フィールドマスターとの一件のような出来事を挟みつつも、日々は慌ただしく過ぎていって。トビカガチと私が出会ってから、半年が過ぎた。
ランゴスタの事件が出会って二か月くらいだったから、それからまた百日近く経ったことになる。子どもの体感では、長かったような、短かったような。
そして、半年後のその日が、私にとっての大きな分岐点になった。
『古龍渡り』という言葉は、調査拠点にいる人たちからよく聞く言葉だった。
どうやら期団の到着に合わせて観測されるそうで、お母さんたち三期団が新大陸に来たときには、クシャルダオラという龍が渡っていたのだとか。
それに伴う嵐によって、あの崖の上にある『星の船』は危うく吹き飛ばされるところだったのだという。
当然、数日後に訪れる予定の四期団にも同じことが言える。今回はどの龍が訪れるのか。主に研究者たちは観測の準備に余念がない。
対して当時の私はと言うと、いまいちぴんと来ていなかったというのが実情だった。
そもそも物心ついてから今日に至るまで、古龍という存在を見たことがなかったのだ。竜種くらいなら、捕獲されているものを何度か目にしていたけれど。
お母さんがクシャルダオラを見たとき、私は生まれてすらいない。それからの十年間、古龍がこの拠点近くに現れることは一度もなかった。
彼らにまつわる話はおとぎ話のようなものばかりで、本当にそんな生き物いるのかしら、と首を傾げていたような気がする。
それよりも私にとって大きな課題、いや、悩み事は、この拠点に四期団が来ることそのものにあった。
四期団は人数がとても多いという噂だ。それこそ、今この拠点にいる全ての人と同じくらいの数の人が来る予定なのだという。
そうなれば、どうなるか。そう、今までのようにトビカガチに会うことができなくなってしまう。
今待ち合わせている場所も、現状の物置のような状態からきっちり整備されるだろうことは想像に難くなかった。
私がハンターや研究者になって、この拠点の外に出られるようになる、という方法で会いに行くことはできるかもしれない。
けれど、そうするにはあと十年、いや、最低でも五年か六年は足りない。当時に私にとってそれは、あまりにも長い年月だった。
……それを待っていれば、よかったのに。
いや、正確には、待つしか手段はなかったのだ。そのための努力をする覚悟も、フィールドマスターとの約束もあった。
ただ、せめて一時のお別れの最後に、と当時の私はある秘密の計画を企てたのだ。
古龍渡りが何に波及していくかも知らずに、古龍という存在の何が怖いのかも知らずに。
知りようがなかったとはいえ、当時の私はそのときやるべきことと、やってはいけないことを完全に履き違えた。
知らないというただそれだけのことが、時として恐ろしく残酷な判断をさせることを、学んだ。
ふとした思い付きは、思った以上に順調に進んだ。
いつもの場所で。私とトビカガチはまずこっそりと物陰から顔を出す。そして、互いが見知らぬ誰かではないことを視認できたら姿を現す。
そんないつもの光景も、四期団の到着を待つだけになった今、これを最後にもう見れなくなるのかもしれない。
その最後の記念として、そして、このトビカガチに今後のことを伝えるために、私はあるものを用意していた。
調査団の人たちは、森や荒地を探索するための手段として、モンスターライドというものを試そうとしていた。
ジャグラスやケストドン、メルノス、アプトノスといった小型のモンスターを手懐けて、彼らに乗せてもらって移動しようというものだ。
私のお父さんも、鞍の開発で関わっていたらしい。でも、なかなかうまくはいかないらしくて、試作品の鞍がいくつも放置されていた。
彼らに乗ることはできても、従順にさせることが難しいそうだ。そういう人材を現大陸から呼んでくるべきかも、と研究者の人が言っていた。
では、このトビカガチはどうだろう。
私は彼に大きな信頼を寄せていた。よほど無茶なことを言わない限りは、私の言うことを聞いてくれていたから。
あとは鞍さえなんとかなれば。トビカガチの背中に直接乗ると静電気が大変なことになりそうなので、保護具が欲しい。そして、トビカガチの体型はジャグラスに似ている──。
「それにしても、ずいぶんと大きくなったね……」
思わずそう呟いてしまう。
初めてその姿を見たときから半年ほど経って、トビカガチは一回り近く大きくなっていた。尻尾まで含めれば、大人の人よりも大きい気がする。以前は丸呑みできなかったランゴスタも、今なら何とかなってしまいそうだ。
私も身長は伸びてはいたけど、せいぜい半年で指一本分くらいだ。その差は歴然としていた。
以前にフィールドマスターが私を見たときの気持ちは、ちょうど今のトビカガチを見る私のような感じだったのかもしれない。
「ちょっと大人しくしててね。毛を巻き込まないように気を付けるから」
傍に置いていた風呂敷を広げ、中から厚手の絨毯のようなものを取り出す。いろいろな紐や取っ手が付属したそれは、かなり柔軟に伸び縮みする素材でできていた。
ジャグラス用の鞍だ。大きさは、今のトビカガチだと少し小さいかもしれないけれど、入らないほどではないだろう。
なにそれ、とでも言いたげなトビカガチをなだめながら、その鞍を彼に装着していく。
首と尻尾の付け根にベルトを回し、緩まないように軽く引っ張ってから、留め具をかちりと締める。当て布と座席で二重構造になるので、それを繰り返して固定する。拠点でアプトノスに乗せてもらったときの見よう見まねだ。
それを取り付けている間、トビカガチは終始大人しくしていた。
以前、私が誤って毛を強く引っ張ってしまったときには危うく噛みつかれそうになったので、何をしても大丈夫ということはない。そういった線引きは心がけているつもりだ。
それでも、こうして身を預けてくれるのは彼からの信頼の証拠なのだろうか。それがこの半年で積み上げてきたものだとしたら、私はとても嬉しかった。
大人ならさっと数分でできてしまいそうなことに、数十分は悩みながら作業を進めて、ようやく私が乗っても滑り落ちなさそうな装着ができた。
「疲れた……いやいや、これからが本番だからね」
額の汗を拭って、トビカガチの頭を撫でる。
「背中、乗っていい?」
もちろん彼からの返事はない。けれど、ゆらゆらと揺れる尻尾は彼が不機嫌ではないことを示していた。
恐る恐る、その背中へ跨る。ジャグラス用とはいえ大人をのせようとしていた鞍だから、脚を引っ掛ける
でも、乗れないことはなさそうだ。
「体重、預けるね。重かったらごめんね……」
そう声をかけながら、地面に置いていた両足をそっと離す。このときが最もどきどきとしていたかもしれない。
ぐら、と身体が揺れる感覚に身が強張る。けれど、取っ手と鐙から手足を離さないように堪えて、数秒後、ふと体の力みが薄れた。
「わ、わ……!」
座らせていたトビカガチが立っていた。正真正銘、私は彼の背中に乗っていた。
トビカガチがゆさゆさと体を揺らす。彼にとっても鞍を付けての騎乗は初めてのことだろうから、落ち着かないのは当たり前だろう。それでも、すぐに暴れて振り落とそうとはしてこない。私が乗っているということを、意識しているのだろうか。
これなら、本当になんとかなりそうだ。
ダメもとで立てた計画は、ひょっとすると実現してしまうかもしれない。
小さな不安と大きな期待を胸に、またトビカガチに話しかける
「ねえ、トビカガチ。私を森まで連れて行って。少しだけでいいから、ね?」
私は初めて、調査団からの明確な言いつけを自分の意志で破った。
これからは彼に会えなくなる。私がちゃんと調査団から認められたうえで森に行けるようになるまで何年かかるかも分からない。
だから、そうなる前に一度だけ。一度だけでいいから、あの巨大な古代樹が聳え立つあの森に行って、あの地の息づかいを知りたい。
トビカガチが振り返り、私と目が合う。赤い瞳に、子供用のレザー装備を着た私の姿が反射して映る。
足踏みの時間は、終わりだ。
「……行って!」
そう言って、取っ手をしっかりと握り、鐙でトビカガチのお腹を軽く叩いた。瞬間。
ぐんっ、と強く感性に引っ張られる。トビカガチが走り出した。
トビカガチは身軽だから、加速は一瞬だ。
みるみるうちに壁が近づき、思わず目を瞑る。しかし、衝撃はほとんどなく、代わりに急に体勢が上向きになって鞍から滑り落ちかけて、慌てて取っ手にしがみ付いた。
トビカガチにとっては急に首を絞めつけられたかのような感触だろう。けれど文句ひとつ言わずに、私に構うことなく壁を登っていく。
でこぼこして段差も多い壁ではあるのだけど、こうしてすいすいと登られると、それを成す脚力の強さに驚く。鋭く太い爪も、壁登りに一役買っているのかもしれない。
あっという間に壁を登り終えたトビカガチは、次に茂みの中へと入っていく。いつも彼が顔を出す、あるいは立ち去るときに見えていた茂みだ。
見れば、私の背丈よりも高い藪や木々が生い茂る中に、一本の小さな獣道ができている。ここを通って私に会いに来ていたのだろう、トビカガチの日常が垣間見えるようだった。
もちろん、私が背中に乗ることによる背の高さは考慮されていない。できるだけ姿勢を低くし、ぱしぱしとぶつかる小枝や草の葉を払いのけながら先を進む。
途中、調査団が拠点の外に張り巡らせた柵に差し掛かった。かなり頑丈に、幾重にも組まれている。木々から飛び移られないようにしっかり整地もされていた。
地上にいるモンスターたちは、よっぽどのことがない限りここには入りたがらないだろうなと思える。二期団の技術者たちの努力の賜物だ。
しかし、そんな防護柵にも隙が存在した。
トビカガチが向かった先は、一見して何ともない。けれど角度を変えてよく見ると、柵と柵の間に大人一人が潜り込めるくらいの隙間が空いていた。
地面を見ると、とても太い木の根っこが顔を出していた。これが柵を押し退けてしまったのだろう。
さらにその根っこの近くに巣を張ったのか、ハコビアリが周辺をうろついている。トビカガチの羽や痕跡が見当たらないのはどうしてだろうと思っていたけど、これで分かった。彼らがいつの間にか巣に持ち帰ってしまっていたのだ。
ふつうの人なら、ここからモンスターが侵入してくるなんて思いもしなさそうだ。茂みによって獣道も巧妙に隠されている。
幾多もの偶然が折り重なって、私とトビカガチは出会ったのだ、と。改めてそう思った。
防護柵を抜けてしまえば、もうそこは拠点の外、古代樹の森だ。
けれど、トビカガチを走らせながらも、なかなか実感は湧いてこなかった。
周囲の景色が同じだったのはあるのだろう。生い茂る木々たちは地上に届くはずの日光をほとんど遮ってしまう。ここから空は見えない。
けれど、人の気配が遠ざかっているのは分かった。
拠点の中では常に人がいる音が聞こえた。静かなのは深夜くらいだ。トビカガチと遊んでいたあの離れでも、たまに水車や製鋼の音は聞こえてきた。それと、滝の音も。
それが、今はもう全く聞こえない。それは私にとって生まれて初めての、とても新鮮な感覚だった。そして、自分でも驚くくらい心細くなる変化だった。
不安を感じていることは確かだ。でも、このトビカガチは強くて賢いから大丈夫。そう自分に言い聞かせて、振り返らずに前を向く。
見れば、木々の幹の向こうに青空が見える。何か開けた場所に出る予感がする。
トビカガチの足は速くて、その予感への答え合わせは十秒もせずに示された。
────森を抜けた。視界が開ける。
「う、わぁ……!」
古代樹が、すごく近い!
今までは星の船から遠目に見るだけだった、古代樹の森の象徴。名前の由来そのもの。
それが今や、この視界の半分近くを占めるほどの位置にあった。当然、迫力も桁違いだ。
ひょっとすると、さっきの防護柵を押し退けていた根は、この古代樹のものなのかもしれない。それだけの生命力はありそうだ。
段々になった地形の最上段に私たちはいた。ここから下っていけば、いよいよ本格的に古代樹の麓に入っていくことになる。
戸惑いはなかった。感動と興奮で、幼い私の思考はいっぱいになっていた。
「下れる? お願い、トビカガチ!」
そう言ってまた鐙を叩く。その場で止まってくれていたトビカガチは、特にためらいもせずに段差を駆け下っていく。
着地の衝撃で私が呻いたりすると、振り向いて視線だけを投げかけ、柔らかな歩みに変えてくれた。
トビカガチが私のことを慮ってくれているかもしれない、そう思うだけで嬉しくて、心強かった。
人の想像力というものは、知識や経験に基づくところが大きい。子どもの発想は自由で夢があるとは言うけれど、なかなか現実的とは言えないし、見えていないものも多くある。
その点で言えば、現実に存在したこの古代樹の森は。その中の様子は、私の想像を超えていて、かつ現実にそこにあるという質感をも与えてきた。
私はもう、台詞にするなら「わぁ」とか「うわぁ」のような感嘆の声しかあげていなかったように思う。
ずっとトビカガチに乗ったままだったから、メモを取ることもできない。その代わりに、瞳をまん丸に見開いて、とにかく雰囲気を感じ取ろうとしていたのだろう。
さまざまな色があった。
真っ白な綿毛を風に揺らす草や、私の顔よりもずっと大きな葉を茂らせる木もある。木陰には青緑色の笠を広げるキノコが見えて、岩場できらりと光るのは鉄鉱石だろうか。
そして落ち葉が多い。はらりはらりと絶え間なく落ちてくる。見上げれば、それは周辺の木々だけでなく古代樹から運ばれてくるものまであるようだった。
この膨大な量の落ち葉が土になり、この森を育んでいるのだろう。そう思うと、その一枚ですら途方もないものに思えた。
さまざまな音があった。
調査拠点は、傍にある大きな滝が水の音として象徴的だ。でも、ここはあまり大きな川はなく、至る所にある水源から各々が小川となって海や地下へと流れ込んでいるようだった。
だから、水音がとても繊細だった。苔から雫が滴り落ちる音も、小さな滝が岩場に流れ落ちていく音も、トビカガチが水たまりを歩いていく音も。ちゃんと聞こえる。耳に届く。
聞こえてくるのは水音だけではない。風で木々の葉が擦れる音も、落ち葉が地面に落ちる音だって聞こえてきそうだ。
さまざまな匂いがあった。
土の匂いが地面から立ち昇るような草地があれば、どこか甘い香りを漂わせる果実もあり、そこにはメルノスやトウゲンチョウが集まっていた。
アステラは海が近いので大概の場所で潮の香りがしたけれど、森の中ではそれも薄れる。朽ちて倒れた樹木をトビカガチが踏んだときには、独特の木の香りがした。
五感の全てで、というと少し大げさかもしれないけれど、あっちにもこっちにも惹かれるものがあって、私は時間を忘れてしまっていた。
本当は少し森に触れる程度で、トビカガチとちゃんとお別れをすることが本来の目的だった。だけど、いつの間にか目標が入れ替わってしまっていた。
気が付けば、森全体が暗くなり始めていた。植物の緑が見えづらくなって、ようやく気が付いた。
ひょっとして、夕方になってしまったのか。私がいなくなっていることに気付かれたら、拠点の人たちは私を探すだろう。大騒ぎになっていてもおかしくない。
慌てて上空を見上げる。木々の葉の隙間からでも空の色と太陽の位置を確認しようする。
そこから、薄暗い灰色が垣間見えた。
曇っている! でも、いつの間に。
ここに来たときには、雲は疎らに浮かぶ程度だった。古代樹の森の天気は変わりやすいけれど、ここまで急に雲が広がるのはアステラでも見たことがない。
天気の学者さんが言っていた、積乱雲、というものだろうか。だとすればこの後に大雨が来る。
探索でわくわくしていた心が一気に冷えた。拠点に帰るべく、私はトビカガチに声をかけようとする。
そのトビカガチの様子が、少しおかしかった。
背中の毛が淡い光を纏っている。帯電しているのだ。今までの観察で、彼は普段から帯電はしないことが分かっている。つまり、ふつうではない何かが起こっている。
瞳孔の収縮も不規則だ。周囲を見渡す仕草を繰り返して、落ち着きがない。まるで、何かを恐れているような。
「大丈夫? 長居させちゃってごめんね。帰ろう。来た道を戻るの」
そう言って取っ手を引くと、彼はそれに従って身を翻して走り出した。言うことを聞かなくなったわけではなくて、少しほっとする。
帰り道で迷わないように、行きの途中で何度か印をつけている。それでも分からなくなれば、少し高いところに登って、古代樹と星の船を見ればいい。どちらもとても高いところにあって目立つから、どちらも見つからないなんてことにはならないはず。
ごろごろと空から音がして、私はもう一度空を見上げた。
今のは雷の音だ。いよいよ雨粒が私の頬に当たってきてもおかしくない。多少濡れることはこの際仕方がない。
そう思いながらトビカガチを走らせて、しかし、雨が降ってくる気配はなかった。遠雷の音がするばかりだ。
そう言えば、今立ち込めている雲も、なんだかふつうではない気がする。
雷は地面に落ちるというよりも、雲の中を這いまわっているようだった。おかげで雲そのものがうっすらと発光しているように見える。それこそ、このトビカガチの背中のように。
雷雲というものだろうか。ここまで極端なものは初めてだ。なんだか、私の方まで胸騒ぎがし始めた。ここにいるとよくないことが起こる、そんな気がする。
でも、トビカガチをこれ以上急かすことはできない。私の方が彼の背中から落ちてしまう。
もはや、帰ってから怒られることよりも、この場から早く立ち去ることが私の心を占めていた。
幸い、今のところ道に迷っている気配はない。トビカガチも要領を得ているようで、特段こちらから指示しなくても調査拠点へ向かってくれる。
ただ、やはり探索に夢中で森に入り込みすぎていた。何も寄り道をせずとも、来た道を戻るのに時間がかかった。それは行きの過程よりも、ずっと長い時間がかかっているように感じた。
いったい何が起こっているというのだろう。
雷の音は次第に大きく、激しくなり、それに従ってトビカガチの背中の帯電も少し眩く見えるほどに強まっていた。鞍がなかったら、とても跨ることなんてできなかっただろう。
早く帰りたい。帰り着いたら、急いで家に帰って布団を被ってしまいたい。
それか、もう泣くほど怒られてもいいから、お父さんかお母さんに抱きしめてほしい────。
突然、耳をつんざくような音が叩きつけられた。
「────ッ、うぁっ!?」
トビカガチが全速力で走り出して、私は悲鳴を上げて鞍にしがみ付いた。
今の音は何だ。落雷? 生き物の咆哮? 今まで聞いたどの音よりも大きくて、身が竦んだ。余韻というか、耳鳴りがする。
急に風が強くなった、のか。木々のざわめきも大きくなった。というよりも、何かに強く揺さぶられているような、何かが、私たちの上空にいて羽ばたいているような。
目の前で、私よりも大きな炎が弾けた。
どごっ、と。一撃で一本の木が薙ぎ倒されて、私とトビカガチの道を塞ぐ。草木が焼ける匂いがする。トビカガチは身を震わせて、なんとか迂回していこうとする。
その目の前に、倒れた木を踏み潰しながら降り立った。
燃え上がる火をかたどる巨大な翼。刺々しい鱗を生やした背中。太い脚に、大きな爪。ちりちりと舞う火の粉。
その名前は、この世界に生きる人なら誰でも知っている。
「リオ、レウス……」
呆然と呟く。古代樹の森の主。古代樹の頂上に巣を作り、地上を睥睨する空の王者だ。
かの竜はアプトノスを狩るときでもない限り、地上には降りてこないと聞いていたのに。だから森の中にいる限りは襲われる心配はないと思っていた。
それが、こうも強引に。わざわざ降り立つために火を吐いて、木を倒して。
何が、かの竜の琴線に触れてしまったのだろう。私たちは何か怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。この場を切り抜けることなんて、できるのだろうか────。
青く鋭い、大きな瞳が私を直視して。
あ、私はここで死ぬんだな、と思った。
私を簡単に飲み込める大きさの口が、紅の炎を滾らせた。
トビカガチが、身を仰け反らせるようにして跳ねる。そのすぐ傍を、目が痛くなるほどに熱い炎が駆け抜けていって、背後の地面を燃え上がらせた。
急に激しく動かされ、呻き声を上げる。腿や膝が圧迫されて痛い。トビカガチはこちらに構う余裕もなく、とにかくその場からの離脱を図ろうとする。
しかし、あの竜からすればブレスを一発放っただけ。攻撃はそれだけで終わらない。
どっどっ、と地面が軽く揺れるほどの足音を響かせて突進してくる。巨体にぶつかった木がまた倒されて、トビカガチの行く先を狭めていく。
何度か紙一重の攻防が続き、やがて大きな羽ばたきの音を私は聞いた。風がここまで届き、私の髪を乱した。
トビカガチがすばしっこく身を躱すものだから、追撃を諦めたのかもしれない。そう思って、期待を込めて振り返る。
「────」
視界いっぱいに、リオレウスの脚と爪があった。
その前後の時間の感覚は、ひどくゆっくりだった。
空中から掴みかかるように振り下ろされた爪が、私の肩を深々と抉る。
「ぁっが」
まともな声は出なかった。
取っ手から手が離れ、トビカガチの背から転げ落ちる。鐙が足に絡み、半ば吊るされるようになって、頭から落ちた。
鐙が鞍から千切れたときには、私の片足は歪に捻じれてしまっていた。
べったりとした血の感触が、胸からお腹を伝っていく。まるで、自分事ではないような感覚だった。
頭を強く打ったからか、肩や足の壮絶な痛みよりも先に、意識の方が落ちていった。
「あ、あぁ…………」
ごめんなさい。そう私は呟いたように思う。
霞んでいく視界が何も映さなくなる直前。リオレウスが私を無視して、トビカガチに襲いかかっているのが見えた。
低く飛びながら、火炎を吹き付けるように薙ぎ払う。トビカガチは必死に身を捩るが避け切れず、背中の鞍と羽毛に火が付いた。
声が出ない。涙が零れる。
違う、違うんだ。悪いのは私なんだ。その子は私に連れてこられただけなんだ。
私があんなことを言い出さなければ、いつものあの場所でお別れを済ませていれば、こんなことにはならなかったのに。私のせいで、トビカガチが。
リオレウスは執拗にトビカガチを襲う。明らかに命を奪おうとしていた。
周囲は炎と煙に塗れて、逃げ場が塞がれている。長く美しかった尻尾が、私を穿ったあの脚に掴まれて、握り潰される。炭化した鞍がぼろぼろと崩れ落ちていく。
止めて。もう止めてあげて。
罰は私が受けるから。死ぬのは私だけでいい。その子を襲わないで。その子を殺さないで。お願いだから────。
「あ……ぁー……」
もはや、声は言葉の体を成さない。
リオレウスの怒声とトビカガチの悲鳴、彼らが暴れる音だけがむなしく耳に届く。
自らの身を横たえたまま、暗くなっていく視界の中で、私はただ涙を零していた。
それは古龍渡りの影響によるものだったのだと、後になってから聞いた。
四期団の到着は、予定よりも数日早かった。古龍渡りの痕跡──あの雷雲を急いで追いかけてきたらしい。
渡った古龍は幻獣キリンだと推測されていた。けれど、ついにその断定には至らなかった。空を飛ぶ龍ではないから、見つけることがとても難しかったのだろう。
古龍はとても大きな存在感を持ちながら、道行く先の生き物の縄張りを全く意に返さない。それは縄張りの主たるモンスターに大きな負担を強いる。
基本的には、ほとんどの竜や獣は逃げるか隠れるかしてやり過ごそうとする。しかし、一部はその場に留まったまま、過剰なまでに警戒心を高めて攻撃的になる。
あのリオレウスはまさにその状態だった。見たこともない雷雲に気圧されて、普段は気にも留めない地上の生物に対しても、牙を剥くほどに過敏になっていた。
トビカガチも兆候は出していたのだ。恐らく、雷雲が立ち込めるよりも早くに。でも、自然に触れることに夢中だった私は、トビカガチの仕草に気が付かなかった。
もし手遅れだったとしても、それが古龍渡りだと気付き、それによる影響までしっかり把握していれば、事が収まるまで身を隠したり、慎重に行動したりできた。
私が起こした行動はその何れにも反する。あの状況下で多少目立っても移動しようとするなど、自殺行為にも等しかった。私は本当に何も知らなかったのだ。
そんな私は……奇跡的に生き延びてしまった。
リオレウスが古代樹から立ち退いていないことに気付いた研究者が、望遠鏡を使って視察をしていたのだ。
リオレウスが森にいる何かに対して襲い掛かっていることを、その研究者は他の人に知らせた。同時期、拠点では私の姿がどこにもないことが騒ぎになりつつあった。
二つの状況が重なり、最悪の事態が想定され、ソードマスターまで動員しての捜索が行われた。リオレウスが暴れていた場所は分かっていたから、私が見つかるまでそう時間はかからなかった。
それでも、あともう一、二分でも遅ければ、私の命は助かっていなかったそうだ。
脳挫傷に片足の靱帯断裂、肩の骨は完全に砕けてしまっていたらしい。さらに多量に打ち込まれた出血毒が、とめどなく血を溢れさせていた。
私は何週間も目覚めず、その間、か細い鼓動と呼吸はいつ止まってもおかしくなかった。お父さんとお母さんは憔悴していて、とても見れたものではなかった、とだけ聞いた。
そして、私と私の家族の現大陸への帰還が決まった。
理由は、私のような大怪我を負った子どもを治療するだけの設備が新大陸には十分に揃っていなかったから。
そして、規律を破って拠点の外に出た私をこれ以上、新大陸に居させるわけにはいかなかったからだ。
きっと、誰しもが頷く成り行きだった。
私が目を薄く開いたとき、その身は既に海上の船の中にあった。新大陸付近の海は荒れていて、燭台がゆらゆらと揺れていたのを覚えている。
お母さんに抱きしめられながら、何度か声を出そうとして、けれど声になってくれなくて。ようやく絞り出した掠れ声で、私は真っ先にあのトビカガチのことを訪ねた。
お父さんもお母さんも、誰もあの竜の行方を知っている人はいなかった。ただリオレウスが飛び去って行った跡に私が倒れていて、それ以外のことを気に留めていなかった。
当たり前のことだ。当たり前のことだったけれど、私はまた涙を零した。
ごめんなさい、と。それだけをひたすらに繰り返した。現大陸の港に帰りつくまで、目を覚ましている間はそれだけを壊れたように呟き続けていた。
お母さんはそんな私を見て「わたしこそ、あなたに寂しい思いをさせてごめんね」と私の手を握った。「これからはちゃんとあなたと向き合うから」と涙声で言ってくれた。
すれ違いを正す気にはなれなかった。私が犯した罪はあまりに大きくて、この気持ちは、どんなに言葉を尽くしても伝わらないだろうと思った。
トビカガチとのお別れも、拠点の人たちからの信頼も、フィールドマスターとの約束も、何もかも守れなくて、裏切ってしまって。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
無事な方の腕で両目を覆い、涙を噛みしめながら、言っても何にもならない言葉を延々と繰り返す。
私の生まれ故郷での日々は、そうして一度、幕を下ろした。