白藍の羽を梳けたなら(全年齢版)   作:Senritsu

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第9話 鮮烈な生き方を

 

 もし、このときのトビカガチの帯電がもっと強かったなら、私はここで命を落としていたかもしれない。

 蒼火竜との戦いで何度か吹き飛ばされたときに、電気がいくらか削がれていたのだろう。私は心臓や喉などの発作を起こすことなく、意識も保つことができていた。

 

 ただ、それは逆に言えば、気絶することもできずに延々と電撃に晒され続けるという、まさに生き地獄だ。

 特に皮膚と筋肉が深刻な状態であろうことは感じ取れた。ふつうは人体を通っていくはずのないものが流れていく、その過程で、切り刻まれるように肉が千切れていく感触だけが届いた。

 トビカガチは走り続けている。しかし、私を巻き包む尻尾は決して安定しているとは言えない。もともとそういう使い方をする尾ではないから。

 中途半端に落とされれば、私は身動きが取れないまま地面に転がることになる。命の危険がより身近になるだろうことは違いない。

 

 だから────私は、トビカガチの毛を掴んだ。

 

「ぐっ……!」

 

 トビカガチがくぐもった声を上げ、走りながら尻尾を少し乱暴に振る。それだけで私の身体は数度地面に叩かれ、呻き声が漏れる。

 やめろと言っているのだろう。彼らにとってはとても重要で、敏感な器官だ。

 しかし、それでも彼は私の拘束を解こうとはしなかった。そして私も、この手を離すつもりはない。

 もう何度も試みて失敗しているのだ。腕を伸ばして何かを掴む、手を握るという動作すら、雷が這い回るこの身体では何十回も意志を込めないと動いてくれない。

 

「うぅ……ぐ、ぅ……!」

 

 揺れ動くトビカガチの背の上を、少しずつ少しずつ、這い上がる。ほふくの訓練よりも尚遅い。落ちないように体勢を保つことに、力の大部分を注いでしまっている。

 飛び散る静電気で目が焼けるように痛い。瞼や唇が何度もひくつき、舌を噛まないための布なんてすぐに放してしまった。舌を必死に引っ込めて、そのせいで何度もえずいている。

 

 何度か挫きかけた。気合でどうにかできるなら、私は今頃ハンターになれている。

 足りない力を何度も嘆いて、無様なくらいに泣いて、咽て、静電気に身体を包まれながら、意地になって指を動かして、なんとか、ぎりぎりで。

 私は、トビカガチの背中に跨った。

 

 跨った、と言うには不格好に過ぎる。ほとんどしがみついているのと同じで、そうでなければあっさりと転落するからだ。

 けれど、少なくとも尻尾の拘束からは抜け出した。さらに、トビカガチの姿勢もかなり安定した。彼の重心の多くを占めるのが尻尾だ。私が背中に移動したことで、本来の姿勢を保つ役割を取り戻している。

 

 そして私も、ようやく。前を見ることができる。

 彼が向かおうとしているところを見て、その足取りを感じ取ることができる。

 目元を拭った。その涙は感傷でも嬉しさでもなく、ひたすらに痛いから。ただ、慣れとは恐ろしいもので、あるいは雷のやられのせいか、腰から下の感覚は麻痺しつつあるようだった。

 

 彼への騎乗はこれで二度目、子どもの時以来だ。まさか、こんな状況で迎えることになるとは思ってもいなかった。

 十年越しであれど、私は憶えている。何度だって悪夢で見た。どうやったら彼に指示を通すことができるのかも、彼への体重の預け方も。

 最後にはあの火竜に襲われて瀕死の怪我を負う、幸せから転げ落ちるような夢の中で。私は何度も、彼の背中に乗る感触を味わっている。

 

 痙攣する瞼をこじ開けて景色を見る。小枝や草の葉が当たるのはもう避けようがない。とにかく、空を見上げる。

 リオレウス亜種は追ってきてはいないようだ。あの火球の燃え上がるような光も見えない。調査団リーダーが引き付けてくれているか、とにかく、あの場からはもうかなり遠ざかっているらしい。

 木々の隙間から夜空と月が見える。満月だ。月光はともすれば私たちの影をつくるほどで、おかげで夜中でも暗闇を減らしている。

 

 遠く、さらに遠くに、切り立った岩山が見えた。

 大峡谷だ。見えたのは一瞬だけ。でも、この新大陸に生きる人々なら、それが見えただけで自分がどの位置にいて、どの方位に向かっているかは把握できる。

 蒼火竜と遭遇した場所、そしてトビカガチが走って行く方向から推測するに、恐らく彼は自身の巣に帰ろうとしている。概ね予想の通りだ。

 

 前方を見やれば、暗闇が濃い道と薄い道に分かれている。トビカガチは未だに蒼火竜を警戒しているのか、暗い方へと進路を取ろうとしていた。

 滲む涙と眼前の電光で、景色としては何も読み取れないけれど、木々と密度と起伏の多さの違いだろうことは感じ取れた。

 

 少しだけ、自分の体重を傾ける。

 より明るい方へ。そちらの方が速い。私を乗せている分、深い森はなおさら進みにくいだろう。

 もしリオレウス亜種が空から追ってきていたなら、どのみち見つかってしまう。それなら、より安全な彼の寝床に早く辿り着く道を選びたい。私の、体力的にも。

 

 果たして、トビカガチは私の存在を確かめるように後ろを振り向くと、私が体重を傾けた方へと自身の身体を傾けた。重心を保つ尻尾は反対方向へ振れる。

 覚えていた。子どものときに編み出した、とても原始的な指示だ。でも、こんな状況でありながらも、その手ごたえは嬉しかった。

 ふと、彼の前脚から後ろ脚にかけて広がる皮膜が鐙の役割を果たすことに気が付いた。これなら、握力も脚力もほとんどない今でもこうして意図を伝え続けることができる。

 

 トビカガチが走る。私は、耐える。

 月明かりの下の逃避行だ。

 前を向いて。痛みに混じって飛来する様々な感情を、ただ噛みしめていた。

 

 

 

 あれからどれくらいの時間が経っただろう。もしかしたら十分程度だったのかもしれないし、一時間は優に超えていたかもしれない。時間間隔が曖昧だ。

 トビカガチが立ち止まり、しばらくして私は地面に降りた、というより、落ちた。受け身なんて取れるはずもなかった。

 その拍子に口から吐瀉物が零れ出る。うまく嘔吐すらできなくて、息が止まりそうになって、やっとのことで咳き込んだ。身体を打ち付けてもいないのに血の味がする。

 

 このまま死ぬのかもしれない、とすら思った。心拍が正しく刻めていないのかもしれない。深刻な胸の痛みがあるのに、地面に倒れ伏したまま動けない。

 かひゅ、かひゅ、と微かな息が漏れた。無理をしてこじ開けていた目は焦点を結ぶことを放棄していた。

 眠れない。命の灯を、何か大きく暗い手に握られているような感覚で、眠れるはずもない。ただ、虚ろに目を開いて時間が過ぎるのを待つ。吹き返すか、冷たくなるか。

 

「────────」

 

 数秒が限りなく引き延ばされて、峠を、越えていく。

 本人の認識なんてあてにならないかもしれないけれど、今の数拍の間に山場があったような気がする。

 きっと息の仕方すら忘れて、命の火が掻き消える前に思い出せるかどうか。その瀬戸際だった。

 底に沈むようだった心音が、徐々に浮かび上がってくる。呼吸が少しだけ楽になった。呼吸とは呼べない何かから、かろうじて息をしているくらいに。

 

 後は、自分の身体を少しずつ取り戻していくだけ。

 こうして地面に横たわっている間に、身体にわだかまっていた電気は流れ落ちていったはずだ。そういう考えができるくらいに、意識も回復しつつある。

 虚脱感こそすごいけれど、彼の背中にしがみついていた時ほどの差し迫るような苦痛はない。攣ってしまって動かない筋肉は無理に動かさず、動く部位だけを這わせて腰元のポーチをまさぐる。

 

 編纂者用のポーチは容量重視で、頑丈さはハンターのそれよりも劣る。全て千切れていることも覚悟したけれど、取り零したのは冊子やスリンガー用の網など、半分程度に留まってくれていた。

 落し物は私の捜索の手がかりとして導蟲に辿られることになるだろう。そんなことを思いながら、無事だった金属製の水筒を手に取る。

 おぼつかない手つきで、なんとか口元にそれを持っていき、歯で栓を抜いて、一度口をゆすいでから中の水を飲んだ。容器に電流が流れて熱を持ったのか、少し生温い。

 

 何分もの時間をかけて一口の水を飲み、二口、三口。回復薬を飲むより先に、脱水による体調の悪循環を事前に防ぐ。

 そこまでして、ようやく一息ついた。さっきよりましとはいえ、顔から足のつま先までくまなく引き攣る痛みは止まない。もう少し程度が酷ければ、容易に気が触れていただろう。思ったよりも、だいぶきつい。

 

 長く続く耳鳴りの向こうで、がさがさと動く音を拾った気がする。

 トビカガチだろうか。たぶんそうだ。大型の竜種には入りづらい、太い枝葉を持つ木々が生い茂る彼の棲家。そこに辿り着いたことでようやく帯電を解いたのだろう。

 彼もまた、かなり消耗していたらしい。長いこと息を荒げていて、ようやく落ち着いてきたようだった。

 あれだけの争いをして、それから私という荷物を背負ったまま、休まずに走り続けたのだ。ともすればそれは、命を削ってでも、という気迫を感じる逃走劇だった。

 

 何がトビカガチをここまで駆り立てたのか。

 それを問う前に、私は少し眠った。気絶したと言ってもいいのかもしれない。命を守るために、それ以外の機能が閉ざされていく。

 

 その眠りを妨げるものはなかった。せいぜい羽虫が飛んでくる程度、でも、今の私には知覚できない。先の騒乱が嘘だったかのように、静かで暗い森の中だ。

 今はもう、それだけで十分だった。静けさというただそれだけのものがこんなにありがたく思えるのは、初めてのことかもしれなかった。

 今感じている安らぎも、つかの間で、薄氷を踏むような。そういう時なのだろう。

 そんなことを考えながら、意識を夜の森に溶かしていった。

 

 

 

 ふと、目を覚ます。

 何も特別なことはなく。眠るには適さない姿勢だったし、地面で寝ていたから、自然と目を開いてしまったのだ。

 微睡みは続いている。これでもう一度目を閉ざせば、今度こそ深い眠りに落ちてしまうだろう。

 

 ああ、皮膚が痛い。肉が痛い。体中に染みるような痛み。

 それに浸ってる合間に、自分ではない生き物の気配を感じ取った。

 

「……ッ」

 

 思わず声を上げそうになった。それは思っていたよりもずっと近くにいた。

 トビカガチだ。私の傍で眠っている。私を包み込んでいる。彼の尻尾と頭が私の周りを囲っている。

 すうすうと寝息を立てる。見れば、そこは先ほどまでの地面ではなかった。土や岩の感触はなく、膝の高さまであった下草も見当たらない。代わりに木の枝や葉が間近に見える。

 木の上。トビカガチの寝床か。私が眠っている間に、尻尾で包むか咥えるかして、ここまで運び込んだらしい。

 トビカガチの匂いと、体温を感じる。血の匂いも混じっていた。彼の前脚の辺りを枕のように使ってしまっていたけれど、咎められることはなかった。

 

 枝葉の隙間から僅かに月光が届く。星空と、月が見える。仰向けのまま夜空を見て、息を吸って、吐いた。

 トビカガチに、こういう生態はあっただろうか。ほとんどの時間を独り身で過ごす、かの竜に。

 蒼火竜に襲われたとき、私だけを見て攫ったのも、私を乗せて走り続けたのも、こうして私を懐の中に入れて眠るのも。なにか、人の言葉に当てはめてしまいそうになる。

 庇護、占有……分からない。竜の生態を学ぶ身でありながら、この様だ。ただ、少なくとも今この状況において、彼は大きく変わってしまったのだと思う。

 

 彼の目覚めが、少し怖い。でも、もう戻れない。

 生きているから、生きている限りはいろいろなことを考えるということができるし、そうするべきなのだけれど。痛みと眠気で霞みがかった思考では、疲れた、としか思えない。

 

 それに、私は……自分で自分に問いかける。

 私は今、笑っているのだろう? 

 

 穏やかだった。あれだけのことがあって、かつての瀕死の重傷に並ぶくらいの感覚を味わって、これから先のことなんて考えないようにしているくらいに暗い未来を予感していながら、今この時の私は、私の口元は緩んでいる。

 意識を手放す直前、確かな安らぎがあったと私は思っていた。それはきっと、私に限って正しい。そして、今も続いている。微睡みに夢の続きを見るように。

 

 ハンターや他の編纂者であれば、冷汗が一筋は伝うだろう。大きな竜が傍で眠っていて、自分はそれに囲まれて身動きをほとんど封じられているのだから。

 そんな中で、拠点のベッドで眠っていても得られなかった、どんなに強いハンターが傍に居ても感じることのなかった、暖かな想いを。

 

 私は、ここに居たかったんだな、と思う。

 

 ああ────矛盾するようなことを言うけど、どうしてまた、生き残ってしまったのか。

 トビカガチにばれないように、静かに涙を流す。こんな悲しみに心が流されてしまう前に、刹那の感情を抱きしめるように、自分から目を閉ざして眠りを誘う。

 この命がある限り、私は、人の社会に生きることを止められない。立て続けに異常が起こった末に私に訪れたものが、こんなに穏やかなものだと。知ってしまったら、私は。

 

 その場で動けないまま、動かないまま、深い眠りについているトビカガチの息づかいを、ずっと聞き続けていた。

 その緩やかな呼吸と心音に、ずっと、浸り続けていた。

 

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