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胎にうさぎ/Novel by 寿

胎にうさぎ

14,022 character(s)28 mins

ジャック・ザ・リッパーとエミヤ、マスター。

関連したお話
『夢現』
novel/7854286

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『胎にうさぎ』



きっちりと拭き上げたシンクを眺め回し、褐色の肌をした青年はよし、と呟く。
24時間眠らない大所帯の施設では食事の量も回数も膨大で、片付けの目処がつく頃には
いつも深夜を回っていた。
人理継続保障機関フィニス・カルデア。
青年は、生き残った人類の、ただ一人のマスターに召喚された最初期のサーヴァントだった。
そのマスターはというと、時代を修正するレイシフトの為、現在はカルデアを離れている。
戦力不足でいつもどこにでも青年が同行していたのは随分前の事、相変わらず頼りにはされているようだが今のマスターは彼以外にも信頼出来る選択肢を得ている。
行ってくるね、とマスターである少年が出掛ければ差し当たりする事はなく、サーヴァントたちは鍛錬やら読書とそれぞれにこの奇妙な二度目の…人によっては何度目かの生を謳歌しているようだった。
体を動かしている方が性に合う青年は、職員の不足によって低下しがちな施設の生活の質を維持するべく家事に勤しんでいた。
取り分け炊事は彼の領分で、同じく料理を趣味・特技とするブリタニアの女王と共に作業にあたっている。
同じく最初期にカルデアへ現れた、腐れ縁の青い槍兵はキッチンに陣取る青年を見るや皮肉げに顔を歪めて鼻を鳴らし、「この戦勝ったな」と宣った。
戦争なんてものは物量が多く旨いもの食ってる方が勝つのだ。
古強者の常識である。
完全に食事にありついた気でいる槍兵へ嫌味の一つも口にはしたが、頼られると悪い気はしない性分である。
サーヴァント本来の役割である戦闘に赴く時以外、青年…赤い弓兵は三度三度の食事の支度と後片付けに追われ、中々に忙しい日々を過ごしていた。
その日も一日の役目を果たし、エプロンの紐をほどこうと後ろ手になった青年の指に、ひやりとした感触が触れる。
「…気配を遮断して近づくのは止めたまえ」
「わたしたちがほどいてあげる」
いつの間にか弓兵の背後をとっていたのは、彼とよく似た白い髪の少女だった。
か細い肢体に纏う体幹と大腿部を大きく露出した衣装が、陽に当たらず栄養の足りないような色の肌を強調している。
「空腹なのかね。あいにく今日はもう片付けてしまったから、簡単なものしか用意出来ないが」
「ううん。ちがうよ、キッチンのおかあさん」
紐を解いた少女は、背中から青年の腰に腕を回した。
「私はお母さんではないよ。…ジャック」
赤い弓兵の苦情めいた声を意に介さず、少女…ジャック・ザ・リッパーはその背に頬をつける。
「わたしたち今日はキッチンのおかあさんとねむってもいい?」
おかあさん、ずっといないの。
呟いた声を背中で聞いて、弓兵はここしばらくマスターが不在であることに思い当たった。
単独行動のスキルを持つアーチャー以外のサーヴァントも、ここカルデアでは魔力が施設から供給されるシステムの為にマスターと離れても不自由はない。
しかしそれも精神面以外の話だ。
ジャックの抱える脆さが彼女という英霊の成り立ちからくるものか、それとも別の要因があるのか青年には計り知れない。
「あの女王に頼めばいいだろう」
「ブーディカおかあさんもいない」
早々に手放そうとした問題は、ジャック自身の声に叩き落とされる。
案外に鋭い声音に思わず振り向くと、少女は定まらない視点を空に投げていた。
青年の腹に回した手が震えている。
「おかあさん、どうして、いないのかなぁ。わたしたちがきらいになったのかなぁ。わたしたちがころさないから。たくさんたくさん、ころさないからきらいになっちゃった?」
発作じみて震える手に触れると、ジャックはゆるゆると顔を上げる。
青年は床に膝をついて少女に向き直った。
立ったままでは身長差があり過ぎて話も覚束ない。
「ジャック。…一番好きな菓子は何かね」
個人的な問いに緑の瞳が一瞬芯を取り戻すのを見て、弓兵は一番好きな菓子だ、と繰り返す。
「…ファッジ…」
「二番目は」
「女王様のケーキ」
「女王様のケーキ?」
ジャムがはさまってる、と少女は朧げな記憶を辿るように呟く。
包帯だらけの小さな手を握った青年はふむ、と思案顔になった。
「私は寡聞にしてどちらも詳しくないが、明日はファッジを作ろう。明後日はその女王様のケーキを。マスターが帰ってくるまで、一緒に調べて作るのはどうかね」
「…わたしたちも作っていいの?」
「あぁ。私には君の好みは分からないからな。それに菓子作りは時間と手間がかかる。手伝いが必要だ」
「…する」
キャラメルとバタースコッチがおいしい、と細身の暗殺者は思い出し思い出し、弓兵からそっと取り戻した指を折る。
青年は内心で胸を撫で下ろした。
誤魔化せると思ってはいなかったが、ジャックの気持ちが少しでも他に向いたならそれでいい。
彼女の不安定さが、英霊として成立した過程にあるのか他に原因があるのかは不明だが、ジャック・ザ・リッパーの混迷が他者を害することへ向かいかねないのを青年は理解していた。
サーヴァントを使役するにはコントロールが必要だ。
彼の主人は魔術師としての歴が浅いせいか他者を支配するようなやり方を好まないが、ジャックのようなタイプには特にある程度の方向付けが必要だとエミヤは考える。
その方がジャック自身にも負担が少ない。
マスターが戻ったらよくよく言い聞かせなければ、と青年は小さく溜息をついた。
洗濯室にエプロンを置き、居室へ戻ろうとする弓兵の後を、軽い足音がついてくる。
身長の合わない相手が指を掴む健気な様子に観念したのか、褐色の手がジャックの手を握り返した。
戦場で武器を取るものらしく、大きさは違えど硬く握りだこの出来た掌だ。
霊基に残る記録は、傷や体についた癖も蓄積するものなのだろう。
構成する物質が有機的でないだけで、それは遺伝情報にも似ている。
アーチャーとして何度も現界した歴戦の英霊は、そんなことを考えながら居室の扉をくぐった。
早速ベッドに駆け寄って潜り込もうとするジャックを見咎めて声をかける。
「そのまま寝る気かね」
「?」
見れば青年はいつもの赤い上着から黒いインナーの楽な姿に霊基を戻している。
対するジャックは服だか水着だか判別がつかない肌の出た衣装、これもいつもの事だ。
「おきがえもってない」
「…」
弓兵はまた一つ息をついた。
両手を体の前にかざし、意識を凝らす。
飾り気のない黒いシャツが空間に投影される。
「これでも寝巻き代わりにはなるだろう。サイズには目をつぶって貰うことになるが」
青年はジャックに長袖のシャツを着せかけてやりながら言った。
「前は自分で留められるな?」
「これ、おかあさんの?」
「エミヤだ。男物で悪いが、私に投影できる物は限りがあってね」
ジャックは余って垂れ下がった袖を鼻に当て、くんくんと匂いを嗅ぐ。
何をしてるんだと言いながら丁寧に袖をまくり上げる青年を見上げて言った。
「エミヤおかあさんのにおいがしないよ」
「…サーヴァントだからな。体臭はないだろう」
「ううん。おかあさんはいつもいいにおいがする」
バターと、トマトと、おいしいもののにおい。
シャボンの香り。
ベッドに腰掛けてジャックが挙げていくのを、エミヤはむず痒いような思いで聞いていた。
記憶には血と、爆炎と、砂埃の臭いが焼き付いている。
彼女に残るものも大差ないだろうと思う。
それでもジャックが口にする『彼の香り』は、遥か遠く、思い出せないほど彼方の穏やかだった日々の気配がした。
この暮らしは仮初めのものだ。
人理焼却を防ぎ、歴史がその流れと均衡を取り戻すまでの限られた時間。
それでも、救えるものと救えぬものをわけ、魂を磨り潰しながら歩いた日々がここへ繋がったならば。
エミヤは思わず感傷に浸りそうになる自分を笑った。
「さぁ、もう寝なさい」
「おかあさんは?」
「私は床で寝る」
ジャックへベッドを譲るからには当然のことだ。
少しばかり固いが雨風をしのげるばかりか清潔で空調もきいているとあれば何の不都合もない。
それを聞いてジャックはつるりと床へ滑り降りた。
「わたしたちもゆかでねる」
「馬鹿を言うな。レイシフト中じゃないんだ、こんなところで寝かせる訳には」
「おかあさん、ゆかでねるんでしょ?わたしたちもゆかでねる」
ぺたりと膝から下を開いて座るジャックに意地を張っている様子はなく、こちらもそれが当然であるかのような口ぶりだ。
今にも寝そべりそう少女を見かねて、青年は早々に降参した。
「止めておくんだな、埃がつく。…おいで」
ベッドを叩くと、少女は素直に先程まで占めていた位置に戻る。
ころんと倒れると、エミヤの手を引いた。
引かれるまま、肘を枕に横になる。
なるべく端に寄ろうと体を縮めるエミヤの気まずさをよそに、ジャックはじりじりと距離を詰めてくる。
「ジャック。もう少し離れてくれ」
さもなければ床へ逆戻りだ。
マスターである少年と添い寝する時と同じようにするつもりなのだろうが、年端もいかない少女とひとつ布団という時点で彼の感覚からいうと犯罪すれすれ、相当意に沿わない事をしているエミヤである。
これ以上の譲歩は遠慮したい。
「おかあさんはこうしてくれるよ」
「私は君の母親でもマスターでもないんでね」
「おかあさん、わたしたちのことがきらい?」
力持つアサシンの、緑の目の奥に火花が走る。
危険信号である。
こんな時間から寝床でジャック・ザ・リッパーとやり合うつもりはさらさらない弓兵は、大きなため息と共に少女の細い体を引き寄せ、反対の腕で反動をつけてベッドの真ん中へと移動した。
「おかあさんもういっかいして!」
瞬時に機嫌を直した(正気に戻った、がより正確だが)少女の顔を覗き込み、灼けた肌の青年はしー、とくちびるに指を当てる。
「…静かにしないと」
「しないと?」
「おやつが何より好きなよふかしのお化けが来る」
見つかると君の分のおやつも食べられてしまうぞ、としかめつらしく言うと、少女は楽しげな悲鳴を上げて頭まで毛布をかぶった。
「…キッチンのおかあさん」
「何かね」
「わたしたちがちゃんとねたら、おばけはこない?」
「来るかもしれない」
毛布越しのくぐもった問いに、青年は声をひそめて答える。
「もしこの部屋にも来たら、ジャックはちゃんと寝たと伝えておくよ。なに、案外見た目より気のいい奴だ」
「こわいかおなの?」
「どうだろうな。私も会ったことはないよ。おばけに見つからないよう、夜は静かに寝ているからね。」
「…わたしたちも、しずかにねる」
毛布から目だけを出したジャックは、適当な事を言う大人の言葉へ大真面目に頷いた。
いい子だ、と笑みを含んだ声で言うエミヤを見つめる。
「おかあさん、おやすみのキスは?」
「…寝なさい」
流石に手に余る。
その習慣がないエミヤは、少女の体を毛布で包みがてら背中をとんとんと手のひらで叩く。
ジャックもそれ以上ねだる事はなかった。
早々に目を閉じて体を丸くする。
青年は、見るともなしにその寝顔を眺めて呟いた。
「…何時ぶりだろうな。こうやって誰かと眠るのは」
誰に聞かせるでもない、彼自身も意図せずこぼれたような言葉だった。
途端、ジャックがぱち、と目を開く。
少女は、起こすような声量だったかと慌てるエミヤの首へ手を伸ばすと、よじ登るように腕を回して体を寄せた。
「わたしたちがだいてあげる」
薄い胸に青年の頭を抱えて、ジャックは呟く。
「…さみしくないよ」
反応しきれずにいるエミヤは、首筋に少女の指の冷たさを感じていた。
半ば眠りかけていたのか、ジャックの呼吸が次第に寝息のそれへと変わっていく。
くたりと力が抜けたのを見計らって、エミヤはそっと首をそらした。
ゆるく押されて、ジャックの指が解ける。
青年は薄い唇に笑みを乗せた。
まったく、これではどちらがおかあさんか分かったものではない。
腕を伸ばした拍子に肩から落ちた毛布で少女を覆ってやり、エミヤは温かな気持ちで目を閉じた。

翌朝。
与えられた以外の部屋から廊下へ飛び出して来た小さな殺人鬼と、小言を言いながらその背を追う赤い弓兵を目にしたクー・フーリンは軽く口笛を鳴らした。
ちらりと視線を寄越したエミヤは厭そうに眉を寄せたが、そんなのはいつもの事だ。
小走りに追いついて肩を組んだ。
「いい趣味してんじゃねぇかアーチャー。俺としてはもうちっと肉が付いてた方が好みだがよ」
「おにく?」
解体する?と聞きつけて駆け戻ってきたジャックの目の前ではあまり邪険に出来なかったのだろう、エミヤは軽く肘を上げて槍兵の腕を解く。
何もなかっただろう事など先刻承知、ただちょっかいをかけるネタが見つかった事を面白がっているクー・フーリンの獲物を見つけた獣のような笑顔を一瞥し、赤い弓兵は呟いた。
「…案外、悪くないものだよ」
げ、と一言、固まる男を置き去りに、手を繋いだ霧と灰のような髪の二人連れは廊下を進んでいく。
遠くで聞こえる
「マジで?」
の声に、エミヤは内心でたわけ、と返事をした。


睡眠は取る時と取らない時がある。
起きて、食事の用意と片付けを行う。
細々とした家事、英霊には必要ないかも知れないが感覚を損なわない為に行う鍛錬、
請われれば誰かと手合わせをする事もある。
居室に戻って武器の手入れ、投影のイメージ、書庫から借りてきた武器や戦術の本を読む事もある。
意識して規則正しく整えたカルデアの日常に、時折波が訪れる。
「おかあさん、わたしたちおかしをもらったから、おかあさんにわけてあげる」
「おせんたくできたの?わたしたちがはこんであげる」
「おかあさん、これ。たからさがしでみつけたの」
おかあさん、おかあさん。
ジャックはあの夜から、明らかにエミヤを気にかけている様子だった。
気に入られたもんだねぇ、と赤毛の女王に笑われて、なんと言ったものかと曖昧な笑みを返す。
相変わらずマスターがいる間は付いて回っているようだが、ふとした時にエミヤの元を訪れることが増えた。
「エミヤのお陰でジャックが落ち着いてきたみたいだ。ありがとうね」
主人である少年が笑顔で告げる。
あぁ、と歯切れ悪く応えるサーヴァントの様子に、マスターは少し首をかしげた。
「何かあった?」
問われてもエミヤは首を横に振るしかない。
あまり他人に好かれる性分ではないと自己を評価する赤い弓兵にとって、近頃のジャックは益々扱いにくい存在になっていた。
誰も泣かせたくない、誰も失いたくない、その為に最善を尽くす。
生前からずっとそうしてきた彼にとって、庇護されるべきは常に自分以外の誰かだ。
それなのにあの小さなアサシンは、保護者ぶったりはしないものの『おかあさん』が寂しくないように、一人にならないように心を割いているように見える。
子どものごっこ遊び、ままごとのようなものだと言ってしまえばそれまでだが、エミヤは消化しきれないものを抱えたまま日々を過ごしていた。
生まれたての動物を抱いた時のような、不安とあたたかいなにか。
ふと気付くと緑の瞳はそこにあって、エミヤをじっと見つめている。
「おかあさん、たまねぎむけたよ」
「…あぁ。次は人参を頼めるか?」
固い繊維質を削ぐ音、橙の薄皮を剥く子どもの手には皮剥き器でなく、握ったペティナイフがしっくりと馴染んでいる。
考えても仕方ない事を思うのは止めた筈だ。
弓兵は頭を振って思考を追い払い、食事の支度に専念することにした。


呼び出しを受けて向かった管制室では、レイシフトの準備がすっかり整っていた。
主人である少年と手をつないでいた淡い色の髪の少女が、耳聡くエミヤの足音を聞きつけて振り返る。
「わたしたち、おかあさんとおでかけする」
「同行は久々だな。よろしく」
軽く言った弓兵ににこりと笑顔を向け、マスターは包帯を巻きつけたジャックの手をつつく。
「ジャック、エミヤに迷惑かけないようにしなきゃね」
「だいじょうぶ。わたしたち、ころすのはとくいだよ」
当たり前のように言い、主を降り仰いで笑うアサシンの瞳は澄んで明るい。
「…ジャックは強いからね」
微笑んだ少年の、晴れた空のような瞳に走った一瞬の複雑な感情を弓兵はあえて看過する。
英霊を使役するには、その人間性を尊重することやサーヴァントの自己の内にあるマスター自身との価値観、倫理観との矛盾を消化することが含まれる。
丸ごと無視するのも魔術師にはままある事だが、少年のように互いの間に生じた違和感を手放さずにいるのも一つだ。
本人にとっては辛いかも知れないが。
そう思ってエミヤは主人の横顔を眺める。
そうこうしているうちに中央管制室にどやどやと雪崩れ込んできた人々が彼らを取り囲む。
レイシフトの開始だ。
霊子筐体に体を横たえながら、いつまでもこの感覚には慣れないとエミヤはわずかに顔をしかめる。
そもそもレイシフトの為の霊子筐体を『コフィン』…棺桶とは、悪趣味な名付け親のにやけ面が嫌でも目に浮かぶような命名だ。
自分は絶対にこれを使うことはないと確信していたであろう魔術師一流の冗談に奥歯を震わせて、かつて魔術師の端くれだった青年は目を閉じた。
カウントダウンが開始される。
覚醒したまま悪夢へ引きずり込まれるような感覚と共に、赤い弓兵の姿はカルデアから消え去った。


二体目の首を叩き落としたところで、頼光が落ちた。
背後から巨大な竜種の直撃を二発、スキルを使う間もなくバーサーカーの身では耐え切れない。
敵はあと一体を残している。
「私とした事がッ…!」
叫んで背後の少年を振り返った泣き出しそうな顔が、金色の粒子となって宙に消える。
ジャックは躊躇わなかった。
援護を待たずにくすんだ灰色の腹の下へ飛び込んで横に薙ぐ。
外皮ほどではないにしろ、竜の鱗は硬い。
手応えのなさに少女は瞳孔が広がるほど戦慄した。
怒り狂った竜種は天に首を一振りし、吼える。
「馬鹿者、指示も脱稿も間に合わん!チビすけめ!!」
咆哮にびりびりと耳を震わせながら、アンデルセンが開帳した宝具で衝撃を緩和する。
足元から噴き上がる魔力の奔流を受け、ジャックは力が湧いてくるのを感じた。
暗殺者の小さな背からどっと匂い立つ殺意に冷汗をかきながら、作家は背後の少年に視線を投げる。
勢いづかせてしまったか。
「いや、いい。ああなったジャックに俺の指示は通らない。アタッカーを任せて、援護する方向でいこう」
顔色は蒼白だが、五騎…四騎に減ったサーヴァントを従えたマスターは冷静だった。
おそらくレイシフトの座標に誤差が生じたのだ。
少年とサーヴァントたちが転送されたのは竜種の巣の真上、咄嗟にマスターを引き寄せ、軽業師のように身を返した頼光のおかげで墜落は免れたもの、縄張りを侵害された竜たちの怒りを買うのは必至だった。
救援を求めようにも通信は途絶され、腹を括った彼らは交戦を選択した。
どの道相手に地の利があり、更に巨体で退路を塞がれていてはマスターだけ離脱させるのも無理な話だ。
「エレナ頼む」
「任せなさい!」
鋭く応えて、目を閉じたエレナ・ブラヴァツキーは指先に凝らした魔力を周囲に展開する。
攻撃力は増したがこの規模の敵と対峙するには防御が心許ない。
アンデルセンは食い入るような目でジャックを見つめては、猛然とペンを走らせる。
二発目の宝具に備えているのだ。
アサシンの英霊であるジャック・ザ・リッパーの攻撃が通るということは、恐らく相手はライダーだ。
頼光を頼れない今、ジャックに道を開いて貰う他ない。
背後に少年をかばいながら、赤い弓兵の顔付きも厳しかった。
メンバーと敵の相性が悪過ぎる。
アンデルセンが必死なのはいつ竜種の攻撃がこちらに向くか分からないから、牙が届けばキャスターの彼はひとたまりもない。
同じくキャスターであるエレナは直撃を避けるべく遠隔から攻撃しているが、竜種の勢いを削ぐには至っていないように見えた。
エミヤは奥歯を噛みしめる。
歯の擦れる音に一瞬手を止めた作家は
「…逃げる算段はしておけ。こいつを連れてな」
ぼそりと言って長過ぎる白衣の手で汗に滑る眼鏡を押し上げた。
機動力に勝るサーヴァントがもうエミヤしかいない以上、撃って出るよりその方が現実的だろうが、彼の主義にはそぐわない。
目の前で少女が奮闘していれば尚更だ。
竜種は苛立っているようだった。
吹けば飛びそうな細い体の癖に与えられる斬撃は的確で、痛みに縛られた思考が攻撃を単調にしている。
竜が鋭い爪の生えた前脚を振り下ろす、横に飛んで避けたものの弾けた小石がかすめた頬を切る。
ジャックは血の滴る口元を無意識にほころばせた。
この臭いは身馴染みのあるもの、母の胎内のにおい、彼女を構成する気配そのものだ。
それが誰の…自分のものでも、敵のものでも構わない。
傷をスキルで癒し、必殺の一撃を躱すのも完全に考えの外だ。
この命を奪うにはどうしたらいいか。
細かな細かな一閃を繰り返しながら、ジャック・ザ・リッパーは目をすがめた。
背後で名を呼ぶ声がしたが、竜種の傷口を注視する彼女には届かない。
エレナが振り絞った魔力、マスターの礼装による回復と供給がジャックの体を一気に軽くする。
「…うん、ころしちゃおう」
ナイフを握り直し、少女はふっと肩の力を抜いた。
「此よりは地獄」
詠唱とともに、少女の体は闇に包まれる。
周囲にぼんやりと赤い灯りが浮き上がった。
いくつもいくつも現れる灯り、微かな生臭さが鼻をついて彼女のマスターは一瞬ぴくりと顔をしかめる。
生まれてこられなかったもの、この世に望まれなかったもの。
一人称が示す通り、ジャック・ザ・リッパーは子どもの無念の集合体として成り立つ英霊だ。
異様な気配を感じ取ったのか、竜種は低く警戒の唸り声をあげている。
「わたしたちは炎、雨、力ーー」
カッと吼えて、竜種が少女に突進した。
マスターは残り二画の令呪を切ろうと拳を構える。
「殺戮をここに」
赤く輝く紋章から魔力が放たれようとした刹那、ジャックの体が視界からかき消えた。
竜種は獲物を見失った驚きから目を見開いたが、その巨体の勢いは止まらない。
少年を庇ってアンデルセンが一歩前に出る。
エミヤがマスターを抱えて跳躍しようとした瞬間、
『解体聖母』
少女の細い声が響いた。
竜種は自分の身に起きた衝撃を理解しきれずに脚を止める。
空気が歪む音、凝縮された魔力を帯びてジャックの刃が硬い鱗を剥がして弾く。
斬りつけたのは何度も何度も狙った腹の一点、竜種の背後に姿を現した少女の体がそのさらに奥、臓腑へと沈む一撃を加えた。
竜種は喉に絡む声で鳴く。
断末魔に怒りや無念さは感じ取れなかった。
竜種は自身に何が起こったかを把握しきれないまま地響きと共に地へ伏した。
着地する体力が残っていなかったのか、暗殺者の英霊は切り裂いた勢いのまま前のめりに躓く。
一度、二度、水を切る小石のように跳ねて土埃を立てた体が地面を擦りながら止まる。
「ジャック!」
叫んでも全く反応しないのに焦れてマスターを地面に降ろすが早いか駆け出そうとした赤い弓兵は
「…まだよ」
突進した竜種に跳ね飛ばされ、息も絶え絶えなエレナの呟きを聞いた。
ぞっと総毛立った瞬間、魂消るような絶叫をあげて竜種が真っ赤な口を大きく開く。
既に生成されている火球、この距離でこの速さでは間に合わない。
咄嗟にマスターを抱きかかえて竜種に背を向けようとしたエミヤは、ふと体を揺らして、なんの気負いもなく攻撃の射線に立つものを目の端に捉えた。
おかあさん、と動いた口、少女は爪先に体重を乗せてくるりと竜種に向き直る。
凝縮された高温の炎は激しい音を立てて少女の体に炸裂した。
肉の焦げる臭いにその場の全員が呼吸を忘れる。
ジャックの受け止めた火球は幾分か威力を削られ、顔半分を舐めて逸れる。
背後で響く爆発に少女が倒れる音はかき消された。
「マスター」
エミヤは腕を離して彼の主人に告げた。
「魔力を回せ。…すぐ終わる」
歴戦の英霊は、妙にあどけない表情をしていた。
マスターの首に冷汗がどっと流れる。
奇妙に落ち着いた声色に突き動かされて、少年は令呪を解放する。
赤い弓兵の背から立ち昇る魔力が陽炎のように視界を歪めた。
「I am born of my sword…」
詠唱は短く、中空に表れて自身へ向かってくる無数の…無限の剣の雨を避ける術をもたない竜種は、最後まで激しく身悶えながら突き立つ刃に縫い止められて命を手放した。
竜種が霧散したことを確かめ、警告を最後に意識を失ったエレナを回収したエミヤは仰向けに倒れたままの少女に駆け寄る。
ジャックは酷い有り様だった。
「俺の宝具では焼け石に水だ、お前は帰還を要請しろ」
「分かってる!」
作家へ余裕なく叫び返した少年は既に顔色が無い。
火球をまともに喰らった上に、両腕に包むような形で勢いを殺いだせいでごっそり肉が溶け、顔の半分が焼け焦げて相貌の判別もつかなくなりそうな状態だ。
肩にエレナを担いだまま、傍らに膝をついたエミヤも言葉がない。
「…令呪は」
「使い切った。使い切ってこれだ」
分かりきった問いを、作家は囁くように返す。
その間も筆を走らせる手は休めない。
回復を担えるのは彼しかいないのだ、魔力の続く限り宝具を使うつもりだった。
耳慣れた通信音、状況を把握したカルデアが騒ぎになっているらしい音声が聞こえる。
はやく、なんでもいい、はやく。
ジャックが。
必死に訴える少年の声をエミヤは自分の悲鳴のように聞いた。


人間のようだな、とエミヤは呟く。
激しく霊基を損傷し、それを構成し直す為魔力の供給と調整を必要とする英霊は重傷患者よろしくステータスを機械に計測されている。
バイタルデータ。
もう死んだのに、生きてはいないのに。
(果たして彼女が『生きていた』ことはあるんだろうか)
生まれられなかった子どもたち、のことを考えて、エミヤは目を閉じる。
取り留めない思考は現実逃避の一環だと自分で理解している。
眼前の少女は、英霊とマスター共用の棺…レイシフト筐体、コフィン…から出られもしない。
予断を許さない状況だ、と聞いた。
事実ロマニとダ・ヴィンチは彼らが血みどろで戻ってから、休んでいない。
(言い訳はしないよ)
その創造と知性で英霊の座に選ばれた碩学は、厳しい顔で告げた。
レイシフトの位置がずれて転送されたこと、その為に通信が遮断され、充分なモニタリングが出来なかったこと。
以前にもあったことだ。
レイシフトは万全ではない。むしろ、些細な条件の違いがどんな影響を及ぼすか把握しきれない部分がある。
「それでも、やっぱり間違いは間違いだ。そして被害を被ったのは私ではなく君達だ。そこの司令官殿かこのダ・ヴィンチちゃんを煮るなり焼くなりレアプリにするなり気が済むようにしてくれて構わない、君達にはその権利がある。但し、ジャック・ザ・リッパーの霊基が安定してからね」
長ったらしくきっぱりと言い切って、天才は職務に戻る。
全員が口を利かなかった。
血と肉に塗れて肩を落とすマスターに声をかけられるものはなかった。
「…俺は、寝る」
ギリギリまで魔力を尽くして遂に白衣を実体化出来なくなったアンデルセンがよたよたと寝室へ向かったのを皮切りに、各々が休息を取った。
人事不省のエレナを職員に預けて自室に戻ったエミヤは、回らない思考をベッドに投げて横になる。
令呪の魔力を受けて宝具を開帳した以外マスターの護衛に徹していたエミヤはほぼ無傷だった。
マスターが身を守れない以上、それは必要なことだ。
しかしその為に、自分とその主人を慕う少女が焦げて溶けて深い傷を負うことがあって良い訳がない。
「…くそッ!!」
呻いて、英霊はマットレスを拳で叩く。
誰かを守る為に生きて死んだ筈だった。
目前で傷付く者も救えずに何が守護者だと、赤い弓兵は己を呪った。
瞼を閉じると負傷したジャックの姿が浮かぶ。
居ても立ってもいられず、エミヤは起き上がった。
深夜のカルデアは、サーヴァントや職員たちで賑わう昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
白を基調としたつくりのせいで、がらんとした廊下は余計に寒々しい。
沈黙、静寂を是とする施設…例えば教会や寺院、病院、聖堂を連想させる、とエミヤは思う。
ここに居る者は大半が死者だ。
そして生者は、世界を救う為に死者を使う。
その使命を負った少年は、血の気の薄い顔でコフィンに手を当て、硝子越しに彼が召喚した英霊を見つめていた。
「…マスター」
声をかけるまで気付きもしなかったのだろう、少年はハッとして顔を上げる。
「エミヤ。休んでなくて大丈夫なの」
「私の台詞だ。鏡を見たか?活きのいい死体のような顔色だぞ」
「ひっどいな」
自分の頬を撫で、力なく笑った少年は医療チェック用の薄いパジャマを羽織ったままだった。
半端に裾から余ったむき出しの脚がいたわしい。
「せめて何か羽織りまえ」
「うん…」
気のない様子で返事をして、少年はまたジャックの棺を覗き込む。
「近くにいた方がすこしマシかなと思って。俺の血でもなんでも使って欲しいんだけど、ここにいる英霊はジャックだけじゃないから。治療にそんなコストは割けなくて」
「あぁ」
「部屋、帰ったんだけど。眠れなかった」
「私もだ」
行って弓兵は夜目にも鮮やかな赤い上着の前紐を解く。
彼の主人は体温の残るそれを着せかけられるままに腕を通した。
長さも幅も持て余す上着の袖を折りながら、少年はぼんやりと言う。
「かばわれちゃうときついね」
「…君ではないかも知れん」
意味を掴み損ねて振り仰ぐと、赤い弓兵は見たこともないような顔をして言う。
「ジャック・ザ・リッパーが近頃私を妙に気にかけていたのは、君も知っているだろう。彼女が火球の前へ立つ寸前に、目が合ったような気がした」
沈んだ声だった。
少年は、無機質な鋼色の瞳にたたえられた悲しみが胸に刺さるのを感じた。
「結果は変わらないかもしれん。私は君を抱えていたのだから。しかし」
弓兵は言い淀んで唇を噛む。
庇われたことが、傷を負ったのが自分ではなかったことが罪であるかのような言いように彼の主人は強く首を横に振った。
「ジャックがエミヤの為に攻撃を防いでくれたんなら尚更だ。俺は、褒めてやりたいよ」
「褒められるような事ではないだろう。…私の失態だ。君にジャックの御し方を意見しようとしていながら、自分の行動が伴わなかった。彼女の不安定さを鑑みて、距離を取ればよかったものを」
心地良いと思ってしまった。
子犬のように足元へまとわりついてくるジャック、親愛の示し方を知らない彼女の拙い関わり方を嬉しく思ってしまった。
サーヴァントがサーヴァントを庇って戦闘不能になることなど本来は有り得ないし、あってはならない。
それでもジャックとエミヤの…ジャック・ザ・リッパーと『おかあさん』の関係であれば、想定できたことだった。
「エミヤ」
カルデアに初めて彼女が召喚された頃、おかあさんと呼ばれて大いに戸惑った事を思い出し、少年は苦く笑った。
「それでもさ。俺にしか興味なくて、一日中俺としか話さないし離れなかったジャックがエミヤとかブーディカと仲良くしてくれてるのが、俺は本当に嬉しいんだ。マスターとしては間違ってるのかも知れないけど、ジャックがそう変わっていってくれたのもカルデアの皆がジャックを受け入れて、関わってくれたからだと思ってる。勿論ジャックの事好きな人ばっかりじゃないけどさ」
「…」
レイシフトで少年が留守にすると、すれ違った誰もがジャックの『おかあさん』になり得る。
生者も死者も、そんな彼女を露骨に避けたり邪険にすることが当然あった。
そうやって扱われると彼女はふっと霊体化して姿を消すか、レイシフトルームの前で膝を抱えている。
一番最初にそうしていたところを見つけたのがエミヤだ。
困っている人間を見過ごすことが出来ない性分、そのせいで抱え込んだのがジャック・ザ・リッパーという小さく、むず痒い厄介ごとだった。
「ジャックが布団にいるとさ、子猫みたいだなってよく思ってた。子猫って一緒に寝たりするとうっかり潰しちゃいそうで怖くない?」
「そうだな。…兎のようだと、思ったことはある」
脆く、重みのある温かな命。
気配に敏く、熟睡していると思えばぴょこんと布団から顔を出してすっ飛んでいく。
「ウサギっぽいかな」
「君と私の前でそう違うとも思えないがね」
戦闘から戻って初めて、少年と弓兵はちいさく笑いあった。
自然に視線を向けたコフィンの中、小動物に例えられた少女は損傷のなかった片目を瞬かせる。
「!ジャック!!」
叫んで硝子に張り付くふたりを認めて、ジャック・ザ・リッパーはゆっくりと口を動かした。
おかあさん、と。
































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