「さて、人払いって程ではないけども、余程のことがない限りここには朝まで誰も来ないよ」
フィールドに出ても良かったんだけどね、と彼女は言った。気軽な話し方だけれど、しっかりと準備をしてきていたことが察せられたし、それを隠すつもりもないようだ。
私としても、部屋に閉じこもっていたことで気分が落ち込んでいたのはあったと思うから、できるなら外に出たいとは思った。思ったのだけれど。
「ごめんなさい。怪我の方はともかく、寝たきりで筋力が落ちていて。今メルノスに掴まったら、途中で握力がなくなってしまいそうだったので……」
「あら、それについちゃ気にしなさんな。あんたの病状をきちんと把握してなかったこっちが悪いんだからさ。あと、その他人行儀な話し方はどうしたんだい。前みたいに話してくれた方がこっちも気軽なんだけどね」
フィールドマスターの提案は少し、いやとても難しいことだった。
そもそも、もし過去の私に出会えたとしたら、彼女にはもう少し敬って接しなさいと言いたくなるくらいなのだ。編纂者の勉強をするにつれて、彼女の実績は身に染みて伝わってくるものだから。
「それに、ここも悪くないよ。居住区の喧騒もほどほどに遠いし、病室だから作りがしっかりしてる。さて、話すだけだから楽にしときなよ」
フィールドマスターは慣れた手つきでランタンに火を入れた。窓から差し込む月光と導蟲以外の、穏やかな光源ができあがる。
「おや、この火の色合いは見たことがないね。それとも硝子に色が入っているのかな」
「あ、えっと。火の色が違うので合ってます。ランタンには植物油か鉱油を使うことはご存じかと思うんですけど、最近新しい油がいくつか開発されて。芯に鋼糸を組み合わせると火の色が変わるんです」
「そりゃ知らなんだ。新しい鉱油っていうと、龍結晶の?」
「はい。あとは、古代樹の森の沿岸部の、ゾラ・マグダラオスが上陸した辺りに地脈が露出してて。あそこからも採れます。火の持ちはそんなに変わらないらしいですけど……個人で使う分には自由に買えて、ちょっとした流行りみたいです」
「そうなのかい。あたしがいない間にアステラも変わっていくもんだね。……しかしよかった、あたしはほっとしたよ」
えっ、と思ってランタンに向けていた視線を戻すと、フィールドマスターは穏やかな笑みを浮かべていた。
「さっきまで本当に生気がなかったからね。ほんとに今までどうしてきたんだいって思ってたのさ。でも、あんたはちゃんと調査団員になったんだね。そういう顔ができてる」
そう言えば、今のやり取りの間は雑念が消えていたような気がする。
それは、この拠点やフィールドでランタンに火を入れることを今までに何十回も、何百回も繰り返してきたから。その行為は、今や無数にある日常の仕草のひとつと化していた。
そう言えば、編纂者としてフィールドマスターと接するのはこれが初めてだ。それは五期団になってから彼女と会っていなかったから当たり前なのだけれど、フィールドマスターには殊更に目新しく映るのかもしれない。
曖昧な返事を返して、しばらくしてから会話が途切れてしまっていることに気付く。
私がこのまま黙り続けていたら、あちらから話しかけてくれるのだろう。でも、確かに私は彼女に話さないといけないことが、いや、謝らなければいけないことがあるのだ。
何度か、言葉を口の中で転がした。
「……フィールドマスター」
「ん、なんだい?」
「その、ごめんなさい。子どものときの約束を……破ってしまって」
大人になったら、外に出れるようになったら、一緒に冒険をしてほしい。それが、十年前にフィールドマスターと交わした約束だ。
当時、指切りで小指を絡めたことをよく覚えている。あのときは、未来がこんなことになるなんて思いもしていなかった。
「ちゃんと会いに行けなくて、ごめんなさい」
結局、今日この日に至るまで、彼女とは顔を合わせようとしていなかった。
このようなかたちで彼女が会いに来てくれなければ、もうずっとそのままだったかもしれない。いつか、ちゃんと謝らないといけないと思い続けていながら、何度もそれを後回しにした。
「また自分勝手なことをしてしまって、ごめんなさい……」
そして私は、過ちを繰り返す。
フィールドマスターは恐らく、今回の出来事の詳細を知っている。そうでなければ、ほとんど軟禁状態だった私の下へは駆け付けられない。それと同じく、十年前の私に何があったかも概ね把握しているだろう。
こうやって何度も謝ることを、望まれてはいないかもしれない。でも、それが何も生まずとも、私はそうするべきだと思った。
私が言葉を連ねるのを、フィールドマスターは黙って聞いていた。
失望させてしまっただろうか、とか、怒らせてしまっただろうか、とか。怖がって身構えようとする自分がいる。けれど、フィールドマスターはそういう人ではない、という気持ちもあった。だから、私もただ返答を待つしかない。
滝の音が聞こえる。風が近くの木々を揺らす音も、メルノスの鳴き声も。
静かでも、決して無音ではない。たくさんの命が朝日を待つ、夜の時間。しかし調査拠点アステラは完全には眠らず、この時間でも調査に出向く人を見送り、帰りが遅くなってしまった人を出迎える。
私はこの拠点の日常の中で生きてきて、馴染んでいて、たくさんの苦労にも見舞われたけれど、決して嫌いではなかったのだろうな、と思った。
「まいったね。先に謝られたら、言おうとしてたことが飛んじゃったよ」
「……え?」
フィールドマスターの呟きに、私は思わず聞き返してしまった。
彼女はやんわりと苦笑いを浮かべていて、今言ったことは聞き間違いではないようだった。
「どうしてって顔をしてるね。たしかにあんたは思いつかないかもしれないよ。だいたい、こっちの事情の話だからね」
頭に疑問符を浮かべてしまう。さっきまで私がまとっていただろうしんみりとした雰囲気は風に吹かれて、目を開いて彼女を見てしまう。
フィールドマスターはそんな私を見て苦笑いを深めた後に、少し声の調子を落ち着かせた。
「あんたの事情を知ったのは、あんたが新大陸にいられなくなってから二年くらい後のことだった。いつものように各地を歩き回ってね。戻ってきたときはアステラが大所帯になってて驚いたものさ」
それは、私の知らない新大陸側の十年間。そう言えば、そういう話はあまり聞いてこなかった。
当時、私と入れ替わるように入ってきたのが四期団の人たちだった。それまでのアステラは百人くらいの人しかいなかったから、一気に人の数が増えたことになる。
フィールドマスターの驚きは、新大陸に戻ってきた私が初めに抱いた感傷に似ている気がする。彼女もまた、飛び飛びの時間軸で拠点の歴史を見ていたのだ。
「拠点は賑やかになったけど、あんたの姿は見かけなかった。あんたに用意した土産話は四期団の連中に振る舞われることになったよ」
当時、ただひとり大峡谷を越えて陸珊瑚と瘴気の峡谷へと踏み入ることができた人。メルノスも付き従えず、単身で。あの逆立った岩山に何度も挑んで、越えてきた。
今でもその話を聞きたがる人は多い。当時の私も、それはもう目を輝かせていた。
四期団の人たちに囲まれる姿が目に浮かぶようだった。それは想像でしかなく、私はその場に居合わせなかったわけだけれど。
「調査拠点のあんたの家、今は解体されてるけども、あんたたちがいなくなってからしばらくは残されていたのを知ってるかい?」
「……いえ、初耳でした」
「そうかい。たぶん、あんたの両親がそのうち戻ってくるんじゃないかって思われてたんだろうね。新大陸との連絡船も何年かに一度は出ていたから。でも、あんたらの家族は戻ってこなくて、四期団に明け渡すために一度解体されることになった」
「…………」
このことに関して、私は語るべき言葉を持たない。ただ、事実を飲み込んでいくことくらいしか、できない。
ただ、フィールドマスターがこういう話を切り出してきたことが少し不思議だった。彼女は回りくどく話したり、盛り上げて話したりするような人ではないから、必要な話なのだろうけれど。
「私も偶然、そのときに拠点に戻ってきていてね。あんたの母とも面識があったから、無理言って立ち入らせてもらったのさ」
「何もなかったんじゃないですか……? お父さんもお母さんも、荷物はしっかり持ってきてましたから」
「そうだね。まさに空き家という感じだったよ。手入れはされてたけど、数年前から生活の痕跡がなかった。でも、あんたたちのことを思い出しながら部屋を眺めてたのさ。そしたら……」
フィールドマスターはそう言うと、鞄を弄ってあるものを取り出し、私にかざして見せた。
本らしきもの。暗闇ではっきりと判別できない。かまどの灯りをもとに目を凝らしてそれを見て、私は思わずあっと声を上げた。
その表紙には大きく生物と書かれている。一見すれば勉強用の冊子だけれど、中身は違う。私はそのことを知っている。私だから、知っているのだ。
「木を隠すには森の中。あたしが教えたんだっけ? 本は個人の所有物だけど、教本だけは調査団の持ち物だから持って帰れないし、大人が中身を気にすることも少ない。よく考えたものだと思ったよ」
私のお父さんもお母さんも、敏い人だった。子どもが下手に何かを隠そうとしたところで、すぐに気付かれてしまうだろう。子どもの隠し事をすぐに暴く人でもないとは思うけれど、怪しまれることに変わりはない。
だからあえて、両親の目が届く場所にそれを置いていた。ほとんど賭けに等しく、よく隠し通せたものだと思う。
でも、おかげで私は学者さんのところに行く振りをして堂々とその冊子を持ち出し、あの離れの物置に行くことができた。
私が現大陸に連れ出されたとき、冊子が持ち出されることはなかった。十年越しに戻ってきたときには行方が分からなくなっていて、雑紙と一緒に処分されてしまったのだろうと思っていた。
それを今、フィールドマスターが手に持っている。こうして保存していたということは間違いない。彼女は、その中身を読んだのだ。
もう細部の記述までは憶えていない。でも、大まかな内容は分かる。即答できる。なぜならその本は全て、一匹のモンスターについて綴られたものだから。
「拠点の連中からおおまかな経緯は聞いた。あんたが負った怪我の重さも、あんたの両親の決断も。
その上でこの本を見つけて、失礼だけど、読ませてもらった。そして、アタシは思ったのさ。思ったどころか、拠点の連中に食ってかかりたいくらいだった」
フィールドマスターはぱらぱらと冊子をめくる。
ランタンの明かりは間近に置けば何とか本が読めるか、という程度のもの。夜中だから光量を押さえている。だから彼女はここで読もうとはしていないのだろう。ただ、思い出を辿るために本を開いている。
彼女は、呟いた。
「どうして、あんたをここに残してやれなかったんだ、って」
その呟きを反芻し、その意味を把握するまでに、何秒を要しただろう。
「…………え?」
「フフ、あの総司令辺りが聞いたら仰天しそうだね。でも本心さ。あたしはもう、この本を持って指令室に突撃して呼び戻そうと思ったくらいだったからね。いや、そうできなかったことを、今でも後悔してるよ」
当時のことを思い出しているのか、フィールドマスターはしみじみと語る。
私はと言うと、いろいろと戸惑っていた。なにか、そこまで思わせるだけのものがその冊子にあったのだろうか。自分では、分からなかった。
「この本は、たぶんあんたが思ってる以上の価値があるのさ。いや、あたしたちを突き動かす燃料とも言えるかもしれないね」
「それは、どういう……」
「ひとつは、あんたの将来が垣間見えたことさ。これはいい研究者になるって、直感でね。
自分が不思議に思うところを見つけて、それを調べる方法を自分で考えて、試して、自分でまとめる。この本はそれがちゃんと実践されてたから、当時は感心したものさ」
「それは、あなたが大切なことだって教えてくれたから……」
「そうなんだろうね。でも、誰にでもできることじゃない。常に考え続けていないと、それはできない。あの総司令の孫と一緒に調査団を引っ張っていく姿が目に浮かんだよ。──でも、あんたのこの記録は途切れてしまった。あたしたちの采配で、ね」
そう語るフィールドマスターは本当に悔しがってそうで、私はまだ実感が追いついていなかった。
当時はただ、かのトビカガチについて知りたい一心だった。フィールドマスターや研究者の人たちに背伸びして教えてもらった研究という行為を、幼心ながらに解釈して、真似事をしているばかりだった。
当時は誰も褒めてはくれなかった。当然だ。だって、誰にも見せていなかったのだから。
先生役の学者の人たちに見せれば、他の勉強のように何らかの反応を返してはくれただろう。でも、この本だけは誰にも見せるわけにはいかなかったから、評価の仕様がなかったのだ。
そんな、もうこの世にはないだろうと思っていたメモを、十年越しに第三者の手で語られている。そう思うと、なんだか恥ずかしい気持ちになった。つい謙遜の言葉を言いたくなってしまう、けれど。
「……でも、それはやっぱりあなたのおかげなんです。フィールドマスター。私が編纂者になれたのは、あなたや拠点の学者さんたちが大切なことをたくさん教えてくれたからなんです」
「そうかい。あたしたちにとっては何よりも嬉しい言葉だね。あんたこそ、あれだけのことがあってよく新大陸に戻ってきてくれたよ。現大陸でも頑張って勉強して、編纂者の資格を得たんだろう。本当に、よく戻ってきてくれたね」
フィールドマスターのその言葉に、じわりと視界が滲んだ。ランタンの火がぼやけて見える。
ここに戻ってきてから褒められたことは何度もあった。けれど、いつも過去の自分とトビカガチ、フィールドマスターのことが頭によぎって、素直に受け取ることができていなかった。
私が新大陸に戻ってくることを本心から祝福してくれる人なんて、いないと思い込んでいた。だから、こうやって労わられるだけで、感情が崩れてしまいそうになる。
でも、と私は心の中でひとり呟く。どうして、とも。
それは、まさに今、フィールドマスターが讃えてくれた編纂者という役職から、私が外されるかどうかの瀬戸際にいるからだ。それも、自分から投げ捨てに行くようなかたちで。
私はもう、どんな顔をすればいいのか分からない。嬉しいという久しぶりの感覚に、悲しいのと無念さがないまぜになって、だから泣きそうになっているのかもしれなかった。
「まだまだ、あんたに言ってやらないといけないことがある。聞いてくれるかい?」
「……聞きます。聞かせてください」
私の体調を気遣ってくれているのかもしれないけれど、それこそ今は後回しだ。話せることは、全部話してもらおう。私はちゃんと聞いておかないといけない。
この日が、フィールドマスターと話せる最後の日になるかもしれないから。
「実はね。いや、あんたは察していたのかもしれないけど、子どもの時のあんたが今の修練場で何かしてるってのは皆気付いていたのさ。人やアイルーが様子を見に行くこともあった」
それは初めて聞く話だった。しかし、驚きはほとんどなかった。
私の方でも、子どものときから薄々勘づいてはいたからだ。トビカガチはたまに、こちらの指示なく草むらや岩陰に身を隠すことがあった。
これは大人になってみないと分からない。大人は子どもに比べて視野が広いから、景色を俯瞰したり、薄く注意を広げたりすることができる。
そんな大人たちが大半を占めるアステラで、半年以上も子どもの私を放置し続けるなんて、それこそありえないことなのだ。
「あんたは先生たちの宿題もしっかりこなして、両親の言いつけもしっかり守って、楽しそうに遊びに行くんだって料理場のアイルーが言ってたよ。あたしはその辺の方針決めにほとんど関わってないけれど、要は見逃されていたんだね」
「……でも、そうやって見逃された私は、調査拠点から抜け出した」
「そう。これは件の竜とあんたの熱意が一枚、いや、何枚も上手だった。まいったね。想像力を全力ではたらかせろっていうのが調査団の理念なのに、ぜんぜん足りてなかったんだよ」
「子どもが拠点の離れでこっそり大型モンスターの幼体を手なづけていて、それに乗って拠点から抜け出すなんて、想定外にも程がある気はします……」
「あんたがそれを言うのかい? まあ、そうだね。今のあたしでも難しいかも。でもそれならそれで、あの件はお互い様なのさ。たぶんあんたは、自分が全部悪いって思っているだろうけど。
あんたは確かに言いつけを破った。調査団はそれを想定しきれていなかったし、何より、対処が遅すぎたんだ。それであんたは、一生ものの傷を負ってしまった」
フィールドマスターはまた悔しそうな顔をした。その表情を見つめる。
なんだか、この人もこういう話題で感情を見せることがあるんだな、と思った。だって、布団から傷だらけの顔を出したときも、少し眉を上げただけでそれという声掛けもなかったからだ。
私の中でのフィールドマスターは本当に新大陸そのものに関心が向いていて、この手の話には頓着しないというか、こんなことで悩まない人だった。だからこそ、その姿は私にとってとても意外に映った。
「重い後遺症はないって聞くけど、本当かい?」
「は、はい。子どものときの傷は、少し腕が上げづらくなったくらいなので。仕事に支障はなかったです。
今回のも肉離れはあっても大きな腱が切れたりとかはしてませんし、肌もしばらくは弱くなっちゃうそうですけど……それも代謝が進めばましになるってお医者さんが言ってました」
「うーむ……。それは重いような気がするけど、あんたがそう言うならね。まあ命あっての物種だし、現場に復帰できるのならそれが一番か。それで、トビカガチの方は?」
「…………そうですね。彼は大丈夫だと思います。大事になる前に逃げることができたので」
「そうかい。うん、それはよかった」
とうとう、その話題に触れた。思わず身構えてしまう自分を、少し恨めしく思う。
続く言葉を待つ。彼女の話すことに関してだけは、目を逸らしてはいけない。
「今回の件を含めて、一度どころか二度までも、調査団は全て後手に回った。
すまないね。あんたが規則を破ったからなんて、そんな固い考えだけであんたを追い出そうとしているわけじゃないんだ。どちらかと言えば、どうやったらあんたが無事でいられるか、で議論しているのさ。
まあ、見事にすれ違っているから擁護のしようがないけれど……」
そう言って彼女は嘆息する。私も、彼女が言ったことの中身は間違っていないと思っている。
彼女のいうすれ違いは個人の認識や解釈に基づくもので、しかも相手が竜となると相当に強固になる。人と竜の因縁はそれだけ深い。だから、私は諦めてしまった。
「その本と、今回の件であたしは思った。あんたとトビカガチの繋がりは、もう切っても切れないものだ。互いが、互いを必要としているんだろうって」
「……!」
他の人からそういう推測が聞けるとは思ってもなくて、私は驚いた。彼女がそれをためらわずに言ったことも。
これは当事者にしか分からないし、他の人は忌避するものだ。そう思っていたから。
「勝手に話を進めてしまってすまないね。あたしも全ての事情を把握しているわけではないし、憶測で言うべきことでもないのだけれど」
その上で、推測には限界があることも正直に告げる。その人本人にはなることはできないから、どんなに材料が揃っていても、決めつけることはできない、と。
「だから、その確認に来た」
ひゅう、と夜風が吹く。海から陸地へと吹き上げる風。それは僅かに開かれた窓から入って、吊り下がった服や紐を少しだけ揺らした。
フィールドマスターの目と、私の目が合った。その瞳の色も、まっすぐさも、かつての彼女と変わらない。新大陸に生きる人の目だ。
「つらいかもしれないけれど、あんたの本心を教えてくれないかい。
あんたにとって、調査団は信用できないかもしれない。もう心を閉ざしてしまっているかもしれない。それだけの仕打ちを、調査団はあんたにやってきた。
それでも、知らないあたしたちにその心を教えてやってほしいんだ」
私は、彼女が言う程に、調査団に恨みは抱いていない。むしろ今でも、私がいちばん好きな組織だと言い切れる。
ふがいないのは、そんな調査団ですら居場所を保てなくなりつつあった自分自身だった。そういう意味で、私は心を閉ざしてしまったと言えるのかもしれない。
ただ、今はそれより先に話すべきことが。今まで生きてきて初めて、他の人に話したいことがある。
フィールドマスターの言葉に、私は頷き返した。
「…………」
いざ口を開こうとすると、うまく言葉が出てこない自分が居た。それほどまでに自分の中で何重にも網を被せた心情なのだ。
いざ蓋を開けてみると、すごい量の言葉や想いが溢れ出てくるかもしれない。逆に、全く言葉を組み立てることができないまま、二言三言で終わってしまうかもしれない。
それを前もって言うと、フィールドマスターはそれでいいんだと笑った。秘密なんて、そういうものよね、と。
怖がる自分の背中を押すのは結局、話相手への信頼に尽きるのだろう、と思う。そして、その相手として、今ここにいるフィールドマスター以上の人はいない。
彼女は子どもの私の手記を読んで、真摯に向き合ってくれている。その上で私の内心を知りたいと言ってくれている。だからきっと大丈夫だと、自分に言い聞かせて。
「……私は、自分の意思でトビカガチに付き添いました。それがどんな形であれ、彼の背に乗って森を走りたいって、そう願ったんです」
罪の告白のような話し方は望まれていない。ただそのときに思ったことを。ありのままに。
私は静かに、自分の半生を辿っていった。
色んなことを話した。全部とは言わずとも、本当にたくさんのことを。
子どものときにどんな出会い方をして、どのような触れ合い方をして、その間にあった事件にはどのようなことがあって、どうして拠点の外に出るに至ったのか。
現大陸に連れていかれた後のことも。同年代の子どもたちにうまく馴染めなかったことも、調査団に志願したいと言って、両親と何度も話し合いを重ねたことも。
新大陸に来てから今日に至るまでの日々。トビカガチとの思わぬ再開があった。子どもの時とは違う手段で距離感を探っていた。
しかしそれは薄氷の静穏に過ぎなくて、奇しくも依然と同じような状況で、彼は火竜に襲われ、結果的に私は重傷を負ってアステラへと担ぎ込まれた。
私の十年間。まだ二十歳になりきれない、私の人生の半分を話した。
もう半分、初めの十年弱は既に彼女に知られている。調査拠点で私は生まれ育ったからだ。だからこれで、ざっくりと全てということになる。
今どんなことで悩み、苦しんでいたのかも、できる限り言葉にした。編纂者という身でありながらしっかりと言語化できた自信がなくて、でも言葉が詰まるたびにフィールドマスターは頷いて待ってくれた。
話し疲れた、と感じるのは何時振りだろうか。編纂者としても、聞き手に回ることの方が多かったから。それこそ、まだ明るい性格だったころ、現大陸に渡る前に遡るかもしれない。
それだけ話すことが苦手でも、最後に。この勢いで話さないと、きっとずっと自分の口から出てくることはないから。
「トビカガチと一緒に……生きたいです。気兼ねなく彼に会いたいです。彼と一緒に森を駆けまわることが……。今も昔も、私の夢なんです」
その声は、少し掠れていたと思う。涙声になるのは避けられなかった。
言葉にして誰かに伝えると、自分の耳にも届くからだろうか。切なくて、そういう感傷とは切り離さないといけないと思っていても、滲み出てきてしまうものがある。
自分で言っていても子どもじみているというか。でも、素の自分はそこにいるんだろうなと改めて思った。
編纂者という役職で自分を取り繕って、その中身は。叶いそうで叶わない物語を、ずっと夢に見続けている。
……誰かに話せてよかった。なんだか、すごく切ないけれど、少し心が軽くなったようだ。それだけで十分だ。本当に、十分に報われた────。
「……それがあんたの気持ちなんだね。ネウ。よし、これはもう動かない理由がないね」
目の前でうんうんと頷くフィールドマスターが、むしろここからという雰囲気でいることに、私は今になってようやく気付いた。
「あたしが掛け合ってくるよ。十年前にあんたが現大陸行きになったときに何もできなかった分も含めて、今にぶつけないとね」
「────」
「あたしの考えてた案もちょうどよさそうな感じだし、走らせちゃってもいいかもしれないね。日程を考えておかないと」
「ま、まって。ちょっと待ってください。それは、どういう……?」
急な展開に思考が置いていかれている。
断片的に頭に入ってきたことを繋ぎ合わせると、フィールドマスターが私の処遇を決めた人たちと喧嘩するということだろうか。それは……あまりに申し訳なさすぎる。
そんなことをフィールドマスターに言うと、彼女は苦笑して答えた。
「そんな大層なことじゃあないさ。さっき言ったように、連中も同じように困ってる。そこに意見を伝えに行くだけさ。そこに理屈がちゃんと伴っていれば、彼らは頷いてくれるはずだよ」
そうなのだろうか。それなら、大丈夫なのか。
と、流されてしまいそうな自分を踏み止める。
彼女がしようとしていることは、私にとっては信じられないくらいに嬉しいことだと思う。まだ感情が追いついていないけれど。
どうしてそこまで、と聞くのは無粋なことかもしれない。フィールドマスターの言う通り、無茶を押し通すようなことでもないのかもしれない。
それでも、怪我のせいで軟禁状態にあった私にはほとんど不可能に等しい手段だった。何の誇張もなく、一筋の光と言ってもいいものだった。
だから、言うべきはお礼なのだろうか。それともやはり、その真意を尋ねるべきなのだろうか。そんなことをぐるぐると考えていたときに、ふと自分の体が温かいものに包まれていることに気付く。
私をそっと抱きしめたフィールドマスターは、昔の私に語って聞かせるような優しい声で。
「あんたは、あんたの望みを言っていいんだよ。ネウ」
と、私に言った。
「そりゃあ、現大陸だと難しい話かもしれない。人と竜が一緒に生きたいって言うんなら、それこそ人の社会から縁を切らないといけないかもしれないね。実はそういう人は少なくないんじゃないかって思ってるよ。
でも、ここは新大陸だ。新大陸古龍調査団は人と竜の調和を謳っていて、想像力と新しい発想を常に追い求めているんだ。
……そんな中で、あんたとトビカガチの繋がりが配慮されないなんてこと、あっていいわけがないだろう?」
「さっき、あんたに先に謝られて言おうとしてたことが飛んだって言ったね。
あたしはね。今日、あんたとトビカガチの関係を調査団に支援させてくれって話を言いに来たのさ。
あんたは調査団に残っていい。あんたは調査団に居ながら、トビカガチに会いに行っていいんだ。そこに差別や偏見がないことを、あたしたちは目指すべきなんだから」
その言葉でもう、私は耐えられなくなった。人に抱きしめられるのは久しぶりだったから、それも感情の抑えを緩めていて。
わんわん泣くという表現は、まさに今の私を指すのだろう。大粒の涙が次から次へと零れ出て、嗚咽が止まらない。
私のような人が、こんなに人に優しくされていいのか。優しさというものを受け取ってもいいのか。慣れていないから、その止め方も分からない。
異常だと思っていたことが受け入れられるのは、こんなにも心を洗い流すものなのか。自分の中での鬱屈した想いが、涙に溶けだしていっているようだった。
たとえそれが一時的なものだったとしても、今の安心感はこの十年にずっと得られずにいた。それだけで言葉にし難い意味がある。
フィールドマスターが私の頭を撫でる。まるで、十年前の私をあやすかのように。
自分の身がどうこうというよりも、ただフィールドマスターが抱きしめてくれたことと、彼女が投げかけてくれた言葉に、心の底から安心して。
私はみっともなく、泣き続けていた。