚げ、警備、シール貼りなど)で、作業中は、あらかじめ頭に入れておいた数学の入試問題を脳内でひたすら解き続けていた。肉体労働と受験勉強を同時にこなすという、今振り返れば、我ながら狂気じみたことをしていたなと思う。
↑こんなことを言っているが、実際には合格時に貯金はほとんど残っていなかったので、本当にギリギリを攻めていた。
↑経歴のコスパの良さだけは少し自慢させてください。
2浪
1浪目の反省を活かして大成長を遂げた一年である。
2023年3月、退路を断つために兵庫県立大学を退学。
教授との面談で、退学の意思と今後の展望を語る僕の声は、自分でも驚くほど情けなく震えていた。未練などないと自分に言い聞かせてきたはずなのに、完全な孤独の道へと踏み出す決断の重さが、肩にのしかかっていたのだろう。そんな僕の内心を見透かしたように、教授はこうおっしゃった。
「今は不安かもしれないけど、自分の選んだ道を信じて進んでいけば大丈夫。君ならきっと立派なお医者さんになれるでしょう」
その優しい一言が、不安に揺れる背中をそっと押して、再び前へ進む勇気を与えてくれた。研究室を出て、冷たい廊下を歩く僕の顔は、希望に満ち満ちていた。
あの日の空は、やけに青かった。
情報収集のため、そして"浪人界隈"という狂気の集団への多少の憧れもあり、Twitterを始める。ちなみに、当初から名前はみどふぃである。
第1志望は、大阪公立大学 医学部医学科としていた。実力に全く見合っていないのは自覚していたが、あえて高い目標を設定したのには理由がある。レベルの高い大学を目指して勉強していれば、地方の医学部に合格できるだけの実力が自然とつくだろうと考えたからだ。
勉強法も一新。夏までは地道な基礎固めに心血を注いだ。夏以降は、参考書をただ淡々と進める作業のような勉強から脱却し、様々な大学の過去問を時間を計って解く演習をメインに据えた。そして、演習で浮き彫りになった弱点を参考書で一つずつ潰していくというサイクルを徹底した。
これらの戦略が功を奏し、1浪目とは比べ物にならないほど成績が伸びた。
「目の前のことを一つずつ」と書いた紙を勉強机の目の前の壁に貼り付け、毎朝声に出して読んで気合いを入れる、という阿修羅さんみたいなことをしていた。
偏差値54.1 ハム医E
阪大120点差落ちにしては健闘してると思う。
偏差値55.5
偏差値64.9 ハム医D 防医E
検証のために完徹で受けた。それでもハム医D判定取れてめちゃくちゃ嬉しかった。
偏差値61.7 神医E
現役のとき目指していた工学部で9位なのに医学科はE判定で絶望した。
無料の模試という感覚で防衛医科大学校 医学科を受験したら、なんと1次試験に合格。物理がほぼ満点、化学も7割ほど取れたのが勝因だと思う。合格発表は都道府県別で掲示されるので、まるで自分が兵庫県選抜に選ばれたかのようで誇らしい気持ちになった。
しかし、2次試験説明会で防医OBの方に入学後の生活についてお話を伺ったところ、思っていたほど自由がなく、医官としてのキャリアも自分のやりたいこととは違っていたため、2次試験は辞退することにした。まあ、それは表向きの理由で、実際には家から2次試験会場(埼玉県)までの交通費が2万円もかかるのが嫌だったからというのが本音だが。
この防医1次合格を境に、長時間の勉強ができなくなった。
あれほど雲の上の存在だと思っていた医学部が、案外手の届く範囲にあることを知ってしまったのだ。その途端、張り詰めていたものがぷつりと切れ、慢心がはっきりと頭をもたげた。ずっと持続していた集中力は嘘のように消え、机に向かい続けることが苦痛になった。そして、一日の平均勉強時間は4時間ほどで、アニメや映画を見漁って時間を潰す日々がずっと続いた。
偏差値65.9 神医D
運だけの数学偏差値71.0
偏差値50.3 阪医E
阪大とは相性悪いな。
偏差値69.4 ハム医B
国語191点はキャリアハイ。
この模試の後に共テ国語の解き方についてツイートしたらフォロワーが一気に600人くらい増えた。
偏差値64.9 ハム医C
偏差値58.4 ハム医E
どの教科もできなすぎて笑っちゃった。
この模試のおかげで危機感を持って本番までに共テ問題集解きまくれた。
成人式? 同窓会?
そんなものには行かなかった。むしろ、2浪してる人間が行けるはずもなかった。みんなが人生の節目を祝っているときに、僕は、1週間後に差し迫った共通テストに向けて必死に問題集を解いていた。悲しいね。
人生で三度目の共通テストは722点(80.2%)。
ついに国公立医学部に挑戦できる最低限の点数が取れた。
↑共テ前日に初めて万バズして気分よく受験できた。
2浪目は私立医学部を3校受験した。
前述したように、僕の家は裕福ではない。それなのになぜ受験したのか。答えは単純で、相当な世間知らずだったからだ。当時の僕は、「私立医の学費は全額借金すれば通えるだろう」とあまりにも軽く考えていたのだ。(最近になってようやく気づいたのだが、京府医に通っている今ですら金欠で困っているのに、私立医での生活なんて想像するだけでも恐ろしい)
結果としては、国際医療福祉大学は1次不合格、近畿大学と大阪医科薬科大学は、危うくあと数点で合格してしまうところだった。あまり言うべきではないのかもしれないが、本当に不合格でよかったとホッとしている。胸をなでおろす、というのはまさにこういうことを言うのであろう。
点数開示するの忘れてた。
↑国際医療福祉大学の1次試験にて
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1次試験の会場におじさんや妊婦さんといった多様性に富んだ受験生がたくさんいて新鮮だった。
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2次試験の面接で「僕の長所は、決断が早いことです。具体的には、以前通っていた大学は3日通っただけで退学を決意しました!」と話したら、面接官に「君最高だね🤣」と大爆笑された。
↑補欠が回ってくるだろうと安心していたら、なんとこの年の補欠合格者は0人だった......
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国公立医学部の前期は和歌山県立医科大学 医学部医学科に出願。
正直なところ、関西の国公立医学部の中で最も受かりやすいから、という消極的な選択だった。また、和医大の立地を考えると、もし在学中に南海トラフ地震が発生すれば、津波によって大学も住まいも、最悪の場合命さえ失う危険があることも懸念点ではあった。ただ、2浪して人生なんてどうなってもいいという自暴自棄な心境に達していたため、意を決して出願した。
共テリサーチはCかDだったと思う。
↓和歌山へ向かう電車は、乗客が自分一人だけだった。車窓から眺める景色は、まるでジブリの世界のように長閑で、「こういう田舎で暮らすのも悪くないな」と思えた。このとき、和医大に骨を埋める覚悟は確かにできたはずだったのにな......
試験当日、教室はうだるような暑さだった。机の上に赤チャートを置いて虚勢を張っている験生、時計を忘れパニックになっている受験生───。そんな光景を横目に、2浪の余裕からか、僕は驚くほど穏やかな気持ちで試験に臨んだ。
理科、手応えなし。面倒くさがって過去問を1年分しか解かなかったツケが回ってきたのだろう。少し焦ったが、数学と英語で挽回できることを信じて気持ちを整える。
次の数学、ここで浪人史上最大の失敗をする。大問1と大問2の解答用紙を間違えて逆に書いてしまい、それに気づいたのが試験終了わずか3分前だったのだ。和医大医学科の数学は、大問4つで250点満点。つまり、1問あたり62.5点というクソデカ配点。この日は数学の調子がよく、特に大問1と大問2はほぼ完答できていただけに絶望的な状況だった。残された3分で一心不乱に書き直しを試みた(この瞬間は世界で一番手を速く動かしていた自信がある)ものの、すべてを間に合わせることはできず、50点〜70点という致命的な点数を失ってしまった。顔は真っ青になり、冷や汗が止まらなかった。この3分間の出来事は、何度も夢に出てきたし、思い出すだけでも過呼吸になってしまうほどのトラウマになった。
絶望しながら臨んだ英語、全く読めない。そもそも京大英語の上位互換と評されるほど鬼ムズの試験に、あんな心境で太刀打ちできるわけがない。手応えは3割ほどで、合格は絶対にないだろうと悟った。(実際は、点数開示をすると英語が5割取れていたので、採点はかなり甘いと思われる)
2日目の面接は、年齢に触れられることも、典型的な質問をされることもほとんどなく、ただの雑談のような感じだった。久しぶりに人としっかり対話ができて、優しさにも触れられて、憂鬱だった気持ちは少し和らいだ。
試験の後は、和歌山を観光するつもりだったのだが、そんな気力などあるはずもなく、もう二度と訪れることがないであろう和歌山の地を、そそくさと後にした。
結果は、50点差で不合格。
「あの数学の失敗がなければ今頃は医大生だったのに......」と何度考えたことか。
後期の山梨大学 医学部医学科は足切りによって土俵に立つことすら叶わなかった。
こうして2浪目は、確かに成長を実感できたものの、それも虚しく全落ちという結果で静かに終わりを告げた。
零れ話④ 人体実験
宅浪には有り余るほどの時間があった。僕はその時間を使い、自らに制約を課したり、気になったことを体を張って検証したりしていた。それらをまとめて「人体実験」と称し、密かに楽しんでいた。
まあ、ただの自己満の文章が続くだけので、適当に流し読みしてもらってかまわない。
一日一食
2浪の5月1日から京府医に合格するまでの約2年間、一日一食で生活していた。これには複数の理由がある。まず、とにかく金欠で、食費を切り詰める必要があったから。次に、食事時間が純粋に無駄だと感じていたから。そして最後に、「飢餓状態の時に生成されるケトン体が、脳で糖よりも効率的に使われ、成績がアップするのではないか」という淡い期待があった。以前、マウスを使った実験で、ケトン体を誘導するエサによって脳の認知能力が20%向上した、という研究結果を何かで目にしたことがあったのだ。
食べるのは夜だけ。食事を終えて10分ほど経つと、血糖値と体温が急上昇していくのが明らかに実感でき、体がぽかぽかを超えて"ふわふわ"する。薬物を乱用した時はこんな気分になるのではないか、と毎日感じていた。一種の背徳感すら覚えるほど、とにかく気持ちよかった。
この感覚を誰かに試してほしくて医学科同期に話しても、誰も試そうとしてくれない。もし「我こそは!」という人がいれば、ぜひ体験して感想を教えてほしいものだ。
模試も共通テストも2次試験も、朝と昼は何も食べずに臨んでいた。個人的な感覚だが、人間は飢餓の時が一番集中できる気がする。(流石に、京大実戦と12時間の共テ模試の日は死にそうになっていたが)
大昔、狩りで食物を得なければ餓死するという状況が、我々の遺伝子にそういった集中力の名残を刻んでいるのではないか、と勝手に想像しているのだが、どうなのだろうか。
一日一食など誰にも勧めないが、自分を追い込みたい人や金欠で困っている人は、挑戦してみるのも一興かもしれない。
水のみ
3年間、飲み物は水だけしか飲まなかった。20歳の誕生日に一度だけ酒を飲んだのを唯一の例外として、ジュースやコーヒー、エナジードリンクなど、一滴も口にしなかった。
夏も冬も関係なく、毎日1.5Lの水を飲むようにしていた。これのおかげで、ある程度の健康と鬱の予防には繋がっていたと思う。
2ヶ月間の沈黙
2ヶ月間、一言も声を発さなかったら人間はどうなるのかを試してみた。「人間はポリス的動物である」と述べた哲学者アリストテレスが聞いたら顔をしかめるであろうこの実験。
結果は、別にどうにもならなかった。ただ虚しいだけだった。
完徹で共テ模試
睡眠時間が試験の点数に及ぼす影響を調べようと思い、2浪の8月にあった共通テスト本番レベル模試を、完全徹夜で受けた。
試験中は終始眠たかった。だが、人間はやろうと思えば何でもできるのだろうか、思いのほか集中力は持って、結果は鳥医B判定・広医C判定・ハム医D判定と、中々よいものだった。
これから言えることとしては、受験前日などは緊張して眠れないという人も多いと思うが、まあなんとかなるから安心してほしい、ということだ。
自転車と目の疲労
ほぼ毎日、勉強するために図書館やら過疎っているフードコートやらに、自転車で30分かけて通っていたのだが、3浪目にしてとある重大な事実に気づいた。
自転車の走行中、目に風が当たっているだけで、想像以上に目は疲弊しており、その疲労はそのまま脳の疲れに直結するのだ。
風を避けるために眼鏡をかけてみると、いつも感じていた疲労感が嘘のようになくなり、一日の生産性がとんでもなく上がった。
1浪目に気づいていれば......。
自転車通学・自転車通勤をしている人は、騙されたと思って試してみてほしい。
左手
マルチタスクやクロスドミナンスに憧れ、利き手とは逆の左手で食事をしたり、字を書いたりする生活を送っていた。
訓練の結果、左手で食事をしながら右手で数学の問題を解くといった器用なことができるようになった。巷では「左手を使えるようになると、右脳も使えるようになって思考力が上がる」と言われているが、その効果があったのかどうかは、正直分からない。
おまけ:限界大学生の食生活
大学生になってから、主食を「フルグラ」にするという、コスパ・タイパ共に最強の生活を送っている。(1ヶ月の食費はだいたい1万円)
これを半年続けた結果としては、今のところ悪影響は何も感じられず、健康すぎて怖いくらいだ。
この生活の健康被害の答え合わせは、5年後の大学卒業時にでもしようかな。
「医者の卵としてどうやねん」というツッコミは心にくるのでやめてほしい。怠惰な自分には自炊は難易度が高すぎるし、何より、本当にお金がなくて困っているのです😭
3浪
地獄の一年である。虚栄心や醜い自尊心、そしてそれらを裏打ちする強烈な劣等感に苛まれた一年である。
3浪のとき、一日にわずか4時間ほどしか勉強できなかった。当時はそれを単なる怠惰のせいだと思い込み、自分を責め続けていたが、今思えば、原因はそれだけではなかった。自覚がなかっただけで、あの頃の僕は確かに鬱病になっていたのだ。何も楽しいと感じられず、何をしても虚しかった。生きていることに罪悪感すら抱いていた。
この一年のことは思い出すだけで息苦しくなる。だから、ここにすべてを書き残し、記憶から消し去ろうと思う。
3浪が決まってからの僕は、勉強も、バイトも、全て惰性で動いているだけの、人形のような何かであった。
自転車を30分漕いで図書館に行き、席に座って参考書を開く。しかし、5分と経たずに集中力が途切れ、活字は意味をなさない記号の羅列に変わる。勉強という行為そのものが、どうしようもなく怖かった。勉強をしようとしても体が拒絶し、ペンを持つ手が震える。呼吸が乱れる。じっとしていられない。
「......今日は無理や。帰ろう」
誰に言うでもない言い訳を呟き、また30分かけて来た道を引き返す。帰宅しても何かが変わるわけではない。机に向かう気力も湧かず、布団に潜ってスマホの画面をただ眺めるだけ。空虚な時間がゆっくりと、ただ確実に過ぎていく。
毎日が、その繰り返しだった。
自分の意志の弱さ、能力の低さ、そして逃れようのない孤独。それらと向き合い続けることが、本当に本当に苦しくて、でも今さら誰かに助けを求めることなど許されるはずもなくて。この息苦しい閉塞感も、底の見えない不安も、結局は自分一人で抱え込むしかない。無力感に打ちのめされる自分を、ぼんやりと自覚していた。
バイトでも良い思い出がない。
5月、高時給に惹かれて荷揚げバイトを始めた。
出勤2日目に、何かミスをしたわけでもないのに、自衛官上がりの上司に罵詈雑言を浴びせられ、人格否定をされ、仕事量を増やされるという胸糞悪い仕打ちを受けた。医学部を目指して浪人していることを話した途端、その上司の態度が豹変したので、彼の内に秘めたルサンチマンを呼び覚ましてしまったのだろうか。
有名な小説の一節に、「かつてはその人の膝の前に跪ずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです」という科白があるが、まさにそんな感情が湧き上がってきた。人に対して怒りの感情を抱くことも、嫌いになることも一切ない僕だが、あのときだけは憎悪が胸に渦巻いていた。当時、それほどまでに心に余裕がなかったのであろう。
6月になり、この状況を打開しようと、これまで全く無縁だった読書を習慣にすることにした。まず本を読むために図書館へ行き、休憩がてらに勉強をするようにした。それがよいリハビリになったのか、勉強に対する恐怖心は自然と薄れていき、次第に勉強時間は増えていった。増えたと言っても、この時期の平均勉強時間はまだ2時間ほどだったが、体が言うことを聞かなかったあの頃を思えば、それは大きな進歩だった。
京府医を目指すようになった理由は、運命を感じたというか、なんというか、上手く言語化ができない。とりあえず、和医大の入試の翌日にはもう京府医しか見ていなかった。
偏差値68.6 京府医C
模試会場に着くや否や、和医大のトラウマが蘇り、強烈な吐き気に襲われるほど気分が悪くなった。
その割にはなかなか良い成績だと思う。
偏差値63.1 神医C
夏とはいえ初めて神医でC判定を取れて嬉しかった。
偏差値66.6 京府医B
できすぎてて怖い。
3浪の夏、主な勉強場所は砂浜だった。
まだペンを持つことすら億劫な状態だった僕は、波の音を聞いて感傷に浸りながら、参考書を読んだり、英文を音読したり、数学や物理の問題を頭の中だけで解いたりして過ごした。このペンもノートも使わない勉強のおかげで、問題に対してじっくり考える力が養われ、難問低得点型の京府医の合格に繋がった、と都合の良いように思い込んでいる。
↑この動画は、入試の結果がどうであろうと、3月にツイートするために、9月初旬に撮影していたものだ。この時期には既に学力と気力の限界を感じていて、もしもまた全落ちしたら、受験からは手を引いて就職でもしようかと考えていた。
偏差値66.9 京医D 京理A
冠模試キャリアハイ
数学で運がよすぎて偏差値70.2を取れた神回
偏差値54.7 北医E 総理C
この模試の成績は墓場まで持っていこうと思っていた。
今見返すとこれほんまにやばいな。
体調悪かったわけでもないし3浪してこれは終わってる😅
偏差値68.8
なかなかいいね。
偏差値60.9 神医E
情報処理能力が低すぎて高得点勝負の神医は一生受かる気がしない。
偏差値60.8 神医D
この模試の物理で出た問題が京府医でもそのまま出て瞬殺できた。それがなかったらたぶん落ちてたなあ。
偏差値60.4 京府医D
医学科同期(多浪)に、この模試で7割を切っていたのに共テ本番で88%取れた人がいたりするから、本当に共テは直前の勉強次第だと思う。
偏差値63.4 京府医D
人生で最後の模試、微妙すぎる。
2024年、10万バズしたことくらいしか嬉しいことはなかった。
人生で四度目の共通テストは837点(83.7%)。
9割を取って逃げ切ろうと考えていた自分が甘すぎた。あまりの悔しさと己への失望で、3日間寝込んだ。
私立医は、体力的に2校が限界だと思い、関西医科大学 医学部医学科と大阪医科薬科大学 医学部医学科を受験した。どちらも過去問は1年分しか解いていない。共テ後の枯渇した気力では、それしかできなかった。
関西医科大学は、対策不足ともちろん実力不足により、どの教科も全く歯が立たなかった。受験会場がユニバの近くだったので、帰りに入場ゲートの前まで足を運んでみた。そこで目にしたのは、老若男女の眩しすぎるほどの屈託のない笑顔。致死量のキラキラに圧倒され、逃げるように走ってその場を後にした。
59点差で不合格。
大阪医科薬科大学は、物理で雪崩を起こし、数学でも致命的な計算ミスをした。3点差で落ちた昨年度よりも明らかに出来が悪かった。試験からの帰り道、公園のブランコに座り、凍えながら数時間うなだれていた。
しかし、結局は補欠ではあるものの、12点差で合格した。
国公立前期は、京都府立医科大学 医学部医学科しかないと思った。共テリサーチは東進D、バンザイシステムD、選太君E。それでもやはり、自分には京府医しかなかった。
理由は以下の通りだ。
3浪ということもあり、不安要素を限りなく取り除きたくて、面接に点数をつける大学は選択肢から除外した。
数学が極端に難しいか極端に簡単かでないと、数学が苦手な自分は他の受験生に差をつけられてしまう。
易問高得点型の大学は避けたかった。いくら合格難易度が低い大学でも、自分の計算力や情報処理能力では、進学校出身の優秀な受験生たちに太刀打ちできない。東大や京大の過去問は何年分も解いてきたから、難しい問題に長い時間をかけて解く方が得意だった。だから難問低得点型の大学がよかった。
共テ国語が易化した影響で滋賀医の倍率が上がるのは確実だった。
なんといっても、一年間ずっと京府医しか見ていなかった。
3浪でE判定特攻。
傍から見れば、愚行以外の何物でもない。しかし、僕にとってあの選択は攻勢ですらなかった。初志貫徹という信念を守り抜くための、必然の決断だった。
これで落ちても後悔はない。その一心で、京府医に出願した。
京府医の過去問こそは、最低でも5年分は解こうと意気込んでいたのだが、2月初旬から、またしても勉強恐怖症に陥って体が思うように動かなくなった。結局、数学2年、物理1年、化学3年、英語3年しかできなかった。
2次試験のちょうど1週間前、親戚から貰った生牡蠣を食べてノロウイルスに感染。2日間悶え苦しんで何もできなかった。もう一生生牡蠣は食べたくない。
試験当日、緊張して2時間ほどしか寝られず、寝起きは最悪だった。しかし、前日のツイートがバズっていて気分上々。
試験会場は、今まで受けてきたどの会場よりも静かだった。
初っ端の理科。
化学は、大問2のありえない計算量の問題にビビったが、全体として8割の手応え。
物理は、落ち着いて解けば簡単な問題が、頭が真っ白になって永遠に解けず、時間だけが過ぎていった。手応えは3割。
化学と物理を合わせて5割は取れていそうだったので、なんとか首の皮一枚は繋がった。
勝負の数学。
大問1は簡単な整数問題で、20分で完答できた。続く大問2は、一目見て今年の捨て問だと察し、最後に回すことに決める。大問3に取りかかるが、どれだけ時間をかけても(2)が解けない。やむなく、それっぽいことを書いて大問4に移った。大問4は数学Ⅲの標準的な問題で、これは詰まることなく解き進められた。最後の答えが負の値になったのは少し怖かったが、なんとか完答。残り時間で大問2に戻るも、(1)がよく分からない。10分ほどベクトルの式をこねくり回すも成果は得られず。幾何で考えてみると、ようやく答えらしきものが導き出せた。(2)は図を描いて必死に説明したので、点数がもらえたら嬉しいな、といった感触。ここで試験終了。
日本一難しいと評される京府医の数学はどこへ行ってしまったのだろうか。これでは、数学が得意な受験生に差をつけられてしまったに違いない、と内心かなり焦っていた。
運命を決める英語。
作戦として、得点源である大問4の200語自由英作文から着手すると決めていた。しかし、解答用紙が配られ、試験開始を待つ時間のことだった。不意に、ある事実に気づいてしまう。
「(作戦通り英作文からやるぞ。......あれ、大問1の長文が透かし読みできるやんけ!しかも、よくある題材で読みやすそうやな。作戦変更して大問1からやるか)」
といった感じで、透かし読みができるという想定外の事態に、当初の計画を無視して、大問1→3→2→4という順番で解くことにしてしまった。
大問1は、英文こそ読みやすいものの、設問が難しく、苦戦した。大問3は、京府医特有のTFN問題で、対策をしていたのでまずまずの出来。そして大問2、晦渋な文章の前にただ打ちひしがれ、相当な時間を費やした。にもかかわらず、ほとんどの設問が空白のまま、大問4に移る。残り時間は、わずか10分。自由英作文は、最低でも160語(200語の8割)は書かないと点数は貰えないと思っていた。しかし、必死で80語ほどを書き殴ったところで、無情にも試験終了の合図が鳴り響いた。
手応えは3割あるかどうか。
ここで、不合格を確信した。
小論文のテーマは、「学修の喜び」についてだった。指定の文章を読まされた上で、「あなたが考える"学修"とは?これまでの経験を踏まえて、これからの学びの意欲を教えてください。(600字程度で)」と問われた。
皮肉なものである。学修によって人生を変えようと自分なりに努力してきた人間が、今まさに試験に敗れ、机の上で沈黙しているのだ。
何も考えられない。文章が紡げない。600字という指定に対し、わずか400字を埋めるのが精一杯だった。
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2日目。
「どうせ不合格なのだから、面接を切ってしまおうか」という考えが、何度も頭をよぎった。気づいた時にはもう、京都駅の改札の前にいた。そのまま兵庫に帰ろうとしていたが、なんとか思いとどまる。なんとなく、京都駅の屋上に上がってみた。そして、もう二度と訪れないであろう京都の街並みを目に焼き付けて、面接に向かった。
面接は、おそらく受験生の年齢を考慮せずに行われているのだろう。終始、高校時代のことを聞かれ、なんとか3年前の記憶を辿って答えた。「高校時代、部活動以外に頑張っていたことは何ですか?」という質問には言葉が詰まった。「部活動一筋だったもので......勉強や課外活動も何も頑張ることができませんでした」と答えるしかなかったのは屈辱的だった。小論文の文字数不足については何も触れられなかった。あっという間に10分が過ぎた。
会場を後にした僕は、その足で、一度生で見てみたかった京都大学と清水寺を訪れ、兵庫への帰路についた。
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3月7日、合格発表の日。
不合格を確信していた。
今まで10回以上も大学に落ちてきたわけだが、このときだけは、現実を受け止められる自信がなくて、布団の中に潜り込んで怯えていた。
発表は9時15分だった。その時間にTwitter(X)を見ると、「#春から京府医」というハッシュタグの付けられたツイートが流れてきた。
そして、何も考えずにこんなツイートをした。
震える指でスマホを操作し、京府医のホームページから合格者の受験番号一覧を開く。画面が切り替わるまでの、わずかな時間が恐ろしく長い。
落ちるとわかっているはずなのに、心臓の音がやけにうるさい。息が詰まる。
「10169」
自分の受験番号を、反芻しながら、探した。
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あった。
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10169
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確かに、そこに自分の番号があった。
目を疑う。しかし、何度見返しても、間違いなかった。
しばらく布団の中で動けなかった。
嬉しいとか、信じられないとか、そんなありきたりな言葉ではとても足りない、自分の貧弱な語彙では到底言い表せるはずもない感情が、胸の奥で渦巻いていた。
「本当に終わったのか」という実感が湧かないまま、ただ画面を見つめ続けていた。
しばらくして、スマホを握りしめたまま布団から出た。
カーテンを開けると、外は春の光が差している。
いつもの部屋なのに、景色が少し違って見える。
ようやく、心の底から「終わったんだな」と思えた。
長かった浪人生活、孤独との闘い、数え切れない不安。
すべてが一瞬で報われたような気がした。
何も、言葉が出なかった。
母のいるリビングへ向かった。
ドアの前で一度深呼吸をした。
胸の鼓動がまだ速い。
扉を開けて、何でもないような顔で言った。
「なんか、京都府立医科大学ってとこ受かった」
母は「ほんまに!?よかったやん」と驚いてくれた。
それだけで嬉しかった。
10年以上も家族に笑顔を見せていなかった僕だが、このときは自然に笑えていた気がする。
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最低点切り合格について
ここまでたらたらと語ってきたのですが、蓋を開けてみると、僕は京府医に最低点を切って合格していたのです。
ことの発端は、入試の英語で発覚した採点ミスでした。
大学側がこのミスを受けて採点をやり直し、改めて合格者判定を行った結果、本来合格すべきだった2人が、6月に新たに追加合格となりました。
そして、定員である99人の枠からはみ出したのが、僕だったのです。
そういうわけで、僕の得点は、大学が公式に発表している入学試験結果の合格最低点を下回る点数でした。
これはつまり、共通テストか2次試験で、1問でも間違っていたらおそらく僕は不合格だったということです。3年間で勉強したことの全てを総動員して、なんとか届いた実力不相応な合格でした。
「運だけじゃないか」という批判の声も多いと思います。本当にその通りです。拾ってもらった合格だと、僕自身が一番強く感じています。
だからこそ、同期のみんなと比べて明らかに能力が低いという自覚を持ち、今のところ全授業で「無遅刻・無欠席・無睡眠」を徹底し、自分なりに真面目に勉学に励んでいます。
温かく見守っていただけたら幸いです。
零れ話⑤ 三年の孤独
家族という名の、他人と暮らしていた。
親に自分から話しかけることはなく、彼らがどんな人生を歩んできたのかを知る由もない。小学5年あたりを境に兄弟との会話も途絶え、今や彼らが何を考え、どんな人間なのかすら分からない。
家は、ただ息を潜めるだけの箱だった。
そんな自分にとって、学校こそが唯一の居場所だった。
小学校から高校まで、コミュ障なりに必死で築いたその場所は、確かに温かかった。「あぁ、こいつは一生の友なのだろう」と心から思える出会いもあった。そこが、世界のすべてだった。
けれど、その世界を壊したのは、ほかでもない自分だった。
「医者になりたい」という、背伸びした夢。
身の程をわきまえなかった馬鹿は、三年もの時間を浪人に費やした。その間に、世界のすべてだったはずの友人たちとは、ほとんど縁が切れた。
単なる逆張りで選んだ宅浪の道は、緩やかに精神を蝕む、滅びの道だったのだ。
一浪目は、仲間がいた。明石北高校の浪人仲間に、兵庫県立大学の同期。連絡を取ろうと思えば簡単に取れた。浪人仲間とは模試の成績を見せ合い、互いを高め合った。勉強だけをしていればよい完全なモラトリアムは、案外楽しかった。寂しいふりをする余裕さえ、あった。
二浪目は、一人になった。周りに二浪する人間などいなかった。兵庫県立大学の仮面も脱ぎ捨て、退路を断った。だが、まだ強がっていられた。「孤独なんて案外余裕だ」と。
インスタはアンインストールした。友人たちのキラキラしたストーリーを見るのが苦痛だったというわけではない。誰の記憶からも、僕という存在を、ただ消し去りたかったのだ。自ら進んで、孤独を求めてさえいた。
三浪目は、独りになった。生きることが本当に苦しかった。一日は永遠のように長く、心はどこまでも沈んでいった。弱音を吐いても、呻き声を上げたとしても、その声は誰の耳にも届かない。目の前には、いつもの見慣れた天井が広がっているだけだった。
誰にも見られない場所で、必死に生きていた。
京府医に合格したとき、嬉しさの直後に、底知れぬ恐怖が襲ってきた。
三浪という、社会から逸脱したバケモノと、普通に接してくれる人なんているわけがない。怖くて、怖くて、仕方がなかった。
でも、同期のみんなや先輩方は、こんな自分にも、驚くほど普通に、そして優しく接してくれた。
誰かの笑顔に救われる感覚を、思い出した。
この温かい場所を取り戻すために、自分はあの暗闇を歩いてきたのかもしれない。
今、本当に人生で一番楽しい。
孤独とは、人を静かに殺す病である。
誰も、自ら独りになるという選択はしないでほしい。周りの人を頼ってもいいということに気づいてほしい。そう願ってやまない。
僕は、孤独の殺傷力を、知ってしまったから。
おわりに
「浪人してよかった」「浪人してない人間は浅い」などという、勝者が言えば生存者バイアスの温床、敗者が言えば防衛機制としての合理化の産物でしかない言葉。そんなことを伝えたいがためにこのnoteを書いたわけではありません。
今、これを読んでくださっているあなたが、どんな状況にあるのかは分かりません。もしかしたら、かつての僕のように、出口の見えない不安の中で、夢を諦めそうになっているのかもしれません。
「もう無理だ」「諦めた方が楽だ」という声が、自分の中から、あるいは周囲から聞こえてくることもあるでしょう。僕も、何度もその声に飲み込まれそうになりました。自分なりに努力しても結果が出ず、毎日が同じことの繰り返しで、自分が何をしているのかすら分からなくなる時期もありました。
あなたの夢が、どれほど無謀だと言われようとも。
あなたの歩みが、どれほど遅いと笑われようとも。
その一歩を、せめてあなた自身だけは信じてあげてください。
遠回りでもいいし、惰性でもいい。
どうか、歩みを止めないでください。
"普通"や"常識"と呼ばれる道が、絶対の正解であるはずがありません。
世に蔓延る惰性的認識を破りうる勇敢な知性を、僕はこれからも磨き続けたい。あなたと共に。
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ここまで、長い自分語りに付き合ってくださり、ありがとうございました。
浪人時代ずっと、もちろん京府医への出願を決意したあの瞬間も、僕の背中を押して続けてくれた言葉があります。最後に、その言葉をもって締めくくりたいと思います。
What would you do if you weren't afraid?

