第7話 不思議の国からの兆し
瘴気の谷が古龍たちの旅の終着点であり、新大陸全土の活力の供給源である。
そう結論付けたフィールドマスター直筆の論文は、瞬く間に調査団の間に知れ渡った。
概要だけでもかなり分厚い。原本となると、まるで連番の百科事典のようだった。全て読み込むには年単位の時間がかかりそうだったけれど、あのフィールドマスターのことだ。必要なことを必要なだけ、無駄なくまとめてもなお、これだけの時間と紙の束が必要だったのだろう。
本当に驚くべきは、これでフィールドマスターが竜人族ではなく、人間だということだ。
こういう何冊にも渡るような論文は、竜人が百年以上の時を用いて綴るもの。そんな風習を真正面から打ち砕くような。まさに、知の巨人のそれだった。
そんな巨人の手によって、新大陸の調査はゆっくりと、しかし力強く前へと進む。
瘴気の谷は階層構造になっていて、そこで死した古龍の肉体は下層に進むにつれて分解されていく。最終的には最下層のさらに地下の地脈へ、純度の高い特殊な熱量として届けられる。
それがいつもの古龍渡りの流れだ。幾度となく繰り返されたであろう循環だ。
しかし、かの龍、ゾラ・マグダラオスは瘴気の谷で眠りにつくことなく、痕跡だけを残して通り過ぎて行ってしまった。
いったいかの龍はどこへ向かおうとしているのか。その渡りに果てはあるのか。そんな問いに対しても、予測が立てられていた。
かの龍はどうやら、瘴気の谷による分解とろ過の過程を全て飛ばして、自ら地脈にその身を飛び込ませようとしている、そんな仮説だ。
どうしてそんなことをするのだろう。死に際の古龍は、何をそんなに焦っているのだろう。
その理由は未だに分かっていなかったけれど、その行為がどのような未来へ繋がるかは、この論文の概要のおかげでぼんやりと想像ができた。
二度目の迎撃戦。ゾラ・マグダラオス撃退作戦には、私も参加していた。
正直に言えば、皆が共有していた感慨や寂寥といった感情は、私からは少し遠いところにあったかもしれない。
それは、前に一度大峡谷でかの龍と向き合い、そして見送ったという一連の線が繋がっているからこそ、得ることのできた感情なのだろう。私は、その場に居合わせなかったから。
それでも、ゾラ・マグダラオスは大きかった。今にも熔けだしてしまいそうな熱を放っていて、海で出会ったときよりもさらに大きく見えた。
やはり、私は変わってしまったのだろうと改めて思う。
編纂者として他のハンターとフィールドに出ているとき、彼らに誘われて食事をするとき。調査拠点に十年振りに足を踏み入れたとき。アステラまでの船の中でスリンガーを弄っているとき。
調査団に入団するための筆記試験を解いているとき。調査団に入りたいと両親に告げたときに、語った言葉は。
あのときに語った想いは、全て偽りというわけではなかったはずだ。そして、今もまだ胸の内にある。十年前の自分がその瞳いっぱいに詰め込んでいたであろう、好奇心や探究心は決して消えてしまったわけではない。
ただ、少し分からなくなってしまった。
ゾラ・マグダラオスの腹部に砲弾が炸裂する。かの龍はそれでも歩みを止めず、調査団もまた、焦らない。地下の回廊に沿って帯状に展開された迎撃地点を渡り継ぐように、巨龍の背中を追いすがる。
ネルギガンテと呼ばれる黒い古龍が乱入してきた。ゾラ・マグダラオスの背中で工作活動をしていたハンターが次々と蹴散らされていく。
しかし、これも前回の経験から想定済みだったようだ。すぐさま救護班と応戦班に分かれてメルノスで飛び立ち、ネルギガンテの足止めを図る。
私もその折にゾラ・マグダラオスの背中に乗った。背中と言うより、殻らしいけど。
常に足元が揺れて、立っているのがやっとだった。それでも、これを地面だと錯覚してしまう。それくらいに広く、厚い。まるで、荒波に揉まれる船の中にいるようだ。
私は生まれ故郷であるアステラで生きたいと思って、それが目的で、今こうして居るのか。
それとも、あの竜と。トビカガチと自分との間に何かを見出したくて、その手段として調査団があるのか。
どちらが手段で、どちらが目的なのか。分からなくなり始めていた。
恐らく、どちらも本心なのだ。いろんな経緯があって、十年より前のことも、十年前から今までのことも、私にとっては同じくらいに重くて、でも、方向性だけがどうしようもなく違う。
それら二つはきっと、選ばないといけなくなるものだ。それは以前から薄々気付いていたことで、目の前にいるゾラ・マグダラオスの姿は、なぜだかその選択を強く思い起こさせた。
ネルギガンテをゾラ・マグダラオスからどうにか引き剥がして。地脈の源泉と目と鼻の先まで辿り着かれて。
迎え撃っては容赦なく圧し潰され、それでも耐えて、粘って、縋って。
やがて、その攻防の決着を告げる咆哮が回廊に響き渡る。
これまでほとんど怯む気配を見せなかったゾラ・マグダラオスは、その脚部に撃龍槍の渾身の一撃を受けて、初めて悲鳴のような声を轟かせた。
崩壊寸前の砦から背を向けて、外海へと去っていくその龍を、追いかける人は誰もいなかった。追いかける余力は誰にも残っていなかった。
かくして、五期団と共に海を渡ってきたゾラ・マグダラオスを巡る、奔走の日々は幕を閉じる。
ここに辿り着くまでに、調査班はリオレウスやディアブロスといった強大な竜種を狩猟してのけ、物資班は死に物狂いで資材や食料を手配し、研究班は膨大な量の編纂書を捌いて未知を切り拓いていった。
流石に休みがあってもいい。十年後、次の古龍渡りまでとなるとちょっと遅すぎるかもしれないけれど、五年くらいはこれまで駆け抜けた過程の埋め合わせでも元が取れそうだ。
やや他人事のようにそんなことを思って。でも、あれから半年も経たない内に、新たな要調査地が見つかったという知らせが入った。
龍結晶の地と呼ばれる火山地帯。生息しているモンスターの話を聞く限り、五期団を誘っているようにさえ感じられる環境だった。
そしてまた、人々は腰を上げる。
確かに、調査団の本懐である古龍渡りの原因そのものの解明には至っていない。ゾラ・マグダラオスはそれに連なる事象のひとつに過ぎない。
理屈でそれは分かっていても、なんとなく新大陸の方から急かされているような、そんな気さえする進展だった。
私情としては、相変わらず他の人とは違うことを考えつつも、まだいつもと同じ程度には落ち着けていた。
龍結晶の地から古代樹の森は遠い。大峡谷の内側へと行けるようになったときと同じように、新天地という話題が私とトビカガチを覆い隠してくれる。
もちろん、私も森にばかり引きこもってはいられないだろうけど。そこは様子を伺いながら、なるべく裏方へ回れるように、目立ちすぎないように。
既に一通りの調査を終えた、継続的な観察は必要だけれど、他に比べれば優先度は下がる、それくらいの立ち位置に落ち着ければいい。
そう思っていた。思っていた、という過去形での表現になる。
結論から言えば、一介の編纂者としては恥ずかしいくらいに、私の見立ては甘かった。
これまでとは質が違う。この地の常識を知っていくばかりだった日々の、その常識が変わっていく。
本格的な変動は、これからだったのだ。
「プケプケが荒地に……?」
巡回任務に就いていたハンターからそんな報告を受け取って、私は眉を顰めた。
リオレイアの見間違えじゃないか、と思ったけれど、それなりに経験を積んできたハンターがそんなミスをするとは考えにくし、プケプケとリオレイアでは体色も図体も大分違う。
でも、そのプケプケが荒地の岩場辺りまで来ていたと聞くと、やはり信じがたかった。前代未聞の出来事だ。
プケプケはかなり古代樹の森への適応が進んでしまっている。そんな彼が荒地の、それも草木が生えていないエリアに行くというのは、寒冷地の生物がいきなり熱帯に移動するのにも等しい。
つまり、そうせざるを得ないような、彼の身の回りで何か大きな出来事があったのだ。
そのプケプケについての調査を進めようとしていたところで、立て続けに報告が寄せられる。
同じく古代樹の森の固有種とされていたアンジャナフまでもが荒地に姿を現した。彼らに押し出されるようにして、ボルボロスやジュラトトスの行動にも変化が現れつつある。
それぞれを別件として扱うには、報告の間隔が短すぎる。恐らく一連の事象は繋がっている。その想定で人々は動き始めた。
龍結晶の地に出向いていた人員の一部が呼び戻されて、やや大規模な調査が行われることになった。狩猟と言うよりかは、観察や編纂の類だ。
私も当然、その調査に加わることになった。それどころか、今までの主な活動地域が森と荒地だったから、この件ではやや重めの立場を与えられてしまった。
自分の目立ちたくないが故の行動が裏目に出てしまったけれど、今回ばかりは仕方がない。それに、裁量を与えられることは悪いことばかりではないのだ。
モンスターたちの行動の変化に、あのトビカガチも加わっていないか、それが私の大きな心配事だった。
実際、彼とは別のトビカガチが、気性の荒くなったリオレイアと鉢合わせて縄張り争いへと発展し、重傷を負っていたという報告があった。全くもって他人事ではない。
そうやって不安や心配を抱いたときに、自分から調査クエストを発注して、それを自分で請けて外へと出向くことができる。今の立場だからこそ使える権限だ。
動機が不純で、職権乱用もはなはだしいと言ったところだけれど、今回の騒動の詳細を知りたいという点で目的は一致している。
調査の方も手を抜くつもりはない、という意思を免罪符にして、私は一人で森へと立ち入った。
古代樹から離れて、メルノスでの移動も交えながら一日ほど。それが現状のトビカガチの縄張りだ。森は大峡谷沿いにずっと続いている。我ながら、よく彼と巡り会うことができたものだと思う。
悪い想定として、彼もまた縄張りを移している可能性も考えていた。けれど、それは良い方向に裏切られる。私が縄張りに入って指笛を吹くと、ほどなくして彼が顔を出したのだ。
今のところ、彼自身がこの変動の影響を強く受けているというわけではないらしい。
ただ、私が彼と共に腰を下ろして休んでいたとき、彼が顔を上げて周囲を見渡す頻度がいつもよりも多かった。
何か明確な敵を警戒している、というよりは、単純に落ち着いていない様子だった。
見回りも頻繁になっているようで、少し共に時間を過ごしたと思ったら、早々に立ち上がって歩いていってしまう。
観察目的で付いていってもよかったのだけど、その脚の付け根にあった真新しい傷痕を見て思い止まる。
「待って」
呼び止めると、トビカガチは指示に従ったものの、少し体毛を帯電させていた。あまり長い時間はかけられない。
傷痕に直に触れないように注意しながら、そっと脚を診る。
噛傷でも裂傷でもない、爛れたような傷。火傷とも似て非なる。だとすれば、毒物や酸の部類か。
思い当たるのは、ドスジャグラスだ。彼は吐瀉物を攻撃手段として用いてきて、それには胃酸が含まれているため、皮膚に直接浴びたりすると似たような傷ができる。
普段はトビカガチにはあまり干渉してこない竜だけれど、それこそこの状況だ。配下のジャグラスを引き連れて、引越しを企てていたのかもしれない。その過程にトビカガチの縄張りがあって、交戦になった。
ある程度でもこの推測が正しければ、トビカガチの落ち着きがないのも道理だ。このまま留めるのも彼にとっては負担だろう。
特に傷の処理はせずに、診察だけで早々に切り上げた。解散の合図でトビカガチはすぐに走っていく。私は私で一応の目的は果たしたので、拠点に帰ることにした。
軽い気持ちで治療しようとして、彼の痛覚を刺激してしまったものなら。私のこの防具はあっという間に引き裂かれて血塗れになるだろう。
それが、人に慣れる生き物ではない彼らが人との間に引く一線だ。これがアイルーであれば、話は別だったかもしれないけれど。
拠点に帰ってくると、いくつかの資料や報告書が机の上に置かれていた。この仕事の多さは、好きではなかったら大変だっただろうなと思う。
それらに目を通しながら、全体として何が起こっているか、という情報を自分の中で刷新する。さらにその中で自分はどこを調べ、行動を起こすべきかを考えていく。
組織での調査の基本ともいえる習慣だ。今回は規模が規模なので、口で言っても実践は難しいけれど。
学者たちの議論に同席して議事録を取りながら、ハンターのクエストに同行して情報を集めながら。たまにトビカガチに会いに行って様子を見ながら休んで、そんな日々を繰り返す。
そんなある日、思いもよらないところから予想だにしなかった知らせが届いた。知らせというよりも、現物が持ち込まれたと言うべきか。
それは陸珊瑚の台地で見つかり、五期団の手で捕獲された。そして数日後の夜中にアステラの生態研究所へ運び込まれて、静かに寝息を立てていた。
朝になって朝日が拠点を照らし、その体色が遠目でも分かるようになると、一気に人々を騒がせた。それもそのはず、拠点の人々にとってはある意味で古龍よりも珍しい、初めて目にする人も多い竜だったのだ。
その竜の種族名は、リオレイア亜種。桜火竜の別名を持ち、通常種とは全く異なる深い桜色の鱗をまとった、新大陸で初めての亜種だった。
桜火竜については現大陸でその存在が明らかにされている。さらにこの竜にはその色にまつわる噂というか、経験則も伝えられていた。
それは、「空は蒼、大地は桜」という言い伝えだ。リオレウスとリオレイアの赤と緑の組み合わせがもはや定番となり、街によっては象徴色にもなっているように、この組み合わせもある種の文化として伝えられている。
リオレウス亜種、蒼色の雄火竜だ。リオレイア亜種が現れると、それに呼応するように姿を現す……とまではいかないけれど、そういう説を唱える学者さんがいるくらいには関係性が深い。
あくまでも現大陸での話なので、安易に重ね合わせるわけはいかない。実際、新大陸にいるリオレウスは現大陸の同種とは異なる一夫多妻制の雌雄関係を結んでいる。
まずは捕獲された桜火竜の十分な観察から。この竜を解き明かしたいのならしっかりとした準備が必要だ。
けれども、正論はきっとそうなのだけれども、ある程度の予感を頼りに動かなければいけないときもある。例えば、今このときのように。
いろいろな線が一致に繋がり始める。要因はそれだけではないにしても、直近の古代樹の森のモンスターの移動に自然災害以外の理由を見出そうとするのなら、それが最も手堅い。
そして、もしこの予感が当たってしまっていたとしたら、あのトビカガチにとってはかなり悪い、最悪にも近い展開になりかねない。その可能性が、ある。
私は、居ても立ってもいられなかった。