再び目を覚ましたとき、目の前にあったのは森の中の木漏れ日ではなく、木板が敷き詰められた天井だった。
自分の記憶を辿り、あの夜から今このときの間に何も覚えがないことを認識したとき、様々なことが手遅れになっていることを悟った。
私は森の中で、私の捜索に出ていたハンターの手によって見つかった。
新大陸では外に出るハンターや編纂者の匂いを、あらかじめ導蟲に覚えさせている。彼らの力を借りて探し出されたのだろう。
今の私は患者用の服に着替えさせられている。各所に包帯も巻かれていた。というより、文字通り包帯でぐるぐる巻きにされていた。
命に別状は、あった。とのことだった。特に皮膚の損傷が激しかった。
トビカガチの雷の基点は私たちにも身近な静電気だけれど、それも主武装として突き詰めれば十分な殺傷力を持つに至る。一瞬触れるだけでも怪我をするそれに、晒され続ける選択をした。
全身の筋肉の損傷と、広範囲にわたる火傷、擦過傷。なにかに体中を締め付けられたかのような挫傷。高熱が何日も続いて、その間ずっとうなされていた。
どれも重症と呼べる症状で、それらが重なったことで重篤な状態を招いた。皮膚の手術が何度かあったらしいけど、全く覚えていなかった。
ハンターという人たちは大抵、こういう怪我すら初めてではなく、欠損でもしていなければ割とすぐに復帰してしまう。
対して私は、彼らと体のつくりが違う、とまでは言わないけれど、病室から出るには時間がかかりそうだった。
痛み止めに処方される、眠り草の成分を混ぜた薬。その副作用で意識がはっきりとせず、ぼうっとしてしまう。体力や筋力がどんどん衰えていく喪失感すら、霞のように掴みどころがなかった。
医療班直轄の病室の片隅で日々を過ごす。調査団の日常から少し距離が置かれた場所。私への対応は丁重で、そっとしておかれている、という感覚があった。
不幸中の幸いと言うべきか、私を保護したハンターの人は誠実でいてくれて、この一件がアステラで噂になることはなかった。
ただ、調査団が組織である以上、上層部への報告の義務はあるし、関係者へはある程度の情報を共有しないといけない。今までのことをベッドに横たわる私に伝えた、お医者さんのように。
「……今のあなたは外傷だけでなく、精神的なショックを受けた患者さんという扱いになっています。私以外の方はこのことを知りませんし、他言もしません。……しばらくは絶対安静とのことです。どうか、お大事に」
看護師の人は、終始親切だった。それは素直にありがたくて、でも、同じくらいに心を暗くさせた。
変に気を遣われてごまかされるよりかは良かったのかもしれない。そういう配慮は、きっと仇にしかならない。
私は、トビカガチに執拗に傷つけられた人として保護されているのだ。
自分の意思で行動した私としては、それは違うと咄嗟に言いたくなる。
けれど、その起点がトビカガチであることに変わりはない。それは他ならない調査班リーダーから証言されたもので、反論の余地のないものだった。
実際、私が連れ去られる場面だけを見ればそうなのだ。私自身、未だに戸惑いの方が大きかった。
物事の当事者の気持ちなんて、そんなものなのかもしれない。何かが起こったからと言って、急に自覚が芽生えるわけではないのだから。
けれども、調査団という組織を前にそんな悠長な気持ちは通じなかった。
私を襲ったことにされているトビカガチに関する話題が、いくつか舞い込んでくるようになったのだ。なんと、私を救助したハンターとの面会も許された。
……最初から情報が遮断されなかったのは、軟禁状態にある私に対するせめてもの配慮だったのかもしれない。私も、それを望んでいた。
あの日、トビカガチと共に森を駆けて、私が気を失った後のこと。
夜が明けて、日が十分に登った頃合いに私の行方が特定された。ずいぶんと早いのは、調査班リーダーが手早く救難信号を打ち上げたからだろう。
彼はリオレウス亜種と一進一退の攻防を繰り広げ、いくらか怪我はしたようだけれど、なんとか無事に凌いで調査班に託したらしい。
まずはほっとすると共に、あの強大な竜を相手に一人で立ち回ることのできる強かさをしみじみと思う。
私を見つけた人が彼でなくてよかった。そういうことに疎いかどうかは分からないけれど、私の姿を見て、自責の念に駆られるようなことはあってほしくない。責任感が強い人だから、なおさらだ。
私はトビカガチに樹の上へと運び込まれた。古代樹ほど大きくはないけれど、大型の竜でも寝そべることができるほどの幹の太さがあり、天井部が平たくなっている。かの竜が好む場所だった。
トビカガチは獲物を捕らえると、木の上へと運び込む習性がある。それを取り戻すということは彼の所有物を奪うということであり、ハンターはだいぶ冷汗をかいたとのこと。
そしてトビカガチもまた、木の上で私の傍にうずくまっていた。
本来は、彼こそ戦い明けで休息が必要な身だ。手負いの竜は恐ろしいから、ハンターはさらに緊張しただろう。
実際、何度か威嚇もされたという。ハンターもほとんど臨戦態勢だった。けれど結局襲われるには至らず、私の身柄は回収された。
そのときに私の様子は、革の装備はぼろぼろに破れ、全身からじくじくとした血を流し、酷い有様だった。
しかもトビカガチの羽毛まみれになっていたはず。何があったかなんてその場では把握しきれなかっただろう。
しかし、僅かにその胸が上下し、呼吸とみられる仕草が目に入った時点で、ハンターは気持ちを切り替えた。それができるのが、彼らのすごいところだ。
トビカガチは相手がハンターであることを悟って手を出さなかったのだろうか。恐らく違うと彼は言った。その場は完全にトビカガチに有利な場で、いつ木の上から叩き落されてもおかしくはなかったらしい。
では、なぜトビカガチは動かなかったのか。
それは、彼の傷の治りが悪かったというより、彼自身がその場で最も困惑しているようだったから、だったそうだ。
自身の思い描いていたものとは全く違う光景を前に、どうしたらいいか分からなくなった青年のようだった、と。
ハンターから語られた、私の救出までの過程。
それを聞いた私は、トビカガチをはじめとするモンスターと人との違いを思い返していた。
モンスターは人からすれば驚異的なまでの生命力を持っていて、致命傷や大きな欠損でもしていない限り、自力で傷を治すことができる。
なんとか人がハンターとして立ち向かえているのは、彼らがその潜在的な力の大部分を外界への干渉や、それに耐えうる身体の維持に使っているからだ。
それは筋肉であり、火炎袋であり、電気を扱えるほどの部位の発達だったりする。
これだけ多様な進化を遂げておきながら、他の生物との戦いという原始的な在り方に未だ力の多くを割いている。人はその力にあやかっているに過ぎない。
もし、彼ら竜たちがもっと自分の命を守ることに、体の構造の面からはたらきかけるようになってしまったら。それこそ噂に聞くネルギガンテのような、傷つけても傷つけても、修復の速さの方が上回ってしまうような悪夢に陥るだろうとのことだった。
ただ、それらは全て、人の視点から彼らを見たときの話。同族の社会に閉じこもる私たちの抱く所感だ。
彼らにとっては、その生命力、たとえその力の多くを外敵への対処に回していても、空腹でさえなければ一晩で大概の傷が癒える在り方が当たり前だった。
そうでもなければ明日の我が身が危ういし、それができない個体はすぐに淘汰されて目には入らない。
故に、そう。トビカガチは期待していたのだろう。
このところ物騒な古代樹の森で、挙句に蒼火竜に追いかけ回され、散々な目に遭った。その最中に私を見つけて、真っ先に捕まえて逃げることにした。私の隣にいた人に蒼火竜を押し付けることもできた。
寝床まで戻ったときの私は危うく死にかけてたけれど、彼もまたそれを確認する余裕はなく、あるいはそれが自分のしたこととは認識できなかったのかもしれない。
蒼火竜が暴れていた場で出くわして、誰だって怪我をしていた、とか。そういう発想をしていたんじゃないだろうか。
彼も自分の生命力は本能的に分かっているはず。一晩寝れば止血は済んでいるし、ある程度動けるようになる。
かくして朝になって、私が目覚めることはなかった。
夜に聞いたようなか細い呼吸のまま、出血も皮膚の治りも遅々たるもので、今にも掻き消えそうな命がそこにいた。
死んでしまうと、彼は思ったのではないだろうか。実際はそこまではなかったのだけれど、その判断が彼にできるわけもない。
だから、自分の寝床にハンターが訪れても、私に触れて運び出そうとしても何もしなかった。できなかったのだと思う。
目の前にあるものが自分とは異なる命であることを思い知らされて、怖くなった。
いや、それは人間的すぎる見方だ。単に戸惑ったとか、興味を失った、あるいは質が変わった、とも。
そもそも、なぜ彼は蒼火竜との決死の攻防を繰り広げている最中に、私を連れ去ろうとしたのか。
分からない。私はその結果しか汲み取れない。それは災害から我が子を守るような行動だったのかもしれないし、強い負荷がかかっている中で、見知った存在が近くにいたから咄嗟に頼ろうとしたのかもしれない。
トビカガチはリオス種などと違って、ほとんど独り身で生きる。繁殖も淡白なものだという推測がされていた。頭の良さはともかく情は薄い竜だと、そう言われていたのだ。
だからこそ、その行動は全く予想ができなかった。
思い付きの行動にしたって、その発想のためには心の部分での基礎が必要だ。そのそもの土壌がなければ、大抵の植物は芽を出せないように。
トビカガチは種としてそういう土壌をほとんど持たないと、私ですらそう思っていたのに。
そのとき、ふと思いついた。
あれは、彼が私に対して取った能動的な行動としては、最初と言ってもいいくらい前例のないものだったな、と。
思いつくと当時に、心拍数が上がった。それが嬉しさとか思慕から来るものであればどんなによかったか。
私はただ、自分が彼にしてしまったことの重大さに触れて、不安というか、恐怖に近いものを感じて、忙しなく心臓を脈打たせていた。
竜や獣は純粋な生き物だ。なにかきっかけでもない限りは、同種とそう変わらない生態を自然と身に着ける。
翻せば、何か環境や境遇に大きな変化や負荷がかかった場合、生き方が変わり行く可能性も持っている。
そのきっかけが、かの竜の年少時代にあるとするなら。
誰が、トビカガチをここまで変えてしまったのだろう。
その一件以降、トビカガチは様子が変わってしまった。調査団の人たちのモンスターライドの呼びかけに応えてくれなくなったのだ。
それどころか、縄張りに入ろうとする人を追い払おうとするような行動まで見られたという。大事にはならなかったみたいだけれど、今までの彼の寛容さからすると驚くべき変化だ。
私は拠点の中でその話を聞くだけで、実際の様子を見に行けてはいない。でも、それは彼が不機嫌になったというよりも、人との距離感が掴めなくなった、というのが適切な気がした。
あるいは、人と自身が違う存在であることを分かってしまったが故に、疑い深くなっているのかもしれない。人との距離を知ってしまった、とも。感覚とは、別の話だ。
そんな背景を通じて、トビカガチの立場は危ういものになりつつあった。
トビカガチは人に協力していたけれど、やはり人ではない。竜に人の法が敷かれる義理はなくて、だからこそ、調査団内では誰かの倫理観に委ねられてしまう。
意図的に人に危害を加えるようになってしまった竜は、折り合いがつかなければ討伐の任務が出る。それが調査団の線引きだ。その線引きに、私とトビカガチの一件は触れてしまうのか。
……私へ与えられた情報は、そこで途絶えていた。以降のことは何も分からない。トビカガチの処遇を決める話し合いにも、参加させてもらえなかった。
歯がゆさはあった。けれど、それも道理だろうという暗い諦念が内心に影を落としているのも事実だった。
私はこの件について、根本的に信用されていないのだ。子どもの頃の、あの一件があるから。
同じ竜を相手に二度も問題を起こした、そういう認識の人もいるかもしれない。
もしトビカガチが狩猟される運びになれば、また十年前のような行動を取りかねない。人々がそう考えるのも、ある意味では自然なことだった。
まただ、と思う。
また私は、部外者として扱われたまま、物事の行末をただ待つだけの立場に置かれてしまった。
これで私が現大陸に返されることになったら、もう嗤うしかない。十年前と全く同じ展開だ。そして、その可能性は十分にある。
そのときの私の帰還理由は、私の精神的な安寧を考慮して、ということになるのだろう。
もう間違えない、間違えたくないと思いながら新大陸に戻ってきたのに、この様だ。
いったいどこで私は誤ってしまったのだろう。心のどこかでそれを予感しながら、どうして修正しきれなかったのだろう。
トビカガチと蒼火竜が争っていたあのとき、調査班リーダーの介入がなければ、トビカガチはあそこで致命傷を負っていたかもしれない。
その点で言えば、彼の命が長らえるなら、という見方はできなくもない。けれど、その先にあった行為が、彼の立場を危ういものにしてしまった。
これも私が子どもだった頃と重なっている。トビカガチは悪くない。彼との関わりの全てにおいて、その責任は私にある。
そんな主張こそ、竜が相手では通用するはずもないことを、私は学んでしまっている。
その竜は人にとって特に危ないと言えるか、言えないか。全ての判断はそこに立ち返る。私の責任の話など、介入の余地はどこにもないのだ。
隔離された部屋の中、鏡なんて洒落たものはないけれど、硝子張りの窓や、桶に入った水が光を反射して、私の姿を映し出す。
そこにあった私の顔は。ああ、私はまだ、こういうことで揺れる心を持っていたんだな、と。
少しだけ感じていたお母さんの面影は、今は見る影もない。
電撃と火花は私の肌に刻み込まれて、幾重にも刻まれた皺となってその痕を残していた。異様に白かったり黒かったりする火傷の痕は、まるでつぎはぎの人形を彷彿とさせた。
患者服の帯を解いて、全身の素肌を晒す。
こちらにも、まるで大量の蜘蛛の巣を刺青でも入れたのかのような、全身を覆い尽くすほどの感電痕が奔っていた。
皮膚の代謝が進めば多少は消えるかもしれないが、と医者の人は言っていた。一生消えないことも、覚悟しておいた方がいい、とも。
でも、その宣告に対する私の反応は淡々としたものだった。それこそ、さっき少し動揺したことの方が驚きだったくらいだ。
だって、私の体は以前からまっさらではなかったから。
電撃が這い回った表皮の、さらに下地に。隠せないほどのはっきりと塗りたくられている、肩口から胸にかけての大きな爪痕。子どものときの、罪の証だ。
これが残ってしまった時点で、人なりの幸せというか、そういうのは絶たれているだろうから、重ねられたところで今更、とは思う。それが、強がりでしかなくても。
ベッドの上に、私は寝転がった。
いろんなことを考えるのが、今はしんどかった。
心が弱ると身体も動かなくなることは知っていた。罪悪感に不安感、無力感。今回のそれは、いつにも増して重かった。
自分の思考すら信用できなくなって、目を閉じて。
唯一はっきりしている記憶として瞼の裏側に蘇るのは、トビカガチと夜の森を駆けたこと。
それがどんなに醜い姿であれ、私はトビカガチの背に乗っていた。この混迷した状況が、それが私の夢ではないことを何よりも示している。
私もまた、トビカガチを強く求めた。電撃にさらされながら、彼を抱きしめることを止めなかった。自分の中にそういう強い気持ちがあることを、知った。
いろんな、いろんな感情があるのだ。私と彼の間には、きっと。それが、私だけが向けるものだったとしても。
十年前に出会って、半年近く密会を重ねて。たぶん、お互いの心のとても大きなところに居着いてしまった。その心のかたちが人と竜で違っても、その形成に大きな影響を与えたことには違いない。
そして、その関係は唐突に断ち切られた。私たちは人と竜で、どこかで解けることは必然だったとしても。互いによって作られた心に大きな傷を負うような別れになってしまった。
そして、十年の時を経てまた出会う。私は本当に驚いて、彼の方もたぶん、驚いて。その手法を変えながら、また以前のような関係を築こうとした。
けれど、やはりうまくいかないのだ。私がいろんな知識を詰め込んでも、彼が以前よりずっと強くなっても、新大陸と、調査団に対して私たちの存在は小さかった。
子どもの頃に無邪気に思い描いていた、トビカガチの背に乗って森を走る自分の姿。その願いは思いの他に根強く、もしかすると心の根底にまで根を伸ばしていたのかもしれない。
だって、それはとてもきれいだった。
人が徒歩で行けば何時間とかかるだろう森の中を疾走する白藍の竜。時に木々を潜り抜け、時に木々の枝を伝って、時にふわりと浮きながら。
私はその景色が見たくて、私がずっと思い描いていた夢に手を伸ばして、彼の尻尾の拘束を解き、彼と同じ視点に立とうとした。
電撃に目を焼かれて霞んだ視界の中でも、鮮明に覚えている。鞍も何も身に着けていなかったからこそ、ちりちりと雷を迸らせながら走るその姿は美しかった。
そして、彼が駆けることで舞う羽毛は、繊細で、自ら白い光を放ち、地面に落ちるとそっとその光を失う。森の中で雪が舞い散るようだ。
伝承に聞く幻獣を彷彿とさせる、けれどかの龍のように幻想を纏わず、確と生きていることを感じさせる、そんな白藍の羽たち。
子どものときに知った。彼の背中から見る景色は、ジャグラスやケストドンには代わることのできない、特別なものだ。
だから、また乗りたい。いつか気兼ねなく、彼の背に跨る日が来ればいい。
言葉にすればたったそれだけの願いは、一度目は瀕死の重傷を負って現大陸へ飛ばされ、二度目はこのようなかたちで迎えることになった。
子どもの頃はすぐに埋められると思っていた人と竜の距離が、今はもう、こんなにも遠く感じる。
私が不器用すぎるのかもしれない。自分一人で考えて、物事をどんどん複雑化させてしまって、もっと簡潔で、昔は見えていたはずの意志が、今はもう感じ取ることすらできなくなってしまった。
それが、とても寂しい。
「……ッ」
不意に涙が出てきて、込み上げてきたものをぐっと堪えた。
別に誰も見てはいないし、勝手に泣けばいいと思う。何を意固地になっているのか。自分でも答えを出せないまま、布団を自分の身体に被せて、枕に顔を埋めた。包帯が擦れた皮膚が、じわりと痛んだ。
被害者面をしていれば、何かしらの恩赦が下されるかもしれない。けれど、そんな器用なことはきっとできない。
どちらにせよ、トビカガチと私の関係に大きな制限がかかるだろうことは間違いないのだ。であればせめて、自分のしたこととしてそれを受け止める。
これはそのための心の準備だ。この肌を人に見られて投げかけられるだろう反応も、トビカガチの討伐の話を聞くことになるかもしれない未来も。
目を逸らしてしまっても、せめて崩れ落ちずに立ち続けられるように。
誰にも助けてなんて言えない。言えないから自分の中でぐるぐると回す。これまでだってそうしてきた。だから、これからもずっと────。
「あら、ずいぶんと参ってるみたいじゃないか」
────ぎし、と。木の床を踏む音がした。
その声はここにいる間ずっと聞いていた看護師さんのものではなくて、でも、とても聞き覚えがあるというか、とても懐かしいというか。
少し低くなって、また深くなった。その記憶を探り当てたとき、私は思わず飛び起きそうになった。
信じられないという気持ちで、恐る恐る布団から顔を出す。
「こんばんは。久しぶりだね、ネウ」
そこに立っていた人は、緑皮の軽装に大きなゴーグル、旧式のスリンガーを身に着けて。
以前より体や顔の皺は多く、深くなって。でも肉体の衰えはほとんど感じられない、眼光も全く鈍ってはいない。私が、調査団で最も憧れていた女性。
「フィールドマスター……」
「こんなところに何日もいたらさすがに飽きるんじゃないかい? 気分転換にでもなったらと思って、こっちに来てみたよ」
大丈夫、あんたらの上の人たちにはちゃんと話を通してあるからね、と彼女は笑ってみせた。
いつの間にか、病室に備え付けの机には黒糖入りの湯呑みと焼き菓子が置かれ、私はベッドの端に、フィールドマスターは来室者用の椅子に腰かけていた。
そんな、一陣の風のような事の進みもまた、彼女が未だ現役で各地を駆け回っていることの証拠のように思えた。