「牛は何も悪いことしていない」被ばく牛の殺処分を拒み、ともに生きる畜産農家の15年 #知り続ける
福島中央テレビ
2011年の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故で、避難を強いられた住民。その陰で、人々と共に暮らしていた家畜は、多くが置き去りにされ、そのまま死んでいった。生き延びた家畜でさえも、国は殺処分を指示。「牛は何も悪いことをしていない。なんで殺されなきゃならないのか」殺処分を拒み、被ばくした牛と暮らす畜産農家の夫婦が、福島県大熊町にいる。命と向き合い続ける農家と被ばく牛の15年を追った。 養母は大型バスの中で亡くなった 原発事故の避難で犠牲になった命、今も続く遺族の怒りと苦悩 #知り続ける
大熊町の畜産農家 牛は家族同然
福島第一原子力発電所が立地し、全域が20キロ圏内に入る福島県大熊町。この町で畜産を営む池田牧場の5代目、池田光秀さん(発災当時49歳)と、妻の美喜子さん(発災当時53歳)。先祖代々守ってきた土地で、光秀さんは、会社勤めの傍ら約30頭の牛を育て、家族を養ってきた。 二人とも、牛と過ごす時間が何より好きだった。牛が病気になれば、家の中に連れ帰って、つきっきりで看病をした。 「自分の子が具合悪くなっても「寝てろ」って放っておいて、牛の子は大事に扱って…」 美喜子さんが笑う。二人にとって牛は家族同然だった。
原発事故で牛も被ばく 選んだ共に生きる道
2011年3月11日。突然の揺れと津波が福島を襲った。福島第一原発が事故を起こし、まき散らされた放射性物質が、各地を汚染した。町でも、全ての住民の立ち入りが禁じられ、突然、避難を強いられた。 「牛たちは、どうする?」 大型の家畜は避難先に連れていけない。光秀さんはエサ箱にありったけのエサを置き、涙を流した。 「ごめんな、ごめんな…」 いつ、町に戻れるのか。生きて牛たちと再会できるのか。それは誰にも分からなかった。 避難は長期化し、牛舎に繋がれたままの牛は多くが餓死。エサがなくなった後は、木でできた牛舎の柱を、首が届く限りかじり…必死で生きようとしたのだろう。細くなった柱からは、牛たちの悲鳴が聞こえるようだった。牛舎を逃げ出した牛は野生化し、放射性物質で汚染された草木を食べ、牛自身も汚染されていった。 国が農家に求めたのは家畜の「殺処分」。農家は当然激しく反発した。しかし、食べるものも水もなく、苦しんで死んでいく牛たちを見るに絶えず。また、遠く離れた避難先から牛の世話をする負担を抱えきれず、1軒、また1軒と殺処分に同意していった。 二人のもとにも殺処分への同意書が届いた。 「最初から安楽死に同意するつもりはない」 「牛は何も悪いことをしていない。なんで殺されなきゃならないのか」 選んだのは、被ばくした牛とともに生きる道だった。 避難から約2か月後、許可証があれば町への立ち入りが認められるようになった。2人は自分たちの牛を探し回り、牧場に連れ帰った。時には他の農家で飼われていたと思われる牛が入り込んできたこともある。外に出せば、必ず殺される…気づけば、90頭もの牛が池田牧場で暮らすようになった。